御遺体学術調査  

2006年09月04日

東北の歴史のミステリーその11〜泰衡は死んでいなかった?

c10f6847.jpg 中尊寺金色堂に納められた首級がやはり泰衡のものである可能性が高いとする資料が実は私の手元にあった。「奥州平泉黄金の世紀」(荒木伸介・角田文衞他、新潮社、アマゾン該当ページ)という本であるが、その中に、東京大学理学部教授だった故・埴原和郎氏が「藤原一族の骨格データを読む」という論文を寄稿している。埴原氏は、自然人類学の権威であり、特に歯や骨のデータから日本人のルーツや成り立ちを解き明かそうとしていたひとである。

 この本の中で埴原氏は、昭和25年の御遺体学術調査の折に得られた藤原四代の頭骨の、‘骨最大長、頭骨最大幅、バジオン・ブレグマ高、に帽弓幅、ゾ經藕癲↓ι”、鼻高、といった「人類学的に重要な計測値」を多変量解析している(写真参照)。

 埴原氏はまず、クラスター分析によって藤原四代の頭骨の相互の類似性を分析している。それによると、4人の中で三代秀衡の頭骨と四代泰衡の頭骨がもっとも近いという結果が得られている。そして、秀衡・泰衡は二代基衡・初代清衡とはやや異なっており、それは基衡が安倍氏から妻を迎えて秀衡を産んだことと関係があるかもしれないとしている。

 この結果は、中尊寺金色堂に納められた首級がやはり泰衡のものであると判断するに足る根拠を提供しているように考えられる。以前紹介した金色堂はなぜ建てられたか―金色堂に眠る首級の謎を解く 」で高井ふみや氏が主張しているように、もし首級が経清のものとした場合、ではなぜ秀衡の頭骨と、秀衡から数えて三代前の経清の頭骨とが、清衡や基衡よりも互いに似通っているのかということを説明することは困難なように思える。まして、これまた以前紹介した歴史おもしろ推理 謎の迷宮入り事件を解け 」で楠木誠一郎氏が主張しているように、泰衡の首級が誰か別の人間のものだとした場合、それが秀衡の頭骨とかなり似ていることを説明するのはさらに困難である。

 埴原氏はさらに分析を進め、これら藤原四代の頭骨は、現代京都人に最も近く、現代東北人とはかなり違っていること、そしてまた14世紀鎌倉人、八雲アイヌとはまったく異なっているという結果を得ている。また、判別関数法から見てみると、アイヌと東北人のデータを使うと藤原四代は東北人に属すると分類され、さらに東北人と京都人のデータを使うといずれも京都人に分類されるという結果となったという。これらの結果から埴原氏は、奥州藤原氏が京都出身である可能性は相当高いと主張している。

 したがって、泰衡の首級がもし偽首だとした場合、頭骨データから見て、その身代わりは地元東北人であってはならず、京都出身の特徴を持つ秀衡や泰衡と極めて近い血縁者などでなくてはならないことになる。例えば少なくとも4人いた泰衡の弟たちがそうであろう。しかし、秀衡や泰衡に近い血縁者であればそれなりの地位にある人物ばかりであったろうし、そうした地位の人物を身代わりにするのはほぼ不可能に近いと思われる。

 ちなみに、泰衡は6人兄弟の2番目である。腹違いの兄国衡は阿津賀志山の合戦で、大将軍として鎌倉側と激しく戦い、戦死している。泰衡のすぐ下の弟の忠衡は義経に与したとして、頼朝の侵攻の前に泰衡に誅されている。四男の高衡(隆衡としている資料もある)は、義経の首を鎌倉に届ける際に使者となった人物だが、泰衡が河田次郎に討たれた後、鎌倉側に投降している。五男の通衡(みちひら)はわからない。六男の頼衡も泰衡に誅されたと室町時代に成立した「尊卑分脈」には記されている。忠衡が討たれたのと同じ理由だろうか(頼衡の実在を疑う説もある)。

 討たれたと言っても、忠衡の遺骸がどこに埋められたのか、定かではない。もちろん、頼衡もそうである。金色堂の秀衡の遺体のそばにあった首級は元々忠衡のものと伝えられてきたが、実はそうではなかったということが分かったのと同時に生じた疑問は、では忠衡の遺体はどこに行ったのかということである。もちろん、時代が移り変わる中で、単にどこに埋めたのかが明確でなくなっただけなのかもしれない。一方で、義経生存説は東北に根強いが、その中では忠衡は死んだと見せかけて義経を案内して渡島に渡ったと伝えられている。頼衡については津軽外が浜(青森県の陸奥湾沿岸)に逃れて津軽浪岡氏の祖になったという伝承がある。もちろん、いずれも正史と信じられるには至っていない。

 こうして見ると、6人兄弟のうち、五男の通衡だけが文治五年奥州合戦後の所在がわからない。通衡が泰衡の身代わりとなった可能性があったかどうか。さらに穿った見方をすれば、四男の高衡が投降したのは、面が割れていて逃げおおせないと考えたからなのかもしれない。それ以外の兄弟は鎌倉側に顔を知られていなかったのだから、敗色濃厚となって逃亡しようと思えば逃亡できたかもしれない。ただし、そのような証拠はないし(逃げようとする者がわざわざ逃げた証拠を残していくとも思えないが)、ない以上すべては憶測でしかなく、結局中尊寺に祀られている首級は泰衡のものである可能性が非常に高いという事実は動かしようがないということである。

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2006年04月07日

東北の歴史のミステリーその4〜「泰衡の首」は泰衡の首じゃない?

e8195066.jpg では果たして、金色堂に納められている首級は経清のものなのだろうか。これについては、私はまだ高井氏に全面的に賛成ではない。経清の首と考えると生じる疑問がいくつかあるからである。

 まず、経清の首が釘付けにされたという記述はないということである。吾妻鏡には、前九年の役の安倍貞任の例にならって泰衡の首を釘打ちしたとはあるが、前九年の役の折に経清の首も貞任と同様に釘打ちされたとは書いていない。ただ、これについては、経清も貞任と同じ先の戦の首謀者であるから同様に釘打ちされたと見てもよいかもしれない。

 次に、なぜ、この首級が三代秀衡の遺体の脇に納められていたのかということである。これが経清の首で、金色堂が経清のためのものであったとするならば、三代秀衡の遺体の脇に安置されているという状況には違和感がある。独立して安置されるか、少なくとも初代清衡同様中央に納められるべきではないだろうか。

 そして、これが最大の疑問なのだが、もしこれが経清の首ならば、泰衡の首はどこへ行ったのかということである。さらされた後、粗末にされた(捨てられたなど)ことは考えにくい。なぜなら、この文治五年奥州合戦は、吾妻鏡も「義顕(義経)といい泰衡といい、させる朝敵に非ず。ただ私の宿意を以て誅亡する」(宝治二年(1248年)二月五日条)と認めているように、実は頼朝の「私怨」から行われた戦である。そのような場合、敗者は怨霊となって祟るというのが、日本における「怨霊信仰」である。頼朝は当然泰衡の首を丁重に葬ったはずである。その安置先としてはやはり金色堂よりふさわしい場所はないと思われるが、もしこの首を経清のものとした場合、泰衡の首はどこに行ってしまったのかが新たな疑問として浮上するのである。

 ただ、経清の首とする高井氏の説に有利と思われる状況もある。それは他でもない、「泰衡の首級」の状況そのものが物語っている。昭和25年の御遺体学術調査の報告書に書かれているのだが、泰衡の首には7回斬り付けられた跡があるという。また顔の表面には無数の刀傷もあるという。7回斬り付けられたというのは、鈍刀で首を切られた経清の状況に符合する気もする。

 泰衡は、実は奥州藤原氏が頼朝に滅ぼされた文治五年奥州合戦では、一度も頼朝軍と戦っていない。その泰衡になぜ無数の刀傷があるのか。泰衡が比内(現在の秋田県大館市比内)を治めていた郎従の河田次郎の裏切りにあって殺されたときにつけられたのか。しかし、吾妻鏡によれば泰衡が河田次郎を頼って贄の柵に身を寄せた時、泰衡に従う兵は数千いたという。その中で河田次郎が泰衡の首を取るのは正面からの戦ではまず無理で、ちょうど源頼朝の父、義朝が平治の乱で敗れて尾張の長田忠致の元に身を寄せた時、入浴中に襲撃されて最期を遂げたように、だまし討ちにするしかなかったはずである。そうすると激しい合戦の後を物語るような刀傷はいかにも不自然ではある。

 殺された後頼朝らによってつけられたという見方もあるかもしれないが、傷には前後関係、すなわち時間の経過があるという。つまり治りかけのものから討たれる直前のものまであるという。このように見ると、これはむしろ、12年に及んだ長い戦のその最後の乱戦の中生け捕りになった経清のものとする高井氏の見方にもそれ相応の説得力がある。

 結局のところ、真相は4体の遺体のDNA鑑定でもしない限りは明らかにならないのかもしれない。そもそも、もともとこの首級は、寺伝では泰衡に殺された忠衡のものだとされていたのである。ならば忠衡の首はどこへ行ったのかという疑問もあり、義経生存説を唱える人は、これこそ義経が生きていた傍証で、義経は殺されたと見せかけて姿を消した忠衡の案内で北に逃れたのだと言うのである。

 英雄不死伝説は多いが、その最たるものが「義経北行伝説」であると言える。が、それほど英雄視されていなかった泰衡にも実は不死説がある。次回はそれを見てみたい(写真は金色堂を風雨から守っている覆堂)。

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2006年03月24日

東北の歴史のミステリーその2〜「泰衡の首」は泰衡の首じゃない?

0df45924.jpg というわけで、いきなり「首」の話である。今まで地ビールやら温泉やらの話を続けてきたところに突然「首」の話とはこはいかに、という感じであるが、上を見ていただければ分かるように、このブログでは東北の歴史も扱うということを謳っている。なかなかそのきっかけがなかったのだが、最近ドキドキワクワクするような面白い本を見つけたので、それをネタに東北の歴史の話も少しずつ書いてみようかと思う。

 岩手県平泉町にある中尊寺には、日本の国宝第一号となった金色堂がある。その名の通り、皆金色のお堂で、マルコ・ポーロが東方見聞録に記した「ジパング伝説」の元となった建造物ではないかと言われている。

 金色堂には、平安末期に約一世紀にわたって東北全土を実質的に治めていた奥州藤原氏三代、初代清衡、二代基衡、三代秀衡の遺体と、四代目で源頼朝に滅ぼされた泰衡の首級が安置されている。

 実は、この泰衡のものとされている首級は、寺伝では泰衡の弟忠衡のものだとされてきた。忠衡は、三代秀衡の三男である。源義経が兄頼朝に追われて奥州に逃れてきた時、秀衡は義経を受け入れて鎌倉と対峙する道を選ぶが、その秀衡は義経が来て1年も経たないうちにこの世を去ってしまう。臨終に際して、秀衡は「前伊予守義顕(義経)を大将軍と為して、国務をせしむべき」(吾妻鏡)との遺言を残すが、忠衡はこの秀衡の遺言を守って源義経を擁いて鎌倉と対峙しようとして泰衡に誅されたとされる。父の遺命に従い、義経を主君として仰いだ忠孝の士として、その首級が金色堂に納められている、そう信じられてきたのである。

 ところが、昭和25年の御遺体学術調査の折、忠衡のものとされてきた首級には、右の耳の付け根から頭蓋骨の一部とともに切られ、頭頂1カ所、後頭部に二カ所、そして鼻など数カ所に刀傷があるほか、前頭部の中央から後頭部に達する直径1.5センチほどの穴が貫通していた。「吾妻鏡」には泰衡の首には、前九年の役の際に源頼義が、安倍貞任の首に長さ八寸の鉄釘を打ち付けたのに倣って、同様に釘を打ち付けたとの記述がある。安倍貞任の時に首を扱った者の子孫に泰衡の首を扱わせるという徹底ぶりで、宿意を晴らしたのであるが、金色堂に納められた首級にはまさにこの釘の跡があったわけで、それを以って、その首級は忠衡ではなく泰衡のものであるとされ、それが現在に至るまで新たな「常識」とされてきたのである。

 さて、今回見つけた書籍「金色堂はなぜ建てられたか―金色堂に眠る首級の謎を解く」(写真参照、高井ふみや著、勉誠出版、アマゾン該当ページ)は、この御遺体学術調査の折に泰衡のものとされた首級は実は泰衡のものではないとして、これまでの「常識」に果敢に挑戦した書である。

 泰衡のものでないとすれば、この首級は誰のものなのか。高井氏は、藤原経清のものだと言うのである。藤原経清を知っている人は、かなりの歴史通である。93年にNHK大河ドラマになった高橋克彦原作の「炎立つ」で主役になったこともあって、少しは知られるようになったが、この人は奥州藤原氏初代で平泉「黄金の100年」の礎を作った藤原清衡の父である。

 藤原経清は、亘理権太夫と言われており、国府側にいて今の宮城県亘理郡を治めていたとされている。平安京で摂関政治を行った藤原氏と区別するために奥州藤原氏と呼ばれるこの一族は、元をたどっていくと平将門を討った藤原秀郷につながる。藤原秀郷は元々京の藤原氏の流れを組む家柄であるから、奥州藤原氏も土着の蝦夷ではないわけである。

 さて、経清はその後、奥六郡(現在の岩手県南部)を支配していた俘囚(朝廷に恭順する蝦夷)長の安倍頼時の娘を妻に娶る。この安倍氏を討つ戦となった前九年の役では、経清は当初は陸奥守源頼義に従っていたが、同様に安倍頼時の娘を娶り、亘理郡の隣の伊具郡を治めていたとされる平永衡が、安倍氏側に通じているとの疑念を抱かれて源頼義に殺害されたことに身の危険を感じて安倍側に寝返った。そこから安倍軍の中心的存在として源頼義率いる国府軍を大いに悩ませた。

 特に、前九年の役の間、経清は朱の国印を押した徴税符である「赤符」ではなく、経清の私的な指示書である「白符」に従うよう陸奥の諸郡に命じ、朝廷をないがしろにして独自に徴税を行ったが、当初安倍側が優勢だったために陸奥守源頼義もこれを指を咥えて見ている他なかった。このことのために経清は、徴税の権限を奪われ完全に面目を潰された形の頼義の深い恨みを買った。最終的に国府軍が、出羽の俘囚長である清原氏の援軍を得て安倍軍を厨川の柵(現在の岩手県盛岡市)に破り、経清を捕らえた際、頼義は苦痛を長引かせるためにわざと刃こぼれさせた刀で首を切った、という。残酷な処刑である。

 ちなみに、この前九年の役は、源頼義が陸奥の地に覇権を築こうとの野望を抱いて起こした「侵略戦争」だったと位置づけることができる。結局、念願通り安倍氏を滅ぼすことができたが、朝廷は頼義の勢力が大きくなりすぎることを警戒し、勝敗を決定づけた清原氏に陸奥、出羽二国の統治を任せた。この時の頼義の無念が後の鎌倉幕府の公文書「吾妻鏡」が記した頼朝の「私の宿意(私的な怨恨)」につながっていくのである。

 ところで、この「前九年の役」とその後起きた「後三年の役」はどちらも「役」と呼ばれているが、「役」という語はもともと、後の元寇「文永の役」「弘安の役」や秀吉の唐入り「文禄の役」「慶長の役」のように、「対外戦争」に用いられる用語である。東北での戦にこの語が用いられていることは、当時東北が異境の地と見なされていた端的な証である。

 その後、清原氏の内紛に頼義の子源義家が介入した後三年の役を経て、陸奥、出羽二国の実質的な支配者となった経清の子、奥州藤原氏初代藤原清衡は、中尊寺を建立し、世にも稀な金色堂を建立した。中尊寺を建立し、と簡単に書いたが、「吾妻鏡」によれば中尊寺は、堂塔40余、僧坊300余を有する大寺院であり、鳥羽天皇の御願寺という位置づけであったので、その建立はいわば国家的大事業であった。天治3年(1126)3月24日、その中尊寺の「大伽藍一区」が完成し、清衡によって盛大な落慶法要が営まれた。いずれ紹介するが、この法要に捧げられた「中尊寺建立供養願文」には、清衡の理想とする奥羽の平和、国家の平和を祈る心情が凝縮されているといえよう。

 この落慶法要には、国家鎮護の祈りとは別のもう一つの目的があったように思え、また同時にそれが高井氏が主張する泰衡の首級の「正体」を探る根拠の一つともなっているが、長くなったのでそれについては、次に触れることにしたい。

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