東北の歴史のミステリー  

2019年06月29日

平谷美樹「義経暗殺」が面白い(「東北復興」紙への寄稿原稿)〜東北に関係する書籍その10

 4月16日に刊行された「東北復興」紙の第83号では、平谷美樹の「義経暗殺」について取り上げた。平泉での源義経の死をミステリーの題材として取り上げたもので、史実をうまく取り込みつつ、完成度の高い作品となっている。

 以下がその全文である。


平谷美樹「義経暗殺」が面白い

義経暗殺義経の死を題材にしたミステリー
 ミステリーという小説の一ジャンルがある。謎が謎を呼び、最後に全ての謎が解き明かされるというスタイルである。このスタイルを貫徹するために、その舞台は作者によって隅から隅まで作り込まれる。当然、その舞台は現実世界とは異なる架空のもの。だから、仮にその舞台が歴史上の一時代のものであったとしても、その舞台は実際の歴史とは異なる架空のもの、であることがほとんどであった。

 ところが、最近読んだ平谷美樹(ひらやよしき)の「義経暗殺」。文庫書下ろしだというこの小説には唸らされた。歴史上実際に起こったと記録されている事件をしっかりと織り交ぜながら、それでいて無類のミステリーに仕上げられているのである。

 私は実はとにかく活字嫌いだったが、中学から大学に掛けて、まともに読んだほとんど唯一の活字がコナン・ドイルのシャーロックホームズシリーズだった。そんな活字嫌いだった私が出版社に勤務しているのだから、本当に世の中何が起こるか分からないものだが、活字嫌いの唯一の除外がミステリーだったという私から見ても、この「義経暗殺」は実によくできていると思った。

博覧強記の実在の人物が主人公
 主人公の設定も秀逸である。本書で「謎解き探偵」の役を担うのは、これまた実在の人物である。その名も清原実俊。鎌倉幕府の公文書である「吾妻鏡」に、次のようなエピソードとともに登場する。

 奥州藤原氏を滅ぼした頼朝は、奥州藤原氏が支配していた陸奥出羽両国の台帳や土地・年貢を書き出した田文を取り寄せようとしたが、それらが平泉館と一緒に焼失してしまっていた。土地の古老に誰か知っている者がいないかと尋ねたところ、その古老は豊前介実俊とその弟の橘藤五実昌なら知っていると答えた。そこでその兄弟を呼び出して詳しく尋ねたところ、二人は確かにその内容を全て記憶しており、書き出して頼朝に提出した。余目一か所を書き漏らした以外には全く間違いがなかったので、頼朝は大いに感心して、二人をすぐに家来として仕えさせた。

 実在の人物としても、広大な陸奥出羽両国を管理する文書の内容を全てそらんじていた博覧強記の人物として記録に残されているわけだが、本書ではこの豊前介実俊こと清原実俊が探偵役に抜擢されている。ちなみに、小説の中では、兄実俊は頭脳明晰だが剣の腕前はからっきし、弟の実昌はそうした兄の弱点を補うかのような剣術の達人として描かれている。

 出版社による紹介記事は以下の通りである。

「1189年、兄頼朝に追い詰められ、平泉に逃げ込んだ義経。頼朝の圧力を受けて、奥州藤原氏・泰衡が衣川で義経を討ち取ったというのが歴史の定説である――しかし、この物語は通説を覆し、義経が妻子とともに自害したところから始まる。ただ、自害とするには現場の状況、義経の心理面などを洞察すれば不自然なことも多い……この謎に『吾妻鏡』に驚異の博覧強記としてその名が上がる、“頭脳の人”清原実俊が挑む。中級の文官である実俊だが、たとえ泰衡相手でも、強気の姿勢を崩さない豪放な性格である。それを苦心して諫めているのが従者の葛丸(男装しているが、実は女性)。泰衡、頼朝の刺客、弁慶、藤原一族。実俊がさまざまな“容疑者”を調べ、推理していく、傑作歴史ミステリー小説」。

 ミステリーが好きで、かつ奥州藤原氏や源義経に興味がある人にとっては、手に取って読まずにはいられない紹介文である。

謎が謎を呼ぶ歴史ミステリー
 物語は、義経が妻子を殺害し自害した姿で見つかるというところから始まる。史実でもそう伝えられるが、小説の中では、それが起きたとされる1189年の旧暦閏4月30日の3日前という設定である。奥州藤原氏四代目の御館泰衡は、その現場の状況に不審な点があると考え、清衡実俊に真相究明を命じる。

 姿を消した義経の郎従常陸坊ら12人の郎従の謎。このエピソードも「常陸坊を初めとして残り十一人の者ども、今朝より近きあたりの山寺を拝みに出でけるが、そのまま帰らずして失せにけり」と、「義経記」に出ている。

 死んだ義経も妻子も旅衣装だった。彼らはいったいどこに向かおうとしたのか。自害なのか、自害を装って殺害されたのか。殺害されたとすれば、誰が殺害したのか、その理由は何か。「容疑者」も数多い。御館泰衡、その兄国衡、弟の忠衡、祖父藤原基成、姿を消した義経の郎従常陸坊の一行、弁慶ら残された郎従、頼朝が放った細作(スパイ)…。その誰にも義経を殺害する動機があるように見え、真相はなかなか見えてこない。

 謎が謎を呼ぶまさにミステリーの王道を行く展開である。そしてまた話は義経が平泉に逃れて半年後に突然亡くなった先代の秀衡の死の真相にも迫る。そしてその翌年2月に秀衡の六男頼衡が殺されたその訳とは。史実通りに事態が展開していく中に、謎を盛り込んでいく作者の構成力は実にお見事というほかない。

 もちろん、奥州藤原氏と弁慶を始めとする義経郎従との合戦(衣川の合戦)、頼朝の奥州侵攻と奥州藤原氏の滅亡(文治五年奥州合戦)も、避けられない現実として、この小説の中でも起こる。そしてまた秀逸なのは、その裏にあったものについて、作者は歴史ミステリーの形を取りながら、敗者の心中をしっかり語らせていることである。

 清原実俊の御館泰衡に対する温かい目線や、泰衡が決して凡愚な君主としては語られていない様子には、取りも直さず作者の泰衡に対する目線が表れている。家督を継げなかった長男国衡にその思いを語らせているところも実に面白い。また、蝦夷を母に持つ国衡には、それだけでなく、奥州人としての思いも語らせているのも興味深い。

東北人としての叫び
 作中では、主人公清原実俊は景迹(きょうじゃく=推理)の達人として描かれている。特に、初対面の相手に対して、実俊は「プロファイリング」を行う。御館泰衡に対してはこうである。

「国のためなら己を滅する。己の感情よりも、まず国の利益になるかどうかを考えて、あるべき御館の姿を演じている」、「度量が大きく何事にも動じない。威厳がありながらも偉ぶることをせず、腹の立つ態度をとるおれのような者の言葉も辛抱強く聞き、目まぐるしく頭を回して、相手の真意を読みとろうとする。己が賢しいことを知っているが、その限界も知っているゆえ、おれに相談しに来たか。うむ。確かにおれの方が汝より賢しい」

 泰衡はその言葉を実俊の景迹の通り笑って聞くが、それ以外の登場人物は例外なく怒る。しかし、その登場人物も極めて魅力的に描かれている。御館泰衡はもちろん、国衡、忠衡、家臣の長崎太郎(これまた義経記に登場している)、そして最初は主人公に「帝に仕えるよりも平泉藤原家と結んだ方が美味い汁を吸えると思った狡っ辛い男」とけちょんけちょんに酷評された藤原基成さえも、最終場面では主人公清原実俊に対して温かいまなざしを向け、的確なアドバイスを送る人物として描かれる。

 これに対して、頼朝、梶原景時の描かれ方と言ったら…。作者の平泉に対する並々ならぬシンパシーが感じられる。

 作中で実俊は陸奥出羽両国の未来についてこう予測する。

「平泉藤原家が源九郎を匿ったことを理由に、源二位が攻めてくる。そして、平泉藤原家は滅びる。庇護者を失った出羽、陸奥国は、俘囚の国よとさげすまれ、常に搾取されるばかりとなる。百年、二百年、千年たってもそれは変わらぬであろう。平泉は、出羽、陸奥国は、衰退し、いずれ鎌倉に劣る田舎となる。ただただ米を、馬を牛を、都へ送るために存在する国となり、住む者たちは奴婢と同様に扱われるのだ」。

 そして、「考えなければならぬのは、これから先、当来(未来)のことだ」、「出羽、陸奥の民がこれから歩まなければならぬ修羅の道には、灯りが必要だ」と強調する。その「灯り」が何だったのかは本書を読んでいただくとして、その主人公の叫びは、作者そのものの叫びだったのだろう。作者の平谷氏は岩手県久慈市の出身である。

 同じ東北に住む一人として、私にも、奥州藤原氏を滅ぼし、奥羽を我がものとした頼朝に対するモヤモヤした感情はある。他にも東北に住む少なからぬ人が恐らく、多かれ少なかれ同じ思いを持っているのではないかと思う。本書でも、奥州藤原氏の滅亡を目の当たりにした主人公にそうした思いを持たせていることにも共感が持てる。そして、その張本人である頼朝の最期(それも記録に残っている内容だ)が、そうした主人公の復讐心の結果だったのではと想像させる記述になっているところも、東北人としては溜飲が下がる思いもした。

 本書の裏表紙の記載は、「百年の平和と映画を誇る奥州平泉にとって、落ちのびてきた源義経はまるで疫病神であった。新たに派遣を握った源頼朝が、追討令が出ている義経を口実に、奥州藤原氏を潰しにかかるは必定――。対応を巡って意見が対立する中、突如として義経は死んだ。あたかも妻子を伴っての自害に見えるが……。平泉の天才文官・清原実俊が、従者の葛丸らとともに真相解明に乗り出す。運命に翻弄される者たちの熱誠が胸を打ち、恐るべき真実が結末に待ち受ける、歴史ミステリーの傑作がここに誕生!」である。

 この文章にそそられた人にはぜひ、ご一読をお勧めしたい。


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2018年08月23日

毛越寺の「附鎮守社跡」ってなんだ?〜東北の歴史のミステリーその33

WP_20180721_10_55_38_Rich_LI 世界文化遺産「平泉−仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群−」の構成遺産の一つである毛越寺は、国の特別史跡と特別名勝に、二重に指定されてもいる。特別史跡の名称は「毛越寺境内附(つけたり)鎮守社跡」、特別名勝の名称は「毛越寺庭園」である。
 名称から分かる通り、特別名勝としては、国内に唯一残る平安時代の浄土庭園が指定されている。一方、特別史跡としてはその浄土庭園を含む毛越寺の境内、そしてそれに付随するものとして(「附(つけたり)」)「鎮守社跡」も併せて指定されている。

 特別史跡としての毛越寺を語る際、この「附鎮守社跡」があまりにも見過ごされ過ぎているのではないだろうか。毛越寺の境内は散策しても、鎮守社跡のことを気に留める人はほとんどいないに違いない。毛越寺を訪れる人の目当てはこの、唯一現存する浄土庭園なのであって、「附」の後の鎮守社跡などは大部分の人にとっては眼中にないのである。
 仮に、この「附鎮守社跡」という文言に気づいた人がそれらを探してみても、毛越寺の中には見つからない。それもそのはず、この「附鎮守社跡」は、いわゆる飛地区域として指定されており、いずれも毛越寺の外に存在するのである。

 ちなみに、指定されている「附鎮守社跡」は、護摩堂跡、文殊堂跡、吉祥堂跡、北野天神社、日吉白山社、花館廃寺、王子社跡、八坂神社、観自在王院跡である。堂宇跡や寺院跡など「鎮守社」でないものもいろいろ含まれているが、これらのうち観自在王院跡は言うまでもなく、毛越寺に隣接する世界文化遺産の構成遺産の一つである。護摩堂跡、文殊堂跡、吉祥堂跡は、毛越寺に付随する堂宇であった。残る北野天神社、日吉白山社、花館廃寺、王子社跡、八坂神社は、私のこのところの平泉に関する一連の投稿を読んだ人はピンと来るかもしれないが、「平泉の鎮守社を探せ!」で取り上げたかつて平泉にあったとされる鎮守社のうちのいくつかである。
 つまり、毛越寺境内と一緒にこれらの遺跡も国の特別史跡に指定されているにも関わらず、注目されるのは常に毛越寺と観自在王院跡だけであって、残りはあってなきがごとき扱いを受けているのである。そもそも、これらの「附鎮守社跡」の場所すら、一般のガイドマップやガイドブックではほとんど示されていない。日吉白山社(=白山妙理堂)、八坂神社などは旧国道4号線沿いにあり、花館廃寺(=花立廃寺跡)は平泉文化遺産センターに隣接してあるのでまだ見つけられる可能性があるが、王子社跡は八坂神社の向かいにあったという伝承を知らなければ見つからない可能性が高く(当然案内板もない)、北野天神社に至っては、私がそうだったように、その場所を知っている人に聞かなければ見つけることはまず不可能である。
 せっかく特別史跡を構成する遺跡なのであるから(世界遺産で言えば構成遺産に当たるわけである)、もっと知られるべきだと思うのである。

 ところで、これまで論じてきた「平泉の鎮守社」がなぜ毛越寺と一緒に特別史跡に指定されたのか。その辺りの経緯について、以前文化庁のサイトから問い合わせしてみたのだが一向に返事がないので、自力で調べてみた範囲で考えてみたい。
 毛越寺と各鎮守社跡が史跡に指定されたのは、1922年(大正11年)のことである。特別史跡に指定されたのは戦後の1952年(昭和27年)である。史跡に指定された理由は以下の通りである。

「毛越寺ハモト圓隆寺嘉祥寺觀自在王院等堂塔四十餘宇禪坊五百餘宇ヨリ成リ藤原基衡夫妻及子秀衡ノ建立ニ係ル一山ノ建造物ハ廢滅ニ歸セリト雖土壘土壇礎石及庭石等殘存シテ能ク奧州藤原氏ノ盛時ニ於ケル堂塔苑池ノ舊規ヲ窺フニ足ル其ノ周圍ニ總社日吉白山祇園北野稻荷社等ノ鎭守阯アリ或ハ礎石ヲ存シ或ハ濠壘ヲ存シテ舊規ノ見ルベキモノアリ」

また、特別史跡に指定された理由は以下の通りである。

「毛越寺は吾妻鏡によれば、堂塔四十余宇禅房五百余宇があり、基衡が建立したもので、円隆寺と号せられる金堂・講堂・常行堂・二階惣門・鐘楼・経蔵があり、又嘉祥寺その他の堂宇も存したという。遺跡は現在の毛越寺の境内にあり、よく旧規をとどめ、土塁・南大門跡苑池・金堂跡その他の堂跡を存し、保存状態良好である。殊に金堂跡は桁行7間梁間6間に復原せられる礎石ほぼ完好に存し、土壇の四周には基壇地覆石がめぐらされ、雨落溝の構造も存する。左右に翼廊跡があり前方に折れてその両端に各々楼の跡が遺存する。その他の堂宇の礎石もよく残り、苑池も亦橋脚を存し中島・庭石の旧規も見るべく、平安時代の伽藍形式を示すものとして学術上の価値がきわめて高い。」

なお、2005年(平成17年)に「毛越寺と観自在王院の間の町道部分及び関連鎮守社である白山社の南側の池跡」が特別史跡に追加指定されている。

 特別史跡に指定された理由の中には鎮守社跡についての記載はないが、その前の史跡に指定された理由の中には鎮守社跡に関する記載があることが分かる。すなわち、毛越寺の周囲に「總社日吉白山祇園北野稻荷社等ノ鎭守阯」があって、礎石が残っていたり堀や土塁が残っていたりして「見ルベキモノアリ」とされているのである。
 「總社」「日吉」「白山」「祇園」「北野」「稻荷社」とあるうち、これらの記載と実際に指定された遺跡とを対応させてみると、「日吉」と「白山」は日吉白山社(白山妙理堂)、「祇園」は八坂神社、「北野」は北野天神社だが、「總社(総社)」は花館廃寺(花立廃寺跡)がその場所として比定されていたのだろうか。花立廃寺跡は「平泉の鎮守社を探せ!」で見てきたように金峯山社である可能性が高い。熊野三社の由緒にあるようにその金峯山社が総社も兼ねていたという見解もあるが、私の導いた結論は花立廃寺跡はかつての金峯山社であるものの総社はそれとは別にあったというものであった。
 また、「稻荷社(稲荷社)」は、「鎮守の稲荷社はどこだ?」で書いたように場所が特定されていない。史跡に指定された理由にあるような礎石も堀も土塁も残っていない。実際、「附鎮守社跡」に指定された遺跡の中に「稻荷社」を思わせるものはない。一方、指定された遺跡の中にある「王子社跡」に関する記載が先に引用した文章の中にはない。こうしたことから、本来は実際に特別史跡に指定されている「王子社」と書くべきところを誤って「稻荷社」と記載したのかもしれない。
 この辺りの、記載されている内容と実際に指定されている遺跡の関係についても文化庁の見解を聞きたいところだが、先述のように問い合わせても返事がない。ただ、指定が100年近く前のことなので、結局のところ今の担当者にも分からないのかもしれない。

 さて、これら「平泉の鎮守社」がなぜ毛越寺と一緒に、毛越寺に付随するものとして特別史跡に指定されているのかについてだが、それを類推する材料はいくつかある。まず、これらの鎮守社跡がある土地を所有していたのがほとんど毛越寺であったということが、毛越寺の中の宝物館にあるパネルの記載から分かった。
 また、当の毛越寺自身が、これらの鎮守社は平泉全体の鎮守社なのではなく、本来は毛越寺の鎮守社であると考えているということも影響していそうである。例えば、毛越寺貫主の藤里明久氏は、昨年八坂神社で行われた「中興の祖氷室良珍650年祭」で、「毛越寺の鎮守社は吾妻鏡の記述と符合している。吾妻鏡の『鎮守事』が、平泉の四方鎮守のことではなく毛越寺の鎮守のことをいっているのではないかと考えている」と講演している。
 すなわち、…端藜卆廚里△訶效呂鯡啀杙が所有していたこと、¬啀杙自身が鎮守社は毛越寺の鎮守社だったと考えていること、の二点が、これらの鎮守社が毛越寺に付随するものとして毛越寺と一緒に特別史跡に指定された要因だったのではないかと考えられる。
 ともあれ、特別史跡としての毛越寺を堪能するのに、毛越寺の境内だけ見ても十分ではない。ぜひ鎮守社跡の数々もじっくりと見てほしい。

 さらに言えば、鎮守社ではないが、同じく特別史跡の飛地として指定されている残りの護摩堂跡、文殊堂跡、吉祥堂跡にも注目したい。ところが、これらのうち文殊堂跡と吉祥堂跡については、存在する場所が分からない。北野天神社と同じ毛越地区にあるようではあるのだが、詳しい場所が分からない。案内板もない。そこで毛越寺の社務所で聞いてみたのだが、なんと毛越寺でもそれらがどこにあるのか分からないのだという。
 そのような有様で、特別史跡「毛越寺境内附鎮守社跡」のうち、人々に知られているのは毛越寺と、毛越寺に隣接する観自在王院跡という、世界文化遺産の構成遺産ともなっている2つだけで、白山妙理堂、八坂神社、花立廃寺跡は恐らく誰でも見つけられるものの、北野天神社と王子社跡は知らないと見つからない、文殊堂や吉祥堂に至ってはその場所すら分からない、というのが現在の状況なのである。確かに毛越寺や観自在王院跡は素晴らしい遺跡だが、こうした状況は一刻も早く改善すべきである。
 とりあえず私としては、まだ見つけられていない毛越寺の文殊堂と吉祥堂を見つけて、例の「世界遺産以外の平泉オススメスポットマップ」に記載したいと思う。

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2018年07月13日

鎮守の稲荷社はどこだ?〜東北の歴史のミステリーその32

 前回「平泉の鎮守社を探せ!」で、五方鎮守として、かつての平泉に少なくとも9つあったとされる鎮守社の場所について検討してみた。それらのうち8つについては、中央惣社=平泉文化遺産センター、日吉社・白山社=白山妙理堂(+日吉神社)、祇園社=八坂神社、王子諸社=王子社跡、北野天神社=北野天神社、金峯山社=花立廃寺跡(金峯山=金鶏山)、今熊野社=熊野三社、と、場所を特定したが、残る稲荷社については、「毛越地区の公葬地下の田地付近」としたものの、その理由については説明していなかった。今回はそれについて取り上げたい。

 前回も書いた通り、これら9つの鎮守社のうち、中央惣社については、どこにあったのかについての論争も盛んなのだが、同様に位置が特定できていない稲荷社は、なぜかスルーされてしまっている。中央惣社ほどの重要性はないということなのか、甚だ不可解である。
 この、場所すら特定されていない稲荷社に関してであるが、平泉界隈をぶらぶら歩いていると目に付く稲荷神社が2つある。一つは中尊寺のある丘陵の一画にある「赤堂稲荷大明神あかどういなりだいみょうじん」で、もう一つは達谷窟の手前にある「達谷伏見稲荷たっこくふしみいなり」である。
WP_20180410_14_14_36_Rich 赤堂稲荷大明神は、旧国道4号線沿いにある。平泉の中心部から見ると「北方」である。大きな赤い鳥居が目印で、離れたJR東北本線の車窓からも見える。そうしたこともあって、平泉町内の神社の中でも知名度は高い方だと思われる。旧国道4号線沿いから石段を登っていくとまず拝殿がある。そして、そこからさらに登ると本殿がある。拝殿は赤くないのだが、本殿はまさに朱塗りの「赤堂」である。しかし、案内文等はなく、その由緒は不明である。
WP_20180410_14_18_30_Rich そこで、同じ丘陵にあるよしみということで中尊寺に聞いてみた。そうしたところ、赤堂稲荷明神の「赤堂」に関連して、かつて「閼伽堂あかどう」と称された「光勝院」という、阿弥陀如来と薬師如来を祀った寺院があったことが中世の文書で確認できる、とのことだった。場所は現在の赤堂稲荷大明神のある場所ではなく、国道4号線を挟んでその向かいにあったのではないかとされているそうである。ただ、閼伽堂光勝院と赤堂稲荷大明神の関係はよく分からず、分かることは現在の赤堂稲荷大明神の社殿が建てられたのが1871年(明治4年)ということだけだそうである。
 現在の赤堂稲荷大明神の建物が明治時代初期に建てられたことは分かったが、その前身の可能性がある閼伽堂光勝院が鎮守社の一つの稲荷社であると比定する材料には乏しいようである。そもそも、吾妻鏡に記載のある北方鎮守(当ブログでは前回説明した通り稲荷社を「西方鎮守」であったと判断している)の稲荷社であったとするならば、寺院ではなかったはずである。
WP_20180520_09_28_29_Rich もう一つの「達谷伏見稲荷」は、毛越寺から達谷窟に向かう途中にある。すなわち、平泉の「西方」に位置している。
 ところが、その入口が極めて分かりづらく、どこから入って行けばよいのかよく分からない。神社の正面(と思われる方)に向かって右側は田んぼ、前方と左側はどう見ても個人宅である。結局、神社にほど近い場所にある側溝に架けられたこの細い板を渡っていく他なさそうだった。

WP_20180520_09_23_52_Rich 鳥居が重なり合っている様子はいかにも稲荷社であることを思わせるが、社殿は比較的新しい。こちらにも案内文などはなく、その由緒は不明であったが、後述する宝積院の方に伺ったところ、この達谷伏見稲荷は昭和に入ってから建てられたものとのことであった。そうするとやはり鎮守の稲荷社と関係はなさそうである。



 鎮守社について記載のある、奥州藤原氏と同じ時代の唯一の資料である「吾妻鏡」には、それぞれの場所に関する説明までは記載がないのだが、時代が下って江戸時代に書かれた書物の中には、稲荷社も含めた鎮守社の場所に関する具体的な記述がいくつかある。稲荷社に関しては、それらは大きく二つに分けられることが分かった。
 具体的に挙げてみる。「元禄九年書上写」(1696年)( 砲砲蓮◆岼隹拌臾誠澄廚「隆蔵坊、寺内ニ仮宮有」とある。前回も引用した「平泉旧蹟志」(1760年)(◆砲砲蓮◆岼隹挂誠澄廚「文殊堂趾の南にあり」、「稲荷社」は「西方鎮守、申の六分、五町二十間」と記載されている。「磐井郡西磐井平泉村風土記御用書出」(1772〜1780)()には「稲荷明神」について、「西方鎮守。小名、稲荷沢。社地、隆蔵寺除ノ内。社、東向、三間四面。鳥居、東向。地主、日輪院。別当、平泉村毛越寺衆徒真言宗隆蔵寺。祭日、九月廿九日。」とかなり具体的に書かれている。「磐井郡西磐井平泉村毛越寺書出」(1775)(ぁ砲砲蓮◆岼隹拏辧廚砲弔い董◆岼隹抻魁(毛越寺南大門より)三丁卅五間、申ノ六分。西方鎮守両社之内。(中略)別当、日輪院隆蔵寺。」とある。「嚢塵挨捨録」(1779)(ァ砲砲蓮岼隹挂誠澄廚蓮◆峺点梁声蘰4霍嬪貪谿隹挂誠世鯡呂憧請、神廟を造立しと云り。」とある。
 そしてもう一つ、別の稲荷社の存在も確認できる。前出のには、上記とは別の「稲荷明神社」が、「小名、毛越。社地、東西七間、南北七間。社、南向、長壱間、横五間、ご神体八寸。地主、宝積院。別当、平泉村毛越寺衆徒天台宗宝積院。祭日、九月九日。」とある。先の「稲荷明神」とは、存在した場所、建物の様子、別当、祭日などことごとく違っているので、別の稲荷社だということが分かる。い砲癲◆岼隹拏辧廚「かかみ山東。(南大門より)十丁六間、午ノ八分。別当、宝積院桜岡坊。」とある。

 つまり、どちらも毛越寺宗徒の寺院が別当を務めていることから、毛越寺からそれほど離れていない地域にあったと推測されるものの、片や「(日輪院)隆蔵寺りゅうぞうじ(または隆蔵坊)」が別当であり、片や「宝積院ほうしゃくいん(桜岡坊)」が別当という違いがある。この両社のうち、鎮守社と関係がありそうなのは「西方鎮守」と明記されている、「隆蔵寺」が別当の稲荷社(以下「隆蔵寺稲荷社」とする)の方であるが、念のためもう一つの「宝積院」が別当の稲荷社(以下「宝積院稲荷社」とする)についても調べてみることにした。
 それぞれの稲荷社の存在した場所についてだが、まず「隆蔵寺稲荷社」については、に記載のある「稲荷沢」、い傍載のある「稲荷山」とも、どこを指すのか不明である。それらしい地名が現在の平泉町内には残っていないのである。そもそも、「稲荷山」とは、京都の伏見稲荷大社の東にある東山三十六峰南端の標高232メートルの山である。それにならって、平泉の稲荷社があった場所も稲荷山と呼ばれていたのだろう。しかし、稲荷社が失われた結果、その地名も消えてしまったのかもしれない。ただ、「稲荷山」、「稲荷沢」という地名から、かつて鎮守の稲荷社があった場所には山と沢の両方があったことが窺える。場所を特定する手掛かりになるかもしれない。
 一方、「宝積院稲荷社」があったとされるの「毛越けごし」、い痢屬かみ山」については特定ができる。「毛越」は現在も毛越寺の西の地域の地名として残っている。「かかみ山」は「鏡山」のことと考えられ、現在の伊豆権現堂のある山が、かつて近江の鏡山を模したと言われて同じく「鏡山」と呼ばれていたことから、その付近であると推定できる。
 次に2つの別当、「隆蔵寺稲荷社」の別当である日輪院隆蔵寺または隆蔵坊という名の寺院と、「宝積院稲荷社」の別当である宝積院桜岡坊についてである。これら2つの寺院のうち、後者の宝積院は現在も存在する。まさに毛越地区、伊豆権現堂のある「鏡山」のすぐ近くである。もう一方の隆蔵寺であるが、調べてみたところ1875年(明治8年)に火災で全焼してしまい、今は残っていないことが分かった。ただ、その後に移転して再建された、現在平泉中学校の南にある龍玉寺りゅうぎょくじが隆蔵寺の檀家を引き継いでいる。

WP_20180615_16_30_42_Rich 実際に足を運んでみれば何か分かるかもしれないと思い、まず宝積院の方を訪れてみた。「寺」と言っても、外観は普通の民家と変わらない。ただ、敷地内に神社があった。鳥居をくぐって入ってみると、本殿には狛犬ではなく狐が一対いた。これは間違いなく稲荷社である。




WP_20180615_16_27_26_Rich 早速宝積院の方にお話を伺ってみたが、この稲荷社が祀られたのは江戸時代の文化・文政の頃とのことであった。稲荷明神だけではなく、「西磐井三十三観音」の一つである観音も祀られており、観音堂でもあるという。この観音は、かつて北上川が洪水となった時に流れ着いたものだとのことで、そこからこの稲荷社は寄水観音堂という名でも呼ばれているそうである。
 ということで、「宝積院稲荷社」については、相応の歴史はあるものの、やはり奥州藤原氏時代の鎮守とは関係のない稲荷社であることが分かった。

WP_20180410_09_15_04_Rich もう一つの、鎮守と関係していそうな「隆蔵寺稲荷社」について調べるために龍玉寺に行ってみた。ちょうどご住職がおられたので話を聞いてみたが、隆蔵寺についての寺伝は残念ながらその1875年の火災で全て焼失してしまったそうである。当時の住職は檀家帳を運び出すのが精いっぱいで、本尊さえも燃えてしまったとのことである(火災の際に持ち出す優先順位が最も高いのは檀家帳で、ご本尊はその次なのだそうである)。そのような事情で隆蔵寺については詳しいことは分からず、隆蔵寺が稲荷社の別当をしていたということも今初めて聞いた、とのことであった。結局のところ残念ながら、奥州藤原氏時代の平泉の鎮守であった可能性の高い「隆蔵寺稲荷社」については分からずじまいだった。
 ただ、かつての隆蔵寺のあった場所についてはご住職はご存じで、それは現在の毛越地区の公葬地(共同墓地)の下にある田圃の辺りとのことであった。もう一つの「宝積院稲荷社」が、別当を務めている宝積院の敷地内に祀られていた例から見ても、神社と別当寺の位置関係は、極めて近いものと考えられる。また、,痢嵶澗∨掘∋内ニ仮宮有」という記載、それからの「社地、隆蔵寺除ノ内」という記載を見ても、西方鎮守の「隆蔵寺稲荷社」はかつて隆蔵寺の境内に存在し、1875年の火災で隆蔵寺と一緒に焼失してしまったのではないだろうか。
WP_20180615_15_54_12_Rich このように考えてみると、西方鎮守の稲荷社があった場所は、かつて隆蔵寺があった場所とほぼイコールだと言えそうである。先の「平泉の鎮守社を探せ!」で、西方鎮守の稲荷社の場所を「毛越地区の公葬地の下にある田地」としたのはこのような理由からであった。ちなみに、この公葬地は高台にあり、近くには「照井堰」も流れている。「山」も「沢」もあることも、稲荷社があったのはこの辺りではないかと推定できる根拠の一つと言える。
 場所の特定について、もう一つ有力な手掛かりは、△痢嵜修力司、五町二十間」、い痢峪庵卅五間、申ノ六分」という記述である。いずれも毛越寺南大門を起点とした方位と距離を示している。この当時の方位は十二支を当てて示していた。「分」というのはその一支をさらに十等分した単位のようである。しかし、どうもイメージがよくつかめないので、角度で考えてみる。北を0°とすると、十二支の示す角度は以下のようになる。

 子:345°〜(0°=北)〜15°
 丑:15°〜45°
(艮):45°=北東
 寅:45°〜75°
 卯:75°〜(90°=東)〜105°
 辰:105°〜135°
(巽):135°=南東
 巳:135°〜165°
 午:165°〜(180°=南)〜195°
 未:195°〜225°
(坤):225°=南西
 申:225°〜255°
 酉:255°〜(270°=西)〜285°
 戌:285°〜315°
(乾):315°=北西
 亥:315°〜345°

こう見てみると、一支は30°であるので、一分は3°ということになる。
 △鉢い琶位は「申の(ノ)六分」と一致しているが、それはつまり北を0°とした場合に243°の方角である。南西(坤)は225°、西南西は250.5°なので、243°というのはほぼその間くらいの方角である。
 ただ、そこからの距離については、△鉢い楼戝廚靴討い覆ぁ△任蓮峺淞二十間」、い任蓮峪庵卅五間」である。一町(丁)は109.09m、一間は1.8182mなので、前者は約581m、後者だと約394mである。
稲荷社 そこで、地図上に毛越寺の南端から243°の線を引いてみる。赤い線はい痢峪庵卅五間」、青い線は△痢峺淞二十間」である。毛越寺から「五町二十間」の場所は青の線の終点で、これだとまさに毛越地区の公葬地に当たってしまうが、その手前、赤線の終点から青線の終点の間の場所というのは、まさに隆蔵寺があったと伝えられる田地に当たる。やはり鎮守の稲荷社はこの付近にあったと見て間違いないのではないかと考えられる。
 △鉢い砲ける距離の食い違いにしても、例えばい歪樟距離で△脇擦覆蠅紡った距離であるなど、そもそも計測の方法に違いがあった可能性もある。方角が「分」の単位まで表記されてかつ一致しているところから見ても、これら距離の表記についてもかなり信ぴょう性のあるものと言えるのではないだろうか。

 明治時代の1903年(明治38年)に刊行された「平泉名勝誌」(志羅山頼順編集兼発行)には、「稲荷社跡」について、「兒塚(ちごづか)の南にあり。其南端の五輪塔は慈恵大師を祭りし塚なりとぞ。此処を逆芝山(さかしばやま)という。厳美村にも同名の地あり。藤氏の頃、此処に移せしにや」とある。これを見ると、少なくとも明治時代のこの頃までは、稲荷社跡は具体的な場所として認識される対象であったことが分かる。
 さらに、江戸時代の文書が「稲荷社」「稲荷明神」などという表記であるのに対して、同書が「稲荷社跡」とあることは、稲荷社は少なくとも江戸時代の各文書が書かれた頃には存在しており、かつ明治時代の後半1903年の時点では失われていたことを示している。これは、1875年の隆蔵寺の火災で稲荷社も同時に焼失したのではないかというここでの推定とも矛盾しない。
 なお、「兒塚の南」とあるこの「兒塚」について同書では、「昔時、社堂郡参の日、乗與の争いより兒の殺され、之を葬りし所なり。其の下を流るる沢を兒沢(澤)といふ」とある。「兒塚」、「兒沢」とも、今のところその場所を特定できていないのだが、機会があれば今後現地でヒアリングを行うなどして探してみたいと考えている。塚、五輪塔と沢、そして逆芝山が手掛かりとなりそうであるが、それらが示す場所がこれまで述べてきた場所の近くということになれば、この場所が稲荷社であるという結論がより妥当性を増すことになるわけである。

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2018年06月29日

平泉の鎮守社を探せ!〜東北の歴史のミステリーその31

 前回、「世界遺産以外の平泉オススメスポット」で、「五方鎮守を巡るのも世界遺産以外の平泉を楽しむのにうってつけ」と書いた。
 しかし、いざ鎮守社のことを調べてみると、コトはそう簡単には進まないことが分かった。あった場所が分からなかったり、分かっていても解釈や見解が分かれていたりするものがいろいろあるのだ。
 
ここでもう一度整理しておきたい。平泉の鎮守社について書かれている資料は、鎌倉幕府の「公文書」である「吾妻鏡」である。東北に攻め入り、平泉を占領した頼朝に対して、中尊寺と毛越寺の僧侶が平泉について説明した文書(「寺搭已下注文じとういかちゅうもん」と呼ばれる)を提出しているが、その内容が「吾妻鏡」の中に丸々引用されている。その中で、奥州藤原氏三代のことや中尊寺、毛越寺のことに加えて、平泉の鎮守社のことも説明されているのである。
 それによれば、「中央に惣社そうじゃ。東方に日吉ひよし白山はくさんの両社。南方に祇園社ぎおんしゃ王子諸社おうじしょしゃ。西方に北野天神きたのてんじん金峯山きんぷせん。北方に今熊野いまくまの稲荷いなり等の社なり」とある。稲荷等の「等」の字が気になるが、少なくとも、平泉には中央の惣社に、東西南北に2つずつ、合わせて9つの鎮守社があったことが分かる。
 四方鎮守、あるいは中央を含めて五方鎮守と言われるこれら9つの鎮守社のうち、存在した場所などについてほぼ異論がないのは、南方の「祇園社」、「王子諸社」と、西方の「北野天神」、北方の「今熊野」、の4つくらいで、あとは何がしか見解の相違がある。
 それらも含めて、では、9つの鎮守社が現在いったいどんな状況なのか、私の調べた範囲でまとめてみる。

中央惣社
 惣社というのは、地域内の神社の祭神を集めて祀った神社のことであるが、平泉の惣社があった場所については大きく見解が分かれている。
 その主なものは3つあり、

 \省の鎮守で金峯山社にほぼ比定されている(異論はある)花立廃寺が惣社も兼ねていたという説
 花立廃寺の約50m北方(現在の平泉文化遺産センターの玄関付近)で出土した礎石建物跡が惣社だったという説
 E貶の鎮守で日吉、白山社に比定されている(後述の通りこれにも異論がある)現在の白山妙理堂が惣社だったという説

がある。
 ,砲弔い董金峯山は金鶏山だとする説が有力だが、金鶏山は平泉のランドマーク的存在であり、金鶏山東方にある花立廃寺が金峯山社で惣社も兼ねていたというのは首肯できる話ではある。についても、現在の白山妙理堂は陸奥守となった三代秀衡の居館柳之御所遺跡(平泉館)からも近く、国司が国に祀られている神に参拝するという惣社の元々の性格からすればこれまた首肯できる話でもある。
 ただ、,筬の説を取ると、ではなぜ吾妻鏡の中でそれらが惣社と別に記載されているのかの説明がつかない。もしこれらが惣社を兼ねていたのなら、例えば「白山・日吉両社(惣社を兼ねる)」といった記述になったのではないだろうか。
 そうではなく、惣社と金峯山、白山・日吉両社が別に記載されていることから考えると、惣社はやはり金峯山社や白山社とは別に存在していたと考える方が自然である。と言って△任△覲両擇發覆い、とりあえずは△鰺力な説としておきたい。

東方(日吉社・白山社)
 東方の鎮守である日吉、白山の両社があったのはJR平泉駅近くにある現在の白山妙理堂とされているが、これにも白山妙理堂の位置が平泉の中心部から見てあまり東でないということから異論があり、北上川を挟んで東の対岸の長島地区にある小島神社(日吉神社の分霊を祀る)と白山神社が東方鎮守だったのではないかとする見解も出されている。ただ、現在白山妙理堂がある場所に以前は白山社に加えて日吉社もあったとする説が今のところ大勢ではある。
 しかし一方で、市街地から南に下った大佐地区にある日吉神社にも、「藤原朝臣清衡公時代、五方鎮守の一社とし、南方の守護神として嘉祥年中滋賀県滋賀郡坂本に鎮座する本宮より分祠し、現在地に奉鎮せるものである」との伝承が残っている。なお、嘉祥は848〜851年で清衡の時代と合わないので、これは嘉保(1094〜1095年)か嘉承(1106〜1107年)の誤りだと思われる。
 長島地区の小島神社と白山神社を東方の鎮守とする見解は、惣社が白山妙理堂だったという説とセットである。つまり、東方の鎮守という割に、白山妙理堂が平泉館を含めた平泉の中枢から見るとそれほど東に位置していないではないかというところから出発して、より東にある長島地区の両社が実は東方の鎮守で、現在の白山妙理堂が中央惣社だったのではないか、という論の展開である。
 しかし、この長島地区の2つの神社に関しては、奥州藤原氏に関連する伝承がない。いずれも由緒を見ると奥州藤原氏とは別に成立したことになっている。奥州藤原氏が既にあったこれら2つの神社を鎮守にしたということも考えられなくはないが、それならそれでそのことが誇らしく由緒に記載されていてもよさそうなものである。そう考えると、やはり長島地区のこの両社は平泉の鎮守とは無関係で、東の鎮守は現在の白山妙理堂としてよいように思う。
 もう一つ、大佐地区の日吉神社、これは東方の鎮守とするにはあまりにも南である(南方の鎮守の八坂神社、王子社跡よりもさらにずっと南である)。ただ、こちらには逆に初代清衡に関連する伝承が由緒に残っており、何らかの関連はあったものと考えられる。並立していたとされる白山・日吉両社のうち、日吉社だけが何かの理由で現在の大佐地区に移され、それで現在白山社だけが白山妙理堂として残っている、と考えると辻褄は合う。

南方(祇園社・王子諸社)
 南方には祇園社、王子諸社があったとされる。平泉の南、その名も祇園地区に現在八坂神社があるが、ここは明治以前は祇園宮と呼ばれていたことが分かっており、ここがかつての祇園社であったということに異論はない。もう一つ、八坂神社と国道4号線を挟んで向かいの路地を東方に数十m進むと、王子社跡がある。現在は小さな祠が2つ残っているだけだが、これもかつての王子諸社であるということに異論はない。

西方(北野天神社・金峯山社)
 西方の鎮守としては、北野天神、金峯山が挙げられている。このうち、北野天神は毛越寺の西の毛越けごし地区にある現在の北野天神社がそれに当たるということで異論は見当たらない。
 もう一つの金峯山については、先述の通り、金鶏山が金峯山で、その東麓にある花立廃寺が金峯山社であるという説が現在のところ最有力のように見えるが、花立廃寺は寺院であって鎮守社ではないとする異論もある。また、金峯山イコール金鶏山とした場合、金鶏山が西方の鎮守としてはあまりと言うか、ほとんど西でないという点も問題と言えば問題である。

北方(今熊野社・稲荷社)
 北方には今熊野と稲荷社などがあったとされる。今熊野については、現在の熊野三社がかつての今熊野を引き継いでいるということでほぼ異論はない。熊野三社はたびたび移転しており、かつては別の場所にあったとされるが、今も北方と言ってまず差し支えない。
 もう一つの稲荷社については、いまだに場所が特定されていない。ばかりか、私の知る限りなぜか議論の対象にもなっていない。これについては長くなるので、今回は詳述せず、稿を改める。

 さて、鎮守社に関してもう一つ問題になりそうなのが、吾妻鏡の「寺搭已下注文」の中の毛越寺に関する記載である。その中に「(毛越寺の)鎮守は、惣社金峯山、東西に崇め奉るなり」という記載が出てくる。ここに出てくる惣社と金峯山と、平泉の鎮守として記載のある惣社と金峯山が同じなのか異なるのかということも鎮守を巡る論点の一つなのだが、現在では同一のものであるとする見解が大勢のようである。
 ただ、この意味するところについて、素直に読めば、惣社と金峯山が毛越寺の東西にあって崇め奉られた、と取れるが、金峯山が惣社であったと読めなくもない。
 そこで思い起こされるのが北方の鎮守、熊野三社に残されている由緒である。熊野三社の由緒には「金峰山社はその中央総社なり」という記述があるのである。
 該当部分の内容は、「当熊野社は五方鎮守の一社にして、承安四年藤原清衡将軍が江刺の豊田城より居を平泉に移してより鎮守府の政を執るに当たり、平泉鎮護の神として五方社を建立したるなり。五方社とは、東方に日吉、白山、両社。西方に北野天神社、稲荷社。南方に祇園社、八王子社。北方に熊野社、金峰山社ありて、金峰山社はその中央総社なり」というものである。ちなみに、承安4年は1174年であるので、初代清衡ではなく、三代秀衡の時代に当たる。ただし、「江刺の豊田城より居を平泉に移し」たのは初代清衡であり、若干の混乱が見られる。
 この熊野三社の由緒の記述だが、よく見ると、吾妻鏡の記述とは一部異なっている。
 登場順に並べてみると、吾妻鏡では、

中央:惣社
東方:日吉、白山両社
南方:祇園社、王子諸社
西方:北野天神、金峯山
北方:今熊野、稲荷等社

となっているのだが、熊野三社の由緒では、

東方:日吉、白山両社
西方:北野天神社、稲荷社
南方:祇園社、八王子社
北方:熊野社、金峰山社
中央総社:金峰山社

となっている。
 すなわち、東方の「日吉社」、「白山社」と、西方の「北野天神社」、南方の「祇園社」、「王子諸社(八王子社)」、北方の「今熊野社(熊野社)」は共通しているが、吾妻鏡では西方の「金峯山(金峰山社)」が熊野三社の由緒では北方、吾妻鏡では北方の「稲荷社」が熊野三社の由緒では西方と、金峯山と稲荷社のあった方角が北と西で入れ替わっているのである。しかも、中央の「惣社(総社)」として、熊野三社の由緒ではこの「金峰山社」を挙げている。
 これらのうち、「金峯山(金峰山社)」と「稲荷社」の入れ替わりについては、吾妻鏡の記述が誤りで、熊野三社の由緒の方が正しいのではないかと判断できる根拠となりそうな近世、近代の文書もある。
 江戸時代の1760年(宝暦10年)にまとめられた「平泉旧蹟志」には、「稲荷明神」が「文殊堂趾の南にあり」と記されている。「文殊堂趾」があるのは毛越寺の西、西方鎮守の北野天神社もある毛越地区である。そして同書では、「稲荷社」は「西方鎮守」と記載されている。安永年間(1772〜1780年)にまとめられた「磐井郡西磐井平泉村風土記御用書出」でも、やはり「稲荷明神」は「西方鎮守」とある。
 さらに、1886年(明治19年)に高平真藤がまとめた「平泉志」巻之下では、「稲荷社跡」について、「西方にあり(東鑑の北方として今熊野の次に叙せるに方位違へり)」とあって、吾妻鏡(=東鑑)に記載された北方という方位は間違っていると指摘されているのである。
 もちろん、奥州藤原氏の時代には北方にあって、その後江戸時代までに西方に移築された可能性もあるが、稲荷社は少なくとも近世、近代には西方の鎮守として認識されていたことが分かる。
 もう一つ、先に挙げた、金峯山が西方の鎮守と言うほど西にないという問題についても、金峯山が熊野三社の由緒にある通り、西方ではなく実は北方の鎮守ということであれば解決する。金峯山社が花立廃寺跡だとすれば、もう一つの北方の鎮守である現在の熊野三社はそのすぐ向かいであり、金峯山社を北方の鎮守と呼んでも差し支えなさそうだからである。
 これらのことから、鎮守社の方位に関しては、ここでは吾妻鏡ではなく、熊野三社の由緒にある方位の方を採ることにしたい。
 次に、同じ熊野三社の由緒にある「金峰山社はその中央総社なり」について考えたい。「金峰山社」と「中央総社」とが完全にイコールだと、先述の、吾妻鏡がなぜ中央惣社とそれを兼ねた鎮守社を別のものとして記載したのかという疑問が解消されない。ここで、中央惣社が、金峯山社である可能性の高い花立廃寺跡の北方約50mから出土した礎石建物跡の場所にあったという△寮發鮑里譴弌熊野三社の由緒とあまり矛盾することなく、この疑問点はある程度解消されるのではないかと考えられる。
 つまり、惣社と金峯山社が極めて近接(約50m)していたのだとすれば、それらは別のものでありつつも、大きく見れば金峯山社と同じ敷地内に惣社があることになり、金峯山社イコール中央惣社という説もある程度成り立つ余地ができるわけである。こう解釈すれば、先に有力な説とみた△寮發梁電性がより増すと言える。

 以上、これまで見てきたことを踏まえて、9つの鎮守社が平泉のどこにあったのか、私なりに整理してみると、現時点で結論は次のようになる。

中央惣社:平泉文化遺産センター(の玄関付近から見つかった礎石建物跡)
WP_20180520_15_09_17_Rich




東方鎮守
日吉社・白山社:白山妙理堂

WP_20180410_08_37_08_Rich白山妙理堂



(ただし、日吉社については大佐地区の日吉神社である可能性もあり)
WP_20180520_10_18_00_Rich




南方鎮守
祇園社:八坂神社
八坂神社WP_20180410_13_21_56_Rich



王子諸社:王子社跡
WP_20180520_09_44_32_Rich




西方鎮守
北野天神社:北野天神社
WP_20180520_08_43_45_Rich
WP_20180520_08_46_00_Rich



稲荷社:毛越地区にある公葬地下の田地付近(別稿にて詳述予定)
WP_20180615_15_54_12_Rich





北方鎮守
今熊野社:熊野三社
WP_20180410_10_50_56_Rich
熊野三社



金峯山社:花立廃寺跡
花立廃寺跡WP_20180410_10_58_59_Rich



(金峯山:金鶏山)
WP_20180520_11_10_41_Rich金鶏山WP_20180410_11_44_34_Rich




平泉の鎮守社…などと書いても、それぞれの鎮守社の場所や位置関係がよく分からないかもしれないので、またしてもマップにまとめてみた。「平泉の鎮守社(五方鎮守)マップ」をご参照いただきたい。こうして実際に地図上にそれぞれの場所をプロットしてみると、金峯山社はやはり西方ではなく北方の鎮守に見えるし、稲荷社も(比定地が正しいとするならばだが)決して北方ではなく西方の鎮守に相応しいことが分かる。



追記(2018.6.29):ちなみに、平泉文化遺産センターに行って、係の人に「ここが『中央惣社』だったんですか?」と尋ねても、たぶん怪訝な顔をされるだけなので要注意である(笑)。
 以前、敷地内で見つかった礎石建物跡について尋ねてみたら、「隣接する花立廃寺跡のことじゃないですか?」とのことだったので…。花立廃寺跡とは別のこの礎石建物跡のことについては、この平泉文化遺産センターの中でも閲覧できる「花立軌篝廖廚糧掘調査報告書の中に記載されている。



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2018年05月04日

世界遺産以外の平泉オススメスポット(※7/23追記・現在67箇所)(東北のオススメスポットその13)

 「私的東北論その107」で紹介した「平泉町観光振興計画(案)」(PDF)への意見書の中で、「平泉は世界遺産だけの町ではない」ということで、「世界遺産以外の観光資源についてもしっかり情報発信を」ということを述べた。
 とは言え、駅や観光案内所で手に入るマップには世界遺産を構成する中尊寺毛越寺観自在王院跡無量光院跡、金鶏山の5つに、柳之御所遺跡達谷窟高館義経堂くらいしか載っていない。平泉文化遺産センター柳之御所資料館にも行ってみたが、これら以外の遺跡について載っているマップはない、とのことだった。
 ならば自分でつくるしかないかと思い、先月1日掛けて平泉町内と旧衣川村の一部地域を改めて巡ってみた。巡ってみて改めて感じたのは、やはり平泉は世界遺産に登録された遺跡だけの町ではないということである。もちろん、登録された5つの遺産は素晴らしいものだが、決してそれらだけが平泉なのではない。それら以外の遺跡も能弁に平泉が何たるものかを語っているように思われた。
 以下に、それらについて紹介してみた。とりわけ、「平泉の世界遺産はもう見飽きた」という方々にぜひお役立ていただきたい。
 紹介文の中に度々、平泉の中央、東方、南方、西方、北方の五方鎮守(四方鎮守とも)のことが出てくる。かつて平泉には、中央に惣社、東方に日吉、白山の両社、南方に祇園社、王子諸社、西方に北野天神、金峯山、北方に今熊野、稲荷等の社があったとされる。個人的に、それらを巡るのも世界遺産以外の平泉を楽しむのにうってつけだと思うのだが、それらのうち、東方の「日吉、白山両社」は現在の白山妙理堂、南方の「祇園社」は現在の八坂神社、北方の「今熊野」は現在の熊野三社でほぼ間違いなく、西方の「金峯山」は金鶏山、花立廃寺跡という可能性が高いと考えられるものの、中央の「惣社」については意見が分かれている。もう一つ西方の「北野天神」については、現在の毛越けごし地区に北野天神社があるとの話もあったが、今回確認できなかった。次に訪れた際に詳しく調べてみたい。 南方の「王子諸社」、北方の「稲荷社」についても同様である。
 あ、ちなみに、以下の遺跡は単に私が足の向くまま回った順番に並んでおり、並んでいる順番には特に意味はない(笑)。我ながらよく一日で回ったものである。
 なお、遺跡の中には学校や私有地などもあるので、無断での立ち入りは厳禁である。
世界遺産以外の平泉オススメマップ これらの位置関係を示した「世界遺産以外の平泉オススメスポットマップ」も作ってみた。併せてご参照いただきたい。

追記(2018.6.26)
 前回回り切れなかった場所をいくつか追加した。既存の場所にも必要に応じて説明を追加した。また、前回見つけられなかった西方鎮守の一つ、北野天神社も、やはり場所が分からず困っていた時に通りすがりの老婦人にお聞きしたところご存じで、連れて行って教えていただいた。感謝である。
 八坂神社と共に南の鎮守である王子社跡も見つかった。北の鎮守の一つである稲荷社だけがまだ見つかっていない。これについては稿を改めて検討する予定である。

追記(2018.7.23):別稿で不明だった北の鎮守(当ブログでは西の鎮守)の稲荷社の場所について特定したのでその場所も加えた。また、泰衡妻が夫を弔うために建てたとの伝承が残る奥州市前沢区の月山神社(既に掲載している奥州市衣川区の月山神社とは別)も加えた。


伽羅之御所きゃらのごしょ
伽羅之御所跡三代秀衡、そして四代泰衡の私邸である「伽羅之御所」がこの付近にあったと考えられている。政庁であった柳之御所やなぎのごしょ平泉館ひらいずみのたち)が「首相官邸」だとすれば、この伽羅之御所は「首相公邸」に当たると言える。現在は、住宅地の一画にその旨を伝える案内板が設置されている。





無量光院むりょうこういん
WP_20180520_17_14_19_Rich世界遺産の構成遺産の一つ。三代秀衡が建立した寺院。宇治平等院鳳凰堂がモデルとされるが、それよりもさらに一回り大きかった。春、秋の彼岸近くには、無量光院の西方にある金鶏山きんけいさんの山頂に日が沈み、その夕日の光を後光として本尊の阿弥陀如来が浮かび上がる意匠だった。現在、その建物は失われたが、池を含む庭園が復元されている。写真中央に見えるのが金鶏山である。

追記(2018.6.26):写真を差し替えた。


白山妙理堂はくさんみょうりどう
白山妙理堂十一面観音を祀る。平泉には中央、東、南、西、北に鎮守社があったとされており、東には白山社と日吉社が鎮座していたとあることから、ここはその東の鎮守があった場所と推定されている。境内を囲む周辺の低地は、当時あった「鈴沢の池」の跡である。

追記(2018.6.26):現在は白山社のみだが、かつては日吉社も並び立っていたとされる。その日吉社だが、別の場所に移転していた可能性もある(後述)。


平泉町役場
平泉町役場案内板はないが、役場周辺からは大型の建物跡が出土していている。役場のすぐ北には幅20mという当時のメインストリートと思われる東西道路の遺構が出土し、役場から白山社(現在の白山妙理堂)までも幅10mの南北道路が確認されており、出土遺物からも「平泉館ひらいずみのたち」に準ずるような施設、あるいはかなり身分の高い者の邸宅があったと推定されている。



平泉中学校
平泉中学校平泉には、中央、東、南、西、北に鎮守社があったとされており、このうち西の鎮守として北野天神と共に金峯山きんぷせんが勧請されたという。この平泉中学校近くに金峯山社趾が残っているという話があったが、確認できなかった。なお、金鶏山が金峰山であるとする説もある。

追記(2018.6.26):今回分かったのだが、平泉中学校は移転して現在の地にあり、金峯山社趾が残っていたのは以前あった場所、現在平泉文化遺産センターのある場所である。ただし、現在の平泉中学校のすぐそばでも現在発掘調査が行われており、ここはここで何かあったようである。


龍玉寺りゅうぎょくじ
WP_20180410_09_15_04_Rich平泉中学校の南にある寺院。いずれ稿を改めて紹介する予定だが、北の鎮守の稲荷社の別当だった隆蔵寺りゅうぞうじが1875年(明治8年に)火災で全焼した後に移転して建立された後継寺である。(2018.6.26追加)

追記(2018.7.23):隆蔵寺と稲荷社については、「鎮守の稲荷社はどこだ?」で詳しく取り上げた。


観自在王院かんじざいおういん
観自在王院跡世界遺産の構成遺産の一つ。二代基衡の妻が建立した寺院。基衡が建立した毛越寺に隣接する。基衡の妻は、奥州藤原氏の前にこの地を支配した安倍氏の棟梁貞任の弟宗任の娘だったと伝わっている。毛越寺同様、浄土庭園を持ち、現在はそれが復元されて史跡公園となっている。元は基衡の居館で、基衡の死後、妻が夫の極楽往生を願って寺院に改修したという説がある。

追記(2018.6.26):上記で紹介した「基衡の死後、妻が」という説は成り立たないことに思い至った。基衡妻である安倍宗任の娘が亡くなったのは基衡よりも先である。それを嘆き悲しんだ基衡によって現在まで毛越寺に伝わる「哭き祭なきまつり」が生まれたとされる。尤も、安倍宗任の娘以外にも妻がいたのだとすれば、その矛盾は解消する。


毛越寺もうつうじ
毛越寺世界遺産の構成遺産の一つ。二代基衡が建立した寺院。往時には中尊寺を凌ぐ規模を誇ったという。全国で唯一、平安時代の浄土庭園が完璧な形で残り、国の特別史跡、特別名勝の二重指定を受けている。奥州藤原氏滅亡後、南北朝時代までに戦乱や野火などで建物は全て失われ、長らくこの浄土庭園だけが残っていたが、1989年(平成元年)に平安様式の新本堂が建立された。

追記(2018.6.26):特別史跡の指定名称は「毛越寺境内つけたり鎮守社跡」である。平泉の鎮守社跡のいくつかが毛越寺境内の飛び地として同じ特別史跡に指定されている。その件についてはいずれ稿を改めて検討したい。


平泉小学校
平泉小学校毛越寺の向かいにあり、三代秀衡の長男国衡の邸宅、国衡館くにひらだてがあったと伝わり、実際に建物跡も出土している。国衡は西木戸太郎と号し、その名の通り、平泉の南西端の関門の役割を果たしていたものと考えられる。毛越寺側からでは分からないが、平泉への入り口となる南側から見るとかなり高台にあることが分かる。なお、国衡館の南には三代秀衡の四男高衡(隆衡)の邸宅、高衡館たかひらだてがあったとされているが、場所はまだ特定されていない。なお、国衡館、高衡館のあった場所については、柳之御所の西側だという異論もある。


平泉町立幼稚園・平泉保育所
平泉町立幼稚園・保育所三代秀衡の長男国衡の居館である国衡館くにひらだてがあったとされる平泉小学校の南に隣接している。ひょっとすると国衡館の南にあったという三代秀衡の四男高衡(隆衡)の居館である高衡館たかひらだては、この辺りにあったのかもしれない。






柳之御所やなぎのごしょ遺跡
柳之御所遺跡世界遺産への追加登録を目指している遺跡。奥州藤原氏の政庁である「平泉館ひらいずみのたち」があった場所と比定されている。長らく、北上川に削られ失われたと考えられてきたが、国道4号線のバイパス工事で出土。遺跡の重要性を鑑みて保存が決定し、バイパスの方がルートを変更した。現在、史跡公園として整備が進んでいる。おびただしい数の出土品があり、それらは史跡公園に隣接する柳之御所資料館に収蔵されている。ちなみに、柳之御所という名称は、「幕府」と同じ意味の言葉「柳営りゅうえい」から取られたものという説がある。


高館義経堂たかだちぎけいどう
高館義経堂源義経の居館「高館」があった場所で、義経終焉の地とされている。義経の木像と、義経主従の慰霊塔がある。ただ、義経が襲撃されたのは藤原基成の居館「衣河館ころもがわのたち」とあり、衣河館は高館義経堂があった場所とは全く異なる場所にあったとされているので、この地が義経のいた場所であるという確証はない。北上川を見下ろし、束稲山を望む眺望は素晴らしい。

追記(2018.6.26):「衣河館」は、別に挙げている衣川を挟んで平泉の対岸、旧衣川村にある「接待館遺跡」だという説が大勢である。


卯の花清水うのはなしみず
卯の花清水高館義経堂たかだちぎけいどうの北側の入口近くにある湧水。松尾芭蕉と共に旅をした曽良が、源義経の老臣、十郎権頭兼房を偲んで詠んだ「卯の花に兼房見ゆる白毛かな」という句にちなんで名づけられた。残念ながら1993年(平成5年)の道路拡張工事の後、湧水は枯れてしまったが、曽良の句碑がある。




熊野三社くまのさんじゃ
熊野三社中央、東、南、西、北にあったという平泉の鎮守社のうち、北には今熊野と稲荷等社があったとされているが、この熊野三社がその今熊野であったとされている。熊野蔵王権現を祀り、子守社、勝手社という末社もあったという。ただし、元の熊野社が野火で焼失した安土桃山時代の1571年に花立山に移され、その後1891年(明治24年)に現在の平泉文化遺産センターのある場所に移され、さらに1954年(昭和29年)に現在の地に移された。焼失の際に持ち出された十一面観音掛仏は同社の宝物として保管されている。

追記(2018.6.26):「熊野三社」とはてっきり「本家」同様、熊野本宮、熊野新宮、熊野那智のことだと思っていたのだが、そうではなく、上で紹介した子守社、勝手社の末社が合祀されて「熊野三社」となったとのことである。


花立廃寺はなだてはいじ
花立廃寺跡金鶏山きんけいさんの東、平泉文化遺産センターに隣接している。礎石などが出土しており、ここに寺社があったことが窺える。平泉にあった中央、東、南、西、北の鎮守のうち、中央の惣社がこの花立廃寺だったのではないかという説がある。今は芝生の公園となっている。

追記(2018.6.26):確かにこの花立廃寺が惣社だという説もあるのだが、それよりもまず、ここは西の鎮守の一つである金峯山社の跡であるという説の方が強い。なお、文化庁の表記は「花館廃寺」だが、地元での表記や学会論文での表記はほとんどが「花立廃寺」なので、ここでは「花立廃寺」と記載する。

追記(2018.7.23):「平泉の鎮守社を探せ!」で書いたが、花立廃寺跡は、当ブログでは「西方鎮守」ではなく「北方鎮守」であったという立場を取っている。


平泉文化遺産センター
WP_20180520_15_09_17_Richかつて平泉中学校があった場所。今は見えないが、ここの玄関付近からはかつて礎石跡が出土している。花立廃寺と対をなすほどの規模のもので、五方鎮守のうちの中央惣社の跡でないかとする説もあり、当ブログでもその説を取っている。(2018.6.26追加)







花立溜池

WP_20180520_15_11_44_Rich熊野三社の一段下にある溜池。現在は溜池だが、奥州藤原氏時代には、花立廃寺と関係する浄土庭園だったのではないかとする説がある。(2018.6.26追加)








照井堰てるいぜき
照井堰三代秀衡の家臣としてその名が知られる照井太郎高春(高治とも)が築いたという、総延長64kmにも及ぶ堰。現在も1,000ha以上の水田に用水を供給している他、毛越寺の浄土庭園の大泉が池に注いで、曲水の宴の遣水の水源にもなっている。「疎水百選」に認定されている他、「世界かんがい施設遺産」にも登録されている。

追記(2018.6.26):平泉を歩いていると、そこかしこで「照井堰」に出くわして、その度に「ここもそうか」と驚かされる。












金鶏山きんけいさん
金鶏山世界遺産の構成遺産の一つ。標高98.6mの円錐形の山で、平泉のランドマーク的存在。三代秀衡が富士山に似せて一晩で築き、山頂に雌雄一対の黄金でできた鶏を埋めて平泉の鎮護としたという伝承や、子孫のために一万の漆の盃に黄金を載せて埋めたという伝承が残る。山頂からは大規模な経塚が発見され、信仰の対象であったことが窺える。5分ほどで山頂まで行ける。平泉にあった中央、東、南、西、北の鎮守のうち、西の鎮守の一WP_20180520_11_10_41_Richつとしてその名が登場する金峯山k(きんぷせんはこの金鶏山のことだとする説がある。また、熊野三社の由緒には「金峯山社はその中央総社なり」という説明がある。なお、金鶏山の読み方について平泉町、平泉観光協会は「きんけいさん」としているが、文化庁は「きんけいざん」としていて統一されていない。

追記(2018.6.26):写真を追加した。読み方については、地元の表記の方を優先させて、ここでは「きんけいさん」とした。


千手院せんじゅいん
千手院金鶏山きんけいさんの入り口近くにある寺院だが、現在は千手観音を祀った千手堂のみが残っている。詳しい由来は不明だが、千手堂内には本尊の千手観音の他、弁財天、「藤原三将軍」(初代清衡、二代基衡、三代秀衡か)の位牌、三代秀衡の木像、愛染明王、不動明王、道祖神が安置されているという。




源義経公妻子の墓
源義経公妻子の墓金鶏山きんけいさんの入り口近くにある。義経は四代泰衡に攻められた折、妻と幼い娘の命を奪った後、自害しているが、ここはその義経の妻子の墓と伝えられている。元は金鶏山の山麓にあったが、その後現在の場所に移されたという。






倉町くらまち遺跡
倉町遺跡毛越寺もうつうじ観自在王院かんじざいおういん跡の向かいにある。伝承の通り、大きな高床式の倉庫跡が出土している。奥大道を通ってくると突如として現れる、左手に浄土庭園と大伽藍を抱える毛越寺や観自在王院を望み、右手に見上げる高さの蔵がずらりと並んでいる光景はさぞや壮観だったことだろう。




道路側溝と塀跡
道路側溝と塀跡毛越寺もうつうじ観自在王院かんじざいおういん跡の前を東西に通る道路の遺構が出土している。幅は20mあり、当時のメインストリートだったとされている。道の両側には側溝が確認されており、ここはその南側の側溝である。同じ場所からは塀跡も出土している。大型の建物を囲んでいた塀とのことである。




稲荷社跡
WP_20180721_11_25_18_Rich_LI中央、東、南、西、北の五方鎮守のうち、西の鎮守である稲荷社があった場所については、「鎮守の稲荷社はどこだ?」で詳しく検討したが、現在のところ毛越地区の公葬地(共同墓地)下にある田地のどこかである可能性が高い。なお、稲荷社は一般に北の鎮守とされているが、当ブログでは西の鎮守であったという説を取っている(詳しくは「平泉の鎮守社を探せ!」を参照)。(2018.7.23追加)


北野天神社
WP_20180520_08_46_00_Rich中央、東、南、西、北の五方鎮守のうち、毛越寺の西、毛越けごし地区にあるこの北野天神社は、西の鎮守の一つとして挙げられている「北野天神」である。
案内板などがなく分かりづらいが、奥州藤原氏の時代からずっとこの地に祀られてきたようである。(2018.6.26追加)




照井道てるいのみち
WP_20180520_08_41_08_Rich北野天神社から白山社につながる小径を、地元の人たちは「照井道」と呼んでいるそうである。その名の通り、道の脇には「照井堰」が流れている。(2018.6.26追加)








白山社はくさんしゃ
WP_20180520_08_39_33_Rich北野天神社から「照井道」を辿っていくとすぐある。
白山妙理堂、中尊寺境内の白山神社、長島地区の白山神社以外にもこうしてひっそりと白山社があるところに、平泉における白山の影響力を窺い知ることができる。(2018.6.26追加)





自性院じしょういん
自性院奥州藤原氏時代にこの地にあって観音霊場として栄えた智覚院はその後、江戸時代初期に廃絶したが、1888年(明治21年)になって江刺の自性院をこの地に移すという形で再建された。聖観音を本尊とする。






伝勅使館でんちょくしたて
伝勅使○伊豆権現堂いずごんげんどう近くの空き地に、「伝勅使○」と書かれた木の柱が立っていた。○は文字が薄れて判読不能。勅使と来たら「館」か。勅使と聞いて思い起こすのは、源義経が兄頼朝に追われて平泉に逃れた後、三代秀衡は朝廷からの勅使を勅使館に招いて饗応し、館の外に一歩も出さずに帰したという話である。ここがその勅使館であれば、平泉の中心部からも離れ、確かに勅使は平泉の様子を少しも観察することができなかったに違いない。

追記(2018.6.26):平泉町立図書館で文献を調べたところ、「勅使館跡」の表記を見つけることができたので、伏字を「館」に替えた。


伊豆権現堂いずごんげんどう
伊豆権現堂三代秀衡が伊豆から勧請したと伝わる。伊豆権現と十一面観音を安置する。急な石段を2分くらい登ると本殿がある。入り口の説明には「高台からの眺めは素晴らしい」とあるが、実際には木々に囲まれて眺望は限定的である。






稲荷社
WP_20180615_16_27_26_Rich伊豆権現堂近くの宝積院という寺院の中にある稲荷社。五方鎮守のうちの北の鎮守の稲荷社か!と思いきや、この稲荷社が勧請されたのは江戸時代の文化文政年間とのことで、残念ながら無関係のようである。昔、北上川の洪水の折に流れ着いた観音も祀っているそうで、それにちなんで寄水観音堂と名付けられ、西磐井三十三観音霊場の一つともなっている。(2018.6.26追加)



鬘石かつらいし
鬘石奥州藤原氏とは直接関係のない遺跡。昔、この地方を治めていた悪路王あくろおうは、美しい娘がいると聞くとさらってきていたという。逃げ出した娘はすぐに捕まり、見せしめとして首を切り落とされ、太田川に流され、その首が下流のこの大きな岩に流れつき髪の毛を絡ませたということから、この巨石を「かつら石」と呼ぶようになったと言われている。



姫待瀧ひめまちのたき
姫待瀧奥州藤原氏とは直接関係のない遺跡。この地方を治めていたという悪路王あくろおうが、さらってきた姫が逃げ出した際、この滝で姫を待ち伏せしたと伝わっている場所である。







達谷伏見稲荷たっこくふしみいなり
WP_20180520_09_23_52_Rich平泉から達谷窟に向かう途中にある稲荷神社。追って別稿にて紹介するが、昭和に入ってから勧請された新しい稲荷神社だそうで、残念ながら奥州藤原氏時代の五方鎮守の一つ、北の鎮守の稲荷社とは無関係のようである。
なお、入口が極めて分かりづらい。(2018.6.26追加)




達谷窟たっこくのいわや
達谷窟世界遺産への追加登録を目指している遺跡。悪路王あくろおうが住んでいたという伝承がある。悪路王は一説には坂上田村麻呂と戦った蝦夷の首領阿弖流為あてるいのことだとする見方がある。悪路王を討った後、悪路王が籠った窟屋に田村麻呂が清水寺を模してこの毘沙門堂を建立したと伝わる。浄土庭園の跡が出土しており、平泉遺跡との関連も指摘されている。源義家が彫ったという北限の磨崖仏がある。初代清衡と二代目基衡が七堂伽藍を建立、基衡は薬師如来を奉納したという。


八坂神社やさかじんじゃ
八坂神社平泉には、中央、東、南、西、北に鎮守社があったとされており、南の鎮守として、祇園社と王子諸社が勧請されたとある。祇園地区にあるこの八坂神社が当時の祇園社であったと伝わる。南北朝時代に修験の僧都、良珍が再興を図り、江戸時代まで祇園宮と称されたが、明治8年に八坂神社と改称された。





王子社跡おうじしゃあと
WP_20180520_09_44_32_Rich上記八坂神社の国道4号線を挟んで向かいにある路地を50mほど入ったところにある。五方鎮守の一つ、南の鎮守の「王子諸社」の跡とされる。現在は小さな祠が2つ残っているだけであるが、祠の中には木造の神像が祀られている。(2018.6.26追加)





日吉神社ひよしじんじゃ
WP_20180520_10_18_00_Rich南の鎮守である八坂神社、王子社跡よりもさらに南の大佐地区にある。「藤原朝臣清衡公時代、五方鎮守の一社とし、南方の守護神として嘉祥年中滋賀県滋賀郡坂本に鎮座する本宮より分祠し、現在地に奉鎮せるものである」との伝承が残っている。なお、嘉祥は848〜851年で清衡の時代と合わないので、嘉保(1094〜1095年)か嘉承(1106〜1107年)の誤りだと思われる。五方鎮守のうち、東の鎮守の一つである日吉社が何らかの理由でここに移された可能性がある。
別当である木村氏宅を通らないと行けないので、必ず一声掛けてから参拝すること。どちらにせよ、行き方を教えていただかないとまず行けない。(2018.6.26追加)


武蔵坊弁慶大墓碑
武蔵坊弁慶大墓碑中尊寺の入口付近にある、源義経の忠臣、武蔵坊弁慶の墓と伝わる場所。中尊寺の僧素鳥が詠んだ「色かえぬ 松のあるじや 武蔵坊」の句碑があり、その句の通り、大きな松が立っている。







赤堂稲荷大明神あかどういなりだいみょうじん
赤堂稲荷大明神中尊寺がある丘陵にある。旧国道4号線沿いにある大きな鳥居はかなり目立ち、離れている東北本線からもよく見える。しかし、縁起に関する説明がないので詳しい成り立ちは不明。鳥居をくぐって急な階段を登っていくとまず拝殿があり、さらに登るとその名の通り、朱塗りの本殿がある。中央、東、南、西、北にあった平泉の鎮守社のうち、北には今熊野と稲荷等社があったとあるが、この赤堂稲荷大明神がその稲荷等社なのかどうかは不明。

追記(2018.6.26):稲荷社については別稿で論じる予定だが、中尊寺に尋ねたところ、この赤堂稲荷大明神の前身とされる「閼伽堂あかどう」の存在は中世まで遡れるものの、現在の赤堂稲荷大明神自身は明治4年の建立とのことで、どうやら北の鎮守の稲荷社とは無関係のようである。


中尊寺ちゅうそんじ
中尊寺世界遺産の構成遺産の一つ。初代清衡が建立した寺院。清衡が整備した、東北の北端外ヶ浜(青森市)と南端白河関(福島県白河市)を結ぶ幹線道路、奥大道おくだいどうのちょうど中間地点に建っている。中尊寺建立供養願文には、戦乱で多くの人が亡くなった東北をそのままこの世の浄土としたいという清衡の思いが示されている。清衡が安置したという「丈六皆金色の釈迦如来」と同じ本尊が、2013年(平成25年)に現在の本堂に安置された。


金色堂こんじきどう
金色堂中尊寺ちゅうそんじの中にある、唯一無二の皆金色の阿弥陀堂。日本の国宝第一号だった。皆金色は仏の住む浄土を表したもので、全面に金箔が押された以外にも、南洋の夜光貝を用いた螺鈿細工、象牙や宝石による装飾など、当時の芸術工芸の粋を極めた造形が施されている。初代清衡、二代基衡、三代秀衡の遺体と、四代泰衡の首級が収められ、葬堂としての性格も持つ。四代に亘る遺体がそのまま保存されている例は世界的にも極めて珍しいとされる。


白山神社はくさんじんじゃ
白山神社中尊寺ちゅうそんじの開祖と伝わる慈覚大師が加賀の白山から勧請したという、中尊寺の敷地内にある神社。境内にある能楽堂は国の重要文化財に指定されている。現在も薪能などが奉納されている。







源義経衣川古戦場碑
WP_20180520_15_37_46_Rich平泉文化史館の敷地内にある、衣川の合戦の場所を伝える碑。ただ、義経の居館が高館にあるという前提での比定地であるので、実際にはここではない可能性が高い。建物の中からは「弁慶立往生跡」も見える。(2018.6.26追加)






接待館せったいだて
接待館跡中尊寺の対岸の衣川沿いにある。三代秀衡の母親がここで道行く旅人をもてなしたという伝承があり、この名がある。かなり大規模な邸宅跡が出土しており、柳之御所やなぎのごしょ遺跡と同様に大量のかわらけなども出土していることから、柳之御所と同等の重要な施設であったことが窺える。三代秀衡の正妻の父で、京の摂関家藤原氏に連なる藤原基成の居館「衣河舘ころもがわのたち」の跡ではないかという説もある。写真中央右寄りに見えるのが月山である。


衣の関道ころものせきみち
衣の関道初代清衡が北は外が浜(青森市)から南は白河関(福島県白河市)まで整備した当時の「東北縦貫道」である奥大道おくだいどうは、平泉では中尊寺の境内を通すようにしていた。これに伴って、衣河関ころもがわのせきも安倍氏時代に難攻不落と言われた場所から、中尊寺の北側で衣川を渡る手前に移されたという。その新しい衣川関から衣川を越えて北上する道の通称が衣の関道だとされる。


七日市場なぬかいちば
七日市場跡その名の通り、奥州藤原氏の時代に毎月七日、十七日、二十七日と七のつく日に市が立ったという伝承がある地。平泉の市街地内で最も繁昌した市場になったという。







神明神社しんめいじんじゃ関の神明せきのしんめい
神明神社(関の神明)初代清衡が七日市場なぬかいちば地区内の衣の関道ころものせきみちわきに伊勢大神宮を勧請し、神明神社として地区民の信仰を集めたという。衣川関の近くにあったことから「関の神明」と称された。ただ、清衡は平泉開府に当たり、天皇家の祭神である伊勢、摂関家藤原氏の祭神である春日、鎮護国家の軍神で源氏の祭神でもある八幡、蝦夷征伐の神として祭られてきた鹿島・香取などを注意深く排除し、一切勧請していないため、その清衡が伊勢大神宮を勧請したという伝承については疑問を感じる。


渕端諏訪大明神社ふちはたすわだいみょうじんしゃ旗鉾神社はたほこじんじゃ
渕端諏訪大明神社(旗鉾神社)かつてこの地を本拠とした安倍氏の棟梁、安倍頼時が兵器を祀って鎮護の神と崇めたという。その後、この地に住んだ三代秀衡の三男忠衡が再興し、自身の守り本尊である魚籃観音を祀ったと言われている。






並木屋敷なみきやしき
並木屋敷奥州藤原氏とは直接関係がないが、その前の時代にここ衣川を本拠とした安倍頼時が政庁を構えたとされる場所。安倍氏を滅ぼしてその後陸奥、出羽を治めた清原氏も三代に亘ってこの地を政庁、もしくは居館としたと伝えられている。清原氏の時代には衣川柵ころもがわのさくと呼ばれていた。





泉三郎忠衡供養塔
泉三郎忠衡供養塔泉ヶ城いずみがじょうのある土地の高台にある三代秀衡の三男忠衡の供養塔。現在この地に住んでいる葛西さんが個人で建てた。供養塔のある一帯は葛西さんの私有地である。







泉ヶ城いずみがじょう
泉ヶ城三代秀衡の三男忠衡の居館だったと伝わる。平泉の北端に位置し、南端の国衡館くにひらだて高衡館たかひらだてと共に、平泉への関門となっていたと考えられる。衣川に囲まれた天然の要害で、現在も狭い橋が一本あるだけなので、車では行きにくい。橋を渡って少し行ったところに、「泉ヶ城」と刻まれたこの地に住む葛西さんが建てた小さな石碑がある。なお、忠衡の実際の居館については、柳之御所の南の泉屋いずみや遺跡の辺りとする説もある。


琵琶館びわだて成道舘なりみちだて
琵琶館(成道舘)跡奥州藤原氏とは直接関係がないが、その前の時代にこの地を治めた安倍氏の棟梁貞任の庶兄成道の居館だったとされる場所。衣川が琵琶の形に流れているのでこの名があるという。







小松館こまつだて
小松館跡奥州藤原氏とは直接関係がないが、安倍氏の棟梁貞任の叔父の僧、良照の居館であったと伝えられる場所。前九年の役の際、ここで源頼義と清原武則の連合軍を迎え撃ったとされる。







衣河関ころもがわのせき
衣河関跡奥州藤原氏よりも前の安倍氏の時代に、蝦夷の領域と朝廷の領域との境にあった関所である衣河関があった地とされる。眼前を流れる衣川の両岸が断崖絶壁となっており、「封じれば誰も破ることができない」と言われた天然の要害。現在はその上を、橋を渡して東北自動車道が通っている。奥州藤原氏の時代にはこの衣河関はここから東の中尊寺ちゅうそんじ寄りに移された。


荒沢神社あらさわじんじゃ
荒沢神社月山神社がっさんじんじゃの参道の入り口付近にある神社。月山神社はかつて女人禁制だったが、この荒沢神社は女性も参拝できたという。








月山神社がっさんじんじゃ
月山神社衣川を挟んで中尊寺ちゅうそんじの対岸にある円錐形の山、月山の山頂にある神社。かつては中尊寺の奥の院として大いに栄えたという。山頂に着いて鳥居の正面に目に入るのは拝殿であるが、実はその裏にさらに本殿がある。月山の山頂に向かうルートは、東側の麓にある三峯神社みつみねじんじゃから登る道と、北側の麓にある月山神社の鳥居をくぐって登る道の2つがあるが、どちらも山頂までは10分ほどで行けWP_20180520_15_57_54_Richる。三峯神社から登る道の途中には、風光明媚なスポットがある。

追記(2018.6.26):写真を追加した。








和我叡登挙神社わかえとのじんじゃ
和我叡登挙神社月山の山頂にある月山神社がっさんじんじゃの拝殿の奥にある本殿の前に何気なく巨石があるが、それが実は和我叡登挙神社である。東北の土着の神と言われる荒覇吐あらはばき荒吐あらばきとも)の神を祀っている。東北で拝殿を持たない巨石を祀った神社は概ね荒覇吐神を祀ったものであるが、中尊寺の奥の院として栄えた月山神社と同じ敷地に荒覇吐神を祀った神社があるのは興味深い。奥州藤原氏の仏教文化が実は東北古来の神とも結びついていた証左とも取れる。


三峯神社みつみねじんじゃ
三峯神社月山の麓にある神社。源頼義、義家が前九年の役で安倍氏に苦戦していた折、日本武尊が東夷征討に際して武州三峰山に登って諾冊二尊を奉祀したという故事にあやかって陣中で諾冊二尊を奉祀し、安倍氏を討った後に祠を立てたという。江戸時代の享保元年に埼玉の秩父にある三峰神社から改めて分霊が勧請された。




館跡たてあと
館跡奥州藤原氏とは直接関係がないが、奥州藤原氏の前にこの地を治めていた安倍頼時とその子貞任の居館跡と伝えられている。以前は上衣川にある「安倍館あべたて」を本拠としていたが、頼時の代にこの地に本拠を移したという。






長者ヶ原廃寺ちょうじゃがはらはいじ
長者ヶ原廃寺跡世界遺産への追加登録を目指している遺跡。源義経を奥州藤原氏の下に案内した金売り吉次の邸宅跡という伝承があり、「長者ヶ原」の名があるが、発掘調査の結果、寺院跡であることが判明した。奥州藤原氏の時代には既に廃寺となっていたと考えられており、奥州藤原氏よりも前にこの地域を支配した安倍氏に関連した寺院とされている。ただ、この場所から見る夕日は春と秋の彼岸の日にはちょうど月山山頂に沈むと言い、後の無量光院むりょうこういんの意匠の参考にされた可能性がある。


室の樹跡むろのきあと
WP_20180520_16_35_42_Rich奥州藤原氏(秀衡、あるいは秀衡の母親とも)が御室御所みむろごしょの庭木をこの地に移し替えて庭園を造ったため、この名で呼ばれている。
平泉に逃れてきた源義経主従がここにあった屋敷に居住したという伝承もある。
今は春の桜がきれいである。(2018.6.27追加)






九輪搭くりんとう
九輪搭跡初代清衡が母方の祖父であり、かつてこの地を治めた安倍頼時を供養するために九輪塔を建てたと伝わる地。この一帯は今も九輪堂という地名である。清衡は九輪塔の周辺を園地として整備し、大きな池と2つの築山をつくったとされる。残念ながらそれらは現在は失われているが、地元の人が築いた安倍一族の鎮魂碑がある。



瀬原古戦場せはらこせんじょう
瀬原古戦場跡奥州藤原氏とは直接関係がないが、安倍氏が源氏と戦った前九年の役の際、安倍氏がこの地で、対する源氏をあえて本陣におびき寄せる作戦を立てて源氏に大損害を与えたと伝えられる古戦場である。







向館むかいだて
WP_20180520_16_48_26_Pro奥州藤原氏とは直接関係ないが、安倍氏の一族で前九年の役の折に安倍氏を裏切った安倍富忠の屋敷跡と伝えられる。(2018.6.26追加)









北館遺跡きただていせき
WP_20180520_17_02_23_Rich奥州藤原氏とは直接関係がないが、その前の安倍氏一族の居館の一つと伝えられる。西暦1300年頃に南蘇坊なんそぼうという行脚僧が植えたと伝わる一本桜は今も毎春見事な花を咲かせる。(2018.6.26追加)







月山神社
WP_20180722_16_31_49_Rich_LI奥州市前沢区生母にある、奥州市衣川区の月山神社とは別の月山神社。四代泰衡の妻が、非業の死を遂げた夫を弔うために、羽黒派修験者の法印継清に命じて勧請させたという伝承が残る。元々経塚山にあったが、1878年(明治10年)に現在の地に遷座したという。元の神社は「奥の院」として今も京塚山に残る。(2018.7.23追加)



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2015年12月30日

私的東北論その75〜今、平泉研究が面白い!(「東北復興」紙への寄稿原稿)

 「東北復興」第41号が10月16日に刊行された。この回では、平泉に関する現在の研究成果の一端を紹介した。近年の発掘調査の成果により、奥州藤原氏の東北並びにその周辺における動向が明らかにされてきていて、かつその内容がとても興味深い。今後さらにどのようなことが明らかになるのか興味津々である。

 なお、こうした平泉研究の成果については、毎年1回開催される「平泉文化フォーラム」でも公表されている。次回の平泉文化フォーラムは、2016年1月30日(土)、31日(日)、一関文化センターで開催される(参照サイト)。


今、平泉研究が面白い!

推理小説を読むような面白さ
 最近、平泉について書かれた新著を読むのが楽しい。あたかも、推理小説を読むがごとく、それまで知られていなかった謎が次々と明らかになるような、知的好奇心を満たす内容がてんこ盛りである。いったいどうしてここへ来てそのようなことになったのだろうか。

 その大きな要因は、発掘調査の進展である。そのお陰で、従来の「奥州藤原氏は実質的には奥六郡と仙北三郡を支配していた一地方豪族に過ぎない」というような、奥州藤原氏を過小評価するような論説が覆された。そして、奥州藤原氏が現代の我々が想像する以上に当時のグローバルスタンダードを踏まえていて、平泉の文化も、京の文化を模倣することで成り立っていたようなものではなく、極めて独自性を備えた文化だったことが明らかになってきたのである。

 特に、入間田宣夫「藤原清衡〜平泉に浄土を創った男の世界戦略」(集英社、2014年9月)と斉藤利男「平泉〜北方王国の夢」(講談社選書メチエ、2014年12月)は、近年の発掘調査に基づく最新の知見を余すところなく披瀝しており、文字通り目から鱗の内容も数多い。前者では、奥州藤原氏初代清衡に焦点を当て、清衡は閩国王・王審知の仏教立国事業を知り、そうした当時の東アジアの仏教のグローバルスタンダードに則って国づくりを進めていたとしている。一方後者では、奥州藤原氏の在りようは、過去に存在した渤海王国に比すべきものとして、朝廷の支配下にあった一地方政権という枠を超え、北方世界に広く影響力を及ぼした政権との見方を示している。

京都とは異なる平泉の神仏
 平泉の仏教文化は、京都のものを取り入れたものというのがこれまでの見方であった。もちろん、大きな影響を受けたことに間違いはないが、平泉の仏教文化は京の都を飛び越えて、さらに当時の東アジアのグローバルスタンダードに準拠していたことも明らかになってきた。

 当時の京の都の御願寺(天皇・上皇・皇后などの発願によって建てられた寺院)は、宇宙の中心仏とされた毘盧遮那如来(大日如来)を本尊とし、それに五大明王を祀るという真言密教色の強いものであった。これに対して同じ御願寺である中尊寺の鎮護国家大伽藍一区や毛越寺では、顕教寺院の特徴の方が強く現れ、釈迦如来や多宝如来、阿弥陀如来が本尊で、大日如来の使者である五大明王も一切導入されなかった。五大明王の下で行われる五壇護摩法は夷族や怨霊の調伏を目的に行われており、当の夷族の長を自任していた奥州藤原氏にとっては排除すべきものだったのである。と同時に、これは京の仏教文化に対する独自性の追求でもあった。

 独自性の追求は、仏教だけでなく、神社においても見られる。平泉には天皇家の祭神である伊勢、摂関家藤原氏の祭神である春日、鎮護国家の軍神で源氏の祭神でもある八幡、蝦夷征伐の神として祭られてきた鹿島・香取も一切勧請されなかった。それに対して勧請されたのは仏教に関わりの深い日吉、白山、金峯、熊野、王子など洛外の諸社、洛中では上下貴賤の分け隔てなく信仰された諸社に限られたのである。

 このように平泉では、平安京とは異なる論理で勧請される神が選ばれたことが分かる。とりわけ重大なのは、藤原氏の祭神である春日も勧請されなかったことである。奥州藤原氏が、藤原氏の血を引き、藤原を名乗りながらも、京の藤原氏とは一線を画する意識でいたことが窺えるわけである。そこには、中央の論理を一貫して排除する姿勢が感じられる。

東北各地で見つかる奥州藤原氏の出先機関
 平泉の柳之御所遺跡で多数出土することから「平泉セット」と名付けられた、平泉型てづくねかわらけや白磁四耳壺が出土する遺跡が、特に平泉以北の東北の各地で見つかっている。平泉型てづくねかわらけは宴会用の土器、白磁四耳壺は輸入陶磁器である。これらが出土する遺跡は、奥州藤原氏かそれに連なる勢力の居館だった可能性が高いのである。

 その代表的なものとしては、青森県内の蓬田大館遺跡、内真部(4)遺跡、新田(1)遺跡、浪岡城跡内館遺跡、中崎館遺跡、秋田県の矢立廃寺、観音寺廃寺、岩手県の比爪館跡、田鎖車堂前遺跡、川原遺跡、宮城県内の花山寺跡、多賀城跡、大古町遺跡、福島県内の白水阿弥陀堂境域などがある。

 これによって、奥州藤原氏は東北全域を支配下に置いていたのではなく実際には奥六郡と仙北三郡を押さえていたに過ぎないというような指摘は、明確な根拠を以て否定されるわけである。

関係者を驚かせた北海道の出先機関
 関係者にとって衝撃的な発見が、この中の新田(1)遺跡、そして北海道の厚真町の宇隆1遺跡であった。新田遺跡は、港湾機能を伴った集落遺跡で、平泉政権の外港的位置づけの出先機関があったと見られている。さらに、宇隆1遺跡では、北海道で唯一奥州藤原氏時代の尾張常滑窯の壺が出土した。この壺は、平泉との結びつきを示しているのみならず、その形状と出土場所の特徴から、奥州藤原氏が各地に築いた経塚の外容器であったと見られ、平泉からこの地域に派遣された者が造営したと考えられているのである。

 遺跡のある場所はまさに道央の入り口である。それまで、本州から渡った人々がこの地に居を構えるようになったのは室町時代と見られていたが、宇隆1遺跡の出土物は、実は既に平泉の出先機能を持つ拠点がこの地にあったことを物語っているのである。

 これによって、奥州藤原氏の影響力の及ぶ範囲は、陸奥出羽両国にとどまらず、道南を越え、道央の入り口にまで達していたことが明確になったわけである。中尊寺供養願文で清衡は、自らを「東夷の遠酋」(東の果ての蝦夷集団を束ねる遠い昔からの酋長の家柄に属する者)、「俘囚の上頭」(朝廷に服属する蝦夷集団の頭領)として、「出羽・陸奥の土俗」を従え、さらに「粛慎・挹婁の海蛮」をも従えていると書いている。従来は、その表現を大仰に過ぎると見る見方がほとんどだったが、実際に海を越えて、奥州藤原氏の影響が及んでいる地域があることが明らかになったわけで、供養願文にあるこのくだりはそれ相応に根拠があることだったわけである。

「大平泉」の都市機能
 平泉自身も世界遺産に登録された中尊寺や毛越寺、観自在王院跡、無量光院跡、金鶏山のある区域のみにとどまるものではないことが明らかになってきた。奥州藤原氏の前の安倍氏の拠点だった衣川地区からも「平泉セット」が平泉に引けを取らないくらい大量に発掘され、奥州藤原氏時代にもこの地区が「副都心」として機能していたこと、さらに白鳥舘、本町、祇園といった地にも都市集落が形成され、これらを含めて「大平泉」とも言うべき様相を呈していたことが分かってきたのである。

 このうち衣川は、水陸両方の交通の要衝で、水上交通、陸上交通を通じてもたらされた物資が集まって賑わっていたところだったという。白鳥舘には川湊があり、水上から物資が運び込まれた地であると共に、かわらけや鉄製品、銅製品、石製品、水晶細工などを生産していたと見られる工房跡が見つかり、一大手工業生産地であったことが明らかになった。本格的な発掘調査はこれからだが、本町や祇園にも川湊があり、やはり白鳥舘同様の都市機能があったと見られている。当時京の都に次ぐ人口10万人を擁する都市であった平泉の都市機能について、だいぶその詳細が分かってきたのである。

周知の事実に対する洞察
 最新の発掘調査に基づく研究成果だけでなく、周知の事実に関するなるほどと思わせられる深い洞察もあった。例えば、「千僧供養」。僧侶千人を集めて読経させるという一大イベントだが、これを清衡は延暦寺、園城寺、東大寺、興福寺といった日本の大寺で行っただけでなく、中国の天台山国青寺でも行ったと伝えられている。当時、千僧供養というのは、天皇や上皇、摂政や関白が主催するものだったとのことで、それを一介の地方豪族である清衡が行えたことのすごさ、しかも日本だけでなく中国でも行えたことのすごさに思い至った。中国で行ったことについては、日本に藤原清衡ありという印象を中国国内に植え付けるだけの効果があったに違いない。

 また、「御願寺」であることもそうである。中尊寺は白河上皇の御願寺で、つまり白河上皇の発願による寺ということになっている。当時の京の都では、上皇や天皇の発願による御願寺が多く建立されたが、地方豪族の建立した寺院が御願寺となる例などは空前絶後ということである。しかも、御願寺であるからには、供養願文も白河上皇が主語になる書き方になるべきであるところ、有名な中尊寺の供養願文は、清衡の思いがふんだんに盛り込まれた文章になっているのがそもそも異例であるということである。

これからがさらに楽しみな平泉研究
 入間田宣夫氏は言う。「あれや、これやで、平安京のモデルをストレートに受け入れるのにはあらず。どちらかといえば、東アジアのグローバル・スタンダードに準拠するなかで、それにあわせて東北日本の風土に即応するなかで、さらには武家好みのスタイルを模索するなかで、平安京のモデルさを選択的に採用・アレンジすることによって、平泉の文化はかたちづくられることになった」と。

 斉藤利男氏も言う。「平泉と奥州藤原氏の歴史・文化に対しては、これまでも大きな注目がなされてきた。だが、そこには、古代蝦夷研究と平泉研究の発展に大きな足跡を残した高橋富雄氏を別として、『日本列島北部辺境の一地方史』という視点が強く働いていたように思う。しかし本書で述べたように、平泉と奥州藤原氏は、南の琉球王国と同様、決して『日本国の一地方』という枠組みには収まらないものであった」と。

 これからの平泉研究がさらにどのように展開していくか、実に楽しみである。

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2015年08月25日

私的東北論その72〜真田幸村と宮城県との浅からぬ関係(「東北復興」紙への寄稿原稿)

 7月16日に刊行された「東北復興」第38号では、ちょうど来年の大河ドラマが「真田丸」と決まった(NHK公式ブログ)という話題に関連して、真田幸村と宮城県との縁について取り上げてみた。歴史が好きな人にとっては有名な話であるが、そうでない人には意外に知られていないようである。ましてや、蔵王町で「仙台真田ちゃんばら合戦!」なるイベントが開催されたということはなおのこと知られていないに違いない(笑)。

 以下が記事の全文である。


盛り上がる白石・蔵王
イメージ 1 来年のNHK大河ドラマが真田幸村を主人公とした「真田丸」に決まったそうである。今年は徳川家康が豊臣氏を滅ぼした、つまり真田幸村が命を落とした大坂夏の陣からちょうど400年とのことで、そのことも大河ドラマの決定にも影響を少なからず与えたのかもしれない。そしてまた、大坂夏の陣400年と真田幸村に関して、大阪から遠く離れたここ宮城県の白石市や蔵王町が並々ならぬ盛り上がりを見せている。

 白石市は大坂夏の陣400年記念事業として8月15日(土)まで、武家屋敷とその前の沢端川で「白石城下梅花藻ライトアップ」を行うと共に、7月30日(木)〜8月2日(日)は「白石城月の宵祭り」を白石城天守閣・武家屋敷で、8月1日(土)には「白石城月の宴」を白石城芝生広場で開催する予定である。

 蔵王町でも、7月18日(土)に矢附地区公民館周辺で「仙台真田ちゃんばら合戦!」を開催すると共に、7月26日(日)まで蔵王町ふるさと文化会館(ございんホール)で特別展「仙台真田氏の名宝掘廚魍催している。

 蔵王町では、今回の大河ドラマの決定に際して、真田氏の本拠地である長野県上田市と連携して活動していた。真田幸村の大河ドラマ化を目指した署名活動にも参加し、蔵王町だけで1万5千人を超える署名が集まったという。長野県上田市から遠く離れた町において多くの署名が寄せられたことは、NHKからも驚きを以て受け止められたそうである。

幸村の遺児たちが白石に
 なぜ宮城県内のこれらの市や町で大坂夏の陣や真田幸村の話題で盛り上がっているかと言えば、真田幸村とこの地域とに、実は深いつながりがあるからである。そのきっかけはまさに、400年前のその大阪夏の陣に遡る。

 仙台藩初代の伊達政宗と言えば、それに付随して必ず名前が挙がるのが、その家臣で政宗の忠実かつ有能な参謀であった片倉小十郎景綱である。その子で「小十郎」の名を継いだ重長(はじめ重綱と称し後に改名)は、父に劣らない智勇兼備の武将であると評された。重長は大坂夏の陣で、病床にあった父景綱に代わって政宗に従って参陣し、豊臣方の猛将後藤又兵衛基次を討ち取り、その後「日本一の兵(つわもの)」と称された真田幸村とも激戦を繰り広げた。徳川方の諸将は重長を「鬼小十郎」と称して畏敬したという。

 大坂城が落城する日の前夜、死を覚悟した真田幸村は、娘の阿梅を託せるのは重長を措いて他にいないと考え、阿梅を重長のもとに送り届けさせた。

 その辺りの幸村の心情を「仙台士鑑」では、

「幸村一人の娘あり、その愛いわゆる掌上の珠にひとし、しかるに落城も近きにあり、瓦となりて砕けしむるに忍びず。幸村思いらく、城上より天下諸大名の陣屋を見渡すに、托するに足るるもの一人公(=重長)あるのみ。願わくは我が請いを容れて愛子を托するを得んと」

と表している。

 そればかりではない。合戦後には、他の3人の娘と、そしてなんと次男の大八も幸村の遺臣によって重長のもとに送り届けられたそうである。幸村の長男大助は父の後を追って自刃し、既にこの世にはいない。大八はこの時点で幸村の血を引く唯一の男子だったのである。

 敵味方として激しく戦った相手でもある重長に寄せた幸村の信頼の深さが窺える話であるが、これは大変なことである。幸村は名将とは言え、紛れも無い敵方である。最後の日、幸村は家康本陣に襲いかかり、一時は家康に死を覚悟させたというくらいの猛攻を浴びせた。徳川方に取ってみれば、憎んでも憎み切れない、これ以上ない大罪人である。その子、しかも女子だけでなく男子まで匿ったことが露見したらどのようなことになるか、当然重長も分かっていたはずである。

 事実、戦いの後、徹底した残党狩りが行われ、豊臣方の諸将やその子らが捕らえられ処刑される事例が相次いでいた。こうした状況であったにも関わらず、重長は幸村の思いに応え、彼の遺児をすべて受け入れ、自らの領地である白石領内で養育したのである。娘たちは白石城内で育てられ、最初に重長の下に送り届けられた阿梅は重長の先妻の死去後、後妻として迎え入れられたのである。幸村の次男大八は片倉久米介と名を変え、幕府の目を避けるためか白石城外で育てられ、元服後は片倉四郎兵衛守信と名乗った。

重長、政宗の心の内は
 これだけの重大事、重長と父景綱だけの一存で決められることではない。当然、主君である政宗の許可があってのことだったに違いない。「大八は京都で7歳で死去した」という根拠不明の情報が流布したり、守信が幸村の従兄弟の政信(架空の人物)の息子であるという系図が作られたりしたのは、すべて政宗らによるカモフラージュ工作であったと考えられる。

 守信はその後、刈田郡の矢附村と曲竹村などを知行地として与えられた。これらは現在の蔵王町内の地域である。先ほど挙げた「仙台真田ちゃんばら合戦」の会場はまさにかつて守信の知行地だったところなのである。

 守信は一度真田姓を名乗ったが、どうも幕府からその素性を疑われたらしく、すぐまた片倉姓に改めた。後にその子辰信が再度真田姓を名乗った。大坂夏の陣で幸村が命を落としてから実に97年後のことである。白石領内の真田氏は、幸村の兄で徳川方についた信幸の真田氏と区別するために仙台真田氏と称され、そこから今に至るまで幸村の血脈を伝えている。

 重長、景綱、そして政宗がなぜ、発覚した場合の危険を冒してまで幸村の遺児を受け入れたのか、その理由については分かっていない。重長にしてみれば、名立たる武将である幸村が敵である自分を見込んで子どもたちを託したというその思いに応えたかったのかもしれない。政宗もまた名将幸村の血脈が途絶えるのを惜しんだのかもしれない。さらには、家康の強引とも言える大坂夏の陣のやり方に対する反発や豊臣方の諸将に対する同情心のようなものがあったのかもしれない。そしてまた、すべて家康の意向に唯々諾々と従ってなるものかという反骨心もあったかもしれない。

 そもそも、こういった話が今に伝わっているそのこと自体、政宗らのそうした心の内を表しているように思うのである。もし幕府を恐れて、絶対に事が露見しないようにするのであれば、幸村とその遺児との関わりに関する情報は徹底的に隠蔽し、関係者には箝口令を敷き、文書などが残っていれば破棄するなどして、証拠を隠滅するはずである。

 そうではなくして、一連の経緯がこうして実に事細かに今に伝わっているのは、重長や政宗らが、もちろん尻尾を掴まれないように気を付けながらも、自分たちの行ったことをその正当性と共に、半ば堂々と次の世代に伝え続けてきた結果だと考えられるのである。

敗れた者を受け入れる地・東北
 考えてみれば、東北の地は古くから、戦いに敗れた者が逃れてくる地でもあった。神代に長脛彦の兄、安日彦が津軽に逃れてきたという伝承に始まり、聖徳太子の時代には蘇我氏に敗れた物部氏が秋田に逃れ、源平合戦で敗れた平貞能が逃れてきたところに定義如来ができ、源義経が奥州藤原氏を頼って平泉に逃れ、その奥州藤原氏自体も東北に土着した理由は関東で起こして敗れた乱の戦後処理であった可能性が指摘されてもいる。また、義経にとって宿敵的な存在だった梶原景時の兄影實も、景時が討たれた後、今の宮城県気仙沼市に逃れてきている。

 戦いに敗れた者が東北に落ち延びてくるのは、もちろん当時の政治の中心から遠く離れた地であったということが大きいが、それに加えて、落ち延びてきた者を受け入れる土壌が東北には元々あったのではないかとも思う。そもそも東北自体、住人が蝦夷と蔑まれ、度々征討の対象となってきた地である。この地に住む者には、敗れた者に対する共感や同情心があったのではないかと思うのである。

一層盛り上がる来年に期待
 …というようなことを頭に入れながら来年の「真田丸」を見るとより楽しめるかもしれない。今回紹介した重長と幸村、そして阿梅を巡る逸話がドラマの中にも登場するのかどうか、登場するとしたらどのように描かれるのかも興味あるところである。

 白石市では重長と幸村が激突した「道明寺の戦い」と阿梅が重長の元へ送り届けられる模様を再現した「鬼小十郎まつり」を7年前から毎年10月に開催している。蔵王町でも、「真田の郷PROJECT」を5年前に立ち上げ、仙台真田氏をテーマとしたPR活動やイベント開催などに努めてきた。白石市や蔵王町ではきっと、来年は真田氏関連のイベントがより盛大に行われるに違いない。それもまた楽しみである。

 そうそう、蔵王町の「真田の郷・蔵王町PR活動公式ホームページ」では、イラストと平易な文章でこれらのエピソードを紹介した「仙台真田物語」がダウンロードできる。16頁の「フルバージョン」だけではなく、7頁の「ダイジェスト版」まで作る力の入れようである。史実でないところはその旨注釈が入るなど、丁寧である。真田氏の「本家」、上田市でも、同様の「信州上田真田氏物語」を作成し、冊子として販売している他、Kindle版が100円で購入できる。こちらはオールカラーでやはり力が入っている。来年の大河ドラマの「予習」にちょうどよいかもしれない。


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2014年02月17日

私的東北論その52〜東北古代中世史研究の巨星・高橋富雄氏を偲ぶ(「東北復興」紙への寄稿原稿)

tohokufukko19 「東北復興」の第19号が12月16日に発行された。この号では、昨年10月に亡くなった東北史研究者の高橋富雄氏について書かせていただいた。

 その時その時の歴史を中央からの視点で捉える、いわゆる「中央史観」の呪縛から、東北の歴史が解放されたのは、ひとえに氏の生涯に亘る東北史研究の最大の成果と言ってよいと思う。

 本文中でも紹介している「甦るみちのく中央」について、氏は、「一方には『木を見て森を見ない』ような『お国自慢』にとどまっていることのないように自戒するとともに、他方では、万事我が物顔に振舞う『お仕着せ中央史観』は綺麗さっぱり脱ぎ捨てて、『全く新しく日本を見直し考え直す 地方(じかた)日本学』を目ざすもの」と言っておられる。

 まさに地方史を考える際にこの視点をこそ中心に置くべきものであると思う。


東北古代中世史研究の巨星・高橋富雄氏を偲ぶ

生涯東北の歴史を追求した碩学
 高橋富雄氏が一〇月五日に亡くなった。九二歳の大往生であった。東北の古代中世史研究における、文字通り「巨星」と言うべき大きな存在であった。

 氏は一九二一年に岩手県北上市に生まれ、その後東北大学教養部で講師、助教授、教授を務め、その後盛岡大学学長、福島県立博物館館長を歴任した。およそ東北史の研究者の中で氏の影響を受けなかった人は皆無なのではないかとさえ思われる、それほどの存在感であった。

 驚くべきことに、氏は三年前まで岩手県一関市の市民有志と立ち上げた「みちのく中央総合博物館市民会議」の場で、何度も東北の歴史について講演を行っていた。三年前と言えば氏は実に八九歳。生涯現役で東北の歴史を追い続けた研究者だったのである。

 氏のその「みちのく中央総合博物館市民会議」における講演内容は、実にありがたいことにすべて、同会議のサイト「みちのく中央磐井歴史物語」(http://iwaigaku.com/)で読めるようになっている。これは本当に貴重な遺産である。

 ここで語られている内容は、文字通り氏のそれまでの東北に関する歴史研究の集大成と言うべきものである。そしてまた、氏のそうした講演内容を含む同会議での研究成果は「甦るみちのく中央」として、歴史春秋社から「高橋富雄東北学論集」の一冊として二〇〇九年に出版もされている。

「阿久利川事件」の発生地を同定
 ウィキペディアで氏のページを見てみるまで知らなかったのだが、氏は中世に東北を十二年の間戦乱に巻き込んだ「前九年の役」の発端となった、いわゆる「阿久利川事件」の発生地が宮城県栗原市志波姫の迫川流域であることを突き止めたとのことである。

 東北人にとって、この阿久利川事件は重大な事件である。東北を支配下に置こうと陸奥守として下向してきた源頼義に対し、当時岩手県の北上川流域の「奥六郡」を勢力下に置いていた蝦夷の安倍頼時はとことん恭順を貫いて合戦を回避する。ところが、源頼義が陸奥守の任期切れで帰京する日を翌日に控えた夜に、頼義の郎従の宿営が何者かに襲われた。頼義はこれを安倍頼時の息子の貞任の仕業だとして、貞任の首を差し出すよう頼時に要求したが頼時はこれを拒否。このことがきっかけで前九年の役が勃発するのである。

 その時の頼時の言葉が残っている。「人倫世に在るは、皆妻子のためなり。貞任愚かといえども、父子の愛、棄忘すること能はず。一旦、誅に伏さば、吾何をか忍ばんや。関を閉ざし、来攻を甘んじて聴かざるにしかず。況や吾が衆もまた、これを拒み戦うに足りず。未だ以て憂いと為さず。たとえ戦さ、利あらずとも、吾が儕死また可ならずやと」(陸奥話記)。

 「人の道が世にあるのは、すべて妻子のためである。たとえ貞任が愚かだとしても、父子の愛を捨て忘れることなどできない。ひとたび貞任が誅されてしまったら、私に(それ以上〉何を忍べというのか。(衣川の)関を閉ざし、(頼義が)攻め来るのを甘んじて(受け)、(その言い分など)聴くべきではない。私の同胞たちもまた、(頼義の要求を)拒み、戦うことに躊躇する者などいない。たとえ戦況が不利となって私や皆が死ぬことになっても、それは致し方ないことだ」。そのような意味である。

 この阿久利川事件が、実は源頼義が仕組んだ自作自演、でっちあげであったことは歴史家の間ではほぼ既定の事実とされている。源頼義の宿営を頼義が東北を離れる前日に襲うことのメリットなど安倍側には考えられない一方、頼義側にすれば襲われたことを大義名分にして任期切れでも帰京せずに済み、安倍氏相手に合戦を始めるきっかけを得られるというメリットがあるからである。

 結局のところ、前九年の役は、東北をどうしても支配下に置きたいという源頼義の私利私欲がもたらした、東北に住む者にとっては甚だ迷惑この上ない合戦であったわけだが、その発端となったこの阿久利川の場所が、長らく不明であった。高橋氏は地道な文献研究とフィールドワークとでその地を同定したのである。

平泉の文化遺産の持つ意味
 先ほど、「みちのく中央総合博物館市民会議」での氏の講演内容を、氏の「集大成」と表現したが、実はそれだけではない。氏は「新説」も披瀝していた。例えば、一関市東山町にある「二十五菩薩像」についてである。この「二十五菩薩像」、どれ一つとして完全なものがなく、またこの地に洪水が起きた際に流れ着いたという伝承は残っているものの、その成立の過程も謎に包まれていた。

 氏は「みちのく中央総合博物館市民会議」主催の講演の中で、この「二十五菩薩像」について、「平重盛を弔うために制作され、この地に安置された」と主張した。そして、その観点から二十五菩薩像ができた経緯やそれがことごとく破壊された理由を解説しているが、なるほど説得力のある説だと思った。

 このように、氏は東北の歴史に対して、終生変わらぬ興味と情熱と探究心とを持ち続けておられた。そして氏の研究は、東北の歴史を日本史の中にどのように位置づけるべきか、東北に住む者がそれをどのように理解すべきか、についての方向性を明確に示してくれたと私は考えている。

 世界遺産となった平泉の文化遺産。それらの価値、そしてそれらを築き上げた奥州藤原氏の時代をどう解釈すべきか。それを考えるのに最適な書はあまたある平泉関連の書の中でも、氏の「平泉の世紀―古代と中世の間」(教養文庫)であると思う。

 平泉の百年を通じて、東北とは何か、その東北にあって平泉の持つ意味は何なのか、実に明確な主張として伝わってくる。この書籍を読んでから平泉を訪れ、中尊寺や毛越寺を見ればきっと、より多くのものが観えてくるに違いない。

 本書の中には、平泉とは何だったのかについての氏の解答が様々な角度から示されているが、平泉が築き上げた文化について氏は、

「平泉では、三代そろってみずからを『東夷』『俘囚』と遜称したのに、『みやこ』はこの人たちを、公然と『夷狄』『戎狄』『えびす』と賎称した。にもかかわらず、その平泉は『みやこの文化』を『みやこさながら』に受け入れた。そして『みやこ』同等もしくはそれ以上の『みやこ』文化に再創造した。今日、金色堂以上に京都的・貴族的な総合日本文化はない。毛越寺浄土庭園以上に王朝の風雅を今にとどめる庭園遺構はないのである」

と指摘している。加えてもう一つ、政治的には、

「平泉にも『一天の君と雖も恐るべからず」の覚悟はできていた。…(中略)…ただし、それは『みちのく』を否定する政治に対する、いやイデオロギーに対する民族自決の主張である。国府や鎮守府や朝廷が一方的な主張に出ない限り、平泉は、自分だけが日本であるという主張はまったくしなかった。はっきり、『もう一つの名誉ある日本の創造』という自覚に立っていた。それ以上でも、それ以下でもなかった。それはこれまでかつて『人格』であることを認められなかった『エゾの国』『縄文の国』に、人格としての独立を克ち取り、それに実あらしめる系統的な政治の主張だったのである」

と強調している。

 本書を読むと、奥州藤原氏は高橋富雄氏という、自分たちの主義主張を余すところなく伝えてくれるスポークスマンを持った、そのようにすら思える。

東北の「今」へと続くその目線
 なおかつ氏は、決して歴史という「過去」だけに目を向けていたのではない。歴史研究を通して得られた知見は、東北の今へと続いていた。先述の「みちのく中央総合博物館市民会議」の学習講座「武家政権としての平泉政権」で、氏は平家や源氏が中央で国家政治を牛耳った武門だったのに対して「平泉」が東北という限られた地方の「田舎の政権」だったということで二流にも三流にも格を下げて評価するというのがこれまでの常識だったことを挙げて、以下のように述べておられる。

「私はこういう歴史常識を全面的に切り替えるような『歴史学の構造改革』がなされねば、日本は変わっていかないと考えているのです。そしてそういうことを、こちらから発信するには、皆さん方のように私と同じく、東北という地に生まれ育ち、そしてその東北で仕事をしているみんなが、そういう東北そのものに自信を持つような学問をしっかり身につけるということ、これがまず第一です。次にそれが、他人にじゅうぶん通用して、そういう考え方に納得までにしていただける、そういったところまでこの勉強を詰めていくことが大切でないかと、そう思っているんです」。

 そして、「地方の時代」を考える際に、東京など中央の大都市圏の人たちが恩恵に与ってきたものの「おすそ分け」をもらうという考え方を根本的に改めて、「ヤマトとか京都とか東京とか、そういうところで考えられていた日本ではなく、これまでそういう大都市、ミヤコにならないでいた地方というものがもつ独自の意義や価値を再評価していくことで、新しくこれを、中央、東京とか京都とか奈良などと五分と五分に並べ、最終的にはこういう新しく発見された、まだ眠っていた日本の呼び覚まし、イノチの吹きかえし、具体的なかたちづくりとなっていくことで、そこから新しい日本づくりの指導原理が創りなおされていく」ことが「地方の時代」なのだと喝破されている。

 その上で、「一世紀、百年の長きに亘って『地方の時代』というものを、実績をもって代表した歴史」である「平泉」こそが歴史の中で「地方の時代」というものを、きっちり考えることのできる具体的な代表例であると強調しておられる。氏の東北に対する汲めども尽きぬ思いがここにはある。氏のこの思いにこそ我々が学ぶべき本質がある。

 唯一残念だったのは、氏がご存命の間に直接お会いしてお話をお聞きすることができなかったということである。是非一度お会いしたいとは常々思っていたが、日常の些事に追われて結局そのための行動を起こさずじまいだった。「思い立ったが吉日」と言うが、まさに思い立った時が「機が動く」時なのだと今更ながら実感した。今はただご冥福をお祈りすると共に、氏が残してくれたものを私なりに紐解きながら、いささかなりとも受け継いでいければと強く思う。

 そうそう、氏は三年前、蔵書およそ五〇〇〇冊を、平安時代の高僧徳一の研究で交流のあった福島県いわき市の長谷寺に寄贈したのだそうである。寄贈された蔵書は同寺の倉庫を改修した「高橋富雄博士記念文庫」に収蔵されているとのことで、ぜひとも一度足を運んでみたいものである。


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2013年09月27日

東北の歴史のミステリーその30〜なぜ会津は「仏都」になりえたのか

 大河ドラマで会津を舞台とした「八重の桜」が放映されている。その中では、明治維新前後に会津を襲った悲劇が克明に描かれているが、そうしたあまりに過酷な体験を経た後でも、会津は実に会津である。会津を訪れると、街の中の至る所で、東北の他のどこの地域にも似ていない、会津の佇まいを感じることができる。そしてそれは、会津の人たちがその地にそれまで受け継がれてきたものをいかに大切にしているかの現れであると言える。

 この会津らしさ、一般的にはまさにその明治維新の折に浮き彫りになった、江戸時代を通して受け継がれてきた会津藩の気風によるものと思われている。ところがどうもそうした会津の独自性は、実はもっと古くからあったもののように見える。そのことを特に平安時代の会津に焦点を当てて考えてみたい。

 東北で「仏都」と呼ぶのにふさわしい地域として岩手の平泉、並びにその周辺の北上川流域を挙げることに反対する人はほとんどいないと思われる。では、それに次ぐ地域はどこかと東北全域を見ていくと、会津はその最有力候補であることが分かる。東は猪苗代町から西は会津坂下町まで、国宝、重要文化財の仏像が今も多く残っている。JR東日本も、そうした「仏都」としての会津を前面に出した観光パンフレットを作成したりしている。

 どうして、平泉から遠く離れた会津が、このように平泉に次ぐ仏教が興隆した地域となりえたのだろうか、というのが私の最初の疑問だった。位置関係から考えて、奥州藤原氏の影響とはなかなか考えにくい。もし平泉から遠く離れた会津が、平泉の影響で多数の寺院が作られたというのなら、会津よりももっと平泉に近い地域にはさらに多くの寺院があってしかるべきである。奥州藤原氏の影響でないとすれば、その規模から考えて、奥州藤原氏に匹敵する実力者が会津にいたのだろうか、とも考えたが、そのような話は聞いたことがない。では、これらの貴重な仏像を有する寺院が多く集まる会津の成り立ちをどう考えたらよいのだろうか。

130908-100921 磐梯町に日寺跡という国指定の史跡がある。発掘調査の成果を踏まえて最近、中門と金堂が相次いで復元されて話題を呼んだ。今も休日や観光シーズンには多くの人が訪れている。この慧日寺、かつては会津地域一帯に大きな影響力を持った寺院であったらしい。元は平安時代初め、徳一の開基と伝えられる。徳一は法相宗の僧侶で、最澄や空海と仏教の教義を巡って論争を展開したことで知られる。ちなみに、徳一開基と伝えられる寺院は、北関東から福島、山形南部まで広く分布している。

 慧日寺はそうした徳一開基と伝えられる寺院の中でも特に規模が大きかったようで、東国の拠点寺院として、最盛期には寺僧300、僧兵数千、寺領18万石、子院3,800を数えたと伝えられる。慧日寺は会津一帯に広大な寺領を持ち、その勢力は極めて大きかった。この慧日寺の勢力下で、会津地域には多くの寺院が次々に建立されたようである。

 この時代の会津の「独立性」を物語る出来事があった。前九年の役と後三年の役の間の1080年、陸奥国司から朝廷に対してある提案がなされた。提案の内容は、会津は国司による監督が困難なので、陸奥国から切り離して別の国として独立させるべし、という驚くべきものであった。この提案は却下されたが、当時の会津を取り巻く状況が窺えるエピソードである。地方の豪族はおろか、国司さえも会津には介入できずにいたのである。後三年の役を経て奥州藤原氏が陸奥出羽二国の実権を掌握したと言っても、そのような会津に容易に影響力が及ぶとは考えられない状況だったわけである。会津は慧日寺の影響力の下、いわば外部からの干渉を受けない、半ば独立した地域だったのである。

 こうした会津の慧日寺勢力と連携した豪族もいた。越後に威勢を振るった城氏である(城氏については以前ここで触れた)。越後の阿賀野川流域にある荘園が城氏によって慧日寺領として寄進されたという記録もあり、また会津坂下町にある陣が峯城跡は城氏一族の居館だったと伝えられる。両者の関係は奥州藤原氏との関係とは比べ物にならないくらい緊密であったようである。

 源平合戦の最中の1181年、城長茂は平氏の命により木曽義仲追討の兵を挙げる。この時、城氏と連携していた慧日寺の浄丹坊(乗湛坊とも)は慧日寺の影響下にあった会津の4つの郡の兵3,000を率いて城氏に合流した。そして、城長茂と共に信濃の横田河原で木曽義仲と合戦した。しかし結局、城長茂は敗れ、浄丹坊は討死したとの記録が残っている。周知の通り、藤原秀衡は平氏からの要請を黙殺し、源氏追討の兵を挙げていない。こうしたことから見ても、奥州藤原氏の影響力は会津地域には及んでいなかったことが分かる。

 その後の会津を巡る動きが実に興味深い。木曽義仲に敗れた城氏は衰退して会津への影響力は低下し、慧日寺勢力も壊滅的な打撃を受けた。城長茂は本拠の越後を離れ、慧日寺の勢力下にある「会津の城」(先述の陣が峯城とも言われるが不明)に逃れようとした。ところが、そこに藤原秀衡は、郎従を遣わして城長茂一党を再び越後へと追い払い、会津を押領した、との記録が残っているのである。詳細は不明だが、城氏と秀衡の郎従との間で武力衝突もあったかもしれない。この記録から見ても、奥州藤原氏の影響力が会津にまで及ぶようになったのは、奥州藤原氏三代秀衡の時代の、それもかなり後の方であったことが窺える。これによって奥州藤原氏はようやく今の東北地方のほぼ全域に勢力を及ぼせることになったわけだが、もし慧日寺勢力が木曽義仲に敗れることがなかったとしたら、秀衡も会津には手を出せず、会津の「独立」はそのまま保たれたのではないかとも思われるのである。

 それにしてもつくづく、この会津の占める位置の重要性を思わずにはいられない。今でこそ会津は、東北新幹線、東北本線、東北自動車道といった東北と首都圏とを結ぶ幹線から外れた地域だが、それも言ってみれば明治以降の政策によるもので、古代から近世に至るまで、会津は交通の要衝の地であった。そもそも会津という地名の起こりが、崇神天皇の時代に諸国平定の任務を終えた四道将軍大毘古命と建沼河別命の親子が、この地で合流したことに由来すると言うが、これは「待ち合わせ」に好都合の場所だったからこその伝承であろう。

 慧日寺のある磐梯町とその隣にある猪苗代町にまたがる縄文時代の法正尻遺跡からは、東北南部を代表する大木式土器、それに関東地方の阿玉台式土器や東北地方北部の円筒土器と共通する土器、新潟に分布する馬高式土器に似た土器が出土しており、会津地域とその周辺の様々な地域との間に交流があったことが窺える。また、時代は下るが伊達政宗がこの地を領土としていた蘆名氏を破って会津を領土としたばかりか本拠を会津に移したこと、それ以後も蒲生氏郷、上杉景勝、加藤嘉明といった並み居る武将が入封し、最終的に会津松平家がこの地を治めたことも、会津の地政学的な重要性を物語っている。藤原秀衡による城氏駆逐の動きもこれらと同様の意味合いを持っていると言えるのではないだろうか。

 さて、その後の慧日寺である。源平合戦期の敗戦でその勢力は一時衰退するが、その後文治五年奥州合戦を経てこの地を治めることになった領主の庇護を受けるなどして伽藍の復興も進んだようである。しかし、1418年に金堂、僧坊などがことごとく焼亡、その後復興されたものの、先述の伊達政宗と蘆名氏の1589年の合戦の際の戦火で、再建された金堂を残して伽藍が全て焼失、その金堂も1626年に焼失したという。江戸時代に入り会津松平氏の保護を受けて再建されたが、かつての規模にはほど遠かったようである。結局会津は敗れて明治の世となり、慧日寺も1868年に発令された神仏分離令によって廃寺となった。そして、1872年の火災で再度金堂が焼失してしまった。その後、地元の復興運動が聞き入れられ、1904年に慧日寺は「恵日寺」として復興された。慧日寺跡に近い地に現在も恵日寺は存在している。こうして見てくるとこの慧日寺、会津の盛衰を物語る貴重な「生き証人」と言えるかもしれない。

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2012年09月12日

東北の歴史のミステリーその29〜骨寺村は平泉の「浄土」の原型か

120825-121645 新聞報道によると、世界遺産に登録された「平泉の文化遺産」への追加登録を目指す5つの遺産が、日本がユネスコの世界遺産委員会に提出する登録候補一覧表、いわゆる「暫定リスト」に記載されることが決まったという。その後、推薦書を作成・提出して世界遺産委員会の判断を待つ、という手順を踏むことになるらしい(岩手日報記事毎日新聞記事)。

 今回追加登録を目指す5つの遺産とは、前回平泉の文化遺産が世界遺産に登録された際に除外された柳之御所遺跡達谷窟(たっこくのいわや)、白鳥舘遺跡長者ヶ原廃寺跡骨寺村(ほねでらむら)荘園遺跡である。これらが除外された経緯については以前触れたが、要は「仏国土(浄土)を表す建築・庭園および考古学的遺跡群」としての関連が薄いと見なされたということである。すなわち、これらの遺跡は今回の登録で最も重要な要素である「浄土」を表すものとは解釈されなかったということである。

 その時も書いたが、これら5つの遺産全部が「浄土」という観点から追加登録されるのは現実的には難しい、と私は考えている。日本側の関係者は、仏教徒でないイコモス(ユネスコの諮問機関)の委員に「浄土」を理解してもらうのは難しいということを口にするが、中尊寺、毛越寺、観自在王院跡、無量光院跡、金鶏山が世界遺産に登録されたという事実を見る限り、イコモスの委員はかなり的確に「浄土」というものを表す文化遺産を捉えてくれている、と言える。認められた5つは誰が見ても浄土との関わりが明らかである。

 これに対して、追加登録を目指す5つの遺産は必ずしもそうではない。と言うか、遺産によって「浄土」との関わりには濃淡があるように見える。柳之御所遺跡は奥州藤原氏の居館だったとされるが、現段階では少なくとも「浄土」との関わりが密接とは言えない。もっと厳しいのは白鳥舘遺跡で、安倍一族の白鳥八郎則任の居館跡がなぜ構成遺産となるのか、私にもよく分からない。白鳥舘遺跡が構成遺産に含まれていたのは、登録延期となった「平泉−浄土思想を基調とする文化的景観−」の段階だが、その白鳥舘遺跡の箇所を読んでも浄土との関わりがやはり分からない。

 一方、達谷窟は発掘調査の結果、かつて浄土庭園があったことが判明しているのだが、肝心の平泉の文化遺産を遺した奥州藤原氏との関連が弱い。一説には奥州藤原氏初代清衡と二代基衡が七堂伽藍を建立した、とも言われるが、その面からの関連性をさらに追求する必要があるのではないだろうか。長者ヶ原廃寺跡に関しては以前も触れたが、浄土庭園はないものの、ここから見える夕陽は春と秋の2回、初代清衡が造営した中尊寺の「奥の院」と伝えられる霊峰月山の山頂に沈むことが分かっている。この意匠が後の、三代秀衡が建立した、やはり春と秋の2回金鶏山に沈む夕陽が見られる無量光院にも引き継がれたとも考えられるので、その面からの関連を追求するのがよいのではないだろうか。

 さて、残る一つが骨寺村荘園遺跡である。これは平泉の中心部から西に約12劼里箸海蹐琉豐愡塰椹地区にある中世の荘園の遺跡である(上写真参照)。中尊寺の経蔵別当の領地であり、中尊寺に残る絵図や文書によって確認できる中世の荘園が、現在もその形を留めているという遺跡で、国内でも貴重なものだそうである。現在国宝となっている、紺の紙に一行毎に金字と銀字で書き分けながら全ての仏典を書写した「紺紙金銀字交書一切経」は、奥州藤原氏初代の清衡が発願し、自在房蓮光という僧が統括し、8年の歳月を掛けて完成させたものだが、その功績によって蓮光は清衡によって中尊寺の経蔵別当に任ぜられ、骨寺村を知行したということである。

 現在史跡に指定されている山王窟(さんのうのいわや)、白山社、伝ミタケ堂跡、若神子社(わかみこしゃ)、不動窟(ふどうのいわや)、慈恵塚(じえづか)、大師堂などは、いずれも中世の絵図にもその位置と名称が描かれており、その遺跡としての価値に疑いはない。ただし、やはり今回のこの世界遺産に登録された平泉の文化遺産との関わりについては、もちろん中尊寺との関係は密接であるものの、肝心の「浄土」との関わりについてはそれほど深くないのではないか、そう考えていた。

 しかし今回、実際に現地を訪れ、地元のガイドの方にお話をお聞きしたところ、立派に(?)浄土との関連がありそうだということが分かった。関連があるどころか、むしろ浄土の原型はこちらだったのではないか、という印象すら持った。以下にそうした骨寺村荘園遺跡の特徴を紹介してみたい。

konoatari この骨寺村、つまり現在の本寺地区のある地域の地形だが、南に磐井川、北に本寺川が流れ、周囲を山に囲まれた平地である。この本寺地区の西方には平泉野(へいせんの)という頂上付近が平らになった小高い台地状の地形がある(左写真の赤字の辺り)。まずこの地名だが、いつ頃からそのように呼ばれていたのかは不明だが、「平泉」の文字が使われており、嫌でも平泉との関連を類推せざるを得ない。そして、江戸時代の安永年間に書かれた「風土記御用書出(ふどきごようかきだし)」という書物には、当時の地元の古老から聞いた話として、なんと、この平泉野には平泉の中尊寺と毛越寺の前身となる寺院があった、という内容の記述があるというのである。

 そこでなるほど、と思ったのは、これら中尊寺と毛越寺の由来についてである。中尊寺の寺伝では、中尊寺は嘉祥三年(850年)に慈覚大師円仁が開山したとされているのだが、一方で中尊寺は藤原清衡が平泉を本拠と定める際に最初に建立した寺として知られているのである。また、毛越寺も中尊寺と同じ年にやはり円仁が開山したと伝えられているが、実際には藤原基衡及びその子秀衡が建立している。現代の発掘調査などの結果からは円仁の開山は裏付けられてはおらず(すなわち平安時代前期の遺構が出土していない)、この、中尊寺や毛越寺に関する、寺伝と吾妻鏡などに残る開基の記録との間の相違をどう解釈するべきか、というのが私の中ではちょっとした疑問だったのである。実際、円仁開山の記録を単なる伝承と捉える見方も少なからず存在していたのである。

 この点に関して、この骨寺村に残る伝承の通りに、中尊寺や毛越寺が元は平泉ではない別のところに円仁が開山した寺院として存在して、それを清衡や基衡が移転させて平泉の地に新たに大伽藍を建立した、と仮定すれば、円仁開山と奥州藤原氏開基の間の齟齬はなくなる。すなわち、現在の場所の発掘調査をして円仁開山の証拠が出てこないとしても、それは元々別の場所にあったのであるから当然のことである。

 ちなみに、この「骨寺村」というちょっとインパクトのある地名の由来だが、慈恵塚に名を残す慈恵大師良源の遺骨が祀られてあるから(発掘調査の結果から慈恵塚からは遺骨は発見されなかったそうであるが)とか、合戦で命を落とした兵の遺骨を埋めた地であるからといった説がある。この「骨寺」がその後「本寺」に変わったのだが、この「本寺」の意味は先に紹介した、中尊寺や毛越寺の元となった寺があったことに由来する、との説もあるのである。

 他に、江戸時代の紀行家菅江真澄も、平泉野について、「大日山中尊寺」の跡があると記している他、このあたりにあった寺院を鳥羽院の治世の頃に関山に遷したということで、そちらも平泉の里になったと記している。この記載からは、現在関山中尊寺として知られる中尊寺は、平泉野にあった頃は大日山中尊寺と号されていたこと、その後移転されたのは鳥羽院の頃だということがわかるが、この移転の時期は以前紹介した有名な中尊寺建立供養願文に残る年代と一致している。

 もう一つ重要な点がある。骨寺村からは西方に中世の頃から霊峰として知られる栗駒山を望めるが、なんと、春と秋の彼岸の中日、骨寺村からは栗駒山の山頂に沈む夕陽が見られるのだそうである。これには長者ヶ原廃寺跡、無量光院跡と同様、この地の浄土との関わりを感じずにはいられない。

 これまで見てきたように、骨寺村は中世の荘園の様子が今も残る貴重な遺跡であるが、決してそれだけではない。「浄土」をキーワードとして平泉の文化遺産との関わりがあると考えられるのである。骨寺村に関しても、荘園遺跡ということよりも、こうした「浄土」との関連から追加登録を目指すのがよいのではないかと思うのである。そのためには平泉野における発掘調査が鍵となる。現在までのところ、まだ平泉野から平泉前史を窺わせる出土はないようであるが、今後に期待したいところである。


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2012年05月30日

東北の歴史のミステリーその28〜高衡の足跡を追う

111007-165831 文治五年奥州合戦において、高衡は、兄の泰衡が9月3日に河田次郎に殺害された後、頼朝の陣に投降する。9月18日のことであったという。高衡の投降を以て、奥州藤原氏の残党はことごとく捕虜となったこととなった、と同日の吾妻鏡には記されている。いわば高衡の投降は、文治五年奥州合戦に終止符を打つものであったわけである。8月7日に阿津賀志山で両軍の合戦が始まってから投降するに至るまでの高衡の足取りについては、鎌倉幕府の公文書である「吾妻鏡」には記載がないが、仙台市の近辺に伝承としては残っている。

 仙台市の南隣、宮城県名取市に高舘山(たかだてやま)という標高204mの山がある。「高舘」という名前から義経のことを連想させ、実際義経がこの山に逃れていたという伝承もあるが、奥州藤原氏に関する伝承の方が地元ではよく知られている。伝承によれば、奥州藤原氏三代の秀衡はこの高舘山に城を築いたという。高舘城と呼ばれるこの城の遺構は今も確認され、東西400m、南北500mに亘って空堀や土塁、郭などの跡が見られる。一帯のうち、南に張り出した一角は今も「秀衡が崎」という名で呼ばれている。

 江戸時代の文化8年(1811年)に成立した「嚢塵埃捨録」には、文治五年奥州合戦の折、本吉四郎高衡と日詰五郎頼衡、名取別当の金剛坊秀綱が高舘城に籠り、2万の兵で鎌倉軍を迎え撃ったとある。高衡と共に高舘城に籠ったとされる日詰五郎頼衡という人物については、日詰五郎という名前からは以前紹介した五郎沼の名前の由来とされる樋爪五郎季衡を連想させるが、頼衡という名前は秀衡の六男の名前でもある。しかし、前回も紹介したように「尊卑分脈」によれば頼衡は文治五年奥州合戦の前に泰衡によって討たれたことになっているので、高舘城に籠った人物はその頼衡ではなく、日詰という姓が冠せられていることから、樋爪一族の誰かであったと考えられる。また、名取別当の金剛坊秀綱については、阿津賀志山の戦いの時に国衡と共に鎌倉軍を迎え撃った金剛別当秀綱と同一人物と思われるが、吾妻鏡によれば金剛別当秀綱は阿津賀志山の戦いで討ち取られたことになっている。

 ただ、吾妻鏡の記述には混乱も見られ、やはり討ち取られたことになっている佐藤庄司基治が、合戦後赦免されたとの記述もある。基治については、吾妻鏡以外の書物でも「信達一統誌」では生け捕りの後赦免され、後に大鳥城で卒去したとあり、「大木戸合戦記」にも捕虜となり、宇都宮の本陣に送られたとある一方、「観述聞老志」や「封内名蹟志」では文治五年奥州合戦で戦死したとあり、真相は不明である。従って、金剛別当秀綱についても、阿津賀志山で戦死せず、逃れて高衡の籠る高舘城に合流した可能性はあると言える。

111007-172243 ちなみに、この高舘山には熊野那智神社もある。名取市高舘地区には他に熊野新宮社と熊野本宮社があり、紀州同様、熊野三山が揃っている。文治五年奥州合戦の折、「泰衡一方後見」と記される熊野別当、そして名取郡司が捕縛され、後に放免されているが、この名取という地域、そして熊野神社も奥州藤原氏を支えた一勢力であったことが窺える。

 「平泉志」には、「本吉冠者隆衡は数箇所に奮戦し、平泉没落の際に俘虜となりて降を請ひければ(文治五年九月十八日)、鯆卿其武勇を愛惜せられて死を免し相模國に配流せらる」とある。高衡が相模国に配流となったことは吾妻鏡にも記載があるが、それ以外のことについては吾妻鏡にはない記載である。高衡が流罪で済んだのは以前にも書いたが、前九年の役を忠実になぞった頼朝の意図によるところが大きいと思うが、この「平泉志」の記載が事実であれば、高衡は文治五年奥州合戦で高舘城での戦いだけでなく何度か転戦し、しかも頼朝からその武勇を惜しまれるくらいの戦いぶりをしたということになる。

 相模国に配流された高衡のその後については吾妻鏡などにはしばらく記載がないが、文治五年奥州合戦から12年後に起こった建仁の乱(1201年)の際に突如その名前が登場する。

 頼朝の死後、梶原景時が鎌倉から追放され、その後一族共々討たれるという、世に言う「梶原景時の変」(1199年〜1200年)が起こる。梶原景時と言えば、源義経を讒訴して失脚に追い込んだとされ、またいずれ書こうと思っているが、文治五年奥州合戦で捕虜となった平泉方の由利八郎にも横柄な態度を取って由利八郎を激怒させるなど、とかくネガティブなイメージがつきまとう。義経好きだった子どもの頃の私にとっても、梶原景時はとにかく大悪人で、「景時が義経のことを讒言しさえしなければ義経と頼朝が仲違いすることもなかったのに」などと思っていたものである。しかし、今にして思えば吾妻鏡などに景時のことが悪く書かれているのは、何よりその後の「梶原景時の変」を正当化する意図もあっただろう。元々景時自身が平家方から源氏に寝返った経歴を持つからか、そうした世のイメージとは裏腹に、景時には敗者に対する寛大さも窺える。その証左は城氏に対する処遇である。

 建仁の乱は、梶原景時が討たれた1年後、城長茂ら城氏一族が幕府打倒を図って起こした乱である。城氏は越後を拠点としていた豪族で、遡れば平氏に連なる。城氏という名は秋田城介を務めた家柄であることに由来するという。源平合戦(治承・寿永の乱)の折、源氏への背後からの牽制のために藤原秀衡が陸奥守に任ぜられたが、同じ時に同じ理由で城資永が越後守に任ぜられている。城長茂はその資永の弟である。城長茂は、藤原秀衡がその後も平泉を動かずに「武装中立」を維持したのとは対照的に、急死した兄の跡を継いで平家方として源氏の木曾義仲と戦ったがあえなく敗れた。平家滅亡後は囚人となったが、文治五年奥州合戦では頼朝に従い、それを契機に御家人に列せられた。

 この城長茂を頼朝に仲介して取りなしたのが梶原景時であったのである。文治五年(1189年)の7月19日、まさに頼朝が奥州藤原氏征伐に出発する日のことである。吾妻鏡によれば景時が頼朝に「城四郎長茂は無双の勇士です。今は囚人となってはいますが、このような時にこそ連れて行くべきでしょう」と進言して、頼朝の同意を得ている。それを長茂に伝えたところ、長茂は大いに喜んで頼朝に付き従ったという。頼朝は、長茂が囚人で旗印がないのではないかと考えて自分の旗印を貸与しようと伝えるが、長茂は自分の旗印があるからとこれを断り、そばにいた家臣に「この旗を見て、散り散りになっている私の家臣達がきっと集まってくるだろう」と言ったという。城長茂にとって文治五年奥州合戦は城氏の再興を図るまたとない機会となったのである。

 従って、城長茂は景時に対して並々ならぬ恩義を感じていたに違いない。建仁の乱が景時が討たれて1年後に起こっていることから見ても、長茂が最初に襲撃したのが有力御家人を結集して「景時糾弾訴状」を作成した結城朝光の兄小山朝政の宿館であったことから見ても、この挙兵は景時の仇を討つという側面があったのではないかと考えられる。

 そして、この城氏が起こした建仁の乱に、なんと高衡も加わっているのである。城氏は、奥州藤原氏にとってはこの文治五年奥州合戦で敵対した間柄であるばかりか、これまたいずれ書くことがあるだろうが、秀衡の時代に会津を巡って戦ったこともある相手なのである。その両者が合力して幕府転覆を目指して挙兵するというのは俄には考えがたいことであるが、そこにはやはり梶原景時の存在があったのではないかと考えられる。すなわち、景時は、高衡に対しても城長茂同様に、配流された後の赦免を取りなしたりするなど目をかけていたのではないだろうか。そう考える理由は後述する。

 高衡は城長茂らと共に京に上った。長茂と高衡は当時の土御門天皇に幕府追討の宣旨を求めるが得られず、逆に後鳥羽上皇からは長茂追討の宣旨が出されてしまう。長茂とその一族はやむなく吉野の奥に逃れたがそこで討たれた。高衡も、父秀衡と親交があったという藤原範季の館に逃れたが、その後討たれたという。ちなみに、この藤原範季という人物は、平清盛の姪の教子を妻としつつ、頼朝の弟範頼を養育し、陸奥守や鎮守府将軍(秀衡の次の鎮守府将軍である)として東北にも下向し、頼朝に追われる身となった義経を一時匿い、幼少の頃の後鳥羽天皇を養育したという、何とも興味深い経歴を持った人物である。高衡が討たれたことを聞いた範季は嘆息したという。一方、京で長茂や高衡が挙兵するのと時期を合わせて、越後でも城長茂の甥の資盛らが挙兵した。一時は有名な坂額御前の奮闘などで幕府軍に大きなダメージを与えるが、結局こちらも幕府軍に鎮圧された。

 余談だが、後鳥羽上皇はこの後に承久の乱を起こして失敗する。もし、この建仁の乱の時に長茂と高衡に追討の宣旨を出していたらどうなっていたか興味あるところである。京と越後での同時挙兵、城氏と奥州藤原氏という名族同士の連合、これに幕府追討の宣旨が加われば、あるいは承久の乱ではできなかった反幕府勢力の糾合に成功していたかもしれない。

 さて、梶原景時の一族は、「梶原景時の変」の折に実に33名も討ち取られたそうだが、実は逃れて生き延びた者もいる。梶原景時の兄影實(かげざね)もその一人だが、影實が逃れた先はなんと現在の宮城県気仙沼市であった。気仙沼市唐桑町に現在もある早馬神社(はやまじんじゃ)は、この影實が家の脇に社を建て、源頼朝、弟の景時、景時の子景季の冥福を祈り、菩提を弔うために創建した梶原神社が始まりと伝えられる。神社の創建は、景時が命を落としてから17年後の1217年のことという。

 その後、梶原神社は景時の三男である影茂の子、つまり景時の孫に当たる影永が、影實の養子となって神職を継いだ。影永は早馬大権現を勧請し、それが現在の早馬神社となったそうである。今も気仙沼市には梶原姓が数多く残る。それは逃れてきた梶原一族がこの地に安住できたことを示している。

 この気仙沼市唐桑町、前回紹介した、高衡の伝承が色濃く残る本吉郡に隣接し、本吉金を産出した本吉郡と同様に気仙金を産出し、奥州藤原氏の黄金文化を支えたと言われる気仙郡にあった。影實が逃れてきた当時はもちろん、既にこの地域に高衡はいなかったわけであるが、恐らく高衡にゆかりの人物がまだ数多く残っていたに違いない。景時の一族がこの地域に落ち延びてきたのも、そこに定住することができたのも、その高衡との縁があったためではないだろうか。そして、それは投降した高衡を、景時が厚遇したことの何よりの証ではないだろうか。記録としては残っていないが、私にはそのように考えられるのである。

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2012年05月28日

東北の歴史のミステリーその27〜高衡の足跡を追う

090608-161345 藤原高衡(隆衡とも書く)は奥州藤原氏三代秀衡の四男である。これまでも紹介したが、奥州藤原氏の最盛期を築いた秀衡には国衡(西木戸太郎)、泰衡(伊達次郎、泉冠者)、忠衡(泉三郎、泉冠者)、高衡(本吉冠者、本吉四郎)、通衡(出羽冠者、出羽五郎)、頼衡(錦戸太郎)の6人の息子がいたとされる。

 これらの息子の通称については資料によって混乱もあって詳細はよく分からないところがある。「尊卑分脈」では五男の通衡に「泉三郎」が冠せられて三男の忠衡は「泉冠者」となっているが、泰衡に「泉冠者」を冠している資料もある。五男に「三郎」は妙である。六男頼衡の「錦戸太郎」は読みが同じ国衡に冠せられている資料も多い。そもそもなぜ六男の頼衡が太郎と呼ばれているのかも不明である。

 なお、五男の通衡、六男の頼衡については「吾妻鏡」にもその名が見えず、資料に乏しい。通衡については、明治初期に著された「平泉志」には一説に「仙北五郎利衡」という名も見られることが指摘され、また「尊卑分脈」では出羽押領使であったとの記載があるが、吾妻鏡には泰衡が陸奥と出羽の押領使を継いだとあるから、通衡が出羽押領使であったとの記載が事実かどうか疑問である。ただ、出羽冠者、あるいは仙北五郎という称号から(仙北は秋田県南地域を指す)、出羽方面に何らかの関わりを持った人物であろうことは推測できる。

 頼衡については、「平泉志」では「頼衡あるは信ずるに足らず」とされ、秀衡の子息は5名とされているが、一方で岩手県紫波町の小屋敷地内には錦戸太郎頼衡の墓と伝えられる自然石の角柱がある。当地に伝わる話では、頼衡は父秀衡の死後、源義経に通じたことから兄泰衡との間に不和を生じた。身の危険を感じた頼衡はひそかに平泉を脱出して、北方に逃走したが、現在の紫波町と雫石町の境にある東根山(あずまねやま)の山麓で追手に捕えられて殺害されてしまったという。この時頼衡は16歳だったとされる。これをあわれんだ里人たちが現地に遺骸を葬って懇ろに供養し、その上に自然石を立てて墓印としたのが、今に伝えられる頼衡の墓だとのことである。また、以前も紹介したが、青森県の旧浪岡町(現在の青森市浪岡町)には、頼衡が兄泰衡と対立した後この地に逃れ、浪岡右京太夫と名乗ってこの地を支配、津軽浪岡氏の祖となったとの伝承が残っている。

 さて、知っての通り、奥州藤原氏は文治五年奥州合戦において滅亡してしまった。長男国衡は阿津賀志山の戦いで敗走する途中で討ち取られ、次男で家督を継いだ泰衡は平泉から比内(現在の秋田県大館市比内町)まで逃れたところで家臣の河田次郎の裏切りにあって殺された。三男の忠衡はこれより前、義経に与したとして泰衡に討たれた。六男の頼衡も「尊卑分脈」では忠衡同様に泰衡に討たれたとされる。五男の通衡は消息不明である。一方、高衡は文治五年奥州合戦の際に最終的に投降し、相模国に配流となったが合戦後も生き残った

 秀衡の息子たちがそれぞれ東北のどの地域を拠点としていたのかについては、高衡以外必ずしも明確ではない。ただ、長兄である国衡については、大日堂舞楽で知られる秋田県鹿角市の大日霊貴神社(おおひるめむちじんじゃ)に、秀衡が国衡を奉行として大日堂を修復・再建させたとの言い伝えが残っている他、以前紹介した泰衡の奥方を祀った西木戸神社の名前の由来が、一帯が西木戸太郎と呼ばれた国衡の采邑地であったためと説明されているところから見ても、現在の秋田県鹿角地域を基盤としていた可能性がある。実際、鹿角地方には尾去沢鉱山があり、秀衡の時代から金が産出していたとされるので、産金地域であるこの一帯を国衡が押さえていたということは十分考えられる話である。

 次男の泰衡については、伊達次郎と称していたということから、福島県北部の伊達地域との関わりも考えられる。伊達郡に隣接する信夫郡は奥州藤原氏と関連の深い佐藤氏が支配していた。佐藤氏は奥州藤原氏と同じ秀郷流藤原氏で、秀衡の頃の当主基治は秀衡のいとこの乙和子姫を妻にしていたとされ、また乙和子姫の娘は三男忠衡に嫁いだという。そのような奥州藤原氏と強固な関係を持った佐藤氏の支配地に隣接する伊達地域は、文治五年奥州合戦の折に泰衡が長大な防塁を築いた地域でもある。泰衡がこの地域を直接統治していたという証拠はないが、奥州藤原氏の影響力の強い地域だったことは窺える。

 三男の泉三郎忠衡については、宮城県塩竈市の鹽竈神社に、忠衡が寄進したとされる燈籠が現存している。「文治の燈籠」と呼ばれている鉄製の燈籠がそれである。松尾芭蕉が「奥の細道」に書き残したところによると、扉に「文治三年七月十日和泉三郎忠衡敬白」とあったそうである。忠衡がこの鹽竈神社のある地域と関連を持っていた可能性も考えられる。塩竈市は、古くは陸奥国府があった多賀城への荷揚げ港として栄えている。もし忠衡がこの地域と深い関わりを有していたのだとすれば、対国府の折衝などを担っていた可能性もある。

 ちなみに、この文治3年(1187年)という年は、奥州藤原氏にとって激動の年であった。まず2月に兄頼朝に追われた源義経を迎え入れた。その後4月には頼朝から秀衡に宛てて三万両という膨大な金の供出を求める書状が届いている。頼朝が平泉に対して圧力をかけ始めたことが見て取れる。秀衡はこの要求を拒絶している。また、この燈籠が寄進された後の9月には義経を匿っていることが知られ、頼朝の要請を受けた院庁からそれについての下文(くだしぶみ)が出されている。その翌10月にはなんと当の秀衡が病に倒れるのである。こうした刻々と変わる状況の中、忠衡はどのような思いでこの燈籠を寄進したのだろうか。

 五男の通衡については先述のように、出羽地域との関わりが考えられる。ただ、長兄の国衡が鹿角という一地域を押さえていたのだとすると、それに対して五男の通衡が出羽全域を押さえていたとは考えにくいことではある。六男の頼衡についてはまったく資料がない。紫波町に残っている伝承通り、文治五年の時点で16歳前後だったとすると、まだ特定の地域を基盤として持っていなかった可能性はある。

090608-161909 さて一方、四男の高衡については、本吉冠者あるいは本吉四郎と呼ばれている通り、ほぼ間違いなく宮城県の沿岸北部の本吉地域を基盤としていたことが伺える。実際、本吉地域には今も高衡に関する伝承があちこちに残っている。まず、本吉郡南三陸町志津川にある朝日館跡写真上)は、高衡の館跡とも伝えられている。朝日館跡の案内板には「藤原秀衡の四男本吉四郎高衡は本吉庄の荘園管理のため、ここ朝日館を根拠とした(1180年頃)と伝えられ(古城書上、封内風土記)、古来本吉金をはじめとする諸物産の重鎮となった所である」とある。志津川の南西に位置する標高372mの保呂羽山(ほろわさん)の山頂には保呂羽神社があるが、この神社には高衡が尊崇した旨の言い伝えがある。やはり南三陸町志津川にある大雄寺(だいおうじ、写真中)は高衡によって開基されたと伝えられている。また、荒沢神社には平泉の中尊寺で作成された紺紙金泥経の一巻が伝えられており、平泉との強いつながりを窺わせる。

 南三陸町と北隣の気仙沼市とにまたがる標高512mの田束山(たつがねさん、写真下)は古くから霊峰として知られ、三代秀衡が篤く信仰した山と伝えられる。安元年間(1175〜1177)に秀衡によって再興され、山上の羽黒山清水寺、山腹の田束山寂光寺、北嶺の幌羽山金峰寺などは七堂伽藍の壮麗な構えとなり、新たに七十余坊を設けたと言われる。この時代、山中には大小の48の寺院があり、坊は旧来のものと併せて100を越えたとされる。そして、秀衡は高衡に命じて山神祭礼を司らせたと言われる。山頂には平安時代末期のものとされる経塚が現存し、やはり平泉との深い繋がりが見て取れる。このように本吉地域には高衡や奥州藤原氏に関する伝承が数多く残っているのである。これほど奥州藤原氏に関する伝承が多く残っている地域は、平泉を除けば他にはないのではないかと思う。

090608-175506 本吉地域にはまた、産金遺跡も数多く残っている。秀衡が高衡にこの地を治めさせた大きな理由の一つがこれだったのではないだろうか。国衡の采邑地と伝えられる鹿角地域と同様に、秀衡は東北の主な金の産出地については自分の息子などに直接統治させていたということが考えられる。

 この高衡が歴史上表に現れた場面を見てみると、まず義経が木曾義仲と戦った宇治川の戦いにおける梶原景季と佐々木高綱の有名な先陣争いの場面である。「源平盛衰記」には、この2人が先陣を争って乗っていた馬がいずれも「陸奥国三戸立の馬」で、「秀衡が子に元能冠者が進たる也」とある。「元能」は「本吉」と同義で、名馬を鎌倉方に進上した人物が高衡のことであることは疑い得ない。

 その義経が泰衡によって討たれ、その首級が鎌倉に届けられることになった際の使者を、吾妻鏡では新田冠者高衡と伝えているが、この人物もまた高衡のことであった可能性が高い。「新田冠者」は文治五年奥州合戦で捕虜となった樋爪五郎季衡の子経衡に冠されている名称であるので、使者は経衡だった可能性もあるが、義経の首級を届けるという重要な任務の遂行を、泰衡が自らの弟に託したと考えるのはそう不自然なことではないと考えられる。

 本吉地域には当時本吉荘という荘園があり、本吉冠者の名を持つ高衡がその荘司を務めていた可能性もある。この本吉荘、奥州藤原氏について言えば、二代基衡との関わりでよく知られる。当時本吉荘は藤原摂関家領だったが、「悪左府」と呼ばれた左大臣藤原頼長(大河ドラマ「平清盛」にも現在登場中である)が、本吉荘を含む東北にあった自分の5つの荘園の年貢の大幅な増徴を命じた。これに対して基衡は5年以上に亘って頑として首を縦に振らず、結局頼長が当初の要求よりも上げ幅を大幅に小さくしたことでようやく両者の交渉が妥結した、という話である。頼長が保元の乱で敗死した後、本吉荘は当時の後白河上皇の後院領となったため、高衡は院ともつながりを持っていた可能性が強い。

 こうしたことを考え合わせると、高衡は奥州藤原氏の「対外交渉」的な役割を担当していた人物であったとも考えられるように思う。

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2011年10月06日

東北の歴史のミステリーその26〜邪馬台国はやっぱり岩手にあった?

新日本の七不思議  ふらっと本屋を覗いてみたら、以前紹介した邪馬台国はどこですか? 」の続編として、「新・日本の七不思議」(鯨統一郎、創元推理文庫、アマゾン該当ページ )が出ていた。タイトル通り、「原日本人」、「邪馬台国」、「万葉集」、「空海」、「本能寺の変議」、「写楽」、「真珠湾攻撃」という7つの不思議について主人公の宮田が解き明かす内容である。このうち「邪馬台国の不思議」では、前々作「邪馬台国はどこですか?」で主人公の宮田が主張した「邪馬台国=岩手説」を補強するような話が出てきて興味深い。

 しかし、今回この邪馬台国=岩手説を補強する根拠となる説自体は、宮田(=作者)オリジナルの説ではない。既存の説を「邪馬台国=岩手説」の根拠に結びつけている。従って、前々作「邪馬台国はどこですか」での「邪馬台国=岩手説」と違って、安心して内容を説明できるのだが、まず古事記における天照大神の天岩戸伝説について、天照大神=卑弥呼、天岩戸伝説=皆既日食と推定する。卑弥呼が生きていた時期に起きた皆既日食は247年と248年で、このうち248年は卑弥呼が死んだとされる年である。卑弥呼は天文学・占星術を元に民を治めていたが、皆既日食という天変地異が起こったことによって失脚して死去した(殺害された?)のではないかと論は進む。これらはいずれも既にある説である。

 さて、247年の皆既日食と248年の皆既日食のことについても、起きた時刻やそれが見られた地域などが天文学上の計算で既に導き出されている。それによると、247年の方は九州で見られたが、皆既日食となったのは日本では日没後のことで、結局部分日食で終わっている。部分日食と皆既日食ではインパクトがまったく違う(部分日食では曇り空程度の暗さで意外に明るいので「天変地異」とまではいかない)ので、247年の皆既日食は卑弥呼の失脚には影響がない。

 対して、卑弥呼が死んだとされる248年の皆既日食は間違いなく日本で観測された。問題はこの時皆既日食が見られた地域である。これも既に特定されているのだが、それを本書では「能登から奥州」の範囲だと言っている。そして、現在の議論で邪馬台国があったとされる九州や近畿では皆既日食ではなかった。従って、邪馬台国は(九州でも近畿でもなく東北の)岩手なのだ、という結論である。

 ただ、「奥州」と言っても広い。その全域でなくても、少なくとも岩手県内で見られたのであれば「邪馬台国=岩手説」を補強するのだろうが、そうでなければ宮田(=作者)の論を借りれば、岩手県ですらなくなってしまう。実際、このサイトで調べてみると、この時の皆既帯は岩手県よりはるかに南の、現在の福島県一帯を通っているように見える。とすると、この皆既日食は決して「邪馬台国=岩手説」を補強するものではないということになってしまうのではないだろうか。

 とは言え、2000年近く前の月の運動や地球の自転速度などについての考えが研究者によって異なるため、皆既帯の範囲にも微妙にズレが生じる可能性もあるとされ、実際、このサイトで皆既帯を確認してみると、図が小さくて判別は難しいものの岩手県を通っているように見えなくもない。ついでに言えば、このサイトでの248年の皆既帯についての表記は「早朝に能登から奥州へ横断」とある。東北のことを「奥州」と表現するのは現在ではあまり一般的ではないので、作者もこの話をまとめるに当たってはこのサイトの表記を参考にした可能性がある。

 それよりも何よりも謎なのは、「邪馬台国はどこですか」であれほど宮田を罵倒し、手ひどく攻撃していた新進気鋭、才色兼備の歴史学者、静香がすっかり宮田と仲良くなり、親密さすら感じさせることである。静香に罵倒されながらも最後には宮田の一見突拍子もない歴史解釈が勝利してしまうところに前々作の醍醐味の一つがあったと思うのだが、その二人が仲良くなってしまうというのは、例えて言えば、トムとジェリーがすっかり仲良くなってしまって展開される物語のように何か物足りない。いったい二人に何があったのか、むしろそちらの方が本書における最大の謎である(笑)。その辺りは恐らく、今後の作品で遡って明らかにされるのであろう。

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2011年09月06日

東北の歴史のミステリーその25〜藤原泰衡の子は3人いた?

090828-174639 以前、泰衡の子が山形県酒田市に逃れてきたのではないかということを書いた(ここここここ)。その後、さらに調べてみるとより詳しいことが分かった。庄内の郷土史を研究している土岐田正勝氏の「最上川河口史」によると、泰衡の子万寿は、酒田に逃れてきた当時10歳に満たなかったそうで、元服するまで徳尼公の元にいた。そして、「その後泰高と名乗り、家来数人とともに津軽の外ケ濱に行き、『牧畑』を開拓した。やがて泰高は京都に出て、平泉藤原家再興を企図したがならず、紀州日高郡高家庄の熊野新宮領に定住した。その子孫が南北朝の天授三年(1377)瀬戸内海の因島に移り住み、『巻幡(まきはた)』姓を名乗っている」とのことである。

 実際、因島(旧因島市は合併して現在は尾道市)には藤原泰高(康高)の伝承があるようである。例えば耳明神社(みみごじんじゃ)がそれである。ブログなどでもその名が現れたりしているので(参照サイト)、因島の人にとっては藤原泰高は馴染みのある人物のようである。

 ただ、「最上川河口史」にある、泰高が開拓したという「津軽の外ヶ濱」の「牧畑」とはどの辺りなのか分からない。青森県内には該当しそうな地名が見当たらないのである。単なる推測だが、「外ヶ濱」の「牧畑」は津軽ではないのではないだろうか。例えば、隠岐の西ノ島町には「牧畑」があって(参照サイト)、「外浜」という地名がある(参照サイト)。ここでは「牧畑」は地名ではなく、「畑を区切り放牧と耕作を輪換する畑」のことだそうだが、想像を膨らませれば、ひょっとすると泰高は隠岐の外浜を開拓したのかもしれない。さらに言えば、隠岐は知っての通り、かつては流刑地だったので、ひょっとすると泰高は鎌倉に見つかって命は助けられたものの隠岐に流されたのかもしれない。その後赦されて熊野に移り住んだ可能性もある。

 泰衡の子については、実は酒田市以外に平泉から北に70km弱のところに位置する岩手県紫波町にも伝承がある参照サイト)。現在の紫波町は当時、奥州藤原氏初代清衡の孫の樋爪太郎俊衡、五郎季衡兄弟が治めていた。兄弟の館である樋爪館は五郎沼の近く、現在の紫波町立赤石小学校の場所にあったとされるが、この五郎沼の名前の由来は、五郎季衡が幼い頃によく泳いで遊んだことからつけられたという。

 太郎俊衡は文治五年奥州合戦の頃には出家して蓮阿と名乗っていたが、合戦後頼朝の陣に投降、この地を安堵された。その後俊衡は領内の大荘厳寺に居住したそうだが、そこで泰衡の子である秀安を育て、自分の娘の璋子を妻にさせたと伝えられているそうである。

 「岩手県史」第一巻には、「泰衡の子供については、胆沢郡小山村名号堂(今明後堂沢と云う)西風屋敷阿部家所蔵系譜によると、泰衡に男子二人があり兄時衡は討死、弟秀安は、樋爪俊衡入道に扶育されて成長し、子孫阿部氏(中頃安倍氏を称す)を称した」とある。この系譜の泰衡のところには「二子ヲ俊衡ニ委(ゆだね)テ、泉城ニ火ヲ放チ、臣河田次郎ヲ従ヒ、佐比内ニ逃遁ノ途、次郎返心シテ不意二討テ首ヲ頼朝ニ上ル。頼朝、次郎主ヲ討スル罪ヲ問ヒ、斬罪二処ス」とあるのだそうである。

 岩手県史にはその系図も掲載されているが、それには時衡について、「文治五・九・三 討死 二〇」と記載されている。文治5年9月3日というのはまさに泰衡が河田次郎の裏切りに遭い、殺された日である。頼朝の軍はこれより先、8月22日に平泉に進駐しており、以降合戦があったとは吾妻鏡にも記されていない。従って、この記述を信じるとすると、時衡も泰衡が河田次郎に襲われたこの時に一緒に討たれてしまったと考えられる。

 つまり、まず泰衡には時衡という長子がいたが、泰衡最期の地比内(系譜には「佐比内」とあるがこれは紫波町内にある地名であり吾妻鏡の記載にある秋田県の「比内」の誤りではないだろうか)で父泰衡と共に河田次郎の軍勢と戦って討死し、弟の秀安が樋爪俊衡に匿われて無事成長したということのようである。岩手県史の系図にはこの秀安について「安元二生」と書いてある。安元2年は1176年であるから、父泰衡と兄時衡が死んだ時、秀安は13歳だったことになる。

 ここで注目すべき記述がある。「岩手県史」で紹介されている系譜の「二子ヲ俊衡ニ委(ゆだね)テ」という記述である。一人は秀安であるとして、もう一人は誰だろうか。「岩手県史」の編者はこの「二子」を時衡と秀安のこととしてさらっと流しているが、兄時衡は父泰衡と行動を共にしたわけであるから、「俊衡ニ委」ねられたのが時衡のことでないのは明らかである。そこで思い出されるのが、酒田に逃れたという泰高である。すなわち、俊衡に委ねられたのは、秀安、そしてもう一人は泰高のことだったのではないだろうか。

 一旦俊衡に預けられたうちの一人がなぜ酒田に逃れたのか。恐らく俊衡は、二人とも見つかった時のことを考えたのではないだろうか。万が一泰衡の二人の子が同時に幕府に見つかって殺されでもしたら、奥州藤原氏の血統が途絶えてしまう。そう考えて、一人は自分の元に置き、もう一人は徳尼公と36人の家臣に託して遠くに逃れさせたのではないだろうか。それが酒田に落ち延びた泰高ではなかったかと思うのである。

 さて、以前紹介した泰衡の奥方を祀った西木戸神社に関する伝承にも泰衡の子のことが出てくる。奥方は夫泰衡の跡を追い子供3人と侍従を連れて現在西木戸神社のある地までやって来たが、泰衡は既に4日前に河田次郎に殺されたと知り、悲嘆のあまり子供を従者に託して自害したというのである。西木戸神社にある説明板には3人の子のことは出ていなかったが、一部にはそのような伝承もあるようである(参照サイト)。

 そうすると、泰衡の子は、時衡、秀安、泰高、それに西木戸神社までやってきた3人の子と、合わせて6人もいることになるが、さすがにこれは多すぎのような気がする。泰衡の父秀衡には泰衡を含めて6人の子(国衡、泰衡、忠衡、高衡(または隆衡)、通衡、頼衡)がいたことが分かっているが、秀衡は66歳まで生きたとされる。対して泰衡は35歳(25歳という説もあるがそれだと時衡が20歳で討死というのと計算が合わない)で死んでいる。そう考えると、泰衡の子はやはり最大でも時衡、秀安、泰高の3人で、西木戸神社に伝わっている3人の子というのはこの3人のことを言っているのではないだろうか(従って、3人の子は泰衡の奥方と行動は共にしていなかったことになる)。ついでに言えば、これまでの情報を整理すると、長男は時衡(文治五年奥州合戦時に20歳)、次男が秀安(同じく13歳)、三男が泰高(同じく10歳未満)ということになる。

090828-174248 上の写真は五郎沼である。中島もあって、俊衡が治めていた頃は浄土庭園だったのではないかという気もしている。同様の見方をしている方は他にもおられるようである(参照サイト)。五郎沼の案内板には五郎沼に隣接して樋爪館と大荘厳寺があった様子が再現されている(右写真参照)。これを見ると、当時の樋爪館周辺は、「ミニ平泉」とでも言うべき街並みがあったことが窺える。

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2009年11月20日

東北の歴史のミステリーその24〜消えた?「奥十七万騎」

165234.jpg 今でも覚えているのだが、中学校の時の歴史の副読本に東北の歴史について説明した冊子があった。その「奥州征伐」の項には(「征伐」というのは鎌倉側から見た一方的な表現であるので現在では「文治五年奥州合戦」という名称が定着している)、「なぜ源頼朝は28万4千もの大軍を率いて奥州に攻め込んだのでしょうか」という問いかけがあり、当時義経びいき、奥州藤原氏びいきだった私が、「そうだそうだ、いったいどんな理由があって東北に攻めてきたんだ?」と思いながら読み進めると、次の文章が「それは奥州藤原氏の兵力が20万騎と言われていたからです」と来て、「そっち(兵の数)の話かよ〜」と肩透かしを食らったような思いをした記憶がある(笑)。

 当時、 奥州藤原氏の擁する兵力は17万とも、18万とも、あるいは20万とも言われていて、それこそ今世界遺産登録を目指している通りの浄土思想を基調とした「平和国家」の顔の一方で、平氏や源氏とも単独で対等以上に渡り合える強大な軍事力を持っているとされていた。頼朝は平氏追討に当たって、自ら鎌倉を動くことはなかったが、それは背後に控える奥州藤原氏の「奥十七万騎」を脅威に感じてのことだったとも言われる。

 ところが、いざ文治五年奥州合戦となると、以前紹介した阿津賀志山の合戦で大将軍に任ぜられた泰衡の兄、西木戸太郎国衡が率いたのは二万騎だったと吾妻鏡にはある。しかも、阿津賀志山以降は散発的な抵抗はあったものの、大規模な合戦らしい合戦はなく、平泉は事実上「無血開城」だった。出羽方面でも戦闘が行われたと記述があるが、阿津賀志山以上の兵力がそちらに集結したと考える理由はない。してみると、17万騎どころか、実際にはほんの数万騎が、頼朝率いる大軍(もちろん28万4千騎という数字には誇張もあるだろうが)と戦ったわけである。ならば、奥州藤原氏が誇った残りの兵力は戦わずしてどこに消えたのか。

 前回、東北のオススメスポットとして、平泉衣川を紹介した(ここここ)が、両地域を比較して「おや?」と思ったことがある。史跡(地名にのみ言い伝えが残っているものも含めて)の数に、平泉と衣川とでは違いがあり過ぎるのである。すなわち、平泉は奥州藤原氏が100年の栄華を誇った地であるにも関わらず、それにしては遺跡の数が少なすぎやしないかということである。

 というのも、既に紹介した通り、衣川の遺跡、そしてそれは多くが安倍氏に由来するものだが、非常に多いのである。1日で全部回ろうと思ったら、それこそ誇張ではなく朝から夕方までかかる。安倍氏は当時奥六郡を中心とする大きな勢力であったが、陸奥出羽両国の全体を掌握していたわけではなかった。一方、奥州藤原氏はその両国、つまり今の東北地方のほぼ全域を掌握していたとされている。それにしては、その本拠地たる平泉に往時を偲ばせるような遺跡が少なすぎやしないだろうか。

 衣川には安倍氏が乗馬5〜600頭を繋いでいたという場所(「駒場」という地名で残っている)や「乗馬訓練場」跡(「馬駆」という地名で今も残っている)まで残っているのである。いかにも騎馬兵を主体とした精強な兵を率いた安倍氏にふさわしい伝承だが、対して奥十七万騎を誇る奥州藤原氏の訓練場跡があったという話はついぞ聞いたことがない。もちろん、安倍氏の訓練場をそのまま引き継いだということなのかもしれないが、それであれば「安倍氏の」ではなく、より新しくより強大な勢力を誇ったはずの「奥州藤原氏の」という伝承になってもよさそうなものである。

 これはいったい何を意味するのかと考えてみると、実は「奥十七万騎」は「虚構」と言うか、「誇大広告」だったのではないかということである。それだけの兵力はなかったが、そう喧伝することでかつての前九年の役のように、奥州を我が物にせんとする源氏のような勢力に外部から攻め込まれることを未然に防ごうとしたのではなかったかという気がするのである。

 その「情報戦略」は、頼朝が朝廷の制止を振り切って有無を言わさず攻め入ってきたことで「実像」が露呈して瓦解した。その実像とは、阿津賀志山の地で、全国から動員された頼朝の大軍を3日足止めするのが精いっぱいの兵力だったということなのではないだろうか。

 本当の意味での「判官びいき」、と言うか、義経が好きな人にしてみれば(かつての私もそうだったが)、奥州藤原氏のこのようなあっけない終焉をとらえて、義経さえ生きていればこのようにたやすく滅びることはなかったろうに、と思うものだが(以前紹介したが、「義経記」の作者もそのようなニュアンスの言葉で最後を締め括っている)、もしこのような圧倒的な兵力の差が端からあったのだとすると、仮に義経が生きていたとしても状況は同じであったかもしれない。いや、「ゲリラ戦」が得意だった義経がいればやはり状況は違っていたはずだ、という反論が即出そうではあるが。

 写真は残念ながら平泉の世界遺産登録に当たっての構成遺産からは外された白鳥館遺跡から見た北上川である。この遺跡は安倍貞任の弟、白鳥八郎則任の館跡と伝えられる。その立つ場所から考えて、奥州藤原氏時代にも重要な役割を果たしたのでは、とも思われるのだが、少なくともそのような伝承は聞いたことがない。

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2008年11月13日

東北の歴史のミステリーその23〜酒田市の成り立ちと奥州藤原氏

da691530.jpg そもそも頼朝は、泰衡の子供のことについては考えなかったのだろうか。その気になれば支配下に置いた陸奥出羽両国内を徹底的に探し続けることもできたはずである。しかし、そのようなことをした形跡は、少なくとも記録上はない。

 この頼朝による奥州攻めは、徹底的に源頼義が安倍貞任を討った前九年の役に倣っている。源頼義が最終的に勝利を収めた厨川に入る日付も合わせ、泰衡の首に釘を打って晒すやり方も安倍貞任にしたやり方を踏襲、挙句にはその釘を打つ作業も貞任の首に釘を打った者の子孫を探し出してさせるなど、実に徹底している。源頼義は棟梁の貞任は殺したが、弟の宗任は西国へ流罪とした。頼朝も泰衡の首は取ったが、弟の高衡は流罪としている。全くの余談だが、安倍晋三元首相は、この時流罪となった安倍宗任の末裔だそうである。

 ただ一つ、頼義が「戦後処理」において、自分の思い通りにできなかったことがあった。安倍貞任の子供のことである。千代童丸という当時13歳で元服前だった貞任の子は捕縛された。頼義は哀れに思って命を助けようとしたのだが、前九年の役の勝利を決定づけた出羽の清原武則に反対され、やむなく斬らざるを得なかったのである。前九年の役を徹底的に模倣しようとした頼朝は、この場面をどう考えたろうか。頼義は敵の棟梁の子を助けようとしたができなかった。頼朝は頼義の意思を継いで、泰衡の首は取っても、その子は助けようと考えたのではないだろうか

 そう考えれば、頼朝が執拗に泰衡の子の行方を探し回らなかったことにも説明がつく。何といっても、自分の弟義経の時はあれだけ執拗に行方を探索させた頼朝である。その気になればどんなことをしてでも探し出すよう命じたはずである。それをしていないということは、泰衡の子については、端から殺すつもりはなかったということなのではないだろうか。

 もう一つ、泰衡の子を助けた理由になりそうなのは、頼朝の「罪悪感」のようなものである。鎌倉幕府の公文書吾妻鏡自らが認めている通り、義経にしても泰衡にしてもさしたる朝敵ではなかった。ただ、頼義・義家の時代に奥州を手に入れることができなかった遺恨で奥州藤原氏を攻め滅ぼしたというのが文治五年奥州合戦の実情である。当然頼朝にもそうした私的な思いから発した戦に対する罪悪感が少なからずあったのではないだろうか。したがって、棟梁の泰衡は殺さなければならなかったものの、その弟や子供は命までは奪わなくてもよいと考えたのではないかと思うのである。

 これまで頼朝のものと伝えられてきた神護寺の肖像画(実際には足利尊氏の弟直義のものとする説が有力である)のイメージ通り、頼朝については、冷徹な人間という見方が定着しているが、こと奥州合戦については、そうではない一面も見え隠れしている気がするのである(写真は頼朝が寄進した羽黒山の黄金堂である)。

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2008年11月02日

東北の歴史のミステリーその22〜酒田市の成り立ちと奥州藤原氏

24ba41a2.jpg 徳尼公はなぜ平泉を逃れなければならなかったのだろうか。普通、戦に敗れても棟梁の妻が殺されることはない。奥六郡の覇者であった安倍氏が滅ぼされた前九年の役で、安倍氏側について殺された藤原経清の妻は、源頼義側につき安倍氏に代わって奥六郡を収めることになった出羽の豪族清原氏の清原武貞に再嫁させられる。

 このことについては、かつては女性が「戦利品」扱いされた表れと捉えられたが、実際はそうではなくその地の人心をつかむためには、後家の処遇が鍵だったのである。事実、奥州藤原氏が滅んだ文治五年奥州合戦の後、藤原秀衡の後家が平泉で存命だったことを受けて、幕府が憐憫の情を持って対応するよう奥州総奉行に命じたことが、吾妻鏡に書かれているのである。

 そこでまた疑問が出る。秀衡の後家(これは本妻、すなわち泰衡の母だろう)が奥州藤原氏滅亡後も平泉にとどまっていて危害を加えられることがなかったにもかかわらず、なぜ秀衡の妹あるいは側室は平泉を逃れなければならなかったのかということである。何か平泉にとどまっていてはいけない理由があったのだろうか。

 そう考えると、後に徳尼公と称された女性は、決して頼朝に見つかってはならない何かを持っていて、そのために平泉を離れなければならなかったのではないだろうか。それはいったい何だろうか。平泉の繁栄を支えた黄金に関する何かか、それとも…。

 私にとって以前から疑問だったのは、泰衡の子がどうなったかということである。殺された時泰衡は35歳だった(25歳という説もある)。当然子供がいて不思議ではない年齢である。しかし、吾妻鏡には、泰衡の子が見つかって殺されたといったような記述はない。では元々子供がいなかったのか。以前、泰衡の妻については、夫泰衡の後を追って自害した場所が神社になっていることを紹介した。しかし、そこでも2人の子供のことについては何も触れられていない。

 そこで考え付いたのが、徳尼公は実は泰衡の子を守って平泉を逃れたのではないかということである。そう考えれば、徳尼公が平泉を離れなければならなかったことにも合点がいく。自身は殺されることはなくても、泰衡の子となれば殺されることはほぼ間違いない。それでその子を連れ、家臣に守られて酒田まで落ちのびたのではないだろうか。

 そう思って調べてみたら、やはりそのような伝承はあった。酒田市が発行した「酒田の歴史探訪」には、「平泉藤原家の遺臣三十六騎が藤原秀衡の後室と言われる徳姫と、泰衡の一子・万寿のお供をして平泉を逃れました」とある。万寿というのは元服前の名前のようなので、事実とすると泰衡の子はまだ幼かったことになる。

 泰衡の子万寿はその後どうしたのだろうか。徳尼公が天寿を全うし、三十六騎の遺臣が地侍となったことは伝わっていても、万寿がどうなったかは伝わっていないようである。しかし、状況から見て、きっと万寿もまた幕府に殺されたりすることなく、無事自分の人生を全うしたのではないかと思うのである(写真は現在の酒田市宮野浦の海岸。巨大な風車が並んでいる)。


追記(2010.9.5):「吾妻鏡」の文治5年(1189年)11月8日には、「泰衡の幼い子息の居所がわからないので探し出して身柄を確保せよ、その名前が若公(頼朝の子・頼家)と同じ名前(万寿)であるから、名を改めるように」との指示が出されている。これを見ると、幕府は泰衡に子があったことは把握しているが、その居場所については把握していなかったことが分かる。また、その後所在が明らかになったという記述もない。

 改名の指示も出ているが、これは本人がいる、いないに関係なくできることである(逃亡中の義経が「義行」「義顕」と二度も改名されたように)。

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2008年10月27日

東北の歴史のミステリーその21〜酒田市の成り立ちと奥州藤原氏

db49b607.jpg 山形県の沿岸、庄内地方の酒田市には、その発祥に奥州藤原氏にまつわる話が伝わっている。文治5年(1189年)の奥州藤原氏滅亡の際、藤原氏の遺臣36騎に守られて藤原秀衡の妹徳子(あるいは徳の前)、あるいは側室泉の方と称する女性が平泉を逃れ、現在の酒田市周辺に落ちのびたのが、酒田市ができたきっかけだというのである。酒田まで落ちのびるに当たっては、あえて最短ルートであった最上川を下るルートを取らず、一度現在の秋田市まで出てから南下したと伝えられ、秋田県内にも女性が乗ってきた白馬が途中で死んだのを祀った寺があるなどの言い伝えがあるそうである。

 この女性は最初出羽三山の一つ、羽黒山の山奥の立谷沢で過ごしたが、その後向酒田(現在の酒田市街地から見て最上川を挟んだ対岸)の袖の浦(現在の酒田市宮野浦)、飯盛山にひそみ、泉流庵を結び徳尼公となり、藤原一門の菩提を弔いながら静かに余生を送り、建保5年(1217年)4月15日87歳で没したそうである。

 徳尼公の結んだ「泉流庵」とは、「平泉から流れてきた」ことを表しているそうである。後に泉流寺と改称された。現在の泉流寺(参照サイト、酒田市のサイト内の該当ページは現在エラーで表示されない)は酒田市の中心部、酒田市総合文化センターの南隣にある。

 徳尼公没後、遺臣36人は地侍となり、廻船業を営み酒田湊繁栄の礎を築いた。36人の遺臣の末裔はその後酒田三十六人衆と称され、幕末まで酒田を「自治都市」として運営したそうである。

 現在、泉流寺には開祖徳尼公の木像がある。これは元あった像が宝暦元年(1751)に焼失した後、明和元年(1764)三十六人衆の一人、本間家三代四郎三郎光丘が京都でつくらせたもので、今に伝わる徳尼公像をまつる廟も寛政2年(1790)本間光丘の寄進によって建立された。境内には三十六人衆記念碑があり、今も徳尼公の命日である4月15日には三十六人衆の子孫によって徳尼公の法要が行われているそうである。

 ところで、最初羽黒山で過ごした徳尼公はなぜ酒田に移ったのだろうか。修験道の本拠地、出羽三山の羽黒山にいれば、めったに幕府の探索も入らず、身の安全を図れたのではないだろうか。どうやらそれにはやむにやまれぬ理由があったようである。

 建久4年(1193年)、源頼朝は土肥実平を建築奉行として羽黒山に黄金堂(こがねどう)を寄進したのである。この黄金堂は羽黒山の入り口近くに現在も存在し、山頂の大金堂(現在の三神合祭殿)に対して小金堂とも言われている。この頼朝による黄金堂建立をきっかけに自分の身に追及の手が及ぶのを恐れた徳尼公が羽黒山を出て、酒田に移ったのではないかと考えられている。しかし、そもそも徳尼公が平泉を逃れたこと自体、大きな謎があるように思うのである(写真は泉流寺内にある徳尼公廟である)。

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2008年10月06日

東北のオススメスポットその8 & 東北の歴史のミステリーその20〜高蔵寺阿弥陀堂

4b38ce63.jpg 宮城県の南部、角田市中心部から西へ約7kmほど白石市方面へ国道113号線を走ると、勝楽山高蔵寺角田市高倉字寺前49)がある。以前も少し紹介したが、ここには東北に3つある阿弥陀堂のうちの一つ、高蔵寺阿弥陀堂写真参照)がある。私が宮城県内で最も好きな場所の一つである。

 高蔵寺の創建は平安時代初期の弘仁10年(西暦819年)に遡ると言われ、南都の僧徳一によって開山されたと伝えられている。私も見たことはないが、嵯峨天皇の筆によるといわれる「高蔵寺」の額が秘蔵されているそうである。

 この高蔵寺の境内にある阿弥陀堂は、入り口にある説明板によれば、治承元年(西暦1177年)、「藤原秀衡・妻などによって建立されたもの」とのことである。この記載だと「藤原秀衡とその妻」が建立したのか「藤原秀衡の妻」が建立したのか分かりづらいが、一般には「藤原秀衡の妻」が建立したとの説が専らである。創建当時の建物が今もそのまま残り、宮城県内最古の木造建築だそうである。

 この高蔵寺阿弥陀堂、「日本最古の七阿弥陀堂」の一つに数えられている。七阿弥陀堂とは、北から中尊寺金色堂(岩手県平泉町)、高蔵寺阿弥陀堂(宮城県角田市)、白水阿弥陀堂(福島県いわき市)、平等院鳳凰堂(京都府宇治市)、法界寺阿弥陀堂(京都市伏見区)、浄瑠璃寺阿弥陀堂(京都府木津川市)、富貴寺大堂(大分県豊後高田市)である。

 平安時代から鎌倉時代初期にかけて建立されたこれらの阿弥陀堂が、京都に3つ、大分に1つある以外、東北に3つある意味は極めて大きいのではないだろうか。すなわち、当時東北においては、京の都に匹敵するくらい阿弥陀思想が浸透していたその証左であるとも考えられるのである。以前も書いたが、平泉の中尊寺金色堂を中心とする文化遺産を「浄土思想を基調とする文化的景観」と位置づけて世界遺産登録を目指すというのであれば、これら東北にある他の2つの阿弥陀堂、すなわち白水阿弥陀堂とこの高蔵寺阿弥陀堂にももっと目を向けるべきだと思うのである。

 なお、高蔵寺以外の6つの阿弥陀堂は皆国宝であるが(高蔵寺阿弥陀堂は国指定重要文化財)、だからこそと言うべきか、この高蔵寺阿弥陀堂にはある種の親しみやすさのようなものも感じられる。中尊寺金色堂などとは違い、華美な装飾などはないが、永年の風雨に耐えた外観と言い、茅葺の屋根と言い、素朴な風情ながらも杉の大木に囲まれた一画にあって、周囲の自然とよくマッチしたしみじみとした趣がある。杉木立の中に響く鳥の声、風にそよぐ杉の葉のざわめき、凛とした空気、その静寂の真ん中に佇む阿弥陀堂、実にいい場所である。

 ところで、この阿弥陀堂、なぜここに建てられたのだろうか。というのは、東北にある他の2つの阿弥陀堂、すなわち中尊寺金色堂と白水阿弥陀堂(しろみずあみだどう、正式には願成寺阿弥陀堂)は、その建立の動機のようなものがある程度はっきりしている。中尊寺金色堂はその供養願文にもあるとおり、奥州藤原氏初代の藤原清衡がかつて東北の地で戦乱などで亡くなった数多くの人々(当然その中には父経清も含まれよう)の冥福を祈って建立されたのであろうし、白水阿弥陀堂はその清衡の娘、あるいは三代秀衡の妹と伝えられる徳尼(徳姫)が、当時その地を治めていた亡き夫、岩城則道の冥福を祈って建立したと言われている(「白水」は平泉の「泉」の字を分けて名付けたとされる)。

 これに対してこの高蔵寺阿弥陀堂はなぜこの地に建てられたのか、はっきりとした伝承がない。なぜ「秀衡の妻」はこの地に阿弥陀堂を建てたのか。これは一つのミステリーではある。

 ひょっとすると、この阿弥陀堂は、平永衡のために建てられたものだったのかもしれない。平永衡は、前九年の役の頃、この高蔵寺のある辺り、伊具郡を治めていたらしく伊具十郎と呼ばれていた。伊具郡の隣の亘理郡は藤原清衡の父藤原経清が治めていたと思われ(彼は亘理権太夫と呼ばれていた)、二人は盟友であった可能性がある。また、二人とも当時奥六郡(現在の岩手県南部)の実権を握っていた安倍頼良の娘を妻に迎えており、いわば義兄弟でもあったわけである。

 この二人、安倍氏と朝廷側との間で始まった前九年の役では朝廷側につき、源頼義の軍に従軍するが(苦渋の決断だったろうが)、平永衡はなんと安倍氏への内通の疑いを掛けられ、斬殺されてしまう。このことが藤原経清を安倍側に寝返らせた最大の要因だったようである。

 藤原経清が安倍側についたことで、源頼義率いる朝廷軍は苦戦を強いられるが、出羽の清原氏の助力を得て何とかこの戦いに勝利を収める。捕縛された藤原経清もやはり斬殺されるが、その遺児清衡は後三年の役を乗り越えて陸奥出羽両国の実権を握り、戦にまみれたこの地をこの世の浄土とすべく中尊寺を建立し、仏教国家への道を歩むわけである。

 清衡の心中には、冥福を祈るべき戦乱で亡くなった奥羽の人々の中に、父の盟友だった平永衡のことも当然あっただろうが、その後も彼の遺徳を偲ぶものが何もなかった。そこで三代秀衡の代になって、永衡ゆかりの地であるこの地に改めて阿弥陀堂を建立したのではないか、というのが私の考えなのだが、もちろんそれを証明するものは何もない。

 ところで、折りしも「仙台宮城デスティネーションキャンペーン」の真っ最中であり、12月までの期間中、宮城県内で様々なイベントが催されている。ここ高蔵寺でも、10月中の土日祝日の10時から12時まで、本尊の阿弥陀如来の特別御開帳が実施されている(参照サイト)。

 この阿弥陀如来は平安末期の作とされ、阿弥陀堂建立の翌年に安置されたとされている。この阿弥陀如来は丈六の坐像、すなわち身の丈が一丈六尺で坐るとその半分の八尺(約2.7m)になるという大きさで、とにかくその存在感に圧倒される。思わず「でかっ」と思ってしまう大きさである。中尊寺金色堂の皆金色の諸仏像の優美さとは対極にある迫力であり、一見の価値がある。御開帳の機会はめったにないので、関心のある人はぜひ一度見ておくことをオススメしたい。

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2008年08月30日

私的東北論その13〜世界遺産への登録延期―平泉の価値は変わらない

5acc2ab7.JPG 今年度の世界遺産登録を目指していた平泉の文化遺産が、先月6日に行われたユネスコの世界遺産委員会で「登録延期」となった。平泉の世界遺産登録については、5月にユネスコの諮問機関である国際記念物遺跡会議(イコモス)が「登録延期」の勧告を既に出していたが、日本政府代表部は昨年の石見銀山に続く「逆転登録」を目指して各方面に働き掛けを続けていた。結果的にそれが実を結ばなかったことになる。

 日本は、平泉の文化遺産を「浄土思想を基調とする文化的景観」と位置づけて世界遺産登録を目指したが、今回「落選」したことに対して、メディアは「浄土思想」が諸外国に理解されるのが難しかったのではないかと報じている。

 しかし、実際は浄土思想の理解云々よりも、世界遺産の登録基準に適合するかどうかの証明が不十分とされてしまったことによるところが大きかったようだ。世界遺産の登録基準は社団法人日本ユネスコ協会連盟のサイト内にある通りであるが、今回平泉はこのうち(iii)、(iv)、(v)、(vi)に当たるとして登録を目指していた。ところが、世界遺産委員会とその前のイコモスの勧告で、その証明が不十分とされたのである。これについては、実はイコモスは、平泉の一部物件はこれら(iii)〜(vi)ではなく、(ii)に該当すると評価していたと、ユネスコの松浦晃一郎事務局長が明らかにしている(参照サイト)。とすると、推薦書の全面的な練り直しが求められるが、今のところ文化庁を始め関係者によると、大幅な推薦書の改訂は行わない方針のようである。

 また、「一部物件」という言葉が使われている通り、今回平泉は9つの構成遺産で世界遺産登録を目指していたのだが、この9つがどのように「浄土思想を基調とする文化的景観」に結びつくかの証明が不十分だったようである。確かに、素人目に見ても、「これは浄土思想とどのように関係するのか」と首を傾げたくなる構成遺産があるのは事実である。

 ちなみに9つとは中尊寺、毛越寺、無量光院跡、柳之御所遺跡、達谷窟、金鶏山、骨寺村荘園遺跡、長者ヶ原廃寺、白鳥舘遺跡である。このうち、奥州藤原氏三代が建立した中尊寺、毛越寺、無量光院跡、奥州藤原氏の政庁だった柳之御所遺跡、山頂に経塚のある金鶏山は平泉の浄土思想を直接的間接的に伝える構成遺産であると言える。達谷窟も奥州藤原氏時代のものと見られる浄土庭園の遺構が出土しており、構成遺産に加えてよいと考えられる。骨寺村荘園遺跡は中尊寺の寺領であったところで、周辺には寺社関連の遺跡も多数残っており、これも構成遺産と見てよいだろう。ただし、今のように中世の荘園がそのまま残っていることを強調しすぎると、かえって浄土思想との関連が分かりにくくなるようにも思える。一方、残り2つ、長者ヶ原廃寺と白鳥舘遺跡は奥州藤原氏と直接関係がなく、また浄土思想とも特に関連が見られないので、構成遺産として加えるのは厳しいのではないだろうか。

 「浄土思想を基調とする文化的景観」と言うならこれら2つよりもむしろ、例えば藤原清衡の孫である樋爪俊衡の居館樋爪館跡と伝えられる五郎沼は元は浄土庭園だった可能性があるように思われるし、三峯神社(月山神社)のように中尊寺の奥の院として栄えたと伝えられる神社もある。中尊寺金色堂と同様の阿弥陀堂は、宮城県角田市の高蔵寺阿弥陀堂、福島県いわき市の白水阿弥陀堂があり、こちらの方が「浄土思想」との関連がはるかに深いのではないか。

 これら構成遺産の選定に当たっては、学術的な見地からだけでなく、関係者の様々な思惑なども交錯したと伝えられているが、その結果「浄土思想を基調とする文化的景観」の証明が分かりにくいものとなってしまった感も否めない。再登録を目指すに当たっては、登録基準の見直しと共に、思い切って構成遺産の見直しも必要なのではないだろうか。

 ところで、後三年の役が終わって藤原清衡が奥羽両国の実権を握ったと見られるのが1088年、そこから四代泰衡が討たれた1189年までの101年が奥州藤原氏の時代と言えるが、三代秀衡が鎮守府将軍に任命されたのは1170年、陸奥守に任命されて名実共に奥羽の「統治者」と認められたのは1181年、初代清衡が実権を握ってからそれぞれ82年後、93年後のことである。名前が現実を追認するのに実にそれだけの時間がかかったわけである。

 今回の「落選」は日本で初めてだったこともあって、落胆の声が多く聞かれた。しかし、平泉の世界遺産登録は、2001年に国の世界遺産暫定リストに登載されてからまだたったの7年である。奥州藤原氏の辿った道から見れば、まだまだ始まったばかりである。そしてもちろん、世界遺産に登録されようがされまいが、平泉の価値は変わらない。それは、鎮守府将軍や陸奥守に任命されなくても藤原清衡が実質的に奥羽両国の覇者であったのと同じようなものである(写真は毛越寺浄土庭園にある紅葉である)。


追記(2009.4.5):新聞報道によると(河北新報記事岩手日報記事)、「平泉の文化遺産」の推薦書作成委員会は、上記9つの構成資産から骨寺村荘園遺跡、白鳥舘遺跡、長者ケ原廃寺跡、達谷窟の4つを外し、平泉町内の5つの資産のみで世界遺産登録を目指す方針を決めたそうである。長者ヶ原廃寺と白鳥舘遺跡だけでなく、達谷窟と骨寺村荘園遺跡も外すという、思い切った構成遺産の絞り込みを行ったわけである。今後の推移を見守りたい。

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