震災関連  

2019年07月25日

東日本大震災から8年3カ月、宮城県沖地震から41年(「東北復興」紙への寄稿原稿)〜私的東北論その121

 6月16日に発行された「東北復興」第85号では、先の震災で犠牲となった弟の慰霊碑がかつての勤務先であった若林区役所の敷地内にできたことを紹介しつつ、発生から41年が経った宮城県沖地震についても振り返った。

 東日本大震災の発災から既に8年3カ月、次の地震への備えを決して怠らないようにしないといけない時期になっている。ブロック塀については、昨年の大阪北部地震で改めてその危険性が浮き彫りになった。仙台市では、「生垣づくり助成事業」を行っている。この取り組みをもう少し積極的に進めて、設置から30年以上経ったブロック塀は全て生垣に転換させる方向で働き掛けるのがよいのではないだろうか。「杜の都」の景観としても相応しい。

 以下が「東北復興」紙に寄稿した全文である。


東日本大震災から8年3カ月、宮城県沖地震から41年

「3.11不忘の碑」

3.11不忘の碑 東日本大震災の発災から8年3カ月の6月11日、「3.11不忘の碑(わすれじのひ)」の除幕式が行われた。震災当時、弟が勤務していた若林区役所の方々や友人の方が「3.11慰霊碑設置準備会」を結成して、およそ100人の方がお金を出して、区役所の敷地内に設置する許可も得て、この日、晴れてお披露目となったものである。

 除幕式には、震災当時市長だった奥山恵美子さんを始め、当時若林区長だった山田文雄さん、設置準備会の会長も務めた清水俊明前区長、現区長の白川由利枝さん、そして弟の当時の上司・同僚の方々や、弟が一緒に仕事をしていたまちづくり協議会の方々が参加してくださった。

 あの日弟は、地震発生の後、沿岸部荒浜地区の住民に避難を呼び掛けに同じ課の先輩と市の広報車で出掛け、そのまま帰らぬ人となった。

 挨拶に立った清水さんは、「2人を失った痛みは8年3カ月が経っても消えない」と言い、白川さんは毎年職員を前に訓示を行う際に必ず震災で殉職した仲間がいたことを話すという取り組みを紹介しながら、「大事な仲間を震災で失った事実を伝え続けることが私たちの責任」と言ってくれた。

宮城県沖地震から41年
 翌6月12日は、宮城県の「みやぎ県民防災の日」、仙台市の「市民防災の日」で、県内各地で総合防災訓練が行われた。41年前の1978年のこの日、宮城県沖を震源とするM7.4の地震が発生し、28名の犠牲者を出した。私は当時8歳だったが、この地震のことはよく覚えている。夕方、母親はちょうどPTAの会合か何かがあって出掛けていて、留守番中の私と弟がテレビアニメを見ていたところ、突然大きな揺れが来て、揺れの最中に停電になったのかテレビは切れ、弟の頭上にあった花瓶が落ちてきたので、慌てて弟の手を引いてあまりものが置かれていない別の部屋に逃げて揺れが収まるのを待った。電気はつかないし、どんどん暗くなってくるしで、母親が帰ってくるまでの時間がとても長かったように感じた。

 この地震では、仙台市で住宅の全半壊が4,385戸、一部損壊が86,010戸に上るなど、甚大な被害が生じた。この地震がきっかけとなって3年後に従来の建築基準法が改正された。その主眼は建築物の耐震基準が強化で、「震度5強程度の中規模地震では軽微な損傷、震度6強から7程度の大規模地震でも倒壊は免れる」という耐震基準が設定された。

 また、この地震の死者28名のうち、実に18名が倒壊したブロック塀の下敷きとなって亡くなっている。これら倒壊したブロック塀には鉄筋が入っておらず、単にブロックが積み上げられていただけのものであったため、この地震の後、やはり規制が強化され、太さ10ミリ以上の所定のJIS規格を満たす鉄筋を、横方向は400ミリ間隔、縦方向は400から800ミリ(主壁の高さや控壁の有無、鉄筋の太さなどによって異なる)で配することが義務づけられた。

 しかし、昨年6月に発生した大阪北部地震では、高槻市で小学校のブロック塀が倒壊し、登校途中の小学生が犠牲となるという痛ましい被害が発生した。宮城県沖地震から40年が経過してなお、その教訓が活かされていない現状があることは非常に残念なことである。ただ、高槻市ではこの事態を受けて、公共施設のブロック塀を2028年までに全て撤去する方針を決めた。これは英断と言ってよいと思う。

 一方の宮城県内でも他人事ではない現状が明らかになっている。危険なブロック塀はむしろ増加しているというのである。要は、鉄筋が入っていても、年月の経過と共にその鉄筋が劣化してくる他、先の東日本大震災で強度が低下しているブロック塀も多数あるというのである。元々ブロック塀の耐用年数はおよそ30年とされる。41年前の悲劇を繰り返さないためには、30年サイクルで建て替えるか、それが無理なら高槻市のように撤去を進めていくことが必要である。

「繰り返されない」ためのアクション
 「3.11不忘の碑」に刻まれている文言の中には、「若林区役所の職員として地域のために共に働き、そして津波から一人でも多くの住民を守るために命をかけられたことを忘れずに、また、あってはならないこの悲しみが二度と繰り返されないことを強く願い、この碑を建立します」とある。

 弟のことを忘れずに、8年3カ月を経てこうした碑を建ててくれたことは兄として率直にありがたいことである。そして、「二度と繰り返されないことを強く願」ってこの碑が建てられたことにも共感できる。

 もちろん、二度と繰り返されないことを「強く願う」だけでなく、そのための具体的なアクションが必要であることは言うまでもない。その点でも、仙台市は既に様々なアクションを起こしている。「国連防災世界会議」の誘致と「仙台防災枠組2015-2030」の採択、スイスの防災ダボス会議と連携した2年に一度の「世界防災フォーラム」の開催、毎年3月の「仙台防災未来フォーラム」の開催、「防災環境都市・仙台」を合言葉とした防災環境都市づくりへの取り組みなど、震災の教訓を忘れず、考え、発信・実践していくための取り組みが様々に進められている。

 そうした公の取り組みだけではない。仙台市職員による自主勉強会「Team Sendai(チーム仙台)」は、東日本大震災における体験の記録と伝承に取り組んでいる。その手法も多彩で、震災の対応に当たった本人から話を聞く「語り部の会」を開いたり、そうして聞き取った体験談を震災後に入庁した職員に朗読させてその教訓を共有したり、市職員が震災で判断に迷った体験を災害時の行動を選択させる防災カードゲーム「クロスロード」の仙台編を作成する際に取り入れたり、とあの手この手で震災における体験を残し、伝える活動を行っているのである。こうした取り組みが職員の間で自主的に現在に至るまで続けられていることも特筆に値すると言える。

自分の命を守ることを最優先に
 今、私が危機感を覚えていることがある。東日本大震災ほどの巨大な地震に遭遇したからか、次に大きな地震が起こるにしても、それはここではないどこか他の地域で起こるに違いない、というように思っている人が結構多くいるように感じられることである。これは極めて危険な考え方である。油断と言ってもいい。地震調査研究推進本部の地震調査委員会が公表した「長期評価による地震発生確率値」によれば、宮城県沖でM7.0から7.5程度の地震が起こる確率は今後30年以内で実に90パーセント程度とされているのである。M8.6から9.0のいわば今回の東日本大震災に近い規模の巨大地震の起こる確率も30年以内に30パーセント程度ある。

 宮城県沖地震の平均発生間隔は38年である。しかし、これはあくまでも平均値であって、ちょっと調べれば分かることだが、前の地震と次の地震の間が5、6年しか空いていないこともあった。先の震災から既に8年3カ月である。既にいつ次の地震が起こってもおかしくない時期に差し掛かっているのである。決して他人事ではない。再びこの地に地震が起こることは間違いのないことなのである。ゆめゆめ備えを怠ってはならない。

 慰霊碑の除幕式の後、区長の白川さんとしばしお話したが、その中で印象的なエピソードがあった。区役所での防災訓練の際、職員は様々なミッションを課せられる。そのミッションを決められた時間内に完了できませんでした、と報告してくる職員に対して、白川さんは「完全に終えられなくてもいいから、とにかく時間内に帰ってくることを最優先して」と強くアドバイスしている、というのである。これは非常に、この上なく重要なことである。弟と先輩は、あの日、住民の避難が完了しなかったがために、あの場所に留まって、最後まで避難を呼び掛け続けて津波に飲まれたのである。責任感の強い職員ほど、課せられた任務を最後まで完璧にこなそうとするに違いない。しかし、そのために自分の身まで犠牲にしてはならないのである。

 同行した私の母親も、白川さんに「職員の皆さんはまず自分の命を守ることを最優先してほしい。生きていればこそ、その後も長く住民の助けとなれるのだから」と強調していた。我が母ながら実にいいことを言う。まさにその通りである。

 「3.11不忘の碑」は、若林区役所の南側にある庭園の一角に設置されている。区役所に足を運んだ際には、ちらっとでも見てみていただければ幸いである。


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2019年06月28日

8回目の3月11日(「東北復興」紙への寄稿原稿)〜私的東北論その119

 「東北復興」紙の第82号が3月16日に刊行された。毎年この3月に出る号には震災関連の記事を寄稿しているが、そうすると3月11日くらいになってから入稿することもしばしばである。それでも16日の刊行に間に合わせてくださる砂越編集長には頭が上がらない。

 今回も「8回目の3月11日」と題して、3月10日に開催された「仙台防災未来フォーラム」の話題と、翌11日の仙台市若林区荒浜の様子を紹介した。このうち、荒浜の様子については、このブログの3月11日付の記事とほぼ同じ内容であるので、前半の「仙台防災未来フォーラム」の話題についてのみ、ここに再掲する。


8回目の3月11日

WP_20190310_08_51_14_Rich_LI仙台防災未来フォーラムの意義
 震災から丸8年となる前日の3月10日、仙台国際センターで「仙台防災未来フォーラム2019」が開催された。4年前に国連世界防災会議が仙台で開催され、「仙台防災枠組」が採択されたが、それを契機にその翌年から年に一度、東日本大震災の経験や教訓を今後の防災につなげるために開催されている仙台市主催のイベントである。

 今回は防災に携わる74団体が出展し、市民など4,000人超の参加があったそうで、震災から8年が経とうとしているこの時期でもそれだけの参加があるというのはいいことだと思う。今年は「しまじろうスペシャルステージ」など子ども向けの企画もいくつかあって、親子連れもたくさん参加していた。震災から8年が経過して、震災後に生まれた、震災を体験していない子どもたちが年々増えている中、このような子ども向け企画を充実させていくのは防災教育の上でとてもいい試みであると思う。

 しまじろう、グッジョブ!である。

震災復興をどう考えるか
 東北大学災害科学国際研究所主催の連携シンポジウム「震災8年シンポジウム〜東日本大震災教訓の共有と継承を考える〜」では、2004年のインド洋大津波被災地、インドネシアのアチェの復興も参考にしながら東北の復興を考えるという興味深い企画であった。アチェはまさに震災復興の先輩であり、私もかつて自分のブログでそのことを書いたことがある。

 シンポジウムでは、仙台の復興公営住宅での社会的孤立と、アチェの個人の力ではなく家族の力を活かした再建が対比されていました。一方で、日本はそうした家族や地域のしがらみから離れて一人でも生きていける社会を追求してきた結果として現在があるという実情があり、であればだからこそできることを考え、よい点を伸ばすべきとの意見もあった。

 各シンポジストの言葉で印象に残った言葉は以下のようなものであった。

西芳実氏(京都大学東南アジア地域研究研究所准教授)
・大文字の復興(共通の目標)と小文字の復興(個別の目標)がある。
・復興だけを考えるのではなく、被災前からの課題に着目し、災害に限定せず災害後を考えることが必要。

本江正茂氏(東北大学大学院工学研究科准教授)
・復興に深刻になりすぎない方がいい。語るトーンを優しく、違う角度からも見てみる。面白がってやる。

マリ・エリザベス氏(東北大学災害科学国際研究所情報管理・社会連携部門准教授)
・復興と防災を一緒に考えるべき。復興には終わりはない。

笠原豊氏(東北放送報道部ディレクター)
・冷静に考え、検証する段階に来ている。その部分でメディアと研究者の連携は重要。

 他のセッションのうち、AiNest(アイネスト)主催の「健康寿命を延ばして災害弱者を減らすまちづくり」では、地域の防災力を高めるに、自分で判断・行動できる「災害弱者にならない事前対応」が望まれるとして、高齢者の健康寿命を延伸し、災害弱者を減らすまちづくりの事例が紹介された。

 東北大学工学研究科フィールドデザインセンターとNTTサービスエボリューション研究所による「ステルス防災:防災・減災の行動を日常にインストールする」では、普段後手に回りがちな防災を、日常の負担を軽減、あるいは日常の中に織り込まれたような形で提供される試みについて提案された。そのネーミングと共に興味深い取り組みであった。

 東北福祉大学主催の「障がいと地域防災−情報提供・支援のあり方とは−」では、障がい者が積極的に周囲と関係性を構築することによって、災害発生時に支援される側から支援する側に回る可能性について言及されたことが印象的であった。

(※以下の内容は本ブログ2019年3月11日の記事を参照)


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2019年05月16日

「記憶の記録プロジェクト『田』」の5年間の活動〜私的東北論その118

v4ttGKdJJTJqx5i1557992092_1557992134 主に仙塩地区の医療介護福祉職の人たちによる任意の集まりである「夜考虫。」の中に、医療介護福祉関係の方々の震災に関する記憶を記録して発信するプロジェクトである「記憶の記録プロジェクト『田』」がある。私も4人いるそのメンバーの一人として活動を続けてきたが、早いもので2014年の活動開始から丸5年となった。
 これまで毎年、年度末に活動報告書を作成してきたが、今回は5年の区切りということで、これまでの5年間の活動報告書をまとめ、加筆などもしてみた。こうして振り返ってみると、本当にたくさんの人にお話を聞かせていただいたことを改めて実感する。その情報を埋もれさせることなく広く世に発信していくことが、聞かせていただいた者の責務だと思うので、今後も機会ある毎に震災に関する情報を伝え続けていくつもりである。

 まずは一区切りとしてこの5年間の活動報告書を公表すると共に、追ってこれまでお話を聞かせていただいた方々にも個別にお送りする予定である。これからの5年間に向けて今年も、できる範囲でではあるが、活動を続けていこうと思う。

 なお、活動報告書は上の画像をクリックしていただくか、ここをクリックしていただくと表示される(はずである)。

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2019年03月11日

震災から8年〜私的東北論その115

あの日から8年である。
8回目の3月11日は、朝から強い風と雨。
この8年で雨の日は初めてだろう。
あの日、地震に追い打ちをかけるように雪まで降ってきたことを思い出す。

8年経っても、この日だけはいつもと違う心持ちになる。
心の中が何となくざわついているような、何か胸に引っかかるものがあるような、何とも落ち着かない気分である。
その傾向は地震発生時刻の14時46分に向けて強くなるような気がするので、とても平気な顔して仕事を続ける気にもなれず、毎年この日は午後休みを取って、弟の最期の場所、仙台市の沿岸、荒浜に足を運んでいる。

WP_20190311_14_04_18_Rich_LI今年もまず、弟がいた若林区役所を訪れる。
献花場は、昨年から近くの若林区文化センターに移されたので、そちらに行って献花する。
会場では仙台市の追悼式も開催されようとしているところだったが、出る気にはならず、今年もあの日弟が通ったであろう道を自転車で一路荒浜に向かった。






WP_20190311_15_12_02_Rich_LI今年は雨風が強かったためか、例年より随分人は少なかったが、それでも旧浄土寺の慰霊碑の前や荒浜慈聖観音の前では、一心に手を合わせる人の姿があった。










WP_20190311_15_14_20_Rich_LI大津波でほとんどが倒れてしまった松林、少しずつ新たに植林が進んでいた。
何十年後か、またこの海沿いに見事な林が復活することだろう。









WP_20190311_15_17_21_Rich_LI防潮堤に登って見下ろすこの日の海は、強い風を受けて大きな波が打ち寄せていたが、はるか向こうで波しぶきが立っているだけで、あの日この防潮堤を易々と超えていった大津波とは比べるべくもない。









WP_20190311_15_52_51_Rich_LIこの地に大津波が押し寄せた15時54分に合わせて、今年も弟の遺体が見つかった南長沼に赴いて手を合わせる。
これで何がどうなるということでもないが、今や自分の中では毎年の恒例行事である。







WP_20190311_16_20_49_Rich_LI帰りに、霞目にある「浪分神社」に寄る。
江戸時代にこの地を襲った大津波が、ここで南北に分かれたと伝えられている。
つまり、過去の津波到達地点を示す神社であり、実際今回の地震でもこの神社の近くまで津波が押し寄せたが、この神社の津波に関わる伝承は残念ながら広く伝わってはいなかったそうである。
どんな教訓も、伝わらなければ意味がない。
今回の地震の教訓も、伝える努力を続けなければいけないと改めて思った。

WP_20190311_23_28_20_Rich_LIなどと振り返りながら、家に帰ってお気に入りのビールを飲む。
震災以来、この日はどんなイベントがあろうと、誰からお誘いがあろうと、家に帰ってあの日を思い起こしながら飲んでいる。
つまみは必ず、子どもの頃、弟とおやつに食べてたやきとりの缶詰である。
二人とも特に皮のついたところが大好きで、でもケンカせずに仲良く分け合って食べてたことを覚えている。
今年は昔二人の憧れだった大きな缶が手に入らなかったので、小さい缶を4段重ねである。

こうして飲み食いできるのも、生きていればこそ。今日生きていられることに感謝しつつ、もしまた明日が来てくれたなら、またいつもの一日を送りたいと思う。



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2018年03月11日

私的東北論その106〜震災から7年の仙台・荒浜

 今年も3月11日がやってきた。震災発生から7年。今年も新聞各紙が一面で伝え、NHK、民放各社とも特別番組を企画するなど、忘れずに取り上げてくれるのはありがたいことである。仙台の街中にいると、震災の爪跡を見つけることはもうほとんどないが、それでもやはりこの日だけは毎年、普段とは違った心持ちになる。

WP_20180311_14_02_07_Rich 今年も出発点は若林区役所である。今日は日曜日ということで閉庁日だったが、献花台は今年も設けられ、人がひっきりなしにやってきていた。ここでこうして手を合わせている人、一人ひとりにきっと失われた大切な命があったのだと思うと、改めてこの震災の大きさに思い至る。

 若林区役所を出て一路東に向かい、沿岸の荒浜を目指す。震災直後、「海岸で200〜300人の遺体が見つかる」などとショッキングに報じられた地区である。あの報道は実は誤報だったが、かなり後まで繰り返し報じられ続けた。

 あの日、津波からの避難を地区住民に呼び掛けるべく、弟が公用車に乗って辿ったであろう道を走る。今日は南東の風が強く、自転車がなかなか前に進まない。冬の時期、いつもは北西の強くて冷たい風が吹く。南東の風は春の風のはずだが、全く暖かさは感じない。冬の冷たさのままの風である。

WP_20180311_14_18_50_Rich 荒浜に行く途中、仙台市地下鉄東西線の東の終点、荒井駅に寄り道する。ここには2年前の2月、「せんだい3.11メモリアル交流館」が開設された。交流スぺ―ス、展示室などからなる施設で、震災やこの地域に関する各種情報を発信していくことを目的につくられた。昨年6月には来場者が10万人に達したとのことである。




WP_20180311_14_38_21_Rich 荒浜に向かう道は今年も渋滞していた。荒浜地区一帯は震災後、災害危険区域となり、人が住むことのできない地域となった。他の地域への移住を余儀なくされた元住民の人たちがこの日は皆、ここに集まってくる。今年も地区唯一の寺院、浄土寺ではこの地区で亡くなった人のための追悼法要が営まれた。また、海岸近くに立つ「荒浜慈聖観音」には今年も焼香所が設けられ、たくさんの人が焼香していた。


WP_20180311_14_42_54_Rich 防潮堤に登って海を見下ろす人、海岸に下りて海を見る人もたくさんいた。今日は風が強く、消波ブロックに打ち付ける波はいつもより高かった。しかし、あの日ここに押し寄せた大津波はこのようなものではなかった。震災前よりも高さが増した7.2mの高さの防潮堤すら超える、平野部を襲った津波としては世界最大級という、およそ10mの高さの津波。上空から撮影された映像はあるが、地上にいてあの日、その大津波がどのように見えたのか、ここでこうして海を見ていても想像することすら難しい。

 そして、午後2時46分。地震発生の時刻である。サイレンが鳴ったり、放送があったりしたわけではないが、手元の時計を見て海に向かって手を合わせた。他の人も皆、同じように手を合わせていた。

WP_20180311_15_24_05_Rich 地区にある仙台市立荒浜小学校。地区が災害危険区域に指定されたことで閉校となったが、震災遺構として保存されることになり、昨年4月から校舎内が開放されている。校舎の1階は被災当時の状態がそのまま残されている。2階にあるひしゃげたフェンスもそのままで津波の大きさと破壊力が想像できる。地震発生からここに避難した住民が救助されるまでの経過、荒浜地区の歴史や文化などがパネルなどで紹介されている。昨年末までの8カ月でおよそ6万人がここを訪れたとのことである。

 仙台平野の一部で延々と平地が広がるこの地域には、津波発生時に避難できる高台が存在しない。あの日大津波に遭遇した住民が避難できる場所はこの荒浜小学校のみであった。小学校の児童、地域住民ら約320名がここに避難して難を逃れたが、一方で192名が津波に飲まれて亡くなった。仙台市の沿岸はどこもこの荒浜地区のように高台が存在しない。そこで仙台市では津波避難施設を沿岸に13カ所整備した。いざという時にはそこに避難することができるようになった。この荒浜小学校も、津波避難施設を兼ねている。

WP_20180311_15_14_43_Pro 今年も荒浜小学校では、荒浜を拠点に「繋がりが失われた街に、もう一度笑顔や思いを共有するプロジェクト」である「HOPE FOR PROJECT」が、花の種を入れた風船を空に飛ばすイベントを行っていた。震災から7年が経って、このイベントもすっかり3月11日の荒浜の風物詩として定着した感がある。




WP_20180311_15_41_29_Rich 私にとっては、午後2時46分よりも午後3時54分の方が重要である。午後3時54分は、この地区に大津波が押し寄せた時刻である。この時刻については、弟と同様にこの地区で避難呼び掛けをしていた若林消防署荒浜航空分署の署員の方の証言で明らかになっている。この時刻に合わせて、南長沼に行ってみる。この地区の方々の遺体の大部分は、自衛隊や消防、警察による懸命の捜索の結果、ここで見つかった。決して2、300人もの遺体が震災当日に海岸で見つかったというような状況ではなかったのである。

 だいぶ埋め立てられて以前より小さくなってしまったが、それでもまだ水鳥が羽を休めるくらいのスペースはある。沼越しに望む海岸沿い、防風林として植えられていた松は、いまだ櫛の歯が欠けたような状態のままである。様々な団体が植林を続けているが、再生にはまだまだ時間が必要である。

 人口100万人を抱える大都市がこれだけの大津波に襲われた事例は、世界的に見ても稀だと思われる。この未曽有の災害から得た知見を発信することは、日本のみならず世界の都市防災にとっても大いに有意義なことである。その意味では、「せんだい3.11メモリアル交流館」や荒浜小学校を多くの人が訪れていることは、そうした情報発信がある程度うまくいっている一例と言えるのではないだろうか。9日には3回目となる「仙台防災未来フォーラム」も開催された。

 よく言われる「風化」をさせないために、こうした不断の情報発信に勝る方策はないと考える。もちろん、それは自治体やメディアがやればよいというのではなく、震災を経験した我々一人ひとりが考えていくべきことである。

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2018年02月07日

私的東北論その102〜「東北・みやぎ復興マラソンが初開催!」(「東北復興」紙への寄稿原稿)

 昨年10月16日に発行された「東北復興」第65号では、初開催された「東北・みやぎ復興マラソン」について書いた。私にとっても初のフルマラソンで、相当シンドい思いもしたが、沿道の温かい声援は本当に力になった。人が誰かを思って発する言葉の持つ力について改めて思い至った。


「復興」の名を冠したマラソン
 10月1日、「東北・みやぎ復興マラソン」が開催された。東日本大震災の大津波で大きな被害を受けた宮城県の沿岸部、名取市・岩沼市・亘理町にまたがるエリアを走る、震災後の宮城県内で初となる公認フルマラソン大会である。津波対策としてかさ上げされた県道塩釜亘理線を走り、岩沼の震災復興のシンボルでかつ災害時の避難場所でもある「千年希望の丘公園」や建設中の防潮堤などを望むコースである。

 この大会の目的として、「被災地復興の”今”をマラソンというスポーツを通じて、日本や世界に伝え」ると共に、「震災を風化させることなく、今なお続く『復興』を走ることによって支援する」ことが挙げられていた。復興への願いを込め、被災地の復興に役立ちたいという想いで「復興マラソン」という名を冠し、その名に恥じない大会にするべく、開催に掛かる多額の費用を、開催場所が被災地である点を考慮して開催自治体には補助金の拠出以外の部分での協力を求め、参加ランナーの参加料と開催趣旨に賛同した企業の協賛金のみで賄うことを目指したという。

 また、マラソン大会運営そのものだけでなく、集まった資金の中から被災地に役立つ復興支援策を実施するとして、「子どもたちの健全な心身と地域への愛情の育成」、「震災の『風化を防止』し、全国・世界の支援者との強固な絆の構築」、「被災地域のにぎわい創出・交流人口や定住人口の拡大」の3つの支援策を揚げ、継続的な復興支援を行っていくとしている。具体的には今回は、12の被災自治体のスポーツ少年団にスポーツ用品を、1つの被災自治体に「防災・減災広報車」を贈呈し、また大会を一過性のものにすることなく、ランニング文化を育むことを目指すとして今回のマラソンコースに距離表示看板を設置した。

いざ、参加!
 そのような趣旨のマラソンであるこの「東北・みやぎ復興マラソン」、「東北」と「復興」という、私にとって重要なキーワードが2つも含まれている。関心は大いにあったのだが、当初参加に関しては迷っていた。理由は何のことはない、私自身がフルマラソンを走ったことがないからである。毎年5月に開催される「仙台国際ハーフマラソン」には、一般参加ができるようになった2012年から毎年参加しているが、ハーフマラソンですら毎回ヨロヨロになりながらゴールする有様であるので、その倍の距離を走り切れるとは到底思えなかったのである。

 そんなわけで気が付いたら応募締切日を過ぎてしまっていたのだが、そうしたらなんと、定員に達せず締切を大幅に延長することになったと聞いた。初開催ということで知名度がまだそれほど高くなかったこと、上記のような趣旨から参加料が14,000円と高額(東京マラソンでも10,800円である)だったことなどが影響したようである。それなら完走できるかどうか分からないけれども参加してみようかと思った。

 私のような人が他にもたくさんいたのだろうか。ふたを開けてみれば、フルマラソンは結局当初予定の12,000人がエントリーして、問題なく開催となった。12,000人が走るので、スタートはウェーブスタートというそうだが、4回に分けて行うことになった。私は第2ウェーブのスタートだったが、10分間隔で3,000人ずつスタートの号砲が鳴った。

 案の定、スタートから20kmくらいまでは何とか走れたが、そこから先の未知の世界では本当にゴールが遠かった。普段通勤で乗っている自転車とは違い、速度が遅いために周囲の景色の移り変わりが遅くじれったくなること、脚を止めたらその先一歩も進まないことなどで正直かなりしんどかった。

 それでもやはり沿道の声援は本当に力になった。仙台国際ハーフマラソンでも聞く、「頑張って!」、「ファイト!」という声に混じって、「ありがとう!」という声が多かったのには驚いた。震災後、人の賑わいが遠ざかっていた沿岸の集落の方々からすると、12,000人ものランナーが大挙して訪れるということに対しては、まさに「ありがとう!」という気持ちだったのかもしれない。

 沿道で声援を送ってくれる方々の中には、大きなざるにたくさんの塩タブレットを入れて、道行くランナーに「どうぞ持って行ってください」と声を掛けてくれたり、後半になると走る脚のトラブルが生じるランナーが出てくるということを見越して、エアーサロンパスを準備して「エアーサロンパスあります!最後まで頑張ってください」と声を掛けてくれたり、単に声援を送るだけでない人も多数見掛けた。こちらこそ「ありがとう!」である。と同時に、この辺りのことが実に東北らしいとも思った。

「BACK TO THE HOMETOWN」
 そう、この復興マラソンの特徴は他にもある。集落の名前を冠したスペシャルエイド「BACK TO THE HOMETOWN」である。今回のコース上には、「閖上」、「小塚原」、「美田園」、「北釜」(以上名取市)、「相野釜」、「藤曽根」、「二野倉」、「長谷釜」、「蒲崎」、「新浜」(以上岩沼市)、「荒浜」(亘理町)の合わせて11の集落があった。しかし、すべての集落が大津波によって甚大な被害を受けた。集落に住んでいた方々は長期の避難生活を余儀なくされた。11の集落のうち岩沼市にあった6つの集落は、災害危険区域となった先祖伝来の土地からの集団移転を決意して、海岸から内陸に3キロ入った玉浦地区の西側に新しい街をつくった。現地再建を選んだ残りの5つの集落でもまだ震災前の状態には戻っていない。これらの集落があった場所に今回、「BACK TO THE HOMETOWN」と名づけられたエイドステーションが設けられた。「BACK TO THE HOMETOWN」には当日、かつての住民が再び集い、ボランティアの人と一緒に水やスポーツドリンクを準備してくれただけでなく、地域に伝わる郷土料理を提供してくれたり、伝統芸能を披露してくれたりもした。

 当日は「はらこめし」(醤油などの調味料で煮込んだ鮭を込んだ煮汁で炊き込んだ鮭といくらの「親子丼」)、「せり鍋」(昆布や鰹節の出汁に鶏肉とせりを根っこの部分まで入れて醤油などで味付けして食べるなべ)、「岩沼とんちゃん」(ジンギスカン用の鍋で焼く豚のモツを用いたホルモン焼き)、「浜焼き」(水揚げされた新鮮な海産物を炭火で焼いたもの)などが振る舞われた。

 フルマラソン開催日に「当時の集落の賑わいを復活させたい」という実行委員会の思いで実現したまさに特別なエイドステーションである。このマラソンは今後も年に1回開催される予定であり、「年に一度、故郷が『BACK TO THE HOMETOWN』として蘇る」という趣旨で今後も設置され、ランナーと地域の人との交流の場となるに違いない。

雄勝石の「Finisher Stone」
18839530_1076395292494506_6791376177430904705_o さて、結局私の方はと言うと、筋肉痛で痛む脚に鞭打ちつつ、沿道の声援に背中を押していただいて、何とかかんとか3時間41分で完走できた。もう二度とやるものかと思ったが、ゴールして嬉しかったのは完走した人がもらえる「Finisher Stone」である。要は、石で造ったメダルなのだが、この石が何と、石巻市雄勝町特産の「雄勝石(おがついし)」だったのである。

 雄勝町は震災前、国内の硯の9割を占める圧倒的なシェアを持っていたが、その理由が町内で産出する「雄勝石」だったのである。硯だけでなく、高級な屋根材や庭石としても珍重されているそうだが、その歴史は古く、室町時代にまで遡るという。

 今回の「Finisher Stone」は、震災の大津波で流失し、地元の方々やボランティアの方々が回収した雄勝石を使っているとのことで、まさに復興の名を冠するマラソンに相応しい素敵な記念品となった。大会事務局では、「大震災を乗り越えた石!復興の象徴の石」として、「42.195kmという通常では考えられない距離に挑戦し、見事に乗越えられた『強い固い、意志=いし』を持つランナーの方々に相応しいメダルを贈りたい」との思いを込めたそうである。

被災地のグルメを堪能できる「復興マルシェ」
 スタートとゴールの会場である岩沼海浜緑地では、「復興マルシェ」も開催された。各ブースでは、宮城県内の30超の市町村、それに福島県、岩手県、熊本県のグルメが味わえた。ランナーだけでなく、会場を訪れたすべての方が楽しめるという趣旨のイベントで、実際たくさんの人で賑わっていた。

 こうして各地域の名物料理が一堂に会する様を見ているとつくづく、東北には豊かな自然の恵みが多くあることを実感する。この時期の亘理町の名物である「はらこめし」など特に人気のある名物料理はあっという間に品切れになっていた。私の好きな宮城県加美町のやくらいビールも、私がゴールする頃には全種類品切れとなっていた。マラソンで走らなくても、被災地各地のグルメを横断的に堪能できる場としても、この「東北・みやぎ復興マラソン」は貴重であると思った。

被災地の今を知り、交流する場に
 今年初開催となった「東北・みやぎ復興マラソン」、シャトルバスの運用などいくつかの点で次年度への課題を残したようであるが、何より全国から(今回全都道府県からエントリーがあったそうである)多数の人が被災地を訪れ、復興の現状をつぶさに見て、また各被災集落の方々とスペシャルエイドステーションである「BACK TO THE HOMETOWN」で交流できるというのは素晴らしい取り組みであると思う。

 毎年継続して開催されることで、その時々の復興の状況をつぶさに見ることもできる。震災の記憶の風化が指摘されるが、毎年のこの復興マラソンの模様が報じられる度に、現地の復興の状況についても触れられたり映像で伝えられたりすることも期待できるわけである。

 5年後、10年後、コースから見える景色はどのように変わっているのだろうか。ぜひ今後の継続的な開催を期待したい。


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2017年08月02日

私的東北論その97〜「東北でよかった」(「東北復興」紙への寄稿原稿)

 「東北復興」紙、今年の5月16日に刊行された分で60号に達した。月刊なので足掛け5年ちょうどである。この間、ひと月も休まずに同紙を刊行し続けた砂越豊氏には心から敬意を評したい。5年を一区切りとして完結させる考えもあったようであるが、東北の復興が今に至っても道半ばであることもあって、さらに続ける決意を固められた。
 バックナンバーを見てみると、その時々で課題となっていたことが的確に取り上げられている。その意味で、同紙は東北の復興に関しての貴重な記録の一つである。今後の展開にも期待したい。
 さて、その記念すべき5周年、60回目の原稿は例のアレについてであった。以下がその全文である。


「東北でよかった」

「あっちの方だったからよかった」

 今村雅弘氏が復興大臣を辞任した。自身が所属する派閥のパーティーでの講演の中で、「また社会資本等の毀損も、いろんな勘定の仕方がございますが、25兆円という数字もあります。これはまだ東北でですね、あっちの方だったから良かった。これがもっと首都圏に近かったりすると、莫大なですね、甚大な被害があったというふうに思っております」と発言したことがきっかけとなった。

 恐らく、被災地が東北だったからこれくらいの被害額で済んだのであって、これが首都圏だったらこんなものでは済まないはずだ、ということを言いたかったのだろう。ただ、それにしても、「まだ東北で、あっちの方だったから良かった」はいかにも余計である。災害が起きたのがどこだったからよかった、どこだったらよくないということはない。どこであっても、災害が起きてよかったということはない。

 そして、もう一つ、「あっちの方」という言葉である。むしろ、この言葉の方に今村氏の東北に対するスタンスが表れているのではないかと思った。東北は「あっちの方」、つまり「こっち」じゃない。どこか遠いところ。自分のいる場所とは違うところ。東北に対するそのような今村氏の認識が感じられる。

 今村氏は、「総理からの御指示や内閣の基本方針を踏まえ、現場主義を徹底し、被災者に寄り添い、司令塔の役割を果たしつつ、被災地の復興に全力を尽くしてまいる決意であります」と就任時の記者会見で述べている。「被災者に寄り添って」と言うが、自分だけ被災者と違うところに身を置いていて、どうやって寄り添うつもりだったのだろう。

 前復興大臣が東北の復興に対して、全く無関心であったとは思わない。福島の企業を訪問した時にもらったアニメ柄のネクタイを、「風評対策を含めて、とにかく地元のいろいろ企業を元気にしようという思いで」締めてきたと語っているし、辞任の前日には岩手の三陸鉄道の「三鉄オーナー」にもなっている。ちなみにこれは、岩手県へのふるさと納税「ふるさと岩手応援寄付」で三陸鉄道への支援のために10万円以上寄付した人のことで、「オーナー」は今村氏が5人目であった。JR九州出身の同氏らしい復興支援と言えた。

 ただ、残念ながら、ご自分の発する言葉に対する感度がそれほど高くない方だったのかもしれない。講演後の記者とのやり取りでも、この発言の何が悪かったのか全く分かっていない様子であった。そこの感度は、今村氏の発言についてその後にすぐさま謝罪した安倍首相とは対照的であった。安倍首相は、「まず冒頭ですね、安倍内閣の今村復興大臣の講演の中におきまして、東北の方々を傷つける、極めて不適切な発言がございましたので、総理大臣としてまずもって、冒頭におわびをさせていただきたいと思う次第でございます」と述べた。恐らくその時点で、「この発言はかばい切れない」と思ったのだろう。


「東北でよかった」の劇的転換
 さて、そのような今村氏の「東北でよかった」発言とその後の辞表提出を受けて、私はfacebookに、「生まれ、育って、今も生活している場所が『東北でよかった』と、心底私は思ってます。前復興大臣も一度住んでみたらいいと思う。ホントいいところなんだから。(^▽^)」と投稿した。日が変わって4月26日の0時59分のことだった。普段、飲み食いした店の話や参加した会合の模様を発信するのがほとんどの私の投稿の中では、異例な感じの投稿だったが、お蔭様でいつもの倍以上の「いいね!」やたくさんのコメントをいただいた。

 私の友人も同様に、「僕は生まれたのが『東北で良かった』。音楽を学んだのも『東北で良かった』。僕の街もステキな街だし、死ぬまで東北に住んでいたいゼ。東北の田舎の人たちだから助け合えたし乗り越えられた。東北『が』良かったって言い間違えたんじゃないかな?まあ、関東の爺様の言うことにいちいち腹は立てない。この機会に、みんな東北一度は来て見て。」と投稿していた。

 一夜明けて、私のそのfacebookの投稿へのコメントで、ツイッターのハッシュタグで「#東北でよかった」がすごいことになっていることを教えてもらった。見てみるとそこには予想だにしなかった投稿が並んでいた。東北の美しい景色や美味しい食べ物の画像、心に残るエピソードなどが、「#東北でよかった」のハッシュタグと共に大量に投稿されていたのである。

 どうやら、最初のうちはやはりこの「#東北でよかった」のハッシュタグは、今村氏の発言を批判、非難するものばかりであったらしい。ところがその後、この「#東北でよかった」が、まさに「東北でよかった」という意味で投稿されるように変わり、その意味での投稿が圧倒的な数に上ったのである。なんという鮮やかかつ素敵な切り返しだろう。様々な画像に添えられていたメッセージも印象的なものが多かった。

「#東北でよかった 生まれた場所が」
「#東北でよかった ボクらのふるさとが」
「綺麗な景色 優しい人達 旨い飯…(酒…) 生まれた場所が #東北でよかった」
「私の大好きな、愛すべき地方が #東北でよかった」
「2008年から、震災を経て、2014年まで住んだ宮城・仙台は、私にとって第二の故郷。心から #東北で良かった」
「故郷を離れても忘れない。あの町で育ってよかった。#東北でよかった」
「生まれも育ちも、良かったと思える場所だよ。ご飯が美味しい、素朴な人々、のどかな景色。これだけで東北でよかった、なんだよ いいとこだよ、東北」
「震災後、東北に5回旅行しました。福島、宮城、山形、青森の地元の人たちはいつもあたたかくみんな親切で、東北に遊びに行って良かったなあと思っています。まだ訪れていない所へも旅しようと思います」
「初めて鉄道目的の旅行で、迷った時、優しいおばあちゃんに教えてもらいました。 あの時のことは忘れられない」
「かなしみも よろこびも すべてつつんでくれる #東北でよかった」
「みんな! #東北でよかった ってのは、こういうことを言うんだってことを教えてやろうぜ!」
「失言で終わらせないのは確かにいいな。というわけで、去年の仙台七夕。夏は東北各地で祭りが開催されます。おいでよ東北」
「このハッシュタグがいい意味で使われてトレンドに上がっているのが東北民としては嬉しい。」
「これぞ東北の心意気」
「生まれた場所が #東北でよかった こんなにも強い仲間がいる。おいでよしてる仲間がいる」
「#東北でよかった のタグが素敵な写真でいっぱいで、本当に東北は良いなと思いました」
「ひどい言葉を言われても、ひどい言葉で返さないで、何言ってんの、私たちの住む地の素晴らしさを知ってよって、みんなが笑う、そんな東北でよかった」

 東北に住む人、東北に縁のある人、東北に心を寄せてくれている人によるこれらの投稿、本当に素晴らしいとしか言いようがない。


復興大臣が今村氏でよかった
 そしてまた、これらの東北に関係する人たちによる投稿を見た人たちからも、好意的なコメントがものすごい数投稿されていた。曰く、

「なんて強くて綺麗なタグ…」
「このタグ、なんとなく見てみたら『東北本当にいいところだよ!東北に生まれて良かった!東北に行って良かった!』的なツイートで溢れてたから世界は本当に美しいなおい!ってなった」
「こういう失言を明るく変えていく流れ好きです」
「愛にあふれたタグになっていた」
「すてきな使い方になっていて涙が出た」
「さっそく #東北で良かった  という言葉の『良い東北を広げよう』としてるツイートを発見し、心打たれました…」
「みんな東北のハッシュタグが素敵な方に使ってていいなって思った」
「タグが素敵すぎる」
「不適切発言を裏返すこのタグには感動。震災を経験したからこその団結力」
「震災にも負けない人たちを見ることができた」
「このハッシュタグのお陰でほっこりした」
「美しい国。『よかった』って言葉はこう使うのだね。とても素敵な意味に変わってる、このハッシュタグ」
「ステキなタグになって本当に嬉しい 私  関西人だけど、さんさやはねこを踊った事があるんだわ」
「あぁなんて素敵なタグなんでしょう」
「なんだろうこのタグ…目から水滴が…」
「このタグ泣くよ… 東北は行ったことないけど絶対行きたい土地の一つ」
「変な意味を持ったタグを乗っ取ってオラが町自慢の幸せなタグに変えてしまう東北人の図々しさ大好き」
「失言が、#をつけたことで郷土愛に変わった。失言する人がいる一方で、その失言を『東北の魅力を発信するハッシュタグ』にして、東北を盛り上げよう、応援しようとする人もいる。そんな国でよかった。こんなに泣けるハッシュタグは初めて」

このように、「東北でよかった」という言葉が、発せられた時の意味を離れて、一夜のうちに本来の意味を取り戻したことに対する驚きと称賛の声が溢れていた。

 この「東北でよかった」、同時多発的に起こっているのが興味深い。私のfacebook投稿はこれらツイッターの投稿とは関係なく行ったものだし、友人のも恐らくそうだ。ツイッターだけではなく、インスタグラムでも同様に「#東北でよかった」のハッシュタグでの画像がものすごい数投稿されている。「東北でよかった」と思っている人がそれだけ多数いて、今村氏の発言が引き金となって、ネットに溢れ出たということだろう。

 「東北でよかった」が「東北においでよ」につながっている投稿の多さも特筆に値する。私の投稿も友人の投稿も東北に来てみることを勧めているし、多くのツイッターの投稿も東北の素晴らしい景色や美味しそうな料理の画像を投稿して「東北においでよ」と投稿しているものが多い。

 このように「東北でよかった」のハッシュタグで東北に来ることを勧めている東北人に対して、既に「おいでよ族」という称号(?)も与えられている。こんなツイートがあった。

「『東北で良かった』についた悲しいイメージを払拭するかのように、『#東北でよかった 』とタグ付けしてTLに流れる東北の生命力の強さを現す光景…… さすが、おいでよ族の民たち」

このツイートに対して、

「そう。我らはおいでよ族の民」

と返している人もいた。

 この「おいでよ」という投稿の多さこそ、東北に住んでいる実に多くの人が、自分たちの住んでいる土地に対して愛着を持っていること、誇りを持っていること、心底いいところだと思っていることの何よりの現れであると思う。それが夥しい数の「東北ってこんなにいいところなんだよ、とにかく一度おいでよ」という投稿になっているのである。

 最後に。今村氏のあの発言がなかったら、これら東北を巡る数多くの素晴らしい投稿もなかったわけである。誰も言わないが、私はあえて言おう。復興大臣が今村氏でよかった、と。


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2017年07月31日

私的東北論その96〜2回目の「仙台防災未来フォーラム」(「東北復興」紙への寄稿原稿)

 4月16日に発行された「東北復興」第59号では、昨年初開催された「仙台防災未来フォーラム」について取り上げた。この取り組み、ぜひ今後も毎年続けてほしいものである。以下がその全文である。


2回目の「仙台防災未来フォーラム」

「仙台防災未来フォーラム」とは
 3月12日、「仙台防災未来フォーラム2017」が開催された。昨年3月の第46号で取り上げたが、一昨年仙台で開催された国連防災世界会議をきっかけに昨年初開催された、地域における防災の取り組みを共有し、これからの防災について考えるためのフォーラムである。

 震災の発生から6年が経過した。この間の震災の経験や教訓を、地域を超えて、世代を超えて、どのように伝えていくかについては、多様な主体、媒体が手探りで様々な取り組みを続けている。そのような中で、この「仙台防災未来フォーラム」は、仙台市が主催し、震災経験の伝承や、地域防災の次代の担い手づくり、人々の多様性と防災といったさまざまなテーマについて、「伝える」ことの大切さや今後の課題について理解を深め、経験や教訓を世界へ、そして将来へどのように受け継いでいけばよいのかを考えるという趣旨で開催されている。

 一昨年の3月に開催された「第3回国連防災世界会議」には、世界185か国から6,500人以上が参加し、成果文書として「仙台防災枠組2015-2030」が採択された。「仙台」の名を冠するこの防災枠組は、防災に関わる新たな国際的な取り組みの指針で、期待される成果と目標、指導原則、優先行動、関係者の役割や国際協力等が規定されている。枠組の策定に当たっては、東日本大震災からの復興を目指すこれまでの取り組みを踏まえて、多様な主体の関与や防災・減災への投資、「より良い復興(Build Back Better)」の重要性などが日本から提案され、その考え方がこの枠組の中には取り入れられている。

 「仙台防災未来フォーラム」は、この国連防災世界会議の仙台開催から1周年となったのを機に昨年3月に開催され、今年が2回目である。仙台市では現在、子供から高齢者まで、性別や国籍の違い、障害の有無などによらず、地域のすべての関係者が自助・共助を担うという地域づくりを進められている。フォーラムは、そうした取り組みを踏まえ、防災の担い手たちが自分たちの取り組みを共有・継承することで、新たなネットワークを生み出し、未来の防災に貢献することが目的とされた。


「インクルーシブ防災」とは

 今回のフォーラムのテーマは「経験を伝える・共有する・継承する」で、6つのテーマセッション、ミニプレゼンテーション、連携シンポジウム、各種関連イベント等が開催された。6つのテーマセッションの一つは「インクルーシブ防災を目指した地域づくり」である。「インクルーシブ防災」とは、障害者や高齢者などを含む、あらゆる人の命を支える防災を目指していこうという考え方である。東日本大震災を機に防災・減災への関心は高まり、日頃からの備えと対策が必須だと言われているが、災害発生時の対応はまさに平時の取り組みの延長であるとされる。そしてまた、災害が発生した際の安心・安全の確保には、普段からの地域住民の相互理解とネットワークの構築が大切である。

 このセッションでは、そうしたことを踏まえて、「仙台防災枠組」に記載されたステークホルダーの役割を問いつつ、インクルーシブ防災をめざした地域づくりについて議論が行われた。その中で、立木茂雄氏(同志社大学社会学部)は、「災害時の当事者力イコール防災リテラシー」で、防災リテラシーは「理解×備え×とっさの行動」と指摘していた。そして、平時のケアプランから個別に災害時ケアプランを作成する『別府モデル』を構築しようとしている取り組みについて紹介した。山崎栄一氏(関西大学社会安全学部)は、法学の専門家の立場から、「インクルージョンとは、排除・除外のない状態」で、そこには「意図的な差別的取り扱い」以外に、「無配慮・無関心によるもの」もあるとした上で、各種の支援制度には、「支援」、「配慮」に「参画」を加えた三要素の連動が必要と指摘した。阿部一彦氏(東北福祉大学総合福祉学部)は、「障害による暮らしにくさは個人の問題でなく、多くは社会環境によって作り出される」と訴えた。

 コーディネーターの三浦剛氏(東北福祉大学総合福祉学部)は、「地域に住む住民を理解し、日頃からの関わりを通してどのような支援が必要か把握していくことが『我がこと・まるごと地域づくり』の推進につながる」とまとめたが、フロアから発言した熊谷信幹氏(柏木西部自治会防災担当)は、「『インクルーシブ』と言うが、そもそも障害者基準で防災システムを作るべき」と主張した。「誰でも年老いたら障害者」であり、「障害者は多数派」なのだから、「『障害者も交ぜてくれ』という話は筋違い」だという論旨で、フロアから拍手が起こっていた。

 他には「"地域のきずな"が生きる防災まちづくり〜仙台市の事例から学ぶ」というテーマセッションもあった。「持続可能な防災まちづくり」を進めていくために、日頃からの“顔の見える”人と人とのネットワークや地域コミュニティづくりがまず大切ということから、「日常的にまちづくり活動が活発で、それが防災の優れた取り組みにもつながっている」という事例を共有し、コミュニティーにおける地域防災の今後の活動や課題解決のヒントを考えるという趣旨のセッションであった。登壇した今野均氏(片平地区連合町内会)の「防災活動はまちづくりの一つ」という言葉に如実にそのことが表れていた。

 また、菅井茂氏(南材地区町内会連合会)は、「自分達のまちは自分達で守る。自分の命は自分で守る。そのために地域で顔の分かる関係の構築が大切」と訴えた。町内会として他の被災地に「押しかけ支援」としてできる範囲の支援・協力を行ってきたを続けてきた福住町町内会の菅原康雄氏は、その秘訣として「できることから始める」を挙げた。その上で、「自助・共助に加えて、自制(見返りを求めない)・他助が大事」として、「自助・共助で助かった命で他を助ける」ことの重要性も強調した。

 こうした発表について、佐藤健氏(東北大学災害科学国際研究所)は、「日常的なまちづくり、ひとづくり、きずなづくりの取り組みが防災力を高め、活動の持続可能性と次世代の人材育成という波及効果ももたらす」として、そこでは「ソーシャルサポート」と「コミュニティ・ソリューション」の2つがキーワードであるとした。


「多様な主体」による防災・減災
 フォーラムのまとめとして、「クロージング」が行われた。ここでは、それぞれのテーマセッションでの議論結果が報告されると共に、それを基に震災の経験や教訓などを伝えることについて、その大切さや課題について考え、多様な主体(マルチステークホルダー)による防災・減災の取り組みの今後の方向性などについて参加者で共有した。

 「ともに考える防災・減災の未来〜『私たちの仙台防災枠組講座』、『結プロジェクト』合同報告会〜」の保田真理氏(東北大学災害科学国際研究所)は、報告会の模様を紹介しつつ、「社会の構成員全てが共に考えることがレジリエントな社会をつくる」と述べた。「もしものそなえ SENDAIと世界のつながり〜伝えよう、共有しよう、継承しよう〜」の秋山慎太郎氏(JICA地球環境部)は、JICAの取り組みを伝えつつ、「伝えていく中で、伝えられる側、伝える側双方の学びが重要。それがもしもの備えにつながる」と指摘した。

 「震災から6年・教訓伝承と防災啓発の未来〜連携と発信の拠点づくりに向けて」と「次世代が語る/次世代と語る〜311震災伝承と防災〜」の武田真一氏(河北新報社防災・教育室)は、「震災だけでなく、地域の過去や未来、希望も併せて伝えることでさらに(震災のことを)伝えられる」と強調した。ミニプレゼン・展示ブースの小美野剛氏(JCC-DRR事務局)は、「教訓を未来の活動につなげる」ことの重要性に言及しつつ、「全ての活動は共感に基づく」こと、そしてこれからは「単なる支援から、新たな価値の創造への移行が必要」であることも併せて主張した。

 コメンテーターの松岡由季氏(国連国際防災戦略事務局)は、一連の発表を踏まえて、「『レジリエント』と『インクルーシブ』が仙台防災枠組のキーワード」であり、「社会全体が『レジリエント』であるためには『インクルーシブ』である必要がある」とまとめた。また、「伝承は人の命を救う力がある」とも述べた。もう一人の立花貴氏(公益社団法人MORIUMIUS)は、「防災は日常の延長線上」にあるとして、「地域の取り組みが有事にも機能」するとした。また、「単なる事実でなく、そこに込められた思いを伝える」ことが震災の伝承においては重要であるとも指摘した。

 会場では、「救州ラーメン」も販売された。東北の被災地での提供食数が10,000食超というプロジェクトで、博多ラーメンの老舗「秀ちゃんラーメン」によるラーメンの炊き出しを通じた復興支援である。また、仙台市内では2月から3月に掛けて、今回のフォーラムに関連して、様々な防災・減災・復興に関するイベントが開催された。まさに「多様な主体」による防災・減災の取り組みである。


六県連携でより幅広い発信を
 仙台市では、11月に「世界防災フォーラム/ IDRC 2017 in SENDAI」の開催が決定した。スイスのダボス2年に1回開催される防災の国際会議「国際災害・リスク会議」(IDRC)で発表されたもので、東北大学、仙台市が中心となって内外の防災関係者が集い、震災の教訓・知見の発信や議論を行いながら連携を強化する場として開催するもので、今年だけでなく、以降も隔年での開催が予定されているという。

 仙台防災未来フォーラムに加え、世界防災フォーラムも開催されることとなり、東日本大震災への対応、そこからの復興に関する情報発信を継続的に行っていく場が着々とつくられていることは実に喜ばしいことである。願わくは、これを仙台市だけの取り組みとするのではなく、宮城県内の他の市町村や東北の他の五県とも連携して、より幅広い情報を発信していってほしい。

 岩手県内の沿岸市町村の復興への動きは仙台市とはまた異なるし、福島県内の沿岸市町村は言うまでもなく原発事故による影響が加わってさらに複雑な課題への対応を余儀なくされている。あまり知られていないが、青森でも津波によって24平方キロメートルが浸水し、死者も出ている。直接の被害が軽微であった秋田・山形両県では、被災地のバックアップという点で重要な役割を果たしており、そこでの知見も大いに伝えられるべきである。せっかくの震災から得た知見を地域や世代を超えて発信していく場である。より多くの知見をより多様な視点から伝えるということに、今後はより力を入れていくべきであると考える。


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私的東北論その95〜震災から6年ということ(「東北復興」紙への寄稿原稿)

 だいぶ間が空いてしまい、その間、またしても「東北復興」紙に寄稿した記事の再録が滞ってしまっていた。以下は3月16日に刊行された「東北復興」紙第58号に寄稿した原稿の全文である。この時期はどうしてもやはりこの話題である。


震災から6年ということ

6年という歳月

 今年の3月11日で、東日本大震災の発災から丸6年になる。先日、同じ仙台市内に住む知り合いと打ち合わせの日程調整のやり取りをしていて、「3月11日は空いてますか」と聞かれた。その日は静かに故人に思いを馳せる日にしたいので、そのように返事したところ、「そう言えばそうでしたね」という答えが返ってきた。別にその人が無神経というわけではない。震災から6年という年月は、そのような時間だということである。

170310-025005 他人事ではない。私の左手首にはいつも水晶のブレスレットがある。震災で亡くした弟の遺体が地震発生からちょうど49日目に見つかって、これでようやく葬式をあげることができるとなった時に、手元に数珠がないことに気づいた。どれだけそれまで、死から縁遠い日常を送っていたのかと思ったが、ともあれ急いでお気に入りの石である水晶で数珠を作ってもらった。その時余った水晶の玉でブレスレットを作ってもらったのである。

 弟の死を忘れないように、そして、いつ死がやってくるか分からないということを忘れないようにという意図を込めて、その日以来、このブレスレットを肌身離さず身につけてきた。ところが、先日、温泉に行った時に、なんと脱衣所にこのブレスレットを忘れてきてしまった。すぐに思い出して取りに戻って事なきを得たが、我が身にしてそうである。そもそもこのブレスレット、震災から6年が経って、毎日身につけることは習慣になってはいても、これを見て死を意識するということは本当に少なくなってきているのを感じている。


3月11日に行われるイベント
 仙台市内では、2年前に開催された国連防災世界会議をきっかけに昨年開催された「仙台防災未来フォーラム」が、今年も3月12日(日)に仙台国際センターを会場に開催される。フォーラムでは、震災経験の伝承、地域防災の次代の担い手づくり、人々の多様性と防災などのさまざまなテーマから、「伝える」ことの大切さや今後の課題について理解を深め、経験や教訓を世界へ、そして将来へどのように受け継いでいけばよいのかを考えることとなっている。

 このフォーラムには今年も足を運ぶつもりで、恐らく来月のこの欄でその模様を紹介できると思うが、このフォーラムに伴って開催される関連イベントの中に、フォーラムの前日の11日に開催されるものがかなりある。もちろん、震災のその日に震災について考える趣旨のイベントを開催することを否定するものではないが、私としては追悼のための行事ならともかく、先に書いたように震災当日は静かに故人を偲ぶ日にしたいと思っているので、震災当日に開催されるこのようなイベントには、恐らく今年も、これからも、ずっと参加しないだろうなと思っている。

 来年は3月11日が日曜日となる。この「仙台防災未来フォーラム」も来年は3月11日に開催されてしまうのだろうか。願わくは、来年はどうか3月11日以外の別の日曜日の開催となることを。


「カレンダー記事」の功罪
 毎年この時期になると、新聞やテレビで東日本大震災関連の記事や特集番組が増える。このように定期的に報じられる新聞記事のことは「カレンダー記事」、「あれから何年もの」と呼ばれるようである。ジャーナリストの烏賀陽弘道氏や作家の相場英雄氏はこうした「カレンダー記事」を批判している。烏賀陽氏は、カレンダー記事はその日が来たら自動的に記事が発生するので記者の能動性を奪うものとし、「思索を深めるための記事がいつの間にか自己目的化」していると批判する。相場氏も、カレンダーに合わせた取材態勢が継続されることから、関連する報道が逆にその時期まで減ってしまうことを批判する。特に相場氏は「在京の大メディア」にその傾向が強いとして、逆に岩手、宮城、福島の地元紙、テレビのことは、「自らが震災の被害に遭っている上に、身内同然の同胞が苦しんでいる姿を、地元メディアは今も追っているのだ」と、その報道姿勢を高く評価している。

 確かに、岩手日報や河北新報、福島民報、福島民友などは、「カレンダー」によらず継続的に震災関連記事を配信している。ただ、必ずしも地元だけではなく、例えばNHKは「東日本大震災プロジェクト」を組んで、「明日へ つなげよう」を合言葉に6年前から変わらずに震災関連の番組を提供しているし、最近では朝日新聞も「てんでんこ」というタイトルで、東日本大震災を中心に「日本の『いま』と『これから』を見つめ直して」いくという趣旨の連載記事を毎日掲載している。

 考えてみれば、地震発生から6年が経って、多くの地域で復興はまだ道半ばという状況ではあっても、日常押し寄せるたくさんのニュースがそうした東北各地の状況の上に積み重なっていく現状では、自ずと震災関連のニュースは少なくなっていかざるを得ない。その意味では「自動的に記事が発生する」という「カレンダー記事」であっても、毎年定期的に震災のことを多くの人に思い出してもらえるきっかけにはなるのではないかと思う。


復興「てんでんこ」
 「てんでんこ」という言葉については以前この欄でも取り上げたことがあるが、元々は、「てんでんばらばらに」の意味で、地震が来たら一人ひとりが必死で逃げろという三陸沿岸に伝わる教訓である。震災から6年を迎えるに当たり、そこから一歩進めて、一人ひとり震災について考える、一人ひとりこれから先の生き方を考える、という意味での「てんでんこ」があるのではないだろうか。

 震災以後、一人ひとり置かれた状況は全く異なる。衣食住を取り巻く環境も全く違う。仙台市や宮城県岩沼市のように、仮設住宅が全てなくなった地域もあれば、岩手県の釜石市や大槌町、山田町、陸前高田市のようにいまだ3,000人前後の人が仮設住宅での暮らしを続けている地域もある。

 避難指示区域を抱える福島県の浜通り地域の町村では、避難指示区域が昨年9月時点で3分の2にまで減少しており、この春に飯舘村、川俣町、浪江町、富岡町にある地域が解除されればさらに避難指示区域は減少するが、解除イコール復興ではない現状がある。先日、浪江町に行ってきたが、そこで目にした「町おこしから町のこしへ」の文字は胸に突き刺さった。震災前はいかにして町おこしをするかを考えていた。ところが、震災後は「おこす」前にいかにして「のこす」かを考えなければいけない状況に置かれてしまったわけである。

 このように、当然地域によって状況が全く異なるわけで、そうすると当然そこに住む人の心持ちもそれぞれ異なる。その胸の内は、そこに住んでいるその人にしか分からない。十把一絡げにして、「被災地の復興は」などと語ることはもともと不可能なのだ。

 未曽有の大災害を経て、何かを参考にしてということも難しいし、この先どうしていくのがよいのかの答えが見えているわけでもない。だからこそ、「てんでんこ」なのである。一人ひとりがそれぞれ自分のこれからを考える。自分にとってどうなることが復興なのか、そのために今何をしていくのがよいのか。

 一人ひとり、目指すところは違っても、また歩み具合は違っても、少なくても目指すところに向かってちょっとずつでも歩いていれば、その積み重ねが復興になるのではないかと思う。もちろん、疲れたら休めばいい。道のりは長い。飛ばし過ぎれば息切れする。目の前にあることを、一つずつ、少しずつ、である。


忘れることと忘れてはいけないこと
 震災から時が経つにつれて、震災のことが忘れられてしまうことへの懸念がある。しかし、どんな出来事であっても記憶の風化、忘却からは免れ得ない。他地域の人のみならず震災を体験した人であっても、つらい体験をそのままの形で抱えてその先を生きていくことはしんどいことである。忘れることは人間の偉大な能力であるともいう。そう考えれば、冒頭に紹介した知り合いは、3月11日イコール震災という束縛を超えて、すっかり震災前の日常に戻れたのだ、と解釈することもできるかもしれない。

 ただ、忘れることはできても、なかったことにすることはできない。たくさんの人が亡くなったあの震災から得た教訓だけは、しっかりとこの地の次の世代に引き継いで、また他の地域の人にもしっかりと伝えて、二度と同じような被害が起きないようにしていかなければならない。

 その意味では、先に紹介した「仙台防災未来フォーラム」はとてもよい取り組みであると思うし、各地域における震災遺構の整備も本当に意義のあることであると思う。忘れられることを心配するより、本当に忘れてほしくないことを発信し続けること、それこそが大切なのであるに違いない。

 私としても、ここでこの時期にこのように書いていることが「『カレンダー記事』じゃないか」と言われないように、これからも震災のことは折に触れて発信し続けていきたいと思う。


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2017年03月12日

私的東北論その90〜6回目の3・11

DSCN0461 東日本大震災が起きてから6回目の3月11日である。今年もまず弟が勤めていた若林区役所に行ってみた。今年は土曜日ということで、区役所は閉庁していたが、向かいの若林区文化センターでは、今年も東日本大震災仙台市追悼式が行われていた。献花場もあったので、献花した。





DSCN0463 その後、今年も、あの日弟が通ったであろう道を自転車で走り、荒浜へと向かった。毎年思うのだが、なぜかこの日はいつも強い北西の風が吹いている印象がある。仙台東部道路の下をくぐってすぐの神屋敷地区に、荒浜地区唯一の寺院である浄土寺が移転して新築されているのを見た。毎年仮設の本堂で合同追悼法要が行われているが、今年はこの新しい本堂で行われたようである。



DSCN0464 さらに東に向かい、県道塩釜亘理線を越えて、荒浜地区に入る。浄土寺の仮本堂があった所には、この地域で亡くなったすべての人の名前が刻まれた慰霊碑がある。地域の住民、交番の警官、消防団の団員、高齢者施設の職員、そして弟の名前がある。そこに着いたのはちょうど地震が発生した午後2時46分だったが、この慰霊碑の前で浄土寺の住職が法要を行っていて、たくさんの人が手を合わせていた。弟の友人から声を掛けられた。「ヘルメットをかぶって自転車に乗ってここにいる人は、さてはお兄さんではないかと思ったらやはりそうでした」とのこと。「ずっと来たいと思っていたものの、いつも平日で休みが取れなかったが、今年は土曜日だったのでようやく来れました」と言っていただいた。

DSCN0465 仮本堂の近くから海岸を望む。海岸沿いにあった松林は津波によってほとんどがなぎ倒され、今も櫛の歯が欠けたような状況である。もとより、あの見事な松林がたかだか6年ほどの時間で元に戻るはずもない。しかし、植林作業は現在も続いている。いつかまたきっと、海岸沿いの豊かな林が戻ってくるはずである。




DSCN0476 さらに東に向かい、貞山堀を越えて、深沼海水浴場に至る。ここにも東日本大震災慰霊之塔があり、荒浜慈聖観音と名付けられた観音様が立っている。こちらでも追悼の法要が行われたようである。慰霊之塔の近くには、鐘のなるモニュメントが立っていた。犠牲者の鎮魂、追悼のために造られたという「荒浜記憶の鐘」である。ちょうど今日除幕式が行われたそうである。ここでもう一人、弟の友人に声を掛けられた。やはりヘルメットと自転車でひょっとして、と思ったそうである。この友人も、土曜日ということで来られたと言っていただいた。本当にありがたい限りである。





DSCN0471 海岸に足を向ける。震災後高さが積み増しされた防潮堤があり、この防潮堤を登らないと海の様子はまったく見えない。防潮堤のてっぺんに立ってみると、風は強いのに、波はおだやかだった。あの日猛り狂った海とは対極にある姿である。





DSCN0475 荒浜地区のあちこちには、「偽バス停」がある。県内の美術作家が制作したバス停のオブジェである。以前、確かにここに人が住んでいたということを語ってくれているようである。昨年12月には、この「偽バス停」を本物の仙台市営バスが走るツアーも企画された。

 荒浜地区は仙台平野の真っ只中にある。津波から逃げられる高台がどこにもない。あの日、地域の住民が唯一避難できた建物が、旧荒浜小学校である。ここの屋上に避難した人たちは津波の難を逃れた。

DSCN0477 その旧荒浜小学校では、今年も荒浜小学校の卒業生らでつくる「HOPE FOR project」が、花の種を入れた風船を荒浜を訪れた人と一緒に飛ばした。「繋がりが失われた街に、もう一度笑顔や思いを共有するプロジェクト」で、これまでにも様々な活動を行ってきている。





DSCN0484 荒浜小学校は、この地区が災害危険区域に指定され、住むことができなくなったため閉校したが、建物は震災遺構として、この地を襲った平野部としては世界最大級という津波の有様を伝える「生き証人」となった。そしてまた、津波の際の避難場所にもなり、車椅子用のスロープや屋上に行けるエレベーターなどが整備された。屋上の倉庫には災害時用備蓄物資も貯蔵されていた。今日は開放されており、階段を上って屋上に出ることができた。あの日、この場所から見えた光景を想像してみる。向こうに仙台の街並みも見える。向こうに見える風景とこちらの周囲の風景とはあまりに違う。

170311-154750 地上に降りてきて校舎を見上げると、背丈のはるか上、2階部分に津波の高さを示す表示がある。津波によって、海側にある2階のバルコニーの柵が津波によって折れ曲がり、バルコニーの壁の一部も倒されてしまっている様子が今も残る。





DSCN0480 普段、仙台の街中にいると、震災当時を思い出させるものはほとんどない。6年経って、震災を意識しながら過ごすことが本当に少なくなってきたのを感じる。しかし、この日だけは別である。普段と同じようにいるつもりでも、何となく心がざわざわと波立っているのが自分でも分かる。特に、地震が発生した午後2時46分から、この地を未曽有の大津波が襲った午後4時くらいまでの間は、6年経った今でも、焦燥感というのか、居ても立っても居られないような心持ちになる。






170311-154900 校舎の4階部分に時計があり、今も動いている。その時計が午後3時49分を指していた。この地を大津波が襲ったのは、近くにあった消防署の職員の方の証言によれば、午後3時54分。6年前のこの時刻、迫りくる津波の危険を感じながら、弟はここでどのような気持ちで避難を呼び掛けていたのだろうか。その時の弟の姿に思いを馳せる。

 そして、午後3時54分。目を疑うような10mもの高さのどす黒い水の塊を見た時の弟の気持ちはどうだったのだろうかと想像してみる。驚き、焦り、恐怖、悲しみ、絶望感…、様々な気持ちが一緒くたになって押し寄せたのだろうか。

170311-160926 震災から49日目に弟の遺体が見つかった南長沼に足を運んでみる。水鳥の群れがのんびり泳いでいた。手を合わせるのはこの日何度目だろう。







170311-161820 荒浜地区に隣接する笹屋敷地区では、津波避難タワーの建設が進んでいた。仙台市内に13か所設置される予定だそうである。造って終わり、ではなく、それぞれの家から津波避難タワーへの避難ルートの検討、津波避難タワーまでの避難を実際に行う訓練などが必要だろう。

 元来た道を自転車で戻る。この道を、弟は行ったきり、戻ってこれなかったんだよなと思いながら。いつもは途中で家に帰る道に曲がるのだが、今年はもう一度若林区役所まで戻ってみようと思った。もちろん、それで何がどうなるというものでもない。単なる思い付きである。

 若林区役所に着いた。隣接する養種園跡地は公園のような形に整備されているが、そこには犬の散歩をする人、ジョギングをする人、お母さんと手をつないで歩く小さな子、などの姿があり、何事もない日常の風景が広がっていた。ふと、弟はこういう風景を守りたかったのではないか、と思った。

170311-191822 命さえあれば何度でもやり直せる。しかし、命がなくなればそれですべてが終わりというものでもない。私の大好きだった青森県弘前市のカレー店、「カリ・マハラジャ」、3年前にご主人が急逝されたために、閉店してしまった。そのカレーを最近、奥様が通販限定で復活させた。そのお蔭で、あの絶品カレーをまた食べることができる。弟が遺したものの幾ばくかは、私も引き継がせてもらっているように思う。

 普段、震災について考えることも、弟について考えることも、ひと頃に比べると減ってきているように感じる。しかし、やはりこの日だけは全く違う。荒浜地区に足を運び、いわば「定点観察」しながら、震災について考え、弟のことを想う。これはきっとこれからも変わらない営みとなるような気がしている。


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2016年10月28日

私的東北論その88〜「未来会議」のアプローチ(「東北復興」紙への寄稿原稿)

 9月16日に刊行された「東北復興」第52号では、9月4日に開催された福島県いわき市の「未来会議」について取り上げた。この「未来会議」、詳しくは本文をご参照いただきたいが、とても得るところの多い会議であった。利害の異なる人も含めて、いろいろな立場の人が一堂に会して、それぞれの意見の隔たりを尊重しつつ、相互理解を模索するというアプローチである。私が座った席の隣には東電の副社長が座っていた。こうしたアプローチ、いわき市ならずとも有効なのではないかと思った。以下がその全文である。


「未来会議」のアプローチ

「未来会議」発足の経緯
160904-132330 9月4日に開催された「未来会議」に参加した。未来会議というのは、福島県いわき市で2013年に始まった、寛いだ雰囲気で誰もが参加できるワークショップ形式の対話の場である。

 震災と原発事故によって、いわき市はものすごく難しい立場に立った。地震と津波による紛れもない被災地でありながらも、福島県の浜通り地域最大の都市として福島第一原発の周辺自治体から2万人以上もの避難者を受け入れた。その一方で、被ばくへの不安からいわきから自主的に避難した市民もいた。原発周辺の避難者は東電からの賠償金を得たが、いわき市民は風評被害に悩まされつつその補償は何もなかった。そのような立場や考えの異なる人たちがいわき市の中には多くいて、互いに本音では話しづらい雰囲気があって、人々の間に分断と軋轢をもたらしていたのである。

 そうした中、2012年秋に、東日本大震災復興支援財団による子ども被災地支援法の聴き取り対話ワークショップが開催され、そこに参加した数名の有志によって、「未来会議」開催に向けての動きは始まった。「継続的な対話の場が、多くを抱えるこの地域には必要なのではないか?」「異なる価値観や違いはむしろ財産ではないか?」「対立ではなく一緒になって考えることが大切なのではないか?」「失敗してもいい!という雰囲気の中で互いを伸ばし合うことが、未来への種を育むことに繋がるのではないだろうか?」といった考えから、「多様な声に耳を傾け、自分に出来ることを考える時間をもちたい」ということで、未来会議のコンセプトが形成されてきた。

 そして2013年1月に、現在まで続く「未来会議」がスタートした。いわき市民はもちろん、双葉郡など原発周辺の自治体からいわきに来ている人、福島県内外の人、支援者としていわきに来ている人など、地域、年代関係なく様々な職業や立場の人が集まる場となっている。

「未来会議」の特徴
 こうした発足の経緯から、未来会議では「相手の意見を否定しない」「一つの結論を目指さない」をルールとしている。2014年1月に開催された会議では、子どもの被ばくに対する不安から給食の地産地消に反対する主婦と、風評被害に悩む農家が、同じくゲストとして会議の中で、それぞれの意見を表明していた。

 互いに主張しても、意見の相違は完全には解消できないかもしれない。しかし、違う立場の人が対等に出会う機会をつくることによって、そこにいる人々全てに気付きをもたらし、変化を促すことができると、未来会議では考えている。重要なのは対話することによって、目下の課題を可視化し、かつ価値観の多様性を互いに認め合うこと、互いの立場を尊重して批判はしないことであった。

 地域の課題や自分自身の考えを話し合うための場は元々そこにあるわけではない。だから、意図してつくる必要がある。未来会議はまさにそのような場として誕生したわけである。

 似たような名前の会議は東日本大震災の被災地を始め各地に存在するが、このいわきの未来会議はそれらとは一線を画したユニークな会議である。まず、各地の「未来会議」は行政主導で立ち上がったものが多いが、ここいわきの未来会議は、行政関係者も参加者として参加しているものの、立ち上げたのは地元の有志である。そして、未来会議は自らを次のように規定している。

 ,海両譴蓮⊃燭断鬚淵ャンバス。主体は参加する一人ひとり。ニュートラルな場として30年の継続開催を予定しています。
 現状や課題を、共有・可視化し、未来のために出来ることを創造的に話す場です。
 C楼茲力箸魃曚─∧‥腓慮充造鯊人佑平諭垢閥Δ紡え、様々な角度から考えます。
 ぅ錙璽ショップ対話手法を取り入れ、誰もが安心して参加出来る場を 目指しています。
 ヌね茲鬚弔るためのプラットホームとして、人と人、人と団体、団体と団体が出会い、ネットワークを形成するきっかけを提供します。
 ι發びあがってくるものをアーカイブとして残します。

 とりわけ印象に残ったのは、「30年の継続開催」である。こうした会が30年続く例はほとんどないのではないだろうか。しかし、未来を論ずる場であるこの未来会議では、半ば当然のこととして少なくとも30年は続けていこうと、発足当初から考えていたのである。

「未来会議」の手法
 9月4日の未来会議は13回目の開催とのことであった。100名を超える参加のあったこの日のテーマは「それぞれの、ふるさと」で、ふるさとというのは町という場所なのか、町を構成していた人なのか、それとも人を含めての場所なのか、そしてまた景色が変わってしまった町をふるさとと呼べるのか、といった観点から、人々のふるさとに対する想いについて取り上げた。

 まずゲストに作家の柳美里氏と勿来ひと・まち未来会議会長の室井潤氏を迎え、事務局で双葉郡未来会議主宰の平山勉氏が進行役となって行うトークがあり、その後広島修道大学の田坂逸朗氏がファシリテーターを務める対話ワークショップが行われた。今回は、話し合ってみたいふるさとのテーマについて参加者から13のテーマが出され、他の参加者は自分の関心があるテーマのところに集って対話を行った。

 震災関連のイベントは仙台など被災地各地でも各種開催されており、私自身何度か企画開催しているが、この未来会議、いろいろな工夫が随所に感じられ、とても勉強になった。このトークとワークの組み合わせは、聞くだけでも話すだけでもなく、インプットとアウトプットの両方があっていい形であると思った。

160904-143435 特筆すべきは、そのトークについてもワークについても、ファシリテーショングラフィックという手法を用いて、その専門家である玉有朋子氏が会場に貼り出された大きな紙にリアルタイムでヴィジュアルも交えてその要点を書き記していたことである。目で見て分かる議事録がその場でできているようなもので、参加者同士がそれを見ながら話すことで、さらに対話が進み、話が膨らむように感じられた。

 いわき市内や双葉郡など浜通り地域だけでなく、他地域からの参加が多いのも特徴的で、毎回ファシリテーターを務めている田坂氏は福岡、ファシリテーショングラフィックの玉有氏は徳島の方で、参加者についても私が話した範囲に限ってみても、群馬、埼玉、東京、神奈川、愛知、広島、熊本、沖縄の方がいた。仙台から参加した私はむしろ近い方であった。

「未来会議」の広がり
 他地域からの参加がこれだけ多くあるその求心力もすごいが、「30年の継続開催」を打ち出しているこの未来会議、そのためのいわば次の世代に引き継ぐことまでを視野に入れた取り組みも既に実施している。実際、この日の午前中には2回目となる「子ども審議会」が開催されており、小中高生と大人が一堂に会して対話を行っていた。

 未来会議から派生した企画も数多い。この子ども審議会の他、深夜のバーのような親密でゆったりとした雰囲気の中、のんびり飲み物を飲みながら一緒にゲストの話に耳を傾ける「MIRAI BAR」、双葉郡8町村固有の課題について話し合う「双葉郡未来会議」、子どもが一人でも来られる居場所として実施している「こども食堂*みらいのたね」、かつて地域に開かれた対話の場でもあった旧暦二十三日の下弦の月の月待講を復活させた「廿三夜講復活プロジェクト」など、活動はさらに広がりを見せている。

 未来会議終了後は、「夜の未来会議」と称する懇親会が行われた。「昼の未来会議」は13時から17時の4時間であったが、この「夜の未来会議」は18時から始まり、22時半で中締めとなったもののそこからさらに参加者相互の対話が続いており、夜の部の方が昼の部よりも長いわけである。未来会議の対話を重視する姿勢がここでも窺えた。

いわきの未来だけでなく
 この未来会議、当初は「いわき未来会議」と称していたが、いわきだけの未来を考えるというわけではないということから、名称から「いわき」を外して「未来会議」とい名称になったという。確かに、震災から先の未来を考えるために、いわき市内だけでも福島第一原発のある双葉郡だけでもなく、東北の太平洋沿岸の被災地のみならず全国各地から様々な人が集い、対話する、そのような場にこの未来会議はなりつつあるように見える。

 多様な背景を持った人と人とが出会い、それぞれが感じていることを共有し、お互いの立場や考えの違いからも気づきや学びを得る。そうしたアプローチの中から、一人ひとりが震災からの一歩を踏み出すきっかけをつかむ場、あるいは疲れた時にいつでも戻ってこれる場となる。未来会議が目指すこうした目的を実現するためには、確かにこの会議は一過性のものであってはならず、継続開催していくことが必須なのであろう。30年先の未来会議の「未来」がどのようなものになっているのか、ぜひ今後も注目していきたい。


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2016年09月29日

私的東北論その85〜東北の観光における復興の現状とこれから(「東北復興」紙への寄稿原稿)

 6月16日に発行された電子新聞「東北復興」の第49号では、東北の観光の現状とこれからについて取り上げた。震災後、大きく落ち込んだ東北各地の観光客数だが、ここへ来てようやく震災前の水準に回復してきている。東北にはいい場所、いいものがたくさんある。それをぜひ多くの人に確かめに来ていたただきたいと思うものである。

 以下がその全文である。


東北の観光における復興の現状とこれから

過去最多となった仙台への観光客
新しい画像 仙台を訪れた観光客の数が昨年2015年、初めて2,000万人を超えて過去最多になったことが仙台市の調査で分かったそうである(左図は「データで見る仙台の産業 平成28年度」による)。正確には22,293,853人とのことで、仙台市が目標に掲げている2017年度までに2,300万人という数字も現実味を帯びてきたことになる。

 これまでの推移としては、震災前の2009年が1,937万人、2010年が1,979万人で、そのままいけば翌年は2,000万人を超えそうだったが、翌2011年は東日本大震災の影響で1,621万人まで観光客数は落ち込んだ。2012年が1,855万人、2013年も1,867万人と震災前の水準には戻らなかったが、2014年にようやく1,975万人と震災前の水準に戻っていた。

 2015年の2,229万人は、前年の12.9%増という伸びとなったわけだが、その要因としては震災の風評被害が一定程度収まったことや、仙台うみの杜水族館が開業したことなどが挙げられている。

 また、市内の外国人宿泊者数も115,947人で、これも2008年の98,210人を抜き、初めて10万人を超えて過去最多となったそうである。外国人宿泊者数は、震災のあった2011年には24,071人と激減し、その後も2012年57,297 人、2013年55,871人、2014年68,834人となかなか震災前の水準には戻らなかったが、2015年は前年比168.4%という高い伸びとなった。この要因としては、この年の3月に国連世界防災会議が開催されたことが挙げられている。

 外国人宿泊者を地域別に見てみると、アジアが70,996人で最も多く、次いで北中南米が16,392人、 欧州が11,028人、オセアニアが1,894人、アフリカ1,589人などとなっている。国・地域別に見てみると、台湾が37,660人で最も多く、次いで中国が13,787人、アメリカが13,452人、タイが6,967人、韓国が4,124人、香港が3,458人などとなっている。


仙台の観光は仙台だけでは成り立たない
 しかし、仙台だけ観光客が増えたと喜んでいてはいけない。そもそも、仙台の観光は他地域と組まないと成り立たないという側面がある。

 例えば、観光庁は今年3月、「東北6県の観光魅力100件」を選定した。これは、「東北の観光資源について広く国内・海外に情報発信を行い、東北への来訪促進を図るための新しい試み」とのことで、応募のあった1,264件の中から「見るもの」「食べもの」「買いもの」「体験」の各カテゴリで合計100件を選定したものなのだが、この100件の中で、仙台に関する観光資源は実に 「仙台七夕まつり」ただ1件だった。つまり、仙台の観光資源は東北の他地域と比較すると決して多いとは言えないのである。このことから考えても、仙台の観光は仙台だけでは決して成り立たず、むしろ、東北各地の観光情報の発信基地となるべき立場であるのである。

 ちなみに、「100件」を県別に見ると、青森が28件と最も多く、次いで秋田が21件、宮城が18件、岩手が16件、福島が15件、山形が11件となっている(複数県にまたがる観光資源もあるので合計は100を超える)。青森や秋田に「東北のベスト」の観光資源が多いことが分かる。


仙台駅の新たな取り組み
 たまたま仙台駅3階のみどりの窓口で切符を買おうとしたら、壁面のディスプレイで「ヨリ未知 SENDAI」と題した、東北の名所、名産品を紹介するプロモーションビデオを流していた。JRがつくったビデオだけあって、一つひとつ、仙台駅を起点とした場合の経路や所要時間まで図示されて、いざ行ってみようと思った時に役立ちそうな内容だった。キャッチコピーが「冒険しよう、陸(みち)の奥へ。」で、「『ヨリ未知 SENDAI』が目指すのは“どこかへ『寄り道』したくなる情報が集まった駅”」とある。

 まさに、仙台の立ち位置はこれで、JR仙台駅はそれを十分意識しているように思える。この「ヨリ未知 SENDAI」プロジェクト、3月の仙台駅東西自由通路のオープンに合わせて始まったもののようで、「東北の未だ知られざる多くの魅力を仙台駅から発信する」ことが目的だそうである。これは素晴らしい試みである。実際、私が目にしたプロモーションビデオ以外にも、東北のこけしや漆器、民芸玩具が展示してあったり、宮城の80種の食がミニチュアで紹介されていたり、東北の花見スポットや名峰が紹介されていたりといった工夫が駅の中のあちこちにあるようである。

 唯一残念なのは、この「ヨリ未知 SENDAI」、ウェブページにある情報は仙台駅とその周辺のみの情報にとどまり、プロモーションビデオで紹介していたような東北各地の情報がないことである。これは「東北の未だ知られざる多くの魅力を仙台駅から発信する」という趣旨から言えば不十分と言わざるを得ない。せめて、駅の中で流していたプロモーションビデオをウェブ上で公開するだけで もずいぶん違うと思うのだ が、それも今のところないようである。

 そのような残念な点はあるものの、その趣旨には大いに賛同する。他の地域の人によく「仙台って大きな街なんですね」と言われる。「東京から1時間ちょっとで着くんですね」ともよく言われる。 こうした声から分かるのは、とにかく情報が少ない、知られていないということである。仙台駅は言うまでもなく、東北で最も多くの人が利用する駅である。そこでの情報発信の効果はとても大きい。今後も積極的に情報を発信していってほしいものである。


世界に向けて何をどう発信するか
 復興庁の資料によると、外国人宿泊客の数は、全国では2010年の2,602万人から、2014年には4,207万人と、実に161.7%の大幅増となっている。しかし、これを東北に限って見てみると、2010年の51万人から2014年には35万人と、なんと逆に70%に減少している。2010年比で外国人宿泊客が減少している地域は東北だけで、いわば東北の「一人負け」状態なのである。

 その背景にはもちろん、いまだに東日本大震災の影響があることは間違いのないところだろうが、そうした風評を払拭するだけの情報発信ができていないということでもあるわけである。

 こうした状況を受けて、観光庁は今年度、東北六県の観光振興を目指して、全世界を対象にした初めての大規模キャンペーンを行うそうである。震災復興関連予算から10億円を確保して、海外の著名人を起用したテレビ番組の制作、各国のメディアや旅行会社を招くツアーなどを実施して、東北の観光情報を集中的に発信するとのことである。

 国は今年度を「東北観光復興元年」と位置付けているとのことで、それは大変ありがたく心強いことではあるが、一方でせっかくお金を掛けるのであれば、他にも考えておいた方がよいこともありそうである。

 観光庁が今年1月から3月まで訪日外国人を対象に行った調査で注目すべきは、「出発前に得た旅行情報源で役に立ったもの」という質問への回答である。ここでは「日本政府観光局ホームページ」(16.7%)や「旅行会社ホームページ」(16.6%)、「地方観光協会ホームページ」(6.2%)などを抑 えて圧倒的に多かったのが 「個人のブログ」(31.4%)であったのである。

 このことからは、公式な情報よりも、個人の発信した情報を参考にするという傾向が見て取れる。国が予算を確保しての公式なレベルでの情報発信を行ってくれることはありがたいが、 それのみでは決して十分とは言えないわけである。むしろこの領域で影響力のある各国の個人ブロガーを招いて東北に関する情報を発信してもらうこといった取り組みの方が必要なのではないだろうか。また、日本側でも、東北の情報を発信する個人ブログなどを、各国語対応も含めてどう充実させていくかということの方が、効果の面で言っても取り組むべき喫緊の課題であると言える。


東北の強みを活かした観光復興を
 同じ観光庁の資料では、「訪日前に期待していたこと」について、最も多かったのが「日本食を食べること」(70.0%)で、次いで「ショッピング」(53.0%)、「自然・景勝地観光」(43.5%)、「繁華街の街歩き」(37.3%)、「温泉入浴」(35.5%)が多く、ちょっと下がって「旅館に宿泊」(21.4%)、「日本の酒を飲むこと」(20.9%)とな っている。「テーマパーク」(15.3%)、「日本の歴史・伝統文化体験」(14.8%)、「日本の日常生活体験」(13.6%)、 「四季の体感」(12.4%)などはそれほど多くはない(ただし国によってかなり ばらつきはある)。

 東北の得意分野でこうしたニーズに対応することを考えると、まず「ショッピ ング」や「繁華街の街歩き」 などでは他地域をしのぐような対応は難しい。これらについては首都圏など大都市圏に強みがある。

 東北で力を入れるべきは、 何と言っても、「日本食を食べること」、「自然・景勝地観光」、「温泉入浴」であろう。これらに対応することを重点的に考えていくのが東北の観光復興には最も良いのではないかと思われる。東北の食、自然、温泉は、日本の他地域に比べても、かなり良いものを持っている。それを外国人向けに大いに情報発信すると同時に、いざ来てくれた際の受け入れ態勢もしっかりと整えることがこれから必要なことであるのではないだ ろうか。

 食に関して言えば、「最も満足した飲食」で多かったものの中で、「寿司」が一番なのは予想がつくとして、次いで「ラーメン」が来て、その次は「肉料理」で、この3つが圧倒的であった。これらもまた、東北でも美味しい食べ物である。 海外に向けた東北のこれらの料理のマップを作るなどの工夫も必要であろう。


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2016年05月30日

私的東北論その83〜震災に関する伝承をどう正しく伝え継いでいくか(「東北復興」紙への寄稿原稿)

 4月16日に発行された「東北復興」第47号では、震災に関する経験知をどう伝えていくかに焦点を当ててみた。経験から学ぶことの大事さは言うまでもないが、それをただ伝えるだけではなく、いかに正しく伝えるかがさらに大事だからである。

 考えてみると、震災前に伝えられていた「経験知」の中には、残念ながら明らかな誤りもあった。誤った経験知は震災発生時の避難行動に悪影響を与える可能性がある。今回の震災発生時にもそうしたことが残念ながらあった。その轍を二度と踏まないためにも、経験知をいかに正しく伝えていくかを考えることはもっと検討されてしかるべきだと考える。この回では、具体例を挙げながら、正しく伝わっていなかった経験知について検証してみた。

 紙面の都合で掲載時にカットした部分も復元した全文が以下である。


震災に関する伝承をどう正しく伝え継いでいくか

一歩間違うと危うい「経験知」
 前号に引き続いて、もう少し震災の話にお付き合いいただきたい。

 今回の震災に限らず、繰り返し地震災害に遭遇している「地震大国」たる日本では、その経験知をどのように後世に伝え継いでいくかが、将来の被害軽減のために大きく問われる。その意味でも、今回の震災から得られた知見はできる限り発信していくべきであるし、個人的にもそうした活動を続けている。

 しかし、こうした経験知を伝え継いでいく際に、厳に心掛けなければならないことがある。それは、正確な情報を伝え継いでいく、ということである。当たり前のことと思われるかもしれない。ところが、意外にそうでないこともあるのである。ある個人が遭遇した体験が、必ずしも広く敷衍できる事例ではないばかりでなく、場合によっては同様の地震に遭遇した際に判断の誤りにつながる恐れがあることすらあるのである。


「津波の前には引き潮がある」
 例を挙げれば、今回の震災でも聞かれた「津波の前には引き潮(引き波)がある」というのがまずそれである。中には、「広い範囲で海底が露わになるほどの引き潮があった」という証言もある。今回の津波の規模の大きさを物語る証言ではある。しかし、すべての地域で引き潮が観測されたわけではない。引き潮がなく、突然津波が押し寄せた地域もある。日本気象協会のサイトにも「津波の始まり(第1波)が押し波か引き波かは、津波発生域での断層運動の方向や規模によって異なります。また、津波が到達した場所周辺の海底地形によって変わることもあります」とある。

 したがって、「津波の前には引き波がある」という証言ばかりが「経験知」として広まってしまうと、「引き潮がないから津波は来ない」、という間違った判断を下してしまうことにつながりかねないのである。実際、残念ながら、今回の震災でも引き潮がないということで避難が遅れ、そこを津波に襲われて亡くなった人は多くいた。


「仙台平野に津波は来ない」
 他にもある。「仙台平野に津波は来ない」。これは、実は私もそう聞かされて信じ込んでいた。津波に繰り返し襲われた経験のあるのは三陸沿岸、仙台平野には津波が来ない、と。ちょっと歴史を紐解いてみれば、今回の地震と同規模と言われる1100年前の貞観地震まで遡ることもなく、400年前の1611年、伊達政宗の時代の慶長三陸地震の際にも仙台は大津波に襲われている。1793年の寛政地震でも、1835年の天保年間の地震でも、仙台平野は津波に見舞われたとされる。しかし、いつの間にか、その後わずか200年足らずの間、津波に襲われなかったという「経験」が「仙台平野に津波は来ない」という誤った経験知を広めてしまったわけである。

 仙台市若林区には浪分(なみわけ)神社という神社がある。神社が立つ場所は慶長三陸地震の際に、津波が到達したところと到達しなかったところの分かれ目であったと伝えられている。しかし、震災前にはそうした伝承も地域の中で周知されてはいなかった。どんな経験知も伝えられていなければ意味がない。

 一方、岩手県の沿岸宮古市の重茂姉吉地区には「高き住居は児孫の和楽 想え惨禍の大津浪 此処より下に家を建てるな」と書かれた碑があった。この地域の住民はその碑に書かれたことを守り、今回の震災でも難を逃れた。そのような事例もあるのである。


「大きな地震の時には津波が来る」
 そもそも、「大きな地震の時には津波が来る」という経験知自体、誤りである。1896年の明治三陸地震は最大震度が4という地震だったが、特に岩手県の三陸沿岸は今回の震災に匹敵する大津波に襲われた。これら岩手県三陸沿岸地域の震度は、2〜3だったとのことである。つまり、体感的に大きな地震でなくても、津波に襲われる危険はあるのである。

 明治三陸地震による津波で被害が拡大したのは、地震発生が夜間だったということもある。地震発生は19時32分、津波の第一波の到達は早いところでその約30分後の20時7分だった。夜間、震度2や3の地震に遭遇したとして津波の危険に思い至る人はそう多くなかったと思われる。この地震で亡くなった人の数は21,959人(行方不明者含む)で、我が国で記録が残る地震の中で最も多かった。

 幸い、現在多くの携帯電話では、緊急地震速報に加えて、津波警報も受信できる。しかし、圏外だったり、電源が入っていなかったり、対応機種でなかったりということもありうる。加えて、そもそも警報が間に合わないこともある。過信しないことが重要である。

 今回の地震では、地震発生から津波の第一波到達まで最短でも15分程度の余裕があった。しかし、1983年の日本海中部地震では(ここでも「日本海には津波は来ない」という誤った経験知があった)、地震発生からわずか7分後に津波の第一波が観測されている。気象台が津波警報を発令したのは地震発生から14分後で、その時には既にいくつかの地域で津波に襲われていた。1993年の北海道南西沖地震では、第一波到達は何と、地震発生から2、3分後である。どんな地震であっても、地震発生後の情報収集は必須であるが、海沿いで地震に遭遇したら、情報収集をするより先にまず海岸からなるべく離れる、ということを徹底するべきである。


「30年に一度宮城県沖地震が起こる」
 「30年に一度宮城県沖地震が起こる」という経験知も、実は危うい。近年では、38年前の1978年に宮城県沖地震が発生し、28名の人が亡くなった。他の震源域と連動して未曽有の巨大地震となってしまったが、今回の震災を引き起した地震も宮城県沖地震の一つと数えられている。

 この宮城県沖地震の平均発生間隔は38年で、概ね25〜40年に1回発生するとされているが、個々の地震を見てみると、必ずしもそこまで間隔が空いていないのである。例えば、1933年の次は1936年、1937年に発生し、1978年と2011年の間に、2005年の地震もあった。震源の深さの違いから「宮城県沖地震」には加えられていないが、2003年にも宮城県沖を震源とする大きな地震があった。震災後、「これほどの地震が起きたのだから、しばらく東北沿岸に大きな地震は来ない」という見方もあるが、このように見ると「次に起こるのは30年先」と思い込むことは実に危険であることが分かる。

 加えて、直下型地震への備えも必要である。阪神・淡路大震災を引き起こした兵庫県南部地震は、地震発生直前の30年確率は0.02%〜8%であった。発生確率からするとそれほど大きくない。にも関わらず、実際に起こった。阪神・淡路大震災を見てもよく分かるように、直下型地震の場合はまた東日本大震災とは全く違う被害が生じる。例えば、仙台市街地の直下にある「長町−利府断層帯」による地震の発生確率は、「30年以内で1%以下」とされているが、ゆめゆめ油断しないようにしておきたい。


「津波てんでんこ」
 今回の震災でクローズアップされた言葉に、「津波てんでんこ(命てんでんこ)」がある。この言葉についても誤った認識が広まっていることに憂慮の念を覚える。

 「てんでんこ」というのは三陸地域で、「各自」や「めいめい」を意味する言葉である。文字通りの意味は、「津波てんでんこ」は「津波が来たら各自で逃げろ」、「命てんでんこ」は「命は各自で守れ」という意味である。

 実際、この言葉通り、地震発生と同時に各自が避難を開始し、津波の難を逃れた事例が三陸の地域には多くあった。最も有名なのは、「釜石の奇跡」と報じられた釜石市内の小中学生の避難の事例である(当事者の方々は「奇跡」と呼ばれることを嫌うが)。釜石市内では残念ながら5名の小中学生が命を落としたが、残る2,926人の小中学生は助かった。釜石市内の小中学校では、地震の後、皆それぞれ、教師の指示を待たずに自主的に避難所まで避難したのである。

 しかし、今の「てんでんこ」に関する報じられ方は、この「各自で逃げる」ところだけに焦点が当たり過ぎている。その結果、「家族や災害弱者を置いて逃げることを正当化するのか」といった批判が起きたりする。これは、この「てんでんこ」という言葉の極めて狭い一面のみを見ているのである。

 今報じられている「津波てんでんこ」「命てんでんこ」は、いざ地震が起きた際のアクションばかりがクローズアップされているが、実はこの言葉の意味するところで最も重要なのは、平時のアクションの方なのである。端的に言えば、いざという時にめいめいが自分のことだけを心配して逃げればいいように、普段から非常時のアクションについて話し合い、その通りに行動するように申し合わせておくということがベースにあるのである。

 これによって、いざという時には家族、知人も同じように避難していると考えて、自分の身を守ることだけに専念できる態勢になれる。いわば、日常からの相互の信頼関係があってこその「てんでんこ」なのである。

 にも関わらず、マスメディアの論調の中でも「津波てんでんこ」が利己的、自己中心的であるかのような報じられ方がしたり、あまつさえ個人のブログの中には、「家族すら見殺しにする人間に生きてる資格はない」などと、「てんでんこ」で逃げて助かった人を罵倒するようなものすら見受けられる。「てんでんこ」の本質を知らない、全く的外れな認識だと言わざるを得ない。

 実際、釜石市内の中学生は「自分より弱い立場にある小学生や高齢者を連れて逃げるんだ」と教えられていて、「津波が来るぞ、逃げるぞ」と声を出しながら、保育園児のベビーカーを押し、お年寄りの手を引いて高台に向かって走り続けたのである。

 ウェザーニューズの「東日本大震災 津波調査(調査結果)」には、一旦避難場所に逃れながら、再度危険な場所に戻ったことによって亡くなった人が、避難したにも関わらず亡くなった人のうちの60%を占めたとある。そして、戻った理由で圧倒的に多かったのが「家族を探しに」であった。こうしたことは、いざという時にどうするかについて普段から話し合っていれば、かなりの割合で防げたのではないだろうか。

 高齢者や災害弱者も含めて、いざという時にどのように避難するかについて、普段から綿密に検討し、かつ訓練を繰り返して無理がないかをチェックし、改善する、という取り組みが不可欠なのである。


次の災害の被害減少に役立つ発信を
 このように、震災における「経験知」については、もちろん震災に遭遇した一人ひとりの貴重な体験に基づいているものではあるものの、その伝え方、伝わり方によっては、本来の意味と異なってしまったり、誤った判断につながったり、そもそも伝わっていなかったりということがある。

 震災体験に基づく「経験知」については、こうしたことに十二分に留意しつつ、次の災害時に被害の減少に役立つような情報として発信していくことを心掛けていきたいものである。


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2016年05月26日

私的東北論その82〜「仙台防災枠組」を踏まえた防災対策を(「東北復興」紙への寄稿原稿)

 3月16日発行の「東北復興」第46号では、昨年仙台で開催された第3回国連防災世界会議で採択された「仙台防災枠組2015-2030」について取り上げた。2030年までの今後15年間の防災に関する行動指針となるものだが、せっかく仙台で開催されたにも関わらず、地元でもその内容を知っている人は少ないように見える。今後の防災を考える上で重要な視点を提示してくれているので、ぜひ多くの人に目を通していただきたいものである。

 以下がその時寄稿した記事の全文である。


「仙台防災枠組」を踏まえた防災対策を

5回目の「3・11」
 「3・11」と呼ばれるようになって5回目の3月11日がやってきた。「3・11」の前後は毎年、震災に関する新聞記事、特別番組、関連イベントが増える。それはそれで、震災への関心を喚起し、防災に対する意識を高める効果はあると言えるが、当然のことながら震災やそれを含む自然災害についてはこの日にだけ考えればそれで済むものではなく、年間を通して継続して考え、アクションを起こしていくことが重要である。

 後で紹介する「仙台防災枠組2015-2030」で指摘されているが、世界ではこの10年間に、災害の発生によって、70万人以上が死亡し、140万人以上が負傷し、約2,300万人が住む家を失い、15億人以上の人々がさまざまな形で災害の影響を受けた。経済的損失は合計で1兆3千億ドル以上にも上ったという。自然災害に対する防災・減災は不断の努力が必要である。東日本大震災を経験した私たちはとりわけ、その経験を踏まえた防災・減災対策について引き続き考えていく必要がある。

「仙台防災枠組2015-2030」の採択
 そうした中で昨年、ひと際重要なイベントが昨年4月、仙台市内で開催された。第3回国連防災世界会議である。本体会議に世界187カ国から6,500名超の関係者が、パブリック・フォーラムには行政、研究者だけでなく一般市民も多数足を運び、実に延べ15万人超の参加者が集った。参加国数やその各国の参加者数はもちろん、全体での参加者数が15万人にも上ったというのは、日本で開催された国連関係の国際会議の中でも史上最大級とのことである。このことは、「防災に対する国際社会の政治的なコミットメントを得て,防災の主流化を進める上で,大きな成果となった」と評価されている。特筆したいのは市民参加の多さで、未曽有の震災体験を踏まえ、防災に対する並々ならぬ意識の高さが窺える。

 この会議では「仙台防災枠組2015-2030」が採択された。国連防災世界会議は過去3回、いずれも日本で開催された。1994年に第1回会議が横浜で行われ、初の国際的な防災・減災の指針となる「より安全な世界に向けての横浜戦略」が策定された。第2回は阪神淡路大震災を経験した神戸で2005年に開催された。この時はさらに具体的な指針として「兵庫行動枠組2005-2015」が採択され、2015年までの10年間に防災・減災に関して各国が達成すべき目標と重点行動が設定された。

 第3回の仙台での会議ではこの「兵庫行動枠組2005-2015」をさらに発展させて、今後2030年までの15年間、各国の行動の指針となるもので、期待される成果とゴール、7つの「グローバルターゲット」、13の「指導原則」、4つの「優先行動」が設定された。

 期待される成果は、今後15年間で「人命・暮らし・健康と、個人・企業・コミュニティ・国の経済的・物理的・社会的・文化的・環境的資産に対する災害リスク及び損失を大幅に削減する」ことで、 この成果を実現させるためのゴールは「ハザードへの暴露と災害に対する脆弱性を予防・削減し、応急対応及び復旧への備えを強化し、もって強靭性を強化する、統合されかつ包摂的な、経済的・構造的・法律的・社会的・健康的・文化的・教育的・環境的・技術的・政治的・制度的な施策を通じて、新たな災害リスクを防止し、既存の災害リスクを削減する」こととされている。

 そしてその進捗状況の評価のために、「災害による死亡者数の2020年から2030年の平均値を2005年から2015年までの平均値に比して低くする」など7つの「グローバルターゲット」を設定し、また、枠組の実施に当たっての基本的な考え方を、「各国は災害リスクを防止し、削減する第一義的な責任を有する」など13にまとめて示している。

 4つの「優先行動」は、〆匈殴螢好の理解、∈匈殴螢好を管理する災害リスク・ガバナンスの強化、6靱性のための災害リスク削減への投資、じ果的な災害対応への備えの向上と、復旧・復興過程における「より良い復興(Build Back Better)」 で、そのそれぞれについて「国家レベル及び地方レベル」、「世界レベル及び地域レベル」での具体的な行動が示されている。

仙台・東北こそ「枠組」に基づいた対策を
 重要なのは、こうした各国の防災・減災に向けての行動指針に「仙台」の名が冠されていることである。既に参加国の中にはこの枠組に基づいて自国の防災・減災計画を策定する動きも出ているという。そうした国々の中には、この枠組にある「仙台」に対して関心を持つ人も出てくるに違いない。さらにその中には、実際にこの枠組が採択された仙台に実際に足を運んでみる人もいるに違いない。そうした時に採択された仙台を含む、震災からの復興を目指す東北で、この「仙台防災枠組」が知られていない、あるいは活用されていないという状況があったとしたら、かなり失望されるのではないだろうか。開催地、そして開催地のある地域として、私たちは、他の地域よりもさらにこの「仙台防災枠組2015-2030」に関して理解を深め、実際に行動に移していく責務があると思うのである。

 とは言え、外務省にある「仙台防災枠組2015-2030」の和訳、しかも仮訳を読んでも、それが行政レベルではともかく、私たち市民レベルでどう落とし込んでいけるのかという点については、必ずしも明確に記載されているとは言えない。「后ゥ好董璽ホルダーの役割」のところにわずかに記載があるくらいである。

「市民向け解説冊子」の発行
 と思っていたところに、実に素晴らしい冊子を防災・減災日本CSO-ネットワークが作成してくれた。「仙台防災枠組2015-2030」の市民向け解説冊子である。3月12日から配布を始めており、国連防災世界会議開催から1年になるのを機に仙台市内で開催された仙台防災未来フォーラム会場でも来場者に配布された他、みやぎ連携復興センター国際協力NGOセンターでも希望者に無料で配布している。また、PDF版は同ネットワークのサイトからダウンロードできる。

 A5判40ページの分量で、「仙台防災枠組2015-2030」にある、世界各国で今後2030年を目標に実践される防災・減災への取り組みについて、「市民としてどのように行動すべきか」に重点を置いて分かりやすく解説している。とりわけ、先ほど挙げた4つの「優先行動」について、それぞれ市民レベルで何ができるかを示した「市民の行動まとめ」が付されており、大いに参考になる。ぜひご一読をお薦めしたい。

 市民レベルという点で言えば、この解説冊子が配布された仙台防災未来フォーラムも実に有意義な企画であった。仙台および東北で復興や防災・減災に取り組んできた市民、行政、研究者などが一堂に会し、それぞれの活動事例を発表し合って情報交換・共有を図ると共に、国連防災世界会議で採択された「仙台防災枠組2015-2030」を踏まえて今後の活動の方向性や課題解決に向けた方策を検討するという内容であった。今回も行政関係者や研究者だけでなく、市民の参加も多く、依然防災に対する意識の高さが表れているように思った。できればこうした企画を今回限りのものにせず、年に一回程度開催して、市民が参加できて防災・減災について考える場を確保すると共に、そこで得られた知見を内外に発信するということを継続して行っていくことが重要なのではないだろうか。

国だけでなく個人も「レジリエンス」を
 仙台での国連防災世界会議では、災害に対する「レジリエンス」の強化を急ぐという決意も示された。「レジリエンス」というのは元々は物理学の用語で「外力による歪みを跳ね返す力」という意味であるが、災害関連では「回復力」の意味で使われる。つまり、「システムおよびその構成部分が重大なショックによる影響を適時かつ効率的に予測し、吸収し、対応し、あるいはそこから回復することが可能であること」である。

 なお、政府はレジリエンスを「強靭化」「強靭性」という意味で使っている。震災後に制定された国土強靭化基本法は、「必要な事前防災及び減災その他迅速な復旧復興に資する施策を総合的かつ計画的に実施する」ことを目的に制定されているが、これは災害に対するレジリエンスの強化を目的としたものである。

 ところでこの「レジリエンス」、心理学の分野では「しなやかで折れない心」「逆境から立ち直る力」といった精神的な回復力の意味で使われている。考えてみれば、災害からの復興には社会システムのレジリエンスももちろん必要であるが、それ以上に個人レベルでのこの心理学で言うところのレジリエンスが求められるのではないだろうか。なんとなればその社会を構成するのは紛れもなく、一人ひとりの個人だからである。

 ハードの整備から心のケアへと震災復興における重点事項もその軸足を少しずつ移しつつあるように見える。その重要なキーワードとしてレジリエンスはあるのではないかと思う。

 繰り返し自然災害に襲われ、その度に立ち上がってきた私たちの先人たちはきっと、強いレジリエンスを持っていたに違いない。震災発生から5年目を迎え、今度レジリエンスを発揮するのは私たちの番である。


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2016年04月16日

熊本地震を受けて〜私的東北論その80

 「平成28年熊本地震」と名付けられた4月14日の地震は、直下型地震だったためにM6.5と規模はそれほど大きくなかったにも関わらず、最大震度が7という、最近では東日本大震災を引き起こした東北地方太平洋沖地震以来の大きな揺れを引き起こした。改めて直下型地震の恐ろしさを知った。

 もう二度と地震で人が亡くなるのは見たくないと思ったが、今回の地震でも残念ながら9名の方が亡くなった。本当に心が痛む。ご冥福をお祈りしたい。

 テレビで報じられる映像を見ても、他人事とは思えない。居ても立っても居られないような気持ちになる。何か伝えられることはないか考えて、思いつくままに取り急ぎまとめてみる。後から思いついたことは随時追記していく。


熊本の被災地の方に伝えたいこと

 夜間に起きた非常に大きな揺れ、度重なる余震、気の休まる間もない状況だろうとお察しします。本当に心が痛くなります。気象庁が余震について解説しています(参照サイト)。これを見ると、余震は1週間から10日は続くとあります。今回の地震は殊の外余震が多いようですので、くれぐれも気を付けてください。

 特に気を付けていただきたいのは、「ため池」です。何のことかと思われるかもしれません。東日本大震災において、津波の被害の甚大さの陰に隠れてあまり知られていませんが、福島県でため池が3か所決壊しました。このうち藤沼湖の決壊では、ため池の大量の水が濁流となって下流の集落を襲い、死者・行方不明者8名という被害が発生しました。

 全国にため池はおよそ21万か所あり、そのうち7割が江戸時代事前に築造されているそうです。熊本県内にも2,158か所のため池があります。これまでの本震と余震によって、かなりのダメージを受けているため池もあるかもしれません。これらのため池の近くには決して近寄らないように特に気を付けてください。
ため池については、農林水産省のページが詳しいです(参照サイト)。

 私は、主に介護・福祉関係者の方に震災に関する話を聴く活動を行っています。その中で必ず尋ねるのが、「他地域の人、この地域のこれからの人に一番伝えたいことは何か」ということです。

 その中で挙がったいくつかの声を以下に示します。

・情報を得てください(ラジオは用意して)。
・助けが来るまでの助けはご近所。
・どんなときでも協力は強力!!助け合って!!
・とにかく生き残る努力を。
・本当に困っている人は支援がほしいと言えない。
・今後のために正しい情報を集めて残しておくことが必要。
・災害は単独では来ない。人災もあるということをしっかり頭に入れて対応を。情報が来ない、ガセ情報が来るのも人災。天災はしょうがないが、大きな災害に並行していろいろな不備が災いを大きくする。 ・人間には敵わないものがある。でも、生きてさえいれば何とかなる。
・震災はきついけれど、試練を与えられたと思って、前向きにプラスに考えたい。
・震災はつらい出来事だけど、それを乗り越えたからこそ、素晴らしい出会いがあり、人と人との絆が深まったと思う。
・震災で人の心の温かさを感じた。どんな人にも役割があって生かされている。無駄な体験は一つもない。感謝して命を大切に生きたい。

 発生したばかりで、現状を受け入れる心の余裕もないかもしれません。避難所に避難している人は、環境の大きな変化に体調を崩したりすることもあるかもしれません。でも、震災からの復興は「長期戦」です。とにかく栄養と休養をしっかり取って、家族、友人・知人とつながりを保ちつつ、できることを少しずつ、一つずつ積み重ねていってみていただけたらと思います。

(2016.4.16追記)
 この記事を書いている間に、さらに大きな地震が起こって、さらに多くの方が亡くなってしまいました。なぜそれを書かないでしまったのだろうと思います。その可能性についても頭の中にはあったのに、書かないでしまいました。書いても時間的には間に合わなかったわけですが…。

 東日本大震災で、私たちも実は同じ経験をしていました。あの3月11日のM9.0の地震の2日前の3月9日に、M7.3の大きな地震を経験していました。その2日後の大きな地震ですっかりそのことは忘れられてしまっていますが、確かに、「大きな地震があったから、後は余震だ」ということばかりでなく、それがその後に来る本震の前震ということもあるのでした。

 報道では、気象庁は16日午前の記者会見で、熊本、阿蘇、大分へと震源が移動して地震が起きていることについて、「広域的に続けて起きるようなことは思い浮かばない」と話していますが、これは見方を変えれば、東日本大震災で起こったことが時間をかけて起こっていると見ることもできます。東日本大震災では、5分前後の間に3つの震源で地震が起きました。まず宮城県沖の震源で地震が発生し、それに続いて宮城県のさらに沖合で地震が発生し、さらに茨城県北部沖でも地震が発生し、それらが複合して巨大な地震になったとされています。今回はそれが5分ではなく数日という単位で起こっているという見方もできるのではないでしょうか。
 
 とすると、先の文章で「余震は1週間から10日続く」という気象庁の解説を紹介しましたが、もっと長いスパンで備える必要があると思います。東日本大震災では、2011年3月11日の本震の27日後の4月7日に、M7.2の極めて大きな余震を経験しました。その4日後の4月11日にもM7.0の地震がありました。これらの地震でそれぞれ4名の方が亡くなっています。地震から4か月後の7月10日にM7.3、翌年2012年の12月7日にM7.3、2年後の2013年10月26日にもM7.1の余震があり、2012年の地震で1名の方が亡くなっています。

 くれぐれも用心してください。ひょっとしたら、今回の地震も本震でないかもしれない、という前提で。また、もし今回の地震が本震であったとしても、本震がM7.3ということは、余震は14日の地震と同じクラスのものが来る可能性が大いにあります。山の斜面に近い建物、瓦屋根の建物、1981年以前に建てられた建物、そしてブロック塀には決して近づかないでください。

 ブロック塀は、鉄筋が入っていない塀が多数崩壊しているのを見てショックを受けました。私が子供の頃体験した1978年の宮城県沖地震の時は28名の方が亡くなりましたが、うち18名が鉄筋の入っていないブロック塀の下敷きとなって亡くなりました。それ以来、ブロック塀には必ず鉄筋を入れることになったはずなのですが、それ以前に作られたのか、いまだそうでない塀が多く存在しているのですね。

 瓦屋根の建物は台風には強いですが、建物上部が重くなる分、地震には極めて弱いです。1981年は1978年の宮城県沖地震で建物倒壊が相次いだことを受けて、建築基準法が改正されて耐震基準が強化された年です。この年から建物を建てる際に、「震度6強から7程度の大規模地震でも倒壊は免れる」ことが義務づけられていますので、この年以降に建てられた建物であれば、もちろん100%とは言えませんが、倒壊で命を落とすような事態はある程度避けられると思います。

(2016.4.19追記)
 Googleが「災害情報マップ」で「熊本地震リソースマップ」を公開し始めました。「スーパー営業情報」、「炊き出し&支援物資集積地点」、「給水所」、「給油可能ガソリンスタンド」、「営業中の銭湯・温泉」、「利用可能トイレ」、「自動車通行実績マップ」を地図上で確認することができます(右上の「レイヤ」をクリックして欲しい情報の項目にチェックを入れます)。

(2016.5.2追記)
 1981年以降に建てた建物は「震度6強から7程度の大規模地震でも倒壊は免れる」ことが義務づけられていると書きました。ところが、その後の調査では1981年以降の建物でも倒壊した建物があったとのことです。その理由として、建築基準法では震度7の地震が2度来ることは想定しておらず、1回目(4/14)の地震で倒壊はしなかったもののダメージを受けた建物が2回目(4/16)の地震で耐え切れず倒壊したということが考えられます。そしてさらに、「地震地域係数Z」の欠陥が指摘されています(参照サイト)。

 建物を新築する場合、建築基準法が定める「新耐震基準」に従って耐震設計を行います。この時、地震によって建物に作用する「地震力」を、「地震力」=「地震地域係数Z」×「標準地震力」という式で計算します。「標準地震力」というのは、「震度6強から弱い震度7程度の地震力」を意味します。問題の「地域地震係数Z」はその名の通り、地域によって異なる係数となります。地域係数Zが「1.0」であれば作用する地震力は「震度6強〜弱い震度7の地震力」、地域係数Zが「1.2」であれば作用する地震力は「一般的な震度7の地震力」、地域係数Zが「0.8」であれば作用する地震力は「弱い震度6強の地震力」になるとされます。つまり、同じように「新耐震基準」に従って耐震設計を行っても、地域によってその強度には差が出るということです。
 今回地震のあった熊本では、最初に設定された「地域地震係数Z」は0.8、その後2度ほど改訂されていますが、最新の2007年版でも熊本は0.8と0.9となっています。つまり、「新耐震基準」の建物でも、熊本の建物は震度7の地震には耐えられない可能性があったわけです。今回のような地震を経験すると、「地震地域係数Z」は有害無益であると言えます。参照サイトの記事によると、耐震強度を1.5倍にしてもそれによるコスト増は3〜5%程度であることが紹介されています。

 ともあれ、1981年以降に建てられた建物でも、「危険」と判定された建物には決して近づかないでいただきたいと思います。


東北を含む他地域の方に伝えたいこと

 政府の地震調査研究推進本部が長期評価結果一覧を公表しています(参照サイト)。これを参考に、自分の住んでいる地域でどのような地震が起こり得るのか、把握しましょう。ただし、この中の発生確率にはあまり左右されないようにしてください。低くても決して安心してはいけません。阪神淡路大震災の発生直前の同地域の地震の30年以内の発生確率は0.02〜8%でした。今回の平成28年熊本地震は布田川断層帯、日奈久断層帯が動いて起きたのではないかという見解が既に出ていますが、これらの30年以内の地震発生確率も、布田川断層帯で最大でもほぼ0〜0.9%、日奈久断層帯で最大でもほぼ0%〜16%でした。仮に自分の地域がほぼ0%であっても決して油断してはならないことが分かります。次にどこで大きな地震が起こるかを予測することは、現在のところほぼ不可能です。いざという時のための備えを進めましょう。

 今回の地震の被災者へのマスメディアによるインタビューで「え?」と思ったことがありました。「家具が倒れてきて…」という話が多いです。家具転倒防止対策をしていない家も多かったのかもしれません。これは必須です。ホームセンターに行けば家具転倒防止用品がいろいろ売っています。倒れてくると危険な大きな家具にはこれを使うようにしましょう。L字型金具が最も効果が大きいとされますが、壁や家具にねじ止めするのが難しい場合もあります。L字金具に比べると効果が低いとされるストッパー式、マット式、ポール式も、複数組み合わせることで効果を高めることができます。総務省消防庁は「地震による家具の転倒を防ぐには」を公開していて参考になります(参照サイト)。

 今回、家屋の倒壊が相次ぎましたが、建物の耐震補強工事は金銭的な面でなかなか進まないという現実もあります。それでも、屋内に耐震シェルターを設置するという方法もあります。費用は20万円から可能だそうで、仮に住宅が倒壊してもこの中にいれば守られるとのことです。東京都の耐震ポータルサイトに詳しい説明があります(参照サイト)。

 支援物資を送らなければと考えている人も多いと思います。その前に認定NPO法人レスキューストックヤードのサイトを見てみていただきたいと思います。「支援物資等を提供する」にある「物資による支援をする前に」は参考になります。(参照サイト)。以下のようなことが書かれています。

1. ものが不足するのは、ものが無いからではない

 災害で直ちにものがなくなることはなく、交通やライフラインが断たれて一時的に品不足が起こるだけ。供給ルートが立ち直ればすぐに大量の物資が被災地に届く。逆に被災地内外のルートが寸断されている限り、個人で物資を送っても被災者には届かない。

2. 届いた時には必要とする物が変わっている

 TVや新聞で足りないものを知ってそれから物資を送っても、被災地に届くまでに数日かかる。その間に被災地で必要なものは変わってしまい、受け取り手がいなくなった物資は、被災地で不良在庫になる。

3. 個人の物資支援はむずかしい

 個人で送れる物資は、量も質もバラバラ。同じ箱に衣類や学用品や食料をまとめて詰め込んだものは特に面倒。開封して仕分けないと配布も出来ないが、災害時にそんな人手はない。被災自治体は職員が総動員で被害の確認や避難所の運営に当たっているが、こうした人たちに一層の負担を強いることになり、結果的には有効に配布できないまま終わってしまうことになる。

4. 保管も処分もお金がかかる

 物資には保管料もかかる。最後の最後まで余った物資は廃棄処分することになるが、阪神・淡路のある自治体では物資の処分に2,300万円かかったとのこと。被災者の税金を使って処分しているのだから、こうなるともはや二次災害。

5. 「まだ使える」ものと、「これなら使いたい」もの

 自分のタンスにあるもので「まだ着られる」と思う衣類と、フリーマーケットで「これなら着てみたい」と思う古着、品質にずいぶん差がある。「まだ使える」中古品を被災地に送って、そのぶん自分が新品を買うのなら、はじめから新品を買えるお金を被災地に送った方がいい。救援物資は在庫処分ではない。

6. 送るときに注意したいもの

 古着は避け、なるべく新品を送る。食料では、生鮮品は腐り、保存食なら自治体に備蓄があったり、企業から提供があったりする

7. ものは金に替える

 ものを被災地に役立てたいのなら、フリーマーケットなどに出品して、お金に替えてしまうのも手。売り上げた金額は少ないかもしれないが、宅急便一箱送るのにもけっこうお金がかかる。その送料分を上乗せして被災地に送れば、それなりの金額になる。

8. それでもものを送る場合

 被災地支援をしているNGO/NPOやボランティアグループが物資の募集をしていることがある。これまでの経験を踏まえて、あらかじめ品目を絞ったり、被災地の外で仕分けをして被災地に届けるしくみを考えたりしている。いきなり被災地に届けるよりは多少は有効に使ってもらえる可能性が高い。

 救援物資が「二次災害」にもなり得るというのですから、よくよく考えなくてはなりません。このように見てくると、支援はモノよりお金の方がよいということが分かります。では、そのお金をどのように被災地に届ければいいのかということになります。

 すぐに思いつくのは、日本赤十字社などへの義援金です。「義援金」は被災者に配分されるお金です。今回の地震の義援金の受け付けも始まりました(参照サイト)。もう一つ、「支援金」というものがあります。被災者への配分ではなく、被災地で活動している専門性の高い緊急支援団体への支援として使われるのが「支援金」です。寄付サイト「GiveOne」のスタッフブログに詳しい説明があります(参照サイト)。

 熊本地域の被災者の方々に向けてそれぞれできる支援を行っていくと共に、自分自身の周囲を見回してみて、今ここで地震が来たら、という想定をしてみて、対応が不十分と思われるような箇所については、速やかにそれを補う取り組みを進めていく必要があると思います。

(2016.4.18追記)
 木楽社が、出版している「災害支援手帖」を、熊本地震を受けてWeb上で限定公開しています(参照サイト)。これは本当に素晴らしい判断です。英断です。熊本地震で支援を行いたいと考える人たちにとって、参考になる内容が本当にたくさん盛り込まれています。「支援はモノではなくお金で」という見解を紹介しましたが、それでもどうしてもモノを送りたい!という人はぜひ、この書籍の第2章「モノで支援しよう!」は最低限読んでから、行動を起こしていただければと思います。

(2016.4.19追記)
 旭川医科大学病院緩和ケア診療部の阿部泰之先生が東日本大震災の折に書かれた「災害時の『こころのケア』」という文章があります。東日本大震災の時にも「心のケア」の必要性が叫ばれ、いろいろな個人、団体が被災地にやって来ましたが、中には有効どころか有害と思われるものもあったという話を聞いています。ひょっとしたら「釈迦に説法」かもしれませんが、熊本で「心のケア」に当たる方々にはぜひご一読いただきたいです。

(2016.4.21追記)
 昨年、仙台で国連防災世界会議が開催されましたが、そこで採択された今後15年間の防災に関する国際的なガイドラインが「仙台防災枠組2015-2030」です。防災・減災日本CSOネットワーク(JCC-DRR)は、国連加盟国向けのこの文書を市民向けに解説した冊子「市民のための仙台防災枠組2015-2030」を作成し、配布しています。冊子の中では仙台防災枠組に盛り込まれた項目について、市民の立場からどのような取り組みが必要かについてもまとめられていて、身の回りの防災について考える上で役立ちます。防災に関する具体的なアクションについては、東京都がまとめ、全戸に配布した「東京防災」が大いに参考になります。

 災害発生時に対応に当たる責任ある立場の自治体職員の方々には、「東日本大震災の実体験に基づく災害初動期指揮心得」をぜひ読んでおいてほしいです。東日本大震災の折に東北地方整備局が行った災害対応の経験知を他の地方整備局向けにまとめたいわば内部資料ですが、Kindle版を無償公開してくれています。実際の体験に基づく心得はとても説得力があります。また、あまりマスメディアでは取り上げられなかった方々の奮闘ぶりを知る上でもとても有益です。


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2016年03月12日

私的東北論その78〜5回目の「3・11」

昨日は、この日が「3・11」と呼ばれるようになって5回目の日だった。

160311-083429震災に関して言えば、別にこの日だけが特別な日というわけじゃなく、一年365日毎日が復興に向けた大切な一日一日だと思っているのだが、それでもやはり、5年が経っても、この日だけはいつもと比べてほんの少し、心の中がざわざわとさざ波を立てているのを感じるのである。

通勤途中のとあるタクシー会社は弔旗を掲げていた。





160311-085518職場から見える仙台の街中の風景は既に震災前と変わりなく、復興特需を一身に集めて一人勝ち状態と見られることもしばしばであるが、ひとたび仙台市のその沿岸に足を運んでみると、目の前の風景と彼方に見える市街地の風景とのあまりのギャップに愕然とする。
写真にははっきり写っていないが、津波で根こそぎ倒された沿岸の防風林は、懸命に植樹作業がされているものの、いまだ櫛の歯が欠けたような状態である。



160311-091004地元紙「河北新報」の一面は見開きに広げるようになっていて、見出しには「あすへ歩む あの日胸に」とあった。








160311-140406今年も午後は休みを取って、その沿岸に足を運んだ。
途中、若林区役所にある献花台には、多くの花が供えられていた。
この花の数だけ、ここに足を運んで祈りを捧げた人がいるのだと思うと、改めてこの震災がもたらした悲しみの多さに思いが至る。






160311-143329沿岸の荒浜では、地区唯一の寺院、浄土寺で今年も追悼法要が営まれていて、たくさんの人が手を合わせていた。
震災直後、「海岸に200人〜300人の遺体」との衝撃的な報道がされたここ荒浜。
その報道は実は誤報であったが、随分後まで真実と思われていた。
実際には、ここで亡くなった方は173名、遺体が見つかったのも震災直後ではなくその後の捜索の結果であったし、見つかった場所も海岸などではなくほとんどがより内陸の南長沼周辺であった。


160311-144412ここの防潮堤工事は昨年末に終わり、自由に海岸に足を運べるようになった。
この日の海は、時折波しぶきが消波ブロックに打ちつけていたものの、概ね穏やかで5年前に10mの津波が押し寄せたことなど想像もできない。






160311-145201その防潮堤、従来のものにさらに上乗せされたことが見て取れる。









160311-145432海岸に近い一画には、震災前後の荒浜の写真が数多く掲示されていた。
震災前の人々の生活の営みが窺える写真と、震災後の同じ地区とは思えない荒涼とした景色の写真。
この地区の人々の暮らしを一瞬にして奪った大津波の脅威を今さらながらに感じた。





160311-152134震災直後、助かった人が避難した荒浜小学校では、今年もHOPE FOR projectが、土に還るエコバルーンに花の種を入れてリリースした。
飛んで行った花の種がどこかで花を咲かせることを想像すること、それもまさにHOPEである。






160311-232814夜は、お気に入りのビールを飲んだ。
肴は、子どもの頃、弟と一緒によく食べたやきとりの缶詰である。
この日だけは奮発して大きなサイズのものである。



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2015年12月31日

私的東北論その76〜東日本大震災被災地からの伝言(「東北復興」紙への寄稿原稿)

 11月16日に刊行された「東北復興」第42号では、これまで震災に関連して「記憶の記録プロジェクト『田』」として活動してきた中で聴いた言葉を紹介した。東日本大震災を経て、どのようなことを伝えたいと現地の人たちが考えているか、その一端をぜひ知っていただきたいと思う。


東日本大震災被災地からの伝言

被災地から伝えたいメッセージ

 本紙第39号でも書いたが、私は「夜考虫。」という集まりで、震災関連のプロジェクト「記憶の記録プロジェクト『田』」を担当している。このプロジェクトでは、震災以降、とりわけ介護・福祉領域の方々の震災発生から今に至る行動やそこにある思いなどについて話していただく機会を作っている。
 そうした中で私が意識してお聴きしているのは「他の地域の人、この地域のこれからの人に一番伝えたいこと」が何かということである。この日本に住んでいる限り、いつでもどこででも地震を始めとする自然災害に遭遇する可能性はある。未曽有の大災害を踏まえて伝えたいことはどのようなことか、今回はこれまでの活動の中で得られたメッセージのうちのいくつかを紹介していきたいと思う。

津波について

・地震が来たら津波!
・津波の時いち早く高い所へ避難する。
・地震後6時間は自宅に戻るな!「津波てんでんこ」。
・津波の情報が入ったら少しでも早く内陸部に逃げる!
・大地震が来たらすぐに陸続きの高い場所に逃げて下さい。とにかく生き残る努力を。
・逃げる時は大きな声で叫んで逃げる。みんなに危険を知らせる。
・とにかく逃げろ!!!戻るな!!危険×

普段からの心構え

・まずは「個」で耐える力が必要。
・災害では周りは助けてくれない。まず自分で守るしかない。
・結婚したら海のそばに寄らないで(家を建てないで)。
・80超えた人は逃げられない。初任給をもらったらぜひ祖父母に車椅子をプレゼントして。
・住んでる所、職場で、高い所を確認、集合場所を決めておく。
・車は常に使えるようにしておく。車の燃料は半分になったら給油する。
・皆、自分の所には来ない、大丈夫と思っている。海・山の災害を忘れずに準備してほしい。
・自分の住んでいる「地域」を知る。日常生活の中での「防災」「減災」「備蓄」を話し合いで、「普段」の生活で考える。
・起きないだろうと思っていたことも起こる可能性がある。自分の住んでいるところから遠いほど、身近に感じられないもの。
・自分で生きる力を常日頃から意識していかないと。震災で動揺する人も、肝の据わった人もいた。生きる力、生きる知恵を。(震災を)知らない人には正しい情報を集めて残しておくことが必要。3日は我慢。
・日頃から訓練し、常に頭の中に置いておくべき。災害は時と所を選ばない。

震災を通じて感じたこと

・昨日までしゃべってた人でも死ぬんだなと思った。
・震災を機につながりが増えた。
・できることを一個一個やった結果として今がある。いい経験をしたと思う。
・本当に困っている人は支援がほしいと言えない。支援ニーズの把握をいかに行うかが重要。
・震災はつらい出来事だけど、それを乗り越えたからこそすばらしい出会いがあり、人と人との絆が深まったと思う。
・情報は信じる。そして共有する。「危ない」は「危ない」として対応する。何もなければそれでいい。後手に回ったら取り返しがつかない。
・行政はあてにはならない。利用者の家族、お付き合いのあった人、見ず知らずの人に助けられた。そうした関係を普段どれだけつくっておくか。
・津波から生き延びたその後が実は大変。助かった入所者に多大なストレスがあった。震災後に亡くなった人は、本来はもっと長く生きられたのではないか。
・震災で便利な生活が消えた。でも人と人のつながりが出来た。助け合わないと生活が築けない状態になった。亡くなった人も多いけど、実のある生活を知ることが出来た。
・「災害は起きる」を前提に、福祉に携わる人が協力して対応する仕組みづくりが必要。バラバラでは力を発揮できない。専門家が連携して対応する支援チームを複数つくらないと。
・災害は単独では来ない。人災もあるということをしっかり頭に入れて対応を。情報が来ない、ガセ情報が来るのも人災。天災はしょうがないが、大きな災害に並行していろいろな不備が災いを大きくする。
・震災体験は、一時期「武勇伝」化して語られた。4年経った今は忘れられ始めている。
・津波は憎い。でも、津波が取り持った縁もある。

震災を踏まえた地域づくり

・その地域に住む先人の経験を取り込んだ地域作り!!
・元々つながりが密な地域だったことが震災時の情報収集や発信にも活きた。
・今だからこそあのときのことを安心してはき出せる場が必要。そこからじゃないと未来は造れない。
・自分が、自分の身の回りの人や自分の先祖が体験したことを本当に活かせる情報の共有、コミュニティーの形成が大切。
・助けが来るまでの助けはご近所。隣に誰が住んでるかから始めて嫌がらずにご近所付き合いを。つながりは自分のため、人のため。
・日頃から地域のつながりを密にしておきたい。こういう人がいるというアピールをしておけばいざという時声掛けくらいはしてくれるかもしれない。
・いざとなると生きるために自分のことしか考えられなくなる人もいる。決していいことだけがあったわけではない。だからこそ、コミュニティーが大事。
・経済的問題で仮設から出られない人もいるのではないか。互いにできることを担って報酬が得られて共同で生活できるようなシステムが必要だと考えている。
・感謝の気持ちをもち、ありがとう一杯聞こえる豊かなまちになるように。

他の地域へのメッセージ

・あたり前のことは、あたり前じゃないよ!!
・他地域の人に伝えたいことは、人間にはかなわないものがある、ということ。
・命を大事に!いつ何があるかわからないから。
・どんなときでも協力は強力!!助け合って!!
・地域コミュニティーを大事にしよう。友人を作りましょう。
・地域のつながり、支え合いを。他の地域でも専門職が仕掛け作りを。
・今、この瞬間、自分にできる精一杯のことをして生きていますか?
・後悔しないようにポジティブに生きて。どうせ後悔するならやってから。
・自分の体調と生活環境を万全にしなければケアに向けるための力は起きない。
・常時はムリでも今の時間や家族との当たり前を当たり前と思わないで考えてみて!
・「世のため人のため」が結局は自分のためになる。人を粗末にすれば自分も粗末にされる。
・災害後、その当時のことを話せる人は話していってください。そして、聴いてください!!
・百聞は一見にしかず!!この街の「今」そして「これから」を何度でも見に来い!美味いもの食ってけらいん!
・まずは自分の命を守ること。家族の命も優先してもいい。やりたいことをしてほしい。…って自分にも言い聞かせてる。
・人は日進月歩、成長しなければならない。停滞したり、2、3歩下がったように見えたりしても、それは前進のための準備。
・東北にはいろいろな人がいる。他の地域の人は東北に学んでほしい。毎日楽しく生きて。苦しいことも悲しいことも含めて充実した1日を。
・現代の文明はありがたいが、いざという時はとても不便(使えないよ)。一人ひとりやる事はある。自信をもって生きて。隣の人を大切に。
・人は孤独ということを日頃から自覚して生きること。何か起きた時にどう動いたらいいか判断に迷ったら、自分の使命と、人とつながっていることを頼りに動いていく。
・他地域の人に伝えたいことは、管理者として、家族を持っている身として、ある程度の覚悟が必要だということ。家族の安否をあれこれ考え出すと自分を保てなくなるので考えないようにした。利用者とスタッフを守ることが最優先だったので、生きていると言い聞かせた。最悪の場合のシミュレーションをしつつ、そうならないための準備が必要。
・たくさんのご支援ありがとうございました。

これからを生きる決意

・今を生ききる。
・心の復興を、皆で行いたい。
・毎日を楽しく生きよう。
・人と関わることで楽しく生きる。皆で生きる楽しさを伸ばせる地域をつくる。
・組織の長として覚悟を決めて役割を果たす。死んでも死ぬ以上のことはない。
・震災はきついけれど、試練を与えられたと思って、前向きにプラスに考えたい。
・過去を振り返らず、前を向いて行きましょう。夢も希望もないけど、もう少し生きてみようかな。
・ただただ生きているのでは面白くない。生きてきた経験が関わる人の生き方にプラスになれば。
・人の親切、ありがたさに救われた。自分たちも何かあったら助けたい。人と人とのつながりは大切にしたい。
・自分の街をどうしたいのかな?震災時の様子・心構えなど、くらしやすい、住みやすい町にしたいな!次世代につなぐ為にも。
・いつ死ぬか分からない。いつでも後悔しない、やりたい事をやっていこー!!普通の事あたりまえかもしんないけどとても幸せなんだぜ!!丁寧に大事に物事やっていこー!!
・身体障がいの人への支援の手は少ない。居場所もない。ないなら自分達で創る。やりたいことをやって地域に貢献したい。生かされたからには自分のため人のために何かやりたい。
・身近に起きるとは見ていなかった。自分の身は自分で守る。自分で守れない人を抱えている。どんな判断をするのがいいのか悩ましい。自分の身を守れない人を守らざるを得ない立場。自分の身を守り、家族も守り、利用者も守る。
・震災で人の心の温かさを感じた。どんな人にも役割があって生かされている。無駄な体験は一つもない。感謝して命を大切に生きたい。
・僕らの震災は続いている。それを分かっていただきたい。立ち直るために必要なことがある。震災の人たちのために働きたいという心ある人たちはいる。心ない人を恨むより、心ある人たちと一緒に復興に取り組みたい。
・他の地域が同じ目に遭ったら今度は僕らが助けたい。

 これらについて私から付け加えることは何もない。これら、震災をくぐり抜けてここまで来た一人ひとりのメッセージから何か得るものがあれば、これに勝る幸いはない。


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2015年09月30日

私的東北論その73〜いわきと富岡で見聞きして考える震災復興の現在

150806-093509 8月16日に刊行された「東北復興」第39号は、「笑い仏」特集であった。同紙にその旅の模様が連載されてきた「笑い仏」さんが、この8月に最終目的地である福島に到着したのである。

 富岡町の浄林寺にてその開眼供養が行われることになり、そこに私と同紙編集長の砂越豊さん、さらに「とにかく東北を語る会」にも来ていただいたNPO法人STELA副理事長の坂本拓大さんの3人で参加してきた。その開眼供養の模様は砂越さんの記事や、「笑い仏」プロジェクトを進めてきたMONKフォーラムの平原憲道さんの記事に詳しいので、私は少し別の角度から書いてみた。以下がその全文である。

いわきと富岡で見聞きして考える震災復興の現在

「笑い仏」さん、ついに福島へ
 「笑い仏」さんがついに、3年余りの旅を終えて福島に到着した。福島第一原発から直線距離で約11kmの場所にある富岡町の浄林寺がその最終目的地である。8月6日にその開眼法要が営まれ、檀家の方々を中心に、約150名の方が集まった。恐らく今号では編集長の砂越さんやMONKフォーラムの平原さんがその模様を詳細に報じておられることと思うので、ここでは、震災発生から4年5月が経過した現時点での復興について、いわきで見聞きしたことを基に、改めて考えてみたいと思う。

「記憶の記録プロジェクト『田』」
 私は、仙塩地区の医療・介護関係者でつくる「夜考虫。」という集まりで、震災関連のプロジェクトである「記憶の記録プロジェクト『田』」を担当している。このプロジェクトでは、震災以降、とりわけ介護・福祉領域の方々の取り組みがマスメディア等でほとんど報じられていないということに問題意識を持ち、それらの方々の震災発生から今に至る行動やそこにある思いなどについて話していただいている。

 東日本大震災は我々にとって未曽有の災害であったが、歴史を紐解くと過去にも同様の震災が繰り返し起こっていたことが分かる。それは他地域においても同様で、少なくともこの国にいる限り、どこにいても今回のような震災に遭遇するリスクは存在する。したがって、今回の震災体験から得た学びや知恵を他の地域の人や、この地域のこれからの人に伝えていくことはこの上なく重要なことであると思うのである。

いわきで聞いた震災のこと
 この「記憶の記録プロジェクト『田』」の活動の一環として、7月26日、27日の両日、「震災復興交流訪問活動 in いわき(田旅いわき)」と銘打って、いわき市内で9人の医療・介護関係者の方々に震災体験についてお聞きしたが、聞けば聞くほど、現在のいわきの置かれている状況の難しさを思い知らされた。

 いわきはその市域の北端が福島第一原発から30km圏内にあるために、原発事故の影響を受けたと思われている。事実、震災直後、物資はいわきにはなかなか届かなかった。中通りの郡山までは物資が来ていたが、そこからいわきには当初輸送されなかったのである。やむなくいわきから郡山まで物資を受け取りに行った事例が数多くあった。大手のマスメディアも3月下旬までいわきには入らなかった。実際には当時の風向きの関係でいわきのある福島の浜通り南部よりも、中通りの県庁所在地福島や郡山の方が放射線量が高かったというのは大いなる皮肉であった。

 いわきは、あまり知られていないことだが、東北では仙台に次ぐ人口第2位の都市である。つまり、仙台を除く東北の他の5県の県庁所在地の人口をも上回る。同じ浜通りの福島第一原発に近い双葉郡の町村の避難者を受け入れるキャパシティーがある都市は、浜通りにはいわきを措いて他にはなかった。もちろん、中通りの福島や郡山、会津の会津若松なども相応に大きな都市ではあるが、気候が違う。浜通りは住むのに実に快適な地域で、夏は内陸の中通りや会津ほど暑くならず、冬は東北の中で最も温暖で雪もほとんど降らない。こうした浜通りに長らく住んだ人が中通りや会津、ましてや他地域に移り住むには相当なストレスがあったことだろう。

 その意味では同じ浜通りの南端にあるいわきは、原発事故から避難してきた人たちにとっては住みやすい場所だったに違いない。それでいわきには2万人超の避難者が移り住んだ。しかし、そのことが元からのいわき市民との間に軋轢を生んでしまった。片や住み慣れた故郷を離れざるを得なかったとは言え、東電からの多額の賠償金を得ている人たち。片や原発事故の風評被害に苦しみながらも、東電からの賠償は一時金としてほんの数万円得ただけの人たちである。急激に人口が増えたことで、道は朝晩渋滞するようになった、病院の混雑は増した(しかも避難者の医療費は無料である)、賃貸物件が不足した、保育園の待機が深刻になった、賠償金を元手にいわき市内の土地や家が買われて地価が上がり家を建てにくくなった、かつ避難者の大部分は住民票をいわきには移していないので実質的に人口が増えたにも関わらずいわきの税収はほとんど変化がない、そのような声を聞いた。

「他の地域が同じ目に遭ったら助けたい」
 このプロジェクトの活動をしていてよかったと思う時がある。震災発生から4年以上経って、震災のことを日常の中で振り返ったり、他の人と話したりという機会は着実に少なくなってきている。そうした中で改めて話を聞かせていただくことで、もちろんこちらにとっても様々な気づきや学びがあるが、それと同時に話をしてくれた人にとっても震災当時に思いを馳せ、そこから今に至った経緯を振り返ることで、同じように気づきや学びがあるようなのである。

 避難者を受け入れたことによって生じた軋轢について語ってくれたお一人が、ふと気づいたように「でも、それは本筋と違うよね」と言った言葉がとても印象的だった。何が復興の本筋なのか。避難者同士の境遇の差を論じることが復興につながるのでは、少なくともない。元からいわきに住んでいた人にとっては確かに理不尽に感じることがあるに違いない。しかし、願わくは、そうした彼我の差を乗り越えて、共に手を携えての震災復興を成し得てほしい。

 東北第二の都市であるいわきは、いわば浜通りの市町村の「兄貴分」である。2万人以上もの避難者を一手に受け入れるというのはまさにそのポジションに相応しい、さすがの対応ぶりであったと思うし、先ほど述べた気候風土の点や多くの人を受け入れられる余地のある都市規模ということを考えても、他の市町村では同じように対応することはとても不可能であったろうと思う。人口の急増の影響はあろうが、多くの市町村で人口減少が止まらない中での人口増を、地域活性化や震災復興のエンジンに据える取り組みへとつなげていく方策を今後考えていければよいのではないかと思うのである。

 今回お話をお聞きした中のお一人である長谷川祐一さんの言葉を紹介したい。長谷川さんはいわき市内の本拠を置く調剤薬局タローファーマシーの代表取締役として、震災直後県外への撤退事例が相次いだ中でも市内に踏みとどまり、必要な薬を患者に提供し続けた方である。他の地域の人、この地域のこれからの人に何を一番伝えたいかとの問いに長谷川さんはまず、「僕らの震災は続いている。それを分かっていただきたい」と前置きした後、「震災に遭った人たちのために働きたいという心ある人たちはいる。心ない人を恨むより、心ある人たちと一緒に復興に取り組みたい」と言った。そして、「他の地域が同じ目に遭ったら、今度は僕らが助けたい」とも言った。今回の震災体験を無駄にせずに活かしたい、助けてもらったお返しにそれを活かして今度は他の地域の役に立ちたい、そのように話す人は長谷川さんだけでなく、いろいろな方の口からも出た。被災し、被災から立ち上がろうとしている人に共通の思いなのだと思う。

「常磐線」で見た震災のこと
 そのようなことを考えさせられた「田旅いわき」の翌週の「笑い仏」さんの浜通り入りであった。「田旅いわき」の時は、仙台から東北本線で郡山まで行き、そこから磐越東線でいわきに行ったが、今年1月末に福島第一原発付近の区間で代行バスの運行が開始され、代行バスを2回乗り継げば何とか仙台からいわきまで常磐線経由でも行けるようになっていたので、今回はそちらを利用してみた。

 最初の代行バス区間である宮城の山元町から福島の相馬市までは、まちづくりに合わせて順調に鉄路の再建も進んでいた。しかし、次の代行バス区間である南相馬市から楢葉町までは、福島第一原発のある帰還困難区域を通る関係で、常磐自動車道と国道6号線という幹線道路こそ開通したものの、まちはいまだ再建の緒にすら就いていない。国道沿いの人のいない街並みを見ながら、ひとたびあの事故が起きて、何気ない日常を送っていたこの住み慣れた地を、心ならずも離れざるを得なかった方々の心境はいかばかりだったかと、改めて考えた。

開眼法要で見聞きした震災のこと
 開眼法要が行われた浄林寺も帰還困難区域にあるため、ご住職の早川さんも毎日いわきから車で通っているが、寺の檀家となっているこの地域の皆さんも同様で、普段は様々な地域で避難生活を送っていて、お盆前の施餓鬼法要の折には集まって先祖供養をしているそうである。

 開眼法要もその施餓鬼法要の日に合わせて営まれたので、境内や本堂は大入り満員状態だったが、いわき市内はもとより、仙台や首都圏から来た檀家の人もいて、あちこちで積もる話に笑顔の花が咲く様子が見られた。地域のコミュニティーに果たす寺院の役割の大きさを実感した。

 作者の山本竜門さんが、微笑を湛えた「笑い仏」さんについて、「笑顔を見ると笑顔になる。皆さんにたくさんの笑顔がもたらされますように」と挨拶された言葉が印象的だった。また、早川住職の「諦めたらそこで終わり。し太く頑張ろう」との言葉も、現状が現状であるだけに身に沁みた。

 いわき市内は仙台と同じく、開眼法要が営まれた8月6日から3日間七夕まつりであった。街にたくさんの人が溢れ、浴衣姿の子供達もたくさん見掛けたが、今回様々な調整の労を取ってくださった左雨弘光さんの「子供達が何も気にせずにこうして自由に外に出られる日常が本当にありがたい」という言葉には、本当に実感がこもっていた。

 取り戻せていない日常もまだある。一方で、震災前の通りに戻った日常もある。そしてそこにはそこに住む人の様々な思いがある。いろいろな困難に直面しながらも、その目線は今の先を見ている。まさしく「震災は終わっていない」が、そこからの復興を目指す人は元気である。そのように実感できた2度のいわき訪問であった。


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2015年03月12日

私的東北論その67〜震災から4年目の3月11日

150311-130028震災発生から4年目の今日は午後休みを取って、まず若林区役所へ行ってみた。

いつもある献花場がない、と思ったら、今年は若林区文化センターに会場が移動になっていた。




150311-131216同センターでは地震発生の時刻に合わせて追悼式も行われるようだったが、それには出ず、献花した後に区役所に戻り、折からの強い西風に背中を押されながら、自転車あの日弟が通ったであろう道を通って、一路荒浜へ向かった。
 




150311-133318県道塩釜亘理線沿いに「希望」という名前の茶房を発見した。

災害危険区域に指定されている荒浜地区でやっている店は恐らくここくらいだろう。

しかし、今日は休みのようであった。
 


150311-134956かつての深沼海水浴場の入り口付近に立つ荒浜慈聖観音。

今日はひっきりなしに人が訪れていた。
 
その深沼海水浴場は防潮堤工事のために現在立ち入り禁止である。




150311-135900
移動販売車で石焼き芋を無料で配っている方がいた。

荒浜に来るのは初めてとのことだが、震災以来毎年この日は無料で石焼き芋を配っているとのこと。

「どうして無料で配ってるんですか?」との私の問いに、「いやぁ、だってみんなあっての私だから」なんて言葉がさらっと出てくる石焼き芋屋さん、素敵すぎである。
 
いただいた石焼き芋は、とても温かかった。
 
150311-140659その後、荒浜地区唯一の寺院、浄土寺で行われた追悼法要に出席。








150311-141942大人が数十人でかかっても倒すことなど到底不可能そうな大きな石標が横倒しのまま。

津波の凄まじさを如実に物語っている。

同寺は今年で創建から390年を迎えるそうだが、これからも毎年この日には追悼法要を営み続けるとのことである。


150311-153711昨年参加した地元の「HOPE for project」の風船リリースは、今年は追悼法要が終わる前に始まってしまったので間に合わずじまいだった。

「届いても 届かなくても 思いを伝えること」という同プロジェクトの趣旨は、その通りだと思う。

ちなみに、大空高く放った風船は、太陽光で自然分解され、落下したら土に還るエコバルーンだそうである。
 
会場となった荒浜小学校には、いまだ見上げる高さに津波襲来の痕跡が残っている。
 
150311-154549この界隈に津波が押し寄せた15時54分には、弟が見つかった南長沼に。
 
あの日、海の向こうから10mもの高さの水の塊がものすごいスピードで押し寄せてきた様を想像してみた。

強風が吹き荒れているにも関わらず、沼は波静かであった。



150311-205152
帰りに立ち寄ったシベールの「仙台いちごケーキフェア」でどのケーキも美味しそうだったので全部買ってしまったり、今日も美味しいビールを1L缶で飲めたりするのも、生きていればこそのこと。
 
あの日思ったことは、昨日の次に今日が来て、今日の次に明日が来る、ということは、決して当たり前のことではないということ。

にも関わらず、その後、今日の次に明日が来る毎日が続いているために、迂闊にも、ついそのことを忘れがちなこの頃。

150311-223654
明日はないかもしれない、と思って今日を生きること、その大切さを改めて思い起こさせてくれた、あの日から4回目の3月11日であった。


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2015年03月03日

私的東北論その66〜特殊公務災害逆転認定までの経緯◆屬箸△訃男表隶の証言」

150303-014654 前回、特殊公務災害に認定されるまでのおおよその経緯について説明した。最初に特殊公務災害非該当との決定がなされたのは地方公務員災害補償基金仙台支部だが、その決定に至るプロセスでは、弟が津波避難の広報活動を行った仙台市若林区荒浜で、同様に避難誘導を行っていた若林消防署荒浜航空分署の署員から、発災当時の状況について証言を得ていた。

 その一部は以前紹介したが、それは仙台支部の決定通知書にあった記載を引いたもので、ごく断片的なものであった。その後、支部審査会に対する審査請求の段階で両親の代理人となった土井浩之弁護士が、支部審査会に要請して当該証言の全文を入手した。その内容は詳細かつ具体的で、今まであまり知られていなかった、地震発生当日の荒浜地区における津波避難のための活動の実際について知ることができる貴重な資料となっている。そこで今回はその証言の主要部分について紹介したい。

 ちなみに、日付は2011年6月28日となっている。地震発生から3ヶ月あまり後のことで、当時の記憶もまだ正確かつ鮮明に残っていたと考えられる。以下がその証言である。


 「平成23年3月11日午後、私は若林消防署で訓練業務にあたっておりましたが、午後2時46分の大地震発生により、『市内上空からの被害調査』の任務指示で急いで所属(荒浜航空分署)へ戻り、帰署途上大津波警報の発表を知りました。津波到達予定時刻は3時00分と予想され、同時刻に荒浜航空分署に到着しました。

 その後、津波到達予定が3時30分に変更になったことから、その時刻ギリギリまで、荒浜地区の住民の避難誘導にあたることにしました。活動は、深沼橋からさらに海側に入った辺りの住民を消防車に乗せて荒浜小学校に避難させたり、通行していた一般車両に避難者を乗せて東部道路より西に避難させるように指示を出したり、避難誘導や救助活動を実施していました。小学校までを何度も往復し、その最中に、若林区役所の広報車らしい車を何度か見たような記憶があります。後日車両の発見に立ち会った際に、『あのときの車じゃないか?』と感じました。私ばかりでなく、同僚も、当該車両を『震災当日、現地で見かけた記憶がある』と言っています。

 現地では、私たち消防局の他、警察、さらにもう一台の車両が、避難の広報をしていたと思います。『区役所の車かな?』と思っていました。

 私たちは、津波が迫っている情報を消防ヘリコプターからの無線で得ていました。私は同僚に、『言葉なんてどうでも良い。『逃げろ!』で良いから、大声で呼びかけろ!』と指示し、住民を学校に避難させる途中も、ずっと広報し続けました。一人でも多くの住民を避難させなければと、とにかく必死でした。

 しかし、県道塩釜亘理線沿いのコンビニの前では市民の反応が鈍かったのも事実です。座り込んで何かを食べている人たちすらいました。『ここまでは来ないだろう』と、皆思っていたのでしょう。確かに今までの経験では、これほどまでの大津波が来るとは、誰も予想していなかったと思います。

 『荒浜航空分署の出場体制を立て直す必要と、2機目のヘリコプターを出場させるから、すぐ戻れ!』という命令(3時40分)がなかったら私たちも津波に巻き込まれていたと思います。荒浜航空分署職員の使命は、消防ヘリコプターを活用して上空からの避難誘導と津波到達してからの人命救助です。とにかく分署に戻る必要がありましたので、最後に住民を(車内に)乗せ、隊員は車両の上に乗って荒浜小学校に向かいました。そのとき、上に乗った隊員が、津波の白波が迫って来るのを遠方に見たと言っていました。3時50分に小学校を出発し、53分に分署に到着しました。大津波が分署を襲ったのは、その僅か1分後のことでした。私たちも、まさに間一髪、命が助かった状況です。

 分署からの命令により荒浜小学校を離れるとき、荒浜新一丁目の住宅街の方向から、避難を呼びかける広報車の声が響いていたのを記憶しております。

 後日、荒浜でたくさんの住民が亡くなったことを知りました。あれほど力を尽くしてたくさんの方々を避難させたけれど、まだ多くの住民が荒浜地区に残っていたのだなと思うと非常に残念です。」


 以上が荒浜地区で避難誘導に当たっていた消防署員による3月11日の状況についての証言である。いろいろなことが分かる。消防と警察以外にもう一台避難広報をしている車があり、この消防署員はその車を区役所の車と認識していたこと、県道塩釜亘理線付近の地域住民の反応は鈍く、逃げようとしていなかった人もいたこと、消防署員が署に戻ろうとした3時50分の段階でまだ避難を呼び掛ける広報の声が聞こえていたこと、などである。

 この、消防や警察や区役所が避難誘導をすることは、これまた以前も書いたが、「仙台市地域防災計画」で定められている。「地震災害対策編」の第3章「災害応急対策計画」の「5 津波応急対策計画」では、津波発生時における人的被害を最小限に止めるため、津波予報の収集・伝達、海面監視及び避難体制について定めている。そして、その実施機関は、消防部、区本部、宮城県警察の3者とされているのである。

 なお、避難誘導体制のうち避難広報等については、「避難勧告等を行ったときは、消防車、広報車及び報道機関との連携等により迅速に地域住民等に対し周知徹底を図」るものとされているが、今回のこの証言からは消防と区役所が相互に連携した様子は窺えない。未曽有の大地震で多少なりとも混乱があったのだろうが、消防が把握していた「津波接近!」との情報が、弟の乗った広報車にも伝わっていればと残念に思うところである。

 ちなみに、なんと3月28日に弟が乗っていた車が発見したのも、4月28日に弟の遺体を発見したのも、この証言をしてくれた消防署員の班だったとのことで、「縁があるのかな」と思ったそうである。弟の遺体が発見された南長沼付近では、住民の遺体も数多く発見されており、そのことからも、大津波が押し寄せる最後の最後まで、広報していて津波に巻き込まれたのではないか、とこの消防署員は推察している。そして最後に、今回のことは、「仙台市の大津波に対する避難誘導のあり方として多くの教訓を残してくれ」たとして、その「死を無駄にすることなく、私たち仙台市職員がやるべきことは、これからの安全安心な仙台市の復興に、また、これからの津波対策に生かしていくこと」であり、それが供養になると締め括っていた。

 このように、現地での弟の様子について、もちろん詳細に観察したり言葉を交わしたりしたわけではないにせよ、見ていた人がいてくれたことは率直に言って嬉しいことである。この証言によって、弟が最後まで地域住民のために避難の呼び掛けをしていたことが、弟だったらそうしただろうなとは思っていたが、それが単なる身びいきではなく分かったのである。

 冒頭の写真は、弟の遺体発見時に会ったその消防署員を父親が撮影したものである。連日の捜索活動の疲れの色も見せずに、弟の遺体発見時の様子について丁寧に説明してくれたそうである。 


anagma5 at 02:48|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!