東北に関係する書籍  

2017年03月23日

私的東北論その93〜「逃北」のススメ(「東北復興」紙への寄稿原稿)

 1月16日に発行された「東北復興紙第56号では、「逃北」について書いてみた。能町みね子氏の造語である「逃北」、東北の本質を実によく言い表した言葉であると思う。紙面ではスペースの関係で19行ほどカットしたが、再録に当たって、カットした部分も復元した。元々カットしても大丈夫だった文章であったわけだから、それで何がどうこうなるということはないわけであるが(笑)。

 そうそう、能町氏、出版元の文芸春秋のサイトで、「逃北」について「コミックエッセイ」も書いている。こちらも併せて参照されたい。


「逃北」のススメ

「逃北」という名のエッセイ
img_ea47bf20395854d7c586c55e5d76206b732506 「逃北〜つかれた時は北へ逃げます」(能町みね子著、文春文庫)が面白かった。「逃北」というのは能町氏の造語で、「北に逃げたい衝動」のことである。「いつでも北に逃げたい。私は」という書き出しで始まるこのエッセイ、氏の「北」に対する思いが余すところなく披瀝されている。

 氏は、「南の解放感、暖かさ、ほんとにいいものです。旅行でおとずれた春の沖縄は気持ちよかったよ。タイもよかったね。弛緩してた。たいがいのことはどうにかなるんじゃないの〜、っていう楽天的な気持ちになれそうだった」と言いつつ、「でも、南に住みたいとか、南の国で人生をやり直す夢を描いたりとか、そういう気持ちはまったくない。沖縄やタイに住むなんて想像もつかないし、はっきり言って絶対にいやだ」と言い切ってしまう。そして、「私はキツいときこそ北に行きたくなるのだ。都会での生活に倦んだとき、南に行って気楽になろうという方面に考えは進まず、北に行ってしまいたくなる」と、その「逃北」への思いを熱く語るのである。

どこが「北」か
 「逃北」という言葉が「東北」と音が同じなのは偶然なのではなく、氏の東北に対する思いとリンクしている。実際、本書の中には、氏が青森や秋田や岩手に「逃」げた時の体験談が生き生きと書かれている。最初に意識的に「北」に行った大学の卒業旅行で氏は、両親の出身地である北海道を目指すが、「途中の青森のこともものすごく気に入ってしまい」、「帰ってきてからは、北海道よりも青森のほうが印象に残っていたくらい」で、「その旅行以来、日本の『北』で私がもっとも惹かれるのは、最北の北海道よりも東北地方になりました」とのことである。

 どんな時に「逃北」が発動するのか。氏によれば、日々東京で仕事をしていて、なんとなく心身の不調やイラつきなどが蓄積されて、「じんわりじんわりネジが巻かれて」いっている。ある瞬間にそのネジの押さえが外れて「ぎゅるんと高速回転する」と、北に飛んでいるという。「いつも私は北を向いた砲台の中にいる」という表現がまたユニークである。

 北に逃げてどうするのか。「逃北」とは、「ただ単に辛い気持ちを寒い土地で倍々にふくらませる行為」なのではない。「空気が冷たく張りつめた、どこか殺伐とした場所に自分を追い込むこと」が「癒し」なのだという。

 では、「北」とはどこか。氏の定義では、北海道と東北地方全体は「逃北」の対象で、関東は北らしさが弱まり、東京近郊は「北じゃない」。北陸は「逃北」の対象となりそうだが、福井までくると「だいぶもやもやしている」。長野や松本も「北」を感じるが、静岡は「ぜんぜん北じゃない」。一方、鳥取と島根には「北らしさがあるように思う」が、福岡まで来ると九州も沖縄も「まるっきり北じゃない」と線引きしている。

 緯度から見るとかなり南だが、鳥取や島根にも「北」を感じるところが、氏の感受性豊かなところであるように思う。「炎立つ」など東北を舞台にした小説を数多く手掛けている高橋克彦氏は、大陸から渡ってきたヤマト族に敗れて、遠く東北方面にまで逃れた出雲人が東北人のルーツだという「東北出雲説」を主張しているし、松本清張の小説「砂の器」では、秋田と同じ「ズーズー弁」を話す地域が島根県にもあることが明らかにされる。私なども、この、言葉が近いことや、うどんが優勢な西日本にあって唯一そばが優勢な地域であることなどから、出雲周辺には親近感を覚えるのである。

多くの人が逃れてきた東北
 この「逃北」という言葉、実に秀逸であると思う。第38号で書いたことがあるが、元々東北は神話時代以来、様々な人が逃れてきた地である。逃れてきたというくらいだから、中央での様々な争い事に敗れた結果、この東北の地までやってきたのである。そう、中央を追われた逃亡者たちは古来、なぜか東北を目指すのである。

 神話の時代からそうした例には事欠かず、神武天皇東征の折に殺されたとされる長脛彦の兄、安日彦が津軽に逃れてきたという伝承に始まり、山形の出羽三山の開祖は、父崇峻天皇を蘇我氏に弑逆されて出羽に逃れた蜂子皇子である。同じ聖徳太子の時代にはやはり蘇我氏との争いに敗れた物部氏が秋田に逃れている。平氏全盛の時代に源義経が奥州藤原氏を頼って平泉に逃れ、その義経によって滅ぼされた平氏の平貞能が逃れてきた仙台市郊外に定義如来ができ、兄頼朝に追われた義経が再度平泉に逃れてきた。奥州藤原氏自体も元々関東に根を張っていたところ、関東で起こして敗れた乱の戦後処理で亘理に逃れてきたとされる。頼朝の死後殺された梶原景時の兄影實も、気仙沼に近い唐桑に逃れてきている。元寇の折には元の残党がやはり仙台に逃れてきている。織田信長によって滅ぼされた武田勝頼の子信勝も東北に逃れたとされる。

 「真田丸」でも描かれたが、主人公の真田信繁の娘や息子は伊達政宗の庇護の下、白石に逃れてきている。関ヶ原の合戦で死んだとされる石田三成や、主人公の真田幸村さえも、秋田に逃れてきたという伝承が残る。江戸幕府の禁教を逃れたキリシタンたちは東北に移り住んでいた。幕末の上野戦争で敗れた輪王寺宮も東北に逃れた。

 これほど時代を問わず、争いに敗れた者が逃げ延びたという話が伝わる地域は、日本全国他に例を見ないのではないだろうか。東北は古より、そのような地であったわけである。

東北は一度も「勝って」いない
 たくさんの人が逃れてきたと書いたが、これらの逃れた人は、単に命を長らえるために東北に逃れてきたのだろうか。もちろん、それが最重要であったことは確かだろうが、それだけではなかったのではないかと推測する。中央から距離があり、その支配が届きにくいこの東北の地は、中央で敗れた人たちにとって、再出発のできる新天地だったのではないだろうか。だからこそ、蜂子皇子は出羽三山を興し、藤原清衡は東北の地に浄土を造ろうとし、奥羽越列藩同盟は江戸幕府でも薩長政府でもない新しい国を造ろうとしたのではないだろうか。

 そして、東北が敗れた者の新天地たり得たのは、ひとえにこの地に住む人々がそうした敗れた者に対する温かい視線を持っていたことが大きい。なぜそうした視線を持ち得たかと言えば、他ならぬ東北人こそが、敗れた者だったからである。神話時代の日本武尊以来、阿倍比羅夫による蝦夷征討、坂上田村麻呂と阿弖流為の戦い、安倍氏が滅んだ前九年の役、清原氏が滅んだ後三年の役、奥州藤原氏が滅んだ文治五年奥州合戦、豊臣秀吉の奥州仕置と九戸正実の乱、そして戊辰戦争と、東北は攻め込んできた中央の軍に対して一度も勝利したことがない。唯一の例外は、建武の新政の折に、後醍醐天皇に反旗を翻した足利尊氏に対して北畠顕家が奥州の軍を率いて上京し、これを打ち破ったという豊島河原合戦のみである。しかし、これは中央から攻め込まれたわけではなく、中央から陸奥守として下向していた北畠顕家が上京しているわけで、「本拠地」である東北で勝利しているわけではない。

 能町氏もいみじくも書いている。「私はむりやりにでも逃げるべき故郷を作りたいのです。やるせなさや空虚感に満たされて逃げ帰ったときに、なぜか落ちつく心の故郷。それが私にとっての北です。私は北へ『旅立つ』のではなく『逃げる』のであり、あるいは『帰る』のであり、それは希望にあふれた気持ちではない。何らかの理由で現在の地にいられないから逃げるのです。勝敗でいうなら敗。逃北は敗北につながっている」と。

 しかし、「とはいえ」と氏は続ける。「『逃北』や『敗北』は、私にとって必ずしも後退ではありません。むりやりすべてをゼロに戻すことであり、原点に帰るということです。北らしい空虚で荒涼とした風景も、何もない原点だと思えるからこそ、とても親しみが湧きます」と。古来、東北の地に逃れてきた多くの人々にも、似たような思いがあったかもしれない。敗北して逃げてきた人にとっては、決して希望に満ちた再出発ではないかもしれない。だが、それはこれまでの地での敗北をゼロに戻し、原点に帰してくれるものであったことは間違いなかったはずである。

いつでも逃げてこれる地域を目指す
 能町氏の「逃北」、東北の今後の方向性を考える上で大いにヒントを与えてくれると思う。これまで、観光振興では、いかに東北各地の観光資源を掘り起こし、それを発信していくかという点に重点が置かれていた。それはそれでそのようなニーズに応えるために必要なことであることは間違いないが、そればかりに傾倒する必要はなかったのではないか。日常に疲れた人が、周囲の状況にがんじがらめになっている人が、これまでの生活を一旦リセットしたい人が、いつでも逃げてくることのできる地域、それは必ずしも定住することを意味するのではなく、能町氏のようにネジのおさえが外れた時に何度でも来られるような、東北はそうした地域であればよいのではないだろうか。

 氏は「北」について、「旅先での客を『なして(どうして)こんなとこまで来たんだか』という、少し卑屈な態度で迎えてくれる。ちょっと最初だけとっかかりにくいけど、少しずつ、まさに雪が溶けるように、わざわざ来てくれたことへの感謝を前面に出して歓待してくれる。私にとって、北はこういうイメージ」と書く。確かにそのような面は大いにあるように思う。来る人をもてなす、受け入れる、それは東北人に脈々と受け継がれている資質のようにも思う。そうでなくして東北は、神代から近世に至るまで多くの人が逃れてくる地とはなり得なかったのではないだろうか。

 また、氏は、旅の中で観光スポットをあまりメインにしないと書いている。「観光地よりは地元の土着の臭いのする街の方が好き」で、「その街に観光スポットがあるとかないとか、根本的には関係ない」そうで、「むしろ目立った観光スポットがない街の方に興味が湧いてしまう」らしい。「わざわざ都会で作ってる本にガイドしてもらおうなんて思いません。地元の情報は地元の人に聞いて判断したいし、できれば自力で探したいよね、と思う」お人なのである。

 実はこれ、私も同様である。知らない地に行く時もほとんど事前に下調べをしたりしない。むしろ先入観なく、自分の足でその地を歩き回って、そこで感じるいろいろなことの方を重視している。その上でその地にある様々な情報を見聞きして、さらに行きたいと思うところに行ってみる、だいたいいつもそんな感じである。

 そのようなスタイルの旅を全ての人が志向しているわけではないだろうが、しかし一定のニーズはあるはずである。何かあったらぶらっと来て、日常と異なる環境に身を置いて、そこで得たものを持ってまた日常の場に帰っていく、そのような旅ができる東北であると、なおいいと思うのである。


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2012年02月10日

東北に関係する書籍その6〜「東北独立」を扱った小説

イメージ 1 さて、独立を果たした東北地方についてである。小説中では以下のように紹介されている。

国名:奥州国

暫定政府樹立
首相:野上高明青森県知事
60名の国務大臣:5県知事、脱出してきた国会議員からなる
合議制
・暫定政府であることを国民に告げ、完全独立が成り、国情安定後に投票による新政府樹立をすると約束
首都:岩手県盛岡市
・県名は従来通り、元号は廃止、西暦制を採用。

暫定政府の決定事項
国境:福島県、山形県の県境をそのまま指定、北は津軽海峡の中間ラインに設定

奥州国内通過問題:いずれは日本国との条約により相互通行の権利を認め合うことになるが、現時点においても通行の制限は行わない

奥州国内にある日本国の資産の没収:
・全資産を一時的に奥州国国有とすることを決定。
・鉄道は国境以北は奥州国鉄道運営局が運営管理。
・東北電力その他についても同様の処置。電力局が設置、稼働中の三基の原子力発電所、建設中の三基の原子炉も接収。
・このほか鉱山、油田、漁業関係などすべてが接収の対象。それぞれ奥州国鉱山局、漁業局、産業局に組み入れ。
・民間企業であると否とを問わず。

かつての県警の処置:
・県警察官は県が雇用、地元採用のため、警視以下は県が給料を支給。
・警視以上の国家公務員には退去を勧告、残る者はそのまま新警察に雇用。奥州国警察局が統轄。
奥州国の治安維持は東北地方守備隊が受け持つ。「奥州国警備隊」と改称。

立国の基本:「立国の基本は農業」
農業資源
・人口約1,000万人
・水田69万ヘクタール
・収穫できる米290万トン
・主食米としての消費量は年間一人当たり約88キロ、奥州国全体で概算90万トン
・余剰米が200万トン超
・畑30万ヘクタール。麦、野菜は人口に見合う
・大豆と果物など一部に若干の不足が見込まれる→耕地面積の拡大で処理

漁業資源
・漁獲量年間120万トン強(スケソウダラなど肥料用漁獲を含まず)
・消費量一人1日100グラムとして年間40キロとすれば3年分の魚が収穫できる
・貝類、海藻類を入れると数字はさらに上昇
・内水面漁業・養殖漁業で合計約1万トン。鮎、鮒、鯉、鱒、鰻、シジミなど

・余剰食品は日本国との貿易に振り向ける

鉱物資源
・金:376キロ
・銅:53.456トン
・鉄:285.548トン
・鉛:29.510トン
・タングステン:238トン
・亜鉛:111.279トン
・硫化鉄:212.752トン

・粗鋼の日本国内消費量は7000トン、一人当たり年間約690キロ
・奥州国1,000万人で年間700万トン
・生産額28万5千トンでは絶対的不足。

林業資源
・林業産物のうち素材生産量は625万立方メートル(全国の15%)
・人口比、木材需要の傾向から供給は充分。

石油資源
・一人当たり年間平均2.72キロリットル
・奥州国1,000万人で2,720万リットル
・備蓄分60日分で約450万キロリットル
・合計3,000万キロリットル
・原油産出量は年間約20万キロリットル
・極めて不足状況

 以上を踏まえた野上奥州国首相の就任演説は以下の通りである。

「人間の生活基本は農業にある。いかに時代が変化しようと、その基本姿勢は変わらない。大地を耕してそこから食物を得る。そうするかぎり、国も、われわれも、滅びることはない。

 さいわい、わが独立国奥州は広大な山野、沃野を擁している。国民人口は一千万人である。一千万人の国民が潤沢に暮らしていける資源には、こと欠かない。……

 わたしは、奥州国建国に当たって、大自然との調和を第一義に据えたいと思う。それには、まず、土壌の改良をなさねばならない。日本国は農業基本法設定以来、労働生産性のみを考え、作物の専作化がすすみ、大量の化学肥料を使用した結果、いま、土壌は極度に悪化している。土は本来生きものである。微生物による活動が有機物を分解し、作物に養分を与え、通気性を保ち、保水性を強化して、作物を力強く育ててきた。

 ところが、いまの農作物はどうか。弱体化がはげしい。大量の農薬撒布は作物の弱体化だけではなく、人体にも害毒を瀰漫(びまん)させている。

 土壌改良には厩肥(きゅうひ)が必要である。それには家畜を増やさねばならない。とくに牛が必要である。わたしは、向こう五年間に、わが国に乳牛、肉牛あわせて五百万頭の牛を増やす政策を採りたい。飛蝗来襲前には東北六県には乳牛肉牛合わせて五十六万頭、豚百十五万頭を飼育していた。それを十倍まで増やすことが、農業立国の基本方針である。そうすることによって、はじめて、土壌改良もなろう。そして、われわれは、大量に農薬に汚染された食物とは、訣別できる。

 わが奥州国には悠久の大河がある。北上川、阿武隈川、最上川だ。まだまだ、無数の川がある。われらは、この河川を蘇らせる。鮭を放流するのだ。臨時政府は産業再編成に着手している。その主たる目的は河川の汚染厳禁にある。大小無数の河川は一、二年以内に完全に蘇るであろう。清冽な流れが戻るのだ。そこに、鮭や鱒、鮎などが群れをなして遡上することを、わたしは、約束する。鮭の放流は現在回帰率がニパーセントにまで高められている。五億匹を放流すれば、一千万尾の鮭が回帰遡上することになる。

 われわれには、山林も戻った。かつて、日本政府に押さえられていた官有林も、現在は、すべて、国民のものだ。明治以降、われわれは広大な国有林設定に、泣いた。東北地方のひとびとを漂民化し、隷属化させた最大の癌が、この山林国有化であった。

 われわれには製造工業もある。現在、三万六千以上の工場を接収している。ここからは年間四兆五千億以上の製品を出荷している。食糧から、武器まで、あらゆる製造工場が揃っている。

 製鉄、セメントなどの大規模工場もある。

 製造工場では生活必需品と、農業機械、建設機械、トラック、バスその他が生み出されるであろう。

 もちろん、よいことばかりではない。わが奥州国には鉄の絶対量が不足している。しかし、わが国はベトナムなどのように戦火の中から復興するのではない。すでに諸君は家を持っている。鉄道もあれば橋もある。鉄の不足は耐えられないものではない。わが国には地下資源が豊富だ。新たな鉱山の開発に期待をつなげる。

 電力の不足はさほど心配することはない。現在、建設中の三基の原子力発電所が稼働をはじめれば、約二十パーセントの節電で充分に乗り切れる。

 問題は原油にある。産出量は二十万キロリットル。天然ガスが五千五百万立方メートル。これは、日本国が国産を軽視して開発を怠った結果である。われわれは採掘規模の拡大、秋田沖油田の開発などに着手するであろう。アジア諸国の一人当たり消費量は〇・三八キロリットルである。われわれのニ・七ニキロリットルは明らかに使いすぎだといえる。これは、肥料、プラスチック、繊維などに石油を消費しているからにほかならない。われわれは当分の間、石油は燃料以外には消費しないのを原則とする。すでに、衣類などの各種製品は潤沢に行き渡っているはずだ。ニ、三年は、そうしたものに石油を使わなくても不便は感じないであろう。現在、流通経路上に備蓄されている石油で、すくなくとも来年の春までは保(も)つであろう。

 以上が独立国家運営における見通しである。

 つぎにわれわれは、外交における確固たる理念を持たねばならない。わたしは、外交の基本を平和におく。いかなる国とも敵対関係を持たない。これは隣国日本とも同じである。独立はしても、われわれは同胞であることに変わりはない。いずれ、条約で二国間に関するかぎり、通行制限は行なわないことを取り決めたい。ただ、わが国の侵略される懸念のある間は、特定国との安全保障条約は結ばねばならないと考える。

 中立を守る意味で、三沢にある米軍基地および、日本国の陸海空各自衛隊基地は早急なる撤去を要請する。わが国にはいかなる国の軍隊をも駐留させないのが、基本方針である。

 ……

 最後に、国民諸君に独立国家誕生についての充分なる認識と気概を持たれることをお願いする。日本国が、自衛隊による武力行使に訴える可能性がないとは、いいがたい。そうなっても、断じて、屈してはいけない。屈伏は第二の戊辰戦争となるだけである。われらは日本国の奴隷となるよりも名誉ある死を選ぶべきである。二度と、われらは、隷従しない。

 わが国にある無数の石の地蔵をこれ以上、増やさないために、われらは侵略に体を張るべきである。血をもってあがなわねばならぬものなら、そうしよう。

 われらは、永遠の侵略に歯止めをかけるべきときに遭遇している」

 野上首相の下、東北地方が「奥州国」として独立を果たした1978年当時の人口は約1,000万人とあるが、現在では921万2千人となっている(新潟県を含めた7県では1,157万2千人)。今後、少子化の進展でさらに人口減少の度合は加速すると見られる。

 小説では東北六県が独立したことになっているが、これに新潟県も加えた7県で見た場合、域内GDPは41兆7,830億円で、これは北欧のスウェーデンの41兆5,366億円を上回る。「国」としての実力は、欧州の中堅国並といったところである。

 問題は歳入構成比で、全国平均と比べ、東北地方は歳入に占める地方税の割合が低く(全国平均31%、東北地方19.3%)、逆に、地方交付税(全国平均20.0%、東北地方29.0%)と国庫支出金(全国平均15.7%、東北地方17.9%)の占める割合が高い。他地域よりも国の財源に依存する度合いが大きいということである。

 小説の中では「農業立国」を基本としているが、これは独立する、しないに関わらず、今後東北が必ず取り組んでいかなければならない最重要テーマであると私も思う。そして、農業立国のベースとなるのが、農業の成長産業化である。日本では農業は「衰退産業」というレッテルを半ば貼られてしまっている。高齢化の進展、なり手がいない、国土が狭い、高コストで輸入品に太刀打ちできない、などなど、事ある毎に農業の衰退が取り沙汰される。では、なぜ同じように高齢化が進み、国土が狭いヨーロッパの国々の中で農業が基幹産業となっている国があるのだろうか。それらの国の日本との違いは何なのだろうか。

 宮城大学副学長の大泉一貫氏はこの農業の成長産業化について、具体的な方策も含めて主張している。氏の講義を以前聞いたが、なるほどと思うことがいくつもあった。「農業において『余ったら輸出』というのが世界の常識だが、『余ったら生産調整』が日本の常識」、「市場発見、顧客発見の必要が農業にもあるにも関わらず、日本の農業政策は輸出忌避、顧客志向忌避で衰退させるべくして衰退させている」と指摘し、オランダ、デンマーク、スイス、フィンランド、ノルウェーなどの取り組みを紹介する。なるほど、まだまだヨーロッパ諸国に学ぶことはたくさんあるのだなと実感する。

 大泉氏が挙げるのは\こ市場への進出(市場の発見・創造、輸出の推進)∪源裟の向上(重機による分業協業、オートメーション工場、IT化施設の導入)CΓ閏〇唆伐宗蔽工業化社会、情報産業化、サービス産業化、ブランド化、他産業との融合)である。その中で、その通り!と思った氏の発言は「東北は食糧供給県ではない!」というものである。東北と言うと、まさにそのような位置づけで語られることが多い。しかし、発想の大転換が必要である。食糧を供給するのではない、味、品質共に優れた東北の食糧を日本含め世界中に売り込む、そのような意識が「農業立国」には絶対に必要である。そう言えば、以前紹介したが、青森県は三村知事を筆頭に、農産物の積極的な海外進出を図っていた。あの姿勢が必要なのである。そうそう、こうした大泉氏の講演、ウェブ上では全国肥料商連合会での講演の内容が文字になっている。当日の配布資料もPDFデータとなっていてありがたい。

 電力の問題も大きい。小説の中では原子力発電所を接収したことになっているが、東日本大震災後、事故を起こした福島第一原発は言うに及ばず、福島第二原発、女川原発、東通原発がすべて停止したままである。太陽光発電、風力発電など、自然エネルギーによる発電が模索されているが、その不安定さやコスト高がどうしてもネックになる。私が注目しているのは地熱発電である。日本は世界第三位の地熱資源がありながら、その活用は遅れている。その理由の一つが、地熱発電の候補地が温泉地に近く、地熱発電の開発によって温泉の源泉に影響が出るのではないかという懸念である。

 この懸念を払拭するバイナリー発電という方式での地熱発電が現在導入され始めている(参照サイト)。日本の地熱資源の中でも、東北には有望な地域が多い。日本地熱開発企業協議会は昨年9月に東北六県の地熱開発有望地区についての調査結果を発表している(参照PDF)。青森県の下北、八甲田、岩手県と秋田県にまたがる八幡平、岩手県と秋田県と宮城県にまたがる栗駒山、山形県と宮城県にまたがる蔵王、福島県の磐梯山が挙げられているが、中でも福島県の磐梯地域には、なんと原発2基分の地熱が埋まっているということである。八幡平地域もこの磐梯地域に匹敵する「埋蔵量」が見込まれている。確かに、八幡平山麓の玉川温泉だけ見ても、98度という沸騰寸前の日本一高温の温泉が、これまた日本一の毎分約9,000リットルも湧出している。これをバイナリー発電に生かさない手はない。また、風力発電では、洋上風力発電にも期待したい。

 農業以外の産業については、これまた以前紹介したが、「鉱業」を強く推したい。「都市鉱山」の開発は「黄金の国復活の狼煙となるに違いない。この「都市鉱山の開発」=非鉄金属リサイクルは秋田県北部を中心として現在産業化が進んでいる。それを含めた東北の産業創出プロジェクトは現在進行中である。東北地域産業クラスター形成戦略、通称「TOHOKUものづくりコリドー」である。

 この中では自動車関連部材等分野、光産業分野、半導体製造装置関連分野、医歯工連携・健康福祉分野、MEMS(微小電気機械素子)技術分野、非鉄金属リサイクル分野、IT分野の7つの技術・産業分野を、広域仙台地域、北上川流域地域、山形・米沢地域、広域郡山地域の4つの「牽引役」と、青森・弘前地域、八戸地域、秋田北部地域、本荘・由利地域、会津地域、いわき地域の6つの「産業集積地域」において、相互に連携を図りながら重点化することを目指している。このプロジェクトを基に、東北の各地域のさらなる産業発展を図っていくのが、「奥州国」の産業振興の近道であろうと考える。

 そうそう、「奥州国」という名称だが、奥州と言うと、陸奥国、すなわち東北の太平洋側の地域を指すので、もし東北地方が丸ごと独立する場合は別の名称を考えた方がよいと思う。「東北国」が真っ先に思い浮かぶが、この東北という言葉は中央から見た方角しか指し示していない。まあ、世界の国を見渡してみても、意外に「え?そんな意味だったの?」という国名が結構あるので(参照サイト)、「東北国」でもいいと言えばいいのだろうが、歴史的に言えば、小説の中で野上首相も紹介した「日高見(ひたかみ)国」を名乗るのもありだろうし、「蝦夷(えみし)国」「日之本(ひのもと)国」なども考えられる。

 独立国と言えば、以前「ミニ独立国」が流行ったことがあった。現在でも活動している国はあるようだが、どちらかと言うと下火の感がある。とりあえず、東北六県ないしは新潟も含めた7県は、この「ミニ独立国」として独立してみてはどうだろうか。規模から言ってまったく「ミニ」ではない「ミニ独立国」となるが、インパクトは大、地域振興にそのスケールメリットも最大限活かせるのではないだろうか。

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2012年02月09日

東北に関係する書籍その5〜「東北独立」を扱った小説

i_std_bsc_02_1-1a 上巻の白眉が先に紹介した、地方自治についての憲法解釈を巡るやり取りだとすると、下巻、そして本小説全体の白眉はもちろん、野上青森県知事による東北地方の「独立宣言」である。小説の中では、野上知事がテレビとラジオで緊急会見を開き、それを宣言している。首都圏を目指したおびただしい数の東北地方の難民が、難民受け入れ拒否を告げた東京都と荒川で衝突し、多数の死傷者を出した直後のことである。以下がその全文である。

 故郷を捨てた難民のみなさん。

 これから、わたしの述べることを、心して、聴いていただきたい。これは難民となって異郷を彷徨(さすら)うみなさんだけではなく、東北地方の全住民に聴いていただきたい。

 わたしは、昨日、難民受け容れを拒否するとの都知事声明を聴いた。それにつづく、沿道各県県知事の声明も聴いた。わたしは、そのことを予測していた。予測はしていたが、わたしの力では流民、難民となって旅立つひとびとを喰い止めることができなかった。いま、総数で百五十万を超すひとびとが故郷を捨てている。わたしは、都知事声明を聴いて、泪を流した。入都を拒否され、国道以外の通過はならぬと各県から通告されたみなさんは、わが同胞である。

 今日、難民と警視庁との激突も、聴いた。みなさんの攻撃は失敗に終わった。怪我人が二百余人。死者が三十二人。その他、荒川の水に消えた者がかなりある。極秘の警視庁情報だ。

 みなさんの敗北は最初から予想できた。三浦都知事は綿密な計画を樹(た)てていたのだ。すでに入都している六十万人の難民に専門家をまぎれ込ませて、暴徒化を口族(けしか)けた。とうぜん、暴動が起こった。都知事はそれを背景に、難民受け容れ拒否を断行したのだ。

 諸君には死の行進が課されている。現在、五本の国道を埋めた難民の数は約六十万人だ。都知事および、沿道各県知事は、六十万人の難民に死を宣告した。親を、子供を、犬猫を抱いた諸君は、飢えに苦しめられ、妻や娘を売りながら、ふたたび歩いて荒れはてた故郷に向かわねばならない。諸君に死を宣告したのは、なにも都知事、各県知事だけではない。もっとも諸君に無情だったのは、中央政府だ。政府が難民受け容れ対策をたてさえすれば、このような悲惨な状態にはならなかった。

 中央政府の東北蔑視は、いまに、はじまったことではない。

 わたしは、ここで過去に触れざるを得ない。

 わが東北地方は、明治絶対政権誕生前夜に、中央と生存を賭けて戦ったことがある。いわゆる、戊辰戦争だ。一八六七年。将軍徳川慶喜の大政奉還と同時に、薩長土は王政復古の宣言を行なった。時の京都守護職であった会津藩主松平容保が徳川家に味方したのは許せないというのが、口実だった。だが、それは口実だ。本音は東北地方諸藩を武力で叩きのめすことにあった。叩いて、ひれ伏させないかぎり、維新以降の主導権確立が危ないとみたのだ。当時の書簡で木戸孝允は、こう、述べている。<確乎、御基礎の相立候事、戦争より良法ござなく……太平は誓って血をもってのほか買求め相済まざるものと思考仕り候>と。

 薩長土は、松平容保死罪、庄内藩主酒井忠篤は領地没収との方針をたてた。朝廷より奥羽鎮撫総督をいただき、大山格之助、世良修蔵などを参謀として、進軍を開始した。東北諸藩に対しては会津、庄内両藩討伐令が下った。だが、東北諸藩は従うはずがなかった。逆に、明治元年に東北諸藩は奥州白石に集まって同盟を結んだ。

 四月十九日。世良参謀を斬った。そして、五月、仙台で東北二十五藩の大同盟が成った。さらには越後諸藩も加えて、奥羽越大同盟となったのだ。奥羽越大同盟は輪王寺宮法親王を擁立して<東武皇帝>と称し、東北地方の独立を宣言した。年号も、大政元年と改めた。諸外国に独立宣言を発し、ここに敢然と中央政府に独立戦争を挑んだのだ。

 だが、戦いは敗れた。六月にはじまり、十月に終わった。敗因は三春藩・河野広中の裏切りと、農民の戦争拒否にあった。何よりも、農民の協力拒否が敗北につながった。東北地方の自然条件はきびしい。農民は戦争どころではなかった。戦争は階級の争いである。自分たちには無縁だとみた。

 しかし、わたしにいわせれば、当時の農民の戦争拒否は残念だった。戦わねばならなかったのだ。全住民が挙げて、奥羽越同盟軍に馳せ参じるべきだった。戦いを放棄したばかりに、明治政府に隷従する身となった。ここに、中央政府の東北地方蔑視がその芽をふいたのだ。

 明治政府は富国強兵を方針とした。富は関東以南に築き、強兵は東北地方に求めた。

 無数の東北地方の若者が戦いの最前線に送られて、死んだ……。

 たとえば、ここに、一つの資料がある。

 明治二十五年に完成した林野行政による、官有林、民有林の区分だ。例をとる。奈良県の民有林は九十九・七パーセント。官有林は、わずか〇・三パーセントしかない。わが東北地方はどうか。官有林が宮城県で六十六パーセント。山形県八十三パーセント、福島県八十パーセント。秋田県はじつに九十四パーセントだ。そして、青森県。ここは九十七パーセントが官有林に没収されておる。

 農民は完全に山林から締め出された。中央政府によって生活の根拠を断ち切られたのだ。それまでは自由に木の枝や下草を取りに入山したのが、いっさい禁止された。当時の大林区署・小林区署、つまり、営林署の役人が警官と同じ支度であったのは、入山者を取り締まるためであった。東北地方の農業経営には山林原野が最重要であった。そこから飼料肥料の供給をたえず仰いでいたのだ。生活の根を絶たれた農民は、土地を捨てて都会に出るしかなかった。富国を急ぐ政府には、産業を支える低賃金労働者が必要だった。中央政府は東北地方の山林を国有林として農民の生活を奪うことで、労働力を得ようとした。

 幾多の婦女子が売られ、男は戦場にて、死んだ。

 都会に出た学業もなく、技術もない東北県人は、賤民として扱われた。ひとたび恐慌が襲うと、真っ先に馘(くび)を切られた。故郷には水呑み百姓の父母がいる。そこに戻れば喰えるだろうというのが、政府のことばだった。<今日の経済を考えるとき、人間の力で失業者を防ぐことはできやしません。とうぜん不景気は来る。失業者はできるのです。それはもう、わたしは当然だろうと思う。すこしも不思議はない>大蔵大臣井上準之助はそういった。内務大臣安達謙蔵は、こういった。<東北地方人の失業は、失業にあらず、帰村すればそれで済むのだ>と。また、雑誌「改造」の座談会で、こうも述べている。<そこは東洋流の家族制度のおかげで欧米とはよほどちがうのですね><失業手当てなどやると、遊民、惰民を生じるから、そういう弊害を極力防ごうと考えている。いかに日本の政府が民衆政治になったからといって、民衆におもねってそういうことをしたら、百年の禍根を残すと思うのです>と。

 賤民は故郷に追い返された。

 妻の身売り、娘売りがつづき、子供を買う最上婆アがあらわれた。東北地方の歴史はこの身売りにつきまとわれている。

 いまも、諸君は、わが妻や娘を沿道の男たちに売りながら南下している……。

 中央政府は、東北地方住民が貧しいのは土地が狭いからだと、定義した。その定義は満州占領の布石だった。広大な満州へはばたけと、大宣伝をはじめた。そして、若者はぞくぞくと満洲に渡った。政府の真の狙いは現地調達できる兵力にあった。

 話を現時点に進めよう。

 日本の高度経済成長が緒についた昭和三十六年、政府は、農業基本法を制定した。農業従事者と他産業従事者の所得格差をなくするための法律だとある。一戸当たり二・五ヘクタールの耕地があれば、他産業従事者と同じ所得があげられるから、小規模農家はやめろといった。そして、工場を東北地方に大量進出させた。これが、経済成長を遂げさせる基盤になった。その結果が貿易収支の黒字となり、その見返りとして諸外国の余剰農産物が法外な安値でどんどん入ってくるようになった。

 政府は稲作の減反を命じた。

 アメリカ産の飼料を使って家畜を飼えという総合農政がはじまったのだ。


 ――諸君は故郷を捨てた。巨大な難民の群れとなって、南下した。そこに諸君を待ち受けていたものがなんであったか。中央政府の壁だ。抜きがたい東北地方蔑視の壁だ。飛蝗来襲と同時に中央政府は東北地方から備蓄米を運び去ろうとした。そして、六千億の援助で、われわれを見捨てた。諸君の飢えは、だれも考えない。明治以来、中央政府は一貫してその棄民政策を取りつづけている。それでも、諸君は東京にさえ入ればなんとかなるだろうとの、幻想をいだいた。その諸君を待ち受けていたのは、警察力によるシャットアウトだった。諸君は幻想を打ち破られた。いまは、醒(さ)めるべきだ。すでに、その時がきている。

 わたしは、ここに、諸君に要請する。

 北に帰りたまえ。

 歩けない者は協力して連れ戻りたまえ。夫は、妻を沿道の男に差し出すのは、やめることだ。いかに苦しくとも、盗みはするな。犯罪は起こすな。全員で協力し合うことだ。落伍者は出すな。故郷まで、いかに遠かろうとも、自身の足で歩いて戻ることだ。

 わたしは、再度、要請する。

 諸君には東北地方人たる名誉を守ることを、願う。自分の足で大地に立つことを、お願いする。諸君に武器を向けた東京都に未練を抱くな。中央政府に幻想を抱くな。たとえ、飢え死のうと、意地は捨てるな。

 百五十万難民に、要請する。北に帰りなさい。

 諸君の安住の地は、北にしかない。

 故郷に戻りさえすれば、わたしが、諸君の食糧は保証する。

 わたしは、ここに、東北六県知事会を代表して、宣言する。われわれは、日本国から独立する。

 この大演説を聞いた、打ちひしがれた東北地方の難民たちの様子を作者はこう描写している。

「ことばにならない声が、国道を埋めた。透明で巨大な何かが、雨の国道を、難民の間を、走り抜けた。
 どよめきが野上高明の声を掻き消した。
 ボリュームはいっぱいに上げてあるが、それでもどよめきに掻き消された。
 号泣が湧いた。
 だれもかれもが、泣いていた。他人の目をはばかる者はなかった。何万という男女が、闇の底で泣き伏した」


 この野上知事の演説の中では、明治以降東北が置かれてきた状況が浮き彫りにされている。その中で、私もこれまで知らないでいたことがある。官有林と民有林の比率の件である。東北地方と他地域との間にそれほど割合に差があるのだとすれば、それは明らかな不均衡・不平等以外の何物でもない。現代ではどうなっているのか。そこで早速調べてみた。データは「2010年世界農林業センサス報告書」の第7巻「農山村地域調査報告書−都道府県編−」にある。結論から言うと、この小説中で野上知事が挙げているのは明治時代のことであり、現在ではそこまで極端な差ではないが、依然として西日本と比べて東北地方の国有林比率は高い。なるほど、明治維新以降の東北地方の貧しさは単に気候的な問題ではない、そのような政策的な理由もあったのかと勉強になった。

 例えば、演説中で例に挙げられている奈良県では、現在でも現況森林面積283,900ha中、国有林は12,701haで4.5%、民有林は271,199haで95.5%を占める。これに対して、東北各県を見てみると、青森県は615,064ha中、国有林375,903ha(61.1%)、民有林239,161ha(38.9%)、岩手県は1,147,152ha中、国有林360,716(31.4%)、民有林786,436(68.6%)、宮城県は408,510ha中、国有林121,793ha(29.8%)、民有林286,717ha(70.2%)、秋田県は820,640ha中、国有林373,509ha(45.5%)、民有林447,131ha(54.5%)、山形県は643,395ha中、国有林329,653ha(51.2%)、民有林313,742ha(48.8%)、福島県は936,128ha中、国有林372,449(39.8%)、民有林563,679(60.2%)と、明治時代よりは比率が下がっているものの、依然西日本に比べて高い割合を占めている。それが目で見て分かるのは、「私の森.jp」の中にあるこのページの図(上の写真)である。

 震災復興を巡るこれまでの動きを見て分かったことがある。「中央政府」は地方に財源や権限を譲り渡す意思は微塵も持っていない、ということである。未曾有の大震災に際してさえそうなのだから、平時にそうした議論が進むと考えるのは望むべくもないのだろう。

 野上知事の「独立宣言」、フィクションの話でありながら、同じ東北に住む者として、強いメッセージを感じる。

 東北地方人たる名誉を守れ。
 自分の足で大地に立て。
 東京都に未練を抱くな。
 中央政府に幻想を抱くな。
 たとえ、飢え死のうと、意地は捨てるな。


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2012年02月08日

東北に関係する書籍その4〜「東北独立」を扱った小説

蒼茫の大地滅ぶ下 作者である西村寿行は、作品の題材について徹底した調査を行うことには定評があったそうで、本作でもこうした明治以降、東北地方が置かれた状況について、野上知事が事細かに語っている。

 上下巻のうち、上巻についての白眉は、衆議院の地方行政委員会に喚問された野上知事の、自治大臣との応酬にあると言っていいと思う。場面は、衆議院の地方行政委員会。明野和重議員ら東北出身の与党国会議員47名が、東北六県知事に「非常時大権」を与えようという動議を提出しようとするが、先に野党の勝俣議員が、野上知事に対する審決請求の動議を提出する。そこでは野上知事の興味深い憲法解釈が披瀝される。以下にそのやり取りを挙げてみる。

野上青森県知事「宮根自治大臣。畦倉首相。あなたがたの質問に、わたしは同時に答えよう。勝俣委員からあったが、自治大臣は地方自治法にもとづいて行政不服審査法の規定を準用すればよい。また、首相は法一四六条にもとづいて、職務執行命令訴訟を起こし、わたしを罷免に持ち込みたまえ」

宮根自治大臣「野上知事。わたしは、この危機を深く認識しているつもりです。もちろん、明野委員の動議にも意義を認めています。しかしながら、勝俣委員の申請を無視するわけにはいかない。法治国家である以上、地方自治体首長といえども、憲法上の限界に服するのは、とうぜんです。日本国憲法が地方自治に関して一章四カ条を設けて自治権を保障しているのは承知しています。ですが、それは、あくまでも地方自治を国家の基本的統治機構の一環としてであって、<地方自治の本旨>は法律でこれを定めることにしたと、九二条にあります。勝俣委員の審決請求は、あなたの、個人権限への不当介入、個人および国家の財産侵奪――そういう訴えがもとになっているのです。いいかげんな釈明はあなたの立場をよけい不利にすると思いますが」

野上「勝俣委員の審決請求となっているもろもろの件については、あとで答えよう。しかし、自治大臣、わたしは、あなたとは別の解釈に立っていることを、申し上げておく。
 あなたは、憲法が地方自治を、国家の基本的統治機構の一環としてしか認めていないといったが、それは、ちがう。憲法九四条に地方自治の条例制定権が定められてあるが、これは、わたしは確認規定にすぎないと理解しておる。なぜなら、地域団体というものは国家の成立以前から存立していたものだからである。つまりは、自然発生だ。とうぜん、自治権も自然発生的に地方団体に生じていた。この権利を侵すことはならない。それは個人の基本的人権と同じだからだ。国が個人の基本的人権を侵せないのと同様に、国の立法でもって地方自治体の権限をみだりに収奪することは、許されない。
 <武内宿禰(たけのうちのすくね)東国より還(かえ)りまゐきて奏言(まう)さく、東夷(あづまのひな)の中、日高見(ひたかみ)国有り。其の国人男女(をとこめのこ)並に椎髪(かみをあげ)、身を文(もとろ)げて、人と為り勇悍(いさみたけ)し。是を統(す)べて蝦夷(えみし)と曰(い)ふ。亦(また)土地沃壌(こえ)て曠(ひろ)し。撃ちて取るべし>日本書紀にある記述だ。ここにある蝦夷が、かつての地方自治体の姿だといえる。律令国家に、つねに攻められ、国土をかすめとられてきた。現在は日本国家の一部として編入されている。現行憲法の精神はその時点に立ちかえって、地方自治というものをあらためて確認した。ただ、それだけのことにすぎない。わたしは憲法九二条、九四条を、その意味に解釈しておる。とうぜん、九四条にいう条例制定権も、そのことを確認しておるものと解す。地方自治法一四条一項にある<条例は地方公共団体の事務に関するものでなければならない>とする枷は、わたしは、とらない」

宮根「つまり、国の立法に従わないということですか」

野上「いや。

 国の立法を尊重しないわけではない。地方自治体は現に国と折衝をしながら政治を進めてきておる。ただし、あなたがた国家はつねに地方自治体から収奪することのみにつとめて、われわれを尊重しようとしない。現行憲法で自治権を確認したにもかかわらず、財源を抑えている。たとえば国税だ。国税本位の政策を改めようとしない。そのために、地方自治体には財源がとぼしい。政策を国庫補助金にたよらざるを得ない仕組みになっておる。三割自治といわれるゆえんだ。中央官庁の操作に、従わざるを得ない立場に置かれている。立法に従うとか従わないとかを論ずるより先に、憲法の精神を、あなたがたがつかむことが先決ではないのか。国と地方自治体は相互尊重主義で交わるべきだ」

宮根「あなたの論旨が、わたしには、わからない。いったい、あなたは何がいいたいのですか」

野上「地方自治体に対するみだりがましい干渉はやめなさい――わたしは、そう、あなたがたに忠告しておるのだ」

宮根「みだりがましい干渉!

 あなたは、地方自治体首長として、行政の責任を問われているのですよ。国家管掌米搬出を暴力で阻止し、警察の職務執行を妨害し、個人の財産を侵奪し、その上、東北地方守備隊なるものまで創設して、警察権を与え、あげくは暴行殺人までやらかしているのですぞ。にもかかわらず、あなたの論旨は明快だ。国は地方自治体にかかわるな。放っておけ――あなたは、青森県知事として、国家と対立を希(のぞ)み、あるいは革命でも起こそうというのですか」

野上「まだ、おわかりにならない」

宮根「わかりません。これは自治大臣に対する侮辱ですか」

野上「ちがう。

 君は有能な政治家だ。ただし、君が行なう政治と、わたしの行なう政治は、根本的にちがう。もし、君がわたしの立場なら、何をするかね」

宮根「…………」

野上「青森県は飢えておる!

 青森県全体が焼け野原(ローカスト)になっておる。熱風が走り回り、食糧は暴騰に暴騰をつづけておるのだ。このままでは大量の死者が出るのは、目に見えておる。暴騰を抑え、闇物資を扱う死の商人の跳梁(ちょうりょう)を監視し、暴動を抑えるために。東北地方守備隊がどれほど働いているか、ご存じか。あなたがたは、その青森県から、備蓄米を搬出しようとした。なぜだ、なぜ、そのような非人道的なことをする」

宮根「…………」

野上「それが君たちの、地方自治体に対するもののみかただ。つねに中央にしか目が行かない。地方からは、絞れるだけ、絞ろうとする。昔は、地方自治体の長官は国が派遣した。中央政界の収奪機関としてのみの、政治だった。とくに東北地方蔑視はひどかった。たとえば文化四年の北海道斜里海岸の防備に当たった津軽藩。明治三十五年一月の歩兵第五連隊の無謀きわまる八甲田山行軍、旅順攻撃、満蒙開拓団、太平洋戦争――つねに、わが東北地方の若者が最前線に立たされておる。そして、無数に死んでおるのだ。君たちに、われらが怨念がわかるか。
 新憲法ができた。
 憲法は地方自治体の自治権を認めた。いや、認めたのではない。もともとあったものを、確認したのだ。なるほど、たしかに地方自治体と国家とは尊重し合っていかねばならない。わたしとて、国家の権益を尊重しないわけではない。だが、君たちのやり方は、汚すぎる。未曾有の飛蝗禍を前に東北地方から米を搬出しようとした。その米はだれが作ったのだ。米を作れという。いまでも三年に一回は襲ってくる凶冷害に飢饉――それらと闘いながら、東北地方の農民は品種改良にはげみ、日本一の米倉に仕上げた。いまは、国民の基本的食糧である米は作るなという。もっとも、米を作ったところで、機械化攻勢の前に農民はつねに借金に苦しめられているのが現状だ。かつては子供を間引きしては石の地蔵を建て、娘は製糸工員に、売春婦に流れた。男は出稼ぎだ。その出稼ぎは、いまも連綿と続いておる。漂民だ。それでも、東北地方の住民は必死に耐えてきた。君たちはわが青森県にあるとほうもない数の石の地蔵をみたことがあるか。それらにこめられた貧しい県民の願いがわかるか。
 いままた、大飢饉が訪れている。有史以来のものだ。また、無数の石の地蔵が増えようとしているのだ。にもかかわらず、君たちは、わたしの行政を審決にかけようとしている。おそらく、畦倉君はわたしを職務執行訴訟に持ち込み、罷免を狙っているのであろう。やるがよい。わたしの答えは、それだ。わたしは現行憲法を、いま述べたように解釈する。国家の要(い)らざる介入は、許さない。かりに、憲法学者が、法律家が、そして国家が、わたしの解釈をまちがいだというのなら、それもよい。わたしは、そういう憲法には、従わない」

宮根「憲法に、従わない……」

野上「そうだ。人間には生きる権利がある。わが東北地方住民にも、その権利はある。わたしは知事会を招集して、ひとびとが生きのびるためのギリギリの政治を、行なっている。特別の条例を設けたのもそうなら、東北地方守備隊を設けたのも、それだ。生きのびるための戦いが憲法違反、国法違反というのなら、そんな憲法も国法も、わたしには要らぬ」

宮根「…………」

野上「わたしが、憲法だ」

野上「明野委員。

 動議を取り消したまえ。もっと勉強をすることだ。地方自治体首長が、国家から非常時大権をもらう必要は、毫(ごう)もない。政治は対等だ。わたしの権限は、畦倉君にも宮根君にも、また、この地方行政委員会にも、犯させはせぬ。国会だとて、それは、同じだ」

明野「わかりました。動議は取り消します」

 以上である。架空の想定であるが、国と地方、法律と地方自治に関して侃々諤々の議論が行われている。

 小説の中では、この野上知事の発言について、反対、賛成それぞれの立場から「識者」のコメントが挙げられているが、「反対」の立場からは、

・国法無視。
・独善性。
・政府管掌備蓄米が青森県民140万人にとって生命綱なのはわかるが、暴力で抑えるのではなく、話し合いで、あるいは陳情でそうすべきで、それが政治というもの。
・一度も上京をせずに軍隊まがいの隊を創設し、それに警察権を与えるのは重大な法無視。
・国法を超えた県条例を制定するなどはもっての外。
・「このわたしが憲法だ」と言わせたのは危険な思い上がり。

との意見が出されている。一方、「賛成」の立場からは、

・野上の説いた憲法92条の解釈はまったく正しい。地方自治の精神はそうあらねばならない。
・中央官庁が国庫資金給付で締め付け、地方住民の意志を自由に操作するために制定している国税主義のやり方は危険な中央集権主義。
・地方税主義に改め、県財政を豊かにして、地域住民の繁栄を図ってこその地方自治。憲法もその精神に立って地方自治を侵すべからざる権限として確認している。地方自治を国家官僚に踏みにじらせるべきではない。
・この天下非常時に野上知事を糾弾するために地方行政委員会を開くなどは論外。超法律的な強権を付与してこそしかるべき。

といった意見が出されたことになっている。

 ちなみに、ここで挙げられている憲法の第92条と第94条の条文は以下の通りである。

第九十二条 地方公共団体の組織及び運営に関する事項は、地方自治の本旨に基いて、法律でこれを定める。

第九十四条 地方公共団体は、その財産を管理し、事務を処理し、及び行政を執行する権能を有し、法律の範囲内で条例を制定することができる。

 第92条で議論になるのはこの「地方自治の本旨」についてであるが、それについては通常、住民自らが地域のことを考え、自らの手で治める「住民自治」と、地域のことは地方公共団体が自主性・自立性をもって、国の干渉を受けることなく自らの判断と責任の下に地域の実情に沿った行政を行っていく「団体自治」の2点からなるとされる。

 もう一つの第94条では、地方公共団体の特定の地方における行政機関としての役割を定めると共に、地方における「独自立法」としての条例制定権を認めている。ここでは、「法律の範囲内」という制約について、地方公共団体が独自に、条例で法律では規制されていない行為について規制することや、法律よりも厳しい基準で特定の行為を規制することなどについての適法性が議論となるところである。

 宮根自治大臣の主張は、「地方自治は憲法で保障された権利だが、それはあくまでも国家の基本的統治機構の一環としており、地方自治体首長といえども、その制約を受ける」というものである。ただし、「<地方自治の本旨>は法律でこれを定めることにした」と主張しているのは明らかに拡大解釈である。92条では「地方自治の本旨に基づいて、法律でこれを定める」とある。言うなれば「地方自治の本旨」の方が上であって、その地方自治の本旨に基づいて地方自治に関する法律を定めなければならないと言っているのである。

 宮根自治大臣の指摘するように、日本国憲法は、地方自治についてあえて一つの章を設けてその権利を保障している。それは特筆すべきことである。しかも真っ先に92条で「地方自治の本旨」に基づいて法律を定めなければいけないとしていることは、憲法が地方自治の権利について並々ならないレベルで重視していることが窺える。そこから野上青森県知事の主張は導き出されている。すなわち、92条は「確認事項」であって、憲法で言う地方公共団体は国家の成立以前から自然発生的に存立しており、そこに自治権も自然発生的に成立していた権利であるから、個人の基本的人権と同様に、地方自治の権限を国が立法で制限することは許されない、という主張である。

 私は法律の専門家でも何でもないが、逆に予断を持たずに条文を読んでみると、一見、この92条と94条との間には齟齬があるように思える。92条には「地方自治の本旨に基づいて、これを法律で定める」とあって、法律より先に地方自治の本旨があることを謳っておきながら、一方、94条では「法律の範囲内で条例を制定することができる」として、その地方自治の権能の一つである条例の制定範囲を「法律の範囲内」に制限している。これをどう解釈すべきかということである。その部分で、先ほども挙げた、94条に関連して、条例が法律では規制されていない行為を規制することや、法律よりも厳しい基準で特定の行為を規制することなどについての是非が問われてしまうことにもなるのである。

 94条を文字通り厳格に解釈すれば、法律で定めている範囲にない物事について規制することは許されないように見える。事実、かつてはそのような解釈もまかり通っていたようである。法律先占論と言うそうだが、国の法律が既に規制している事項については、その法律の委任がない限り条例を制定できないとする考え方である。しかし、時代の流れとともに、地域の実情を鑑みずに国が一律に規制をして例外を許さないことの非効率かつ不合理な面も指摘されるようになり、より柔軟な解釈で条例が運用されるようになってきた。

 その先駆けとなったのは1960年代の公害問題で、東京都などの自治体が条例で、国の法律よりも厳しい排出基準を定めたり、既存の法律が規制していない物質についての排出基準を新たに定めたりしたことである。ちなみに、前者のように法律より厳しい基準を課す条例を「上乗せ条例」、後者のように法律が定めていないことについて規制する条例を「横だし条例」と言うそうである。

 これらの条例を是とする解釈としては、「法律というのは全国的に適用される最低基準を定めたもので、それが憲法の言う『地方自治の本旨』に基づいた法律のあり方である」という主張が挙げられる。判例でも、「条例が法律に違反するかどうかは、両者の対象事項と規定文言を対比するだけでなく、それぞれの趣旨や目的、内容や効果を比較して、両者の間に矛盾抵触があるかどうかによって判断すべきである」とされている(徳島市公安条例事件、最大判:昭50・9・10)。つまり、94条で言う「法律の範囲内」というのは法律が対象としている事項や規定されている文言による制約ということではなく、制定された趣旨・目的・内容・効果が法律と矛盾していないということであるというのが、司法の憲法判断というわけである。

 とは言え、国と地方の間に上下関係があるように見えるのは、議論の中で野上知事が指摘し、現実にも事ある毎に槍玉に挙がる「三割自治」の問題の故である。一方に憲法で認められた「地方自治の本旨」というものがありながら、実際には財源を押さえられているために、国の意向に沿った形でしか自治体はその権限を行使できないという実態があるわけである。「違憲状態」という文言はよく「一票の格差」問題で取り沙汰されるが、それと同様に、もしくはそれ以上に、国と地方を巡るこのような状況が固定化されている現状こそ「違憲状態」なのではないかという気がしてならない。

 「地方は末端にあらず、国の先端なり」という言葉がある(山内徳信・水島朝穂「沖縄・読谷村の挑戦―米軍基地内に役場をつくった」岩波書店)。その言葉に込められた地方の気概、とりわけ地方のことはそこにいる自分たちが一番よく分かっているという自信と確信とに裏打ちされた、単なる国の「沙汰」を待つのではない、それを超えた地方の独自性、自立性を、憲法の趣旨に則って確立していく時期に来ているのではないかと思う。財政の自立が難しいのであれば、まずは精神の自立から。

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2012年02月07日

東北に関係する書籍その3〜「東北独立」を扱った小説

蒼茫の大地滅ぶ上 「蒼茫の大地、滅ぶ」(上下巻)は、西村寿行(にしむらじゅこう)が1978年に発表した小説である。最初、講談社からハードカバーで刊行され(アマゾン該当ページ )、その後1981年に徳間書店の選集に収録されると共に(アマゾン該当ページ)、講談社文庫から文庫版が刊行された( )。1984年には角川文庫としても刊行された( )。また、コミックにもなった(アマゾン該当ページ )。しかし、現在はいずれも絶版となり、古本としてしか手に入らない。しかも、これがなかなか見当たらない。Amazonなどでもかなり高値がついていたりする。私はネット上で奇しくも(そう、この小説の舞台からすると奇しくも、である)青森県にある古書店に在庫があるのを見つけて安く手に入れることができた。

 オビにはこうある。

「豊穣多彩な想像力が未来を予見した―。東北六県壊滅の飛蝗襲来と悲劇の奥州国独立 西村寿行の代表作 感動のパニック・ロマン巨編」

「飛蝗の群団――。幅十キロ、長さ二十キロ 蒼々茫々の大地に 壊滅を す死の群団の来襲。生地獄の東北に明治以来百年の歴史を覆す独立の烽火。日本政府と奥州国の対決。自然の壮絶さと悲劇の独立を謳うバイオレンス、パニック・ロマン巨編。」

 飛蝗(ひこう)というのはトノサマバッタなどの変異種で、大量発生して大集団を作り、植物や作物を食い尽くす蝗害(こうがい)を引き起こすことがある。その飛蝗が中国大陸で大発生して総重量2億トンという想像を絶する巨大な群れとなり、日本海を渡って東北地方に襲来、東北地方はありとあらゆる農作物を食い尽くされ、深刻な飢餓状態に陥るという設定である。

 一見、あり得なさそうな設定であるが、有史以来人類は蝗害に度々襲われている。しかも、過去の災害というわけではなく、特にアフリカでは近現代でも時折被害がある。中国でも2005年に海南省が飛蝗の被害を受けている。2007年にエチオピアで発生した飛蝗は北ソマリアからインド洋を越え、パキスタンやインドにまで到達したということで、中国で発生した飛蝗が日本に到達することもあり得ないことではないことが分かる。日本でも、明治初期には北海道の道南や東南部で、昭和40年代には沖縄県の大東諸島で、昭和60年代には鹿児島県の馬毛島で、それぞれ蝗害が発生している。最近では2007年に開港寸前の関西空港第二滑走路にトノサマバッタが数百万匹という大量発生をしたことが話題になった(参照サイト)。

 この小説は、オビにもあるように、そうした蝗害を取り扱ったパニック小説と捉えることもできるが、話の展開はむしろ蝗害を受けてからの東北地方と中央政府との軋轢や駆け引きといった動きに焦点が当たっており、また明治維新以降東北地方の置かれた立場などについても詳細に語られているので、その意味では社会派小説としても捉えられそうである。

 飛蝗が最初に降り立った青森県では津軽平野の農作物が瞬く間に食い尽くされる。与党の幹事長を務め次の総理とまで言われながら中央政界を引退して青森県知事となっていた野上正明は、東北六県から若者を6,000人集めて「東北地方守備隊」を結成させ、混乱の収拾に努める。一方、政府は被害の拡大に備えて、全国の備蓄米を東北分も含めてすべて首都圏に集めようとするが、食糧難に喘ぐ東北からの備蓄米の搬出は東北地方守備隊に阻止される。その後、飛蝗は岩手県へ南下、さらに宮城県、秋田県、山形県へも広がり、米や野菜は軒並み食い尽くされ、食糧難が深刻になり、治安も悪化する。蝗害の影響で株価が大暴落、円の価値も下がる。政府が決定した被災地支援は6,000億円の救済費割り当てのみ。失業や食糧難で暮らせなくなった東北地方の住民は150万人もの難民となって首都圏を目指すが、東京都は難民の流入を警察力で阻止し、東京都周辺の各県も難民の滞在と国道以外の通行を禁じて締め出しを図る。苦境に立つ東北地方の住民に向けて、野上知事は他の東北の知事と共に、東北六県の日本国からの独立、そして「奥州国」の建国を宣言する、――というストーリーである。

 「独立」と言うと、どこか遠い国の話であって、今の日本にあっては非現実的な話と捉える向きもあるかもしれない。しかし、この小説にあるような、中央政府が自分たちのことばかりが優先で、地方からは収奪することしか頭にない、という状況があった場合、本当に自分たちのことを自分たちで決めることのできる新しい国を自分たちでつくる、という動きが出てきても不思議ではない。

 事実、東北が独立を目指したことが歴史上あったとされる。本書の中でも紹介されているが、明治維新の時である。この時、奥羽越列藩同盟は輪王寺宮公現法親王を推戴した。輪王寺宮公現法親王は「東武皇帝」と称した。年号も「大政」と改元した。諸外国に使者を送り貿易開始の要請も行った。これはもう一つの日本ができたような様相である。当時のニューヨークタイムズは、「日本の東北地方に新帝が立ち、2人のミカドが並立する状況になった」と伝えていたそうで、国際的に見ても日本という国が2つに分かれたという認識があったようである。しかし、奥羽越列藩同盟側の敗戦と同盟自体の瓦解により、この「もう一つの日本」が日の目を見ることはなかったわけである。

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2011年12月30日

東北に関係する書籍その2〜「平泉」を読み解く

平泉の世紀 「平泉―仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群―」が世界遺産に登録されて半年が経った。東日本大震災発生後の4月、5月に前年比で8割減だった観光客数は、世界遺産登録後増加に転じ、8月は逆に前年比8割増の28万人以上が平泉を訪れたという。

 このように世界遺産登録で平泉が注目を集める中、平泉の文化遺産や奥州藤原氏について解説した書籍が相次いで刊行されている。その中の何冊かを読んでみたのだが、世界遺産登録後にわかに制作したためなのか、正直その内容について首を傾げざるを得ないような書籍もいくつかあったのが残念であった。

 ある書籍は何人かの手で分担して書かれていたが、そのうちのいくつかの部分に明らかな誤りがあった。また別の書籍はだいぶ以前に出された書籍に加筆修正を施し新装版として出されていたが、元の書籍がそうだったのだろうが「中央史観」のようなものが強く、平泉の文化遺産の意義や奥州藤原氏が歴史上果たした役割について矮小化するような記載が散見された。

 せっかく世界遺産に登録されて注目が集まり、興味を持つ人も増えているという中でこうした書籍が出回っているというのは甚だ残念である。そこで、平泉の文化遺産や奥州藤原氏の存在について興味を持った人に、私だったらどの書籍を推薦するだろうかと考えてみた。

 と言うか、考えるまでもなく決まっているのだが、私が推薦する書籍は「平泉の世紀―古代と中世の間」(高橋富雄著)である。著者の高橋富雄氏は東北大学名誉教授、福島県立博物館名誉館長で、東北の古代・中世史研究の第一人者である。

 今回、改めて読み直してみたが、読む度に新たな発見がある。東北とは何か、その東北にあって平泉の持つ意味は何なのか、実に明確な主張として伝わってくる。この書籍を読んでから平泉を訪れ、中尊寺や毛越寺を見ればきっと、より多くのものが観えてくるはずである。

 ならば平泉とは何だったのか。本書には様々な角度からその解答が示されているが、

「『ヤマト』では『エゾ』を迎え入れる時は、これを被征服者として服属儀礼に用いた。平泉では、三代そろってみずからを『東夷』『俘囚』と遜称したのに、『みやこ』はこの人たちを、公然と『夷狄』『戎狄』『えびす』と賎称した。にもかかわらず、その平泉は『みやこの文化』を『みやこさながら』に受け入れた。そして『みやこ』同等もしくはそれ以上の『みやこ』文化に再創造した。今日、金色堂以上に京都的・貴族的な総合日本文化はない。毛越寺浄土庭園以上に王朝の風雅を今にとどめる庭園遺構はないのである。」

これに尽きるのではないだろうか。加えてもう一つ、政治的には、

「平泉にも『一天の君と雖も恐るべからず」の覚悟はできていた。…(中略)…ただし、それは『みちのく』を否定する政治に対する、いやイデオロギーに対する民族自決の主張である。国府や鎮守府や朝廷が一方的な主張に出ない限り、平泉は、自分だけが日本であるという主張はまったくしなかった。はっきり、『もう一つの名誉ある日本の創造』という自覚に立っていた。それ以上でも、それ以下でもなかった。それはこれまでかつて『人格』であることを認められなかった『エゾの国』『縄文の国』に、人格としての独立を克ち取り、それに実あらしめる系統的な政治の主張だったのである。」

という側面があったのである。

 奥州藤原氏は高橋富雄氏という、自分たちの主義主張を余すところなく伝えてくれるスポークスマンを持った、そのようにすら思える。

 この書籍は最初NHKブックスとして1999年に出されたが、その後絶版になっていた(アマゾン該当ページ)。来年1月に講談社学術文庫で再販されることになった(アマゾン該当ページ)のはとても喜ばしいことである。

 高橋氏は、岩手日報のインタビューで、「東北が平泉にまで戻ることができたなら、新しい日本をつくる母体になり得る」と語っている(該当ページ)。7年も前の記事だが、今こそがまさにその言葉の意味を考える時だと思う。


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2011年11月24日

東北に関係する書籍その1〜東北に日本の「ふるさと」の風景を見出した本

nokositainihon 私の手元に1冊の本がある。「残したいね 日本の風景」( アマゾン該当ページ )という本である。

  出版元のサイトでは本書について、

「あの頃の自分が一瞬にして蘇ってくる里山風景。何でもない、けれどその人にとってはかけがえのない風景。そんな風景がいまだに残っていればいいが、現実にはふるさとの風景はひどい勢いで消えつつある。この活動は、これが見納めとなるかもしれない、〈絶滅のおそれのある風景〉にいまのうちに足を運んでほしいという著者の切なる願いであり、誘いです。最後のDISCOVER JAPANです。」

と説明している。

 DISCOVER JAPANというのは、旧国鉄が1970年に始めた個人旅行拡大キャンペーンで、当時電通でこのキャンペーンを企画したのが、この本の著者である藤岡和賀夫氏である。この本の初版は2006年で、キャンペーン開始から36年が経っている。氏は「絶滅」のおそれのある日本の言葉、風景、習慣を書物に採録する「レッドブック運動」を提唱し、活動している。上の説明からは、自身が企画した"DISCOVER JAPAN"の締め括りとして、そしてこの「レッドブック運動」の一環としてこの本が出されたことが窺える。

 ちなみに、2008年から判佝納劼茲同名の雑誌が隔月刊で出されているが、これは旧国鉄のキャンペーンとは直接の関係はないようである。なお、藤岡氏は本当の集大成として、キャンペーンから40年目の2010年に「DISCOVER JAPAN 40年記念カタログ」(アマゾン該当ページ)を出している。

 この本を見つけたのは、私が盛岡に行った時には必ず立ち寄る「さわや書店」である。さわや書店は、盛岡市に本店のある書店チェーンで、盛岡では東山堂と並ぶ老舗書店である。大通りに本店があるが、盛岡駅内のフェザン店が行きやすいので、私が行くのはもっぱらこっちである。何がいいかと言うと、このフェザン店、通路に面した一番人通りの多いスペースの一角に、地元岩手や東北に関係した書籍を多数陳列しているのである。地元出身の作家の小説から観光ガイドブック、いわゆる分冊百科のうちの東北に関係する号、地元出版社の本まで、東北に関する様々な書籍がそこには並べられており、行く度に何か新しい本が出てないか見る楽しみがある。

 普通の書店は、一番人通りが多いところには売れ筋の本を並べるものだと思うが、東北の本をピックアップして展示することにも端的に表れている、自分の店でチョイスした本をあえて並べるというこのさわや書店の姿勢は、私は好きである。こうしたさわや書店のスタイルが出来上がった経緯は、「盛岡さわや書店奮戦記」( アマゾン該当ページ ) として一冊の本になってまとめられている他、東北経済産業局の「東北21」でも紹介されている。

 さて、この「残したいね 日本の風景」のサブタイトルは、「絶滅のおそれのある懐かしい日本の風景」である。その「残したい」日本の風景が本書では50カ所紹介されているが、なんとそのすべてが東北六県のものなのである。藤岡氏は、今なお残る「懐かしい日本の風景」を、東北の様々な地域の風景の中に見出していたということなのだろう。

 それにしても東北のあちこちをよく訪ね歩いたものである。私が知らなかった地域もいくつもあった。確かに、見ているだけで心が和むような、そんな景色がページを繰る毎に現れる。この景色をこの先も残していきたいと考えた藤岡氏の思いがよく伝わってくる。

 本書には、東北の選りすぐりの50の風景の写真と共に、その土地の料理や名産品、行事などを紹介する「ふるさとアレコレ」や「ゆかりの人」などの雑学、周辺のみどころ案内なども掲載されており、実際にその土地を訪れたいと思った時に役立つ情報も収録されている。

 しかし、藤岡氏が残したいと強く思った、この本に収められたかけがえのない50の東北の景色のうち、残念ながら失われてしまった景色がいくつかある。言うまでもない、東日本大震災のためにである。本書で紹介されている宮城県南三陸町志津川、宮城県石巻市雄勝町、福島県相馬市松川浦、などがそうである。

 志津川の風景には「平凡な幸せ 絵に描いた町」というタイトルが付いている。近景に田圃、中景に家々、遠景に志津川湾の海が写る、本当にそのタイトルのような風景である。その「平凡な幸せ」を「絵に描いた」ような風景が、あっという間に消し去られてしまったことの重さに改めて思いが至る。
 
 そうした意味でも、この本は震災前の東北の景色を捉えた貴重な本となってしまった。確かにそこに、「幸せな風景」があったことを印す記念碑的な存在とも言える。本書に収録されている風景は、単に東北の美しい自然を紹介したものではない。そのような類書は他にたくさんあるが、ここに収められている風景は、サブタイトルに「懐かしい日本の風景」という言葉がある通り、多くの人が見て懐かしいと思うようないわゆる「ふるさと」の風景である。そこには、自然と共存してつくり上げてきたその土地の人の生活の営みがある。

 本書の風景の写真の中に人はほとんど登場しないが、これらの風景の土台には間違いなくそこに住む人々の日々の営みが前提条件としてあったはずである。それがなくしてこれらの風景が残したいふるさとの風景とはなり得なかったはずだからである。言い換えれば、不幸にも失われてしまったこれらの風景がこの地で再び見られるようになった時こそ、東北が本当に復興したと言える時かもしれない。

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2011年10月06日

東北の歴史のミステリーその26〜邪馬台国はやっぱり岩手にあった?

新日本の七不思議  ふらっと本屋を覗いてみたら、以前紹介した邪馬台国はどこですか? 」の続編として、「新・日本の七不思議」(鯨統一郎、創元推理文庫、アマゾン該当ページ )が出ていた。タイトル通り、「原日本人」、「邪馬台国」、「万葉集」、「空海」、「本能寺の変議」、「写楽」、「真珠湾攻撃」という7つの不思議について主人公の宮田が解き明かす内容である。このうち「邪馬台国の不思議」では、前々作「邪馬台国はどこですか?」で主人公の宮田が主張した「邪馬台国=岩手説」を補強するような話が出てきて興味深い。

 しかし、今回この邪馬台国=岩手説を補強する根拠となる説自体は、宮田(=作者)オリジナルの説ではない。既存の説を「邪馬台国=岩手説」の根拠に結びつけている。従って、前々作「邪馬台国はどこですか」での「邪馬台国=岩手説」と違って、安心して内容を説明できるのだが、まず古事記における天照大神の天岩戸伝説について、天照大神=卑弥呼、天岩戸伝説=皆既日食と推定する。卑弥呼が生きていた時期に起きた皆既日食は247年と248年で、このうち248年は卑弥呼が死んだとされる年である。卑弥呼は天文学・占星術を元に民を治めていたが、皆既日食という天変地異が起こったことによって失脚して死去した(殺害された?)のではないかと論は進む。これらはいずれも既にある説である。

 さて、247年の皆既日食と248年の皆既日食のことについても、起きた時刻やそれが見られた地域などが天文学上の計算で既に導き出されている。それによると、247年の方は九州で見られたが、皆既日食となったのは日本では日没後のことで、結局部分日食で終わっている。部分日食と皆既日食ではインパクトがまったく違う(部分日食では曇り空程度の暗さで意外に明るいので「天変地異」とまではいかない)ので、247年の皆既日食は卑弥呼の失脚には影響がない。

 対して、卑弥呼が死んだとされる248年の皆既日食は間違いなく日本で観測された。問題はこの時皆既日食が見られた地域である。これも既に特定されているのだが、それを本書では「能登から奥州」の範囲だと言っている。そして、現在の議論で邪馬台国があったとされる九州や近畿では皆既日食ではなかった。従って、邪馬台国は(九州でも近畿でもなく東北の)岩手なのだ、という結論である。

 ただ、「奥州」と言っても広い。その全域でなくても、少なくとも岩手県内で見られたのであれば「邪馬台国=岩手説」を補強するのだろうが、そうでなければ宮田(=作者)の論を借りれば、岩手県ですらなくなってしまう。実際、このサイトで調べてみると、この時の皆既帯は岩手県よりはるかに南の、現在の福島県一帯を通っているように見える。とすると、この皆既日食は決して「邪馬台国=岩手説」を補強するものではないということになってしまうのではないだろうか。

 とは言え、2000年近く前の月の運動や地球の自転速度などについての考えが研究者によって異なるため、皆既帯の範囲にも微妙にズレが生じる可能性もあるとされ、実際、このサイトで皆既帯を確認してみると、図が小さくて判別は難しいものの岩手県を通っているように見えなくもない。ついでに言えば、このサイトでの248年の皆既帯についての表記は「早朝に能登から奥州へ横断」とある。東北のことを「奥州」と表現するのは現在ではあまり一般的ではないので、作者もこの話をまとめるに当たってはこのサイトの表記を参考にした可能性がある。

 それよりも何よりも謎なのは、「邪馬台国はどこですか」であれほど宮田を罵倒し、手ひどく攻撃していた新進気鋭、才色兼備の歴史学者、静香がすっかり宮田と仲良くなり、親密さすら感じさせることである。静香に罵倒されながらも最後には宮田の一見突拍子もない歴史解釈が勝利してしまうところに前々作の醍醐味の一つがあったと思うのだが、その二人が仲良くなってしまうというのは、例えて言えば、トムとジェリーがすっかり仲良くなってしまって展開される物語のように何か物足りない。いったい二人に何があったのか、むしろそちらの方が本書における最大の謎である(笑)。その辺りは恐らく、今後の作品で遡って明らかにされるのであろう。

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2008年02月26日

東北の歴史のミステリーその19〜なぜ「阿津賀志山」だったのか

00ad1e74.jpg 吾妻鏡によると、この防塁の存在は鎌倉側も察知し、畠山重忠は鋤や鍬を持った工兵隊80名を同行させ、夜のうちにこの堀を埋めてしまったという。しかし、延べ25万人が半年以上かけて築いた大規模な防塁を80人が一晩のうちに埋めてしまえるものだろうか。この記述の背景には以前も書いたが、鎌倉側の「平泉側のやることなどこの程度」ということを強調したかった意図があるように思えてならない。

 そのことを暗示しているような文献があった。「義経とその時代」(大三輪龍彦、関 幸彦、福田豊彦編、山川出版社、アマゾン該当ページ )に収録されている吉井 宏氏の「阿津賀志山防塁を考える」である。そこには以下のようにある。

 「堀の埋め土を発掘断面図でみると、埋め土のほとんどが水平に堆積しているのがわかる。凹部に自然に土が堆積していくときには凹部の形状にあわせてレンズ状(三日月状)にたまっていくものであるから、水平堆積は人為的に埋めた証拠と考えることができる。ただしその堆積状況は耕土を意味すると思われ、けっして鎌倉軍が堀の片側から一気に土砂を流し込んだというものではない。つまり発掘地点のどこからも工兵隊の作業痕跡は発見されなかったのである」

 とすると、吾妻鏡にある畠山隊の記述は単なる「フィクション」か、または仮に本当に埋められたのだとしてもそれは広大な防塁のごくごく一部にとどまり、吾妻鏡の記載から想像されるようなほどの範囲が埋められたのではなかったのではないかと考えられる。

 実際には、堀を埋める埋めないよりも大きかったのは、安藤次なる地元民に案内させ、鎌倉側の小山朝光ら7騎が阿津賀志山の西部の山の道なき道を越え、国衡の本陣の北方に出て鬨の声を挙げて濃霧の中、矢を放ったために、平泉側が大混乱に陥ったことであったようである。いわば、源平合戦の一の谷の戦いの鵯越のようなことを鎌倉側にされてしまったのである。

 この壮大な防塁で安心してしまったのか、奥州軍がこの阿津賀志山から外に動かず、守りに徹していたことは返す返すも残念なことである。防塁で鎌倉軍を足止めしつつ、史実とは逆に、奥州軍の方が急峻な山道を越え、阿津賀志山の南から鎌倉軍の横手に奇襲をかけていたらどうなったかと想像するのである。

 ましてや、この合戦、頼朝が奥州制覇という父祖の宿意を晴らすべく、前九年の役で源頼義が勝利を収めた厨川の柵に到着する日にちまで前九年の役終結の日に合わせたが、それは旧暦の9月17日である。この年の9月17日は新暦で言うと10月28日である。すなわち、かつての奥州軍が得意とした騎馬兵を主体としたゲリラ戦に持ち込んであと1月ほど持ちこたえることができていれば、東北は本格的な冬を迎え、「アウェー」で冬の寒さに慣れていない鎌倉軍との力関係も変わったのではないか、それこそ前九年の役の折に、安倍貞任が源頼義に冬場の戦いで壊滅的な打撃を与えたという「黄海の戦い」の再現になったのではないか、と想像するのである。

 ところで、前述の吉井氏は面白いことを書いている。阿津賀志山の防塁は未完成だったというのである。氏は、まず元寇の防塁や万里の長城などを例に、こうした防塁は軍事的な防塁であると同時に異民族・異文化との境界を示しているものである」と指摘している。つまり、奥州藤原氏側から見ると、鎌倉軍の進軍は仏都平泉を蹂躙せんとする「異民族」の侵攻だったというわけである。その上で氏は、阿津賀志山の中腹で終わっている防塁は、「本来はどこまでも西に延びて日本海に通じるべきものであった」としている。それによって、「自分たちの領域を阿津賀志山以北に設定し、これよりは『奥州夷狄』の地であることを宣言した」というのが吉井氏の解釈である。

 吉井氏は阿津賀志山の戦い以降、奥州軍が総崩れになった理由を、「阿津賀志山という境界線を越えられたこと」によるものだと指摘している。つまり、単なる防衛線ではなく、心理的な境界線でもあった阿津賀志山を越えられてしまったことによる「深刻な敗北感」が奥州軍や泰衡自身を襲ったというのである。これまでにないユニークな視点だと思う(写真は阿津賀志山山頂から見た福島盆地。819年前この地に立った奥州側の大将軍、藤原国衡に眼下の鎌倉方の大軍はどのように映ったのだろうか)。

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2006年12月22日

東北の歴史のミステリーその13〜邪馬台国は東北・岩手にあった?

e48ca4a5.jpg 邪馬台国と言えば、中国の三国時代の歴史書「三国志」のうちの「魏書」東夷伝の倭人の条に出てくる女王卑弥呼が治めていた国のことである。邪馬台国については様々な謎があるが、最大の謎の一つは邪馬台国がどこにあったのかということである。有力な説は「畿内説」、「九州説」の2つであるが、「邪馬台国比定地一覧」によると、それ以外にも徳島、和歌山、山梨、長野、愛媛、石川、千葉、さらにはエジプト、インドネシアなど、様々な説が出されている。

 これに対して、たまたま書店をブラブラしてた時に見つけた「邪馬台国はどこですか?」(鯨統一郎、創元推理文庫、アマゾン該当ページ)で、主人公の宮田は邪馬台国は東北の岩手にあったとして、「こんなに堂々と土地全体が“邪馬台国はここだ!”って叫んでるのにそれに気づかないなんて、そうとう呑気だぜ」と豪語している。

 なぜそこまで断言できるのか、その根拠となるところをここで紹介したい、ところなのだが、何と言っても相手は論文でもなく歴史書でもなく「推理小説」である。安易に論旨だけ抜き出してしまうと、いわゆる「ネタバレ」になってしまう。他の人もそう考えたのであろう、ネット上に同書を紹介しているサイトは少なからずあるが、いずれもなぜ岩手にあると言えるのかまで紹介しているサイトは皆無である。そのせいかどうか、邪馬台国=岩手説はおおっぴらに語られることもなく、先に紹介した「邪馬台国比定地一覧」にも載っていない。

 しかしこれは残念なことではないだろうか。それ相応の根拠があっての邪馬台国=岩手説である。実際、この本を読むと、邪馬台国が岩手にあったという説が相当な説得力を持って語られているのだが、皆が「ネタバレ」を気にしているからか、そこから先話が発展しない。

 特に最後、岩手のどこにあったのか聞かれて(岩手と言っても広いのである、何と言っても四国と同じくらいの面積がある)、主人公がそれを明かす場面があるのだが、そこで出た地名こそが邪馬台国=岩手説の最大の根拠と言って差し支えないと思う。「土地全体が叫んでいる」わけである。東北の人なら誰でも知っているある有名な山の名前がそこで語られるのだが、この小説のクライマックスと言っていい場面、すなわち通常の推理小説で言えば名探偵が「犯人はキミだ」と指差しているような場面であるだけに、その地名を出すことも「犯人」が誰かを言ってしまうようで憚られる。

 考えてみればこのような、主人公が歴史の謎に挑む小説で最も有名な例は、義経=ジンギスカン説を正面から取り上げた高木彬光の「成吉思汗の秘密」(光文社文庫、アマゾン該当ページ)だと思うが、こちらについては刊行から既に50年近く経っているからか、義経=ジンギスカン説が既に巷間広く知られているからか、主人公の名探偵神津恭介の義経=ジンギスカンの論旨はネット上のあちこちで紹介されている。そうすると、邪馬台国=岩手説が公に論じられるにはまだまだ時間が必要ということになるのかもしれない(尤も、噴飯もので端から取り上げられないかもしれないが)。それまでは、邪馬台国=岩手説は、作者である鯨統一郎氏に敬意を表して、同書を読んだ人同士で議論する他ないかもしれない。

 そう言えば、「成吉思汗の秘密」では、ジンギスカンが義経である証拠として、この「成吉思汗」の名前そのものに注目していた。すなわちこれは「吉(野山での誓いが)成りて水干(白拍子の衣装=静)を思う」という意で、ジンギスカン(成吉思汗)とは、義経が日本にいる静御前に「自分はここにいる」というメッセージを伝えるための名前だったのだということになっている。

 それだけでなく、さらに同書の最後では、「成吉思汗」を万葉仮名として読み下せば「なすよしもがな」となり、これは静御前が敵である頼朝の眼前で義経を思って詠んだ「しずやしず しずのおだまき 繰り返し 昔を今に なすよしもがな」の「なすよしもがな」のことで、やはり義経が静御前に自分のことを伝えようとしたのだということが語られている。「邪馬台国はどこですか?」で明かされる、邪馬台国=岩手説の根拠となる地名もこれと同じようなニュアンスで語られていると言えば、分かる人には分かるだろうか。

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2006年09月04日

東北の歴史のミステリーその11〜泰衡は死んでいなかった?

c10f6847.jpg 中尊寺金色堂に納められた首級がやはり泰衡のものである可能性が高いとする資料が実は私の手元にあった。「奥州平泉黄金の世紀」(荒木伸介・角田文衞他、新潮社、アマゾン該当ページ)という本であるが、その中に、東京大学理学部教授だった故・埴原和郎氏が「藤原一族の骨格データを読む」という論文を寄稿している。埴原氏は、自然人類学の権威であり、特に歯や骨のデータから日本人のルーツや成り立ちを解き明かそうとしていたひとである。

 この本の中で埴原氏は、昭和25年の御遺体学術調査の折に得られた藤原四代の頭骨の、‘骨最大長、頭骨最大幅、バジオン・ブレグマ高、に帽弓幅、ゾ經藕癲↓ι”、鼻高、といった「人類学的に重要な計測値」を多変量解析している(写真参照)。

 埴原氏はまず、クラスター分析によって藤原四代の頭骨の相互の類似性を分析している。それによると、4人の中で三代秀衡の頭骨と四代泰衡の頭骨がもっとも近いという結果が得られている。そして、秀衡・泰衡は二代基衡・初代清衡とはやや異なっており、それは基衡が安倍氏から妻を迎えて秀衡を産んだことと関係があるかもしれないとしている。

 この結果は、中尊寺金色堂に納められた首級がやはり泰衡のものであると判断するに足る根拠を提供しているように考えられる。以前紹介した金色堂はなぜ建てられたか―金色堂に眠る首級の謎を解く 」で高井ふみや氏が主張しているように、もし首級が経清のものとした場合、ではなぜ秀衡の頭骨と、秀衡から数えて三代前の経清の頭骨とが、清衡や基衡よりも互いに似通っているのかということを説明することは困難なように思える。まして、これまた以前紹介した歴史おもしろ推理 謎の迷宮入り事件を解け 」で楠木誠一郎氏が主張しているように、泰衡の首級が誰か別の人間のものだとした場合、それが秀衡の頭骨とかなり似ていることを説明するのはさらに困難である。

 埴原氏はさらに分析を進め、これら藤原四代の頭骨は、現代京都人に最も近く、現代東北人とはかなり違っていること、そしてまた14世紀鎌倉人、八雲アイヌとはまったく異なっているという結果を得ている。また、判別関数法から見てみると、アイヌと東北人のデータを使うと藤原四代は東北人に属すると分類され、さらに東北人と京都人のデータを使うといずれも京都人に分類されるという結果となったという。これらの結果から埴原氏は、奥州藤原氏が京都出身である可能性は相当高いと主張している。

 したがって、泰衡の首級がもし偽首だとした場合、頭骨データから見て、その身代わりは地元東北人であってはならず、京都出身の特徴を持つ秀衡や泰衡と極めて近い血縁者などでなくてはならないことになる。例えば少なくとも4人いた泰衡の弟たちがそうであろう。しかし、秀衡や泰衡に近い血縁者であればそれなりの地位にある人物ばかりであったろうし、そうした地位の人物を身代わりにするのはほぼ不可能に近いと思われる。

 ちなみに、泰衡は6人兄弟の2番目である。腹違いの兄国衡は阿津賀志山の合戦で、大将軍として鎌倉側と激しく戦い、戦死している。泰衡のすぐ下の弟の忠衡は義経に与したとして、頼朝の侵攻の前に泰衡に誅されている。四男の高衡(隆衡としている資料もある)は、義経の首を鎌倉に届ける際に使者となった人物だが、泰衡が河田次郎に討たれた後、鎌倉側に投降している。五男の通衡(みちひら)はわからない。六男の頼衡も泰衡に誅されたと室町時代に成立した「尊卑分脈」には記されている。忠衡が討たれたのと同じ理由だろうか(頼衡の実在を疑う説もある)。

 討たれたと言っても、忠衡の遺骸がどこに埋められたのか、定かではない。もちろん、頼衡もそうである。金色堂の秀衡の遺体のそばにあった首級は元々忠衡のものと伝えられてきたが、実はそうではなかったということが分かったのと同時に生じた疑問は、では忠衡の遺体はどこに行ったのかということである。もちろん、時代が移り変わる中で、単にどこに埋めたのかが明確でなくなっただけなのかもしれない。一方で、義経生存説は東北に根強いが、その中では忠衡は死んだと見せかけて義経を案内して渡島に渡ったと伝えられている。頼衡については津軽外が浜(青森県の陸奥湾沿岸)に逃れて津軽浪岡氏の祖になったという伝承がある。もちろん、いずれも正史と信じられるには至っていない。

 こうして見ると、6人兄弟のうち、五男の通衡だけが文治五年奥州合戦後の所在がわからない。通衡が泰衡の身代わりとなった可能性があったかどうか。さらに穿った見方をすれば、四男の高衡が投降したのは、面が割れていて逃げおおせないと考えたからなのかもしれない。それ以外の兄弟は鎌倉側に顔を知られていなかったのだから、敗色濃厚となって逃亡しようと思えば逃亡できたかもしれない。ただし、そのような証拠はないし(逃げようとする者がわざわざ逃げた証拠を残していくとも思えないが)、ない以上すべては憶測でしかなく、結局中尊寺に祀られている首級は泰衡のものである可能性が非常に高いという事実は動かしようがないということである。

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2006年08月26日

東北の歴史のミステリーその10〜泰衡は本当に凡愚の将だったのか

84a1f701.jpg 泰衡は最期の地となった比内(現在の秋田県大館市比内町)でいったい何をしていたのか。

 吾妻鏡によると、泰衡が平泉の自分の館に火を放ってさらに北に逃れたのが文治5年8月21日、河田次郎の裏切りに遭って命を落としたのが9月3日である。

 奥州は南端の白河関(福島県白河市)から北端の外ヶ浜(青森県青森市)まで、奥州藤原氏初代清衡が「奥大道(おくだいどう)」と呼ばれる街道を整備した。全行程20日余だという。平泉は白河と外ヶ浜のちょうど中間に位置しているので、平泉から外ヶ浜までは10日余である。

 泰衡が逃亡に逃亡を重ね、果ては夷狄嶋(北海道)を目指して北上したのだとすれば、普通の行程でも8月21日に平泉を立てば、8月末までには外ヶ浜までたどり着けたはずである。吾妻鏡に記されている通り、慌てふためいて一目散に逃げ出したのだとすれば、もっと早く外ヶ浜に着いて、「念願」の夷狄嶋への逃亡が可能だったに違いない。

 にも関わらず、河田次郎に殺害された9月3日の段階で泰衡が秋田県北部の比内(秋田県大館市比内)に留まっていたのはなぜなのか。さらに吾妻鏡には、夷狄嶋を目指して糠部郡に赴いたともある。糠部郡とは現在の青森県東南部から岩手県北部にかけての地域であり、秋田県北部の比内はそこに含まれない。

 さらに言えば、夷狄嶋を目指してということであれば、その順当な「逃走ルート」は奥大道であったろうから、そこから外れる糠部郡に向かうのには、何か理由があったのではないかとも考えられる。あるいは、奥大道に沿って北上したのではなく、糠部郡を経由して宇曽利郷(現在の下北半島)から夷狄嶋に渡ろうとしたのかもしれない。しかし、そうすると、なぜ糠部郡へ向かう道にない比内にいたのかやはり不明である。要するに、平泉を離れた後の泰衡の足取りには謎が多いように思えるのである。

 この間、泰衡は頼朝に命乞いの手紙を出したと吾妻鏡には記されている。その手紙には、返事は比内の辺りに落としてほしいと書いてあった。泰衡は頼朝からの返事を待つために比内に留まったのだろうか。しかし、吾妻鏡には夷狄嶋目指して逃亡していたとある。逃亡するなら、頼朝に命乞いの手紙を出す必要も、返事を待つ必要もないように思えるのだが…。この辺り、吾妻鏡の編者はどう考えていたのだろうか。

 以前、このブログを読んでくれた璃奈氏に兜神社鎧神社のことをコメントで指摘していただいた。指摘していただくまでその存在をすっかり忘れていたのだが、確かに、兜神社にはその名の通り泰衡の兜が、鎧神社には泰衡の鎧がご神体として祭られているという。

 問題なのは、これらの神社のある場所である。これらの神社はいずれも秋田県北西部の能代市の旧二ツ井町にある。最期の地比内からさらに西に約60kmの場所である。泰衡がここまで来ていたのだとすると、「夷狄嶋目指して北上した」という吾妻鏡の記述と矛盾するし、いったんここまで来ながらなぜ比内まで戻ったのかも不明である。

 兜神社にはその由来を記したものがなかったが、鎧神社には「泰衡が源義経をかくまったとして頼朝軍に攻められ平泉を逃れるが、この地に達したとき疲労甚だしく、鎧を薄井に置いて逃げたという。泰衡は郎党、河田次郎によって殺害されるが、村人はこれを憐みこの社に祀ったとされる」とある。さらっと「この地に達したとき」とあるが、この地に達した泰衡がなぜ比内に舞い戻ったのかについては記されていない。

 泰衡は逃げたのではなく、戦略的に北上したのだとする見方もある。海保嶺夫氏は「エゾの歴史−北の人びとと『日本』」(講談社学術文庫、アマゾン該当ページ)の中で、「平泉藤原氏はより北方に拠点(良港)を築いていた可能性がある」と指摘している。氏は泰衡の北走について、「四代泰衡が源頼朝の北征軍とろくな戦いもせず『夷狄島』へ逃げようとした(『吾妻鏡』)のは、たんなる逃走ではなく、彼なりの計算があったように思われてならない」と述べている。氏によれば、平和が100年も続いて実践の経験が皆無の奥州武士と、源平合戦などで実戦経験を十分に持っている関東武士との陸上戦の結果は見えているが、拠点を北方に移して日本海の荒波を乗り切った水軍を指揮して、海戦に持ち込めば勝機はあると泰衡は考えたのではないか、というのである。

 もちろん、氏自ら「文字通りの推測である」と述べており、泰衡がそのように考えて北に逃れたのだと判断できる材料は残っていない。津軽には安東水軍などの伝承はあるものの、奥州藤原氏が水軍を持っていたという確たる証拠も今のところない。しかし、吾妻鏡に記述されている材料を拾ってみても先に紹介したように、泰衡の行動には不可解さが残る。何か考えるところがあっての行動だったと解釈してもそう無理な推測ではないように思える。もちろん、それが何だったかは今となっては歴史の狭間に埋もれてしまってわからないままなのであるが(写真は泰衡最期の地なのではないかと私が考えている秋田県大館市の二井田八幡神社)。

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2006年07月26日

東北の歴史ミステリーその9〜泰衡は本当に凡愚の将だったのか

yuda ユダと言えば、聖書によれば銀貨30枚で師イエスを裏切った男である。イエスはユダに裏切られて十字架にかけられ、その結果、ユダの名前は「裏切り者」の代名詞になった。

 ところが、1970年代にエジプトの砂漠で発見され、アメリカのナショナル・ジオグラフィック協会の支援プロジェクトが復元、解読に成功して今年4月に全容が公表された1700年前のパピルス文書「ユダの福音書」という文書には、その「常識」とはまったく異なる内容のことが書かれてあったという。

 それによれば、これまで「裏切り者」の代名詞だったユダこそ、実はイエスの一番弟子であり、イエスは自らの魂を「肉体の牢獄」から解放するために、ユダに指示して密告させたとも書かれているのだという(詳細は、ナショナル・ジオグラフィックの特集ページ)。今年4月以降、「ナショナル・ジオグラフィック 日本版 2006年 05月号」で特集が組まれたのを皮切りに(アマゾン該当ページ )、「ユダの福音書を追え」(アマゾン該当ページ )「原典 ユダの福音書」(写真参照アマゾン該当ページ )、「ビジュアル保存版 ユダの福音書」(アマゾン該当ページ )など、関連書が相次いで刊行されている。

 もちろん、そこに記載された内容が歴史的真実かどうかは分からない。しかし、今私たちが歴史を知ることができるのは、今に至るまで残された文書によってである。ところが、残された文書がすべて真実を語っているとは限らない。ひょっとしたら失われた文書の方に真実に近い内容が記載されていることもあるかもしれない。しかし、それはその文書が失われたままである限り、永遠に分からないことなのである。

 さて、泰衡がこれまで時代の流れも読めない暗愚な人物と捉えられたきたのは、実はよくよく考えてみると、鎌倉方の「公文書」である吾妻鏡の影響が大きい。吾妻鏡を読んでみると、泰衡という人物を徹底して矮小化して書いているように取れるのである。

 目に付く例を挙げてみよう。奥州藤原氏と源氏の事実上の決戦の場になった阿津賀志山(あつかしやま)で、自軍が大敗したことを聞いた泰衡は「周章度を失い、逃亡し奥方に赴く」とある。慌てふためいて逃げ出したと書いてあるわけである。

 平泉に戻った泰衡は、「縡急にして自宅の門前を融ると雖も、暫時逗留するに能わず」という状況だったという。頼朝の追撃に怯えて自分の屋敷にとどまることもできなかったそうである。まるでその場で見ていたような書きぶりであるが、当然頼朝軍はこの時まだ北上の途上だったわけであるから、本当にそうだったのか確たる証拠があるわけではない。

 北上する泰衡は数千の軍兵に囲まれ、「一旦の命害を遁れんが為、隠れること鼠の如く退ぞくこと雛に似たり」と評されている。一時の命惜しみのためにネズミのように隠れ、雛のように逃げたということである。泰衡の意図が本当にそうだったのかどうか分からないが、少なくとも鎌倉方はそのように見ていたわけである。

 吾妻鏡のこうした記載をそのまま受け取れば、泰衡は逃げ回るばかりの、将の器にない小心者というレッテルを貼られてしまうことになる。しかし、よくよく見てみると、今まで挙げた例はあくまでもその時の勝者の側から見た、極めて一面的な見方であると言うこともできる。さらに言えば、これらの記述は、必要以上に泰衡という人物を矮小化しているようにも思える。

 では、もし吾妻鏡の編者が泰衡ないし奥州藤原氏を必要以上に低く書いていたとして、その動機は何なのだろうか。普通に考えれば、奥州藤原氏は想像以上の難敵だったと書く方が、それに勝った鎌倉側の株もより上がりそうなものなのに、である。

 私は、その動機は鎌倉側の奥州藤原氏に対する強烈なライバル意識の故だったと考える。いずれ紹介することもあるだろうが、源氏と奥州藤原氏は、共に武家の棟梁の座を争っていた関係であったようである。しかも、文治五年奥州合戦で勝敗がつくまでは、三代百年にわたって奥州には覇を唱えてきた奥州藤原氏の方が源氏に先行していたと見ることもできる。平泉が「藤原王国」の「首都」として栄華を極めていた時、鎌倉はまだ都市づくりが始まったばかりの「発展途上の町」だったのである。事実、奥州から鎌倉に戻った後、頼朝は、もちろん奥州藤原氏の鎮魂の意味もあったのだろうが、平泉の二階大堂を模して鎌倉に永福寺(ようふくじ)を建立している。

 しかし、鎌倉側としては、そうした奥州藤原氏の態様を認めることは自らのプライドが許さない。武家の唯一の棟梁は鎌倉でなければならないからである。そこで、できる限り貶めて記載することによって、奥州藤原氏は武家の棟梁に相応しくない、武家の棟梁は唯一鎌倉だけであるということを強調したかったのではないか、と私は推測している。

 勝者が歴史を規定する時、当然自分たちにとって都合の悪い内容は削除、ないし黙殺するはずである。鎌倉方にとって都合の悪い内容とは、鎌倉に先行して奥州に武家政権があった、ということをおいて他にはないであろう。よって、仮に奥州藤原氏の政権がそうした性格を備えたものであった場合、これを徹底的に矮小化し、そうではなかったことにしてしまうということが考えられる。それは、鎌倉政権こそが初めてで唯一の武家政権であるということを主張したいがためのことだったのではないだろうか。

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2006年05月26日

東北の歴史のミステリーその6〜泰衡は本当に凡愚の将だったのか?

7e24cb1d.jpg 子どもの頃、私は泰衡が大嫌いだった。小学6年の頃、学校で歴史を勉強したが、中でも源平合戦での義経や弁慶らの活躍に心躍らせていた。親に平泉中尊寺に初めて連れて行ってもらって、そこでねだって買ってもらったのが「平泉ものがたり 秀衡と義経」という当時中尊寺で出していた小冊子であったというくらい、義経が好きだった。

 となると当然、兄頼朝と不仲となって窮鳥の如く東北に落ちてきた義経を温かく迎え入れた秀衡は偉大な人物で、それに対して「義経を大将軍として鎌倉に対抗せよ」という父の遺言を守らずに義経を討ち、あげくに頼朝に攻められて東北の黄金の一世紀を終焉に導いた泰衡はどうしようもない馬鹿者だということになる。そして「あの時泰衡が義経を討たなかったら…」、と800年も前の出来事に対して、子供心に地団駄踏む思いでいたものである。

 その後も泰衡に対する私の評価はやっぱり芳しいものではなかった。奥州藤原氏を描いた高橋克彦の「炎立つ 伍」(講談社文庫、アマゾン該当ページ )を最初に読んだ時も、「泰衡のことを無理やりよく書きすぎじゃないか」と抵抗を覚えたくらいである。私に限らず、東北人の泰衡に対する評価というのは、だいたい似たようなもののような気がする。端的に言ってしまえば、「偉大な父親の跡を継いだボンボンのバカ息子」というイメージなのではないだろうか。

 その最も手厳しい意見は、松田弘洲氏が「津軽中世史の謎〜虚構の"津軽安東氏"を切る」(あすなろ舎、津軽共和国文庫ぁ砲涼罎能劼戮討い襪發里任△蹐Α松田氏は泰衡のみならず奥州藤原氏そのものを批判する。「"平泉文化"というのは、平泉藤原氏が陸奥・出羽の庶民を酷使して、しぼりあげ、自らのために造営した"仏教文化"のことである」として、「泰衡は平泉から北上川の上流に向かって逃亡したわけだが、その地はもと安倍一族の根拠地である。平泉の藤原氏が、己れの栄華のためだけに富を集積せず、地方豪族が成長するための余地を残していたとしたら、北上川の上流にいくらでも頼るべき柵、頼るべき軍勢は存在したはずなのである」、「平泉軍が北上川の上流に退却したのち、再び押し出して来れなかったのは、平泉藤原氏の治政(原文ママ)がいかなるものであったかを、そのまま物語っているのである」と述べている。

 実際に、奥州藤原氏の治世がどのようなものであったかを知るすべはないので、この松田氏の見解が是か非かは判断できかねる。ただ、後で書くが、首のない泰衡の遺体を里人が丁寧に錦の直垂で包んで埋葬したという錦神社、それから泰衡の後を追ってきた泰衡の妻北の方が夫の死を知って自害したのを憐れんで里人が建立したという西木戸神社の存在を考えると、奥州藤原氏はそこまで庶民を「しぼりあげ」てはいなかったのではないかという気がする。

 さて、泰衡を嫌いだった私だが、最近少しずつ泰衡に対する見方が変わってきた。実は泰衡はそれほど暗愚な君主ではなかったのではないか、と思うようになってきたのである。そう思うようになってきた理由はいろいろある。それを少しずつ書いていきたい。

 秋田県の北東端に鹿角市がある。その鹿角市の中心部花輪から山間の方へ、直線距離にして9kmくらい南下していくと、桃枝(どうじ)という集落がある。戸数は20戸に満たない、目立たない小さな集落であるが、この集落は非常に興味深い。実は、この集落、ほとんどの人が藤原姓なのである。この地域に伝えられている話によると、昔源頼朝に追われて落ちてきた泰衡は、この地に宿陣した際、つき従ってきた家臣に「自分が戦死したら藤原の姓を継ぐように」と言い残したのだという。泰衡の家臣の一部は泰衡の死後もこの地に残り、それでこの地に住む人々は皆、藤原姓なのだそうである。

 この逸話は先に挙げた「炎立つ 伍」でも取り上げられていて、自分の一命と引き換えに奥州を救おうと死を覚悟した泰衡が家臣たちに藤原の姓を与え、後を追って死のうとする家臣に対して「藤原を名乗るからには生き延びよ」と諭したことになっている。その巻の中でも印象的な場面の一つである。

 実際、桃枝集落の一角には墓地があるが、墓のほとんどが藤原姓である。他には綱木姓の墓が2、3あるだけである。そして、藤原姓の墓に刻まれた家紋はすべて、奥州藤原氏と同じ「下がり藤」の紋である。それらの墓の一つに墓誌が刻まれていた。それには「我が藤原家の先祖は、今を去る事七百九十余年の昔、平泉を落ち給う泰衡公に属従し、此の地に至り、浪人して山深く隠れ住み、千古不斧の大森林に開拓の鍬を振っていた。(以下略)」とあった。

 この桃枝のある場所は、実は泰衡が蝦夷地に向けて落ち延びようとした道からは外れている。蝦夷地に向けて落ち延びようとしたのであれば、清衡が整備した奥大道を北上したものと考えられるが、桃枝はそのルートからかなり外れているのである。周囲を山に囲まれた地であるから、実際には泰衡自らここを訪れたのではなく、泰衡の死後、その遺言をおしいだいた家臣たちがひっそりと移り住んだ地なのだろう。

 ただ、泰衡が本当にどうしようもない凡愚の将であったなら、その藤原の姓を800年もの間桃枝の人々が大事に名乗り通してくるというようなことはなかったのではないかという気がするのである(写真は桃枝集落の入り口)。

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2006年03月24日

東北の歴史のミステリーその2〜「泰衡の首」は泰衡の首じゃない?

0df45924.jpg というわけで、いきなり「首」の話である。今まで地ビールやら温泉やらの話を続けてきたところに突然「首」の話とはこはいかに、という感じであるが、上を見ていただければ分かるように、このブログでは東北の歴史も扱うということを謳っている。なかなかそのきっかけがなかったのだが、最近ドキドキワクワクするような面白い本を見つけたので、それをネタに東北の歴史の話も少しずつ書いてみようかと思う。

 岩手県平泉町にある中尊寺には、日本の国宝第一号となった金色堂がある。その名の通り、皆金色のお堂で、マルコ・ポーロが東方見聞録に記した「ジパング伝説」の元となった建造物ではないかと言われている。

 金色堂には、平安末期に約一世紀にわたって東北全土を実質的に治めていた奥州藤原氏三代、初代清衡、二代基衡、三代秀衡の遺体と、四代目で源頼朝に滅ぼされた泰衡の首級が安置されている。

 実は、この泰衡のものとされている首級は、寺伝では泰衡の弟忠衡のものだとされてきた。忠衡は、三代秀衡の三男である。源義経が兄頼朝に追われて奥州に逃れてきた時、秀衡は義経を受け入れて鎌倉と対峙する道を選ぶが、その秀衡は義経が来て1年も経たないうちにこの世を去ってしまう。臨終に際して、秀衡は「前伊予守義顕(義経)を大将軍と為して、国務をせしむべき」(吾妻鏡)との遺言を残すが、忠衡はこの秀衡の遺言を守って源義経を擁いて鎌倉と対峙しようとして泰衡に誅されたとされる。父の遺命に従い、義経を主君として仰いだ忠孝の士として、その首級が金色堂に納められている、そう信じられてきたのである。

 ところが、昭和25年の御遺体学術調査の折、忠衡のものとされてきた首級には、右の耳の付け根から頭蓋骨の一部とともに切られ、頭頂1カ所、後頭部に二カ所、そして鼻など数カ所に刀傷があるほか、前頭部の中央から後頭部に達する直径1.5センチほどの穴が貫通していた。「吾妻鏡」には泰衡の首には、前九年の役の際に源頼義が、安倍貞任の首に長さ八寸の鉄釘を打ち付けたのに倣って、同様に釘を打ち付けたとの記述がある。安倍貞任の時に首を扱った者の子孫に泰衡の首を扱わせるという徹底ぶりで、宿意を晴らしたのであるが、金色堂に納められた首級にはまさにこの釘の跡があったわけで、それを以って、その首級は忠衡ではなく泰衡のものであるとされ、それが現在に至るまで新たな「常識」とされてきたのである。

 さて、今回見つけた書籍「金色堂はなぜ建てられたか―金色堂に眠る首級の謎を解く」(写真参照、高井ふみや著、勉誠出版、アマゾン該当ページ)は、この御遺体学術調査の折に泰衡のものとされた首級は実は泰衡のものではないとして、これまでの「常識」に果敢に挑戦した書である。

 泰衡のものでないとすれば、この首級は誰のものなのか。高井氏は、藤原経清のものだと言うのである。藤原経清を知っている人は、かなりの歴史通である。93年にNHK大河ドラマになった高橋克彦原作の「炎立つ」で主役になったこともあって、少しは知られるようになったが、この人は奥州藤原氏初代で平泉「黄金の100年」の礎を作った藤原清衡の父である。

 藤原経清は、亘理権太夫と言われており、国府側にいて今の宮城県亘理郡を治めていたとされている。平安京で摂関政治を行った藤原氏と区別するために奥州藤原氏と呼ばれるこの一族は、元をたどっていくと平将門を討った藤原秀郷につながる。藤原秀郷は元々京の藤原氏の流れを組む家柄であるから、奥州藤原氏も土着の蝦夷ではないわけである。

 さて、経清はその後、奥六郡(現在の岩手県南部)を支配していた俘囚(朝廷に恭順する蝦夷)長の安倍頼時の娘を妻に娶る。この安倍氏を討つ戦となった前九年の役では、経清は当初は陸奥守源頼義に従っていたが、同様に安倍頼時の娘を娶り、亘理郡の隣の伊具郡を治めていたとされる平永衡が、安倍氏側に通じているとの疑念を抱かれて源頼義に殺害されたことに身の危険を感じて安倍側に寝返った。そこから安倍軍の中心的存在として源頼義率いる国府軍を大いに悩ませた。

 特に、前九年の役の間、経清は朱の国印を押した徴税符である「赤符」ではなく、経清の私的な指示書である「白符」に従うよう陸奥の諸郡に命じ、朝廷をないがしろにして独自に徴税を行ったが、当初安倍側が優勢だったために陸奥守源頼義もこれを指を咥えて見ている他なかった。このことのために経清は、徴税の権限を奪われ完全に面目を潰された形の頼義の深い恨みを買った。最終的に国府軍が、出羽の俘囚長である清原氏の援軍を得て安倍軍を厨川の柵(現在の岩手県盛岡市)に破り、経清を捕らえた際、頼義は苦痛を長引かせるためにわざと刃こぼれさせた刀で首を切った、という。残酷な処刑である。

 ちなみに、この前九年の役は、源頼義が陸奥の地に覇権を築こうとの野望を抱いて起こした「侵略戦争」だったと位置づけることができる。結局、念願通り安倍氏を滅ぼすことができたが、朝廷は頼義の勢力が大きくなりすぎることを警戒し、勝敗を決定づけた清原氏に陸奥、出羽二国の統治を任せた。この時の頼義の無念が後の鎌倉幕府の公文書「吾妻鏡」が記した頼朝の「私の宿意(私的な怨恨)」につながっていくのである。

 ところで、この「前九年の役」とその後起きた「後三年の役」はどちらも「役」と呼ばれているが、「役」という語はもともと、後の元寇「文永の役」「弘安の役」や秀吉の唐入り「文禄の役」「慶長の役」のように、「対外戦争」に用いられる用語である。東北での戦にこの語が用いられていることは、当時東北が異境の地と見なされていた端的な証である。

 その後、清原氏の内紛に頼義の子源義家が介入した後三年の役を経て、陸奥、出羽二国の実質的な支配者となった経清の子、奥州藤原氏初代藤原清衡は、中尊寺を建立し、世にも稀な金色堂を建立した。中尊寺を建立し、と簡単に書いたが、「吾妻鏡」によれば中尊寺は、堂塔40余、僧坊300余を有する大寺院であり、鳥羽天皇の御願寺という位置づけであったので、その建立はいわば国家的大事業であった。天治3年(1126)3月24日、その中尊寺の「大伽藍一区」が完成し、清衡によって盛大な落慶法要が営まれた。いずれ紹介するが、この法要に捧げられた「中尊寺建立供養願文」には、清衡の理想とする奥羽の平和、国家の平和を祈る心情が凝縮されているといえよう。

 この落慶法要には、国家鎮護の祈りとは別のもう一つの目的があったように思え、また同時にそれが高井氏が主張する泰衡の首級の「正体」を探る根拠の一つともなっているが、長くなったのでそれについては、次に触れることにしたい。

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2006年03月14日

東北の歴史のミステリーその1〜常識の中に潜む「非常識」が面白い

b66b2fcc.jpg 私は、オリジナル楽器を使ったクラシックの演奏が好きである。オリジナル楽器というのは、作曲者が生きていた当時の楽器のことで、それを用いることによって現代の楽器が奏でる響きと異なる、作曲者の頭の中に鳴り響いていたであろう響きが再現できる、というのがその謳い文句である。オリジナル楽器で演奏が劇的に変わったのは、ヴィヴァルディやバッハ、ヘンデルなど、バロック時代の音楽の演奏である。

 かつては、現代の大オーケストラが「分厚い響き」で演奏していたのが、イ・ムジチやシュトゥットガルド室内管弦楽団など室内オーケストラが小編成できびきびした演奏をするようになったのも大きな変化だったが、オリジナル楽器を用いたオーケストラの演奏はそこからさらに、演奏を違ったものにしてくれた。ラインハルト・ゲーベルとムジカ・アンティクヮ・ケルン、ジョン・エリオット・ガーディナーとイングリッシュ・バロック・ソロイスツ、トン・コープマンとアムステルダム・バロック管弦楽団、ファビオ・ビオンディとエウロパ・ガランテなどの演奏は、特に好きである。現代楽器の室内オーケストラの演奏は、軽快で小気味良いが、オリジナル楽器による演奏を聞き慣れた耳には、メリハリがなくやや面白みに欠ける印象がある。

 それは、オリジナル楽器の演奏は、使用する楽器がそれまでのオーケストラと異なるというだけでなく、その当時の演奏習慣などの研究成果を反映させることによって、楽譜の解釈そのものがまったく異なるためである。バロック時代の楽譜というのはメトロノームもまだ発明されていないし、強弱の指示もロマン派の音楽のような後世の作品に比べると極端に少ない。かつては、それをそのまま演奏することが作曲者の意図を表現する方法だと考えられていた。

 が、当時の演奏習慣についての研究が進むにつれて、そうではないことが分かってきた。楽譜に指示されていなくても、音型によって強弱やリズム、テンポをある取り決めの下に変化させることは、当時は自明のことだったらしい。オリジナル楽器を用いた演奏では、当時の楽器だけではなくそうした当時の演奏法も尊重して演奏されることが多いので、楽譜に指示がなくても非常にメリハリのある溌剌とした演奏が多い印象がある。

 バロック時代という用語は、もともとは美術史からの転用であるが、バロックの元の意味は「いびつな真珠」だそうである。この言葉は、いみじくもバロック音楽の特徴をよく現しているように思われる。すなわち、すべての音符が均等なのではなく、強い音、弱い音、(同じ音価でも)長い音、短い音などがあり、そうした音の「不均等」がバロック音楽の特徴とも言えるからである。

 チェンバロの演奏など聴くとそれがよく分かる。チェンバロは強弱の変化がほとんどつけられない。だから、楽譜にある通りイン・テンポで弾いてしまっては、この上なく単調になってしまう。ところが、当時の習慣に基づいた演奏では、弾かれるまでにほんの少し間がある音、少し長めに弾かれる音、逆に短かめに弾かれる音、などで、実質的にそれぞれの音に「差」がつけられている。これらが、およそ単調とは程遠い演奏を生み出している。表面上楽譜に忠実ということを謳った演奏に聞き慣れた耳には、まさに「いびつな」演奏に聞こえるだろう。事実、オリジナル楽器の演奏が出始めの頃は非常に「クセのある」演奏ということで、当時は聴く側にもかなり抵抗があったようである。

 当初、オリジナル楽器の演奏はバロック時代にとどまっていたが、そのうちその枠をはみ出し、古典派の音楽も演奏されるようになった。ハイドン、モーツァルト、と続き、ベートーヴェンの作品もそのレパートリーに入ってきた。

 このオリジナル楽器によるベートーヴェンの演奏の中で、唯一「第九」の演奏だけは私としてどうにも受け入れられなかった。ベートーヴェン自身による、当時発明されたばかりのメトロノームの指示を厳格に守るのはよいのだが、それだとどう考えてもあまりに遅すぎて「ノリの悪い」箇所が少なくとも大きく2箇所ある。第2楽章の中間部のトリオと、最終楽章のテノールソロからかの有名な「歓喜の歌」の合唱に至る部分である。

 出始めの頃のオリジナル楽器による第九では、軒並みこれらの部分のテンポが我慢できないほどに遅い! 例えば、オリジナル楽器演奏の旗手と言われたクリストファー・ホグウッドとエンシェント室内管弦楽団の演奏などがそれである(アマゾン該当ページ )。 彼らのバロック音楽やハイドンの演奏は大好きだったので、この第九はことさら残念であった。それまできびきびと小気味よく進んできただけにこれらの部分の遅さは余計に際立っている。この部分を評して、当該CDの解説文には「(オリジナル楽器の演奏としては)意外なほど堂々としている」などとあったが、いや、どう聞いても「堂々」とは感じられなかった。ただひたすら、のろい!のろ過ぎる!

 本当にベートーヴェンはこのような指示をしたのだろうかと首を傾げたくなるのだが、実際楽譜にはそのように記されている。数々の名演がある現代楽器による演奏では、端からこうしたベートーヴェンのメトロノーム指示など忠実に守っている演奏はほとんど皆無なので問題ないのだが、作曲者の意図に忠実であろうとするオリジナル楽器の演奏では、どうしてもこの部分が気になってしまっていた。

 ところが、である。94年に出たジョン・エリオット・ガーディナーオルケストル・レヴォリューショネル・エ・ロマンティーク&モンテヴェルディ合唱団CDアマゾン該当ページ)は、このイライラ、もやもやを見事に吹き飛ばしてくれた。彼らは、この部分をなんと従来の倍のテンポで演奏している。そして、それは何も根拠なくやっているわけではなく、綿密な考察の結果そのような結論に落ち着いたということである。

 彼らのベートーヴェン交響曲全集アマゾン該当ページ)のCDに初回特典として、その辺りのことも含めて語ったインタビューCDが付属しているが、それによると指揮者のガーディナー曰く、

「ベートーヴェンは実際には、甥のカールに筆記させて『8分の6拍子で84』と言ったのですが、カールはそれを『付点四分音符』でのことだと考えて書いたのです。言いかえれば、一小節を二拍に数えた『84』だと思ったのです。皆さんにも判断していただきたいのですが、そうではなく、ベートーヴェンは小節全体を指していた、と考えられるのです。これも言いかえれば『付点二分音符』が『84』ということです。こうして美的には完全に変わってきます。なぜならテノールが街の反対側からニュースをもって登場し、それが次に爆発するようなフーガを導くことになるからです。ほとんどの指揮者はフーガをそれらしく鳴らせるという曖昧な正当化のために、そこでテンポを上げています。しかし、じっさいにはベートーヴェンの自筆譜では(この録音以前にそれを尊重した人はいなかったと思うのですが)、『この箇所に至るまでは、センプレ・リッテッソ・テンポ(つねに同じ速さで)』と記されています。これが問題の糸口です。また『一小節が84』という事実は、伝統的なフランス革命の軍隊行進曲のテンポであるらしいこととも通じています」

ということなのである。

 メトロノームの指示という、それまで正しい「常識」とされていたことが、「センプレ・リッテッソ・テンポ」という別の指示を糸口にして、これまでの2倍のテンポという「非常識」が新たな常識へと変わったわけである。そして、その2倍のテンポが、「伝統的なフランス革命の軍隊行進曲のテンポ」という傍証を得て、さらに確からしさを増しているわけである。

 さて、「東北の歴史」と銘打ちながら、延々と関係のない話をしてきてしまったが、言いたかったのは、このように今まで「常識」とされていたような既成概念を打ち崩してくれるような新事実、新解釈の出現というのは、それ自体第一級の「ミステリー」と言えるのではないかということである。ベストセラーになり、最近文庫化された「ダ・ヴィンチ・コード」(ダン・ブラウン作、角川書店、アマゾン該当ページ )もそうだし(これは元々「ミステリー」だが)、私が最近読んだ本では「ゴータマ・ブッダ考」(並川孝儀著、大蔵出版、アマゾン該当ページ)もこれまで言われていた釈迦像を覆すような解釈が多々あり面白かった。私の好きな音楽、中でもとりわけ好きなバッハに関して言えば、「バッハ―伝承の謎を追う」(小林義武、春秋社、アマゾン該当ページ )も、同じように上質のミステリーを読むようなドキドキワクワク感があった。

 新シリーズとして、東北の歴史に焦点を当てて今後いろいろなことを取り上げていきたいが、今まで言われているような「常識」的な内容を再度列記しても面白みに欠けるので、私自身が見聞きしたり読んだりしたことで面白いと思った内容をこれから随時紹介していきたいと思う。

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