奥州藤原氏  

2011年07月01日

私的東北論その26〜時を超えて生き続ける清衡の思い

spotphoto_konjikido_01 平泉の「仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群」が、6/25にユネスコ世界遺産委員会の審議の結果、「世界遺産一覧表」に記載されることが決定した。日本の世界遺産暫定一覧表に記載されてからちょうど10年、日本が推薦書を提出した遺産の中で初めて「記載延期」の勧告を受けてから3年(その時書いたブログ)、ようやく関係者の念願が叶ったわけである。

 前回、「平泉―浄土思想を基調とする文化的景観」として提出された推薦書は、「記載延期」の勧告を受けて「平泉―仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群」として再提出された。その過程で以前紹介したように勧告に沿って構成資産を平泉町内にある6つのみに絞り込んだ。世界遺産委員会の審議ではその中の奥州藤原氏の居館跡である柳之御所遺跡も除外した上で「記載」と決定された。前回の「浄土思想を基調とする文化的景観」という名称は何度読み返しても意味がよく分からなかったが、それに比べると今回の「仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群」は言わんとしていることが明確でよい名称だと思う。

 平泉の世界遺産一覧表への記載というニュースを受けて、「震災からの復興に向けて大きな励みになる」といった声や、震災後減少している観光客の増加に対する期待の声も上がっている。ここでは、平泉の遺跡群がそもそも何だったのかについて、改めて考えてみたい。

 以前も紹介した中尊寺建立供養願文」。これは奥州藤原氏初代の藤原清衡の名で書かれているものである。実際には、当代きっての文章家として知られた藤原敦光の手になるものだが、その内容にはもちろん清衡の意向が隅々にまで反映されているとされている。私にとって特に印象的な一節は「二階の鐘樓一宇」について書かれた部分である。ここには「廿釣の洪鐘一口を懸く」とある。大きな鐘を懸けたわけである。その鐘について、

一音の覃(およ)ぶ所千界を限らず。苦しみを抜きて、樂を興へ、普く皆平等なり。官軍と夷虜(いりょ)の死事、古来幾多なり。毛羽鱗介の屠(と)を受くるもの、過現無量なり。精魂は、皆他方の界に去り、朽骨は猶此土(しど)の塵となる。鐘聲の地を動かす毎に、冤霊(えんれい)をして、浄刹(じょうさつ)に導かしめん。

と書かれている。

 「この鐘の音は、どこまでも響いていって、苦しみを抜いて楽を与える」、そしてそれは「あまねく皆平等である」、とある。「官軍の兵と蝦夷の兵が戦で命を落としたことは昔から幾多もあった。獣や鳥や魚や貝といった生き物が人間に殺されてきたことも過去から現在に至るまで数え切れない。それらの魂はあの世に去ってしまったが、その骨は朽ち、今もこの世の塵となっている。この鐘が響く度に、心ならずも命を奪われてしまった者たちの霊を浄土に導かせよう」、そのようなことが書いてある。死んだ者たちの敵味方は問わない。それだけではない。人間かそうでないかも問わない。とにかく、自分の生を全うできなかったあらゆる生き物の霊を、皆平等に浄土に導きたい、そのような思いが綴られている。

 供養願文の最後も、法皇や天皇を讃えた上で、次のような文章で締め括られている。

弟子の生涯、久しく恩徳の海に浴し、身後必ず安養の郷(くに)に詣(いた)らん。乃至鐵圍(てっち)砂界、胎卵濕化(たいらんしつけ)、善根の覃ぶ所、勝利無量ならん。

 弟子(ていし)というのは、清衡自身のことであるが、清衡自身は法皇や天皇のお陰で死後必ず浄土に至るだろうとまず書いている。それだけではない。自分だけではなく、世界中のすべての生き物にもそうした善根が及ぶ、それは量り切れないくらいだと書いている。つまり、自分だけ極楽往生するのではなく、ありとあらゆる生き物もそれは一緒だと言っているのである。朝廷の御願寺という位置づけの中尊寺の落慶供養願文で天皇や法皇への感謝を述べるのは普通のことだろうが、こうした目上の人だけでなく、清衡の周りにいる、朝廷からはおよそ人間扱いすらされてこなかったような蝦夷、そして人間だけでなくすべての生き物、そうした者への眼差しを持っていた清衡という人間の大きさを感じずにはいられない。

 しかもである。清衡のこの、全ての生き物を極楽浄土に、という思いは、決して絵空事に終わったのではない。清衡はまず東北の入り口である白河の関から東北の最北端である外ヶ浜に至る道(奥大道)の真ん中に中尊寺を置いた。そこには、浄土の象徴とも言うべき金色堂が輝き、中尊寺を中間点として東北を貫くその道の約100mおきには金で描かれた阿弥陀如来の笠卒塔婆が配置されていたという。また、清衡の勢力下にあった陸奥出羽両国には、一万余もの村があったが、清衡はその一つひとつの村に寺を建てたとの記述が、吾妻鏡にある。「中尊寺落慶供養願文」で高らかに宣言した、この東北を浄土とするための具体的なアクションを清衡は実際に起こしていたということである。しかもそれは、死んだ後の浄土というだけではなく今生きているこの地を浄土とする(此土浄土)という壮大な取り組みであったということに留意すべきである。

 今回の世界遺産一覧表への記載で、平泉を訪れる観光客は確かに地元の期待通り増えるだろう。しかし、中尊寺金色堂や毛越寺浄土庭園を見ただけでは、こうした清衡の東北全体を浄土とするというスケールの大きな取り組みの全貌は見えてこない。その象徴としての、その極々一部分としての、構成遺産なのである。以前も書いたが、何度でも強調したいと思う。そこの部分こそを一生懸命理解していただく努力をしなければ、訪れる人の平泉への理解は極めて一面的なものとなり、金色堂を見て「なんだこんなものか」とがっかりし、「二度は見なくてもよい」という感想を残して去っていってしまう、そのような結果にならないとも限らない。

 冒頭で触れた「仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群」という名称がよいと書いたのもそういうことである。清衡が目指した、この地域すべてを浄土としようとしたその取り組みのうち、現在まで建築・庭園あるいは遺跡として残っているものが、今回世界遺産となった、それが直接的に伝わるよい名称だと思う。平泉を訪れる人にはどうか、そのような視野で以て金色堂の輝き、浄土庭園の優美を鑑賞していただきたいものと切に願う。

 そうそう、藤原清衡のすごさについては、ここで私が何万言費やすよりもはるかに説得力を持って先達の方々が極めて的確にご指摘されている。中でも、「みちのく中央総合博物館市民会議」のサイトにある、「中尊寺落慶供養願文」についての佐々木邦世氏と高橋富雄氏の講演録はオススメである。

 藤原清衡の前半生は悲劇としかいいようのないものだった。前九年の役では父親である藤原経清を殺され、母親は父親を殺した相手である清原氏に嫁がされた。そのお陰で清衡自身も命は助けられるが、その後起こった後三年の役では母親が生んだ異父弟の家衡に妻子を殺され、その家衡を自らの手で討たざるを得なかった。そうした修羅場をくぐり抜けての後半生である。決して順風満帆に育った金持ちのボンボンが自らの権勢を誇るために思いつきで作ったというようなものではない。自らもこれ以上ない悲劇を体験した戦乱。その戦乱で多くの人が亡くなった東北の地をそのまま浄土とする、それが清衡の宿願だったわけである。

 その清衡の思いは、未曽有の大震災でやはり多くの人が亡くなった今の東北にも通じている。今、このタイミングで平泉が世界遺産となったのも決して偶然ではないように思う。今も金色堂にいる清衡からのメッセージが、力強く発せられているように思えてならないのである。清衡の思いは800年の時を超え、今も生きている、そう思えるのである。

 ― 我々が住んでいるこの地こそが浄土である ―

 このような時だからこそ、その清衡の思いに東北に住む我々も再度思いを馳せたいと思うのである(写真は中尊寺のサイトより)。


追記(2011.9.16):「中尊寺建立供養願文」は「中尊寺落慶供養願文」とも称されるが、ここでは中尊寺の表記の方を尊重して「中尊寺建立供養願文」としている。

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2010年06月19日

私的東北論その15〜「五郎がびっくり焼」を食べながら考える「『奥州幕府』よ、もう一度」

027b4df1.jpg 「五郎がびっくり焼」の「五郎」って誰?
 岩手県北上市に「五郎がびっくり焼」という和菓子がある。栄泉堂という地元の老舗の和菓子店がつくる、北上を代表する和菓子の一つである。胡麻を練り込んである小豆餡と上に載っている香ばしいクルミの組み合わせが絶妙でとてもおいしい。

 この「五郎がびっくり焼」という名前であるが、北上以外の人には「この、五郎って誰だ?」と思われるに違いない。もちろん野口五郎が北上出身というわけでもない。この「五郎」は、北上の開祖と伝えられる安倍正任(あべのまさとう)、通称黒沢尻五郎正任(くろさわじりごろうまさとう)のことである。

 正任は、前九年の役で源氏と戦った安倍氏の一族で、棟梁貞任の弟、先代の棟梁頼時の五男である。現在の北上市域にある黒沢尻を本拠としていたために、黒沢尻五郎と呼ばれていたようである。

 この「五郎がびっくり焼」は、北上の開祖、黒沢尻五郎正任に捧げるとの趣旨で作られた菓子であったらしい。そして、クルミ、小豆、そば、ごまなど、砂糖以外は正任が生きていた当時にもあった材料でできているにも関わらず、あまりにおいしいので捧げられた正任がびっくりするに違いないということで、この名がつけられたそうである。菓子の出来栄えに対する自信と、五郎正任に対する愛着とが感じられるエピソードである。

 東北の人にとって、古の東北にあって中央からの侵攻に対して抵抗した歴史上の人物にはシンパシーがあるように思える。「五郎がびっくり焼」にはそれがストレートに感じられる。アテルイを始め、この安倍一族、奥州藤原氏などがまさにそうだし、秀吉の奥州仕置に最後まで抵抗した九戸政実もそうかもしれない。幕末の会津藩もそうである。

 これら中央から見れば「逆賊」というレッテルを貼られた人に対して東北の人は総じて温かい気がする。そう言えば「判官びいき」もそうである。平安後期に安倍、清原、藤原と「政権交代」が続いた東北の地で、清原氏だけがあまり人気がないように見えるのは、清原氏が安倍氏と同じ東北の俘囚長でありながら、前九年の役で源氏に味方して安倍氏を滅ぼす側に立ったということに関係があるのではないかという気がする。

 考えてみれば、古の東北というのはこのように中央支配に抵抗する自主独立の気概を持った人の地であった。アテルイしかり、この安倍一族もしかり、奥州藤原氏もしかりである。奥州藤原氏は、鎌倉幕府に先駆けた武家政権であったと言え、そこから「奥州幕府」という言葉を用いる研究者もいる。もちろん、東北地方という、広大ではあるものの一つの地域に限定された政権ではあったが、それが鎌倉幕府に与えた影響も大きかったようである。

 平泉の遺構などを見ると、「都など何するものぞ」という気風が古にはあったように見えるのだが(もちろん「蝦夷」として遠ざけられた結果已むに已まれずという面もあったのだろうが)、近現代はそうでもないようである。東北と言うとちょっと前までは「保守王国」、とにかく自民党が強かったのは歴史の皮肉と言うべきだろうか。


「謙譲の美徳」を地で行く?東北人気質
 もう一つ考えてみると、東北は自ら他の地域に侵攻したことはなかった。アテルイの戦いも、前九年の役も、文治五年奥州合戦も、戊辰戦争も、いずれも攻められたがゆえに戦わざるを得なかった。東北人は自ら外に攻めて出たことがない。戦いは常に侵略から身を守るためのものだった。

 アテルイは朝廷軍を相手によく戦ったし、安倍貞任は源氏を相手に一時は壊滅的な打撃を与えた。奥州藤原氏も全国から動員された圧倒的な兵力の大軍を相手に阿津賀志山で3日間も防戦した。戦えば攻める側にとっては難敵ではあったが、東北人自身は決して戦いを好んだわけではなかった(と思ったが、そう言えば「建武の新政」の折、後醍醐天皇に反旗を翻した足利尊氏を討つために、陸奥守として下向していた北畠顕家が奥州の兵を引き連れて上京し、尊氏軍を打ち破ったことはあった)。

 してみると、平和・平穏を愛する心優しい気質、それが東北人を表す言葉と言えるかもしれない。また、前にも少し書いたが、決して自分を誇らない、慎み深い。「謙譲の美徳」という言葉がこれほどピッタリ来る地域はそうないのではないか。そのようにも思う。しかし、一方、その気質は裏を返せば、現状に満足する、大きな変化を好まない、多くを望まない、ということにつながるかもしれない。
 だからきっと、奥州藤原氏の「奥州幕府」は全国には広がらなかった。東北の「保守王国」も裏を返せば、まさに古から続くこの東北人気質の表れと言えるかもしれない。

 ただ、文治五年奥州合戦を経て、外が浜(青森)までが「日本」に組み入れられる前までは、東北はまさに自主独立、中央に頼らず、自分たちのことは自分たちでやってきたはずである。その800年後の今の世はまさに乱世。地方は疲弊し、中央はその痛みも知らず、それでもこれまでの「中央集権」的枠組みは強固に維持されたままである。

 地方分権または地方主権、道州制導入といった掛け声はいつまでも掛け声のままで少しも現実のものにならず、かと言って東北から積極的な声が挙がるわけでもなく、結局はやっぱり現状維持のままである。ちょっと前までは北東北三県は将来の合併(まさに今年2010年という予定だった)を視野に連携・協力関係を深めていたが、今や隔世の感がある。


「奥州幕府」をもう一度つくる!
 そう思っていたところに、4月26日、東北6県の県議や市町村議員らが超党派で集まって地域主権型道州制の実現を目指す「東北州政治家連盟」が結成されたという。8月ごろには東北版シャドーキャビネット(影の内閣)として、「明日の東北州政府」を設置し、3カ月に1度、「閣議」を開いて政策の方向性を公表し、道州制が導入された場合を想定した具体的な政策を打ち出していくそうである。代表に選出された宮城の菊地文博県議は「東北から平成維新の狼煙をあげる」と宣言したそうであるが、実際こうした政治家連盟が正式に発足したのは東北が初めてとのことで、他地域に先駆けた取り組みのようである。

 4月27日付の朝日新聞には、地域主権型道州制国民協議会の江口克彦氏のインタビュー記事も載っていた。氏は、「道州制を導入すると、州都以外が寂れる心配はありませんか」との記者の質問に、「今は東京及び近辺だけだが、道州制になれば繁栄の拠点が10倍以上増える。加えて道州内で拠点を多様化すればいい。『東北州』だと仙台がニューヨークとして州都は平泉でもいいと思う。青森を環境州都、秋田を産業州都などにしてもいいかもしれない」と答えている。

 概ね氏の意見に賛成だが、敢えて重箱の隅を楊枝でほじくるようなことを言わせていただければ、州都は「平泉でもいい」ではなくて、以前書いたように「平泉がいい」のである。

 ただ、さすがに長らく地域主権型道州制国民協議会で道州制についての議論を主導してきた江口氏だけあって、重要な指摘をいくつもしておられる。記者の「地方の政治家は必ずしも権限移譲を歓迎していないとの指摘もあります」との指摘についてはこう答えている。

「地方は、キャッチャーばかりやっていてピッチャーをやったことがないから。でも、霞が関よりいい球を投げる人も、地方公務員にはいっぱいいる。日本人の生活レベルが豊かになったころから価値観が多様化し、画一的に政治・行政が行われることに国民が閉塞(へい・そく)感を感じるようになった。霞が関のピッチャーはもう限界。中継ぎというか、リリーフのピッチャーに交代しなければならない」

 その通りである。今の仕組みで立ち行かないのであれば、中央とはまったく違う独自の仕組みを古のように作ってしまえばよいのである。言ってみれば、朝廷の支配が続いていた11世紀末に奥州藤原氏がつくったように、900年後の今、もう一度「奥州幕府」を作るのである。


まず東北全体を見渡せる人材を集めるところから

 そこで提案がある。氏は「霞が関よりいい球を投げる人も、地方公務員にはいっぱいいる」と指摘しているが、それに異論はない。それに加えて、霞が関からも意欲ある人材を引き抜いてくるべきである。氏の言う「いい球を投げるピッチャー」を東北だけでなく中央からもどんどんスカウトしてくるのである。霞が関にも東北出身者は数多くいる。故郷をよりよく変えたいという意欲を持っている人も多いはずである。

 東北出身者に限る必要はない。東北に愛着を持つ人なら他地域の人でもどんどん招聘すればよい。奥州藤原氏も土着の蝦夷ではなく元々は中央の藤原氏に連なる一族であった。

 私がこう考えるには理由がある。以前書いた「古の『黄金の国』東北、復活なるか?」の時に、東北経済産業局のレポートを紹介したが、あれはよくできていた。私があの記事を書くよりはるか前に同様の指摘をしかも緻密な調査と分析を基に行っている。さすが、霞が関の人材は優秀であると思った。

 ここでは紹介しないでしまったが、東北地方整備局がまとめた東北圏広域地方計画もよくできていると思う。「東北圏を取り巻く状況と地域特性」として、東北圏が歩んできた歴史から説き起こし、東北圏の特徴と魅力、東北圏を取り巻く潮流、東北圏発展の課題へと論を進め、その上で「これから10年で東北圏が目指す姿」を提示している。それによれば、

「…東北圏は、美しい太平洋と日本海に面し、南北に貫く脊梁山脈や起伏に富んだ山地と大きな河川や深い森林の中で、豊かな自然と水資源に恵まれ、安全な食料とエネルギー等の資源を供給できる機能を有している。
 また、優れた人材や技術、食文化やものづくり、様々な産業振興に向けた取組を始め、大切に守り続ける伝統的で特徴的な祭り、雪文化や伝統工芸等、独特の歴史・文化が力強く残っており、人情味ある人々が織りなす潤いと豊かさがあふれる多様性ある地域である。
 こうした東北圏の持つ優れたポテンシャルを活かしながら、東北圏を支える人々が持てる力を十分に発揮し、国内外の人々との交流・連携を進め、新たな時代の潮流に対応・貢献できる多様で自立した東北圏を形成することで、美しい自然と様々な国の人や多くの世代が光り輝く、森と海、人の息吹と躍動感に満ちた空間を創り上げていく。これにより、東北圏の人々が、コミュニティの人と人との温かいネットワークを基礎に、自信と誇りを持って安心して住み続けられ、訪れる人々が安らぎと温もりを実感できる「東北にっぽん」というブランドの創造に結びつけていく。
 以上を本計画における東北圏の新しい将来像とし、「美しい森と海、人の息吹と潜在的な力、可能性としての力。躍動感に満ちた『東北にっぽん』の創造」をその理念とする。」

とある。そしてそのための具体策として「戦略的目標と実現のための主要な施策」や「広域連携プロジェクト」を打ち出している。恐らく今、都道府県レベルでこのように東北全域に目を配り、その特徴を的確に押さえながらその先の姿を提示するということができる機関・団体はないのではないだろうか。

 内閣府の地方分権改革推進委員会が出した勧告のうち、第2次勧告では、「国の出先機関の抜本改革」としてこれら経済産業局や地方整備局を含め多くの機関の廃止が打ち出されている。二重行政の無駄を省くためということである。確かにそうした側面もあるだろう。しかし、もし東北6県が一つになったとして、すぐ東北全体のことを考えられる人材が地方にどれだけの数いるのだろうか。そこが心配である。

 地方公務員にいかに優秀なピッチャーがいると言っても、そのピッチャーはこれまで大きな球場で投げたことはなく、面積が6分の1くらいしかない小さな野球場でしか投げたことがないのである。大きな球場でキャッチャーに届く球を投げられるようになるためには時間が必要である。

 そこでである。元々そのような方向性が検討されているようだが、廃止される東北の出先機関を道州政府が人材ごと引き受けてしまえばよいのである。地方の出先機関の人材は、その地域全体を見渡す視野を既に持っている。その力は、6県が合併してできた「東北州政府」にとって大きな力となるに違いない。

 ただ、これにはとにかくスピードが必要である。人材には限りがある。早い者勝ちである。「奥州幕府」成否の鍵は、他地域に先駆けて優秀な人材をいかに集めるか、それにかかっていると言っても過言ではないのではないだろうか。今までは攻められてから初めて戦ってきた。だが、今度ばかりは他に攻められる前に、自らが外に攻めて出なければいけないと思うのである。


追記(2010.9.28):その後「東北州政治家連盟」に関する話題がちっとも聞こえてこないと思ったら、案の定こういうことだったようである。

「『地方発の平成維新』休眠中 東北州連盟、参院選で亀裂」(2010年8月23日付河北新報、閲覧には登録が必要)

 いや、休眠中って、寝てる場合じゃないって(笑)。

 10月から再始動とのことなので、もう一度期待してみましょうかね。

 だいたい、Googleで「東北州政治家連盟」を検索してこのブログが3番目に表示されるような有様(2010.9.28現在)では何をか言わんやである。

 まずはホームページでも作るところから始めなされ。


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2009年11月20日

東北の歴史のミステリーその24〜消えた?「奥十七万騎」

165234.jpg 今でも覚えているのだが、中学校の時の歴史の副読本に東北の歴史について説明した冊子があった。その「奥州征伐」の項には(「征伐」というのは鎌倉側から見た一方的な表現であるので現在では「文治五年奥州合戦」という名称が定着している)、「なぜ源頼朝は28万4千もの大軍を率いて奥州に攻め込んだのでしょうか」という問いかけがあり、当時義経びいき、奥州藤原氏びいきだった私が、「そうだそうだ、いったいどんな理由があって東北に攻めてきたんだ?」と思いながら読み進めると、次の文章が「それは奥州藤原氏の兵力が20万騎と言われていたからです」と来て、「そっち(兵の数)の話かよ〜」と肩透かしを食らったような思いをした記憶がある(笑)。

 当時、 奥州藤原氏の擁する兵力は17万とも、18万とも、あるいは20万とも言われていて、それこそ今世界遺産登録を目指している通りの浄土思想を基調とした「平和国家」の顔の一方で、平氏や源氏とも単独で対等以上に渡り合える強大な軍事力を持っているとされていた。頼朝は平氏追討に当たって、自ら鎌倉を動くことはなかったが、それは背後に控える奥州藤原氏の「奥十七万騎」を脅威に感じてのことだったとも言われる。

 ところが、いざ文治五年奥州合戦となると、以前紹介した阿津賀志山の合戦で大将軍に任ぜられた泰衡の兄、西木戸太郎国衡が率いたのは二万騎だったと吾妻鏡にはある。しかも、阿津賀志山以降は散発的な抵抗はあったものの、大規模な合戦らしい合戦はなく、平泉は事実上「無血開城」だった。出羽方面でも戦闘が行われたと記述があるが、阿津賀志山以上の兵力がそちらに集結したと考える理由はない。してみると、17万騎どころか、実際にはほんの数万騎が、頼朝率いる大軍(もちろん28万4千騎という数字には誇張もあるだろうが)と戦ったわけである。ならば、奥州藤原氏が誇った残りの兵力は戦わずしてどこに消えたのか。

 前回、東北のオススメスポットとして、平泉衣川を紹介した(ここここ)が、両地域を比較して「おや?」と思ったことがある。史跡(地名にのみ言い伝えが残っているものも含めて)の数に、平泉と衣川とでは違いがあり過ぎるのである。すなわち、平泉は奥州藤原氏が100年の栄華を誇った地であるにも関わらず、それにしては遺跡の数が少なすぎやしないかということである。

 というのも、既に紹介した通り、衣川の遺跡、そしてそれは多くが安倍氏に由来するものだが、非常に多いのである。1日で全部回ろうと思ったら、それこそ誇張ではなく朝から夕方までかかる。安倍氏は当時奥六郡を中心とする大きな勢力であったが、陸奥出羽両国の全体を掌握していたわけではなかった。一方、奥州藤原氏はその両国、つまり今の東北地方のほぼ全域を掌握していたとされている。それにしては、その本拠地たる平泉に往時を偲ばせるような遺跡が少なすぎやしないだろうか。

 衣川には安倍氏が乗馬5〜600頭を繋いでいたという場所(「駒場」という地名で残っている)や「乗馬訓練場」跡(「馬駆」という地名で今も残っている)まで残っているのである。いかにも騎馬兵を主体とした精強な兵を率いた安倍氏にふさわしい伝承だが、対して奥十七万騎を誇る奥州藤原氏の訓練場跡があったという話はついぞ聞いたことがない。もちろん、安倍氏の訓練場をそのまま引き継いだということなのかもしれないが、それであれば「安倍氏の」ではなく、より新しくより強大な勢力を誇ったはずの「奥州藤原氏の」という伝承になってもよさそうなものである。

 これはいったい何を意味するのかと考えてみると、実は「奥十七万騎」は「虚構」と言うか、「誇大広告」だったのではないかということである。それだけの兵力はなかったが、そう喧伝することでかつての前九年の役のように、奥州を我が物にせんとする源氏のような勢力に外部から攻め込まれることを未然に防ごうとしたのではなかったかという気がするのである。

 その「情報戦略」は、頼朝が朝廷の制止を振り切って有無を言わさず攻め入ってきたことで「実像」が露呈して瓦解した。その実像とは、阿津賀志山の地で、全国から動員された頼朝の大軍を3日足止めするのが精いっぱいの兵力だったということなのではないだろうか。

 本当の意味での「判官びいき」、と言うか、義経が好きな人にしてみれば(かつての私もそうだったが)、奥州藤原氏のこのようなあっけない終焉をとらえて、義経さえ生きていればこのようにたやすく滅びることはなかったろうに、と思うものだが(以前紹介したが、「義経記」の作者もそのようなニュアンスの言葉で最後を締め括っている)、もしこのような圧倒的な兵力の差が端からあったのだとすると、仮に義経が生きていたとしても状況は同じであったかもしれない。いや、「ゲリラ戦」が得意だった義経がいればやはり状況は違っていたはずだ、という反論が即出そうではあるが。

 写真は残念ながら平泉の世界遺産登録に当たっての構成遺産からは外された白鳥館遺跡から見た北上川である。この遺跡は安倍貞任の弟、白鳥八郎則任の館跡と伝えられる。その立つ場所から考えて、奥州藤原氏時代にも重要な役割を果たしたのでは、とも思われるのだが、少なくともそのような伝承は聞いたことがない。

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2009年10月27日

東北のオススメスポットその11〜岩手県平泉・衣川地区その2

a6425b99.jpg 平泉の知名度は恐らく東北でも屈指と思われるが、衣川を知っている人はそう多くないに違いない。歴史に詳しい人なら、源義経が藤原泰衡に攻められ命を絶ったという合戦が「衣川の戦い」と呼ばれていて、義経最期の地であるということを知っているかもしれないが、それ以外で人口に膾炙することはほとんどないと言っていい。しかし、本当に興味があって平泉を訪れた人にはぜひ、衣川にも足を運んでほしいと思う。

 東北の歴史に詳しい人なら、衣川は安倍氏の本拠地だということを知っているかもしれない。安倍氏の安倍頼時(頼良)・貞任親子は、前九年の役で源頼義・義家親子と戦った俘囚(朝廷に従った蝦夷)の長である。奥州藤原氏から見ると、初代藤原清衡の母親が安倍氏の棟梁貞任の妹であったので、安倍氏は母方の家系ということになる。

 旧衣川村は、合併して奥州市の一部になったが、この旧衣川村は、平泉町の北隣で、現在の平泉町の北端である中尊寺から衣川を渡るとすぐである。この衣川以北が奥六郡と言われて俘囚の地とされていた。

 旧衣川村に足を運んで驚かされるのは、その遺跡の数の多さである。前回紹介した平泉町内の遺跡よりもはるかに多い数の遺跡が、今も旧村内のあちこちに残っているのである。そのうちのかなりの割合は、安倍氏の居館跡であった安倍舘古舘(安倍新城)、政庁であったという並木屋敷(衣川柵)など、安倍氏に関係するものだが、それだけ安倍氏がこの地で勢威を振るったことが窺える。

 もちろん、四代藤原泰衡の弟で最後まで義経を支持したという泉三郎忠衡の居館泉ヶ城跡や、三代藤原秀衡の母が衣川を渡って旅をしてきた人をもてなしたという言い伝えのある接待館(せったいだて)跡、秀衡が京都の御室御所の木をこの地に移し植えてつくった庭園跡と言われる室の木(むろのき)跡など、奥州藤原氏時代とされる遺跡もある。奥州藤原氏時代の衣川は、経済の中心地だったそうである。奥羽二国の政治の中心地であった平泉をワシントンにたとえれば、衣川はニューヨークに当たると言えるかもしれない。

 ただ、最近の発掘調査の結果からは、衣川は単に経済の中心地だっただけではなく、政治的にも重要な地位を占めていたことが明らかになってきている。それは柳之御所跡などから大量に見つかったかわらけという宴や儀礼の時に使われたという素焼きの杯が、衣川の接待館跡からも大量に見つかったことによる。

 東北の歴史に詳しい人にとっては、衣川は秀衡の政治顧問的な立場にあったとされる藤原基成(もとなり)の居館「衣河館」があったとされる場所ということも知っているかもしれない。そして、義経最期の地は、吾妻鏡によれば義経堂のある平泉の「高館」ではなく、この「衣河館」だということも知っているかもしれない。「衣河館」の場所は実はまだ特定されていないのだが、地元ではこの接待館が「衣河館」だったのではないか、とも言われている。

 さらに、以前も少し書いたが、この衣川には平泉の中尊寺の「奥の院」として栄えたという霊峰月山(がっさん)もある。この月山、山形にある出羽三山のひとつである同じ名前の月山とは比較にならないくらいの小さな山で、10数分も歩けば頂上の月山神社に着くほどの山であるが、そこに私が見ただけで、月山神社と麓にある三峯神社を含め、6つもの社が祀られていた。確かに古くから尊崇されてきた様子が窺える。

 その中で最も印象的なのは、山頂の月山神社の奥の院前にある、巨石を御神体とする和我叡登挙神社(わかえとのじんじゃ)である。巨石を御神体とする社殿のない神社、これは安倍氏の崇拝したという荒覇吐(あらはばき、または現在東北の夏のロックフェスティバルの名称に冠されて名を留める荒吐(あらばき)とも)の神を祀る神社の共通項である(旧衣川村内には磐神社女石神社という、やはり共に巨石を御神体とする荒覇吐神を祀る神社があり、陰陽一体の神として崇敬されてきたが、現在は社殿が設けられている)と同時に、同じ名を持つ月山を含む出羽三山との類似性も感じられる。このように衣川は、この時代の歴史に関心のある人にとっては、とても興味深い場所なのである。

 衣川歴史ふれあい館では係の人に面白いことを聞いた。平泉の無量光院跡からは、春分、秋分の日に太陽が金鶏山山頂に沈むのが見えることが分かっているが、衣川の長者ケ原廃寺(地元では元々単に「長者ケ原」と呼ばれ、義経を秀衡に引き合わせたとされる金売り吉次の屋敷跡と信じられてきたのだが、発掘調査の結果寺院であることが判明したため、現在ではこう呼ばれている)からは、春分、秋分の日に太陽が月山山頂に沈むのが見えるのだそうである。もし、これが無量光院と同様に意図的にそうなる地が選ばれた結果ということであれば、無量光院は衣川の長者ケ原廃寺を参考に作られた可能性があるわけである。

 平泉はこれまで京の都を参考に作られたとされてきたが、実はそれだけでなく、安倍氏の本拠地、すなわち蝦夷の都だった衣川も参考に作られていたのかもしれない。この辺りのことはきっと今後衣川の発掘調査が進んで明らかになるに違いない。そして、衣川にももっとスポットが当たることを期待したい(写真は月山山頂にある月山神社である。知らないで行くと見落とすかもしれないが、鳥居の奥に見えている拝殿のさらに奥に奥の院があり、そこに和我叡登挙神社もある)。


koromogawa1追記(2009.10.28):旧衣川村内にある数々の遺跡を、位置関係も含めて分かりやすく解説しているサイトはあまりないのだが、現地で入手したパンフレットがその点とても分かりやすかったので、興味を持った方のためにここにアップしておきたいと思う。





koromogawa2 遺跡は大きく分けて、旧衣川村内の東側の月山周辺(写真上)と西側の安倍館周辺(写真下)とに分かれて分布している。見て分かる通り、これだけ多くの遺跡がいまだこの地域に残っているのである。

 なお、このパンフレットの絵地図は、北東方向から見た地図(つまり上が北になっていない)なので、その点だけ注意が必要である。


追記(2011.7.4):無量光院跡から金鶏山山頂に沈む夕日が見られるのは、春と秋2回あるが、正確には春分・秋分の日ではなく、4月中旬(13日頃)と8月末とのことであった。


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2009年10月22日

東北のオススメスポットその10〜岩手県平泉・衣川地区その1

baca37ad.jpg 5市町村が合併してできた奥州市と7市町村が合併してできた新・一関市に挟まれた小さな町である岩手県平泉町は、このブログでも何度も取り上げている奥州藤原氏の本拠地であり、現在でも岩手県屈指の観光地である。

 日本の国宝第一号となった金色堂を有する、奥州藤原氏初代藤原清衡が建立した中尊寺、平安時代の遺構としてはわが国唯一の浄土庭園が現存する、二代藤原基衡が建立した毛越寺を始め、三代藤原秀衡が京都宇治の平等院鳳凰堂を参考にさらに規模を大きくして建立した無量光院跡、二代基衡の妻が建立したと言われる観自在王院跡、「義経記」などに登場する義経の居館「高館」があったと伝えられる高館義経堂、秀衡が築き、雌雄一対の黄金の鶏を埋めたとの伝承がある金鶏山などがある。それに加えて最近では、国道4号線バイパス工事に伴う発掘作業で姿を現した奥州藤原氏の政庁とされる柳之御所遺跡が注目を集めた。

 現在でこそ平泉町は人口約8,500人の小さな町だが、奥州藤原氏時代の平泉は人口10万人を擁する、京の都に次ぐ国内第二の都市であったとされる。中尊寺の金色堂や毛越寺の浄土庭園はそうした往時の繁栄を偲ばせる貴重な遺跡であるが、観光地として見た場合の平泉のウィークポイントは、現存するのがその2つだけで、後はすべて「史跡」ということである。これらに加えて例えば無量光院や、頼朝をも驚かせたという中尊寺二階大堂などが現存、あるいは復元されていれば、観光地としての平泉のインパクトはより大きかったのではないかと思われるのである。

 もちろん、例えば柳之御所跡に立って、800数十年前に栄華を極めた藤原秀衡が間違いなくそこにいたことに思いを馳せれば、何とも言えない感慨に浸ることもできるし、無量光院跡に立って、そこに平等院鳳凰堂を一回り大きくした壮麗な寺院の姿を想像することもできる。要は見る人が見れば観えるものもたくさんあるのだが、実は決して万人受けする観光地ではないような気がする。ましてや、大型観光バスで来て、中尊寺と毛越寺、それに義経が住んでいなかったことはほぼ確実な高館義経堂くらいを見て慌ただしく次の目的地に行く、というような旅程では、見たようで観ていない、何とももったいない旅行になるような気がするのである。

 以前書いたように、平泉の世界文化遺産登録は見送られたが、現在、構成遺産を絞り込んで、平泉町内にある遺跡のみで再度登録に向けた動きが本格化しているところである。これまで平泉町と足並みを揃えて世界文化遺産登録を目指して動いてきた奥州、一関両市にとっては気の毒な話だが、「浄土思想を基調とした文化的景観」というコンセプトをより明確にするためには、必要な対応だったと思う。

 恐らく次は問題なく世界文化遺産登録が果たされると思うが、そうなればきっと多くの観光客が大挙して訪れることになる。関係者各位にはその時に、これら平泉の文化遺産が何だったのか奥州藤原氏の思いとは何だったのか、しっかり伝えてほしいと願って止まない(写真は金色堂を風雪から守っている覆堂(おおいどう)である)。


追記(2010.2.23):平泉の世界文化遺産登録に向けて、新しい推薦書が先月1月18日、ユネスコに提出された。新しい推薦書のタイトルは「平泉―仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群―」となっている。

 この推薦書の全文をぜひ読んでみたいと思ったのだが、これがネット上どこにも見当たらない。困ったものである。概要は辛うじて岩手県のサイト内で入手できる(該当サイト)。

 この世界遺産登録推薦書作成委員会委員長の工藤雅樹氏が、先月1月31日に亡くなった。平泉の世界遺産登録を見届けていただきたかっただけに、残念でならない。

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2008年11月13日

東北の歴史のミステリーその23〜酒田市の成り立ちと奥州藤原氏

da691530.jpg そもそも頼朝は、泰衡の子供のことについては考えなかったのだろうか。その気になれば支配下に置いた陸奥出羽両国内を徹底的に探し続けることもできたはずである。しかし、そのようなことをした形跡は、少なくとも記録上はない。

 この頼朝による奥州攻めは、徹底的に源頼義が安倍貞任を討った前九年の役に倣っている。源頼義が最終的に勝利を収めた厨川に入る日付も合わせ、泰衡の首に釘を打って晒すやり方も安倍貞任にしたやり方を踏襲、挙句にはその釘を打つ作業も貞任の首に釘を打った者の子孫を探し出してさせるなど、実に徹底している。源頼義は棟梁の貞任は殺したが、弟の宗任は西国へ流罪とした。頼朝も泰衡の首は取ったが、弟の高衡は流罪としている。全くの余談だが、安倍晋三元首相は、この時流罪となった安倍宗任の末裔だそうである。

 ただ一つ、頼義が「戦後処理」において、自分の思い通りにできなかったことがあった。安倍貞任の子供のことである。千代童丸という当時13歳で元服前だった貞任の子は捕縛された。頼義は哀れに思って命を助けようとしたのだが、前九年の役の勝利を決定づけた出羽の清原武則に反対され、やむなく斬らざるを得なかったのである。前九年の役を徹底的に模倣しようとした頼朝は、この場面をどう考えたろうか。頼義は敵の棟梁の子を助けようとしたができなかった。頼朝は頼義の意思を継いで、泰衡の首は取っても、その子は助けようと考えたのではないだろうか

 そう考えれば、頼朝が執拗に泰衡の子の行方を探し回らなかったことにも説明がつく。何といっても、自分の弟義経の時はあれだけ執拗に行方を探索させた頼朝である。その気になればどんなことをしてでも探し出すよう命じたはずである。それをしていないということは、泰衡の子については、端から殺すつもりはなかったということなのではないだろうか。

 もう一つ、泰衡の子を助けた理由になりそうなのは、頼朝の「罪悪感」のようなものである。鎌倉幕府の公文書吾妻鏡自らが認めている通り、義経にしても泰衡にしてもさしたる朝敵ではなかった。ただ、頼義・義家の時代に奥州を手に入れることができなかった遺恨で奥州藤原氏を攻め滅ぼしたというのが文治五年奥州合戦の実情である。当然頼朝にもそうした私的な思いから発した戦に対する罪悪感が少なからずあったのではないだろうか。したがって、棟梁の泰衡は殺さなければならなかったものの、その弟や子供は命までは奪わなくてもよいと考えたのではないかと思うのである。

 これまで頼朝のものと伝えられてきた神護寺の肖像画(実際には足利尊氏の弟直義のものとする説が有力である)のイメージ通り、頼朝については、冷徹な人間という見方が定着しているが、こと奥州合戦については、そうではない一面も見え隠れしている気がするのである(写真は頼朝が寄進した羽黒山の黄金堂である)。

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2008年11月02日

東北の歴史のミステリーその22〜酒田市の成り立ちと奥州藤原氏

24ba41a2.jpg 徳尼公はなぜ平泉を逃れなければならなかったのだろうか。普通、戦に敗れても棟梁の妻が殺されることはない。奥六郡の覇者であった安倍氏が滅ぼされた前九年の役で、安倍氏側について殺された藤原経清の妻は、源頼義側につき安倍氏に代わって奥六郡を収めることになった出羽の豪族清原氏の清原武貞に再嫁させられる。

 このことについては、かつては女性が「戦利品」扱いされた表れと捉えられたが、実際はそうではなくその地の人心をつかむためには、後家の処遇が鍵だったのである。事実、奥州藤原氏が滅んだ文治五年奥州合戦の後、藤原秀衡の後家が平泉で存命だったことを受けて、幕府が憐憫の情を持って対応するよう奥州総奉行に命じたことが、吾妻鏡に書かれているのである。

 そこでまた疑問が出る。秀衡の後家(これは本妻、すなわち泰衡の母だろう)が奥州藤原氏滅亡後も平泉にとどまっていて危害を加えられることがなかったにもかかわらず、なぜ秀衡の妹あるいは側室は平泉を逃れなければならなかったのかということである。何か平泉にとどまっていてはいけない理由があったのだろうか。

 そう考えると、後に徳尼公と称された女性は、決して頼朝に見つかってはならない何かを持っていて、そのために平泉を離れなければならなかったのではないだろうか。それはいったい何だろうか。平泉の繁栄を支えた黄金に関する何かか、それとも…。

 私にとって以前から疑問だったのは、泰衡の子がどうなったかということである。殺された時泰衡は35歳だった(25歳という説もある)。当然子供がいて不思議ではない年齢である。しかし、吾妻鏡には、泰衡の子が見つかって殺されたといったような記述はない。では元々子供がいなかったのか。以前、泰衡の妻については、夫泰衡の後を追って自害した場所が神社になっていることを紹介した。しかし、そこでも2人の子供のことについては何も触れられていない。

 そこで考え付いたのが、徳尼公は実は泰衡の子を守って平泉を逃れたのではないかということである。そう考えれば、徳尼公が平泉を離れなければならなかったことにも合点がいく。自身は殺されることはなくても、泰衡の子となれば殺されることはほぼ間違いない。それでその子を連れ、家臣に守られて酒田まで落ちのびたのではないだろうか。

 そう思って調べてみたら、やはりそのような伝承はあった。酒田市が発行した「酒田の歴史探訪」には、「平泉藤原家の遺臣三十六騎が藤原秀衡の後室と言われる徳姫と、泰衡の一子・万寿のお供をして平泉を逃れました」とある。万寿というのは元服前の名前のようなので、事実とすると泰衡の子はまだ幼かったことになる。

 泰衡の子万寿はその後どうしたのだろうか。徳尼公が天寿を全うし、三十六騎の遺臣が地侍となったことは伝わっていても、万寿がどうなったかは伝わっていないようである。しかし、状況から見て、きっと万寿もまた幕府に殺されたりすることなく、無事自分の人生を全うしたのではないかと思うのである(写真は現在の酒田市宮野浦の海岸。巨大な風車が並んでいる)。


追記(2010.9.5):「吾妻鏡」の文治5年(1189年)11月8日には、「泰衡の幼い子息の居所がわからないので探し出して身柄を確保せよ、その名前が若公(頼朝の子・頼家)と同じ名前(万寿)であるから、名を改めるように」との指示が出されている。これを見ると、幕府は泰衡に子があったことは把握しているが、その居場所については把握していなかったことが分かる。また、その後所在が明らかになったという記述もない。

 改名の指示も出ているが、これは本人がいる、いないに関係なくできることである(逃亡中の義経が「義行」「義顕」と二度も改名されたように)。

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2008年10月27日

東北の歴史のミステリーその21〜酒田市の成り立ちと奥州藤原氏

db49b607.jpg 山形県の沿岸、庄内地方の酒田市には、その発祥に奥州藤原氏にまつわる話が伝わっている。文治5年(1189年)の奥州藤原氏滅亡の際、藤原氏の遺臣36騎に守られて藤原秀衡の妹徳子(あるいは徳の前)、あるいは側室泉の方と称する女性が平泉を逃れ、現在の酒田市周辺に落ちのびたのが、酒田市ができたきっかけだというのである。酒田まで落ちのびるに当たっては、あえて最短ルートであった最上川を下るルートを取らず、一度現在の秋田市まで出てから南下したと伝えられ、秋田県内にも女性が乗ってきた白馬が途中で死んだのを祀った寺があるなどの言い伝えがあるそうである。

 この女性は最初出羽三山の一つ、羽黒山の山奥の立谷沢で過ごしたが、その後向酒田(現在の酒田市街地から見て最上川を挟んだ対岸)の袖の浦(現在の酒田市宮野浦)、飯盛山にひそみ、泉流庵を結び徳尼公となり、藤原一門の菩提を弔いながら静かに余生を送り、建保5年(1217年)4月15日87歳で没したそうである。

 徳尼公の結んだ「泉流庵」とは、「平泉から流れてきた」ことを表しているそうである。後に泉流寺と改称された。現在の泉流寺(参照サイト、酒田市のサイト内の該当ページは現在エラーで表示されない)は酒田市の中心部、酒田市総合文化センターの南隣にある。

 徳尼公没後、遺臣36人は地侍となり、廻船業を営み酒田湊繁栄の礎を築いた。36人の遺臣の末裔はその後酒田三十六人衆と称され、幕末まで酒田を「自治都市」として運営したそうである。

 現在、泉流寺には開祖徳尼公の木像がある。これは元あった像が宝暦元年(1751)に焼失した後、明和元年(1764)三十六人衆の一人、本間家三代四郎三郎光丘が京都でつくらせたもので、今に伝わる徳尼公像をまつる廟も寛政2年(1790)本間光丘の寄進によって建立された。境内には三十六人衆記念碑があり、今も徳尼公の命日である4月15日には三十六人衆の子孫によって徳尼公の法要が行われているそうである。

 ところで、最初羽黒山で過ごした徳尼公はなぜ酒田に移ったのだろうか。修験道の本拠地、出羽三山の羽黒山にいれば、めったに幕府の探索も入らず、身の安全を図れたのではないだろうか。どうやらそれにはやむにやまれぬ理由があったようである。

 建久4年(1193年)、源頼朝は土肥実平を建築奉行として羽黒山に黄金堂(こがねどう)を寄進したのである。この黄金堂は羽黒山の入り口近くに現在も存在し、山頂の大金堂(現在の三神合祭殿)に対して小金堂とも言われている。この頼朝による黄金堂建立をきっかけに自分の身に追及の手が及ぶのを恐れた徳尼公が羽黒山を出て、酒田に移ったのではないかと考えられている。しかし、そもそも徳尼公が平泉を逃れたこと自体、大きな謎があるように思うのである(写真は泉流寺内にある徳尼公廟である)。

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2008年10月06日

東北のオススメスポットその8 & 東北の歴史のミステリーその20〜高蔵寺阿弥陀堂

4b38ce63.jpg 宮城県の南部、角田市中心部から西へ約7kmほど白石市方面へ国道113号線を走ると、勝楽山高蔵寺角田市高倉字寺前49)がある。以前も少し紹介したが、ここには東北に3つある阿弥陀堂のうちの一つ、高蔵寺阿弥陀堂写真参照)がある。私が宮城県内で最も好きな場所の一つである。

 高蔵寺の創建は平安時代初期の弘仁10年(西暦819年)に遡ると言われ、南都の僧徳一によって開山されたと伝えられている。私も見たことはないが、嵯峨天皇の筆によるといわれる「高蔵寺」の額が秘蔵されているそうである。

 この高蔵寺の境内にある阿弥陀堂は、入り口にある説明板によれば、治承元年(西暦1177年)、「藤原秀衡・妻などによって建立されたもの」とのことである。この記載だと「藤原秀衡とその妻」が建立したのか「藤原秀衡の妻」が建立したのか分かりづらいが、一般には「藤原秀衡の妻」が建立したとの説が専らである。創建当時の建物が今もそのまま残り、宮城県内最古の木造建築だそうである。

 この高蔵寺阿弥陀堂、「日本最古の七阿弥陀堂」の一つに数えられている。七阿弥陀堂とは、北から中尊寺金色堂(岩手県平泉町)、高蔵寺阿弥陀堂(宮城県角田市)、白水阿弥陀堂(福島県いわき市)、平等院鳳凰堂(京都府宇治市)、法界寺阿弥陀堂(京都市伏見区)、浄瑠璃寺阿弥陀堂(京都府木津川市)、富貴寺大堂(大分県豊後高田市)である。

 平安時代から鎌倉時代初期にかけて建立されたこれらの阿弥陀堂が、京都に3つ、大分に1つある以外、東北に3つある意味は極めて大きいのではないだろうか。すなわち、当時東北においては、京の都に匹敵するくらい阿弥陀思想が浸透していたその証左であるとも考えられるのである。以前も書いたが、平泉の中尊寺金色堂を中心とする文化遺産を「浄土思想を基調とする文化的景観」と位置づけて世界遺産登録を目指すというのであれば、これら東北にある他の2つの阿弥陀堂、すなわち白水阿弥陀堂とこの高蔵寺阿弥陀堂にももっと目を向けるべきだと思うのである。

 なお、高蔵寺以外の6つの阿弥陀堂は皆国宝であるが(高蔵寺阿弥陀堂は国指定重要文化財)、だからこそと言うべきか、この高蔵寺阿弥陀堂にはある種の親しみやすさのようなものも感じられる。中尊寺金色堂などとは違い、華美な装飾などはないが、永年の風雨に耐えた外観と言い、茅葺の屋根と言い、素朴な風情ながらも杉の大木に囲まれた一画にあって、周囲の自然とよくマッチしたしみじみとした趣がある。杉木立の中に響く鳥の声、風にそよぐ杉の葉のざわめき、凛とした空気、その静寂の真ん中に佇む阿弥陀堂、実にいい場所である。

 ところで、この阿弥陀堂、なぜここに建てられたのだろうか。というのは、東北にある他の2つの阿弥陀堂、すなわち中尊寺金色堂と白水阿弥陀堂(しろみずあみだどう、正式には願成寺阿弥陀堂)は、その建立の動機のようなものがある程度はっきりしている。中尊寺金色堂はその供養願文にもあるとおり、奥州藤原氏初代の藤原清衡がかつて東北の地で戦乱などで亡くなった数多くの人々(当然その中には父経清も含まれよう)の冥福を祈って建立されたのであろうし、白水阿弥陀堂はその清衡の娘、あるいは三代秀衡の妹と伝えられる徳尼(徳姫)が、当時その地を治めていた亡き夫、岩城則道の冥福を祈って建立したと言われている(「白水」は平泉の「泉」の字を分けて名付けたとされる)。

 これに対してこの高蔵寺阿弥陀堂はなぜこの地に建てられたのか、はっきりとした伝承がない。なぜ「秀衡の妻」はこの地に阿弥陀堂を建てたのか。これは一つのミステリーではある。

 ひょっとすると、この阿弥陀堂は、平永衡のために建てられたものだったのかもしれない。平永衡は、前九年の役の頃、この高蔵寺のある辺り、伊具郡を治めていたらしく伊具十郎と呼ばれていた。伊具郡の隣の亘理郡は藤原清衡の父藤原経清が治めていたと思われ(彼は亘理権太夫と呼ばれていた)、二人は盟友であった可能性がある。また、二人とも当時奥六郡(現在の岩手県南部)の実権を握っていた安倍頼良の娘を妻に迎えており、いわば義兄弟でもあったわけである。

 この二人、安倍氏と朝廷側との間で始まった前九年の役では朝廷側につき、源頼義の軍に従軍するが(苦渋の決断だったろうが)、平永衡はなんと安倍氏への内通の疑いを掛けられ、斬殺されてしまう。このことが藤原経清を安倍側に寝返らせた最大の要因だったようである。

 藤原経清が安倍側についたことで、源頼義率いる朝廷軍は苦戦を強いられるが、出羽の清原氏の助力を得て何とかこの戦いに勝利を収める。捕縛された藤原経清もやはり斬殺されるが、その遺児清衡は後三年の役を乗り越えて陸奥出羽両国の実権を握り、戦にまみれたこの地をこの世の浄土とすべく中尊寺を建立し、仏教国家への道を歩むわけである。

 清衡の心中には、冥福を祈るべき戦乱で亡くなった奥羽の人々の中に、父の盟友だった平永衡のことも当然あっただろうが、その後も彼の遺徳を偲ぶものが何もなかった。そこで三代秀衡の代になって、永衡ゆかりの地であるこの地に改めて阿弥陀堂を建立したのではないか、というのが私の考えなのだが、もちろんそれを証明するものは何もない。

 ところで、折りしも「仙台宮城デスティネーションキャンペーン」の真っ最中であり、12月までの期間中、宮城県内で様々なイベントが催されている。ここ高蔵寺でも、10月中の土日祝日の10時から12時まで、本尊の阿弥陀如来の特別御開帳が実施されている(参照サイト)。

 この阿弥陀如来は平安末期の作とされ、阿弥陀堂建立の翌年に安置されたとされている。この阿弥陀如来は丈六の坐像、すなわち身の丈が一丈六尺で坐るとその半分の八尺(約2.7m)になるという大きさで、とにかくその存在感に圧倒される。思わず「でかっ」と思ってしまう大きさである。中尊寺金色堂の皆金色の諸仏像の優美さとは対極にある迫力であり、一見の価値がある。御開帳の機会はめったにないので、関心のある人はぜひ一度見ておくことをオススメしたい。

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2008年08月30日

私的東北論その13〜世界遺産への登録延期―平泉の価値は変わらない

5acc2ab7.JPG 今年度の世界遺産登録を目指していた平泉の文化遺産が、先月6日に行われたユネスコの世界遺産委員会で「登録延期」となった。平泉の世界遺産登録については、5月にユネスコの諮問機関である国際記念物遺跡会議(イコモス)が「登録延期」の勧告を既に出していたが、日本政府代表部は昨年の石見銀山に続く「逆転登録」を目指して各方面に働き掛けを続けていた。結果的にそれが実を結ばなかったことになる。

 日本は、平泉の文化遺産を「浄土思想を基調とする文化的景観」と位置づけて世界遺産登録を目指したが、今回「落選」したことに対して、メディアは「浄土思想」が諸外国に理解されるのが難しかったのではないかと報じている。

 しかし、実際は浄土思想の理解云々よりも、世界遺産の登録基準に適合するかどうかの証明が不十分とされてしまったことによるところが大きかったようだ。世界遺産の登録基準は社団法人日本ユネスコ協会連盟のサイト内にある通りであるが、今回平泉はこのうち(iii)、(iv)、(v)、(vi)に当たるとして登録を目指していた。ところが、世界遺産委員会とその前のイコモスの勧告で、その証明が不十分とされたのである。これについては、実はイコモスは、平泉の一部物件はこれら(iii)〜(vi)ではなく、(ii)に該当すると評価していたと、ユネスコの松浦晃一郎事務局長が明らかにしている(参照サイト)。とすると、推薦書の全面的な練り直しが求められるが、今のところ文化庁を始め関係者によると、大幅な推薦書の改訂は行わない方針のようである。

 また、「一部物件」という言葉が使われている通り、今回平泉は9つの構成遺産で世界遺産登録を目指していたのだが、この9つがどのように「浄土思想を基調とする文化的景観」に結びつくかの証明が不十分だったようである。確かに、素人目に見ても、「これは浄土思想とどのように関係するのか」と首を傾げたくなる構成遺産があるのは事実である。

 ちなみに9つとは中尊寺、毛越寺、無量光院跡、柳之御所遺跡、達谷窟、金鶏山、骨寺村荘園遺跡、長者ヶ原廃寺、白鳥舘遺跡である。このうち、奥州藤原氏三代が建立した中尊寺、毛越寺、無量光院跡、奥州藤原氏の政庁だった柳之御所遺跡、山頂に経塚のある金鶏山は平泉の浄土思想を直接的間接的に伝える構成遺産であると言える。達谷窟も奥州藤原氏時代のものと見られる浄土庭園の遺構が出土しており、構成遺産に加えてよいと考えられる。骨寺村荘園遺跡は中尊寺の寺領であったところで、周辺には寺社関連の遺跡も多数残っており、これも構成遺産と見てよいだろう。ただし、今のように中世の荘園がそのまま残っていることを強調しすぎると、かえって浄土思想との関連が分かりにくくなるようにも思える。一方、残り2つ、長者ヶ原廃寺と白鳥舘遺跡は奥州藤原氏と直接関係がなく、また浄土思想とも特に関連が見られないので、構成遺産として加えるのは厳しいのではないだろうか。

 「浄土思想を基調とする文化的景観」と言うならこれら2つよりもむしろ、例えば藤原清衡の孫である樋爪俊衡の居館樋爪館跡と伝えられる五郎沼は元は浄土庭園だった可能性があるように思われるし、三峯神社(月山神社)のように中尊寺の奥の院として栄えたと伝えられる神社もある。中尊寺金色堂と同様の阿弥陀堂は、宮城県角田市の高蔵寺阿弥陀堂、福島県いわき市の白水阿弥陀堂があり、こちらの方が「浄土思想」との関連がはるかに深いのではないか。

 これら構成遺産の選定に当たっては、学術的な見地からだけでなく、関係者の様々な思惑なども交錯したと伝えられているが、その結果「浄土思想を基調とする文化的景観」の証明が分かりにくいものとなってしまった感も否めない。再登録を目指すに当たっては、登録基準の見直しと共に、思い切って構成遺産の見直しも必要なのではないだろうか。

 ところで、後三年の役が終わって藤原清衡が奥羽両国の実権を握ったと見られるのが1088年、そこから四代泰衡が討たれた1189年までの101年が奥州藤原氏の時代と言えるが、三代秀衡が鎮守府将軍に任命されたのは1170年、陸奥守に任命されて名実共に奥羽の「統治者」と認められたのは1181年、初代清衡が実権を握ってからそれぞれ82年後、93年後のことである。名前が現実を追認するのに実にそれだけの時間がかかったわけである。

 今回の「落選」は日本で初めてだったこともあって、落胆の声が多く聞かれた。しかし、平泉の世界遺産登録は、2001年に国の世界遺産暫定リストに登載されてからまだたったの7年である。奥州藤原氏の辿った道から見れば、まだまだ始まったばかりである。そしてもちろん、世界遺産に登録されようがされまいが、平泉の価値は変わらない。それは、鎮守府将軍や陸奥守に任命されなくても藤原清衡が実質的に奥羽両国の覇者であったのと同じようなものである(写真は毛越寺浄土庭園にある紅葉である)。


追記(2009.4.5):新聞報道によると(河北新報記事岩手日報記事)、「平泉の文化遺産」の推薦書作成委員会は、上記9つの構成資産から骨寺村荘園遺跡、白鳥舘遺跡、長者ケ原廃寺跡、達谷窟の4つを外し、平泉町内の5つの資産のみで世界遺産登録を目指す方針を決めたそうである。長者ヶ原廃寺と白鳥舘遺跡だけでなく、達谷窟と骨寺村荘園遺跡も外すという、思い切った構成遺産の絞り込みを行ったわけである。今後の推移を見守りたい。

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2008年06月20日

私的東北論その11〜古の「黄金の国」東北、復活なるか?

07a682d5.JPG 最近「都市鉱山」という言葉をよく聞くようになった。廃棄された家電製品などの中に含まれる貴金属を含む希少金属(レアメタル)を鉱山に見立てた言葉であるが、独立行政法人物質・材料研究機構が今年の1月11日に発表したプレスリリースによると、これまでわが国内に蓄積されリサイクルの対象となる金属の量を算定した結果、「わが国の都市鉱山は世界有数の資源国に匹敵する規模になっている」そうである。

 同機構の計算によると、金は約6,800トンあって世界の現有埋蔵量42,000トンの約16%に相当するのを始め、銀は60,000トンで同じく22%、他にインジウム61%、錫11%、タンタル10%など世界埋蔵量の1割を超える金属が多数あることが分かったとのことである。その結果日本は、金、銀、鉛、インジウムについては「世界最大の資源国」で、銅、白金、タンタルも3位までに入る資源国にランクされることになるらしい。

 このプレスリリースでは、こうした都市鉱山資源を「都市鉱石としてより積極的に有効活用していくことが必要である」としているが、まさにその通りである。現状、こうしたレアメタルについては、世界的に争奪戦が繰り広げられつつあるそうだが、そのほとんどすべてを輸入に頼っているわが国においては、鉄鋼、自動車、電気・電子機器産業に不可欠なこれらの金属類について、こうした廃棄された家電製品からのリサイクルを本格化させることが、喫緊の課題として挙げられるわけである。

 翻ってみれば、日本は元々黄金の国ジパングとされていた。そのネタ元はマルコ・ポーロの「東方見聞録」で、それがきっかけに大航海時代が始まったと言われているが、マルコ・ポーロが滞在した中国で聞いた「ジパング伝説」の元は平泉の奥州藤原氏の話だったとされている。実際、当時そのように海外にまで噂されるだけの黄金が東北で産出されていたのは事実で、例えば奥州藤原氏初代の藤原清衡は、宋から「一切経」と呼ばれる仏教の「経」「律」「論」全てが網羅された膨大な聖典を購入するのに、砂金105,000両を費やしたそうである。ちなみに105,000両は約1,730kgに相当し、現在の金の価値(1グラム2,600円とすると)に換算すると45億円にもなる。

 一説には、奥州藤原氏が100年で費やした黄金の総量は2000万両(=330トン)だったとも言われるが、先の発表ではそのなんと20倍以上もの金が、わが国には眠っているというのである。日本は今も黄金の国ジパングであると言えるのではないだろうか。

 ところで、このレアメタルのリサイクルにおいて、国内はもとより世界の最先端を行く企業が東北にある。秋田県小坂町にある小坂製錬である。ここでは何と19種類もの貴金属を含むレアメタルを回収できるという。これだけの種類の金属を回収できるのは世界広しと言えども、小坂精錬を含めてわずか3箇所しかないそうである。

 小坂製錬の属するDOWAグループのサイトによれば、小坂鉱山で採掘される「黒鉱」と呼ばれる鉱石は、金銀などの有価金属が豊富に含まれている反面、処理が困難という欠点があり、それが有効利用の妨げになっていたという。同社は果敢にその技術の壁に挑戦し、永年の技術向上の結果、黒鉱から複雑に入り混じった様々な金属を回収する技術を蓄積してきたそうである。その後、残念ながら鉱山は閉山してしまうが、小坂製錬はそこで得た黒鉱処理技術を基盤に、レアメタル回収とリサイクルを特色とした個性のある製錬所として今なお進化を続けているということである。

 小坂に限らず、東北には最近まで採掘が行われていた鉱山が多くある。小坂製錬のようにそのノウハウを、都市鉱山から「採掘」されたレアメタルの製錬に生かせれば、東北はかつての奥州藤原氏時代と同じような、「鉱業立国」が可能となるのではないかと思うのである。

 そのことを既に指摘しているレポートがあった。東北経済産業局のプロジェクト「TOHOKUものづくりコリドー」が平成18年8月にまとめたレポートである。そこでは東北の7つの技術・産業分野を重点化しているが、その中の「非鉄金属リサイクル分野」については、下記のような記載がある。

「東北地域は、古くから鉱山技術、それに関連する高度な製錬技術の開発、蓄積が図られてきました。非鉄金属リサイクル分野は、蓄積してきた技術や製錬施設等を基盤として、ベースメタル、レアメタル、貴金属の効率的回収技術や低品位廃棄物等の製錬技術及び製造業におけるリサイクル原料等の高度使用技術や高品質化技術等を新たに開発し、発展させようとするもので、東北地域でこそ実施することが相応しい分野です。」

 その上で、東北の可能性については、

「東北地域は、日本はもとより世界的に見ても、非鉄金属生産・リサイクルのメッカとなっています。7つの製錬所が立地し、銅・鉛・亜鉛の輸入鉱石からの製錬と廃棄物等からの非鉄金属全般のリサイクル生産に関して、国内の3〜4割生産する日本一の非鉄金属産業の集積地域となっています。」

としている。そして、

「こうした企業群を東北の大きなポテンシャルと捉え、リサイクル技術とリサイクルされた非鉄金属の最終製品への利用技術を高度化することにより、供給側と需要側の連携が出来れば、東北のモノ作りを支え、競争力を高める分野(サポーティングクラスター)になる可能性があります。」


と結んでいる。

 小坂製錬を始め、東北には7つもの製錬所があるということも今まで不勉強で知らなかったが、それらの製錬所が国内の3〜4割ものシェアを占めていたことも知らなかった。「都市鉱山」から「採掘」したさまざまな種類のレアメタルを製錬し、各産業に供給するという「鉱業立国」の素地が、既に東北にはあるわけである。古の黄金伝説が、今まさに復活しようとしている、そのスタート地点に東北地方は立っているとも言えるようである。今後の展開に大いに期待したい(写真は、小坂鉱山の厚生施設としてつくられた、日本最古の現役木造芝居小屋「康楽館」である)。


追記(2011.10.6):10月6日付の読売新聞に「環境省、東北にレアメタル回収拠点」との記事が載った。記事によると、東日本大震災の被災地復興支援を目的に、レアメタルを取り出すために全国で回収された携帯電話などの小型家電を東北地方に集める事業に環境省が乗り出すとのことである。東北の「鉱業立国」のきっかけとなればよいと思う。

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2008年02月26日

東北の歴史のミステリーその19〜なぜ「阿津賀志山」だったのか

00ad1e74.jpg 吾妻鏡によると、この防塁の存在は鎌倉側も察知し、畠山重忠は鋤や鍬を持った工兵隊80名を同行させ、夜のうちにこの堀を埋めてしまったという。しかし、延べ25万人が半年以上かけて築いた大規模な防塁を80人が一晩のうちに埋めてしまえるものだろうか。この記述の背景には以前も書いたが、鎌倉側の「平泉側のやることなどこの程度」ということを強調したかった意図があるように思えてならない。

 そのことを暗示しているような文献があった。「義経とその時代」(大三輪龍彦、関 幸彦、福田豊彦編、山川出版社、アマゾン該当ページ )に収録されている吉井 宏氏の「阿津賀志山防塁を考える」である。そこには以下のようにある。

 「堀の埋め土を発掘断面図でみると、埋め土のほとんどが水平に堆積しているのがわかる。凹部に自然に土が堆積していくときには凹部の形状にあわせてレンズ状(三日月状)にたまっていくものであるから、水平堆積は人為的に埋めた証拠と考えることができる。ただしその堆積状況は耕土を意味すると思われ、けっして鎌倉軍が堀の片側から一気に土砂を流し込んだというものではない。つまり発掘地点のどこからも工兵隊の作業痕跡は発見されなかったのである」

 とすると、吾妻鏡にある畠山隊の記述は単なる「フィクション」か、または仮に本当に埋められたのだとしてもそれは広大な防塁のごくごく一部にとどまり、吾妻鏡の記載から想像されるようなほどの範囲が埋められたのではなかったのではないかと考えられる。

 実際には、堀を埋める埋めないよりも大きかったのは、安藤次なる地元民に案内させ、鎌倉側の小山朝光ら7騎が阿津賀志山の西部の山の道なき道を越え、国衡の本陣の北方に出て鬨の声を挙げて濃霧の中、矢を放ったために、平泉側が大混乱に陥ったことであったようである。いわば、源平合戦の一の谷の戦いの鵯越のようなことを鎌倉側にされてしまったのである。

 この壮大な防塁で安心してしまったのか、奥州軍がこの阿津賀志山から外に動かず、守りに徹していたことは返す返すも残念なことである。防塁で鎌倉軍を足止めしつつ、史実とは逆に、奥州軍の方が急峻な山道を越え、阿津賀志山の南から鎌倉軍の横手に奇襲をかけていたらどうなったかと想像するのである。

 ましてや、この合戦、頼朝が奥州制覇という父祖の宿意を晴らすべく、前九年の役で源頼義が勝利を収めた厨川の柵に到着する日にちまで前九年の役終結の日に合わせたが、それは旧暦の9月17日である。この年の9月17日は新暦で言うと10月28日である。すなわち、かつての奥州軍が得意とした騎馬兵を主体としたゲリラ戦に持ち込んであと1月ほど持ちこたえることができていれば、東北は本格的な冬を迎え、「アウェー」で冬の寒さに慣れていない鎌倉軍との力関係も変わったのではないか、それこそ前九年の役の折に、安倍貞任が源頼義に冬場の戦いで壊滅的な打撃を与えたという「黄海の戦い」の再現になったのではないか、と想像するのである。

 ところで、前述の吉井氏は面白いことを書いている。阿津賀志山の防塁は未完成だったというのである。氏は、まず元寇の防塁や万里の長城などを例に、こうした防塁は軍事的な防塁であると同時に異民族・異文化との境界を示しているものである」と指摘している。つまり、奥州藤原氏側から見ると、鎌倉軍の進軍は仏都平泉を蹂躙せんとする「異民族」の侵攻だったというわけである。その上で氏は、阿津賀志山の中腹で終わっている防塁は、「本来はどこまでも西に延びて日本海に通じるべきものであった」としている。それによって、「自分たちの領域を阿津賀志山以北に設定し、これよりは『奥州夷狄』の地であることを宣言した」というのが吉井氏の解釈である。

 吉井氏は阿津賀志山の戦い以降、奥州軍が総崩れになった理由を、「阿津賀志山という境界線を越えられたこと」によるものだと指摘している。つまり、単なる防衛線ではなく、心理的な境界線でもあった阿津賀志山を越えられてしまったことによる「深刻な敗北感」が奥州軍や泰衡自身を襲ったというのである。これまでにないユニークな視点だと思う(写真は阿津賀志山山頂から見た福島盆地。819年前この地に立った奥州側の大将軍、藤原国衡に眼下の鎌倉方の大軍はどのように映ったのだろうか)。

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2008年02月04日

私的東北論その8〜やはり必要な道州制の明確な「国家像」

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 1月24日付の秋田魁新報によれば、秋田県の道州制ビジョン懇話会は23日、「道州制のイメージ」中間報告素案の内容について大筋で合意したとのことである(該当記事)。

 素案では、「東北州」が実現すれば人口、GDPともベルギーと同程度になるとし、分権だけではなく、経済的側面からも道州制の意義を強調したとのことで、「産業、学術各分野で人や企業のパワーを結集することで一国並みの潜在力を持ち、国内外との競争により経済力を底上げする」としているそうである。

 この経済的側面でのメリットが重要であることは以前、このブログで紹介した大前研一氏の論考に詳しいが、今回この面に初めて触れたことには意義があると思える。なぜなら、これまでは、道州制が主に地方分権の文脈でのみ語られることが多かったからである。

 その意味で、秋田県の道州制ビジョン懇話会の今後出す「道州制のイメージ」には期待したいところだが、地方分権や経済的側面に加えて、もう一点期待したいのは、まさに道州制ビジョン懇話会の名前にある「ビジョン」である。

 1月5日付の河北新報によれば、仙台市民意識調査の結果として、道州制について「あまり関心はない」「関心はない」との回答が合わせて75.3%に上ったそうである。道州制の認知度についても、「知らなかった」が55.9%で最も多かったとのことである。この結果を見る限り、まだまだ道州制についての関心は高くないようである(該当記事)。

 記事には、調査した東日本リサーチセンターの「道州制は具体的にイメージしにくく、関心の低下を招いたのではないか」というコメントが載せられているが、道州制が「具体的にイメージしにく」いのは、道州制が実現した暁にどのような「東北州」が誕生するのかについてのビジョンが欠けているからに他ならないのではないだろうか。

 つまり、道州制成った後の「国家像」を誰かが明確なビジョンと共に声高らかに提示しないことには、「東北州民」の道州制への理解は得られないのではないように思うのである。今回のこの秋田県の道州制ビジョン懇談会の「道州制のイメージ」もその流れに与するものだとは思うが、この、東北州を統合するにふさわしいリーダーシップを持ったリーダーの「顔」が見えないのも、道州制に関する懸念材料の一つである。かつてのアテルイ、安倍貞任、奥州藤原氏に当たるような「カリスマリーダー」が今の東北にいれば、状況も大いに変わると思うのだが、言ってみれば、将来、この一国の大統領にも相当するような地位に就くべき東北のリーダーが、「道州制でこのような東北を創る」と宣言しなければ、道州制への理解と支持はなかなか得られないのではないようにも思う。

 なお、今回の秋田県の中間報告素案では、道州制で懸念される点に関して、「州都への一極集中が生じる」「区域拡大で住民サービスが低下する」などを挙げ、対応策として「一極集中は、州都と経済中心地を分離することで緩和できる」「市町村が住民サービスのほとんどを担うので、住民との距離は近くなる」などと明記したそうである。

 「州都」については、以前このブログでも提案したが、安易に仙台市とすることは絶対に避けるべきである。仙台市への一極集中を警戒する向きは東北の他の県、特に都道府県合併に向けて「最短距離」にあると言われる北東北の各県に根強いと思われる。「地方分権」の流れは、この「東北州」の中でも徹底すべきである。すべてが仙台市に集中し、あたかも東京に一極集中していた今までの日本のミニチュア版ができただけの道州制であっては決してならないと強く思う(写真は私の好きな木の一つである秋田県の旧山内村にある筏の大杉である)。


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2008年01月27日

東北の歴史のミステリーその18〜なぜ「阿津賀志山」だったのか

b2743c21.jpg さて、もっとも、泰衡が阿津賀志山に防塁を築いたのには、積極的な理由だけではなく、もう一つやむを得なかった理由もあるようである。それは、奥州藤原氏の支配形態と関係している。

 すなわち、奥州藤原氏が陸奥と出羽の広大な二国を実効支配していたとは言っても、その状況は北と南ではずいぶん違っていたということである。北は泰衡を討った河田次郎が吾妻鏡で「累代の家人」と書かれているように、奥州藤原氏に臣下の礼を取っていた豪族が多かったのに対し、南は早くから荘園開発が進んだこともあって、在地武士団とも言うべき集団が割拠しており、奥州藤原氏はそれらのうちの有力者とは乳母関係、あるいは婚姻関係を通じて関係を深めていたという側面があるのである。

 鎌倉側と対峙する局面となった際、陸奥の南(南奥)、領域で言うとほぼ今の福島県地域であろうが、その地域にはこれまでどおり奥州藤原氏との関係を続けようとする武士団と、鎌倉側につこうとする武士団とが、それぞれの領域争いも絡んで分かれて存在し、一枚岩ではなかったのである。実際、文治五年奥州合戦後も旧来の領土を安堵された豪族も南奥には少なからずいたことが分かっているが、それは紛れもなく鎌倉側についたことを表している。

 吾妻鏡の文治五年奥州合戦の部分を読んでいて不思議に思っていたのは、海道軍、大手軍、北陸軍と3つに分けた鎌倉側の軍のうち、頼朝率いる大手軍と日本海岸を北上した北陸軍が奥州側と交戦した記録はあるが、福島の太平洋岸を北上した海道軍が奥州軍と交戦したという記載がなかったことである。それは、福島の太平洋岸を押さえていた武士団は頼朝に従い、交戦しなかったか、あるいは交戦した軍があったとしても書くに値しないくらい散発的な抵抗でしかなかったということなのであろう。

 実際、福島県いわき市にある飯野八幡神社には文治二年に頼朝の意向に従って八幡神社に宮換えしたという記録が残っているそうである。文治二年と言えば、北方の王者と言われ、歴代の奥州藤原氏の中でも最大の勢力を誇ったと言われる三代藤原秀衡が在世中のことである。頼朝の対奥州戦略は水面下でそのように着々と進んでいたわけである(写真の向こうに見えるのが国道4号線から見た厚樫山(阿津賀志山)。まさに、それまで真っ直ぐ伸びてきたこの国道の行く手を阻んでいる)。

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2007年12月09日

東北の歴史のミステリーその17〜なぜ「阿津賀志山」だったのか

519272c9.jpg 以前、私がかつて義経が好きで泰衡のことが好きではなかったということを書いたが、その理由の一つが奥州藤原氏滅亡前夜の「阿津賀志山(あつかしやま)」にもあった。

 子供でも読める義経の伝記は大抵義経記を中心に源平盛衰記、平家物語などにある義経の話をミックスして書かれているが、秀衡臨終の場面はだいたい義経記に則して書かれている。義経記を読むと、秀衡は死の直前、

「定めて秀衡死したらば、鎌倉殿より判官殿討ち奉れと宣旨院宣下るべし。勲功には常陸を賜はるべきと有らんずるぞ。相構へてそれを用うべからず。入道が身には出羽奥州は過分の所にてあるぞ。況んや親に勝る子有らんや、各々が身を以て他国を賜はらん事叶ふべからず。鎌倉よりの御使なりとも首を斬れ。両三度に及びて御使を斬るならば、其の後はよも下されじ。たとひ下さるとも、大事にてぞ有らんずらん。其の用意をせよ。念珠、白河両関をば西木戸に防がせて、判官殿を愚になし奉るべからず。過分の振舞あるべからず。此の遺言をだにも違へずは、末世と言ふとも汝等が末の世は安穏なるべしと心得よ、生を隔つとも」

と遺言している。

 つまり、「秀衡は自分の死後頼朝が朝廷の宣旨や院宣をたてに義経を討て、その暁には常陸(茨城県)も与えるぞと言ってくるだろうが、それに乗ってはいけない。鎌倉から使いが来たら首を斬って戦の用意をせよ。国衡に念珠関(山形と新潟の県境)と白河関(福島と栃木の県境)を防がせ、義経を奉じればそなたらは安穏だ」と遺言したというのだ。ところが、実際には泰衡はこの偉大な父の遺言に背いて、あろうことか義経を討ち、これで一件落着かと思いきや、義経がいなくなってこれ幸いとばかりに突如頼朝に攻められる。驚いた泰衡は奥州の南端、福島と栃木の県境の白河を固めることができず、慌ててもっと平泉寄り、福島と宮城の県境にある阿津賀志山に防塁を俄かごしらえで作るが、ここを破られると一戦もせずに逃げ回り、挙句の果てに家臣の河田次郎に討たれて最期を遂げるという筋書きである。

 義経記の最後はこう結ばれている。

「故入道が遺言の如く、錦戸、比爪両人両関をふさぎ、泰衡、泉、判官殿の御下知に従ひて軍をしたりせば、いかでか斯様になり果つべき。親の遺言と言ひ、君に不忠と言ひ、悪逆無道を存じ立ちて、命も滅び、子孫絶えて、代々の所領他人の宝となるこそ悲しけれ。侍たらん者は、忠孝を専とせずんばあるべからず。口惜しかりしものなり」。

 読んでいる昔の私も、まったくこの作者と同じ心境で、「口惜し」がっていたものである。

 東北の南端を固めずに易々と宮城県境付近まで鎌倉軍の侵入を許してしまったことも私としてはかなり口惜しかったものである。なぜなら、この一連のストーリーで言えば、「阿津賀志山」(現在では厚樫山と表記する)というのは、泰衡の「先見性のなさ」の現われであって、鎌倉軍の進軍が早かったために奥州と坂東との境界であった白河以北を捨て、宮城・福島県境付近に防塁を築かざるを得なかったということになるからである。

 しかし、では実際のところ本当にそうだったのかと言うと、実はこの阿津賀志山の防塁はそのような慌てて作った俄かごしらえのものではないことが、発掘調査の結果既に分かっている。この作業には、半年以上かけて、延べ25万人が動員されたと推定されている。現在でもその遺構の一部は福島県国見町に残っているが(写真参照)、阿津賀志山の山麓に端を発して、現在の国道4号線、JR東北本線とほぼ重なると思われる奥大道を寸断してさらに東進し、阿武隈川にまで至るおよそ4kmにも及ぶ長大な防塁である。二重の堀とその前後の三重の土塁からなり、そこから地元ではこの防塁のことは二重堀(ふたえぼり)と呼ばれているが、確かにいかにも駿馬の一大産地であった奥州に築かれた防塁らしく、福島県立博物館にある復元模型などを見ると、ここを騎馬で越えるのはほとんど不可能と思えるような構造の防塁である。

 ちなみに、この阿津賀志山防塁、元寇の際に築かれた福岡市の元寇防塁、太宰府の水城防塁と並んで日本三大防塁の一つに数えられている。とても、その規模から言っても急造の不完全な防御施設と言って済ませられるような類のものではない。つまり、泰衡は鎌倉軍の侵攻が行われることを事前に察知して、ある程度の時間的余裕(とは言ってももちろん時間は限られていただろうが)を持ってこの防塁を築いたと言えるのである。

 また、この阿津賀志山の地を選んだというのも非常に合理的な理由があってのことである。福島県中通り北部から宮城県に入ろうとする境界にこの阿津賀志山はあるが、ここはまさに天然の要害である。今でも、ここを通るJR東北本線、東北自動車道、国道4号線のすべての行く手を阻み、そのためこれらの鉄道、道路は阿津賀志山を大きく迂回し、その合間をそれこそ肩を寄せ合うように通り抜けているのである(ちなみに、JR東北新幹線だけは阿津賀志山の西にトンネルを掘り真っ直ぐ走っている)。まさにここを閉鎖されれば、鎌倉側の大軍がその先に進むことは極めて困難な、そのような場所なのである。

 これに対して、奥州最南端の白河の関があるところは、栃木県との県境付近であり、今も残っている関所跡の南には「峠の明神」が祭られてある県境の峠があるが、「天然の要害」と言えるような地形ではない。ただ登って下るだけの地形である。誰かが言っていたが、白河の関は「交通検問所」のようなもので、陸奥と坂東の境界線を示すという意味合いが強く、決して外的の進入を防ぐのに適した場所とは言えないのである。

 事実、関所跡を見ると、一応周囲は堀が廻らされているが、ここに籠って外敵を討つなどというのはほとんど不可能と思えるような代物で、奥州藤原氏やその前の安倍氏、清原氏が築いていた柵と言われる防衛拠点とは比ぶべくもない。特に、この時代には既に関所としての機能は失われていたようで、白河の関はまさに単なる境界線でしかなかったわけである。泰衡には、阿津賀志山にこそ防塁を築く積極的な理由があったわけである。

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2007年10月13日

東北の歴史のミステリーその16〜首途八幡神社は奥州藤原氏の京都出先機関跡か

7949e581.jpg 以前紹介した大報恩寺(千本釈迦堂)から東に500mほど行った所に、首途八幡神社(かどではちまんじんじゃ)という神社がある。源義経が16歳の時に鞍馬山を抜け出して藤原秀衡を頼って金売り吉次と共に奥州に向けて旅立つ際に、道中の無事を祈願した神社とも言われ、今も旅行安全などにご利益があるとして信仰を集めているそうである。

 この首途八幡神社について、江戸時代初期の貞享元年(1648年)に黒川道祐が著した、京都の地誌学の古典と言われる「雍州府志」という書物には、「西陣五辻南桜井辻子(現在の上京区智恵光院通今出川上ル)に橘次(吉次)が在り。このところ、売金商橘次末春の宅地なり」、「源義経は橘次の東行に従ってここより首途(門出)す」とあり、元々ここは義経にまつわる話には必ず登場する金商人、金売り吉次の屋敷跡だとする説があるのである。

 ところで、金売り吉次という人物についても謎が多い。京都と奥州を行き来した金商人だというのがもっぱらの見方だが、上の「雍州府志」を見ても分かるように、「吉次」を「橘次」と記している文献もある。「橘次」(きちじ)は元々は「橘次郎」(たちばなじろう)という名で、商人ではなく実は侍で、後に義経の家来となったという説もある。源九郎を「げんくろう」と読み慣わすのと同じだというのである。確かに橘姓はこの時代の東北の武士に比較的よく見られる姓である。この説の通りだとすると、吉次は本当は奥州ゆかりの武士だったということになる。

 なお、京都には、「平泉第」(ひらいずみてい)という、奥州藤原氏の出先機関があったと言われている。この出先機関が辺境であった奥州と京都とのパイプを確保し、対朝廷工作などを担っていたというのである。この時代、奥州は半独立国状態であったので、言ってみれば平泉第はその「大使館」だったとも言えるかもしれない。ただ、実際にこの平泉第が京都のどこにあったのかは分かっていない。吉次が金商人ではなく奥州ゆかりの武士であり、かつこの首途八幡神社がその屋敷だったとすると、ここがかつての「平泉第」だったのかもしれない。歴史家の角田文衛氏が既に指摘している通りである。

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2007年08月24日

東北の歴史のミステリーその15〜藤原秀衡の孫が創建した寺院が京都にあった

951a5086.jpg 京都に大報恩寺というお寺がある(写真参照)。千本の地にあるので、地元では千本釈迦堂という名前で親しまれている。その名の通り、釈迦如来を本尊とする真言宗に属するお寺である。この大報恩寺、鎌倉時代初期の1227年に開創されたが、開創時の本堂がいまもそのまま残っている。

 この本堂が実は京都市内では最古の木造建造物とのことで、国宝に指定されているが、今でも自由に堂内を参拝できるのがすごい。開創当時は倶舎、天台、真言の三宗兼学の道場として朝廷に認められ、その後釈迦念仏の道場としても隆盛を極め、その様子は徒然草227、237段にも記述があるそうである。

 本堂以外にも本尊厨子と天蓋、本堂来迎板壁仏画、本堂棟木と棟札が国宝に指定され、本尊の釈迦如来像はじめ、釈迦の十大弟子像や六観音像など多くの鎌倉時代の仏像が重要文化財に指定されている。本尊の釈迦如来像以外は本堂左側の霊宝殿に収められ500円の拝観料で見学することができる。本尊の釈迦如来は秘仏だが、ちょうど訪れた時が精霊むかえ・六道詣りの時期で、貴重なこのご本尊を目にすることができた。

 この大報恩寺を開創したのは、義空上人という僧である。義空上人は19歳で叡山の澄憲僧都に師事し、その10数年後、この千本の地を得て、苦難の末に本堂をはじめ諸伽藍を建立したとのことである。

 ところで、この義空上人は、なんと奥州藤原氏の三代、藤原秀衡の孫なのだそうである。以前紹介したように、藤原秀衡には6人の男子がいたことになっているが、その中の誰の息子だったのか気になるところである。霊宝殿に展示してあった大報恩寺の縁起を記した古文書には、藤原忠明の子とあって、藤原忠明の名の脇に注釈として「秀衡息」と記されてあった。出生は「出羽国雄勝郡千福里」で承安二年、西暦で言うと1172年生まれとのことである。京都では平清盛が権勢の頂点を極めていた頃である。

 この藤原忠明という人物は、これまで知られている秀衡の6人の息子の誰でもない。「忠」の字が共通している三男忠衡のことか、あるいはこれまで知られている以外に存在した男子なのかもしれない。

 また、この義空上人が生まれた千福里という地名は、今の雄勝郡内には見当たらない。ただ、考えられる場所として、一つは旧雄勝町(現湯沢市雄勝町)の下院内に千福寺という寺があり、その近辺か、あるいは雄勝郡を含む仙北三郡の仙北のことを千福とも記したという記述があるので、それが誤って雄勝郡内の地名として伝わったかのいずれかかもしれない。

 もう一つ驚いたのはこの義空上人、文治二年(1186年)、15歳の時に鎌倉の月輪房阿舎利の童子役となったことである。義空上人はその後、19歳で剃髪して叡山に行くが、それまで鎌倉にいたということになる。義空上人が鎌倉に行った時期はまさに平泉と鎌倉が抜き差しならない状況になりつつあった頃である。この時の義空上人の役割はもしかすると、この時期の鎌倉の動向を逐一平泉に伝えるということにもあったのかもしれない。

 しかし、その3年後、文治五年(1189年)に奥州藤原氏は源頼朝によって滅ぼされてしまう。鎌倉にいた義空上人はそれをどのような思いでみつめていたのだろうか。その翌年、義空上人は剃髪し、叡山に向かうのである。奥州藤原氏が滅んだのを目の当たりにして、残りの人生を仏道に捧げ、一族の菩提を弔うと共に、その意思を継いで一切衆生を仏教によって救わんとする道を選んだのではないだろうか。義空上人が苦難の末開創したという大報恩寺を見ると、そのような思いがするのである。

 奥州藤原氏の仏教王国はあえなく滅びたが、その種子は鎌倉を経て遠く京の都まで飛び、そこで新たな花を咲かせたのである。


追記(2007.9.2):義空上人の父親である藤原忠明だが、よく考えてみると藤原秀衡の三男、忠衡とするのは無理があることに気付いた。忠衡は文治五年奥州合戦の直前に兄泰衡によって討たれたことになっているが、その時の年齢は23歳だったと言われている。当時、義空上人は18歳だったので、忠明=忠衡説は死亡時の忠衡の年齢が正しいとすれば成り立たないことになる。

 義空上人が生まれたとされる「出羽国」に関わりがあったと考えられる秀衡の息子は、「出羽冠者」の号を持つ五男の通衡だが、三男の忠衡が文治五年時点で23歳だったとすると、通衡はさらに年少だったことになり、やはり義空上人の父とはなり得ない。

 ちなみに、次男泰衡は死亡時35歳とも25歳とも言われる。泰衡が35歳なら義空上人くらいの息子がいてもおかしくない計算である。ただ、忠明=泰衡とは考えにくい。また、長兄国衡の年齢は分かっていないが、恐らく泰衡よりもかなり年上だったのではないかと思われる。

 まったくの想像だが、出羽国出身の奥州藤原氏の家臣あるいは縁戚にあたる者の中で、秀衡の娘と結婚して婿養子になった者がいて、藤原姓を名乗っていたということは考えられるかもしれない。婿養子に「秀衡息」と記載するかどうかという問題はあるが。


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2007年02月17日

東北の歴史のミステリーその14〜海を渡った奥州藤原氏

45f3380f.jpg 奥州藤原氏が源頼朝の侵攻に遭ってあえなく滅亡してしまったのは文治五年(1189年)である。吾妻鏡には、泰衡は「夷狄嶋を差し、糠部郡に赴く」とあり、北海道を目指して逃亡したと書かれている。

 既に紹介したように、泰衡はその後なぜか北海道には渡らず、贄の柵(秋田県大館市)で河田次郎に討たれ、その生涯を終えるが、実際に北海道に渡った奥州藤原氏ゆかりの人々もいたようである。これは以前、コメントを寄せてくれた瑠奈氏に教えていただいた。

 北海道に義経が渡ったという伝説があることは知っていたが、奥州藤原氏の関係の人々が渡ったことは知らなかった。その後調べてみると、確かに北海道の渡島半島の各地には、奥州藤原氏の人々が渡ってきたという伝承が残っていることが分かった。

 正保二年(1645年)に成立した松前藩の史書「新羅之記録・上巻」には、「右大将頼朝卿進発して奥州の泰衡を追討し御たまひし節、糠部、津軽より人多く此国に逃げ渡って居住す」とある。また、大正七年渡島教育会が編纂した「凾館支庁管内町村誌・其二」(道立文書館所蔵) の吉岡村の項でも、同じく松前藩の史書「福山舊事記(ふくやまくじき)」に「文治五年七月十五日鎌倉将軍右大将頼朝公藤原泰衡追討ノ節津軽糠部ヨリ里人多ク当国ヘ逃渡リ初メテ定住ス」とあることを紹介している。

 いずれも、糠部や津軽の住人が北海道に渡ってきたとしているが、それ以外の地に住んでいた人も含めてこれらの場所から北海道に渡ってきたと考える方が自然な気がする。糠部や津軽の地域は実際には頼朝に攻められていないのであるから、「難民」が発生したのだとすると、それは他の地域から逃れてきた人々だと考えられる。吾妻鏡には泰衡は「数千の軍兵に圍まれ」ていたとある。ひょっとするとこの数千の軍兵の一部が泰衡の死後、北海道に渡ったとも考えられる。

 ちなみに、「凾館支庁管内町村誌・其二」は、同じ吉岡村の項で「津軽ヲ距ルコト僅カニ七里自然ノ港湾ヲ有スル當地ノ如キ最初ノ上陸地点ナルベキカ」として、これら奥州藤原氏ゆかりの人々の最初の上陸地点は吉岡だったのではないかと推測している。また、江差町の「桧山沿革史」 によれば、 これら奥州藤原氏のゆかりの人々がその後定着した所は、吉岡、松前、江差の三ヶ所であると記されている。したがって、これらの町では、町の開基を1189年としているようである(「福島町史」、「古代・中世の松前」など参照)。

 では、これらの町に奥州藤原氏ゆかりの人々が上陸し、定着した形跡が何らかの形で残っているかというと、残念ながら残ってはいなかった。江差町の郷土資料室(現在移転作業中)で話を聞いたが、当時の北海道は擦文文化の時代であり、発掘された土器の特徴などから北東北と交流があった形跡は見られるものの、文字として残っている同時代の資料はなく、また館の跡なども残っていないとのことであった。館と言えば、渡島半島では「道南十二館」と呼ばれる中世の城館跡が残っているが、これはもっと後代のものである。

 しかし、奥州藤原氏ゆかりの人々が新天地である「夷狄嶋」で覇を唱えたであれば、それは後世まで続いて例えば道南十二館の時代の資料にもそのように記載されていたと考えられるし、そうでないところを見ると、この時代に渡ってきた人々はこの地で静かにひっそりと暮らしていたのかもしれない(写真は松前町から見た冬の日本海。818年前、この日本海の荒波を乗り越えて渡ってきた東北の人々がいたのだろうか)。


追記(2011.9.13):江差町の郷土資料室は現在、旧檜山爾志郡役所に移転し、「江差町郷土資料館」という名称になった。

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2006年10月17日

東北の歴史のミステリーその12〜平泉の人も知らなかった秀衡寄進の仏像

fcc5722d.jpg  岐阜県に郡上郡の7町村が合併してできた郡上市がある。その中の旧白鳥町内の石徹白(いとしろ)地区は、白山の麓にある山奥の集落であるが、ここに白山中居神社(はくさんちゅうきょじんじゃ)という、西暦83年、景行天皇の頃に開かれたという古い神社がある。

 私がこの神社に興味を持ったのは、この神社に奥州藤原氏の三代秀衡が銅造虚空蔵菩薩坐像を奉納し、それが今も残っていると聞いたからである。秀衡は白山を深く信仰していたらしく、それでこの虚空蔵菩薩坐像を1185年に奉納したそうであるが、奉納するに当たり「上村十二人衆」と称する選りすぐりの家来をこの地に派遣し、この大事な虚空蔵菩薩坐像を守らせたのだという。

 奥州藤原氏はそれから4年後に源頼朝に攻め滅ぼされてしまうが、この地に住み着いた上村十二人衆の子孫の方々は、その後もこの仏像を争乱、一揆、打ち壊し、火災、盗難などから大切に守り続けてきた。

 この仏像にとって最大の危機は、明治維新の際に吹き荒れた廃仏毀釈の嵐だった。他の多くの仏像と同じく、この仏像も危うく焼かれるところだったが、上村十二人衆の子孫の方々が当局に何度も掛け合い、やっとのことで廃仏を免れた。実際、白山中居神社にあった他の仏像のほとんどは廃仏毀釈の憂き目に遭ってしまい、今は残っていない。

 とは言え、神社には置いておけなくなったため、子孫の方々は、神社から2kmほど離れた場所に大師堂というお堂を作り、そこに虚空蔵菩薩を安置させ、大師講という講を作り、以来、今も引き続きこの仏像を大切に守っている。820年もの間、先祖代々この仏像を守り続けてきた方々の姿に心底頭の下がる思いである。その方々のお蔭で、この貴重な仏像をこの目で拝見することができた。現在の講元である上村修一さんにご案内いただいたが、虚空蔵菩薩坐像は今もその荘厳なお姿のまま鎮座しておられた(写真参照)。上村さんのご好意でこのように写真も撮らせていただくこともできた。

 私は以前平泉の中尊寺の住職の方の講演を聞いて、この仏像の存在を知ったのだが、その時驚いたのは、中尊寺も含め平泉側の人々がこの仏像の存在を知ったのは、なんと昭和55年になってからのことだったということである。

 その辺りの経緯を上村さんにお聞きしたところ、文化庁の調査で全国の文化財調査が行われた際、この虚空蔵菩薩坐像は即座に国の重要文化財となることが決まったのだそうであるが、そうすると火災や盗難から守るために鉄筋コンクリートの保管庫に収めなくてはならなくなり、今までの大師堂に置いておけなくなったのだという。その代わりに今までのお堂には、虚空蔵菩薩のお姿を写した掛け軸を飾ろうということになって、その掛け軸の虚空蔵菩薩の開眼供養をお願いするために上村さんが中尊寺に連絡を取ったことが、この仏像の存在が平泉側に知られることになったきっかけだったのだそうである。

 およそ800年の時を超えて、再びこの仏像の存在が「故郷」に知られることになったわけで、今のこの情報通信機器が発達した時代には信じられないような話であるが、だからこそ逆に、それまで誰に誇ることもなく、ただ地道に、しかし確実に、大切な仏像を守り続けてきた方々の凄さが、ひしひしと伝わってくる気がするのである。

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2006年09月04日

東北の歴史のミステリーその11〜泰衡は死んでいなかった?

c10f6847.jpg 中尊寺金色堂に納められた首級がやはり泰衡のものである可能性が高いとする資料が実は私の手元にあった。「奥州平泉黄金の世紀」(荒木伸介・角田文衞他、新潮社、アマゾン該当ページ)という本であるが、その中に、東京大学理学部教授だった故・埴原和郎氏が「藤原一族の骨格データを読む」という論文を寄稿している。埴原氏は、自然人類学の権威であり、特に歯や骨のデータから日本人のルーツや成り立ちを解き明かそうとしていたひとである。

 この本の中で埴原氏は、昭和25年の御遺体学術調査の折に得られた藤原四代の頭骨の、‘骨最大長、頭骨最大幅、バジオン・ブレグマ高、に帽弓幅、ゾ經藕癲↓ι”、鼻高、といった「人類学的に重要な計測値」を多変量解析している(写真参照)。

 埴原氏はまず、クラスター分析によって藤原四代の頭骨の相互の類似性を分析している。それによると、4人の中で三代秀衡の頭骨と四代泰衡の頭骨がもっとも近いという結果が得られている。そして、秀衡・泰衡は二代基衡・初代清衡とはやや異なっており、それは基衡が安倍氏から妻を迎えて秀衡を産んだことと関係があるかもしれないとしている。

 この結果は、中尊寺金色堂に納められた首級がやはり泰衡のものであると判断するに足る根拠を提供しているように考えられる。以前紹介した金色堂はなぜ建てられたか―金色堂に眠る首級の謎を解く 」で高井ふみや氏が主張しているように、もし首級が経清のものとした場合、ではなぜ秀衡の頭骨と、秀衡から数えて三代前の経清の頭骨とが、清衡や基衡よりも互いに似通っているのかということを説明することは困難なように思える。まして、これまた以前紹介した歴史おもしろ推理 謎の迷宮入り事件を解け 」で楠木誠一郎氏が主張しているように、泰衡の首級が誰か別の人間のものだとした場合、それが秀衡の頭骨とかなり似ていることを説明するのはさらに困難である。

 埴原氏はさらに分析を進め、これら藤原四代の頭骨は、現代京都人に最も近く、現代東北人とはかなり違っていること、そしてまた14世紀鎌倉人、八雲アイヌとはまったく異なっているという結果を得ている。また、判別関数法から見てみると、アイヌと東北人のデータを使うと藤原四代は東北人に属すると分類され、さらに東北人と京都人のデータを使うといずれも京都人に分類されるという結果となったという。これらの結果から埴原氏は、奥州藤原氏が京都出身である可能性は相当高いと主張している。

 したがって、泰衡の首級がもし偽首だとした場合、頭骨データから見て、その身代わりは地元東北人であってはならず、京都出身の特徴を持つ秀衡や泰衡と極めて近い血縁者などでなくてはならないことになる。例えば少なくとも4人いた泰衡の弟たちがそうであろう。しかし、秀衡や泰衡に近い血縁者であればそれなりの地位にある人物ばかりであったろうし、そうした地位の人物を身代わりにするのはほぼ不可能に近いと思われる。

 ちなみに、泰衡は6人兄弟の2番目である。腹違いの兄国衡は阿津賀志山の合戦で、大将軍として鎌倉側と激しく戦い、戦死している。泰衡のすぐ下の弟の忠衡は義経に与したとして、頼朝の侵攻の前に泰衡に誅されている。四男の高衡(隆衡としている資料もある)は、義経の首を鎌倉に届ける際に使者となった人物だが、泰衡が河田次郎に討たれた後、鎌倉側に投降している。五男の通衡(みちひら)はわからない。六男の頼衡も泰衡に誅されたと室町時代に成立した「尊卑分脈」には記されている。忠衡が討たれたのと同じ理由だろうか(頼衡の実在を疑う説もある)。

 討たれたと言っても、忠衡の遺骸がどこに埋められたのか、定かではない。もちろん、頼衡もそうである。金色堂の秀衡の遺体のそばにあった首級は元々忠衡のものと伝えられてきたが、実はそうではなかったということが分かったのと同時に生じた疑問は、では忠衡の遺体はどこに行ったのかということである。もちろん、時代が移り変わる中で、単にどこに埋めたのかが明確でなくなっただけなのかもしれない。一方で、義経生存説は東北に根強いが、その中では忠衡は死んだと見せかけて義経を案内して渡島に渡ったと伝えられている。頼衡については津軽外が浜(青森県の陸奥湾沿岸)に逃れて津軽浪岡氏の祖になったという伝承がある。もちろん、いずれも正史と信じられるには至っていない。

 こうして見ると、6人兄弟のうち、五男の通衡だけが文治五年奥州合戦後の所在がわからない。通衡が泰衡の身代わりとなった可能性があったかどうか。さらに穿った見方をすれば、四男の高衡が投降したのは、面が割れていて逃げおおせないと考えたからなのかもしれない。それ以外の兄弟は鎌倉側に顔を知られていなかったのだから、敗色濃厚となって逃亡しようと思えば逃亡できたかもしれない。ただし、そのような証拠はないし(逃げようとする者がわざわざ逃げた証拠を残していくとも思えないが)、ない以上すべては憶測でしかなく、結局中尊寺に祀られている首級は泰衡のものである可能性が非常に高いという事実は動かしようがないということである。

anagma5 at 20:26|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!