宮城県沖地震
2019年07月25日
東日本大震災から8年3カ月、宮城県沖地震から41年(「東北復興」紙への寄稿原稿)〜私的東北論その121
「3.11不忘の碑」

挨拶に立った清水さんは、「2人を失った痛みは8年3カ月が経っても消えない」と言い、白川さんは毎年職員を前に訓示を行う際に必ず震災で殉職した仲間がいたことを話すという取り組みを紹介しながら、「大事な仲間を震災で失った事実を伝え続けることが私たちの責任」と言ってくれた。
宮城県沖地震から41年
一方の宮城県内でも他人事ではない現状が明らかになっている。危険なブロック塀はむしろ増加しているというのである。要は、鉄筋が入っていても、年月の経過と共にその鉄筋が劣化してくる他、先の東日本大震災で強度が低下しているブロック塀も多数あるというのである。元々ブロック塀の耐用年数はおよそ30年とされる。41年前の悲劇を繰り返さないためには、30年サイクルで建て替えるか、それが無理なら高槻市のように撤去を進めていくことが必要である。
「繰り返されない」ためのアクション
そうした公の取り組みだけではない。仙台市職員による自主勉強会「Team Sendai(チーム仙台)」は、東日本大震災における体験の記録と伝承に取り組んでいる。その手法も多彩で、震災の対応に当たった本人から話を聞く「語り部の会」を開いたり、そうして聞き取った体験談を震災後に入庁した職員に朗読させてその教訓を共有したり、市職員が震災で判断に迷った体験を災害時の行動を選択させる防災カードゲーム「クロスロード」の仙台編を作成する際に取り入れたり、とあの手この手で震災における体験を残し、伝える活動を行っているのである。こうした取り組みが職員の間で自主的に現在に至るまで続けられていることも特筆に値すると言える。
自分の命を守ることを最優先に
「3.11不忘の碑」は、若林区役所の南側にある庭園の一角に設置されている。区役所に足を運んだ際には、ちらっとでも見てみていただければ幸いである。
2016年05月30日
私的東北論その83〜震災に関する伝承をどう正しく伝え継いでいくか(「東北復興」紙への寄稿原稿)
考えてみると、震災前に伝えられていた「経験知」の中には、残念ながら明らかな誤りもあった。誤った経験知は震災発生時の避難行動に悪影響を与える可能性がある。今回の震災発生時にもそうしたことが残念ながらあった。その轍を二度と踏まないためにも、経験知をいかに正しく伝えていくかを考えることはもっと検討されてしかるべきだと考える。この回では、具体例を挙げながら、正しく伝わっていなかった経験知について検証してみた。
紙面の都合で掲載時にカットした部分も復元した全文が以下である。
震災に関する伝承をどう正しく伝え継いでいくか
一歩間違うと危うい「経験知」
前号に引き続いて、もう少し震災の話にお付き合いいただきたい。
今回の震災に限らず、繰り返し地震災害に遭遇している「地震大国」たる日本では、その経験知をどのように後世に伝え継いでいくかが、将来の被害軽減のために大きく問われる。その意味でも、今回の震災から得られた知見はできる限り発信していくべきであるし、個人的にもそうした活動を続けている。
しかし、こうした経験知を伝え継いでいく際に、厳に心掛けなければならないことがある。それは、正確な情報を伝え継いでいく、ということである。当たり前のことと思われるかもしれない。ところが、意外にそうでないこともあるのである。ある個人が遭遇した体験が、必ずしも広く敷衍できる事例ではないばかりでなく、場合によっては同様の地震に遭遇した際に判断の誤りにつながる恐れがあることすらあるのである。
「津波の前には引き潮がある」
例を挙げれば、今回の震災でも聞かれた「津波の前には引き潮(引き波)がある」というのがまずそれである。中には、「広い範囲で海底が露わになるほどの引き潮があった」という証言もある。今回の津波の規模の大きさを物語る証言ではある。しかし、すべての地域で引き潮が観測されたわけではない。引き潮がなく、突然津波が押し寄せた地域もある。日本気象協会のサイトにも「津波の始まり(第1波)が押し波か引き波かは、津波発生域での断層運動の方向や規模によって異なります。また、津波が到達した場所周辺の海底地形によって変わることもあります」とある。
したがって、「津波の前には引き波がある」という証言ばかりが「経験知」として広まってしまうと、「引き潮がないから津波は来ない」、という間違った判断を下してしまうことにつながりかねないのである。実際、残念ながら、今回の震災でも引き潮がないということで避難が遅れ、そこを津波に襲われて亡くなった人は多くいた。
他にもある。「仙台平野に津波は来ない」。これは、実は私もそう聞かされて信じ込んでいた。津波に繰り返し襲われた経験のあるのは三陸沿岸、仙台平野には津波が来ない、と。ちょっと歴史を紐解いてみれば、今回の地震と同規模と言われる1100年前の貞観地震まで遡ることもなく、400年前の1611年、伊達政宗の時代の慶長三陸地震の際にも仙台は大津波に襲われている。1793年の寛政地震でも、1835年の天保年間の地震でも、仙台平野は津波に見舞われたとされる。しかし、いつの間にか、その後わずか200年足らずの間、津波に襲われなかったという「経験」が「仙台平野に津波は来ない」という誤った経験知を広めてしまったわけである。
仙台市若林区には浪分(なみわけ)神社という神社がある。神社が立つ場所は慶長三陸地震の際に、津波が到達したところと到達しなかったところの分かれ目であったと伝えられている。しかし、震災前にはそうした伝承も地域の中で周知されてはいなかった。どんな経験知も伝えられていなければ意味がない。
一方、岩手県の沿岸宮古市の重茂姉吉地区には「高き住居は児孫の和楽 想え惨禍の大津浪 此処より下に家を建てるな」と書かれた碑があった。この地域の住民はその碑に書かれたことを守り、今回の震災でも難を逃れた。そのような事例もあるのである。
「大きな地震の時には津波が来る」
そもそも、「大きな地震の時には津波が来る」という経験知自体、誤りである。1896年の明治三陸地震は最大震度が4という地震だったが、特に岩手県の三陸沿岸は今回の震災に匹敵する大津波に襲われた。これら岩手県三陸沿岸地域の震度は、2〜3だったとのことである。つまり、体感的に大きな地震でなくても、津波に襲われる危険はあるのである。
明治三陸地震による津波で被害が拡大したのは、地震発生が夜間だったということもある。地震発生は19時32分、津波の第一波の到達は早いところでその約30分後の20時7分だった。夜間、震度2や3の地震に遭遇したとして津波の危険に思い至る人はそう多くなかったと思われる。この地震で亡くなった人の数は21,959人(行方不明者含む)で、我が国で記録が残る地震の中で最も多かった。
幸い、現在多くの携帯電話では、緊急地震速報に加えて、津波警報も受信できる。しかし、圏外だったり、電源が入っていなかったり、対応機種でなかったりということもありうる。加えて、そもそも警報が間に合わないこともある。過信しないことが重要である。
今回の地震では、地震発生から津波の第一波到達まで最短でも15分程度の余裕があった。しかし、1983年の日本海中部地震では(ここでも「日本海には津波は来ない」という誤った経験知があった)、地震発生からわずか7分後に津波の第一波が観測されている。気象台が津波警報を発令したのは地震発生から14分後で、その時には既にいくつかの地域で津波に襲われていた。1993年の北海道南西沖地震では、第一波到達は何と、地震発生から2、3分後である。どんな地震であっても、地震発生後の情報収集は必須であるが、海沿いで地震に遭遇したら、情報収集をするより先にまず海岸からなるべく離れる、ということを徹底するべきである。
「30年に一度宮城県沖地震が起こる」
「30年に一度宮城県沖地震が起こる」という経験知も、実は危うい。近年では、38年前の1978年に宮城県沖地震が発生し、28名の人が亡くなった。他の震源域と連動して未曽有の巨大地震となってしまったが、今回の震災を引き起した地震も宮城県沖地震の一つと数えられている。
この宮城県沖地震の平均発生間隔は38年で、概ね25〜40年に1回発生するとされているが、個々の地震を見てみると、必ずしもそこまで間隔が空いていないのである。例えば、1933年の次は1936年、1937年に発生し、1978年と2011年の間に、2005年の地震もあった。震源の深さの違いから「宮城県沖地震」には加えられていないが、2003年にも宮城県沖を震源とする大きな地震があった。震災後、「これほどの地震が起きたのだから、しばらく東北沿岸に大きな地震は来ない」という見方もあるが、このように見ると「次に起こるのは30年先」と思い込むことは実に危険であることが分かる。
加えて、直下型地震への備えも必要である。阪神・淡路大震災を引き起こした兵庫県南部地震は、地震発生直前の30年確率は0.02%〜8%であった。発生確率からするとそれほど大きくない。にも関わらず、実際に起こった。阪神・淡路大震災を見てもよく分かるように、直下型地震の場合はまた東日本大震災とは全く違う被害が生じる。例えば、仙台市街地の直下にある「長町−利府断層帯」による地震の発生確率は、「30年以内で1%以下」とされているが、ゆめゆめ油断しないようにしておきたい。
「津波てんでんこ」
今回の震災でクローズアップされた言葉に、「津波てんでんこ(命てんでんこ)」がある。この言葉についても誤った認識が広まっていることに憂慮の念を覚える。
「てんでんこ」というのは三陸地域で、「各自」や「めいめい」を意味する言葉である。文字通りの意味は、「津波てんでんこ」は「津波が来たら各自で逃げろ」、「命てんでんこ」は「命は各自で守れ」という意味である。
実際、この言葉通り、地震発生と同時に各自が避難を開始し、津波の難を逃れた事例が三陸の地域には多くあった。最も有名なのは、「釜石の奇跡」と報じられた釜石市内の小中学生の避難の事例である(当事者の方々は「奇跡」と呼ばれることを嫌うが)。釜石市内では残念ながら5名の小中学生が命を落としたが、残る2,926人の小中学生は助かった。釜石市内の小中学校では、地震の後、皆それぞれ、教師の指示を待たずに自主的に避難所まで避難したのである。
しかし、今の「てんでんこ」に関する報じられ方は、この「各自で逃げる」ところだけに焦点が当たり過ぎている。その結果、「家族や災害弱者を置いて逃げることを正当化するのか」といった批判が起きたりする。これは、この「てんでんこ」という言葉の極めて狭い一面のみを見ているのである。
今報じられている「津波てんでんこ」「命てんでんこ」は、いざ地震が起きた際のアクションばかりがクローズアップされているが、実はこの言葉の意味するところで最も重要なのは、平時のアクションの方なのである。端的に言えば、いざという時にめいめいが自分のことだけを心配して逃げればいいように、普段から非常時のアクションについて話し合い、その通りに行動するように申し合わせておくということがベースにあるのである。
これによって、いざという時には家族、知人も同じように避難していると考えて、自分の身を守ることだけに専念できる態勢になれる。いわば、日常からの相互の信頼関係があってこその「てんでんこ」なのである。
にも関わらず、マスメディアの論調の中でも「津波てんでんこ」が利己的、自己中心的であるかのような報じられ方がしたり、あまつさえ個人のブログの中には、「家族すら見殺しにする人間に生きてる資格はない」などと、「てんでんこ」で逃げて助かった人を罵倒するようなものすら見受けられる。「てんでんこ」の本質を知らない、全く的外れな認識だと言わざるを得ない。
実際、釜石市内の中学生は「自分より弱い立場にある小学生や高齢者を連れて逃げるんだ」と教えられていて、「津波が来るぞ、逃げるぞ」と声を出しながら、保育園児のベビーカーを押し、お年寄りの手を引いて高台に向かって走り続けたのである。
ウェザーニューズの「東日本大震災 津波調査(調査結果)」には、一旦避難場所に逃れながら、再度危険な場所に戻ったことによって亡くなった人が、避難したにも関わらず亡くなった人のうちの60%を占めたとある。そして、戻った理由で圧倒的に多かったのが「家族を探しに」であった。こうしたことは、いざという時にどうするかについて普段から話し合っていれば、かなりの割合で防げたのではないだろうか。
高齢者や災害弱者も含めて、いざという時にどのように避難するかについて、普段から綿密に検討し、かつ訓練を繰り返して無理がないかをチェックし、改善する、という取り組みが不可欠なのである。
次の災害の被害減少に役立つ発信を
このように、震災における「経験知」については、もちろん震災に遭遇した一人ひとりの貴重な体験に基づいているものではあるものの、その伝え方、伝わり方によっては、本来の意味と異なってしまったり、誤った判断につながったり、そもそも伝わっていなかったりということがある。
震災体験に基づく「経験知」については、こうしたことに十二分に留意しつつ、次の災害時に被害の減少に役立つような情報として発信していくことを心掛けていきたいものである。
2012年10月31日
私的東北論その38〜「憂いのない備え」のために「伝家の宝刀」を(「東北復興」紙への寄稿原稿)

この第5号に寄せた拙文が下記である。
2011年04月05日
私的東北論その17〜「千年に一度の大地震」とどう向き合うか
今回のこの東北地方太平洋沖地震が、起こることが確実視されていた宮城県沖地震とはまったく規模の異なる地震であることは前回触れたが、どうやら今回の地震は「千年に一度の大地震」だったようである。
最近、貞観(じょうがん)地震という言葉をよく耳にするようになった。仙台平野はこれまで、リアス式海岸が連なる三陸沿岸とは違って、津波による被害が少ないと考えられてきた。宮城県沖地震発生時に仙台平野に押し寄せる津波の高さも、最大で2〜3mと想定されていたことも前回触れた。その高さであれば、仮に浸水したとしても、その範囲は限られる。
ところが、それよりもはるかに内陸まで津波が押し寄せた地震が歴史上確認されている。それが貞観地震である。その名の通り、貞観年間の西暦869年に起こったこの地震では、建物の倒壊や地割れによって多くの被害が出たこと、大津波が発生して城下(今回も深刻な被害を受けた多賀城と思われるが別の見解もあるようである)まで押し寄せ千人が溺死したこと、原野も道路も全て海のようになってしまったことが、「日本三代実録」という書物に記されているそうである。
この記述が現実のものであったことは、仙台平野や石巻平野の地層における津波堆積物の調査で裏付けられている。それによると、貞観地震による津波では、仙台平野で海岸線から1〜3km、石巻平野で3km以上もの範囲にわたって浸水したことが明らかになっている(佐竹・行谷・山木、2008)。実際にはそれよりもさらに奥まで浸水した可能性もある。
事実、別の調査では、現在の海岸線より4km内陸まで津波堆積物を追うことができ、仙台市における調査では仙台東部道路の仙台東IC付近にまで貞観地震の津波の痕跡が確認されたという(澤井・岡村・宍倉・松浦・Than・小松原・藤井、2006)。私も弟を探しに何度も現地に足を運んだ際にその付近を通ったが、まさにこれは今回の地震における津波の浸水範囲とほぼ一致している。
さらに驚くべきことに、調査では貞観地震の津波堆積物の下にも数カ所、津波堆積物が発見されたという。その間隔は、600〜1300年だったそうである。つまり、これまであまり知られてこなかったが、仙台平野は過去数千年の間に、実に千年前後もの長い周期で繰り返し大津波の被害を受けていたわけである。
仙台平野が最後に受けた大津波の被害がこの869年の貞観地震によるものだったとすれば、今回の地震との間隔は1142年。確かに、地層の調査から明らかになった大津波の周期に合致する。私たちは、30〜40年に一度の地震ではなく、およそ千年に一度の地震に遭遇してしまったわけである。
この地震がまったくの想定外だったことは、国の地震調査委員会の阿部委員長も認めている。今回の地震は、宮城県から茨城県沖で予想されていた4つの大地震の想定震源域が連動して動いて巨大地震につながった。阿部委員長は記者会見で、「4つの想定域が連動するとは想定できなかった。地震研究の限界だ」と述べたという。地震の規模も想定外、その後押し寄せた大津波も想定外、そしてもちろん、その後起きた福島第一原子力発電所のトラブルも想定外のことだったのだろう。
地形上、平野部よりも津波が増幅される三陸沿岸地域では、仙台で観測された10mよりもはるかに高い津波が押し寄せた。宮古市ではなんと、最大でおよそ38mもの高さまで大津波が押し寄せたという。まったく想像のつかない高さの途轍もない水の壁がすべてを押し流したのである。同市の田老地区には、地元の人が「万里の長城」とも呼んでいた、高さ10mの防潮堤が長さおよそ2.5kmにもわたって、しかも二重に張り巡らされていた。今回の大津波は、この地域の人達の想定を超え、安心の拠り所だったその防潮堤をやすやすと乗り越え、あまつさえ一部では倒壊すらさせて多くの被害をもたらしたそうである。
もちろん、貞観地震について調査研究を行った研究者たちは、その再来について警鐘を鳴らしていた。貞観地震も今回「想定外」とされた東北沿岸の複数の震源域が連動して起こった巨大地震であったとされる。そのことを踏まえて、今回深刻なトラブルに見舞われている福島第一原子力発電所を抱える東電に対しても、貞観地震について研究を進めた一人である産業技術総合研究所活断層研究センター長の岡村行信氏がその再来について再三指摘していた。
岡村氏は、福島第一原子力発電所、福島第二原子力発電所の敷地付近も含め、福島県の浜通りの内陸部でも貞観地震の津波堆積物が確認されたことから、09年6月に開かれた経産省の審議会で、「津波に関しては比べものにならない非常にでかいものがくる」と指摘して、対策の再検討を求めたのに対して、東電側は「被害がそれほど見当たらない。歴史上の地震であり、研究では課題として捉えるべきだが、設計上考慮する地震にならない」と答えたにとどめたとのことである。「歴史上の地震」は「考慮する地震」ではない、すなわち今起きたことではないからと検討の対象から除外したわけだが、起きてしまってからでは取り返しがつかないのは、今の状況が何よりも雄弁に物語っている。
平均寿命が世界一長いと言っても、私たちの命は百年にも届かない。そのような私たちが、自分自身が生きている時間の10倍もの千年の単位で物事を考えるのは、確かにとても難しいことである。しかし、「歴史は繰り返す」、「備えあれば憂いなし」、「古きを温めて新しきを知る」と言われてきた。先人たちはそれでもそうしなければいけない必要性を知っていた。「日本三代実録」の筆者は、貞観地震の教訓が今に生きなかったことをとても残念に思っているかもしれない。
「想定外」だらけの今回の地震だったが、一度遭遇してしまえばそれは次には「想定内」の出来事となる。私たちはもう一度、千年後この地に生きる人のためにも、今回のこの地震のことを余す所なく伝え継いでいかなければならないし、一方で、この地に豊かな恵みをもたらし、時にものすごい災厄をももたらす自然とどう対峙するかについて、ゼロから考えなおさなければいけない。
写真は大津波の爪跡が今も生々しく残る、仙台市若林区荒浜地区で見た夕暮れ時の空である。なぜ夕焼けの空は、このような時にも美しいのだろうか。
2011年04月01日
私的東北論その16〜津波の彼方に消えた弟へ

仙台を含む宮城県はたびたび強い地震に襲われてきた。いわゆる「宮城県沖地震」である。30〜40年おきに起こるというM7.5クラスの地震は、私がまだ子どもだった1978年にも起きた。それから33年。次の地震が起きてもおかしくはないと、それなりに備えも心構えもしていたつもりだった。しかし、実際に起きた地震は、子どもの頃に体験した地震とはまったく次元の異なる巨大地震だった。
起こると分かっていた地震があっただけに、宮城県や県下の各市町村もその1978年の地震を基に、着々と対策を立てていた。宮城県沖地震で仙台の沿岸に押し寄せる津波の高さは最大で2〜3mと推定され、それに基づいて仙台の海岸には高さ5mの防潮堤が築かれていた。その防潮堤は今回の津波の前にはまったく無力だった。信じられないことに津波は、その防潮堤をやすやすと乗り越え、すべてを押し流してしまった。
もちろん、対策が功を奏したこともあった。直下型でなかったということもあるだろうが、あれほど長く、強く続いた揺れにも関わらず、仙台市内では倒壊した建物はほとんどなかった。だから、地震そのもので命を落とした人の数はそれほど多くなかった。これは宮城県沖地震を踏まえて見直された建築基準法の成果だろう。しかし、想定外の津波が多くの命を奪い去ってしまった。
私の弟は、仙台市内では特に津波の被害がひどかった荒浜地区を抱える若林区役所に勤務していた。まちづくり推進課という部署にいた。広報活動などもその業務の一環であったらしい。地震の後、弟は荒浜地区の住民に津波襲来の危険を知らせるため、市の広報車で出掛けて行った。そして、そのまま戻ってくることはなかった。
いなくなったから言うわけではないが、とにかく優しく、いつも自分のことは置いておいて相手のことを先に考えるようなヤツだった。これでもかって言うくらいに親孝行していた。親孝行らしいことをちっともしていなかった私の分を補って余りあるくらい、いろいろよく気がついてはあれやこれや世話を焼いていた。
安月給のくせに発泡酒や第三のビールじゃなく地ビールばっかり飲んでいる兄の私のことも心配してくれて、よく好物の銀河高原ビールを差し入れしてくれた。松島ハーフマラソンや日本の蔵王エコ・ヒルクライムで完走した時はご祝儀とか言って、やまやの商品券を1万円分もはずんでくれた。以前、このブログで宮古のレトルトカレーのことを書いたら、一風変わった品揃えが特徴のつかさやに並んでいたすべての種類のレトルトカレーを買って持ってきてくれた。店の人には「レトルトカレーの研究でもするんですか?」って聞かれたらしいが(笑)。ちなみに、このものすごい量のレトルトカレーは、今回の震災直後、食料が手に入りにくくなった際に、とても役に立ってくれた。
仕事にもとにかく一生懸命だった。昨今、とかく公務員バッシングが喧しいが、中には弟のような真摯に職務に向き合っている人も少なからずいるのである。問題があるとすれば、それはそうした人材を使いこなせないトップの方にある。
あの日、区役所を出て荒浜に向かった弟は、その仕事熱心さゆえに、逃げ遅れる人があってはならない、一人でも多くの人を助けたい、と、つい無理をしてしまったのだろう。もしその時、「無理しないですぐ帰って来い」と言っても、きっと弟は聞き入れなかっただろう。そういうヤツだった。
数日前に弟が乗っていた広報車だけが若林区荒浜南長沼近辺で見つかった。両親がすぐに現場に足を運んだが、その場に居合わせた地元の消防隊の隊長は、「この車とはあの日、何回もすれ違った。一生懸命避難を呼び掛けていた。そのお陰で何人の人が助かったか分からない。立派でした」と言ってくれたらしい。父親は「立派でなくても生きて帰ってきてほしかった」と言ったそうだが、親の気持ちとしては本当にそうだったに違いない。
私もまったく同じ気持ちで残念でならないが、その言葉を聞いて少し救われた気がする。弟はその最期の時まで、自分に課せられた職務を全うしたのだ。「最期までよく頑張った」と褒めてやりたい。警察官や消防隊や自衛隊ではない、たまたま人事異動でそうした部署に配属されただけだったにも関わらず、弟は自らの生命を賭して地域の住民の安全を守ろうとしたのである。私などには到底なし得ない、非常に崇高な行いを、弟はやってのけたのである。
そうだと分かってはいても、たった二人きりの兄弟、いないというのはやはり寂しいものである。弟のようにいまだ行方の分からない人は、分かっているだけでもいまだ1万8千人もいるそうである。その1万8千人の人の行方を心配する人の数はその何倍もいる。そうした人たちの嘆きや悲しみは、本当に痛いほどよく分かる。
でも、幸運にも生き残った私たちは、この場に立ち止まっているわけにはいかない。また元の日常を取り戻すために立ち上がらなければ、弟のように不幸にして人生を中座せざるを得なかった多くの人たちに対して申し訳が立たない。どんなにどん底まで打ちのめされても、そこからまた這い上がる力を、私たち人間は生来持ち合わせていると思う。命ある限りは、いくらでもやり直しはできる。そう強く思って、もう一度、あの何気ない、でもこの上なく幸せだった暮らしを自らの力で取り戻すのだ。
ことに、ここは東北である。東北は、古より様々な災厄に見舞われてきた。今回のような自然災害にも数限りなく襲われた。時の権力者にいわれなく攻められたことも歴史上、幾度もあった。東北に住まう人たちは不屈の精神で、打ちのめされたどん底から、その度に立ち上がってきたのである。そうした人たちがいてくれて、今の東北はある。今回もそうでなければ、それは東北ではない。もちろん、時間は必要だろうが、東北は必ずやそこに住む人たちの力で復活する。
写真は、弟を探しに行った時に撮ったものである。何もかもなくなった。あるのは瓦礫の山だけである。これ以上ない、ひどい有様である。でも、この無残な光景ですら、いつの日か必ず元の、あの海沿いののどかな普通の風景に戻るはずである。
純平へ
こんな形でもう会えなくなってしまうなんて夢にも思わなかった。本当に残念だ。こんなことならもっともっといろんなことを話しておきたかった。
もし生まれ変わりなんてものがあるのなら、次もまたぜひ仲のいい兄弟として一緒に生まれたいな。次に生まれ変わる時は、面倒見がよくてしっかり者のお前の方が兄貴でいいぞ。
オレが死んで生まれ変わるまでにはまだ時間がありそうだから、それまでは、お前が大好きで命まで捧げたこの仙台の街が、あまたの悲しみを乗り越えて復活する様を、どうか見守っていてくれい。