大友純平  

2019年03月11日

震災から8年〜私的東北論その115

あの日から8年である。
8回目の3月11日は、朝から強い風と雨。
この8年で雨の日は初めてだろう。
あの日、地震に追い打ちをかけるように雪まで降ってきたことを思い出す。

8年経っても、この日だけはいつもと違う心持ちになる。
心の中が何となくざわついているような、何か胸に引っかかるものがあるような、何とも落ち着かない気分である。
その傾向は地震発生時刻の14時46分に向けて強くなるような気がするので、とても平気な顔して仕事を続ける気にもなれず、毎年この日は午後休みを取って、弟の最期の場所、仙台市の沿岸、荒浜に足を運んでいる。

WP_20190311_14_04_18_Rich_LI今年もまず、弟がいた若林区役所を訪れる。
献花場は、昨年から近くの若林区文化センターに移されたので、そちらに行って献花する。
会場では仙台市の追悼式も開催されようとしているところだったが、出る気にはならず、今年もあの日弟が通ったであろう道を自転車で一路荒浜に向かった。






WP_20190311_15_12_02_Rich_LI今年は雨風が強かったためか、例年より随分人は少なかったが、それでも旧浄土寺の慰霊碑の前や荒浜慈聖観音の前では、一心に手を合わせる人の姿があった。










WP_20190311_15_14_20_Rich_LI大津波でほとんどが倒れてしまった松林、少しずつ新たに植林が進んでいた。
何十年後か、またこの海沿いに見事な林が復活することだろう。









WP_20190311_15_17_21_Rich_LI防潮堤に登って見下ろすこの日の海は、強い風を受けて大きな波が打ち寄せていたが、はるか向こうで波しぶきが立っているだけで、あの日この防潮堤を易々と超えていった大津波とは比べるべくもない。









WP_20190311_15_52_51_Rich_LIこの地に大津波が押し寄せた15時54分に合わせて、今年も弟の遺体が見つかった南長沼に赴いて手を合わせる。
これで何がどうなるということでもないが、今や自分の中では毎年の恒例行事である。







WP_20190311_16_20_49_Rich_LI帰りに、霞目にある「浪分神社」に寄る。
江戸時代にこの地を襲った大津波が、ここで南北に分かれたと伝えられている。
つまり、過去の津波到達地点を示す神社であり、実際今回の地震でもこの神社の近くまで津波が押し寄せたが、この神社の津波に関わる伝承は残念ながら広く伝わってはいなかったそうである。
どんな教訓も、伝わらなければ意味がない。
今回の地震の教訓も、伝える努力を続けなければいけないと改めて思った。

WP_20190311_23_28_20_Rich_LIなどと振り返りながら、家に帰ってお気に入りのビールを飲む。
震災以来、この日はどんなイベントがあろうと、誰からお誘いがあろうと、家に帰ってあの日を思い起こしながら飲んでいる。
つまみは必ず、子どもの頃、弟とおやつに食べてたやきとりの缶詰である。
二人とも特に皮のついたところが大好きで、でもケンカせずに仲良く分け合って食べてたことを覚えている。
今年は昔二人の憧れだった大きな缶が手に入らなかったので、小さい缶を4段重ねである。

こうして飲み食いできるのも、生きていればこそ。今日生きていられることに感謝しつつ、もしまた明日が来てくれたなら、またいつもの一日を送りたいと思う。



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2017年03月12日

私的東北論その90〜6回目の3・11

DSCN0461 東日本大震災が起きてから6回目の3月11日である。今年もまず弟が勤めていた若林区役所に行ってみた。今年は土曜日ということで、区役所は閉庁していたが、向かいの若林区文化センターでは、今年も東日本大震災仙台市追悼式が行われていた。献花場もあったので、献花した。





DSCN0463 その後、今年も、あの日弟が通ったであろう道を自転車で走り、荒浜へと向かった。毎年思うのだが、なぜかこの日はいつも強い北西の風が吹いている印象がある。仙台東部道路の下をくぐってすぐの神屋敷地区に、荒浜地区唯一の寺院である浄土寺が移転して新築されているのを見た。毎年仮設の本堂で合同追悼法要が行われているが、今年はこの新しい本堂で行われたようである。



DSCN0464 さらに東に向かい、県道塩釜亘理線を越えて、荒浜地区に入る。浄土寺の仮本堂があった所には、この地域で亡くなったすべての人の名前が刻まれた慰霊碑がある。地域の住民、交番の警官、消防団の団員、高齢者施設の職員、そして弟の名前がある。そこに着いたのはちょうど地震が発生した午後2時46分だったが、この慰霊碑の前で浄土寺の住職が法要を行っていて、たくさんの人が手を合わせていた。弟の友人から声を掛けられた。「ヘルメットをかぶって自転車に乗ってここにいる人は、さてはお兄さんではないかと思ったらやはりそうでした」とのこと。「ずっと来たいと思っていたものの、いつも平日で休みが取れなかったが、今年は土曜日だったのでようやく来れました」と言っていただいた。

DSCN0465 仮本堂の近くから海岸を望む。海岸沿いにあった松林は津波によってほとんどがなぎ倒され、今も櫛の歯が欠けたような状況である。もとより、あの見事な松林がたかだか6年ほどの時間で元に戻るはずもない。しかし、植林作業は現在も続いている。いつかまたきっと、海岸沿いの豊かな林が戻ってくるはずである。




DSCN0476 さらに東に向かい、貞山堀を越えて、深沼海水浴場に至る。ここにも東日本大震災慰霊之塔があり、荒浜慈聖観音と名付けられた観音様が立っている。こちらでも追悼の法要が行われたようである。慰霊之塔の近くには、鐘のなるモニュメントが立っていた。犠牲者の鎮魂、追悼のために造られたという「荒浜記憶の鐘」である。ちょうど今日除幕式が行われたそうである。ここでもう一人、弟の友人に声を掛けられた。やはりヘルメットと自転車でひょっとして、と思ったそうである。この友人も、土曜日ということで来られたと言っていただいた。本当にありがたい限りである。





DSCN0471 海岸に足を向ける。震災後高さが積み増しされた防潮堤があり、この防潮堤を登らないと海の様子はまったく見えない。防潮堤のてっぺんに立ってみると、風は強いのに、波はおだやかだった。あの日猛り狂った海とは対極にある姿である。





DSCN0475 荒浜地区のあちこちには、「偽バス停」がある。県内の美術作家が制作したバス停のオブジェである。以前、確かにここに人が住んでいたということを語ってくれているようである。昨年12月には、この「偽バス停」を本物の仙台市営バスが走るツアーも企画された。

 荒浜地区は仙台平野の真っ只中にある。津波から逃げられる高台がどこにもない。あの日、地域の住民が唯一避難できた建物が、旧荒浜小学校である。ここの屋上に避難した人たちは津波の難を逃れた。

DSCN0477 その旧荒浜小学校では、今年も荒浜小学校の卒業生らでつくる「HOPE FOR project」が、花の種を入れた風船を荒浜を訪れた人と一緒に飛ばした。「繋がりが失われた街に、もう一度笑顔や思いを共有するプロジェクト」で、これまでにも様々な活動を行ってきている。





DSCN0484 荒浜小学校は、この地区が災害危険区域に指定され、住むことができなくなったため閉校したが、建物は震災遺構として、この地を襲った平野部としては世界最大級という津波の有様を伝える「生き証人」となった。そしてまた、津波の際の避難場所にもなり、車椅子用のスロープや屋上に行けるエレベーターなどが整備された。屋上の倉庫には災害時用備蓄物資も貯蔵されていた。今日は開放されており、階段を上って屋上に出ることができた。あの日、この場所から見えた光景を想像してみる。向こうに仙台の街並みも見える。向こうに見える風景とこちらの周囲の風景とはあまりに違う。

170311-154750 地上に降りてきて校舎を見上げると、背丈のはるか上、2階部分に津波の高さを示す表示がある。津波によって、海側にある2階のバルコニーの柵が津波によって折れ曲がり、バルコニーの壁の一部も倒されてしまっている様子が今も残る。





DSCN0480 普段、仙台の街中にいると、震災当時を思い出させるものはほとんどない。6年経って、震災を意識しながら過ごすことが本当に少なくなってきたのを感じる。しかし、この日だけは別である。普段と同じようにいるつもりでも、何となく心がざわざわと波立っているのが自分でも分かる。特に、地震が発生した午後2時46分から、この地を未曽有の大津波が襲った午後4時くらいまでの間は、6年経った今でも、焦燥感というのか、居ても立っても居られないような心持ちになる。






170311-154900 校舎の4階部分に時計があり、今も動いている。その時計が午後3時49分を指していた。この地を大津波が襲ったのは、近くにあった消防署の職員の方の証言によれば、午後3時54分。6年前のこの時刻、迫りくる津波の危険を感じながら、弟はここでどのような気持ちで避難を呼び掛けていたのだろうか。その時の弟の姿に思いを馳せる。

 そして、午後3時54分。目を疑うような10mもの高さのどす黒い水の塊を見た時の弟の気持ちはどうだったのだろうかと想像してみる。驚き、焦り、恐怖、悲しみ、絶望感…、様々な気持ちが一緒くたになって押し寄せたのだろうか。

170311-160926 震災から49日目に弟の遺体が見つかった南長沼に足を運んでみる。水鳥の群れがのんびり泳いでいた。手を合わせるのはこの日何度目だろう。







170311-161820 荒浜地区に隣接する笹屋敷地区では、津波避難タワーの建設が進んでいた。仙台市内に13か所設置される予定だそうである。造って終わり、ではなく、それぞれの家から津波避難タワーへの避難ルートの検討、津波避難タワーまでの避難を実際に行う訓練などが必要だろう。

 元来た道を自転車で戻る。この道を、弟は行ったきり、戻ってこれなかったんだよなと思いながら。いつもは途中で家に帰る道に曲がるのだが、今年はもう一度若林区役所まで戻ってみようと思った。もちろん、それで何がどうなるというものでもない。単なる思い付きである。

 若林区役所に着いた。隣接する養種園跡地は公園のような形に整備されているが、そこには犬の散歩をする人、ジョギングをする人、お母さんと手をつないで歩く小さな子、などの姿があり、何事もない日常の風景が広がっていた。ふと、弟はこういう風景を守りたかったのではないか、と思った。

170311-191822 命さえあれば何度でもやり直せる。しかし、命がなくなればそれですべてが終わりというものでもない。私の大好きだった青森県弘前市のカレー店、「カリ・マハラジャ」、3年前にご主人が急逝されたために、閉店してしまった。そのカレーを最近、奥様が通販限定で復活させた。そのお蔭で、あの絶品カレーをまた食べることができる。弟が遺したものの幾ばくかは、私も引き継がせてもらっているように思う。

 普段、震災について考えることも、弟について考えることも、ひと頃に比べると減ってきているように感じる。しかし、やはりこの日だけは全く違う。荒浜地区に足を運び、いわば「定点観察」しながら、震災について考え、弟のことを想う。これはきっとこれからも変わらない営みとなるような気がしている。


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2015年03月03日

私的東北論その66〜特殊公務災害逆転認定までの経緯◆屬箸△訃男表隶の証言」

150303-014654 前回、特殊公務災害に認定されるまでのおおよその経緯について説明した。最初に特殊公務災害非該当との決定がなされたのは地方公務員災害補償基金仙台支部だが、その決定に至るプロセスでは、弟が津波避難の広報活動を行った仙台市若林区荒浜で、同様に避難誘導を行っていた若林消防署荒浜航空分署の署員から、発災当時の状況について証言を得ていた。

 その一部は以前紹介したが、それは仙台支部の決定通知書にあった記載を引いたもので、ごく断片的なものであった。その後、支部審査会に対する審査請求の段階で両親の代理人となった土井浩之弁護士が、支部審査会に要請して当該証言の全文を入手した。その内容は詳細かつ具体的で、今まであまり知られていなかった、地震発生当日の荒浜地区における津波避難のための活動の実際について知ることができる貴重な資料となっている。そこで今回はその証言の主要部分について紹介したい。

 ちなみに、日付は2011年6月28日となっている。地震発生から3ヶ月あまり後のことで、当時の記憶もまだ正確かつ鮮明に残っていたと考えられる。以下がその証言である。


 「平成23年3月11日午後、私は若林消防署で訓練業務にあたっておりましたが、午後2時46分の大地震発生により、『市内上空からの被害調査』の任務指示で急いで所属(荒浜航空分署)へ戻り、帰署途上大津波警報の発表を知りました。津波到達予定時刻は3時00分と予想され、同時刻に荒浜航空分署に到着しました。

 その後、津波到達予定が3時30分に変更になったことから、その時刻ギリギリまで、荒浜地区の住民の避難誘導にあたることにしました。活動は、深沼橋からさらに海側に入った辺りの住民を消防車に乗せて荒浜小学校に避難させたり、通行していた一般車両に避難者を乗せて東部道路より西に避難させるように指示を出したり、避難誘導や救助活動を実施していました。小学校までを何度も往復し、その最中に、若林区役所の広報車らしい車を何度か見たような記憶があります。後日車両の発見に立ち会った際に、『あのときの車じゃないか?』と感じました。私ばかりでなく、同僚も、当該車両を『震災当日、現地で見かけた記憶がある』と言っています。

 現地では、私たち消防局の他、警察、さらにもう一台の車両が、避難の広報をしていたと思います。『区役所の車かな?』と思っていました。

 私たちは、津波が迫っている情報を消防ヘリコプターからの無線で得ていました。私は同僚に、『言葉なんてどうでも良い。『逃げろ!』で良いから、大声で呼びかけろ!』と指示し、住民を学校に避難させる途中も、ずっと広報し続けました。一人でも多くの住民を避難させなければと、とにかく必死でした。

 しかし、県道塩釜亘理線沿いのコンビニの前では市民の反応が鈍かったのも事実です。座り込んで何かを食べている人たちすらいました。『ここまでは来ないだろう』と、皆思っていたのでしょう。確かに今までの経験では、これほどまでの大津波が来るとは、誰も予想していなかったと思います。

 『荒浜航空分署の出場体制を立て直す必要と、2機目のヘリコプターを出場させるから、すぐ戻れ!』という命令(3時40分)がなかったら私たちも津波に巻き込まれていたと思います。荒浜航空分署職員の使命は、消防ヘリコプターを活用して上空からの避難誘導と津波到達してからの人命救助です。とにかく分署に戻る必要がありましたので、最後に住民を(車内に)乗せ、隊員は車両の上に乗って荒浜小学校に向かいました。そのとき、上に乗った隊員が、津波の白波が迫って来るのを遠方に見たと言っていました。3時50分に小学校を出発し、53分に分署に到着しました。大津波が分署を襲ったのは、その僅か1分後のことでした。私たちも、まさに間一髪、命が助かった状況です。

 分署からの命令により荒浜小学校を離れるとき、荒浜新一丁目の住宅街の方向から、避難を呼びかける広報車の声が響いていたのを記憶しております。

 後日、荒浜でたくさんの住民が亡くなったことを知りました。あれほど力を尽くしてたくさんの方々を避難させたけれど、まだ多くの住民が荒浜地区に残っていたのだなと思うと非常に残念です。」


 以上が荒浜地区で避難誘導に当たっていた消防署員による3月11日の状況についての証言である。いろいろなことが分かる。消防と警察以外にもう一台避難広報をしている車があり、この消防署員はその車を区役所の車と認識していたこと、県道塩釜亘理線付近の地域住民の反応は鈍く、逃げようとしていなかった人もいたこと、消防署員が署に戻ろうとした3時50分の段階でまだ避難を呼び掛ける広報の声が聞こえていたこと、などである。

 この、消防や警察や区役所が避難誘導をすることは、これまた以前も書いたが、「仙台市地域防災計画」で定められている。「地震災害対策編」の第3章「災害応急対策計画」の「5 津波応急対策計画」では、津波発生時における人的被害を最小限に止めるため、津波予報の収集・伝達、海面監視及び避難体制について定めている。そして、その実施機関は、消防部、区本部、宮城県警察の3者とされているのである。

 なお、避難誘導体制のうち避難広報等については、「避難勧告等を行ったときは、消防車、広報車及び報道機関との連携等により迅速に地域住民等に対し周知徹底を図」るものとされているが、今回のこの証言からは消防と区役所が相互に連携した様子は窺えない。未曽有の大地震で多少なりとも混乱があったのだろうが、消防が把握していた「津波接近!」との情報が、弟の乗った広報車にも伝わっていればと残念に思うところである。

 ちなみに、なんと3月28日に弟が乗っていた車が発見したのも、4月28日に弟の遺体を発見したのも、この証言をしてくれた消防署員の班だったとのことで、「縁があるのかな」と思ったそうである。弟の遺体が発見された南長沼付近では、住民の遺体も数多く発見されており、そのことからも、大津波が押し寄せる最後の最後まで、広報していて津波に巻き込まれたのではないか、とこの消防署員は推察している。そして最後に、今回のことは、「仙台市の大津波に対する避難誘導のあり方として多くの教訓を残してくれ」たとして、その「死を無駄にすることなく、私たち仙台市職員がやるべきことは、これからの安全安心な仙台市の復興に、また、これからの津波対策に生かしていくこと」であり、それが供養になると締め括っていた。

 このように、現地での弟の様子について、もちろん詳細に観察したり言葉を交わしたりしたわけではないにせよ、見ていた人がいてくれたことは率直に言って嬉しいことである。この証言によって、弟が最後まで地域住民のために避難の呼び掛けをしていたことが、弟だったらそうしただろうなとは思っていたが、それが単なる身びいきではなく分かったのである。

 冒頭の写真は、弟の遺体発見時に会ったその消防署員を父親が撮影したものである。連日の捜索活動の疲れの色も見せずに、弟の遺体発見時の様子について丁寧に説明してくれたそうである。 


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2015年02月16日

私的東北論その64〜特殊公務災害逆転認定までの経緯 孱嫁半にも及ぶやり取り」

10480101_834560373238510_19171634336791573_o 昨年2014年6月13日の朝刊各紙に一斉に弟のことが載った。仙台市職員だった弟の殉職に関してはこのブログでも何度か取り上げているが、両親はそれについて、特殊公務災害に認定してもらえるよう申請していた。その特殊公務災害への認定の申請が地方公務員災害補償基金仙台市支部で非該当の決定となり、地方公務員災害補償基金仙台市支部審査会への審査請求も却下と、二度に亘って退けられた後、地方公務員災害補償基金審査会への再審査請求でこれらが取り消されて逆転認定された。この三度目の逆転認定が前例のないことだということで、マスメディアでも注目されたようである。私は見ていないが、6月12日のTVニュースでも取り上げられたそうである。

 この特殊公務災害、一般にはあまり耳慣れない言葉だが、公務員が「高度に危険が予測される職務」で死亡、負傷した場合に適用されるもので、単に公務遂行中に労働災害に遭遇した場合の公務災害認定に比べて補償金も増額されるが、その代わり目撃証言など含めて「高度に危険が予測される職務」であったことの証明が必要とされる。公務に従事していた際に遭遇した災害については民間企業の労働災害と同様、公務災害として認定されるが、公務員にはさらに、命に関わるような公務に就いていた際に遭遇した災害について別枠で認められる制度があるわけである。

 公務災害、特殊公務災害とも、ちょうど裁判の三審制のように、認定のチャンスは三度ある。冒頭に書いた通り、まずは地方公務員の公務災害に関する補償を担う地方公務員災害補償基金の都道府県並びに政令指定都市の支部。弟は仙台市職員だったので、地方公務員災害補償基金仙台市支部に特殊公務災害の認定を申請したわけである。ここで特殊公務災害非該当の決定となるなど、その決定に不服がある場合は有識者等第三者でつくる支部審査会に審査請求をする。仙台の場合は地方公務員災害補償基金仙台支部審査会がある。そして、この支部審査会の裁決にも不服がある場合はさらに、支部の審査会ではなく中央の地方公務員災害補償基金審査会に対して再審査請求をする、という流れである。

 ただ、建前上3回のチャンスがあるとは言え、それは、「3回に亘って当事者からも話を聞いて慎重に検討して決定しましたよ」という既成事実を作ることにはなっても、そのプロセスの中で最初の決定が覆ることはめったにない。弟の例でも、一度目に特殊公務災害非該当との決定が下され、二度目の支部審査会への審査請求でもその判断が覆らなかった。私は二度目の支部審査会への審査請求時に意見書を提出しているが、その意見書への反論が、何度読んでも論理的に納得のいく内容ではなかった。にも関わらず結論が特殊公務災害非該当とされて審査請求が却下されているということは、これは非該当という結論だけが先にあって、その結論に合わせるために無理な理由付けをしているのだと私は考えた。

 とすると、恐らくこの先も一旦下された判断が覆ることは難しいだろう。そう思った私は、争い事に身を投じたままではいつまでも安寧な日は訪れないのではと思い、両親に、弟が最後まで頑張ったことは我々3人が一番よく知っているのだから、そのことを以て矛を収めるという道もあるのではないか、と言ってみた。しかし、両親は「これは子を亡くした親の戦いだから」と言って、諦めようとしなかった。そう言われてしまうと、私は「子を亡くした親」ではないし何も言えないので、その後は黙って推移を見守ってた。

 両親は支部審査会への審査請求の段階から、労働災害に詳しい土井浩之弁護士の助けも借りて、反論書の提出、そして口頭陳述を行った。支部審査会で審査請求が却下された後は、逆転認定に向けての最後の機会となる本部審査会での裁決に向けて、意見陳述の準備をしていた。そこではまさに無念の死を遂げた我が子の最後の働きに報いたいという親としての執念を感じた。

 そうしたところ、日本共産党の高橋千鶴子衆議院議員がこのことを知って、衆議院の予算委員会第二分科会の場で、弟の実名を挙げて取り上げてくれた。そしてまた、答弁に立った新藤義孝総務大臣も、判断の見直しに前向きな答弁をしてくれた。その後、地方公務員災害補償基金補償課長名で特殊公務災害の認定の取扱いについての事務連絡が発出されて、基金の方針転換を呼び、晴れて特殊公務災害該当という決定に至ったわけである。仙台市支部審査会とは異なり、宮城県支部審査会では地方公務員災害補償基金宮城県支部で不認定とされた特殊公務災害認定の申請について多数の逆転認定を行っていたが、それも後押しとなった。

 言ってみれば、両親の諦めない思いが動かないと思われた事態を動かした形になったわけで、わが両親のことながらお見事だったと思う。もちろん両親は、補償金の増額が目当てだったわけではなく、(兄の私と違い)人一倍優しく親思いでしっかり者だったわが子の生涯最後の仕事が、地域住民のために文字通り生命を賭して遂行したものだったということを認めてほしい、ただそれだけの思いで動いていた。新聞各紙のうち、河北新報には父親の、朝日、毎日、日経の各紙には母親のそうした思いのコメントが載った。

 この一連の動きを時系列で示してみると以下のようになる。

平成23年(2011年)12月6日:特殊公務災害認定の申請
平成24年(2012年)1月12日:地方公務員災害補償基金仙台市支部事務長より地方公務員災害補償基金補償課長宛に特殊公務災害の認定について照会
平成24年(2012年)6月26日:地方公務員災害補償基金補償課長より地方公務員災害補償基金仙台市支部事務長宛に特殊公務災害非該当との回答
平成24年(2012年)9月18日地方公務員災害補償基金仙台市支部長(仙台市長)が特殊公務災害非該当の決定
平成24年(2012年)11月5日:地方公務員災害補償基金仙台市支部審査会に審査請求、被災職員兄(=私)意見書提出
平成25年(2013年)1月22日:地方公務員災害補償基金仙台市支部長(仙台市長)より同支部審査会長宛に意見書に対する弁明書提出
平成25年(2013年)2月22日:弁明書に対する反論書の提出(土井弁護士)
平成25年(2013年)6月5日:地方公務員災害補償基金仙台市支部審査会にて口頭陳述(両親)
平成25年(2013年)8月29日:地方公務員災害補償基金仙台市支部審査会より審査請求棄却の回答
平成25年(2013年)9月20日:地方公務員災害補償基金審査会長宛に再審査請求、理由書提出(土井弁護士)
平成26年(2014年)2月26日:地方公務員災害補償基金審査会にて口頭陳述(両親、土井弁護士)
同日:高橋千鶴子衆議院議員が衆議院予算委員会第二分科会で質疑
平成26年(2014年)5月1日:地方公務員災害補償基金補償課長より地方公務員災害補償基金岩手県支部、宮城県支部、福島県支部、仙台市支部事務長宛に事務連絡「東日本大震災に係る特殊公務災害の認定の取扱いについて」が発出
平成26年(2014年)5月28日:地方公務員災害補償基金審査会より支部の処分と支部審査会の裁決を取り消す逆転裁決
平成26年(2014年)6月12,13日:新聞各紙、TVニュースが一斉報道

このように、震災の年の12月から始まって、逆転認定までには実に2年半近くにも及ぶ期間を要したのである。

 私は、申請から逆転認定に至る一連の経緯を書き留めておくことも、震災に関わる記録の一つとして必要と考えていた。にも関わらず、上の表で分かる通り、逆転裁決が出てから今まで、実に8ヶ月以上、なかなかまとめようという気にならなかった。その大きな理由は、基金仙台市支部の決定通知書と、支部審査会の裁決書を読み返すことが正直、嫌だったからである。これらを読むと、いまだにあの当時の何とも言えない複雑な感情が甦る。通じて当然と思った理屈が一向に通じないことへの焦り、苛立ち、全く筋の通っていない弁明に対する何とも言えない割り切れない気持ち、納得のいく理由がないにも関わらず決定が覆らないことに対する無力感など、できれば二度と体験したくない気持ちがこれらを読むとまたぞろ沸き起こる。そのことに心理的な抵抗があってなかなか資料を開く気にならなかったのである。…と言い訳しておく(笑)。

 しかし、いつまでもそのままにしておくわけにもいかない。時間が立てば立つほど、ディテールは曖昧になり、記憶も風化していってしまう。それではこの先同じような事態が起こった時に何ら役に立つ情報を提供できないことになる。そこで、とりあえず現段階で手元にある資料などを読み返しつつ、特殊公務災害認定に至る経緯をこれから何回かに分けてまとめてみたい。


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2013年03月11日

私的東北論その43〜弟の最後の足跡を追う

弟の死から2年が経って
130311-144629 東日本大震災発生から2年が経った。書くべきことはいろいろあるのだろうが、この日に当たって何を書くかと考えた時に、やはりこの地震で命を落とした弟のことを書いておきたいと思った。

 弟は、仙台市若林区役所の区民部まちづくり推進課地域活動係の主事として勤務していた。2011年3月11日(金)午後2時46分に東北地方太平洋沖地震が発生し、直後に区役所内に若林区災害対策本部が設置された。弟は、若林区の沿岸地域である荒浜方面の広報活動を行うよう命ぜられ、午後3時17分に公用車で出動した。広報活動に当たっては、仝道塩釜亘理線より東には入らないこと、▲薀献をつけながら行くことの2点が指示されていた。午後4時5分頃、広報活動を命じた上司が弟の携帯電話に連絡したが、連絡が取れなかった。その後3月28日に乗っていた公用車が発見され、その1ヶ月後の4月28日、弟は、若林区荒浜字南長沼にある南長沼で(ややこしいがそこにある南長沼という沼がそのままその周辺の地名になっている)遺体で発見された。

 これが、震災発生当日から遺体発見までに事実として分かっていたことの全てである。これ以上のことはもはや分かることはないだろうと思っていたのだが、その後、弟の最後の足取りに関して分かってきたことがある。弟のことを忘れないためにも、記録として残す意味でも、ここにまとめておきたい。

 写真は、今日の午後2時46分に撮った、弟が見つかった荒浜の南長沼の様子である。誰が供えてくれたものか、花が手向けてあった。


なぜ弟は沿岸地域に出掛けていかなければならなかったのか
図1aa 今更ながら、なぜ弟は津波の危険が迫る仙台市の沿岸地域に出掛けていかなければならなかったのだろうか。ちょっと長くなるが、「仙台市地域防災計画」にある記載を紹介しておきたい。その「地震災害対策編」の第3章「災害応急対策計画」の「5 津波応急対策計画」では、津波発生時における人的被害を最小限に止めるため、津波予報の収集・伝達、海面監視及び避難体制について定めている。その実施機関は、消防部、区本部、宮城県警察の3者であり、このうち区本部の担当業務は、…吐箸隆躙雲や避難方法等に関する住民への周知、避難勧告、指示に関すること、H鯑饅蠅粒設及び運営管理に関すること、つ吐箸亡悗垢訃霾鵑療礎、避難誘導に関すること、とされている。津波発生時には、消防と区役所(の災害対策本部)と警察の三者が役割を担うことになっていたわけである。

 津波情報の収集伝達については、「消防部は、仙台管区気象台、宮城県及び宮城県警察本部等から伝達される津波情報を受信した場合は、次の伝達系統に基づき、関係する部、区本部及び市民に対し速やかに伝達する」ものとされており、仙台市内の各区は消防局防災安全課からの情報伝達を受け、広報車によって市民に津波情報を伝達する旨が図示されている。このうち、沿岸住民等への情報伝達については、「消防部及び関係する各区本部は、津波予報の発表と同時に次の手段で『海面監視・警戒要領』に基づいた区域内の住民等に対し、津波に関する情報を伝達する」とされている。「次の手段」としては、\臑羯堋吐半霾鹽礎システム、警鐘の打鐘又はサイレンの吹鳴(消防部)、消防車、ヘリコプター(消防部)及び広報車(区)による巡回広報、つ内会長等への連絡(区)、ナ麁撒ヾ悗箸力携、ε里療塰漂劵瓠璽襦△裡兇弔挙げられている。区役所の役割として、広報車による巡回広報で市民に津波情報を伝達することが規定されているわけである。

 避難誘導体制のうち避難広報等については、「避難勧告等を行ったときは、消防車、広報車及び報道機関との連携等により迅速に地域住民等に対し周知徹底を図り、また、避難誘導にあたっては安全な経路を選定するとともに、高齢者及び障害者等の災害時要援護者に十分配慮する」こととされている。弟はつまり、この仙台市地域防災計画の地震災害対策編における災害応急対策計画の津波応急対策計画に記載されている区本部に割り当てられた担当業務の遂行のために荒浜地区にて広報活動を行ったわけである。

 荒浜地区中心部を図1に示す。後に示す消防隊員の証言に基づく消防隊員の行動範囲と弟の行動範囲も書き入れてみた。青が消防隊員のたどった進路、赤が弟がたどったと考えられる進路である。


「県道塩釜亘理線より東には入らないこと」の意味
図2 広報活動を行うに当たって、先述の通り、「県道塩釜亘理線より東には入らないこと」との指示が出されていた。これはどういうことだろうか。これは「平成14年度仙台市地震被害想定調査報告書(概要)」に基づいた仙台市の「津波ハザードマップ」によるものと考えられる。その予測図のうちの荒浜近辺の部分を図2に示す。図2図1で示された周辺の地域も示している。この津波ハザードマップでは、県道塩釜亘理線よりもさらに東、荒浜地区で言えば、荒浜新のさらに東が津波浸水予測地域となっている。

 なお、津波ハザードマップでは、海岸に近いエリアについて、津波警報が出た際に避難勧告が出され、大津波警報が出された際に避難指示が出される津波避難エリア機図2の右側の斜線部分)、気卜拈椶靴織┘螢△蚤臘吐鳩拱鵑出された際に避難指示が出される津波避難エリア供図2の左側の斜線部分)が設定されている。「県道塩釜亘理線より東には入らないこと」という指示は、この津波ハザードマップに基いて、津波による浸水が予想される津波避難エリア亀擇哭兇鯣鬚韻覦嫐9腓いあったことが分かる。もっとも、実際には海岸から直線距離で0.9kmのところにある県道塩釜亘理線どころか、そのはるか西、海岸から3.2kmの仙台東部道路まで津波が押し寄せたのは周知の通りである。

 ところが、弟の特殊公務災害の申請などの過程で、地震発生当日、やはり「仙台市地域防災計画」に基づいて、同じ地域で住民の避難誘導にあたっていた仙台市消防局若林消防署荒浜航空分署の消防職員の証言として、何と以下のような証言が得られたのである。

 /湿其兇らさらに海側に入った辺りの住民を消防車に乗せて荒浜小学校に避難させる等していた際に、区役所の広報車らしき車を何度か見たような記憶がある。
 ⊂男俵匹里曚、警察、さらにもう一台の車両が、避難の広報をしており、「区役所の車かな」と思っていた。
 9喇擁署からの戻るようにとの命令を受け、午後3時50分に荒浜小学校を出発し、午後3時53分に荒浜分署に到着し、1分後に津波が到達した。
 ぞ学校を離れるとき、荒浜新一丁目の住宅街の方向から、避難を呼びかける広報車の声が響いていたのを記憶している。

 また、3月28日に、弟が乗車していた公用車の発見に立ち会った消防職員は、「あの時の車じゃないかと感じた」と証言しており、別の消防職員も以前紹介したが「災害当日、現地で見かけた記憶がある」と証言しているのである。これらの証言は何を意味しているのだろうか。

 証言から、この時の消防職員の活動範囲は、図1に示した通り、荒浜橋を渡った海岸に極めて近い地域から、この地域唯一の避難場所であった仙台市立荒浜小学校の間である。その範囲で市の広報車を見かけたということは、弟の広報車も県道塩釜亘理線より東の地域で活動していたことを示しているに他ならない。私はてっきり、弟は事前の指示通り県道塩釜亘理線の西側あるいは県道塩釜亘理線沿いで広報活動をしていたとばかり思っていた。なぜ、弟は、立ち入るなと言われていた県道塩釜亘理線より東で広報活動を行っていたのだろうか。


県道塩釜亘理線より東で目撃された理由を解く
 上記の通り、消防職員の証言から、弟の乗った広報車は、「県道塩釜亘理線より東には入らないこと」の事前指示にも関わらず、その東に位置する荒町新地区にて活動していたと判断できる。それはなぜだったのだろうか。

 「仙台市統計書『平成23年版』」によると、荒浜小学校区すなわち荒浜地区は世帯数782、人口1,920人である。この荒浜地区内の各町丁目名毎の世帯数をポスティング業者のサイト等で確認してみると(参照サイト)、平成17年の数値だが、県道塩釜亘理線の東側にある荒浜新1丁目、2丁目に合わせて333世帯、すなわち全体の約43%の世帯が集中している。荒浜新を除く荒浜に440世帯があるが、そのうちの多くの世帯は消防職員の行動を見ても分かる通り、荒浜新のさらに東側つまり海側にある荒浜北丁、中丁、南丁、西、一番山と呼ばれる各地区にある。

 これが何を意味するかと言えば、荒浜地区の世帯の大半は県道塩釜亘理線の東側から海岸付近に集中しているということである。図らずも図2の津波浸水予測図に、これらの地域に多くの家屋が集中している様子が図示されている。もし、こうした状況であるにも関わらず、事前の指示通り、県道塩釜亘理線より東側に立ち入らないとすると、荒浜小学校区の大部分の世帯に対して津波避難の呼び掛けができないことになるわけである。

 すなわち、荒浜地区の世帯に対して津波からの避難を呼び掛ける広報活動を行うという業務と、県道塩釜亘理線より東には入らないことという指示との間には、相反するものがあった。荒浜地区の大多数の世帯に対して避難を呼び掛けようとすれば、県道塩釜亘理線より東に立ち入らざるを得ず、県道塩釜亘理線より東には入らないという指示の通りにしようとすれば、荒浜地区の大多数の世帯には避難の呼び掛けができない、という状況だったわけである。

 従って、この荒浜地区の大多数の世帯に対して即座の避難を呼び掛けるためには、どうしても県道塩釜亘理線の東側に立ち入る必要があったのである。そして―、弟は避難の呼び掛けの徹底の方を優先して、県道塩釜亘理線より東で避難広報活動を行うことを選んだのである。

 さて、「津波浸水予測図」は前述の通り、「平成14年度仙台市地震被害想定調査報告書(概要)」に基づいて作成されているが、同報告書における想定の前提は、単独型(M7.5)と連動型(M8.0)の宮城県沖地震であり、それより大きな地震については一切想定がされていない。津波の予測について、「単独モデルでは,津波の波高は小さく,浸水域は大変小さいことが予測されています。また,連動モデルでは,単独型モデルと比べて津波の波高は大きくなり,浸水域も大きくなりますが,極沿岸域に限定され,仙台港周辺での浸水高さは30〜110cmが予測されています」とある。

 今から見るとまったく楽天的との誹りを免れ得ないような想定であるが、要は「津波浸水予測図」における津波浸水予測地域はすなわち、当時の予測で最も大きな連動型(M8.0)の地震であっても、仙台港周辺で最大110cmの津波と予測されていたわけである。前述のように「県道塩釜亘理線より東には入らないこと」という事前の指示は、この想定に基いて、荒浜新の東側一帯が津波浸水予測地域であることを踏まえて、さらに安全マージンを取って伝えられたものと考えられる。

図3 しかし、今回の地震でこの荒浜地区を襲った津波の高さは10mに達していたことが荒浜小学校に残った津波の痕跡から明らかになっている。平野部としては世界最大級だそうである。想定の10倍近い津波が押し寄せたのである。残念ながら、「県道塩釜亘理線より東には入らないこと」という事前の指示は、あまり意味を持たなかった。東日本大震災後に改定された新しい津波ハザードマップ(図3参照)では、津波警報で避難勧告が出される津波避難エリア気帽喇与恵篭茲魎泙瓩晋道塩釜亘理線以東の全域が含まれることになり、津波避難エリア兇聾道塩釜亘理線の西側一帯が含まれることになった。


なぜ被災するまで現地に留まっていたのか
 気象庁がまとめた「東北地方太平洋沖地震による津波被害を踏まえた津波警報の改善の方向性について」によって、今回の地震における津波警報発表経緯を追ってみると概ね、

 ゞ杁淬録迷報における地震波データの処理で、地震検知から約105秒後に地震の規模を最終的にM8.1と推定した。
 地震発生の3分後、津波警報第1報(高さ予想は宮城県6m、岩手県・福島県3m)を発表し、直ちに検潮所等による津波の監視を開始した。
 C録免生の13分後、津波観測データに基づき、大船渡で第1波引き波0.2m、最大波0.2mと報じた。
 15時10分頃から岩手釜石沖などのGPS波浪計において潮位の急激な上昇が観測されたため、15時14分に津波警報の第2報を発表し、予想される津波の高さを宮城県10m以上、岩手県・福島県6mなどに引き上げるとともに津波観測情報を発表した。
 イ修慮紊盂ご濾婉瓩慮…所における津波の観測状況から、津波警報の続報を発表した。

となっている。

 これを見ると、地震発生から3分後に、既に宮城県沖地震における想定を上回る6mの高さ予想を伴った津波警報が出されていることが分かる。さらに気象庁は、地震発生から28分後の午後3時14分には予想される津波の高さを宮城県で10m以上と上方修正している。

 弟が荒浜地区に向けて出発した午後3時17分の時点では、既に気象庁の津波の高さ予想は宮城県内で6mから10m以上へと引き上げられていたことになる。すなわち、想定をはるかに超える津波が荒浜地区を襲う可能性があることは若林区役所を出発しようとしたこの時点で既に分かっており、その上で前述の「仙台市地域防災計画」で区本部の役割として規定されている住民への避難誘導のために荒浜地区に向かったわけである。当初の「津波浸水予測図」の想定の下では、県道塩釜亘理線より東の荒浜新地区などは、津波浸水予測地域から外れ、危険のない地域であったが、その後想定外の大津波警報が出されていたことからも分かる通り、これらの地区は一転して「危険地域」へと変わっていたわけである。

 先に挙げた通り、避難誘導体制のうち避難広報等については、「避難勧告等を行ったときは、消防車、広報車及び報道機関との連携等により迅速に地域住民等に対し周知徹底を図」るとされている。ところが、予想を超える巨大な地震に遭遇したためか、先の消防職員の証言から判断しても、「消防車、広報車及び報道機関との連携等」が積極的に行われた形跡は見られない。当時は、にも関わらず「迅速に地域住民等に対し周知徹底を図」ることが求められていた状況であったのであり、その任務の遂行のためには、事前の「県道塩釜亘理線より東には入らないこと」との指示を敢えて踏み越えて、県道塩釜亘理線の東の荒浜新地区にて避難広報活動を行う必要があったわけである。

 繰り返すと、仮に事前指示通り、県道塩釜亘理線より東に足を踏み入れず、その以西を範囲として避難広報活動をしていたとしたならば、荒浜地区の大部分の住民に対して津波からの避難を周知徹底させることは不可能であったはずである。弟は、命じられた荒浜地区における避難広報を徹底するために、消防職員の証言にある通り、荒浜新の住宅街に入って避難呼び掛けをしていた。それは、県道塩釜亘理線よりも東に位置する荒浜新地区で避難呼び掛けを行えば、荒浜新地区はもちろん、同地区の東側に隣接し、荒浜地区の世帯の多くがある荒浜北丁、中丁、南丁、西、一番山の各地区の住民に対しても避難広報の周知徹底を行うことは可能だからである。

 さて、事前指示の2つめは「ラジオをつけながら行くこと」であった。弟が避難広報活動を行っていた時点では、気象庁の津波警報発表経緯に見られる通り、ラジオは気象庁の大津波警報の内容や、仙台平野よりも早く津波が襲来した三陸沿岸地域における状況を繰り返し伝えていた。したがって、ラジオから情報を得ていたならば、弟は、自らが大変な生命の危機に曝されていることを相当程度理解していたに違いない。

 では、にも関わらずなぜその危険な地域に、最終的に被災するまで留まっていたのか。消防職員の証言い砲△訥未蝓⊂男豹Πが荒浜地区を離れようとしたその時にも荒浜新地区からは避難を呼び掛ける広報車の声が響いていたのである。この時に弟もその場を離れてくれていれば、と思わずにはいられないが、それを解く手がかりとなるのは東京経済大学の吉井博明氏による「津波避難行動に関する調査結果」である。これを見ると、三陸沿岸の市町村と今回弟が赴いた荒浜地区のある仙台市若林区とでは、津波に対する意識に大きな差があったことがわかる。

 例えば、実際に避難した人に「地震発生の何分後に避難開始したか」を聞いた結果の平均は、三陸沿岸の南三陸町や女川町が11分であるのに対し、仙台市若林区は16分と、5分もの差がある。津波からの避難において、この5分の差はあまりにも大きい。「津波来襲確信度」についても、南三陸町では「津波が必ず来ると思った」と答えた人の割合が63.0%なのに対して、仙台市若林区では28.6%である。仙台平野は長らく津波に襲われた経験がない。荒浜地区の住民も三陸沿岸の住民と比較すると、「地震即避難」という意識が薄いと言わざるを得ない状況であったのである。

 実際に避難をした住民を比較しても三陸沿岸と仙台市若林区とではこれだけ差があるのである。しかも、この調査はあくまで「避難して助かった人」への調査である。津波から避難しなかった人の多くは津波に巻き込まれてしまったと考えられるので検証は不可能だが、避難しなかった人の割合も恐らくは三陸沿岸よりも仙台平野の方がはるかに高いはずである。弟は、三陸沿岸の住民に比べて津波に対する危機意識が高いとは言えなかった荒浜地区の住民に対して、身に迫る危険を感じながらも少しでも多くの住民を避難させようと繰り返し避難を呼び掛け続けたのであり、その結果津波により命を落としてしまったのだろう。

 もちろん、そのことで荒浜地区の住民を責めることなどできない。私とて、仙台平野をこれだけの津波が襲うとは思ってもいなかった。他の多くの仙台市民もそうだったのではないか。恐らく住民だけではなく行政もそうだったのだろうが、三陸沿岸の自治体に比べて仙台平野沿岸の自治体では、津波に対する防災教育も十分行われていなかった。以前紹介したように、歴史を紐解けば、この地を再三大きな津波が襲っていたことは分かるのだが、そうしたことも十分意識されていなかった。

 だが、次は同じ言い訳は通用しない。日本で百万都市がこれだけの津波に襲われたのは、恐らくここ仙台が初めてである。ひょっとすると、世界でも例がないのではないだろうか。ならば仙台は今後同じような津波被害が他地域で繰り返されないように、特に平野部を襲う津波について研究を重ね、日本のみならず世界にその情報を発信していくのが、責務とも言うべき役割であろう。

 当日の乗車車両である仙台市の公用車スズキ・エスクード・ノマドが見つかった地点は荒浜新から西に約500m離れた荒浜南長沼地区内であり、荒浜新で津波に遭遇し、津波によって西に運ばれたと推定すると辻褄が合う。ただし、弟は最後、車に乗ったまま津波に巻き込まれたのではなかったようである。弟の遺体は、広報車が見つかった場所からさらに西に数10m離れた沼の中から見つかっている。発見された広報車は、リアウィンドウが割れていたが、シートベルトは外れた状態だった。確かに津波の力はものすごいのだろうが、だからと言って、事故の衝撃でも外れないことを想定して作られているシートベルトを外してまで人間を車外に攫っていくことまでは考えられない。弟は自分でシートベルトを外して車外に出たのである。

 その理由は恐らく渋滞である。当日津波からの避難の車で県道塩釜亘理線はかなり渋滞していたという証言がある(参照サイトの<8>)。とすると、荒浜地区から県道塩釜亘理線に出る道路も同様だったに違いない。弟が区役所から荒浜地区に向かった道路の逆方向の車線もそうだったろう。残念ながら、荒浜地区への車での出動は、行けはしても戻ってくることは困難な「片道切符」だったわけである。

130311-153825 左の写真は、今日の午後3時38分に撮影したものである。荒浜地区から県道塩釜亘理線に出る道路である。つまり、海を背に西の内陸部に向かう道路である。右に写っているのは、この地区唯一の避難場所であった仙台市立荒浜小学校である。今日は午後3時まで、この地区の合同慰霊祭が行われていた。この地区の住民はほとんど他地区で避難生活を送っているので、この慰霊祭に参加するために殆どの人が車でこの地を訪れた。それが終了して帰途につく車が列を連ねているのが分かる。恐らく震災当日も、避難しようとする車が同様に列を連ねていたに違いない。

 津波の襲来を目撃したのか、最後の瞬間、弟は車を離れ、走って避難をしようとしたのだろう。海岸沿いの防潮林を超えてくる巨大津波を間近に見て弟は何を思ったろう。その後、陸上でも30km/h以上という津波の速さには勝てず、弟は結局は津波に巻き込まれてしまった。その時刻は、荒浜地区に隣接する名取市で津波第一波の到達時刻が午後3時50分だったこと、消防職員の証言があることなどから、恐らく午後3時53分頃だったものと考えられる。

 若林区役所から荒浜地区までは、私の自転車で飛ばして15、6分である。車だともっと速いだろうから、午後3時17分に若林区役所を出て、弟が荒浜地区に到着したのは恐らく15時30分前後、そこからの20分間余りの時間は、弟の生涯で最も重大な時間だった。弟は文字通り命を賭して、命ぜられた住民避難のための広報活動に最後の最後まで尽力したわけである。

 弟の友人で、このブログにも何度かコメントを書いてくれた高橋さんが、ご自分のブログに弟のことを書いてくれた時に、荒浜出身の方からコメントをもらったそうである。その方の叔母さんが津波の危険を察知して避難したのは、どうやら弟の広報活動のお蔭だったらしい。なんでもその方の叔母さんは、停電で情報がない中、避難を呼びかける声が尋常な様子ではなかったから外へ出たのだそうである。きっと弟の必死の思いが声に出ていたのだろう。それによって避難を促すことができたのであれば、任務は間違いなく遂行されたわけである。

 コメントを残してくれたその方は、私の両親に宛ててこう結んでくださっている。

最後の最後まで、市職員として任務を全うされた息子さんのおかげで、たくさんの命が救われました。本当にありがとうございました。ご冥福をお祈り申し上げます

 この言葉は弟への何よりの手向けである。

anagma5 at 23:54|PermalinkComments(2)TrackBack(0)clip!

2012年03月14日

私的東北論その33〜地震から1年が経って

120311-160836 地震発生から1年経った。3月11日には、弟が見つかった仙台市若林区荒浜にある南長沼に久々に足を運んで、花を供えてきた。

 南長沼には先客がいた。以前、このブログにもコメントを寄せてくれた「ブルーバードつながりの知人さんだった。「ブルーバードつながりの知人」さんは、弟とは弟の愛車だったブルーバード(ただのブルーバードではない。U12型のSSS ATTESA LIMITEDという、知る人ぞ知るマニアックなスポーツカーである)が縁で知り合ったそうである。弟がたまたま駐車場で車いじりをしていた際に声を掛けてくれてそれ以来親交が始まったとのことだった。

 聞けば「ブルーバードつながりの知人」さんは、この日だけではなく、なんと月命日である11日には毎月この南長沼を訪れて弟の冥福を祈ってくれていたらしい。両親もこの南長沼で「ブルーバードつながりの知人」さんとばったり顔を合わせたことがあったそうである。実の兄である私がこの南長沼を訪れるのなど昨年5月以来10か月ぶりだと言うのに、弟は本当にいい友達を持ったものである。もっとも、ずぼらで知られる私との比較があまり意味のあることではないのは言を俟たない(笑)。

 さて、この1年いろいろなことがあった。もちろん、これだけの大きな地震であるから、復興は途上であるが、それぞれに新たな歩みを始めている。先日ドクター・ディマティーニの講演を聴く機会があったが、氏は、起きた出来事はすべてニュートラル、どんなことにも必ずプラスとマイナスがあると話していた。その両方に目を向けることが大事で、プラスにだけ目を向けるのはファンタジー、マイナスにだけ目を向けるのは悪夢だと強調していた。震災に関するこの1年の動きにももちろん、プラスもマイナスもある。肝心なのは、ファンタジーに生きるのではなく、さりとて悪夢の中に生きるのでもない、絶えず現実を見据えて一歩ずつ進むことである。

 震災関連で最近よく耳にするのは震災瓦礫の広域処理問題である。仙台にいる私から見ると、もちろん放射線量の高い地域の瓦礫は放射性物質の拡散を防ぐ意味でも域外に持ち出すべきではないと思うが、放射線量が高くない地域のがれきで域内処理が追いつかない分についてはもう少し協力が得られてもいいのではないか、という印象を持つ。ただ、きっと受け入れる側にとっては、東北は押し並べて放射性物質に汚染されていると見えるのだろう。

 誰が作成したものなのか不明だが、それが分かるような秀逸な図がネット上にアップされていた。東電と政治家の認識はネタだろうが、東北と他地域の汚染地域についての認識の差は、確かに概ねこのようなものだろうと思う。岩手県宮古市のがれきの受け入れに福島第一原発からほぼ同じ距離にある神奈川県で反対運動が起こる、原発の放射性物質の影響がほぼないに等しい青森県の雪を使ったイベントが沖縄で中止になる、といった事態は、まさにそうした認識の差の現れであると言える。そのような中でも、東京や静岡に加えて青森、秋田、山形の同じ東北の3県が瓦礫受け入れを表明してくれているのはやはり心強く、ありがたいことである。

 しかし、だからと言って、がれきを受け入れない自治体を東北にいる我々が責めてはいけないと思う。受け入れは現在のところ、義務ではなくあくまで受け入れ側の善意・好意によるものであるからである(今後は国が法律に基づいて自治体に要請するということだそうだが)。我々としては、受け入れてくれる自治体には感謝しつつ、さりとて受け入れてくれない自治体を恨みに思わず、受け入れられない分については、自分たちで何とか処理する方法を考える機会を与えられたと考える方がよいと思う。

 実際、自治体の首長からも、がれき処理を雇用対策の事業として自前でやりたいという意見が出されていることでもあるし(岩泉町長のインタビュー陸前高田市長のインタビュー)、多くの自治体が計画している沿岸部の海岸防災林の復旧や「復興の森」構想にもがれきは使える。まさに知恵の出しどころである。

 海岸防災林について言えば、今回仙台平野の沿岸に植えられていた松は軒並み津波に倒され、それだけでなくがれきの一部となってかなり内陸の方にまで押し流された。津波そのものはもちろんだが、この倒れた松がぶつかったことによって倒壊した住宅もあったのではないだろうか。ところが、よくよく見てみると、同じ仙台平野でもほとんど根こそぎ松が倒された地域と、かなりの密度で松が残った地域がある。地形の面から言って、仙台平野に押し寄せた津波にそれほど地域差があったとは考えられないので、その違いは何なのか気になっていた。

 そうしたところ、この記事(海岸林が発揮した防災機能)を読んで謎が解けた。やはり、沿岸の松(クロマツ)が根こそぎ押し倒された場所と、倒れずに津波を受け止め、津波が住宅地に押し寄せる時間を遅らせた場所があったのだそうである。そして、そのクロマツが津波を押しとどめた時間のお蔭でその地域の住民は仙台空港に逃げ込むことができたというのである。仙台平野の防潮林は今回の大津波に全面敗北したわけではなかった。場所によってはしっかりその役割を果たしていたのである。その違いは、記事によれば盛り土をして植林したか、海岸の砂に直接植林したかだったそうである。盛り土をせずに植えられたクロマツは砂の上では十分に根を張ることができず、わずかな力で倒れてしまう。それが津波によって倒された松と、踏みとどまって住民の命を救った松との違いだったのである。

 実際に「復興の森」となるような海岸防災林をつくるとすれば、このようにいざという時に、津波を完璧に防ぐことはできなくても、その威力を弱め、近隣住民が避難できる時間をつくることができる森にしなければいけない。この記事(がれきも生かし、自然植生で「森の防波堤」を作ろう)によれば、そのためにはぜひともがれきが必要だというのである。倒壊した家屋の木材やレンガ、コンクリートといった多くのがれきをある程度の大きさに砕いて土と交ぜれば、「森の防波堤」のマウンド(土台)作りに活用できるのだそうである。そのマウンドの上に、松だけでなくその土地本来の常緑広葉樹を中心に混植していけば、15〜20年後には多層群落の「本物の森」が育つ。その根は地中深く育つのでマウンドのがれきをしっかりと固定でき、かつがれきで土中にすき間ができるため、根が呼吸できるというのである。誰も引き受けたがらないがれきだが、実は防災にとって欠かすことのできない重要なアイテムともなり得るのである。

 もう一つ復興の上で避けては通れないのは、まさにがれきの広域処理が進まない大きな要因となっている原発事故を抱えるその福島の問題である。先日、ある人からこう言われた。「宮城県として福島県に救いの手を差し伸べているのか」、と。これには虚を突かれた思いであった。同じ被災地であって、こちらは津波による甚大な被害、あちらは津波プラス原発事故による影響。しかし、福島は大変だということは重々承知しつつ、こちらも被災地であるという思いがどこかにあって、それでこちらから積極的に支援の手を差し伸べてはこなかったのではないかと気づかされた。

 福島を失っては、東北は東北でなくなる。福島を助けることが、東北全体が立ち上がるためには不可欠である。もちろん、まだまだ大変なことも多いが、その大変な中でも決して福島のことを忘れず、できることは助力を惜しまないという意識が、この先も長く続く復興のためには必要なことだと思う。

 南長沼で弟には、とりあえず元気でやっているということくらいしか報告することができなかった。来年、この地を訪れる時にはもっと多くのことを報告できるようにしたいと思う。

anagma5 at 18:23|PermalinkComments(4)TrackBack(0)clip!

2011年08月15日

私的東北論その29〜震災後初のお盆に寄せて

1108_2  昨日、夢を見た。夢の中で弟は震災後も生きていた。その理由は忘れたが、「それで無事だったんだ、本当によかった」と私も納得して、笑顔で談笑していた。しかし、夢の中の私の脳裏によぎるものがある。「あれ?それじゃあの時安置所で見た弟の遺体は何だったんだ?」と。夢の中ではその後も弟と一緒にいるのだが、だんだん夢の中の状況と現実に体験したそのこととの矛盾が抜き差しない亀裂となって夢の世界が維持できず、それで目が覚めた。夢の中の世界さえも、現実に起きたことによって浸食されてしまったのかと思った。でももし、夢の中で矛盾を来すことなく幸せだったなら、目が覚めた時の現実との落差がもっと大きかったに違いないから、それでよかったのかもしれない。

 弟が死んでから知ったのだが、弟もブログを綴っていた。弟は私のこのブログのことを知っていたが、私は弟のブログのことは知らなかった。最近初めて見たのだが、5年前の3月から書き始められ、ほぼ日をおかず書き綴られていた。投稿件数は908!私のブログは始めたのこそ弟より早かったが、投稿はこれで244件目だから弟のブログはその4倍近くの投稿件数である。ただただ、すごい! 最後の更新は3月10日。地震の前日である。その次の更新を、弟はすることができなかった。

 話題は、弟が大好きだった自然のことがメインで、それ以外にも日々の仕事のことや政治に関することまで幅広く書き綴っていた。その中ではいわゆる有害鳥獣のことについて繰り返し取り上げられていた。そうした動物への優しい眼差しを弟は持っていた。兄貴が「どこそこで飲んだくれてた」なんてことを書き連ねていた間に、弟はとても意味のある情報を発信していた。「賢弟愚兄」という言葉があるが、いやはやまさにその通りである。

 以前ここに追記した、弟がかつて勤務していた仙台市博物館での「震災復興パネル展」、このお盆休み中にようやく見に行ってきたが、自然をこよなく愛した弟らしく、博物館周辺の豊かな自然が余すところなく写し出されていた。弟はこれらの写真を自費で写真集にまとめ、博物館に寄贈していたが、その後書きで「自然を美しいと思える人の感性・気持ちは、自然以上にすばらしい」と書いているそうである。我が弟ながら本当にいいことを言う。その通りだと思う。しかし、まさかその弟がこよなく愛した自然に命を奪われることになるとは、なんという巡り合わせなのだろうか。

 弟の職場の同僚が、地震が収まった直後にデジカメで写したという写真を、両親に届けてくれた。その写真には、弟が写っていた。弟の斜め後方から写した写真のようで、弟は地震で散乱した書類の整理をしていた様子である。弟の生前、最後に撮られた写真であることは間違いない。「この時はまだ生きてたんだよな」と思う。弟自身も、まさかこの数十分後、自分が命を落とすことになろうとは、夢にも思っていなかったんだろうなと思う。

 「メメント・モリ(memento mori)」というラテン語については、大学の時の美学の講義で習った。「死を忘れるな」というこの警句は、西洋の様々な文化・芸術の根本を成していたそうである。

 我々はいつか必ず死ぬ。その「いつか」は今日かもしれないし、明日かもしれないし、数十年後かもしれない。私などは普段そのことをうっかり忘れて、昨日の次に今日が来たように、今日の次は当然のように明日が来るということを信じて疑わないのだが、その「当然来る」と思っていた明日が来ないということだって、当然のように起こり得るのだということを、私は今回の地震で改めて思い知った。

 弟が死んでから時々ふと、「今この状況で自分が死んだとしたら」ってことを考えるようになった。今この状況で死を迎えたとしたら、果たして自分はその死を受け入れられるだろうか、と。いつ何時、死ななければいけない状況を迎えたとしても後悔しないように毎日を生きていたい、そう思う。もし今死ななければならないとして、いろいろやり残したことはあったとしても、そう悪くない人生だったと思うことはできると思う。遺された人たちはもちろん悲しむだろうが、きっとその悲しみを乗り越えて自分の人生を生き切ってくれるとも思う。そう思えても、やっぱりできればもっともっと生きていたい、そう思うものなのだなと思う。だからこそ、弟の無念さも胸に迫る。

 何となく漠然と、お互い爺さんになっても一緒にいられるものだと思ってた。まさか「享年38歳」なんて書かれることになろうなんて思ってもいなかった。生きていればきっと、私なんかよりもっともっと、世の中のためになるいい情報を発信し続けていたに違いないと思う。それがある日突然、何の前触れもなく、途中で断ち切られてしまう。本当に人生というものは思う通りにはいかないものだ。

 「弟の分まで生きる」、などということは、不肖の兄にはできっこない。弟の人生は弟のもので、それは誰も代わりになることのできない、かけがえのないものであった。それが失われたということ、それは返す返すも残念なことであるが、そういう人生を生きた弟が間違いなくいたということ、そのことを忘れないことが私にできる唯一のことであるのだと思う。

 そうそう、「メメント・モリ」、今では「自分がいつか必ず死ぬことを忘れるな」という戒めの意味で使われるが、元々はその裏に「だからこそ今この瞬間を楽しめ」という意味が込められていたのだそうである。中尊寺貫主も務めた作家の故今東光氏は「人生は、冥土までの暇潰し」と喝破したそうである。それは人生を矮小化するものではない。だからこそ、それまでは「極上の暇潰し」をすべきなのだと今氏は諭したのだそうである。洋の東西を問わず、賢人は人生の本質を知っていたということなのだろう。

 写真は、仙台市博物館のサイトで毎月更新されるカレンダーである。このカレンダーに使われている写真は弟が撮ったものである。今月のこの写真も「震災復興パネル展」で飾られていた。カメラのファインダーを覗いていた弟は、この美しい景色をぜひたくさんの人に見せたい、そう思ってひたすらシャッターを切っていたに違いない。「虎は死して皮を残す」と言うが、弟も本当にいろいろなものを残していってくれた。そのことに感謝したい。


追記(2011.10.12):「愛・きずな・希望−支え合う笑顔と緑のわかばやし−」をテーマに、第23回若林区民ふるさとまつりが10月16日(日)に若林区役所の特設会場で開催される。弟は毎年、このまつりを訪れる子供たちの笑顔見たさ、ただそれだけのために、まつりが近づくと毎日夜遅くまで一生懸命準備をしていたそうである。

 そのまつりで、今回は「震災パネル展」も開催される。その中では弟が撮った震災前の若林区の写真も展示されるとのことである。

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2011年05月27日

私的東北論その22〜仙台を「防災先進都市」に

無題 弟が見つかって、実に地震から50日ぶりの帰宅を果たした翌日の5月2日、仙台市長の奥山恵美子氏が、弟が両親と住んでいた自宅に弔問に来てくださった。

 市長は「慈しみ育てられた息子さんがこのようなことになってしまい、本当に申し訳ありませんでした」と涙ながらに謝罪してくれた。そして、「今更このようなことを申し上げても繰り言になってしまいますが」と前置きしてから、「職務に当たって十分な安全性の確認をもっとできなかったのか、職員の命を預かる責任者として自分自身に何度も問いかけています」ともおっしゃってくれた。事前にいろいろな職員に弟のことを聞いてくれていたのであろう。弟がこれまでに勤務したそれぞれの職場での弟の働き振りなどについても両親に話してくれた。今回の反省を踏まえて防災マニュアルについても見直す考えであることも伝えてくれた。

 そのように市長と両親が交わす会話を聞きながら私はふと、市長に面と向かってものを言える機会など今後もそうはないだろうなと思った。ならば、言っておくべきことは弟のためにもぜひとも言っておかなければと考えた。

 そこで私は市長に言った。

「市長、ぜひ『防災先進都市』をつくりましょう。想定を超えるような災害が来ても、市民も職員も命を落とさずに済む、世界に誇れるような街をつくっていきましょう」

と。

「市長のお話を伺っていると、今回の地震の対応に当たっての課題や問題は既に把握していただいていることが分かります。その対策はぜひ早急に進めていただきたいと思います。一方で、前回の宮城県沖地震以来の地道な取り組みの積み重ねが功を奏して、想定を超えるような今回の地震でも、建物の倒壊で亡くなった方はほとんどいませんでした。そうした建物の耐震性は今後もさらに高めつつ、あとは弟やたくさんの市民の命を奪い去ったあの津波さえ何とかできれば、仙台は世界に冠たる『防災先進都市』になれると思います。『さすがは仙台、あのどん底から這い上がってこのような街へと復興を遂げるとは』と言ってもらえるような、そんな街に仙台をしましょう」

そう申し上げた。市長はうなずきながら黙って聞いてくれた。

 5月4日に行われた葬儀・告別式では、稲葉信義副市長が出席して、奥山市長の弔辞を代読してくれた。その中に、以下のような一節があった。

「二度とこのような悲劇を繰り返さないように防災マニュアルの見直し等を行ってまいります。そして今後は仙台の復興に向けて全身全霊を賭して取り組み、どんな地震や津波がきてもあなたがその身を挺して守ろうとした、仙台市民の皆様が安心して暮らしていける防災都市を目指し、街づくりを進めていくことをここにお誓い申し上げます」

 これは、奥山市長からの回答だと、私は思った。そのような街が本当に実現できるように、弟の代わりに見守りたいと思う。と同時に、私も自分のできることからやっていこうと思う。


 写真は、弟が好きだった泉ヶ岳である。弟本人が撮影したものである。

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2011年05月06日

私的東北論その21〜帰ってきてくれた弟へ

110429-152957 東北地方太平洋沖地震以来、行方不明になっていた弟が見つかった。4月28日のことだった。

 弟が行方不明になった荒浜地区では、その後も自衛隊、消防、警察による捜索活動が連日行われていた。その尽力のお陰で、あのおびただしい瓦礫がいまだ山積してままの荒浜地区ではあるが、その捜索はほぼ終了していた。残る行方不明者のうちの幾人かは、地区内にある南長沼という沼の中にいるのではないかということになり、その南長沼を集中的に捜索することになった。私が何回か足を運んでいた時は辺り一面浸水していたので、沼があることすら分からなかったが、沼とは言っても、縦300m、横100mくらいあるけっこうな大きさの沼のようで、その沼の水を抜きながら捜索するとのことだった。

 もし津波が引いた時に一緒に海まで流されていたとすると、恐らく見つかるのは相当難しいと思っていたので、何とかその南長沼で見つかればと願っていたが、果たしてその沼に沈んでいた瓦礫の下から弟は見つかった。知らせを受けてすぐ遺体安置所に駆けつけ、両親と落ち合い、検死が終わるのを待ってやっとのことで会いたかった弟と対面した。警察の方からは、日数が経って遺体はかなり損傷していると聞いていたので、どんなに変わり果てた姿になったのかと思っていたが、実際に見てみると、ずっと水の中にいたせいか、思っていたような損傷もなく、見ればすぐ弟だと分かる姿形だった。

 地震発生から四十九日に当たる、GWの前日に出てくるというのも、いかにも弟らしいと思った。四十九日を過ぎても出てこないとなれば、両親の悲しみはいかばかりかと考えたのかもしれない。GW前日なら兄の私も仕事を休まなくても済むと考えたのかもしれない。そう思わせられるようなタイミングだった。弟が入職して最初にお世話になった先輩は、弟が「『自分は後で構わないからまず亡くなった市民の方々を先に探してあげてください』と言っていたように思えてならない」、そう言ってくださった。

 私が以前このブログで弟について書いたものを読んでくださった弟の友人からは、「本当にあのブログに書かれているとおりで、どうやって相手を喜ばそうか、喜んだらそれが自分の喜びにもなるからいっそう励んで他人を喜ばす、そんな方でしたね」と言っていただいた。先の先輩からも、ご自分が趣味でやっているオーケストラのコンサートの時に、必ず弟は大きな花束を持って駆けつけていたと聞いた。仕事の都合で足を運べない時には、自宅に花を届けに行っていたそうである。告別式の折にも「純平さんには本当にいろいろと助けていただいて」と言って泣いてくださった職場の方も数多くおられた。

 私にとって嬉しかったのは、弟の優しさがそのように、両親や私といった身内にのみ向けられたものではなく、弟が関わった相手すべてに向けられていたということである。自慢じゃないが、私などとても同じようなマネはできそうにない。改めて、我が弟ながら、本当にいい奴だったんだなあとしみじみ思う。だからきっとあの日、弟は荒浜地区に出掛けていったんだろうなと思う。

 仕事の話などはお互いにあまりしないでしまったが、ブログを読んでメールをくださった方々から仕事のことも聞くことができた。泉岳少年自然の家に勤務していた時には、泉ヶ岳に生えたり住んだりしているすべての種類が揃っているんじゃないかと思うような膨大な種類の植物・動物・昆虫などの写真を撮り、その一つひとつに丁寧な解説文をつけていた。それは今も泉岳少年自然の家のサイト内で見ることができる。仙台市内の小学校では5年生になるとたいていそこで泊まりがけの野外活動を行うが、恐らくそこを訪れる子供たちの学習の助けになればと考えてコツコツとつくっていたのだろう。仙台市博物館に勤務していた時には、地震が発生すると自動ドアを自動的に全開放にするシステムを導入したそうである。細かいところによく気のつく弟らしい話である。「仙台市にとっても本当に大きな損失でした」と言って泣いてくださった弟のかつての上司の方もいた。故人を偲ぶ言葉とは言え、そこまで言ってもらえるのは、弟が本当に職場で真摯な姿勢で仕事をしていたということなのだろうなと思う。自慢じゃないが、もし私が死んでも、私の職場の上司からはお世辞であっても決してそのようなセリフは聞かれないだろう(笑)。

 無言の帰宅ではあったが、住み慣れた家に連れて帰ることができたし、火葬もして、通夜も葬儀・告別式も行うことができた。だからと言って寂しさがなくなるわけではないが、とりあえず一区切りはついたと感じられた。と同時に、いまだ行方の分からない方々が一万人以上いる現実の重さに思いは至る。その一万人以上の行方を探し、あるいは帰りを待つ、一万人以上のその数倍もいるであろう方々の心中やいかばかりであろうか、と。遺体が見つかって葬儀まで行って一区切りついた、と私が感じたということは、まだ遺体が見つかっていない方の家族・親戚・友人・知人の方々の中には、いまだご自分の気持ちに整理や区切りをつけられないままの方も数多くおられるに違いない。自衛隊、消防、警察の方々も、一人でも多くの遺体を肉親の元へ返そうと、それだけを思って捜索活動を続けておられると聞く。どうか一人でも多くの遺体が、待つ人の元へ早く帰れるよう、今はそれだけを強く願いたい。


 写真は、弟が見つかった南長沼である。今も捜索活動が続いている。荒浜地区での行方不明者は、弟が見つかってあと54名となったそうである。一人でも多くの方がここで早く、見つかってくれればと思う。


追記(2011.5.31):弟がかつて勤務していた仙台市博物館では、6月7日(火)から8月下旬まで1階エントランスホールで「震災復興パネル展」を開催する(入場無料)。

 展示内容は/椋劵僖優襦仙台平野の歴史地震と津波」、⊆命織僖優襦仙台市博物館の四季」、メモリー・オブ・ザ・ワールド推薦記念パネル「支倉常長と国宝〜慶長遣欧使節関係資料」の3つだが、このうちの写真パネル「仙台市博物館の四季」で展示される博物館周辺の四季折々の写真40点は、弟が撮影したものである。市民の方々への癒しと、弟への追悼の意味を込めて企画してくれたものだそうで、大変ありがたいことである。

 弟は、博物館に勤務していた折、周辺の四季折々の景色を自分のカメラに収めていたばかりではなく、それを写真アルバム「博物館の風景」としてまとめ、博物館に寄贈していたそうである。同じ写真は、来館者用の情報提供システムのパソコンのスクリーンセーバー画像としても使用されているそうである。展示される写真はこうした写真の中から選ばれたもので、写真に付けられるキャプションもアルバムに弟が記載した文章がそのまま使われるそうである。




純平へ
両親を始め、本当にたくさんの人がお前の早過ぎる死を悼んでいっぱい泣いてくれた。
お前は本当に、周りのすべての人に対して、その時に自分ができる目いっぱいのことをいつもやってきたんだな。
オレの弟とは思えないくらい、えらいヤツだったな。
そのことにお前が死んでから気づくとは、オレはお前の何を見てたんだろうな。
ゴメンな。
でも、この上オレまで泣くとお前は心配するだろうから、オレは泣かない、笑って送ると決めた。
お前はいなくなってしまったけど、お前と一緒にいた時間は、忘れっぽいオレにもかけがえのない貴重な思い出として、心の中にいつもある。
だから今、オレは笑って、お前にこう言いたい。

「38年間、オレの弟でいてくれて、本当にありがとう」

またきっと会おうな。

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2011年04月01日

私的東北論その16〜津波の彼方に消えた弟へ

110316-150042 ひどい地震だった。3月11日午後2時46分。「東北地方太平洋沖地震」と名付けられたその地震では、ものすごい揺れが5、6分も続いた。「もういい加減止まってくれ」と思わず叫んでしまいそうな強く、長い揺れだった。とんでもない地震が来たと直感した。その後すぐ、東北と関東の太平洋側すべてに出された「大津波警報」。「津波警報」の上に、さらにそんなのがあるとはその時まで知らなかった。そして、その通りに押し寄せた大津波。仙台湾に押し寄せた津波の高さは何とおよそ10mにも達したという。仙台がそんなとんでもない津波に襲われるとは想像だにしなかった。

 仙台を含む宮城県はたびたび強い地震に襲われてきた。いわゆる「宮城県沖地震」である。30〜40年おきに起こるというM7.5クラスの地震は、私がまだ子どもだった1978年にも起きた。それから33年。次の地震が起きてもおかしくはないと、それなりに備えも心構えもしていたつもりだった。しかし、実際に起きた地震は、子どもの頃に体験した地震とはまったく次元の異なる巨大地震だった。

 起こると分かっていた地震があっただけに、宮城県や県下の各市町村もその1978年の地震を基に、着々と対策を立てていた。宮城県沖地震で仙台の沿岸に押し寄せる津波の高さは最大で2〜3mと推定され、それに基づいて仙台の海岸には高さ5mの防潮堤が築かれていた。その防潮堤は今回の津波の前にはまったく無力だった。信じられないことに津波は、その防潮堤をやすやすと乗り越え、すべてを押し流してしまった。

 もちろん、対策が功を奏したこともあった。直下型でなかったということもあるだろうが、あれほど長く、強く続いた揺れにも関わらず、仙台市内では倒壊した建物はほとんどなかった。だから、地震そのもので命を落とした人の数はそれほど多くなかった。これは宮城県沖地震を踏まえて見直された建築基準法の成果だろう。しかし、想定外の津波が多くの命を奪い去ってしまった。

 私の弟は、仙台市内では特に津波の被害がひどかった荒浜地区を抱える若林区役所に勤務していた。まちづくり推進課という部署にいた。広報活動などもその業務の一環であったらしい。地震の後、弟は荒浜地区の住民に津波襲来の危険を知らせるため、市の広報車で出掛けて行った。そして、そのまま戻ってくることはなかった。

 いなくなったから言うわけではないが、とにかく優しく、いつも自分のことは置いておいて相手のことを先に考えるようなヤツだった。これでもかって言うくらいに親孝行していた。親孝行らしいことをちっともしていなかった私の分を補って余りあるくらい、いろいろよく気がついてはあれやこれや世話を焼いていた。

 安月給のくせに発泡酒や第三のビールじゃなく地ビールばっかり飲んでいる兄の私のことも心配してくれて、よく好物の銀河高原ビールを差し入れしてくれた。松島ハーフマラソンや日本の蔵王エコ・ヒルクライムで完走した時はご祝儀とか言って、やまやの商品券を1万円分もはずんでくれた。以前、このブログで宮古のレトルトカレーのことを書いたら、一風変わった品揃えが特徴のつかさやに並んでいたすべての種類のレトルトカレーを買って持ってきてくれた。店の人には「レトルトカレーの研究でもするんですか?」って聞かれたらしいが(笑)。ちなみに、このものすごい量のレトルトカレーは、今回の震災直後、食料が手に入りにくくなった際に、とても役に立ってくれた。

 仕事にもとにかく一生懸命だった。昨今、とかく公務員バッシングが喧しいが、中には弟のような真摯に職務に向き合っている人も少なからずいるのである。問題があるとすれば、それはそうした人材を使いこなせないトップの方にある。

 あの日、区役所を出て荒浜に向かった弟は、その仕事熱心さゆえに、逃げ遅れる人があってはならない、一人でも多くの人を助けたい、と、つい無理をしてしまったのだろう。もしその時、「無理しないですぐ帰って来い」と言っても、きっと弟は聞き入れなかっただろう。そういうヤツだった。

 数日前に弟が乗っていた広報車だけが若林区荒浜南長沼近辺で見つかった。両親がすぐに現場に足を運んだが、その場に居合わせた地元の消防隊の隊長は、「この車とはあの日、何回もすれ違った。一生懸命避難を呼び掛けていた。そのお陰で何人の人が助かったか分からない。立派でした」と言ってくれたらしい。父親は「立派でなくても生きて帰ってきてほしかった」と言ったそうだが、親の気持ちとしては本当にそうだったに違いない。

 私もまったく同じ気持ちで残念でならないが、その言葉を聞いて少し救われた気がする。弟はその最期の時まで、自分に課せられた職務を全うしたのだ。「最期までよく頑張った」と褒めてやりたい。警察官や消防隊や自衛隊ではない、たまたま人事異動でそうした部署に配属されただけだったにも関わらず、弟は自らの生命を賭して地域の住民の安全を守ろうとしたのである。私などには到底なし得ない、非常に崇高な行いを、弟はやってのけたのである。

 そうだと分かってはいても、たった二人きりの兄弟、いないというのはやはり寂しいものである。弟のようにいまだ行方の分からない人は、分かっているだけでもいまだ1万8千人もいるそうである。その1万8千人の人の行方を心配する人の数はその何倍もいる。そうした人たちの嘆きや悲しみは、本当に痛いほどよく分かる。

 でも、幸運にも生き残った私たちは、この場に立ち止まっているわけにはいかない。また元の日常を取り戻すために立ち上がらなければ、弟のように不幸にして人生を中座せざるを得なかった多くの人たちに対して申し訳が立たない。どんなにどん底まで打ちのめされても、そこからまた這い上がる力を、私たち人間は生来持ち合わせていると思う。命ある限りは、いくらでもやり直しはできる。そう強く思って、もう一度、あの何気ない、でもこの上なく幸せだった暮らしを自らの力で取り戻すのだ。

 ことに、ここは東北である。東北は、古より様々な災厄に見舞われてきた。今回のような自然災害にも数限りなく襲われた。時の権力者にいわれなく攻められたことも歴史上、幾度もあった。東北に住まう人たちは不屈の精神で、打ちのめされたどん底から、その度に立ち上がってきたのである。そうした人たちがいてくれて、今の東北はある。今回もそうでなければ、それは東北ではない。もちろん、時間は必要だろうが、東北は必ずやそこに住む人たちの力で復活する。


 写真は、弟を探しに行った時に撮ったものである。何もかもなくなった。あるのは瓦礫の山だけである。これ以上ない、ひどい有様である。でも、この無残な光景ですら、いつの日か必ず元の、あの海沿いののどかな普通の風景に戻るはずである。



純平へ
こんな形でもう会えなくなってしまうなんて夢にも思わなかった。本当に残念だ。こんなことならもっともっといろんなことを話しておきたかった。
もし生まれ変わりなんてものがあるのなら、次もまたぜひ仲のいい兄弟として一緒に生まれたいな。次に生まれ変わる時は、面倒見がよくてしっかり者のお前の方が兄貴でいいぞ。
オレが死んで生まれ変わるまでにはまだ時間がありそうだから、それまでは、お前が大好きで命まで捧げたこの仙台の街が、あまたの悲しみを乗り越えて復活する様を、どうか見守っていてくれい。

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