中尊寺  

2018年05月04日

世界遺産以外の平泉オススメスポット(※7/23追記・現在67箇所)(東北のオススメスポットその13)

 「私的東北論その107」で紹介した「平泉町観光振興計画(案)」(PDF)への意見書の中で、「平泉は世界遺産だけの町ではない」ということで、「世界遺産以外の観光資源についてもしっかり情報発信を」ということを述べた。
 とは言え、駅や観光案内所で手に入るマップには世界遺産を構成する中尊寺毛越寺観自在王院跡無量光院跡、金鶏山の5つに、柳之御所遺跡達谷窟高館義経堂くらいしか載っていない。平泉文化遺産センター柳之御所資料館にも行ってみたが、これら以外の遺跡について載っているマップはない、とのことだった。
 ならば自分でつくるしかないかと思い、先月1日掛けて平泉町内と旧衣川村の一部地域を改めて巡ってみた。巡ってみて改めて感じたのは、やはり平泉は世界遺産に登録された遺跡だけの町ではないということである。もちろん、登録された5つの遺産は素晴らしいものだが、決してそれらだけが平泉なのではない。それら以外の遺跡も能弁に平泉が何たるものかを語っているように思われた。
 以下に、それらについて紹介してみた。とりわけ、「平泉の世界遺産はもう見飽きた」という方々にぜひお役立ていただきたい。
 紹介文の中に度々、平泉の中央、東方、南方、西方、北方の五方鎮守(四方鎮守とも)のことが出てくる。かつて平泉には、中央に惣社、東方に日吉、白山の両社、南方に祇園社、王子諸社、西方に北野天神、金峯山、北方に今熊野、稲荷等の社があったとされる。個人的に、それらを巡るのも世界遺産以外の平泉を楽しむのにうってつけだと思うのだが、それらのうち、東方の「日吉、白山両社」は現在の白山妙理堂、南方の「祇園社」は現在の八坂神社、北方の「今熊野」は現在の熊野三社でほぼ間違いなく、西方の「金峯山」は金鶏山、花立廃寺跡という可能性が高いと考えられるものの、中央の「惣社」については意見が分かれている。もう一つ西方の「北野天神」については、現在の毛越けごし地区に北野天神社があるとの話もあったが、今回確認できなかった。次に訪れた際に詳しく調べてみたい。 南方の「王子諸社」、北方の「稲荷社」についても同様である。
 あ、ちなみに、以下の遺跡は単に私が足の向くまま回った順番に並んでおり、並んでいる順番には特に意味はない(笑)。我ながらよく一日で回ったものである。
 なお、遺跡の中には学校や私有地などもあるので、無断での立ち入りは厳禁である。
世界遺産以外の平泉オススメマップ これらの位置関係を示した「世界遺産以外の平泉オススメスポットマップ」も作ってみた。併せてご参照いただきたい。

追記(2018.6.26)
 前回回り切れなかった場所をいくつか追加した。既存の場所にも必要に応じて説明を追加した。また、前回見つけられなかった西方鎮守の一つ、北野天神社も、やはり場所が分からず困っていた時に通りすがりの老婦人にお聞きしたところご存じで、連れて行って教えていただいた。感謝である。
 八坂神社と共に南の鎮守である王子社跡も見つかった。北の鎮守の一つである稲荷社だけがまだ見つかっていない。これについては稿を改めて検討する予定である。

追記(2018.7.23):別稿で不明だった北の鎮守(当ブログでは西の鎮守)の稲荷社の場所について特定したのでその場所も加えた。また、泰衡妻が夫を弔うために建てたとの伝承が残る奥州市前沢区の月山神社(既に掲載している奥州市衣川区の月山神社とは別)も加えた。


伽羅之御所きゃらのごしょ
伽羅之御所跡三代秀衡、そして四代泰衡の私邸である「伽羅之御所」がこの付近にあったと考えられている。政庁であった柳之御所やなぎのごしょ平泉館ひらいずみのたち)が「首相官邸」だとすれば、この伽羅之御所は「首相公邸」に当たると言える。現在は、住宅地の一画にその旨を伝える案内板が設置されている。





無量光院むりょうこういん
WP_20180520_17_14_19_Rich世界遺産の構成遺産の一つ。三代秀衡が建立した寺院。宇治平等院鳳凰堂がモデルとされるが、それよりもさらに一回り大きかった。春、秋の彼岸近くには、無量光院の西方にある金鶏山きんけいさんの山頂に日が沈み、その夕日の光を後光として本尊の阿弥陀如来が浮かび上がる意匠だった。現在、その建物は失われたが、池を含む庭園が復元されている。写真中央に見えるのが金鶏山である。

追記(2018.6.26):写真を差し替えた。


白山妙理堂はくさんみょうりどう
白山妙理堂十一面観音を祀る。平泉には中央、東、南、西、北に鎮守社があったとされており、東には白山社と日吉社が鎮座していたとあることから、ここはその東の鎮守があった場所と推定されている。境内を囲む周辺の低地は、当時あった「鈴沢の池」の跡である。

追記(2018.6.26):現在は白山社のみだが、かつては日吉社も並び立っていたとされる。その日吉社だが、別の場所に移転していた可能性もある(後述)。


平泉町役場
平泉町役場案内板はないが、役場周辺からは大型の建物跡が出土していている。役場のすぐ北には幅20mという当時のメインストリートと思われる東西道路の遺構が出土し、役場から白山社(現在の白山妙理堂)までも幅10mの南北道路が確認されており、出土遺物からも「平泉館ひらいずみのたち」に準ずるような施設、あるいはかなり身分の高い者の邸宅があったと推定されている。



平泉中学校
平泉中学校平泉には、中央、東、南、西、北に鎮守社があったとされており、このうち西の鎮守として北野天神と共に金峯山きんぷせんが勧請されたという。この平泉中学校近くに金峯山社趾が残っているという話があったが、確認できなかった。なお、金鶏山が金峰山であるとする説もある。

追記(2018.6.26):今回分かったのだが、平泉中学校は移転して現在の地にあり、金峯山社趾が残っていたのは以前あった場所、現在平泉文化遺産センターのある場所である。ただし、現在の平泉中学校のすぐそばでも現在発掘調査が行われており、ここはここで何かあったようである。


龍玉寺りゅうぎょくじ
WP_20180410_09_15_04_Rich平泉中学校の南にある寺院。いずれ稿を改めて紹介する予定だが、北の鎮守の稲荷社の別当だった隆蔵寺りゅうぞうじが1875年(明治8年に)火災で全焼した後に移転して建立された後継寺である。(2018.6.26追加)

追記(2018.7.23):隆蔵寺と稲荷社については、「鎮守の稲荷社はどこだ?」で詳しく取り上げた。


観自在王院かんじざいおういん
観自在王院跡世界遺産の構成遺産の一つ。二代基衡の妻が建立した寺院。基衡が建立した毛越寺に隣接する。基衡の妻は、奥州藤原氏の前にこの地を支配した安倍氏の棟梁貞任の弟宗任の娘だったと伝わっている。毛越寺同様、浄土庭園を持ち、現在はそれが復元されて史跡公園となっている。元は基衡の居館で、基衡の死後、妻が夫の極楽往生を願って寺院に改修したという説がある。

追記(2018.6.26):上記で紹介した「基衡の死後、妻が」という説は成り立たないことに思い至った。基衡妻である安倍宗任の娘が亡くなったのは基衡よりも先である。それを嘆き悲しんだ基衡によって現在まで毛越寺に伝わる「哭き祭なきまつり」が生まれたとされる。尤も、安倍宗任の娘以外にも妻がいたのだとすれば、その矛盾は解消する。


毛越寺もうつうじ
毛越寺世界遺産の構成遺産の一つ。二代基衡が建立した寺院。往時には中尊寺を凌ぐ規模を誇ったという。全国で唯一、平安時代の浄土庭園が完璧な形で残り、国の特別史跡、特別名勝の二重指定を受けている。奥州藤原氏滅亡後、南北朝時代までに戦乱や野火などで建物は全て失われ、長らくこの浄土庭園だけが残っていたが、1989年(平成元年)に平安様式の新本堂が建立された。

追記(2018.6.26):特別史跡の指定名称は「毛越寺境内つけたり鎮守社跡」である。平泉の鎮守社跡のいくつかが毛越寺境内の飛び地として同じ特別史跡に指定されている。その件についてはいずれ稿を改めて検討したい。


平泉小学校
平泉小学校毛越寺の向かいにあり、三代秀衡の長男国衡の邸宅、国衡館くにひらだてがあったと伝わり、実際に建物跡も出土している。国衡は西木戸太郎と号し、その名の通り、平泉の南西端の関門の役割を果たしていたものと考えられる。毛越寺側からでは分からないが、平泉への入り口となる南側から見るとかなり高台にあることが分かる。なお、国衡館の南には三代秀衡の四男高衡(隆衡)の邸宅、高衡館たかひらだてがあったとされているが、場所はまだ特定されていない。なお、国衡館、高衡館のあった場所については、柳之御所の西側だという異論もある。


平泉町立幼稚園・平泉保育所
平泉町立幼稚園・保育所三代秀衡の長男国衡の居館である国衡館くにひらだてがあったとされる平泉小学校の南に隣接している。ひょっとすると国衡館の南にあったという三代秀衡の四男高衡(隆衡)の居館である高衡館たかひらだては、この辺りにあったのかもしれない。






柳之御所やなぎのごしょ遺跡
柳之御所遺跡世界遺産への追加登録を目指している遺跡。奥州藤原氏の政庁である「平泉館ひらいずみのたち」があった場所と比定されている。長らく、北上川に削られ失われたと考えられてきたが、国道4号線のバイパス工事で出土。遺跡の重要性を鑑みて保存が決定し、バイパスの方がルートを変更した。現在、史跡公園として整備が進んでいる。おびただしい数の出土品があり、それらは史跡公園に隣接する柳之御所資料館に収蔵されている。ちなみに、柳之御所という名称は、「幕府」と同じ意味の言葉「柳営りゅうえい」から取られたものという説がある。


高館義経堂たかだちぎけいどう
高館義経堂源義経の居館「高館」があった場所で、義経終焉の地とされている。義経の木像と、義経主従の慰霊塔がある。ただ、義経が襲撃されたのは藤原基成の居館「衣河館ころもがわのたち」とあり、衣河館は高館義経堂があった場所とは全く異なる場所にあったとされているので、この地が義経のいた場所であるという確証はない。北上川を見下ろし、束稲山を望む眺望は素晴らしい。

追記(2018.6.26):「衣河館」は、別に挙げている衣川を挟んで平泉の対岸、旧衣川村にある「接待館遺跡」だという説が大勢である。


卯の花清水うのはなしみず
卯の花清水高館義経堂たかだちぎけいどうの北側の入口近くにある湧水。松尾芭蕉と共に旅をした曽良が、源義経の老臣、十郎権頭兼房を偲んで詠んだ「卯の花に兼房見ゆる白毛かな」という句にちなんで名づけられた。残念ながら1993年(平成5年)の道路拡張工事の後、湧水は枯れてしまったが、曽良の句碑がある。




熊野三社くまのさんじゃ
熊野三社中央、東、南、西、北にあったという平泉の鎮守社のうち、北には今熊野と稲荷等社があったとされているが、この熊野三社がその今熊野であったとされている。熊野蔵王権現を祀り、子守社、勝手社という末社もあったという。ただし、元の熊野社が野火で焼失した安土桃山時代の1571年に花立山に移され、その後1891年(明治24年)に現在の平泉文化遺産センターのある場所に移され、さらに1954年(昭和29年)に現在の地に移された。焼失の際に持ち出された十一面観音掛仏は同社の宝物として保管されている。

追記(2018.6.26):「熊野三社」とはてっきり「本家」同様、熊野本宮、熊野新宮、熊野那智のことだと思っていたのだが、そうではなく、上で紹介した子守社、勝手社の末社が合祀されて「熊野三社」となったとのことである。


花立廃寺はなだてはいじ
花立廃寺跡金鶏山きんけいさんの東、平泉文化遺産センターに隣接している。礎石などが出土しており、ここに寺社があったことが窺える。平泉にあった中央、東、南、西、北の鎮守のうち、中央の惣社がこの花立廃寺だったのではないかという説がある。今は芝生の公園となっている。

追記(2018.6.26):確かにこの花立廃寺が惣社だという説もあるのだが、それよりもまず、ここは西の鎮守の一つである金峯山社の跡であるという説の方が強い。なお、文化庁の表記は「花館廃寺」だが、地元での表記や学会論文での表記はほとんどが「花立廃寺」なので、ここでは「花立廃寺」と記載する。

追記(2018.7.23):「平泉の鎮守社を探せ!」で書いたが、花立廃寺跡は、当ブログでは「西方鎮守」ではなく「北方鎮守」であったという立場を取っている。


平泉文化遺産センター
WP_20180520_15_09_17_Richかつて平泉中学校があった場所。今は見えないが、ここの玄関付近からはかつて礎石跡が出土している。花立廃寺と対をなすほどの規模のもので、五方鎮守のうちの中央惣社の跡でないかとする説もあり、当ブログでもその説を取っている。(2018.6.26追加)







花立溜池

WP_20180520_15_11_44_Rich熊野三社の一段下にある溜池。現在は溜池だが、奥州藤原氏時代には、花立廃寺と関係する浄土庭園だったのではないかとする説がある。(2018.6.26追加)








照井堰てるいぜき
照井堰三代秀衡の家臣としてその名が知られる照井太郎高春(高治とも)が築いたという、総延長64kmにも及ぶ堰。現在も1,000ha以上の水田に用水を供給している他、毛越寺の浄土庭園の大泉が池に注いで、曲水の宴の遣水の水源にもなっている。「疎水百選」に認定されている他、「世界かんがい施設遺産」にも登録されている。

追記(2018.6.26):平泉を歩いていると、そこかしこで「照井堰」に出くわして、その度に「ここもそうか」と驚かされる。












金鶏山きんけいさん
金鶏山世界遺産の構成遺産の一つ。標高98.6mの円錐形の山で、平泉のランドマーク的存在。三代秀衡が富士山に似せて一晩で築き、山頂に雌雄一対の黄金でできた鶏を埋めて平泉の鎮護としたという伝承や、子孫のために一万の漆の盃に黄金を載せて埋めたという伝承が残る。山頂からは大規模な経塚が発見され、信仰の対象であったことが窺える。5分ほどで山頂まで行ける。平泉にあった中央、東、南、西、北の鎮守のうち、西の鎮守の一WP_20180520_11_10_41_Richつとしてその名が登場する金峯山k(きんぷせんはこの金鶏山のことだとする説がある。また、熊野三社の由緒には「金峯山社はその中央総社なり」という説明がある。なお、金鶏山の読み方について平泉町、平泉観光協会は「きんけいさん」としているが、文化庁は「きんけいざん」としていて統一されていない。

追記(2018.6.26):写真を追加した。読み方については、地元の表記の方を優先させて、ここでは「きんけいさん」とした。


千手院せんじゅいん
千手院金鶏山きんけいさんの入り口近くにある寺院だが、現在は千手観音を祀った千手堂のみが残っている。詳しい由来は不明だが、千手堂内には本尊の千手観音の他、弁財天、「藤原三将軍」(初代清衡、二代基衡、三代秀衡か)の位牌、三代秀衡の木像、愛染明王、不動明王、道祖神が安置されているという。




源義経公妻子の墓
源義経公妻子の墓金鶏山きんけいさんの入り口近くにある。義経は四代泰衡に攻められた折、妻と幼い娘の命を奪った後、自害しているが、ここはその義経の妻子の墓と伝えられている。元は金鶏山の山麓にあったが、その後現在の場所に移されたという。






倉町くらまち遺跡
倉町遺跡毛越寺もうつうじ観自在王院かんじざいおういん跡の向かいにある。伝承の通り、大きな高床式の倉庫跡が出土している。奥大道を通ってくると突如として現れる、左手に浄土庭園と大伽藍を抱える毛越寺や観自在王院を望み、右手に見上げる高さの蔵がずらりと並んでいる光景はさぞや壮観だったことだろう。




道路側溝と塀跡
道路側溝と塀跡毛越寺もうつうじ観自在王院かんじざいおういん跡の前を東西に通る道路の遺構が出土している。幅は20mあり、当時のメインストリートだったとされている。道の両側には側溝が確認されており、ここはその南側の側溝である。同じ場所からは塀跡も出土している。大型の建物を囲んでいた塀とのことである。




稲荷社跡
WP_20180721_11_25_18_Rich_LI中央、東、南、西、北の五方鎮守のうち、西の鎮守である稲荷社があった場所については、「鎮守の稲荷社はどこだ?」で詳しく検討したが、現在のところ毛越地区の公葬地(共同墓地)下にある田地のどこかである可能性が高い。なお、稲荷社は一般に北の鎮守とされているが、当ブログでは西の鎮守であったという説を取っている(詳しくは「平泉の鎮守社を探せ!」を参照)。(2018.7.23追加)


北野天神社
WP_20180520_08_46_00_Rich中央、東、南、西、北の五方鎮守のうち、毛越寺の西、毛越けごし地区にあるこの北野天神社は、西の鎮守の一つとして挙げられている「北野天神」である。
案内板などがなく分かりづらいが、奥州藤原氏の時代からずっとこの地に祀られてきたようである。(2018.6.26追加)




照井道てるいのみち
WP_20180520_08_41_08_Rich北野天神社から白山社につながる小径を、地元の人たちは「照井道」と呼んでいるそうである。その名の通り、道の脇には「照井堰」が流れている。(2018.6.26追加)








白山社はくさんしゃ
WP_20180520_08_39_33_Rich北野天神社から「照井道」を辿っていくとすぐある。
白山妙理堂、中尊寺境内の白山神社、長島地区の白山神社以外にもこうしてひっそりと白山社があるところに、平泉における白山の影響力を窺い知ることができる。(2018.6.26追加)





自性院じしょういん
自性院奥州藤原氏時代にこの地にあって観音霊場として栄えた智覚院はその後、江戸時代初期に廃絶したが、1888年(明治21年)になって江刺の自性院をこの地に移すという形で再建された。聖観音を本尊とする。






伝勅使館でんちょくしたて
伝勅使○伊豆権現堂いずごんげんどう近くの空き地に、「伝勅使○」と書かれた木の柱が立っていた。○は文字が薄れて判読不能。勅使と来たら「館」か。勅使と聞いて思い起こすのは、源義経が兄頼朝に追われて平泉に逃れた後、三代秀衡は朝廷からの勅使を勅使館に招いて饗応し、館の外に一歩も出さずに帰したという話である。ここがその勅使館であれば、平泉の中心部からも離れ、確かに勅使は平泉の様子を少しも観察することができなかったに違いない。

追記(2018.6.26):平泉町立図書館で文献を調べたところ、「勅使館跡」の表記を見つけることができたので、伏字を「館」に替えた。


伊豆権現堂いずごんげんどう
伊豆権現堂三代秀衡が伊豆から勧請したと伝わる。伊豆権現と十一面観音を安置する。急な石段を2分くらい登ると本殿がある。入り口の説明には「高台からの眺めは素晴らしい」とあるが、実際には木々に囲まれて眺望は限定的である。






稲荷社
WP_20180615_16_27_26_Rich伊豆権現堂近くの宝積院という寺院の中にある稲荷社。五方鎮守のうちの北の鎮守の稲荷社か!と思いきや、この稲荷社が勧請されたのは江戸時代の文化文政年間とのことで、残念ながら無関係のようである。昔、北上川の洪水の折に流れ着いた観音も祀っているそうで、それにちなんで寄水観音堂と名付けられ、西磐井三十三観音霊場の一つともなっている。(2018.6.26追加)



鬘石かつらいし
鬘石奥州藤原氏とは直接関係のない遺跡。昔、この地方を治めていた悪路王あくろおうは、美しい娘がいると聞くとさらってきていたという。逃げ出した娘はすぐに捕まり、見せしめとして首を切り落とされ、太田川に流され、その首が下流のこの大きな岩に流れつき髪の毛を絡ませたということから、この巨石を「かつら石」と呼ぶようになったと言われている。



姫待瀧ひめまちのたき
姫待瀧奥州藤原氏とは直接関係のない遺跡。この地方を治めていたという悪路王あくろおうが、さらってきた姫が逃げ出した際、この滝で姫を待ち伏せしたと伝わっている場所である。







達谷伏見稲荷たっこくふしみいなり
WP_20180520_09_23_52_Rich平泉から達谷窟に向かう途中にある稲荷神社。追って別稿にて紹介するが、昭和に入ってから勧請された新しい稲荷神社だそうで、残念ながら奥州藤原氏時代の五方鎮守の一つ、北の鎮守の稲荷社とは無関係のようである。
なお、入口が極めて分かりづらい。(2018.6.26追加)




達谷窟たっこくのいわや
達谷窟世界遺産への追加登録を目指している遺跡。悪路王あくろおうが住んでいたという伝承がある。悪路王は一説には坂上田村麻呂と戦った蝦夷の首領阿弖流為あてるいのことだとする見方がある。悪路王を討った後、悪路王が籠った窟屋に田村麻呂が清水寺を模してこの毘沙門堂を建立したと伝わる。浄土庭園の跡が出土しており、平泉遺跡との関連も指摘されている。源義家が彫ったという北限の磨崖仏がある。初代清衡と二代目基衡が七堂伽藍を建立、基衡は薬師如来を奉納したという。


八坂神社やさかじんじゃ
八坂神社平泉には、中央、東、南、西、北に鎮守社があったとされており、南の鎮守として、祇園社と王子諸社が勧請されたとある。祇園地区にあるこの八坂神社が当時の祇園社であったと伝わる。南北朝時代に修験の僧都、良珍が再興を図り、江戸時代まで祇園宮と称されたが、明治8年に八坂神社と改称された。





王子社跡おうじしゃあと
WP_20180520_09_44_32_Rich上記八坂神社の国道4号線を挟んで向かいにある路地を50mほど入ったところにある。五方鎮守の一つ、南の鎮守の「王子諸社」の跡とされる。現在は小さな祠が2つ残っているだけであるが、祠の中には木造の神像が祀られている。(2018.6.26追加)





日吉神社ひよしじんじゃ
WP_20180520_10_18_00_Rich南の鎮守である八坂神社、王子社跡よりもさらに南の大佐地区にある。「藤原朝臣清衡公時代、五方鎮守の一社とし、南方の守護神として嘉祥年中滋賀県滋賀郡坂本に鎮座する本宮より分祠し、現在地に奉鎮せるものである」との伝承が残っている。なお、嘉祥は848〜851年で清衡の時代と合わないので、嘉保(1094〜1095年)か嘉承(1106〜1107年)の誤りだと思われる。五方鎮守のうち、東の鎮守の一つである日吉社が何らかの理由でここに移された可能性がある。
別当である木村氏宅を通らないと行けないので、必ず一声掛けてから参拝すること。どちらにせよ、行き方を教えていただかないとまず行けない。(2018.6.26追加)


武蔵坊弁慶大墓碑
武蔵坊弁慶大墓碑中尊寺の入口付近にある、源義経の忠臣、武蔵坊弁慶の墓と伝わる場所。中尊寺の僧素鳥が詠んだ「色かえぬ 松のあるじや 武蔵坊」の句碑があり、その句の通り、大きな松が立っている。







赤堂稲荷大明神あかどういなりだいみょうじん
赤堂稲荷大明神中尊寺がある丘陵にある。旧国道4号線沿いにある大きな鳥居はかなり目立ち、離れている東北本線からもよく見える。しかし、縁起に関する説明がないので詳しい成り立ちは不明。鳥居をくぐって急な階段を登っていくとまず拝殿があり、さらに登るとその名の通り、朱塗りの本殿がある。中央、東、南、西、北にあった平泉の鎮守社のうち、北には今熊野と稲荷等社があったとあるが、この赤堂稲荷大明神がその稲荷等社なのかどうかは不明。

追記(2018.6.26):稲荷社については別稿で論じる予定だが、中尊寺に尋ねたところ、この赤堂稲荷大明神の前身とされる「閼伽堂あかどう」の存在は中世まで遡れるものの、現在の赤堂稲荷大明神自身は明治4年の建立とのことで、どうやら北の鎮守の稲荷社とは無関係のようである。


中尊寺ちゅうそんじ
中尊寺世界遺産の構成遺産の一つ。初代清衡が建立した寺院。清衡が整備した、東北の北端外ヶ浜(青森市)と南端白河関(福島県白河市)を結ぶ幹線道路、奥大道おくだいどうのちょうど中間地点に建っている。中尊寺建立供養願文には、戦乱で多くの人が亡くなった東北をそのままこの世の浄土としたいという清衡の思いが示されている。清衡が安置したという「丈六皆金色の釈迦如来」と同じ本尊が、2013年(平成25年)に現在の本堂に安置された。


金色堂こんじきどう
金色堂中尊寺ちゅうそんじの中にある、唯一無二の皆金色の阿弥陀堂。日本の国宝第一号だった。皆金色は仏の住む浄土を表したもので、全面に金箔が押された以外にも、南洋の夜光貝を用いた螺鈿細工、象牙や宝石による装飾など、当時の芸術工芸の粋を極めた造形が施されている。初代清衡、二代基衡、三代秀衡の遺体と、四代泰衡の首級が収められ、葬堂としての性格も持つ。四代に亘る遺体がそのまま保存されている例は世界的にも極めて珍しいとされる。


白山神社はくさんじんじゃ
白山神社中尊寺ちゅうそんじの開祖と伝わる慈覚大師が加賀の白山から勧請したという、中尊寺の敷地内にある神社。境内にある能楽堂は国の重要文化財に指定されている。現在も薪能などが奉納されている。







源義経衣川古戦場碑
WP_20180520_15_37_46_Rich平泉文化史館の敷地内にある、衣川の合戦の場所を伝える碑。ただ、義経の居館が高館にあるという前提での比定地であるので、実際にはここではない可能性が高い。建物の中からは「弁慶立往生跡」も見える。(2018.6.26追加)






接待館せったいだて
接待館跡中尊寺の対岸の衣川沿いにある。三代秀衡の母親がここで道行く旅人をもてなしたという伝承があり、この名がある。かなり大規模な邸宅跡が出土しており、柳之御所やなぎのごしょ遺跡と同様に大量のかわらけなども出土していることから、柳之御所と同等の重要な施設であったことが窺える。三代秀衡の正妻の父で、京の摂関家藤原氏に連なる藤原基成の居館「衣河舘ころもがわのたち」の跡ではないかという説もある。写真中央右寄りに見えるのが月山である。


衣の関道ころものせきみち
衣の関道初代清衡が北は外が浜(青森市)から南は白河関(福島県白河市)まで整備した当時の「東北縦貫道」である奥大道おくだいどうは、平泉では中尊寺の境内を通すようにしていた。これに伴って、衣河関ころもがわのせきも安倍氏時代に難攻不落と言われた場所から、中尊寺の北側で衣川を渡る手前に移されたという。その新しい衣川関から衣川を越えて北上する道の通称が衣の関道だとされる。


七日市場なぬかいちば
七日市場跡その名の通り、奥州藤原氏の時代に毎月七日、十七日、二十七日と七のつく日に市が立ったという伝承がある地。平泉の市街地内で最も繁昌した市場になったという。







神明神社しんめいじんじゃ関の神明せきのしんめい
神明神社(関の神明)初代清衡が七日市場なぬかいちば地区内の衣の関道ころものせきみちわきに伊勢大神宮を勧請し、神明神社として地区民の信仰を集めたという。衣川関の近くにあったことから「関の神明」と称された。ただ、清衡は平泉開府に当たり、天皇家の祭神である伊勢、摂関家藤原氏の祭神である春日、鎮護国家の軍神で源氏の祭神でもある八幡、蝦夷征伐の神として祭られてきた鹿島・香取などを注意深く排除し、一切勧請していないため、その清衡が伊勢大神宮を勧請したという伝承については疑問を感じる。


渕端諏訪大明神社ふちはたすわだいみょうじんしゃ旗鉾神社はたほこじんじゃ
渕端諏訪大明神社(旗鉾神社)かつてこの地を本拠とした安倍氏の棟梁、安倍頼時が兵器を祀って鎮護の神と崇めたという。その後、この地に住んだ三代秀衡の三男忠衡が再興し、自身の守り本尊である魚籃観音を祀ったと言われている。






並木屋敷なみきやしき
並木屋敷奥州藤原氏とは直接関係がないが、その前の時代にここ衣川を本拠とした安倍頼時が政庁を構えたとされる場所。安倍氏を滅ぼしてその後陸奥、出羽を治めた清原氏も三代に亘ってこの地を政庁、もしくは居館としたと伝えられている。清原氏の時代には衣川柵ころもがわのさくと呼ばれていた。





泉三郎忠衡供養塔
泉三郎忠衡供養塔泉ヶ城いずみがじょうのある土地の高台にある三代秀衡の三男忠衡の供養塔。現在この地に住んでいる葛西さんが個人で建てた。供養塔のある一帯は葛西さんの私有地である。







泉ヶ城いずみがじょう
泉ヶ城三代秀衡の三男忠衡の居館だったと伝わる。平泉の北端に位置し、南端の国衡館くにひらだて高衡館たかひらだてと共に、平泉への関門となっていたと考えられる。衣川に囲まれた天然の要害で、現在も狭い橋が一本あるだけなので、車では行きにくい。橋を渡って少し行ったところに、「泉ヶ城」と刻まれたこの地に住む葛西さんが建てた小さな石碑がある。なお、忠衡の実際の居館については、柳之御所の南の泉屋いずみや遺跡の辺りとする説もある。


琵琶館びわだて成道舘なりみちだて
琵琶館(成道舘)跡奥州藤原氏とは直接関係がないが、その前の時代にこの地を治めた安倍氏の棟梁貞任の庶兄成道の居館だったとされる場所。衣川が琵琶の形に流れているのでこの名があるという。







小松館こまつだて
小松館跡奥州藤原氏とは直接関係がないが、安倍氏の棟梁貞任の叔父の僧、良照の居館であったと伝えられる場所。前九年の役の際、ここで源頼義と清原武則の連合軍を迎え撃ったとされる。







衣河関ころもがわのせき
衣河関跡奥州藤原氏よりも前の安倍氏の時代に、蝦夷の領域と朝廷の領域との境にあった関所である衣河関があった地とされる。眼前を流れる衣川の両岸が断崖絶壁となっており、「封じれば誰も破ることができない」と言われた天然の要害。現在はその上を、橋を渡して東北自動車道が通っている。奥州藤原氏の時代にはこの衣河関はここから東の中尊寺ちゅうそんじ寄りに移された。


荒沢神社あらさわじんじゃ
荒沢神社月山神社がっさんじんじゃの参道の入り口付近にある神社。月山神社はかつて女人禁制だったが、この荒沢神社は女性も参拝できたという。








月山神社がっさんじんじゃ
月山神社衣川を挟んで中尊寺ちゅうそんじの対岸にある円錐形の山、月山の山頂にある神社。かつては中尊寺の奥の院として大いに栄えたという。山頂に着いて鳥居の正面に目に入るのは拝殿であるが、実はその裏にさらに本殿がある。月山の山頂に向かうルートは、東側の麓にある三峯神社みつみねじんじゃから登る道と、北側の麓にある月山神社の鳥居をくぐって登る道の2つがあるが、どちらも山頂までは10分ほどで行けWP_20180520_15_57_54_Richる。三峯神社から登る道の途中には、風光明媚なスポットがある。

追記(2018.6.26):写真を追加した。








和我叡登挙神社わかえとのじんじゃ
和我叡登挙神社月山の山頂にある月山神社がっさんじんじゃの拝殿の奥にある本殿の前に何気なく巨石があるが、それが実は和我叡登挙神社である。東北の土着の神と言われる荒覇吐あらはばき荒吐あらばきとも)の神を祀っている。東北で拝殿を持たない巨石を祀った神社は概ね荒覇吐神を祀ったものであるが、中尊寺の奥の院として栄えた月山神社と同じ敷地に荒覇吐神を祀った神社があるのは興味深い。奥州藤原氏の仏教文化が実は東北古来の神とも結びついていた証左とも取れる。


三峯神社みつみねじんじゃ
三峯神社月山の麓にある神社。源頼義、義家が前九年の役で安倍氏に苦戦していた折、日本武尊が東夷征討に際して武州三峰山に登って諾冊二尊を奉祀したという故事にあやかって陣中で諾冊二尊を奉祀し、安倍氏を討った後に祠を立てたという。江戸時代の享保元年に埼玉の秩父にある三峰神社から改めて分霊が勧請された。




館跡たてあと
館跡奥州藤原氏とは直接関係がないが、奥州藤原氏の前にこの地を治めていた安倍頼時とその子貞任の居館跡と伝えられている。以前は上衣川にある「安倍館あべたて」を本拠としていたが、頼時の代にこの地に本拠を移したという。






長者ヶ原廃寺ちょうじゃがはらはいじ
長者ヶ原廃寺跡世界遺産への追加登録を目指している遺跡。源義経を奥州藤原氏の下に案内した金売り吉次の邸宅跡という伝承があり、「長者ヶ原」の名があるが、発掘調査の結果、寺院跡であることが判明した。奥州藤原氏の時代には既に廃寺となっていたと考えられており、奥州藤原氏よりも前にこの地域を支配した安倍氏に関連した寺院とされている。ただ、この場所から見る夕日は春と秋の彼岸の日にはちょうど月山山頂に沈むと言い、後の無量光院むりょうこういんの意匠の参考にされた可能性がある。


室の樹跡むろのきあと
WP_20180520_16_35_42_Rich奥州藤原氏(秀衡、あるいは秀衡の母親とも)が御室御所みむろごしょの庭木をこの地に移し替えて庭園を造ったため、この名で呼ばれている。
平泉に逃れてきた源義経主従がここにあった屋敷に居住したという伝承もある。
今は春の桜がきれいである。(2018.6.27追加)






九輪搭くりんとう
九輪搭跡初代清衡が母方の祖父であり、かつてこの地を治めた安倍頼時を供養するために九輪塔を建てたと伝わる地。この一帯は今も九輪堂という地名である。清衡は九輪塔の周辺を園地として整備し、大きな池と2つの築山をつくったとされる。残念ながらそれらは現在は失われているが、地元の人が築いた安倍一族の鎮魂碑がある。



瀬原古戦場せはらこせんじょう
瀬原古戦場跡奥州藤原氏とは直接関係がないが、安倍氏が源氏と戦った前九年の役の際、安倍氏がこの地で、対する源氏をあえて本陣におびき寄せる作戦を立てて源氏に大損害を与えたと伝えられる古戦場である。







向館むかいだて
WP_20180520_16_48_26_Pro奥州藤原氏とは直接関係ないが、安倍氏の一族で前九年の役の折に安倍氏を裏切った安倍富忠の屋敷跡と伝えられる。(2018.6.26追加)









北館遺跡きただていせき
WP_20180520_17_02_23_Rich奥州藤原氏とは直接関係がないが、その前の安倍氏一族の居館の一つと伝えられる。西暦1300年頃に南蘇坊なんそぼうという行脚僧が植えたと伝わる一本桜は今も毎春見事な花を咲かせる。(2018.6.26追加)







月山神社
WP_20180722_16_31_49_Rich_LI奥州市前沢区生母にある、奥州市衣川区の月山神社とは別の月山神社。四代泰衡の妻が、非業の死を遂げた夫を弔うために、羽黒派修験者の法印継清に命じて勧請させたという伝承が残る。元々経塚山にあったが、1878年(明治10年)に現在の地に遷座したという。元の神社は「奥の院」として今も京塚山に残る。(2018.7.23追加)



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2012年09月12日

東北の歴史のミステリーその29〜骨寺村は平泉の「浄土」の原型か

120825-121645 新聞報道によると、世界遺産に登録された「平泉の文化遺産」への追加登録を目指す5つの遺産が、日本がユネスコの世界遺産委員会に提出する登録候補一覧表、いわゆる「暫定リスト」に記載されることが決まったという。その後、推薦書を作成・提出して世界遺産委員会の判断を待つ、という手順を踏むことになるらしい(岩手日報記事毎日新聞記事)。

 今回追加登録を目指す5つの遺産とは、前回平泉の文化遺産が世界遺産に登録された際に除外された柳之御所遺跡達谷窟(たっこくのいわや)、白鳥舘遺跡長者ヶ原廃寺跡骨寺村(ほねでらむら)荘園遺跡である。これらが除外された経緯については以前触れたが、要は「仏国土(浄土)を表す建築・庭園および考古学的遺跡群」としての関連が薄いと見なされたということである。すなわち、これらの遺跡は今回の登録で最も重要な要素である「浄土」を表すものとは解釈されなかったということである。

 その時も書いたが、これら5つの遺産全部が「浄土」という観点から追加登録されるのは現実的には難しい、と私は考えている。日本側の関係者は、仏教徒でないイコモス(ユネスコの諮問機関)の委員に「浄土」を理解してもらうのは難しいということを口にするが、中尊寺、毛越寺、観自在王院跡、無量光院跡、金鶏山が世界遺産に登録されたという事実を見る限り、イコモスの委員はかなり的確に「浄土」というものを表す文化遺産を捉えてくれている、と言える。認められた5つは誰が見ても浄土との関わりが明らかである。

 これに対して、追加登録を目指す5つの遺産は必ずしもそうではない。と言うか、遺産によって「浄土」との関わりには濃淡があるように見える。柳之御所遺跡は奥州藤原氏の居館だったとされるが、現段階では少なくとも「浄土」との関わりが密接とは言えない。もっと厳しいのは白鳥舘遺跡で、安倍一族の白鳥八郎則任の居館跡がなぜ構成遺産となるのか、私にもよく分からない。白鳥舘遺跡が構成遺産に含まれていたのは、登録延期となった「平泉−浄土思想を基調とする文化的景観−」の段階だが、その白鳥舘遺跡の箇所を読んでも浄土との関わりがやはり分からない。

 一方、達谷窟は発掘調査の結果、かつて浄土庭園があったことが判明しているのだが、肝心の平泉の文化遺産を遺した奥州藤原氏との関連が弱い。一説には奥州藤原氏初代清衡と二代基衡が七堂伽藍を建立した、とも言われるが、その面からの関連性をさらに追求する必要があるのではないだろうか。長者ヶ原廃寺跡に関しては以前も触れたが、浄土庭園はないものの、ここから見える夕陽は春と秋の2回、初代清衡が造営した中尊寺の「奥の院」と伝えられる霊峰月山の山頂に沈むことが分かっている。この意匠が後の、三代秀衡が建立した、やはり春と秋の2回金鶏山に沈む夕陽が見られる無量光院にも引き継がれたとも考えられるので、その面からの関連を追求するのがよいのではないだろうか。

 さて、残る一つが骨寺村荘園遺跡である。これは平泉の中心部から西に約12劼里箸海蹐琉豐愡塰椹地区にある中世の荘園の遺跡である(上写真参照)。中尊寺の経蔵別当の領地であり、中尊寺に残る絵図や文書によって確認できる中世の荘園が、現在もその形を留めているという遺跡で、国内でも貴重なものだそうである。現在国宝となっている、紺の紙に一行毎に金字と銀字で書き分けながら全ての仏典を書写した「紺紙金銀字交書一切経」は、奥州藤原氏初代の清衡が発願し、自在房蓮光という僧が統括し、8年の歳月を掛けて完成させたものだが、その功績によって蓮光は清衡によって中尊寺の経蔵別当に任ぜられ、骨寺村を知行したということである。

 現在史跡に指定されている山王窟(さんのうのいわや)、白山社、伝ミタケ堂跡、若神子社(わかみこしゃ)、不動窟(ふどうのいわや)、慈恵塚(じえづか)、大師堂などは、いずれも中世の絵図にもその位置と名称が描かれており、その遺跡としての価値に疑いはない。ただし、やはり今回のこの世界遺産に登録された平泉の文化遺産との関わりについては、もちろん中尊寺との関係は密接であるものの、肝心の「浄土」との関わりについてはそれほど深くないのではないか、そう考えていた。

 しかし今回、実際に現地を訪れ、地元のガイドの方にお話をお聞きしたところ、立派に(?)浄土との関連がありそうだということが分かった。関連があるどころか、むしろ浄土の原型はこちらだったのではないか、という印象すら持った。以下にそうした骨寺村荘園遺跡の特徴を紹介してみたい。

konoatari この骨寺村、つまり現在の本寺地区のある地域の地形だが、南に磐井川、北に本寺川が流れ、周囲を山に囲まれた平地である。この本寺地区の西方には平泉野(へいせんの)という頂上付近が平らになった小高い台地状の地形がある(左写真の赤字の辺り)。まずこの地名だが、いつ頃からそのように呼ばれていたのかは不明だが、「平泉」の文字が使われており、嫌でも平泉との関連を類推せざるを得ない。そして、江戸時代の安永年間に書かれた「風土記御用書出(ふどきごようかきだし)」という書物には、当時の地元の古老から聞いた話として、なんと、この平泉野には平泉の中尊寺と毛越寺の前身となる寺院があった、という内容の記述があるというのである。

 そこでなるほど、と思ったのは、これら中尊寺と毛越寺の由来についてである。中尊寺の寺伝では、中尊寺は嘉祥三年(850年)に慈覚大師円仁が開山したとされているのだが、一方で中尊寺は藤原清衡が平泉を本拠と定める際に最初に建立した寺として知られているのである。また、毛越寺も中尊寺と同じ年にやはり円仁が開山したと伝えられているが、実際には藤原基衡及びその子秀衡が建立している。現代の発掘調査などの結果からは円仁の開山は裏付けられてはおらず(すなわち平安時代前期の遺構が出土していない)、この、中尊寺や毛越寺に関する、寺伝と吾妻鏡などに残る開基の記録との間の相違をどう解釈するべきか、というのが私の中ではちょっとした疑問だったのである。実際、円仁開山の記録を単なる伝承と捉える見方も少なからず存在していたのである。

 この点に関して、この骨寺村に残る伝承の通りに、中尊寺や毛越寺が元は平泉ではない別のところに円仁が開山した寺院として存在して、それを清衡や基衡が移転させて平泉の地に新たに大伽藍を建立した、と仮定すれば、円仁開山と奥州藤原氏開基の間の齟齬はなくなる。すなわち、現在の場所の発掘調査をして円仁開山の証拠が出てこないとしても、それは元々別の場所にあったのであるから当然のことである。

 ちなみに、この「骨寺村」というちょっとインパクトのある地名の由来だが、慈恵塚に名を残す慈恵大師良源の遺骨が祀られてあるから(発掘調査の結果から慈恵塚からは遺骨は発見されなかったそうであるが)とか、合戦で命を落とした兵の遺骨を埋めた地であるからといった説がある。この「骨寺」がその後「本寺」に変わったのだが、この「本寺」の意味は先に紹介した、中尊寺や毛越寺の元となった寺があったことに由来する、との説もあるのである。

 他に、江戸時代の紀行家菅江真澄も、平泉野について、「大日山中尊寺」の跡があると記している他、このあたりにあった寺院を鳥羽院の治世の頃に関山に遷したということで、そちらも平泉の里になったと記している。この記載からは、現在関山中尊寺として知られる中尊寺は、平泉野にあった頃は大日山中尊寺と号されていたこと、その後移転されたのは鳥羽院の頃だということがわかるが、この移転の時期は以前紹介した有名な中尊寺建立供養願文に残る年代と一致している。

 もう一つ重要な点がある。骨寺村からは西方に中世の頃から霊峰として知られる栗駒山を望めるが、なんと、春と秋の彼岸の中日、骨寺村からは栗駒山の山頂に沈む夕陽が見られるのだそうである。これには長者ヶ原廃寺跡、無量光院跡と同様、この地の浄土との関わりを感じずにはいられない。

 これまで見てきたように、骨寺村は中世の荘園の様子が今も残る貴重な遺跡であるが、決してそれだけではない。「浄土」をキーワードとして平泉の文化遺産との関わりがあると考えられるのである。骨寺村に関しても、荘園遺跡ということよりも、こうした「浄土」との関連から追加登録を目指すのがよいのではないかと思うのである。そのためには平泉野における発掘調査が鍵となる。現在までのところ、まだ平泉野から平泉前史を窺わせる出土はないようであるが、今後に期待したいところである。


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2012年07月26日

私的東北論その35〜平泉を草創した藤原清衡の願いとは(「東北復興」紙への寄稿原稿)

イメージ 2 7月16日に砂越豊さんの作る電子タブロイド紙「東北復興」の第2号が発刊された。今回の号では砂越さんの石巻復興に関する渾身の取材記事が読める。げんさんの論考も大変参考になる。ぜひご一読をオススメしたい。

 その第2号に寄せた私の拙文が以下である。






 


平泉を草創した藤原清衡の願いとは

世界遺産となった平泉の意味するところとは
 前回、「東北独立」を掲げて東北が一つとなること、東北がひとつになった暁には平泉こそがその中心地にふさわしい、ということを書いた。今回はこの平泉について考えてみたい。

 昨年、平泉にある中尊寺、毛越寺、観自在王院跡、無量光院跡、金鶏山の六つの史跡が世界文化遺産に登録されたことは記憶に新しい。東北では、縄文時代からのブナの森がそのまま残る白神山地が世界自然遺産に登録されているが、世界文化遺産への登録は平泉が初めてである。この「世界遺産効果」で平泉を訪れる観光客の数は大幅に増加しているそうである。

 平泉の文化遺産、登録名は「平泉―仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群」というものである。中尊寺を建立した奥州藤原氏初代の清衡は中尊寺を建立し、二代基衡は毛越寺を建立し、三代秀衡は毛越寺を完成させ、無量光院を建立した。中尊寺の金色堂、毛越寺の浄土庭園、無量光院越しに金鶏山山頂に沈む夕陽、いずれも浄土を表している。

 奥州藤原氏が三代揃って浄土を表す寺院を建立した、その意味するところは何だったのか。そうした寺院を建立することで自身の来世の極楽往生を願ったのだろうか。それとも、浄土はこういうものだということを示す「テーマパーク」のようなものを作りたかったのだろうか。

 世界文化遺産に登録された平泉の六つの構成遺産については、「現世における仏国土(浄土)の空間的な表現を目的として創造された独特の事例である」と説明されている。簡潔かつ的確な表現である。しかし、今に残る構成遺産は、ただ単に「浄土とはこのようなものである」ということを表現しようとしたのにとどまったのではない。奥州藤原氏は初代の清衡以降、この東北の地をそのまま浄土としたいと考えた。その祈りが込められたものこそが、今回世界遺産に登録された建築・庭園・遺跡なのである。

「中尊寺建立供養願文」が語ること
 当時の平泉は「平和」と「平等」の理念を持っており、それは世界各地で戦乱の絶えない現代にも誇れるものだった、と地元では胸を張る。なぜそのようなことが言えるのか。その根拠は今に残された「中尊寺建立供養願文」である。その中では、清衡がなぜ中尊寺を建立しようとしたか、その思いが余すところなく語られている。

 特に印象的なのは「二階の鐘楼一宇」について書かれたくだりである。この鐘楼には大きな鐘が懸けられた。その鐘について供養願文では、「この鐘の音はどこまでも響いていって苦しみを抜いて安楽を与える。それはあまねく皆平等である。官軍の兵と蝦夷の兵が戦で命を落としたことは、昔から今に至るまで幾多のことであった。獣や鳥や魚や貝が人に殺されることも過去から今まで数え切れない。それらの魂はあの世に去ってしまったが、その骨は朽ち、今もなおこの世の塵となっている。鐘の音がこの地を揺り動かす度に、心ならずも命を奪われてしまった者たちの霊を浄土に導かせよう」と書いている。

 ここに清衡の思いが集約されている。敵味方を問わない。それどころか、人であるか人でないかすら問わない。とにかく、自らの生を全うできなかったあらゆる生き物の魂を皆平等に浄土に導きたい、そう言っているのである。なんと壮大な願いであろうか。

中尊寺、奥大道、村々に置かれた寺院の意味
 そして、それが虚言空語に終わらなかったところが清衡のすごいところである。しかも、清衡の願いは、死んだ者を浄土に導くことだけにとどまらなかった。東北の地に今生きている者をも浄土に導こうとしたのである。清衡は東北の南端の白河の関(現在の福島県白河市)から北端の外ヶ浜(現在の青森県青森市)まで「奥大道(おくだいどう)」という「幹線道路」を整備した。そのちょうど 中間 に 中尊寺をつくった。その奥大道には、約一〇〇mおきに阿弥陀如来が金で描かれた傘卒塔婆を立てたと伝えられる。また、清衡の影響下にあった奥羽の一万余りの村にはそれぞれ寺院を置いた。

 余談だが、この「奥大道」という名称。なぜ「大」という名称がついているのだろうか。現代に住む我々は、ただ単に道幅の大きな幹線道路だったからだろうとしか考えない。しかし、ならば同じように「幹線道路」であった東海道や東山道も同じように「大」がついてしかるべきだが、そうなってはいない。「奥大道」のこの「大」は、仏教で「人智を超えた偉大な」という意味の「摩訶(まか)」と同義だという(摩訶不思議の「摩訶」である)。「摩訶」はサンスクリット語の「maha」の音に漢字を当てたもので、「maha」は漢訳では他に「大」「多」「勝」の字も当てられる。従って、「奥大道」は「みちのくの偉大な仏の加護に守られた道」という意味なのである。

 さて、これらはいったい何のためのものであったか。それは、この東北の地が仏の加護の下にあることを、この地に住む人々に伝えたかったのである。東北の地は古くから戦乱に明け暮れた。しかも、それは東北の地に住む者が望んで起こしたものではなく、いつも中央からの「侵略」に対する抵抗という形であった。 故なくして戦に巻き込まれて命を落とす理不尽、それがこの地に住む者にとって過酷な現実であった。

110820-130735「この世の浄土」実現への清衡の取り組み
 清衡自身も過酷な前半生を送っている。幼い頃に前九年の役で父親を殺され、母親は父親を殺した敵方である清原武貞に嫁がされた。その後起こった後三年の役では、母親がその武貞との間に産んだ異父弟家衡に自分の妻子を皆殺しにされ、自らの手でその家衡を討った。戦乱がもたらす無残さを身を以て嫌というほど味わわされたのが、他でもない清衡その人だったのである。

 清衡はだからこそ、過去から今に至るまで、そのようにたくさんの人が命を落としたこの東北の地を、丸ごと浄土にしようと考えた。浄土は来世にあるのではなく、この世から来世まで続いているものだということを、清衡は伝えたかったのである。その清衡の意図を今に伝えるものこそが、平泉の文化遺産なのである。

 清衡は、平泉に中尊寺を建立し、村々に寺院を建立してこの東北の地が浄土であることを示す一方で、東北が戦乱に巻き込まれない浄土とするための政治工作を中央に対して行った。 当時の関白藤原師実の子、師通の日記 に「清衡が初めて関白師実に馬を献上した」との記述がある。 当時、みちのくの馬は名馬として殊の外珍重された。馬だけではなく砂金も献上したと見られる。清衡からの貢物によって中央では、そのように労せずして欲しいものが手に入るのであれば、わざわざ大きな犠牲を払って戦をしなくてもよいのではないか、というように意識が変わっていったのだろう。結果として、清衡はその後もおよそ一〇〇年に亘って中央から攻められることのない、平和な東北を実現したのである。(写真は二代基衡の妻が建立したという観自在王院の浄土庭園)

110820-114954今だからこそ受け止めたい清衡の願いとメッセージ
 阿弥陀如来のいる極楽浄土は、この地から十万億土を隔てた西の果てにあるという。であるならば、極楽浄土というのはなんと遠いところにあるものだろうか。しかし、清衡の伝えたかったことは、そうではなく、「浄土というのは今ここにあるのだ」ということである。自分たちのいるこの場所が浄土だとは、なかなか実感できないことではある。しかし、我々の目に最も近いところにありながら見えないまつ毛のように、浄土も私たちのすぐそばにありながら見えにくいもの、と考えることはできないだろうか。

 そのことを伝えるために中尊寺はつくられ、清衡の遺志を継いだ基衡、秀衡によって毛越寺も無量光院もつくられた。「多くの人が亡くなった東北の地をそのまま浄土とする」という清衡の願いを、そして「我々の住むこの地こそが浄土である」という清衡のメッセージを、先の大震災で大きな痛みを受けた今だからこそ、もう一度東北に住む我々は心して受け止めたいと思うのである。(写真は無量光院跡、 中央遠くに見えるのが金鶏山)


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2011年08月20日

東北で地ビールが飲める店 番外編その15〜全国地ビールフェスティバルin一関

b2e8992f.jpg いやはや、すごい人出である。いや、地ビールフェスではなく平泉のことだが。盛岡まで行く用事があったので、帰りに寄ってみた。やはり世界遺産登録の効果であろうが、夏休み期間ということもあって、人、人、人である。

 しかし、案の定と言うか、人は中尊寺と毛越寺に集中し、それ以外の構成遺産はこれまでの静寂を保っている感じである(笑)。せっかくだから、ツアーもこれら2つだけでなく、他の構成遺産も回ればいいのにと思う。やはり遺跡しかないと案内しづらいのかもしれないが、願わくばぜひこれらの遺跡も巡ってほしものである。

 個人的には、柳之御所遺跡がきれいに整備されているのに驚いた。観自在王院跡も整備されていた。熊野三社には新しい本殿ができていた。白山社の落ち着いた佇まいはこれまで通りだった。改めてじっくり見て回ると、平泉はやはり、何とも言えない、連綿と続く悠久の歴史を感じさせる、東北でも稀有な地であることを実感する。

 さて、地ビールフェスも相変わらずの人出である。今年は、まさか私の昨年のブログを見たわけではないだろうが(笑)、立ち飲みのスペースも設けられた。それでもやはり席は不足気味である。

 まあ、それも無理はないかもしれない。何と言っても、普段飲めない全国各地の地ビールが飲め、地元のおいしい料理も堪能できるのだから。

 今年は過去最高の70社の地ビールが集まった。全国に地ビール醸造所は200社以上あると言われるが、その4割近くのビールが味わえるのである。さすがは全国最大規模の地ビールのイベントである。

 明日の最終日もきっと、多くの人で賑わうことだろう。


追記(2011.9.19):9月23日(金・祝)〜25日(日)の3日間、横浜みなとビアガーデンを会場に、「第1回一関地ビールフェスティバルin横浜」が開催されるそうである。これは、この「全国地ビールフェスティバルin一関」を、初めて一関以外で開催するというイベントだとのことである。フラダンスやジャズのステージがあったり、藤原ヒロユキ氏の地ビールに関する講演会があったり、盛り沢山の内容である。

 東北からは、地元岩手・一関のいわて蔵ビール、秋田のあくらビール、湖畔の杜ビール、宮城の鳴子温泉ブルワリー、福島のみちのく福島路ビールが出展する他、一関産の牛・豚・鶏肉を中心にしたおつまみや東北の地元料理も食べられるそうである。


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2011年07月01日

私的東北論その26〜時を超えて生き続ける清衡の思い

spotphoto_konjikido_01 平泉の「仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群」が、6/25にユネスコ世界遺産委員会の審議の結果、「世界遺産一覧表」に記載されることが決定した。日本の世界遺産暫定一覧表に記載されてからちょうど10年、日本が推薦書を提出した遺産の中で初めて「記載延期」の勧告を受けてから3年(その時書いたブログ)、ようやく関係者の念願が叶ったわけである。

 前回、「平泉―浄土思想を基調とする文化的景観」として提出された推薦書は、「記載延期」の勧告を受けて「平泉―仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群」として再提出された。その過程で以前紹介したように勧告に沿って構成資産を平泉町内にある6つのみに絞り込んだ。世界遺産委員会の審議ではその中の奥州藤原氏の居館跡である柳之御所遺跡も除外した上で「記載」と決定された。前回の「浄土思想を基調とする文化的景観」という名称は何度読み返しても意味がよく分からなかったが、それに比べると今回の「仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群」は言わんとしていることが明確でよい名称だと思う。

 平泉の世界遺産一覧表への記載というニュースを受けて、「震災からの復興に向けて大きな励みになる」といった声や、震災後減少している観光客の増加に対する期待の声も上がっている。ここでは、平泉の遺跡群がそもそも何だったのかについて、改めて考えてみたい。

 以前も紹介した中尊寺建立供養願文」。これは奥州藤原氏初代の藤原清衡の名で書かれているものである。実際には、当代きっての文章家として知られた藤原敦光の手になるものだが、その内容にはもちろん清衡の意向が隅々にまで反映されているとされている。私にとって特に印象的な一節は「二階の鐘樓一宇」について書かれた部分である。ここには「廿釣の洪鐘一口を懸く」とある。大きな鐘を懸けたわけである。その鐘について、

一音の覃(およ)ぶ所千界を限らず。苦しみを抜きて、樂を興へ、普く皆平等なり。官軍と夷虜(いりょ)の死事、古来幾多なり。毛羽鱗介の屠(と)を受くるもの、過現無量なり。精魂は、皆他方の界に去り、朽骨は猶此土(しど)の塵となる。鐘聲の地を動かす毎に、冤霊(えんれい)をして、浄刹(じょうさつ)に導かしめん。

と書かれている。

 「この鐘の音は、どこまでも響いていって、苦しみを抜いて楽を与える」、そしてそれは「あまねく皆平等である」、とある。「官軍の兵と蝦夷の兵が戦で命を落としたことは昔から幾多もあった。獣や鳥や魚や貝といった生き物が人間に殺されてきたことも過去から現在に至るまで数え切れない。それらの魂はあの世に去ってしまったが、その骨は朽ち、今もこの世の塵となっている。この鐘が響く度に、心ならずも命を奪われてしまった者たちの霊を浄土に導かせよう」、そのようなことが書いてある。死んだ者たちの敵味方は問わない。それだけではない。人間かそうでないかも問わない。とにかく、自分の生を全うできなかったあらゆる生き物の霊を、皆平等に浄土に導きたい、そのような思いが綴られている。

 供養願文の最後も、法皇や天皇を讃えた上で、次のような文章で締め括られている。

弟子の生涯、久しく恩徳の海に浴し、身後必ず安養の郷(くに)に詣(いた)らん。乃至鐵圍(てっち)砂界、胎卵濕化(たいらんしつけ)、善根の覃ぶ所、勝利無量ならん。

 弟子(ていし)というのは、清衡自身のことであるが、清衡自身は法皇や天皇のお陰で死後必ず浄土に至るだろうとまず書いている。それだけではない。自分だけではなく、世界中のすべての生き物にもそうした善根が及ぶ、それは量り切れないくらいだと書いている。つまり、自分だけ極楽往生するのではなく、ありとあらゆる生き物もそれは一緒だと言っているのである。朝廷の御願寺という位置づけの中尊寺の落慶供養願文で天皇や法皇への感謝を述べるのは普通のことだろうが、こうした目上の人だけでなく、清衡の周りにいる、朝廷からはおよそ人間扱いすらされてこなかったような蝦夷、そして人間だけでなくすべての生き物、そうした者への眼差しを持っていた清衡という人間の大きさを感じずにはいられない。

 しかもである。清衡のこの、全ての生き物を極楽浄土に、という思いは、決して絵空事に終わったのではない。清衡はまず東北の入り口である白河の関から東北の最北端である外ヶ浜に至る道(奥大道)の真ん中に中尊寺を置いた。そこには、浄土の象徴とも言うべき金色堂が輝き、中尊寺を中間点として東北を貫くその道の約100mおきには金で描かれた阿弥陀如来の笠卒塔婆が配置されていたという。また、清衡の勢力下にあった陸奥出羽両国には、一万余もの村があったが、清衡はその一つひとつの村に寺を建てたとの記述が、吾妻鏡にある。「中尊寺落慶供養願文」で高らかに宣言した、この東北を浄土とするための具体的なアクションを清衡は実際に起こしていたということである。しかもそれは、死んだ後の浄土というだけではなく今生きているこの地を浄土とする(此土浄土)という壮大な取り組みであったということに留意すべきである。

 今回の世界遺産一覧表への記載で、平泉を訪れる観光客は確かに地元の期待通り増えるだろう。しかし、中尊寺金色堂や毛越寺浄土庭園を見ただけでは、こうした清衡の東北全体を浄土とするというスケールの大きな取り組みの全貌は見えてこない。その象徴としての、その極々一部分としての、構成遺産なのである。以前も書いたが、何度でも強調したいと思う。そこの部分こそを一生懸命理解していただく努力をしなければ、訪れる人の平泉への理解は極めて一面的なものとなり、金色堂を見て「なんだこんなものか」とがっかりし、「二度は見なくてもよい」という感想を残して去っていってしまう、そのような結果にならないとも限らない。

 冒頭で触れた「仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群」という名称がよいと書いたのもそういうことである。清衡が目指した、この地域すべてを浄土としようとしたその取り組みのうち、現在まで建築・庭園あるいは遺跡として残っているものが、今回世界遺産となった、それが直接的に伝わるよい名称だと思う。平泉を訪れる人にはどうか、そのような視野で以て金色堂の輝き、浄土庭園の優美を鑑賞していただきたいものと切に願う。

 そうそう、藤原清衡のすごさについては、ここで私が何万言費やすよりもはるかに説得力を持って先達の方々が極めて的確にご指摘されている。中でも、「みちのく中央総合博物館市民会議」のサイトにある、「中尊寺落慶供養願文」についての佐々木邦世氏と高橋富雄氏の講演録はオススメである。

 藤原清衡の前半生は悲劇としかいいようのないものだった。前九年の役では父親である藤原経清を殺され、母親は父親を殺した相手である清原氏に嫁がされた。そのお陰で清衡自身も命は助けられるが、その後起こった後三年の役では母親が生んだ異父弟の家衡に妻子を殺され、その家衡を自らの手で討たざるを得なかった。そうした修羅場をくぐり抜けての後半生である。決して順風満帆に育った金持ちのボンボンが自らの権勢を誇るために思いつきで作ったというようなものではない。自らもこれ以上ない悲劇を体験した戦乱。その戦乱で多くの人が亡くなった東北の地をそのまま浄土とする、それが清衡の宿願だったわけである。

 その清衡の思いは、未曽有の大震災でやはり多くの人が亡くなった今の東北にも通じている。今、このタイミングで平泉が世界遺産となったのも決して偶然ではないように思う。今も金色堂にいる清衡からのメッセージが、力強く発せられているように思えてならないのである。清衡の思いは800年の時を超え、今も生きている、そう思えるのである。

 ― 我々が住んでいるこの地こそが浄土である ―

 このような時だからこそ、その清衡の思いに東北に住む我々も再度思いを馳せたいと思うのである(写真は中尊寺のサイトより)。


追記(2011.9.16):「中尊寺建立供養願文」は「中尊寺落慶供養願文」とも称されるが、ここでは中尊寺の表記の方を尊重して「中尊寺建立供養願文」としている。

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2009年10月22日

東北のオススメスポットその10〜岩手県平泉・衣川地区その1

baca37ad.jpg 5市町村が合併してできた奥州市と7市町村が合併してできた新・一関市に挟まれた小さな町である岩手県平泉町は、このブログでも何度も取り上げている奥州藤原氏の本拠地であり、現在でも岩手県屈指の観光地である。

 日本の国宝第一号となった金色堂を有する、奥州藤原氏初代藤原清衡が建立した中尊寺、平安時代の遺構としてはわが国唯一の浄土庭園が現存する、二代藤原基衡が建立した毛越寺を始め、三代藤原秀衡が京都宇治の平等院鳳凰堂を参考にさらに規模を大きくして建立した無量光院跡、二代基衡の妻が建立したと言われる観自在王院跡、「義経記」などに登場する義経の居館「高館」があったと伝えられる高館義経堂、秀衡が築き、雌雄一対の黄金の鶏を埋めたとの伝承がある金鶏山などがある。それに加えて最近では、国道4号線バイパス工事に伴う発掘作業で姿を現した奥州藤原氏の政庁とされる柳之御所遺跡が注目を集めた。

 現在でこそ平泉町は人口約8,500人の小さな町だが、奥州藤原氏時代の平泉は人口10万人を擁する、京の都に次ぐ国内第二の都市であったとされる。中尊寺の金色堂や毛越寺の浄土庭園はそうした往時の繁栄を偲ばせる貴重な遺跡であるが、観光地として見た場合の平泉のウィークポイントは、現存するのがその2つだけで、後はすべて「史跡」ということである。これらに加えて例えば無量光院や、頼朝をも驚かせたという中尊寺二階大堂などが現存、あるいは復元されていれば、観光地としての平泉のインパクトはより大きかったのではないかと思われるのである。

 もちろん、例えば柳之御所跡に立って、800数十年前に栄華を極めた藤原秀衡が間違いなくそこにいたことに思いを馳せれば、何とも言えない感慨に浸ることもできるし、無量光院跡に立って、そこに平等院鳳凰堂を一回り大きくした壮麗な寺院の姿を想像することもできる。要は見る人が見れば観えるものもたくさんあるのだが、実は決して万人受けする観光地ではないような気がする。ましてや、大型観光バスで来て、中尊寺と毛越寺、それに義経が住んでいなかったことはほぼ確実な高館義経堂くらいを見て慌ただしく次の目的地に行く、というような旅程では、見たようで観ていない、何とももったいない旅行になるような気がするのである。

 以前書いたように、平泉の世界文化遺産登録は見送られたが、現在、構成遺産を絞り込んで、平泉町内にある遺跡のみで再度登録に向けた動きが本格化しているところである。これまで平泉町と足並みを揃えて世界文化遺産登録を目指して動いてきた奥州、一関両市にとっては気の毒な話だが、「浄土思想を基調とした文化的景観」というコンセプトをより明確にするためには、必要な対応だったと思う。

 恐らく次は問題なく世界文化遺産登録が果たされると思うが、そうなればきっと多くの観光客が大挙して訪れることになる。関係者各位にはその時に、これら平泉の文化遺産が何だったのか奥州藤原氏の思いとは何だったのか、しっかり伝えてほしいと願って止まない(写真は金色堂を風雪から守っている覆堂(おおいどう)である)。


追記(2010.2.23):平泉の世界文化遺産登録に向けて、新しい推薦書が先月1月18日、ユネスコに提出された。新しい推薦書のタイトルは「平泉―仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群―」となっている。

 この推薦書の全文をぜひ読んでみたいと思ったのだが、これがネット上どこにも見当たらない。困ったものである。概要は辛うじて岩手県のサイト内で入手できる(該当サイト)。

 この世界遺産登録推薦書作成委員会委員長の工藤雅樹氏が、先月1月31日に亡くなった。平泉の世界遺産登録を見届けていただきたかっただけに、残念でならない。

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2008年10月06日

東北のオススメスポットその8 & 東北の歴史のミステリーその20〜高蔵寺阿弥陀堂

4b38ce63.jpg 宮城県の南部、角田市中心部から西へ約7kmほど白石市方面へ国道113号線を走ると、勝楽山高蔵寺角田市高倉字寺前49)がある。以前も少し紹介したが、ここには東北に3つある阿弥陀堂のうちの一つ、高蔵寺阿弥陀堂写真参照)がある。私が宮城県内で最も好きな場所の一つである。

 高蔵寺の創建は平安時代初期の弘仁10年(西暦819年)に遡ると言われ、南都の僧徳一によって開山されたと伝えられている。私も見たことはないが、嵯峨天皇の筆によるといわれる「高蔵寺」の額が秘蔵されているそうである。

 この高蔵寺の境内にある阿弥陀堂は、入り口にある説明板によれば、治承元年(西暦1177年)、「藤原秀衡・妻などによって建立されたもの」とのことである。この記載だと「藤原秀衡とその妻」が建立したのか「藤原秀衡の妻」が建立したのか分かりづらいが、一般には「藤原秀衡の妻」が建立したとの説が専らである。創建当時の建物が今もそのまま残り、宮城県内最古の木造建築だそうである。

 この高蔵寺阿弥陀堂、「日本最古の七阿弥陀堂」の一つに数えられている。七阿弥陀堂とは、北から中尊寺金色堂(岩手県平泉町)、高蔵寺阿弥陀堂(宮城県角田市)、白水阿弥陀堂(福島県いわき市)、平等院鳳凰堂(京都府宇治市)、法界寺阿弥陀堂(京都市伏見区)、浄瑠璃寺阿弥陀堂(京都府木津川市)、富貴寺大堂(大分県豊後高田市)である。

 平安時代から鎌倉時代初期にかけて建立されたこれらの阿弥陀堂が、京都に3つ、大分に1つある以外、東北に3つある意味は極めて大きいのではないだろうか。すなわち、当時東北においては、京の都に匹敵するくらい阿弥陀思想が浸透していたその証左であるとも考えられるのである。以前も書いたが、平泉の中尊寺金色堂を中心とする文化遺産を「浄土思想を基調とする文化的景観」と位置づけて世界遺産登録を目指すというのであれば、これら東北にある他の2つの阿弥陀堂、すなわち白水阿弥陀堂とこの高蔵寺阿弥陀堂にももっと目を向けるべきだと思うのである。

 なお、高蔵寺以外の6つの阿弥陀堂は皆国宝であるが(高蔵寺阿弥陀堂は国指定重要文化財)、だからこそと言うべきか、この高蔵寺阿弥陀堂にはある種の親しみやすさのようなものも感じられる。中尊寺金色堂などとは違い、華美な装飾などはないが、永年の風雨に耐えた外観と言い、茅葺の屋根と言い、素朴な風情ながらも杉の大木に囲まれた一画にあって、周囲の自然とよくマッチしたしみじみとした趣がある。杉木立の中に響く鳥の声、風にそよぐ杉の葉のざわめき、凛とした空気、その静寂の真ん中に佇む阿弥陀堂、実にいい場所である。

 ところで、この阿弥陀堂、なぜここに建てられたのだろうか。というのは、東北にある他の2つの阿弥陀堂、すなわち中尊寺金色堂と白水阿弥陀堂(しろみずあみだどう、正式には願成寺阿弥陀堂)は、その建立の動機のようなものがある程度はっきりしている。中尊寺金色堂はその供養願文にもあるとおり、奥州藤原氏初代の藤原清衡がかつて東北の地で戦乱などで亡くなった数多くの人々(当然その中には父経清も含まれよう)の冥福を祈って建立されたのであろうし、白水阿弥陀堂はその清衡の娘、あるいは三代秀衡の妹と伝えられる徳尼(徳姫)が、当時その地を治めていた亡き夫、岩城則道の冥福を祈って建立したと言われている(「白水」は平泉の「泉」の字を分けて名付けたとされる)。

 これに対してこの高蔵寺阿弥陀堂はなぜこの地に建てられたのか、はっきりとした伝承がない。なぜ「秀衡の妻」はこの地に阿弥陀堂を建てたのか。これは一つのミステリーではある。

 ひょっとすると、この阿弥陀堂は、平永衡のために建てられたものだったのかもしれない。平永衡は、前九年の役の頃、この高蔵寺のある辺り、伊具郡を治めていたらしく伊具十郎と呼ばれていた。伊具郡の隣の亘理郡は藤原清衡の父藤原経清が治めていたと思われ(彼は亘理権太夫と呼ばれていた)、二人は盟友であった可能性がある。また、二人とも当時奥六郡(現在の岩手県南部)の実権を握っていた安倍頼良の娘を妻に迎えており、いわば義兄弟でもあったわけである。

 この二人、安倍氏と朝廷側との間で始まった前九年の役では朝廷側につき、源頼義の軍に従軍するが(苦渋の決断だったろうが)、平永衡はなんと安倍氏への内通の疑いを掛けられ、斬殺されてしまう。このことが藤原経清を安倍側に寝返らせた最大の要因だったようである。

 藤原経清が安倍側についたことで、源頼義率いる朝廷軍は苦戦を強いられるが、出羽の清原氏の助力を得て何とかこの戦いに勝利を収める。捕縛された藤原経清もやはり斬殺されるが、その遺児清衡は後三年の役を乗り越えて陸奥出羽両国の実権を握り、戦にまみれたこの地をこの世の浄土とすべく中尊寺を建立し、仏教国家への道を歩むわけである。

 清衡の心中には、冥福を祈るべき戦乱で亡くなった奥羽の人々の中に、父の盟友だった平永衡のことも当然あっただろうが、その後も彼の遺徳を偲ぶものが何もなかった。そこで三代秀衡の代になって、永衡ゆかりの地であるこの地に改めて阿弥陀堂を建立したのではないか、というのが私の考えなのだが、もちろんそれを証明するものは何もない。

 ところで、折りしも「仙台宮城デスティネーションキャンペーン」の真っ最中であり、12月までの期間中、宮城県内で様々なイベントが催されている。ここ高蔵寺でも、10月中の土日祝日の10時から12時まで、本尊の阿弥陀如来の特別御開帳が実施されている(参照サイト)。

 この阿弥陀如来は平安末期の作とされ、阿弥陀堂建立の翌年に安置されたとされている。この阿弥陀如来は丈六の坐像、すなわち身の丈が一丈六尺で坐るとその半分の八尺(約2.7m)になるという大きさで、とにかくその存在感に圧倒される。思わず「でかっ」と思ってしまう大きさである。中尊寺金色堂の皆金色の諸仏像の優美さとは対極にある迫力であり、一見の価値がある。御開帳の機会はめったにないので、関心のある人はぜひ一度見ておくことをオススメしたい。

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2006年09月04日

東北の歴史のミステリーその11〜泰衡は死んでいなかった?

c10f6847.jpg 中尊寺金色堂に納められた首級がやはり泰衡のものである可能性が高いとする資料が実は私の手元にあった。「奥州平泉黄金の世紀」(荒木伸介・角田文衞他、新潮社、アマゾン該当ページ)という本であるが、その中に、東京大学理学部教授だった故・埴原和郎氏が「藤原一族の骨格データを読む」という論文を寄稿している。埴原氏は、自然人類学の権威であり、特に歯や骨のデータから日本人のルーツや成り立ちを解き明かそうとしていたひとである。

 この本の中で埴原氏は、昭和25年の御遺体学術調査の折に得られた藤原四代の頭骨の、‘骨最大長、頭骨最大幅、バジオン・ブレグマ高、に帽弓幅、ゾ經藕癲↓ι”、鼻高、といった「人類学的に重要な計測値」を多変量解析している(写真参照)。

 埴原氏はまず、クラスター分析によって藤原四代の頭骨の相互の類似性を分析している。それによると、4人の中で三代秀衡の頭骨と四代泰衡の頭骨がもっとも近いという結果が得られている。そして、秀衡・泰衡は二代基衡・初代清衡とはやや異なっており、それは基衡が安倍氏から妻を迎えて秀衡を産んだことと関係があるかもしれないとしている。

 この結果は、中尊寺金色堂に納められた首級がやはり泰衡のものであると判断するに足る根拠を提供しているように考えられる。以前紹介した金色堂はなぜ建てられたか―金色堂に眠る首級の謎を解く 」で高井ふみや氏が主張しているように、もし首級が経清のものとした場合、ではなぜ秀衡の頭骨と、秀衡から数えて三代前の経清の頭骨とが、清衡や基衡よりも互いに似通っているのかということを説明することは困難なように思える。まして、これまた以前紹介した歴史おもしろ推理 謎の迷宮入り事件を解け 」で楠木誠一郎氏が主張しているように、泰衡の首級が誰か別の人間のものだとした場合、それが秀衡の頭骨とかなり似ていることを説明するのはさらに困難である。

 埴原氏はさらに分析を進め、これら藤原四代の頭骨は、現代京都人に最も近く、現代東北人とはかなり違っていること、そしてまた14世紀鎌倉人、八雲アイヌとはまったく異なっているという結果を得ている。また、判別関数法から見てみると、アイヌと東北人のデータを使うと藤原四代は東北人に属すると分類され、さらに東北人と京都人のデータを使うといずれも京都人に分類されるという結果となったという。これらの結果から埴原氏は、奥州藤原氏が京都出身である可能性は相当高いと主張している。

 したがって、泰衡の首級がもし偽首だとした場合、頭骨データから見て、その身代わりは地元東北人であってはならず、京都出身の特徴を持つ秀衡や泰衡と極めて近い血縁者などでなくてはならないことになる。例えば少なくとも4人いた泰衡の弟たちがそうであろう。しかし、秀衡や泰衡に近い血縁者であればそれなりの地位にある人物ばかりであったろうし、そうした地位の人物を身代わりにするのはほぼ不可能に近いと思われる。

 ちなみに、泰衡は6人兄弟の2番目である。腹違いの兄国衡は阿津賀志山の合戦で、大将軍として鎌倉側と激しく戦い、戦死している。泰衡のすぐ下の弟の忠衡は義経に与したとして、頼朝の侵攻の前に泰衡に誅されている。四男の高衡(隆衡としている資料もある)は、義経の首を鎌倉に届ける際に使者となった人物だが、泰衡が河田次郎に討たれた後、鎌倉側に投降している。五男の通衡(みちひら)はわからない。六男の頼衡も泰衡に誅されたと室町時代に成立した「尊卑分脈」には記されている。忠衡が討たれたのと同じ理由だろうか(頼衡の実在を疑う説もある)。

 討たれたと言っても、忠衡の遺骸がどこに埋められたのか、定かではない。もちろん、頼衡もそうである。金色堂の秀衡の遺体のそばにあった首級は元々忠衡のものと伝えられてきたが、実はそうではなかったということが分かったのと同時に生じた疑問は、では忠衡の遺体はどこに行ったのかということである。もちろん、時代が移り変わる中で、単にどこに埋めたのかが明確でなくなっただけなのかもしれない。一方で、義経生存説は東北に根強いが、その中では忠衡は死んだと見せかけて義経を案内して渡島に渡ったと伝えられている。頼衡については津軽外が浜(青森県の陸奥湾沿岸)に逃れて津軽浪岡氏の祖になったという伝承がある。もちろん、いずれも正史と信じられるには至っていない。

 こうして見ると、6人兄弟のうち、五男の通衡だけが文治五年奥州合戦後の所在がわからない。通衡が泰衡の身代わりとなった可能性があったかどうか。さらに穿った見方をすれば、四男の高衡が投降したのは、面が割れていて逃げおおせないと考えたからなのかもしれない。それ以外の兄弟は鎌倉側に顔を知られていなかったのだから、敗色濃厚となって逃亡しようと思えば逃亡できたかもしれない。ただし、そのような証拠はないし(逃げようとする者がわざわざ逃げた証拠を残していくとも思えないが)、ない以上すべては憶測でしかなく、結局中尊寺に祀られている首級は泰衡のものである可能性が非常に高いという事実は動かしようがないということである。

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2006年03月30日

東北の歴史のミステリーその3〜「泰衡の首」は泰衡の首じゃない?

1fa3428b.jpg 先に紹介した「中尊寺建立供養願文」には、鐘樓の洪鐘について、

「この鐘の一音が及ぶ所は、世界のあらゆる所に響き渡り、苦しみを抜き、楽を与え、生きるものすべてのものにあまねく平等に響くのです。(奥州の地では)官軍の兵に限らず、蝦夷の兵によらず、古来より多くの者の命が失われました。それだけではありません。毛を持つ獣、羽ばたく鳥、鱗を持つ魚も数限りなく殺されて来ました。命あるものたちの御霊は、今あの世に消え去り、骨も朽ち、それでも奥州の土塊となっておりますが、この鐘を打ち鳴らす度に、罪もなく命を奪われしものたちの御霊を慰め、極楽浄土に導きたいと願うものであります」(佐藤弘弥氏訳)

とある。中尊寺の建立は、そうした過去に命を落とした人や生き物を供養し、この奥州の地を仏国土(浄土)にするということが目的の一つとしてあったわけである。

 中尊寺は鳥羽天皇の御願寺という形を取っていたので、その落慶法要には、都から多くの貴人が訪れた。それらの貴人たちは当然、落成した中尊寺に向かって手を合わせたのだろうが、もう一つの意図と前回言ったのは、金色堂のことである。この「中尊寺建立供養願文」には金色堂のことが出てこないのである。では、落慶法要の時点で金色堂はまだ完成していなかったのかというとそうではない。「棟木墨書銘」によれば、金色堂はこの落慶法要が営まれる2年前の天治元年(1124)には既に上棟されていたのである。中尊寺供養願文に現れないということは、金色堂の存在は、落慶法要の時点では公表されていなかったということなのではないか。そのことは何を物語るのか。

 ところで、金色堂を巡る謎の一つは、これが何なのかということである。何なのかというのはつまり、藤原三代が納められていることから、当初から「葬堂」として想定されたのか、当初は本尊として阿弥陀如来が安置されていることから「阿弥陀堂」として建立され、結果として葬堂になったのかということである。

 この点を巡っては、葬堂説、阿弥陀堂説双方の研究者からさまざまな考察が出されているが、供養願文に登場しないという点から見ると、やはり「葬堂」だったのではないだろうか。つまり、葬堂という「私的なもの」だったからこそ、あえて供養願文では触れなかったということである。阿弥陀堂であれば、「皆金色」とされる極楽浄土をこの世に具現化したものとして声高らかに謳ってもよかったはずである。

 金色堂に安置されている地蔵菩薩六体の存在も葬堂説を補強している。阿弥陀堂説の論者からは、阿弥陀如来と地蔵菩薩との関係について、横川(よかわ)流浄土教の影響とする説も出されているとのことだが、では横川流浄土教が平泉にどのように影響を与えたのか今一つよく分からず、やや牽強付会の感がある。しかも、横川流でいう、阿弥陀、観音、勢至、地蔵、龍樹の「弥陀五仏」は、当然ながら安置されるのは通常一体ずつである。金色堂のように六体の地蔵菩薩が安置されているのは、「輪廻転生の六道の入口に立って衆生を教化する」という地蔵菩薩本来の意図が明示されたものと見るのが自然である。

 以上のような点から、金色堂は葬堂だったと考えられるが、では誰の葬堂だったかという問題がある。これまでは、清衡自身が死後葬られていることから、自分自身のための葬堂だったと考えられていたが、この見方にはどうも違和感がある。「中尊寺建立供養願文」で亡き魂への供養を高らかに謳いあげた清衡が、自分の来世の極楽往生のために葬堂を築くだろうか、という疑問である。従来の葬堂説では、この点がどうもしっくりこない感がある。

 高井氏は、この金色堂こそが、清衡が自分の父経清の首を安置し、供養するための葬堂だったと結論付けているのである。この見方には私も賛成である。確かに、清衡自身のためではなく、陸奥のために戦って命を落とした父のための葬堂だったとすれば、供養願文の趣旨ともまったく相違しない。しかも、経清は先の「前九年の役」の首謀者、「戦犯」の一人である。その経清を祀った金色堂を、都から来た貴人の前に堂々と披露するわけにはいかなかったのである。

 しかし、だからと言って清衡の意図は、ただ天皇の御願寺である中尊寺の落慶を祝うために都から貴人を呼び寄せたのではなかったものと考える。元々、東北の側から見れば、紛れも無い「侵略戦争」であった。清衡の意図は、実は、都から来た貴人に、中尊寺の広大な敷地の一角にあった金色堂にそれと知れずに手を合わせさせたかったのではないだろうか。

 落慶法要が行われた大治元年(1126)3月24日は地蔵の縁日でもあるという。これはただの偶然と見るのではなく、そこに何らかの意図があったと見るべきだろう。その意図とは、すなわち、先の戦で父経清討伐を命じた朝廷の側の人間に、手を合わせさせたかったということなのだと考える。逆に言えば、そのためにこれだけの規模の大きな寺院を天皇の御願寺という形を取って建立したのだ、とも言える。

 もちろん、朝廷に無用の介入をさせないために、清衡自身の権勢を示し、奥州を掌握していることを高らかに宣言する必要もあったろうが、それだけでない、公にはできない意図もあったのではないだろうか。いわば、中尊寺の中に金色堂があるのではなく、金色堂のあるところに誰もが手を合わせる寺院を、清衡は作りたかったのではないかと私は考えるのである(写真は中尊寺月見坂)。

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2006年03月24日

東北の歴史のミステリーその2〜「泰衡の首」は泰衡の首じゃない?

0df45924.jpg というわけで、いきなり「首」の話である。今まで地ビールやら温泉やらの話を続けてきたところに突然「首」の話とはこはいかに、という感じであるが、上を見ていただければ分かるように、このブログでは東北の歴史も扱うということを謳っている。なかなかそのきっかけがなかったのだが、最近ドキドキワクワクするような面白い本を見つけたので、それをネタに東北の歴史の話も少しずつ書いてみようかと思う。

 岩手県平泉町にある中尊寺には、日本の国宝第一号となった金色堂がある。その名の通り、皆金色のお堂で、マルコ・ポーロが東方見聞録に記した「ジパング伝説」の元となった建造物ではないかと言われている。

 金色堂には、平安末期に約一世紀にわたって東北全土を実質的に治めていた奥州藤原氏三代、初代清衡、二代基衡、三代秀衡の遺体と、四代目で源頼朝に滅ぼされた泰衡の首級が安置されている。

 実は、この泰衡のものとされている首級は、寺伝では泰衡の弟忠衡のものだとされてきた。忠衡は、三代秀衡の三男である。源義経が兄頼朝に追われて奥州に逃れてきた時、秀衡は義経を受け入れて鎌倉と対峙する道を選ぶが、その秀衡は義経が来て1年も経たないうちにこの世を去ってしまう。臨終に際して、秀衡は「前伊予守義顕(義経)を大将軍と為して、国務をせしむべき」(吾妻鏡)との遺言を残すが、忠衡はこの秀衡の遺言を守って源義経を擁いて鎌倉と対峙しようとして泰衡に誅されたとされる。父の遺命に従い、義経を主君として仰いだ忠孝の士として、その首級が金色堂に納められている、そう信じられてきたのである。

 ところが、昭和25年の御遺体学術調査の折、忠衡のものとされてきた首級には、右の耳の付け根から頭蓋骨の一部とともに切られ、頭頂1カ所、後頭部に二カ所、そして鼻など数カ所に刀傷があるほか、前頭部の中央から後頭部に達する直径1.5センチほどの穴が貫通していた。「吾妻鏡」には泰衡の首には、前九年の役の際に源頼義が、安倍貞任の首に長さ八寸の鉄釘を打ち付けたのに倣って、同様に釘を打ち付けたとの記述がある。安倍貞任の時に首を扱った者の子孫に泰衡の首を扱わせるという徹底ぶりで、宿意を晴らしたのであるが、金色堂に納められた首級にはまさにこの釘の跡があったわけで、それを以って、その首級は忠衡ではなく泰衡のものであるとされ、それが現在に至るまで新たな「常識」とされてきたのである。

 さて、今回見つけた書籍「金色堂はなぜ建てられたか―金色堂に眠る首級の謎を解く」(写真参照、高井ふみや著、勉誠出版、アマゾン該当ページ)は、この御遺体学術調査の折に泰衡のものとされた首級は実は泰衡のものではないとして、これまでの「常識」に果敢に挑戦した書である。

 泰衡のものでないとすれば、この首級は誰のものなのか。高井氏は、藤原経清のものだと言うのである。藤原経清を知っている人は、かなりの歴史通である。93年にNHK大河ドラマになった高橋克彦原作の「炎立つ」で主役になったこともあって、少しは知られるようになったが、この人は奥州藤原氏初代で平泉「黄金の100年」の礎を作った藤原清衡の父である。

 藤原経清は、亘理権太夫と言われており、国府側にいて今の宮城県亘理郡を治めていたとされている。平安京で摂関政治を行った藤原氏と区別するために奥州藤原氏と呼ばれるこの一族は、元をたどっていくと平将門を討った藤原秀郷につながる。藤原秀郷は元々京の藤原氏の流れを組む家柄であるから、奥州藤原氏も土着の蝦夷ではないわけである。

 さて、経清はその後、奥六郡(現在の岩手県南部)を支配していた俘囚(朝廷に恭順する蝦夷)長の安倍頼時の娘を妻に娶る。この安倍氏を討つ戦となった前九年の役では、経清は当初は陸奥守源頼義に従っていたが、同様に安倍頼時の娘を娶り、亘理郡の隣の伊具郡を治めていたとされる平永衡が、安倍氏側に通じているとの疑念を抱かれて源頼義に殺害されたことに身の危険を感じて安倍側に寝返った。そこから安倍軍の中心的存在として源頼義率いる国府軍を大いに悩ませた。

 特に、前九年の役の間、経清は朱の国印を押した徴税符である「赤符」ではなく、経清の私的な指示書である「白符」に従うよう陸奥の諸郡に命じ、朝廷をないがしろにして独自に徴税を行ったが、当初安倍側が優勢だったために陸奥守源頼義もこれを指を咥えて見ている他なかった。このことのために経清は、徴税の権限を奪われ完全に面目を潰された形の頼義の深い恨みを買った。最終的に国府軍が、出羽の俘囚長である清原氏の援軍を得て安倍軍を厨川の柵(現在の岩手県盛岡市)に破り、経清を捕らえた際、頼義は苦痛を長引かせるためにわざと刃こぼれさせた刀で首を切った、という。残酷な処刑である。

 ちなみに、この前九年の役は、源頼義が陸奥の地に覇権を築こうとの野望を抱いて起こした「侵略戦争」だったと位置づけることができる。結局、念願通り安倍氏を滅ぼすことができたが、朝廷は頼義の勢力が大きくなりすぎることを警戒し、勝敗を決定づけた清原氏に陸奥、出羽二国の統治を任せた。この時の頼義の無念が後の鎌倉幕府の公文書「吾妻鏡」が記した頼朝の「私の宿意(私的な怨恨)」につながっていくのである。

 ところで、この「前九年の役」とその後起きた「後三年の役」はどちらも「役」と呼ばれているが、「役」という語はもともと、後の元寇「文永の役」「弘安の役」や秀吉の唐入り「文禄の役」「慶長の役」のように、「対外戦争」に用いられる用語である。東北での戦にこの語が用いられていることは、当時東北が異境の地と見なされていた端的な証である。

 その後、清原氏の内紛に頼義の子源義家が介入した後三年の役を経て、陸奥、出羽二国の実質的な支配者となった経清の子、奥州藤原氏初代藤原清衡は、中尊寺を建立し、世にも稀な金色堂を建立した。中尊寺を建立し、と簡単に書いたが、「吾妻鏡」によれば中尊寺は、堂塔40余、僧坊300余を有する大寺院であり、鳥羽天皇の御願寺という位置づけであったので、その建立はいわば国家的大事業であった。天治3年(1126)3月24日、その中尊寺の「大伽藍一区」が完成し、清衡によって盛大な落慶法要が営まれた。いずれ紹介するが、この法要に捧げられた「中尊寺建立供養願文」には、清衡の理想とする奥羽の平和、国家の平和を祈る心情が凝縮されているといえよう。

 この落慶法要には、国家鎮護の祈りとは別のもう一つの目的があったように思え、また同時にそれが高井氏が主張する泰衡の首級の「正体」を探る根拠の一つともなっているが、長くなったのでそれについては、次に触れることにしたい。

anagma5 at 21:18|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!