奥羽越列藩同盟  

2018年02月08日

私的東北論その105&東北に関係する書籍その9〜「玉虫左太夫が見た夢」(「東北復興」紙への寄稿原稿)

 1月16日に発行された「東北復興」第68号では、幕末の仙台藩士玉虫左太夫を主人公に据えた小説「竜は動かず〜奥羽越列藩同盟顛末」について取り上げた。玉虫左太夫の遺した業績については、もっと評価されるべきと思う。


玉虫左太夫を扱った小説
「竜は動かず」 「竜は動かず〜奥羽越列藩同盟顛末」(上下巻、上田秀人、講談社)は、幕末に活躍した仙台藩士、玉虫左太夫を描いた小説である。この歴史の谷間に埋もれてしまった玉虫左太夫という名前を、聞いたことはあるという人は仙台に住んでいる人の中には割と多いのではないかと思うが、彼が為した業績を言い表せる人はそれほど多くないのではないだろうか。

 玉虫左太夫については、本紙第8号で早くも大川真氏が述べている。その中で氏は、「奥羽越列藩同盟の『集議』重視の政治システムは、明治維新の『敗者』=『遅れた』『敗れた』地域である東北にも先進的な政治構想が存在していることの証左と言いうる」と指摘した上で、玉虫左太夫をその奥羽越列藩同盟の「中心的なイデオローグの一人」と位置付けている。そして、玉虫左太夫の書簡にある「人心ヲ和シ上下一致ニセンコトヲ論ス」といった内容を紹介して、「当時としては画期的な内容が盛り込まれている。そしてほとんど看過されていることであるが、こうした先進的な政策が幕末の東北で提言されていることは震災後で大きな意味を持つと私は信ずる」と結んでいる。

小説の中の玉虫左太夫

 本書で描かれる玉虫左太夫は以下のような人物である。――仙台藩の下級武士で、学問を究めるために脱藩して江戸に出奔。苦労を重ねるが、後に幕府直轄の教学機関である昌平坂学問所の長官となる林復斎に見出され、林の紹介で仙台藩の儒学者・大槻磐渓と邂逅し、大槻の推挙で仙台藩主伊達慶邦との目通りも叶う。林の推挙で堀織部正の従者として蝦夷地を視察し、条約の批准に渡米する外国奉行新見豊前守の従者として太平洋を渡ってアメリカに上陸し、その後アフリカ、インドネシアを経由して世界一周して日本に帰国。その際に見聞きしたことの詳細な記録を「航米日録」としてまとめる。勝海舟や坂本龍馬と交流を持ち、松平春嶽や久坂玄瑞とも接触、仙台藩の命で風雲急を告げる京洛の動静を探る。大政奉還後、新政府から会津討伐を命ぜられるに際して、仙台藩を中心に旧幕府に匹敵する総石高260万石の奥羽越列藩同盟結成のために奔走、盟約づくりにも関与する。同盟崩壊、仙台藩降伏後、仙台藩の反佐幕派によって切腹させられる。

 小説の中で玉虫左太夫は、「日本は忠義を芯とし、礼節を重んじ、受けた恩を忘れぬ国でございまする」と主張する。日本では手柄を立てて与えられた禄や庇護は代を重ねて子々孫々まで受け継いでいけるという保障があるおかげで、武士は安心して戦場に赴けたわけで、自分が討ち死にしても、跡継ぎさえいれば家は残り、家族の生活は守られたのである。したがって、アメリカに対しては、「国をまとめた大統領といえども、次の入れ札で負ければ、ただの人に落ちる。本人でさえ、そうなのでござる。子や孫など一顧だにされませぬ。これでは忠義などありませぬ」と最初は否定して見せる。

 しかし、アメリカについては一方で、船上で艦長が一水夫の死を我が子を亡くしたように悲しむのを見て、「亜米利加が強いわけがわかりました。上の者と下の者が相和すれば人々の心は自(おの)ずから良き方向にまとまりまする。建国以来亜米利加で謀反がない理由もここにあるのでは」と、その情の深さに大いに感じ入っている。

 また、元の身分が低いがために、事あるごとにあからさまな嫌がらせを受けたり、足を引っ張られたりしたために、「馬鹿が上にいないという点は、大いにうらやむことである」「血筋と生まれだけで、さしたる学もない連中が、重臣だと幅をきかせる」と嘆く。そうした中で孫ができたことで、「能力さえあれば、男女に変わりなく頭角を現せる世」であるアメリカの姿が玉虫左太夫の中で大きくなっていくのである。

奥羽越列藩同盟の盟約
 玉虫左太夫はそうした中、奥羽越列藩同盟の軍務局議事応接頭取という外交官ともいうべき役職に就いた。奥羽越列藩同盟は会津、庄内への恩赦を要望する嘆願を出し、続いて盟約を作成する。盟約の全文は小説中には出てこないが、実際の盟約は以下の通りである。

今度、奥羽列藩仙台に於て会議し、鎮撫総督に告げ、盟約を以て公平正大の道を執り、同心協力、上王室を尊び、下人民を憮恤し、皇国を維持し、而して宸襟を安んぜんとす。仍て条例左の如し。
一、天下の大義を伸べるを以て目的と為し、小節細行に拘泥すべからざる事。
一、海を渉る同舟の如く、信を以て居し義を以て動くべき事。
一、若し、不慮危急の事あらば、比隣の各藩、速やかに援救し、総督府に報告すべきの事。
一、強きを負み弱きを凌ぐ勿れ、私に利を営む勿れ、機事を泄す勿れ、同盟を離する勿れ。
一、城堡を築造し、糧食を運搬する、止むを得ずと雖も、漫りに百姓をして労役し、愁苦に勝えざらしむる勿れ。
一、大事件は列藩集議、公平の旨に帰すべし。細緻は則ちその宜しきに随ふべき事。
一、他国に通諜し、或ひは隣境に出兵す、皆同盟に報ずべき事。
一、無辜を殺戮する勿れ、金穀を掠奪する勿れ、凡そ、事不義に渉らば、厳刑を加ふべき事。
右条々、違背あるに於ては、則ち列藩集議し厳譴を加ふべき者なり

 崇高な精神が現れた見事な盟約である。これらの中で、玉虫左太夫がその権限を使って入れ込んだものが5番目の「やむをえずといえども、みだりに百姓を労役させて憂い苦しませてはならない」という項目であった。東北の百姓を、アメリカで目の当たりにした奴隷にしてはならないという強い思いだった。

 本紙第11号で紹介した小説「蒼茫の大地 滅ぶ」で、野上青森県知事は奥羽越列藩同盟の敗因として、「三春藩・河野広中の裏切りと、農民の戦争拒否にあった」として、特に「何よりも農民の協力拒否が敗北につながった」と指摘していた。しかし、奥羽越列藩同盟の側には、元々農民を戦争に巻き込まないための盟約が存在していたのである。

 小説中では逆に、勢いづいた会津藩がこの盟約を破って、白河領で密かに農民に食糧を拠出させ、防衛陣を構築するための人夫も徴発するが、そのために恨みを持った農民が新政府軍を手引きして間道を案内した結果、立石山の陣を奪われて形勢が不利になる様子が描かれている。

知られていない理由

 白河の関に差し掛かった玉虫左太夫に、「ここを封じれば……奥州は独立できるか」との思いが脳裏をよぎる。奥羽越列藩同盟については前述の「蒼茫の大地 滅ぶ」でも説明されているが、元々会津、庄内両藩の恩赦を嘆願する同盟だったが、この嘆願が新政府に拒絶された後は、北部政権の樹立を目指した軍事同盟となった。この新しい政権の樹立というのは、新政府とは別の政権を創るということで、いわば新政府からの独立を目指したものと言えるのだが、敗北したこともありこの辺りが過小評価されているのではないかと感じる。輪王寺宮公現法親王を推戴し、「東武皇帝」として即位し、改元も行ったという説もあるのだが、資料が乏しく、統一した見解が得られていない。

 玉虫左太夫らが日本人として初めて世界一周した万延元年遣米使節も、あまり知られていないのではないだろうか。少なくとも、学校教育の中ではいわゆる「岩倉使節団」の方がはるかに著名である。玉虫左太夫自身のこともあまりにも知られていない。

 それは、これらはいずれも「敗者の歴史」であることが理由であるように思える。敗者の歴史は、勝者によって書き換えられるのが常である。とりわけ、新政府にとっては、自分たちとは別の政権が一時的にではあっても存在したという事実は、到底認められないものだったに違いない。

 作者の上田秀人氏は、インタビューの中で、この小説を書いた理由について、「幕末は維新を興した側から語られることが多い。じゃあ私は違う方向から、あの時代を眺めてみようと考えました」と答えている。視点を変えるとまったく違った歴史が見えてくる。この小説はそのまたとない好例であろう。

もし玉虫左太夫が生きていたら

 ところで、この小説のタイトルの「竜は動かず」の「竜」は何を表しているのだろうか。「竜」と言えば「独眼竜」政宗のことがまず思い浮かぶ。「竜は動かず」はこの「独眼竜」政宗の築いた仙台藩が、結局戊辰戦争ではさしたる働きができなかったことを示しているのかもしれない。小説中で仙台藩は、「かつて奥州に覇をはった仙台伊達も、二百六十年をこえる泰平に戦を忘れていた。戦場で討ち死するかもしれないとの恐怖は、実戦経験のなさも加わって勝とうという強固な意思を奪った」と書かれている。奥羽を代表する大藩である仙台藩が、泰平にあぐらをかくことなく軍備や組織の近代化を図っていたとしたら、奥羽越列藩同盟はまた違った展開を見せていたのかもしれない。

 あるいは、時代の変革を「竜」にたとえて、結局奥羽越列藩同盟が目指した「もう一つの日本」が日の目を見なかったことを、このタイトルは伝えているのかもしれない。様々な失策が積み重なって奥羽越列藩同盟は敗れ去ってしまったが、それでも盟約にあるような崇高な精神は、なくならずに今の東北にも伝わり、受け継がれているようにも思う。

 玉虫左太夫、本来は禁固7カ月で済むはずだったが、政敵によって切腹させられてしまった。もし本来の禁固だけで済んでいたら、仙台は、そして日本はどのように変わっただろうか。第14号で取り上げた会津の山本覚馬の業績を見ても、玉虫左太夫ももし生きていたとしたら、相当のことを成し遂げたに違いないと思う。その山本覚馬と玉虫左太夫がもし邂逅していたら、きっと意気投合して、相互に大いに刺激し合ったのではないか、などとも夢想するのである。

 なお、玉虫左太夫が遺した「航米日録」、7年前に「仙台藩士幕末世界一周」(荒蝦夷)というタイトルで玉虫左太夫の子孫である山本三郎氏の現代語訳で刊行されている。併せて読んでみたいものである。

 この「航米日録」にも出てくるが、この世界一周の航海中に玉虫左太夫はビールを飲んでいる。キリンビールのサイトにある「ビールを愛した近代日本の人々」の中に玉虫左太夫も紹介されている。世界を目の当たりにしながら飲むビールが、玉虫左太夫にとってどのような味だったのか、聞いてみたいものである。


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2017年03月23日

私的東北論その93&東北に関係する書籍その8〜「逃北」のススメ(「東北復興」紙への寄稿原稿)

 1月16日に発行された「東北復興紙第56号では、「逃北」について書いてみた。能町みね子氏の造語である「逃北」、東北の本質を実によく言い表した言葉であると思う。紙面ではスペースの関係で19行ほどカットしたが、再録に当たって、カットした部分も復元した。元々カットしても大丈夫だった文章であったわけだから、それで何がどうこうなるということはないわけであるが(笑)。

 そうそう、能町氏、出版元の文芸春秋のサイトで、「逃北」について「コミックエッセイ」も書いている。こちらも併せて参照されたい。


「逃北」のススメ

「逃北」という名のエッセイ
img_ea47bf20395854d7c586c55e5d76206b732506 「逃北〜つかれた時は北へ逃げます」(能町みね子著、文春文庫)が面白かった。「逃北」というのは能町氏の造語で、「北に逃げたい衝動」のことである。「いつでも北に逃げたい。私は」という書き出しで始まるこのエッセイ、氏の「北」に対する思いが余すところなく披瀝されている。

 氏は、「南の解放感、暖かさ、ほんとにいいものです。旅行でおとずれた春の沖縄は気持ちよかったよ。タイもよかったね。弛緩してた。たいがいのことはどうにかなるんじゃないの〜、っていう楽天的な気持ちになれそうだった」と言いつつ、「でも、南に住みたいとか、南の国で人生をやり直す夢を描いたりとか、そういう気持ちはまったくない。沖縄やタイに住むなんて想像もつかないし、はっきり言って絶対にいやだ」と言い切ってしまう。そして、「私はキツいときこそ北に行きたくなるのだ。都会での生活に倦んだとき、南に行って気楽になろうという方面に考えは進まず、北に行ってしまいたくなる」と、その「逃北」への思いを熱く語るのである。

どこが「北」か
 「逃北」という言葉が「東北」と音が同じなのは偶然なのではなく、氏の東北に対する思いとリンクしている。実際、本書の中には、氏が青森や秋田や岩手に「逃」げた時の体験談が生き生きと書かれている。最初に意識的に「北」に行った大学の卒業旅行で氏は、両親の出身地である北海道を目指すが、「途中の青森のこともものすごく気に入ってしまい」、「帰ってきてからは、北海道よりも青森のほうが印象に残っていたくらい」で、「その旅行以来、日本の『北』で私がもっとも惹かれるのは、最北の北海道よりも東北地方になりました」とのことである。

 どんな時に「逃北」が発動するのか。氏によれば、日々東京で仕事をしていて、なんとなく心身の不調やイラつきなどが蓄積されて、「じんわりじんわりネジが巻かれて」いっている。ある瞬間にそのネジの押さえが外れて「ぎゅるんと高速回転する」と、北に飛んでいるという。「いつも私は北を向いた砲台の中にいる」という表現がまたユニークである。

 北に逃げてどうするのか。「逃北」とは、「ただ単に辛い気持ちを寒い土地で倍々にふくらませる行為」なのではない。「空気が冷たく張りつめた、どこか殺伐とした場所に自分を追い込むこと」が「癒し」なのだという。

 では、「北」とはどこか。氏の定義では、北海道と東北地方全体は「逃北」の対象で、関東は北らしさが弱まり、東京近郊は「北じゃない」。北陸は「逃北」の対象となりそうだが、福井までくると「だいぶもやもやしている」。長野や松本も「北」を感じるが、静岡は「ぜんぜん北じゃない」。一方、鳥取と島根には「北らしさがあるように思う」が、福岡まで来ると九州も沖縄も「まるっきり北じゃない」と線引きしている。

 緯度から見るとかなり南だが、鳥取や島根にも「北」を感じるところが、氏の感受性豊かなところであるように思う。「炎立つ」など東北を舞台にした小説を数多く手掛けている高橋克彦氏は、大陸から渡ってきたヤマト族に敗れて、遠く東北方面にまで逃れた出雲人が東北人のルーツだという「東北出雲説」を主張しているし、松本清張の小説「砂の器」では、秋田と同じ「ズーズー弁」を話す地域が島根県にもあることが明らかにされる。私なども、この、言葉が近いことや、うどんが優勢な西日本にあって唯一そばが優勢な地域であることなどから、出雲周辺には親近感を覚えるのである。

多くの人が逃れてきた東北
 この「逃北」という言葉、実に秀逸であると思う。第38号で書いたことがあるが、元々東北は神話時代以来、様々な人が逃れてきた地である。逃れてきたというくらいだから、中央での様々な争い事に敗れた結果、この東北の地までやってきたのである。そう、中央を追われた逃亡者たちは古来、なぜか東北を目指すのである。

 神話の時代からそうした例には事欠かず、神武天皇東征の折に殺されたとされる長脛彦の兄、安日彦が津軽に逃れてきたという伝承に始まり、山形の出羽三山の開祖は、父崇峻天皇を蘇我氏に弑逆されて出羽に逃れた蜂子皇子である。同じ聖徳太子の時代にはやはり蘇我氏との争いに敗れた物部氏が秋田に逃れている。平氏全盛の時代に源義経が奥州藤原氏を頼って平泉に逃れ、その義経によって滅ぼされた平氏の平貞能が逃れてきた仙台市郊外に定義如来ができ、兄頼朝に追われた義経が再度平泉に逃れてきた。奥州藤原氏自体も元々関東に根を張っていたところ、関東で起こして敗れた乱の戦後処理で亘理に逃れてきたとされる。頼朝の死後殺された梶原景時の兄影實も、気仙沼に近い唐桑に逃れてきている。元寇の折には元の残党がやはり仙台に逃れてきている。織田信長によって滅ぼされた武田勝頼の子信勝も東北に逃れたとされる。

 大河ドラマ「真田丸」でも描かれたが、主人公の真田信繁(幸村)の娘や息子は伊達政宗の庇護の下、白石に逃れてきている。関ヶ原の合戦で死んだとされる石田三成や、主人公の真田幸村さえも、秋田に逃れてきたという伝承が残る。江戸幕府の禁教を逃れたキリシタンたちは東北に移り住んでいた。幕末の上野戦争で敗れた輪王寺宮も東北に逃れた。

 これほど時代を問わず、争いに敗れた者が逃げ延びたという話が伝わる地域は、日本全国他に例を見ないのではないだろうか。東北は古より、そのような地であったわけである。

東北は一度も「勝って」いない
 たくさんの人が逃れてきたと書いたが、これらの逃れた人は、単に命を長らえるために東北に逃れてきたのだろうか。もちろん、それが最重要であったことは確かだろうが、それだけではなかったのではないかと推測する。中央から距離があり、その支配が届きにくいこの東北の地は、中央で敗れた人たちにとって、再出発のできる新天地だったのではないだろうか。だからこそ、蜂子皇子は出羽三山を興し、藤原清衡は東北の地に浄土を造ろうとし、奥羽越列藩同盟は江戸幕府でも薩長政府でもない新しい国を造ろうとしたのではないだろうか。

 そして、東北が敗れた者の新天地たり得たのは、ひとえにこの地に住む人々がそうした敗れた者に対する温かい視線を持っていたことが大きい。なぜそうした視線を持ち得たかと言えば、他ならぬ東北人こそが、敗れた者だったからである。神話時代の日本武尊以来、阿倍比羅夫による蝦夷征討、坂上田村麻呂と阿弖流為の戦い、安倍氏が滅んだ前九年の役、清原氏が滅んだ後三年の役、奥州藤原氏が滅んだ文治五年奥州合戦、豊臣秀吉の奥州仕置と九戸政実の乱、そして戊辰戦争と、東北は攻め込んできた中央の軍に対して一度も勝利したことがない。唯一の例外は、建武の新政の折に、後醍醐天皇に反旗を翻した足利尊氏に対して北畠顕家が奥州の軍を率いて上京し、これを打ち破ったという豊島河原合戦のみである。しかし、これは中央から攻め込まれたわけではなく、中央から陸奥守として下向していた北畠顕家が上京しているわけで、「本拠地」である東北で勝利しているわけではない。

 能町氏もいみじくも書いている。「私はむりやりにでも逃げるべき故郷を作りたいのです。やるせなさや空虚感に満たされて逃げ帰ったときに、なぜか落ちつく心の故郷。それが私にとっての北です。私は北へ『旅立つ』のではなく『逃げる』のであり、あるいは『帰る』のであり、それは希望にあふれた気持ちではない。何らかの理由で現在の地にいられないから逃げるのです。勝敗でいうなら敗。逃北は敗北につながっている」と。

 しかし、「とはいえ」と氏は続ける。「『逃北』や『敗北』は、私にとって必ずしも後退ではありません。むりやりすべてをゼロに戻すことであり、原点に帰るということです。北らしい空虚で荒涼とした風景も、何もない原点だと思えるからこそ、とても親しみが湧きます」と。古来、東北の地に逃れてきた多くの人々にも、似たような思いがあったかもしれない。敗北して逃げてきた人にとっては、決して希望に満ちた再出発ではないかもしれない。だが、それはこれまでの地での敗北をゼロに戻し、原点に帰してくれるものであったことは間違いなかったはずである。

いつでも逃げてこれる地域を目指す
 能町氏の「逃北」、東北の今後の方向性を考える上で大いにヒントを与えてくれると思う。これまで、観光振興では、いかに東北各地の観光資源を掘り起こし、それを発信していくかという点に重点が置かれていた。それはそれでそのようなニーズに応えるために必要なことであることは間違いないが、そればかりに傾倒する必要はなかったのではないか。日常に疲れた人が、周囲の状況にがんじがらめになっている人が、これまでの生活を一旦リセットしたい人が、いつでも逃げてくることのできる地域、それは必ずしも定住することを意味するのではなく、能町氏のようにネジのおさえが外れた時に何度でも来られるような、東北はそうした地域であればよいのではないだろうか。

 氏は「北」について、「旅先での客を『なして(どうして)こんなとこまで来たんだか』という、少し卑屈な態度で迎えてくれる。ちょっと最初だけとっかかりにくいけど、少しずつ、まさに雪が溶けるように、わざわざ来てくれたことへの感謝を前面に出して歓待してくれる。私にとって、北はこういうイメージ」と書く。確かにそのような面は大いにあるように思う。来る人をもてなす、受け入れる、それは東北人に脈々と受け継がれている資質のようにも思う。そうでなくして東北は、神代から近世に至るまで多くの人が逃れてくる地とはなり得なかったのではないだろうか。

 また、氏は、旅の中で観光スポットをあまりメインにしないと書いている。「観光地よりは地元の土着の臭いのする街の方が好き」で、「その街に観光スポットがあるとかないとか、根本的には関係ない」そうで、「むしろ目立った観光スポットがない街の方に興味が湧いてしまう」らしい。「わざわざ都会で作ってる本にガイドしてもらおうなんて思いません。地元の情報は地元の人に聞いて判断したいし、できれば自力で探したいよね、と思う」お人なのである。

 実はこれ、私も同様である。知らない地に行く時もほとんど事前に下調べをしたりしない。むしろ先入観なく、自分の足でその地を歩き回って、そこで感じるいろいろなことの方を重視している。その上でその地にある様々な情報を見聞きして、さらに行きたいと思うところに行ってみる、だいたいいつもそんな感じである。

 そのようなスタイルの旅を全ての人が志向しているわけではないだろうが、しかし一定のニーズはあるはずである。何かあったらぶらっと来て、日常と異なる環境に身を置いて、そこで得たものを持ってまた日常の場に帰っていく、そのような旅ができる東北であると、なおいいと思うのである。


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2014年12月24日

私的東北論その62〜地域共通の課題解決に県境を越えた取り組みを(「東北復興」紙への寄稿原稿)

tohoku-fukko30 「東北復興」の第30号が11月16日に刊行された。自らも仕事を抱えつつ、それでも毎月こうして電子新聞を発行し続ける砂越 豊さんの意志力には頭の下がる思いである。区切りとなるこの号では、トップで防潮堤問題を取り上げている。防潮堤の問題は、私も昨年9月の第16号で取り上げた。防潮堤をどうするかは、どのようなまちをつくるかというまちづくりの中の一つのテーマだと思うのだが、現状では防潮堤は防潮堤で、「住民の安全」という大義名分の下、当の住民の意向とは関係なく進んでいる地域が多いように見えるところに問題があるように思う。

 今回の号では11月1日に新潟市内で開催された「東北7県医療連携実務者協議会」の模様を紹介しながら、7県の連携について考えてみた。以下がその全文である。



地域共通の課題解決に県境を越えた取り組みを

東北7県医療連携実務者協議会が開催
東北各地から約200名が参加して盛り上がった(写真は懇親会) 今回で第6回を迎える東北7県医療連携実務者協議会が11月1日、新潟市内で開催され、東北6県と新潟、その他の地域からおよそ200人の医療関係者が参加した。
 
 一昔前、「総合病院」と言えば、外来受診、そして入院から退院まで一つの病院で済ませられる、いわば百貨店のような存在であった。しかし、高齢化が進み、医療費が高騰し、効率的な医療が求められる中で、医療機関間の役割分担が求められるようになり、急性期医療を担う病院、回復期医療を担う病院、長期療養を担う病院など、病院の機能が分化するようになった。

 そうすると当然ながら、治療も一つの病院では完結せずに、別の病院に転院して治療を続けるというケースが多くなる。また、地域の診療所を受診した患者が、基幹病院に紹介されてくることもある。こうした際に、病院間ないし病院と診療所との間で連絡を密にし、患者やその家族に不利益が生じないように調整をする対外的な窓口が多くの病院で設置されることとなった。それが地域連携室(または地域医療連携室)である。地域連携室は、患者の入院や退院に際して必要な手続きなどを一手に引き受ける部署である。その連携室で実際に連携業務を担当する職員が連携実務者、連携担当者などと呼ばれる。

 連携業務は、お互い見ず知らずの連携実務者同士よりも、顔も名前も分かる連携実務者同士の方が円滑に進むことが多いので、各病院の連携実務者は他の病医院を訪問して関係づくりをしたりする他、地域で連携実務者同士で集まって顔を合わせる会を立ち上げるなどして、「顔の見える」連携を進めるべく工夫をしている。

 連携実務者が集まって顔を合わせる会は、地域によって名称が異なるが、概ね連携実務者協議会、連携実務者ネットワークなどと称させる。それらは概ね2次医療圏という、医療がその中で完結するよう線引きされた範囲内で集まることが多い。また、それら2次医療圏毎の連携実務者協議会が一堂に会する、都道府県単位の連携実務者協議会がつくられていることもある。さらに、それらとは別に年に1回、全国の連携実務者が集まる「全国連携室ネットワーク連絡会」という集まりもあり、地域を超えた情報交換の場として機能している。

 今回の東北7県医療連携実務者協議会は、二次医療圏の会でも、都道府県の会でも、全国の会でもない。都道府県の県境を越えた地方の集まりである。東北には共通する課題も多い。医療について言えば、特に医師不足、看護師不足、病床(特に回復期病床や療養病床)不足などがそうである。こうした課題に対する取り組みについて情報交換や情報共有を図るのであれば、必ずしも都道府県単位にこだわらず、地域一体となってより幅広い情報を集めた方がお互いにとって有益なのは言うまでもない。

 そうした趣旨から、全国で初めて都道府県を超えた連携実務者の集まりとして結成されたのがこの、東北6県に新潟を加えた7県の連携実務者でつくる東北7県医療連携実務者協議会である。5年前に第1回の集まりを仙台市内で開催し、以降、盛岡、青森、秋田、山形と進んで今年が新潟、来年は福島で開催される予定である。

共通の課題解決に東北の英知の結集を
 さて、東北7県医療連携実務者協議会のことを紹介してきたが、何が言いたいのかと言うと、東北6県ないし新潟を含めた7県で共同して取り組んでいけることは医療以外にもきっと少なからずあるに違いないということである。
 
 周知の通り、残念ながら今の状況、行政レベルではこれらの県が県境を越えて協同して共通の課題の解決に向けて取り組んでいける状況とは程遠い。青森、岩手、秋田の3県はかつて、将来的な合併をも視野に入れた取り組みを行っていたが、今は昔の話となってしまった。

 その一方で、明らかにこの地域に共通する課題は存在するわけで、そのうちの一つが医療や介護の問題なのであるが、もちろんそれ以外にもたくさんのテーマがありそうである。今まさに関連法案が国会で審議されている「地域創生」もそうである。

 政府が重要課題と掲げる地方創生に、当の地方はどう関わっていくか、いやどう関わっていくかなどという話ではなく、いかに主体的に取り組んでいくかを考えなければならない。既に全国知事会は「地方創生のための提言〜地方を変える・日本が変わる〜」を公表しているが、もとより地域創生は全国一律に進むものではない。それぞれの地域でその実情に応じてどうするかを考えていかなければならないが、そこでも本来ならば地域的に近い東北6県ないし新潟を加えた7県で英知を結集するというアプローチがあってしかるべきだと思うのである。

 地域創生のみならず地域の様々な課題について、その解決に向けた知恵を絞るのであれば、より多くの関係者が一堂に会して情報交換した方が得策である。そのためには、自治体同士のコラボレーションの進展を待つのでなくして、各分野で進められるところから進めていく姿勢が必要と強く感じる。いわばトップダウンを待つのではなく、ボトムアップを積み重ねていくことがより重要なのであると思うのである。

 6県ないし7県をひとまとめにするのは並大抵のことではない、と思う向きもあるに違いない。確かに東北全域は広い。新潟を加えればさらにである。しかし、先に紹介した東北7県医療連携実務者協議会も、最初はたった1人の連携実務者の「同じ東北同士で交流をしていろいろな話をして一緒に課題解決に取り組んでいけるような場があったら」という「妄想」から始まった。その1人がそのことを親しかった他の県の2人の連携実務者に話したところ賛同を得て、一緒に開催に向けてのたたき台となる案をつくり、さらに他県の連携実務者に声を掛けていって輪を広げ、最終的に7県合同の会を作り上げたのである。

 なぜそのように県を越えて各連携実務者の賛同が得られたかと言えば、他の人も同様のことを考えていたからに他ならない。いわば地域全体のニーズに合致していたわけである。こうした地域に共通するニーズに合致していれば必ずや事は進む。東北6県、新潟を加えた7県は思いの外近くにあるのである。

 かつて、新潟を含む東北7県に本社または活動拠点を持つ主要企業・団体でつくる東北経済連合会が、「ほくと七星」構想を掲げたことがあった。基本目標として「ゆとりと美しさに満ち、自立する東北広域連携圏の形成」を掲げ、「自立と連携を支える社会資本の整備」、「地域主権による分権社会の構築」、「行政の枠組みを超えた広域連携」を謳い、7県の自治体間の連携を進めると共に、「東北7県連携推進会議」を立ち上げて連携推進のエンジンとすることなどが謳われていた。しかしその後、残念ながらこの東北7県推進会議が立ち上がって当初の役割を果たした痕跡はない。

 機能しない会議をつくるよりも、各分野で7県連携の実績を作り上げていき、それをエンジンにしてさらに7県の連携を進めていくというのが、実効性のある連携のあり方なのではないかと思う。

列藩同盟に端を発する「奥羽越」の連携
 古来、現在の東北地方は陸奥国と出羽国、一方新潟は越後国として、越前、越中などと共に北陸道を構成していた。この東北と新潟が一体となって地域の課題解決に当たろうとした最初の例は、恐らく戊辰戦争におけるかの奥羽越列藩同盟である。当初、会津藩、庄内藩の朝敵赦免の嘆願という「課題解決」を目的として結んだ同盟であったが、それが新政府側に拒絶された後は、輪王寺宮・北白川宮能久親王を盟主と擁き、新たな政権(北部政権)の樹立を目的とした軍事同盟へと変化した。結果は敗戦であったが、一時はアメリカ公使が本国に、「今、日本には二人の帝がいる。現在、北方政権のほうが優勢である」と伝えるほどの存在感を示している。

 東北と新潟の7県が一体となった取り組みに関する少し前の事例としては、産学官の連携でこの地域を独創的な科学技術開発の拠点にしようと1987年に立ち上がった「東北インテリジェント・コスモス構想」や、東北地域が新たな事業活動を創出して日本経済をリードする活力ある地域経済社会となることを目指してやはり産学官が連携して1995年に始めた「東北ベンチャーランド運動」を挙げることができる。2007年に設立された東北観光推進機構も東北6県と新潟の7県をそのエリアとしている。奥羽越列藩同盟以来今日に至るまで、この7県で一致協力して取り組んだことが何度かあったわけである。

 そしてこうした取り組みは、これからのことについても言える。何かの課題を解決しようとする際に、当事者だけでなく、周囲を見渡してより広く仲間を求め、情報を交換する。その中では、直接の当事者には思いもよらなかったヒントや解決の糸口が得られるかもしれない。また、同様の取り組みをする者同士がコラボレートすることで、それらの取り組みがさらに充実したものとなることもあるかもしれない。そうした受け皿として東北6県ないし新潟を加えた7県の枠組みはちょうどよい広がりを持って有効に機能するのではないだろうか。

 自治体同士がすぐに連携しようという雰囲気ではないのだとしても、その姿勢を我々まで踏襲する必要など全くない。むしろ、我々の方で同じ地域同士として連携を深め、共同して何かを成し得る体験を重ね、その積み重ねを基に自治体に対して連携を促す、という方が、意外に東北圏域の連携実現のための近道なのではないかと思うのである。


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2013年06月20日

私的東北論その46〜東北の「独立」はお話の中だけのことか(「東北復興」紙への寄稿原稿)

イメージ 11 4月16日に「東北復興」紙の第11号が刊行された。今回砂越氏は、一面で「松島・石巻復興レポート」と題して、松島と石巻の復興の現状についてレポートしている。また、道州制推進知事・指定都市市長連合が主催した「道州制推進フォーラム」についても詳しく報じている。新聞各紙が小さな扱いだっただけに、砂越氏のレポートは貴重である。スコットランドのローランドと東北の福島を「ボーダーズ(国境)」というキーワードで対比させたげんさんの論考も興味深かった。

 また、まつもとけいこ氏の寄稿「墓で眠っていないで起きてください!」も極めて印象的であった。氏によれば、岩手の民俗芸能は、その8割が供養のためのものだが、その供養とは「鎮魂」ではなく「魂奮い(たまふるい)」なのだそうである。「やすらかに眠ってください」ではなく、墓前で地を踏みしめ反閇し、笛や太鼓を激しく打ち鳴らして、「眠っていないで起きてください。そしてあの世まで持って行った無念な気持ち、やりたかったこと、我慢出来ないことを私たちに話してください。生きている私たちがその無念を晴らしますから」と魂で語りかけるものなのだとのことである。これは目からウロコであった。そのように見ると、民俗芸能の見方も随分変わってくる。そしてそれは、いわば今の震災復興にも密接につながるものであると言うことができるわけである。
 
 その第11号に寄せた拙文が下記である。西村寿行の「蒼茫の大地、滅ぶ」については、本ブログでも3回に亘って詳しく取り上げたことがあるが、今回はそのダイジェスト版に、その後の情報を付記したような感じである。なお、文中で紹介している原 亮氏の素晴らしいプレゼン「新生東北の門出、前途は実に洋々たり」のスライドはここでシェアされている。


蒼茫の大地滅ぶ上東北の「独立」はお話の中だけのことか

東北の「独立」を扱った小説
 東北の独立を扱った小説として最も有名なのは、井上ひさしの「吉里吉里人」だろう。これは、東北地方のある小さな村が政府に愛想を尽かして、「吉里吉里国」を名乗って独立を宣言する、というものである。昨年も村雲司の「阿武隈共和国独立宣言」が出てちょっとした話題になった。こちらは、「阿武隈村の人々が長年培った独自ブランドの米や牛豚鶏が都会の消費者に認知され、ようやく落ち着いた生活を手にした矢先に起きた福島第一原発事故…」という設定である。

 東北を舞台として日本からの独立を描く小説はこのようにいくつかあるが、中でも東北六県全部が日本国から独立を果たす、というスケールの大きなストーリーが特徴的なのが西村寿行の「蒼茫の大地、滅ぶ」である。現在では絶版となってしまっているが、上下二巻からなる大作である。実は以前、拙ブログでも詳しく取り上げたことがあるのだが、今回は再度この小説を題材に、東北の独立について考えてみたい。

 飛蝗というトノサマバッタなどの変異種がいる。時折大量発生して大集団を作り、植物や作物を食い尽くす蝗害を引き起こす。その飛蝗が中国大陸で大発生して総重量二億トンという想像を絶する巨大な群れとなり、日本海を渡って東北地方に襲来、東北地方はありとあらゆる農作物を食い尽くされ、深刻な飢餓状態に陥るという設定である。

 「そんなこと起こるわけがない」と思ってしまうが、実は有史以来現代に至るまで人類は度々蝗害に襲われている。日本でも、二〇〇七年に開港寸前の関西空港第二滑走路にトノサマバッタが数百万匹という大量発生をしたことがあった。実害はなかったが、このように何の前触れもなくバッタが突然大量発生することはあり得るのである。

 飛蝗が最初に降り立った青森県では津軽平野の農作物が瞬く間に食い尽くされる。与党の幹事長を務め次の総理とまで言われながら中央政界を引退して青森県知事となっていた野上正明は、東北六県から若者を六〇〇〇人集めて「東北地方守備隊」を結成させ、混乱の収拾に努める。一方、政府は被害の拡大に備えて、全国の備蓄米を東北分も含めてすべて首都圏に集めようとするが、食糧難に喘ぐ東北からの備蓄米の搬出は東北地方守備隊に阻止される。その後、飛蝗は岩手県へ南下、さらに宮城県、秋田県、山形県へも広がり、米や野菜は軒並み食い尽くされ、食糧難が深刻になり、治安も悪化する。蝗害の影響で株価が大暴落、円の価値も下がる。政府が決定した被災地支援は六〇〇〇億円の救済費割り当てのみ。失業や食糧難で暮らせなくなった東北地方の住民は一五〇万人もの難民となって首都圏を目指すが、東京都は難民の流入を警察力で阻止し、東京都周辺の各県も難民の滞在と国道以外の通行を禁じて締め出しを図る。苦境に立つ東北地方の住民に向けて、野上知事は他の東北の知事と共に、東北六県の日本国からの独立、そして「奥州国」の建国を宣言する、というのが「蒼茫の大地、滅ぶ」のストーリーである。

 蝗害以上に「東北の独立」が現実にあり得ない設定ではないか、と思われるかもしれない。しかし、実は東北が実際に独立を目指したことが歴史上あったとされる。本書の中でも紹介されているが、他でもない明治維新の時である。

 この時、奥羽越列藩同盟は輪王寺宮公現法親王を推戴した。輪王寺宮公現法親王は「東武皇帝」と称した。年号も「大政」と改元した。諸外国に使者を送り貿易開始の要請も行った。これはまさに「もう一つの日本」ができたような様相である。当時のニューヨークタイムズは、「日本の東北地方に新帝が立ち、二人のミカドが並立する状況になった」と伝えていたそうで、国際的に見ても日本という国が二つに分かれたという認識があったようである。しかし、奥羽越列藩同盟側の敗戦と同盟自体の瓦解により、この「もう一つの日本」が日の目を見ることはなかったわけである。

憲法に見る地方の独立
 日本国憲法の第九二条では「地方公共団体の組織及び運営に関する事項は、地方自治の本旨に基いて、法律でこれを定める」とされている。また、第九四条では「地方公共団体は、その財産を管理し、事務を処理し、及び行政を執行する権能を有し、法律の範囲内で条例を制定することができる」とされている。九二条の「地方自治の本旨」とは通常、住民自らが地域のことを考え、自らの手で治める「住民自治」と、地域のことは地方公共団体が自主性・自立性をもって、国の干渉を受けることなく自らの判断と責任の下に地域の実情に沿った行政を行っていく「団体自治」の二点からなるとされる。九四条では、地方公共団体の特定の地方における行政機関としての役割を定めると共に、地方における「独自立法」としての条例制定権を認めている。憲法はこのように、地方自治についてあえて一つの章を設けてその権利を保障している。その上に立って、小説の中で野上知事は、九二条は「確認事項」であって、憲法で言う地方公共団体は国家の成立以前から自然発生的に存立しており、そこに自治権も自然発生的に成立していた権利であるから、個人の基本的人権と同様に、地方自治の権限を国が立法で制限することは許されない、と主張している。

 にも関わらず、国と地方の間に厳然たる上下関係があるように見えるのは、事ある毎に槍玉に挙がる「三割自治」の問題のためである。一方に憲法で認められた「地方自治の本旨」というものがありながら、実際には財源を押さえられているために、国の意向に沿った形でしか自治体はその権限を行使できないという実態があるのである。最近、「一票の格差」を巡って「違憲」「違憲状態」という判決が相次いで出されたが、国と地方を取り巻くこのような固定化されている現状こそ「違憲状態」なのではないだろうか。

 かつて沖縄の読谷村長だった山内徳信氏は「地方は末端にあらず、国の先端なり」と喝破した。この言葉に込められた地方の気概に、今だからこそ思いを至らせるべきだと思う。地方のことは地方にいる自分たちが最もよく分かっているのだという自信と確信を持って、画一的な国の方針を超えた地方の独自性、自立性を、憲法に明記されている趣旨に則って確立していく時期に来ているのではないだろうか。たとえ財政の自立は難しいのだとしても、精神の自立から始めることは可能である。

東北の「独立宣言」
 本小説の白眉は何と言っても、東北の「独立宣言」の箇所である。小説の中で、東北から首都圏を目指した多数の難民が、「難民受け入れ拒否」を告げた東京都と荒川で衝突し、多数の死傷者を出した。その直後、野上知事はテレビとラジオで緊急会見を開き、東北の独立を宣言したのである。

 その中にこのようなくだりがある。「諸君には東北地方人たる名誉を守ることを、願う。自分の足で大地に立つことを、お願いする。諸君に武器を向けた東京都に未練を抱くな。中央政府に幻想を抱くな。たとえ、飢え死のうと、意地は捨てるな」。フィクションの話ではあるが、東北に住む者として、強いメッセージを感じる。

 今、東北は小説の中の蝗害に勝るとも劣らない大震災からの復興の途上にある。その震災復興を巡るこれまでの動きを振り返ると、残念な思いに駆られることも少なからずある。そこにこのメッセージである。

 曰く、「東北地方人たる名誉を守れ」、「自分の足で大地に立て」、「東京に未練を抱くな」、「中央政府に幻想を抱くな」、「たとえ、飢え死のうと、意地は捨てるな」、である。

 中央政府に過剰な期待を抱くことは禁物である。なぜなら、そこにいる人たちは、この地にいないからである。では、東北の復興は今後も進まないかと言えば、決してそのようなことはないと私は確信している。

 先日素晴らしいプレゼンテーションに接して、まさにわが意を得たりという心境だった。Fandroid EAST JAPAN 理事長の原亮氏は、大震災後、東北の地で「自らの手足と知恵で自走を始めた人たち」を多数紹介しながらこう言う。「東北は『人』という最大の資源を手にいれた」と。では、東北がさらなる発展を起こすための可能性、その条件面でのアドバンテージはどこにあるのだろうか。原氏は、東北は「課題先進地」だと指摘する。大震災でさらに拍車のかかった少子高齢化と過疎、その大震災では情報通信技術の限界や脆弱さも経験している。これらが「東北版リバースイノベーション」につながるのだ、と原氏は言うのである。「リバースイノベーション」とは、新興国で生まれた革新的な製品やサービスを先進国に逆流させる新しい経営手法のことである。「人」を得た東北で生まれた様々な分野の革新を日本の他地域、さらには日本国外にももたらす、そのような復興の姿が垣間見えるのではないだろうか。

 「グローカル」という言葉を最近よく聞く。「地球規模の視野で考え、地域視点で行動する(Think globally, act locally)」考え方のこととされるが、逆にローカルな営みが持つ可能性の大きさにも、その適用範囲を広げられるのではないかと私は考える。

 原氏は、東北に集う「人」に対して、ー走する意識とスキルを持つ、地域や分野を超えた対話を仕掛ける、Lね茲鯊臙世忙廚ど舛、の三点を要請している。確かに、そうした人がこの東北の地で相互に影響力を及ぼし合えば、自分たちで決め、自分たちでつくる、東北の未来への道筋が拓けてくるに違いない。

 東北の「独立」は、必ずしも政治的な独立を意味するのではない。東北にいる人たちが、自分たちのことは自分たちで決める、ということを決め、そのことを様々な場面、様々な領域で確かに実行に移した時、その時こそが東北が「独立」する時なのだと思う。


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2012年02月07日

東北に関係する書籍その3〜「東北独立」を扱った小説

蒼茫の大地滅ぶ上 「蒼茫の大地、滅ぶ」(上下巻)は、西村寿行(にしむらじゅこう)が1978年に発表した小説である。最初、講談社からハードカバーで刊行され(アマゾン該当ページ )、その後1981年に徳間書店の選集に収録されると共に(アマゾン該当ページ)、講談社文庫から文庫版が刊行された( )。1984年には角川文庫としても刊行された( )。また、コミックにもなった(アマゾン該当ページ )。しかし、現在はいずれも絶版となり、古本としてしか手に入らない。しかも、これがなかなか見当たらない。Amazonなどでもかなり高値がついていたりする。私はネット上で奇しくも(そう、この小説の舞台からすると奇しくも、である)青森県にある古書店に在庫があるのを見つけて安く手に入れることができた。

 オビにはこうある。

「豊穣多彩な想像力が未来を予見した―。東北六県壊滅の飛蝗襲来と悲劇の奥州国独立 西村寿行の代表作 感動のパニック・ロマン巨編」

「飛蝗の群団――。幅十キロ、長さ二十キロ 蒼々茫々の大地に 壊滅を す死の群団の来襲。生地獄の東北に明治以来百年の歴史を覆す独立の烽火。日本政府と奥州国の対決。自然の壮絶さと悲劇の独立を謳うバイオレンス、パニック・ロマン巨編。」

 飛蝗(ひこう)というのはトノサマバッタなどの変異種で、大量発生して大集団を作り、植物や作物を食い尽くす蝗害(こうがい)を引き起こすことがある。その飛蝗が中国大陸で大発生して総重量2億トンという想像を絶する巨大な群れとなり、日本海を渡って東北地方に襲来、東北地方はありとあらゆる農作物を食い尽くされ、深刻な飢餓状態に陥るという設定である。

 一見、あり得なさそうな設定であるが、有史以来人類は蝗害に度々襲われている。しかも、過去の災害というわけではなく、特にアフリカでは近現代でも時折被害がある。中国でも2005年に海南省が飛蝗の被害を受けている。2007年にエチオピアで発生した飛蝗は北ソマリアからインド洋を越え、パキスタンやインドにまで到達したということで、中国で発生した飛蝗が日本に到達することもあり得ないことではないことが分かる。日本でも、明治初期には北海道の道南や東南部で、昭和40年代には沖縄県の大東諸島で、昭和60年代には鹿児島県の馬毛島で、それぞれ蝗害が発生している。最近では2007年に開港寸前の関西空港第二滑走路にトノサマバッタが数百万匹という大量発生をしたことが話題になった(参照サイト)。

 この小説は、オビにもあるように、そうした蝗害を取り扱ったパニック小説と捉えることもできるが、話の展開はむしろ蝗害を受けてからの東北地方と中央政府との軋轢や駆け引きといった動きに焦点が当たっており、また明治維新以降東北地方の置かれた立場などについても詳細に語られているので、その意味では社会派小説としても捉えられそうである。

 飛蝗が最初に降り立った青森県では津軽平野の農作物が瞬く間に食い尽くされる。与党の幹事長を務め次の総理とまで言われながら中央政界を引退して青森県知事となっていた野上正明は、東北六県から若者を6,000人集めて「東北地方守備隊」を結成させ、混乱の収拾に努める。一方、政府は被害の拡大に備えて、全国の備蓄米を東北分も含めてすべて首都圏に集めようとするが、食糧難に喘ぐ東北からの備蓄米の搬出は東北地方守備隊に阻止される。その後、飛蝗は岩手県へ南下、さらに宮城県、秋田県、山形県へも広がり、米や野菜は軒並み食い尽くされ、食糧難が深刻になり、治安も悪化する。蝗害の影響で株価が大暴落、円の価値も下がる。政府が決定した被災地支援は6,000億円の救済費割り当てのみ。失業や食糧難で暮らせなくなった東北地方の住民は150万人もの難民となって首都圏を目指すが、東京都は難民の流入を警察力で阻止し、東京都周辺の各県も難民の滞在と国道以外の通行を禁じて締め出しを図る。苦境に立つ東北地方の住民に向けて、野上知事は他の東北の知事と共に、東北六県の日本国からの独立、そして「奥州国」の建国を宣言する、――というストーリーである。

 「独立」と言うと、どこか遠い国の話であって、今の日本にあっては非現実的な話と捉える向きもあるかもしれない。しかし、この小説にあるような、中央政府が自分たちのことばかりが優先で、地方からは収奪することしか頭にない、という状況があった場合、本当に自分たちのことを自分たちで決めることのできる新しい国を自分たちでつくる、という動きが出てきても不思議ではない。

 事実、東北が独立を目指したことが歴史上あったとされる。本書の中でも紹介されているが、明治維新の時である。この時、奥羽越列藩同盟は輪王寺宮公現法親王を推戴した。輪王寺宮公現法親王は「東武皇帝」と称した。年号も「大政」と改元した。諸外国に使者を送り貿易開始の要請も行った。これはもう一つの日本ができたような様相である。当時のニューヨークタイムズは、「日本の東北地方に新帝が立ち、2人のミカドが並立する状況になった」と伝えていたそうで、国際的に見ても日本という国が2つに分かれたという認識があったようである。しかし、奥羽越列藩同盟側の敗戦と同盟自体の瓦解により、この「もう一つの日本」が日の目を見ることはなかったわけである。

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