文治五年奥州合戦  

2011年09月06日

東北の歴史のミステリーその25〜藤原泰衡の子は3人いた?

090828-174639 以前、泰衡の子が山形県酒田市に逃れてきたのではないかということを書いた(ここここここ)。その後、さらに調べてみるとより詳しいことが分かった。庄内の郷土史を研究している土岐田正勝氏の「最上川河口史」によると、泰衡の子万寿は、酒田に逃れてきた当時10歳に満たなかったそうで、元服するまで徳尼公の元にいた。そして、「その後泰高と名乗り、家来数人とともに津軽の外ケ濱に行き、『牧畑』を開拓した。やがて泰高は京都に出て、平泉藤原家再興を企図したがならず、紀州日高郡高家庄の熊野新宮領に定住した。その子孫が南北朝の天授三年(1377)瀬戸内海の因島に移り住み、『巻幡(まきはた)』姓を名乗っている」とのことである。

 実際、因島(旧因島市は合併して現在は尾道市)には藤原泰高(康高)の伝承があるようである。例えば耳明神社(みみごじんじゃ)がそれである。ブログなどでもその名が現れたりしているので(参照サイト)、因島の人にとっては藤原泰高は馴染みのある人物のようである。

 ただ、「最上川河口史」にある、泰高が開拓したという「津軽の外ヶ濱」の「牧畑」とはどの辺りなのか分からない。青森県内には該当しそうな地名が見当たらないのである。単なる推測だが、「外ヶ濱」の「牧畑」は津軽ではないのではないだろうか。例えば、隠岐の西ノ島町には「牧畑」があって(参照サイト)、「外浜」という地名がある(参照サイト)。ここでは「牧畑」は地名ではなく、「畑を区切り放牧と耕作を輪換する畑」のことだそうだが、想像を膨らませれば、ひょっとすると泰高は隠岐の外浜を開拓したのかもしれない。さらに言えば、隠岐は知っての通り、かつては流刑地だったので、ひょっとすると泰高は鎌倉に見つかって命は助けられたものの隠岐に流されたのかもしれない。その後赦されて熊野に移り住んだ可能性もある。

 泰衡の子については、実は酒田市以外に平泉から北に70km弱のところに位置する岩手県紫波町にも伝承がある参照サイト)。現在の紫波町は当時、奥州藤原氏初代清衡の孫の樋爪太郎俊衡、五郎季衡兄弟が治めていた。兄弟の館である樋爪館は五郎沼の近く、現在の紫波町立赤石小学校の場所にあったとされるが、この五郎沼の名前の由来は、五郎季衡が幼い頃によく泳いで遊んだことからつけられたという。

 太郎俊衡は文治五年奥州合戦の頃には出家して蓮阿と名乗っていたが、合戦後頼朝の陣に投降、この地を安堵された。その後俊衡は領内の大荘厳寺に居住したそうだが、そこで泰衡の子である秀安を育て、自分の娘の璋子を妻にさせたと伝えられているそうである。

 「岩手県史」第一巻には、「泰衡の子供については、胆沢郡小山村名号堂(今明後堂沢と云う)西風屋敷阿部家所蔵系譜によると、泰衡に男子二人があり兄時衡は討死、弟秀安は、樋爪俊衡入道に扶育されて成長し、子孫阿部氏(中頃安倍氏を称す)を称した」とある。この系譜の泰衡のところには「二子ヲ俊衡ニ委(ゆだね)テ、泉城ニ火ヲ放チ、臣河田次郎ヲ従ヒ、佐比内ニ逃遁ノ途、次郎返心シテ不意二討テ首ヲ頼朝ニ上ル。頼朝、次郎主ヲ討スル罪ヲ問ヒ、斬罪二処ス」とあるのだそうである。

 岩手県史にはその系図も掲載されているが、それには時衡について、「文治五・九・三 討死 二〇」と記載されている。文治5年9月3日というのはまさに泰衡が河田次郎の裏切りに遭い、殺された日である。頼朝の軍はこれより先、8月22日に平泉に進駐しており、以降合戦があったとは吾妻鏡にも記されていない。従って、この記述を信じるとすると、時衡も泰衡が河田次郎に襲われたこの時に一緒に討たれてしまったと考えられる。

 つまり、まず泰衡には時衡という長子がいたが、泰衡最期の地比内(系譜には「佐比内」とあるがこれは紫波町内にある地名であり吾妻鏡の記載にある秋田県の「比内」の誤りではないだろうか)で父泰衡と共に河田次郎の軍勢と戦って討死し、弟の秀安が樋爪俊衡に匿われて無事成長したということのようである。岩手県史の系図にはこの秀安について「安元二生」と書いてある。安元2年は1176年であるから、父泰衡と兄時衡が死んだ時、秀安は13歳だったことになる。

 ここで注目すべき記述がある。「岩手県史」で紹介されている系譜の「二子ヲ俊衡ニ委(ゆだね)テ」という記述である。一人は秀安であるとして、もう一人は誰だろうか。「岩手県史」の編者はこの「二子」を時衡と秀安のこととしてさらっと流しているが、兄時衡は父泰衡と行動を共にしたわけであるから、「俊衡ニ委」ねられたのが時衡のことでないのは明らかである。そこで思い出されるのが、酒田に逃れたという泰高である。すなわち、俊衡に委ねられたのは、秀安、そしてもう一人は泰高のことだったのではないだろうか。

 一旦俊衡に預けられたうちの一人がなぜ酒田に逃れたのか。恐らく俊衡は、二人とも見つかった時のことを考えたのではないだろうか。万が一泰衡の二人の子が同時に幕府に見つかって殺されでもしたら、奥州藤原氏の血統が途絶えてしまう。そう考えて、一人は自分の元に置き、もう一人は徳尼公と36人の家臣に託して遠くに逃れさせたのではないだろうか。それが酒田に落ち延びた泰高ではなかったかと思うのである。

 さて、以前紹介した泰衡の奥方を祀った西木戸神社に関する伝承にも泰衡の子のことが出てくる。奥方は夫泰衡の跡を追い子供3人と侍従を連れて現在西木戸神社のある地までやって来たが、泰衡は既に4日前に河田次郎に殺されたと知り、悲嘆のあまり子供を従者に託して自害したというのである。西木戸神社にある説明板には3人の子のことは出ていなかったが、一部にはそのような伝承もあるようである(参照サイト)。

 そうすると、泰衡の子は、時衡、秀安、泰高、それに西木戸神社までやってきた3人の子と、合わせて6人もいることになるが、さすがにこれは多すぎのような気がする。泰衡の父秀衡には泰衡を含めて6人の子(国衡、泰衡、忠衡、高衡(または隆衡)、通衡、頼衡)がいたことが分かっているが、秀衡は66歳まで生きたとされる。対して泰衡は35歳(25歳という説もあるがそれだと時衡が20歳で討死というのと計算が合わない)で死んでいる。そう考えると、泰衡の子はやはり最大でも時衡、秀安、泰高の3人で、西木戸神社に伝わっている3人の子というのはこの3人のことを言っているのではないだろうか(従って、3人の子は泰衡の奥方と行動は共にしていなかったことになる)。ついでに言えば、これまでの情報を整理すると、長男は時衡(文治五年奥州合戦時に20歳)、次男が秀安(同じく13歳)、三男が泰高(同じく10歳未満)ということになる。

090828-174248 上の写真は五郎沼である。中島もあって、俊衡が治めていた頃は浄土庭園だったのではないかという気もしている。同様の見方をしている方は他にもおられるようである(参照サイト)。五郎沼の案内板には五郎沼に隣接して樋爪館と大荘厳寺があった様子が再現されている(右写真参照)。これを見ると、当時の樋爪館周辺は、「ミニ平泉」とでも言うべき街並みがあったことが窺える。

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2009年11月20日

東北の歴史のミステリーその24〜消えた?「奥十七万騎」

165234.jpg 今でも覚えているのだが、中学校の時の歴史の副読本に東北の歴史について説明した冊子があった。その「奥州征伐」の項には(「征伐」というのは鎌倉側から見た一方的な表現であるので現在では「文治五年奥州合戦」という名称が定着している)、「なぜ源頼朝は28万4千もの大軍を率いて奥州に攻め込んだのでしょうか」という問いかけがあり、当時義経びいき、奥州藤原氏びいきだった私が、「そうだそうだ、いったいどんな理由があって東北に攻めてきたんだ?」と思いながら読み進めると、次の文章が「それは奥州藤原氏の兵力が20万騎と言われていたからです」と来て、「そっち(兵の数)の話かよ〜」と肩透かしを食らったような思いをした記憶がある(笑)。

 当時、 奥州藤原氏の擁する兵力は17万とも、18万とも、あるいは20万とも言われていて、それこそ今世界遺産登録を目指している通りの浄土思想を基調とした「平和国家」の顔の一方で、平氏や源氏とも単独で対等以上に渡り合える強大な軍事力を持っているとされていた。頼朝は平氏追討に当たって、自ら鎌倉を動くことはなかったが、それは背後に控える奥州藤原氏の「奥十七万騎」を脅威に感じてのことだったとも言われる。

 ところが、いざ文治五年奥州合戦となると、以前紹介した阿津賀志山の合戦で大将軍に任ぜられた泰衡の兄、西木戸太郎国衡が率いたのは二万騎だったと吾妻鏡にはある。しかも、阿津賀志山以降は散発的な抵抗はあったものの、大規模な合戦らしい合戦はなく、平泉は事実上「無血開城」だった。出羽方面でも戦闘が行われたと記述があるが、阿津賀志山以上の兵力がそちらに集結したと考える理由はない。してみると、17万騎どころか、実際にはほんの数万騎が、頼朝率いる大軍(もちろん28万4千騎という数字には誇張もあるだろうが)と戦ったわけである。ならば、奥州藤原氏が誇った残りの兵力は戦わずしてどこに消えたのか。

 前回、東北のオススメスポットとして、平泉衣川を紹介した(ここここ)が、両地域を比較して「おや?」と思ったことがある。史跡(地名にのみ言い伝えが残っているものも含めて)の数に、平泉と衣川とでは違いがあり過ぎるのである。すなわち、平泉は奥州藤原氏が100年の栄華を誇った地であるにも関わらず、それにしては遺跡の数が少なすぎやしないかということである。

 というのも、既に紹介した通り、衣川の遺跡、そしてそれは多くが安倍氏に由来するものだが、非常に多いのである。1日で全部回ろうと思ったら、それこそ誇張ではなく朝から夕方までかかる。安倍氏は当時奥六郡を中心とする大きな勢力であったが、陸奥出羽両国の全体を掌握していたわけではなかった。一方、奥州藤原氏はその両国、つまり今の東北地方のほぼ全域を掌握していたとされている。それにしては、その本拠地たる平泉に往時を偲ばせるような遺跡が少なすぎやしないだろうか。

 衣川には安倍氏が乗馬5〜600頭を繋いでいたという場所(「駒場」という地名で残っている)や「乗馬訓練場」跡(「馬駆」という地名で今も残っている)まで残っているのである。いかにも騎馬兵を主体とした精強な兵を率いた安倍氏にふさわしい伝承だが、対して奥十七万騎を誇る奥州藤原氏の訓練場跡があったという話はついぞ聞いたことがない。もちろん、安倍氏の訓練場をそのまま引き継いだということなのかもしれないが、それであれば「安倍氏の」ではなく、より新しくより強大な勢力を誇ったはずの「奥州藤原氏の」という伝承になってもよさそうなものである。

 これはいったい何を意味するのかと考えてみると、実は「奥十七万騎」は「虚構」と言うか、「誇大広告」だったのではないかということである。それだけの兵力はなかったが、そう喧伝することでかつての前九年の役のように、奥州を我が物にせんとする源氏のような勢力に外部から攻め込まれることを未然に防ごうとしたのではなかったかという気がするのである。

 その「情報戦略」は、頼朝が朝廷の制止を振り切って有無を言わさず攻め入ってきたことで「実像」が露呈して瓦解した。その実像とは、阿津賀志山の地で、全国から動員された頼朝の大軍を3日足止めするのが精いっぱいの兵力だったということなのではないだろうか。

 本当の意味での「判官びいき」、と言うか、義経が好きな人にしてみれば(かつての私もそうだったが)、奥州藤原氏のこのようなあっけない終焉をとらえて、義経さえ生きていればこのようにたやすく滅びることはなかったろうに、と思うものだが(以前紹介したが、「義経記」の作者もそのようなニュアンスの言葉で最後を締め括っている)、もしこのような圧倒的な兵力の差が端からあったのだとすると、仮に義経が生きていたとしても状況は同じであったかもしれない。いや、「ゲリラ戦」が得意だった義経がいればやはり状況は違っていたはずだ、という反論が即出そうではあるが。

 写真は残念ながら平泉の世界遺産登録に当たっての構成遺産からは外された白鳥館遺跡から見た北上川である。この遺跡は安倍貞任の弟、白鳥八郎則任の館跡と伝えられる。その立つ場所から考えて、奥州藤原氏時代にも重要な役割を果たしたのでは、とも思われるのだが、少なくともそのような伝承は聞いたことがない。

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2008年11月13日

東北の歴史のミステリーその23〜酒田市の成り立ちと奥州藤原氏

da691530.jpg そもそも頼朝は、泰衡の子供のことについては考えなかったのだろうか。その気になれば支配下に置いた陸奥出羽両国内を徹底的に探し続けることもできたはずである。しかし、そのようなことをした形跡は、少なくとも記録上はない。

 この頼朝による奥州攻めは、徹底的に源頼義が安倍貞任を討った前九年の役に倣っている。源頼義が最終的に勝利を収めた厨川に入る日付も合わせ、泰衡の首に釘を打って晒すやり方も安倍貞任にしたやり方を踏襲、挙句にはその釘を打つ作業も貞任の首に釘を打った者の子孫を探し出してさせるなど、実に徹底している。源頼義は棟梁の貞任は殺したが、弟の宗任は西国へ流罪とした。頼朝も泰衡の首は取ったが、弟の高衡は流罪としている。全くの余談だが、安倍晋三元首相は、この時流罪となった安倍宗任の末裔だそうである。

 ただ一つ、頼義が「戦後処理」において、自分の思い通りにできなかったことがあった。安倍貞任の子供のことである。千代童丸という当時13歳で元服前だった貞任の子は捕縛された。頼義は哀れに思って命を助けようとしたのだが、前九年の役の勝利を決定づけた出羽の清原武則に反対され、やむなく斬らざるを得なかったのである。前九年の役を徹底的に模倣しようとした頼朝は、この場面をどう考えたろうか。頼義は敵の棟梁の子を助けようとしたができなかった。頼朝は頼義の意思を継いで、泰衡の首は取っても、その子は助けようと考えたのではないだろうか

 そう考えれば、頼朝が執拗に泰衡の子の行方を探し回らなかったことにも説明がつく。何といっても、自分の弟義経の時はあれだけ執拗に行方を探索させた頼朝である。その気になればどんなことをしてでも探し出すよう命じたはずである。それをしていないということは、泰衡の子については、端から殺すつもりはなかったということなのではないだろうか。

 もう一つ、泰衡の子を助けた理由になりそうなのは、頼朝の「罪悪感」のようなものである。鎌倉幕府の公文書吾妻鏡自らが認めている通り、義経にしても泰衡にしてもさしたる朝敵ではなかった。ただ、頼義・義家の時代に奥州を手に入れることができなかった遺恨で奥州藤原氏を攻め滅ぼしたというのが文治五年奥州合戦の実情である。当然頼朝にもそうした私的な思いから発した戦に対する罪悪感が少なからずあったのではないだろうか。したがって、棟梁の泰衡は殺さなければならなかったものの、その弟や子供は命までは奪わなくてもよいと考えたのではないかと思うのである。

 これまで頼朝のものと伝えられてきた神護寺の肖像画(実際には足利尊氏の弟直義のものとする説が有力である)のイメージ通り、頼朝については、冷徹な人間という見方が定着しているが、こと奥州合戦については、そうではない一面も見え隠れしている気がするのである(写真は頼朝が寄進した羽黒山の黄金堂である)。

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2008年11月02日

東北の歴史のミステリーその22〜酒田市の成り立ちと奥州藤原氏

24ba41a2.jpg 徳尼公はなぜ平泉を逃れなければならなかったのだろうか。普通、戦に敗れても棟梁の妻が殺されることはない。奥六郡の覇者であった安倍氏が滅ぼされた前九年の役で、安倍氏側について殺された藤原経清の妻は、源頼義側につき安倍氏に代わって奥六郡を収めることになった出羽の豪族清原氏の清原武貞に再嫁させられる。

 このことについては、かつては女性が「戦利品」扱いされた表れと捉えられたが、実際はそうではなくその地の人心をつかむためには、後家の処遇が鍵だったのである。事実、奥州藤原氏が滅んだ文治五年奥州合戦の後、藤原秀衡の後家が平泉で存命だったことを受けて、幕府が憐憫の情を持って対応するよう奥州総奉行に命じたことが、吾妻鏡に書かれているのである。

 そこでまた疑問が出る。秀衡の後家(これは本妻、すなわち泰衡の母だろう)が奥州藤原氏滅亡後も平泉にとどまっていて危害を加えられることがなかったにもかかわらず、なぜ秀衡の妹あるいは側室は平泉を逃れなければならなかったのかということである。何か平泉にとどまっていてはいけない理由があったのだろうか。

 そう考えると、後に徳尼公と称された女性は、決して頼朝に見つかってはならない何かを持っていて、そのために平泉を離れなければならなかったのではないだろうか。それはいったい何だろうか。平泉の繁栄を支えた黄金に関する何かか、それとも…。

 私にとって以前から疑問だったのは、泰衡の子がどうなったかということである。殺された時泰衡は35歳だった(25歳という説もある)。当然子供がいて不思議ではない年齢である。しかし、吾妻鏡には、泰衡の子が見つかって殺されたといったような記述はない。では元々子供がいなかったのか。以前、泰衡の妻については、夫泰衡の後を追って自害した場所が神社になっていることを紹介した。しかし、そこでも2人の子供のことについては何も触れられていない。

 そこで考え付いたのが、徳尼公は実は泰衡の子を守って平泉を逃れたのではないかということである。そう考えれば、徳尼公が平泉を離れなければならなかったことにも合点がいく。自身は殺されることはなくても、泰衡の子となれば殺されることはほぼ間違いない。それでその子を連れ、家臣に守られて酒田まで落ちのびたのではないだろうか。

 そう思って調べてみたら、やはりそのような伝承はあった。酒田市が発行した「酒田の歴史探訪」には、「平泉藤原家の遺臣三十六騎が藤原秀衡の後室と言われる徳姫と、泰衡の一子・万寿のお供をして平泉を逃れました」とある。万寿というのは元服前の名前のようなので、事実とすると泰衡の子はまだ幼かったことになる。

 泰衡の子万寿はその後どうしたのだろうか。徳尼公が天寿を全うし、三十六騎の遺臣が地侍となったことは伝わっていても、万寿がどうなったかは伝わっていないようである。しかし、状況から見て、きっと万寿もまた幕府に殺されたりすることなく、無事自分の人生を全うしたのではないかと思うのである(写真は現在の酒田市宮野浦の海岸。巨大な風車が並んでいる)。


追記(2010.9.5):「吾妻鏡」の文治5年(1189年)11月8日には、「泰衡の幼い子息の居所がわからないので探し出して身柄を確保せよ、その名前が若公(頼朝の子・頼家)と同じ名前(万寿)であるから、名を改めるように」との指示が出されている。これを見ると、幕府は泰衡に子があったことは把握しているが、その居場所については把握していなかったことが分かる。また、その後所在が明らかになったという記述もない。

 改名の指示も出ているが、これは本人がいる、いないに関係なくできることである(逃亡中の義経が「義行」「義顕」と二度も改名されたように)。

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2008年10月27日

東北の歴史のミステリーその21〜酒田市の成り立ちと奥州藤原氏

db49b607.jpg 山形県の沿岸、庄内地方の酒田市には、その発祥に奥州藤原氏にまつわる話が伝わっている。文治5年(1189年)の奥州藤原氏滅亡の際、藤原氏の遺臣36騎に守られて藤原秀衡の妹徳子(あるいは徳の前)、あるいは側室泉の方と称する女性が平泉を逃れ、現在の酒田市周辺に落ちのびたのが、酒田市ができたきっかけだというのである。酒田まで落ちのびるに当たっては、あえて最短ルートであった最上川を下るルートを取らず、一度現在の秋田市まで出てから南下したと伝えられ、秋田県内にも女性が乗ってきた白馬が途中で死んだのを祀った寺があるなどの言い伝えがあるそうである。

 この女性は最初出羽三山の一つ、羽黒山の山奥の立谷沢で過ごしたが、その後向酒田(現在の酒田市街地から見て最上川を挟んだ対岸)の袖の浦(現在の酒田市宮野浦)、飯盛山にひそみ、泉流庵を結び徳尼公となり、藤原一門の菩提を弔いながら静かに余生を送り、建保5年(1217年)4月15日87歳で没したそうである。

 徳尼公の結んだ「泉流庵」とは、「平泉から流れてきた」ことを表しているそうである。後に泉流寺と改称された。現在の泉流寺(参照サイト、酒田市のサイト内の該当ページは現在エラーで表示されない)は酒田市の中心部、酒田市総合文化センターの南隣にある。

 徳尼公没後、遺臣36人は地侍となり、廻船業を営み酒田湊繁栄の礎を築いた。36人の遺臣の末裔はその後酒田三十六人衆と称され、幕末まで酒田を「自治都市」として運営したそうである。

 現在、泉流寺には開祖徳尼公の木像がある。これは元あった像が宝暦元年(1751)に焼失した後、明和元年(1764)三十六人衆の一人、本間家三代四郎三郎光丘が京都でつくらせたもので、今に伝わる徳尼公像をまつる廟も寛政2年(1790)本間光丘の寄進によって建立された。境内には三十六人衆記念碑があり、今も徳尼公の命日である4月15日には三十六人衆の子孫によって徳尼公の法要が行われているそうである。

 ところで、最初羽黒山で過ごした徳尼公はなぜ酒田に移ったのだろうか。修験道の本拠地、出羽三山の羽黒山にいれば、めったに幕府の探索も入らず、身の安全を図れたのではないだろうか。どうやらそれにはやむにやまれぬ理由があったようである。

 建久4年(1193年)、源頼朝は土肥実平を建築奉行として羽黒山に黄金堂(こがねどう)を寄進したのである。この黄金堂は羽黒山の入り口近くに現在も存在し、山頂の大金堂(現在の三神合祭殿)に対して小金堂とも言われている。この頼朝による黄金堂建立をきっかけに自分の身に追及の手が及ぶのを恐れた徳尼公が羽黒山を出て、酒田に移ったのではないかと考えられている。しかし、そもそも徳尼公が平泉を逃れたこと自体、大きな謎があるように思うのである(写真は泉流寺内にある徳尼公廟である)。

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2008年08月30日

私的東北論その13〜世界遺産への登録延期―平泉の価値は変わらない

5acc2ab7.JPG 今年度の世界遺産登録を目指していた平泉の文化遺産が、先月6日に行われたユネスコの世界遺産委員会で「登録延期」となった。平泉の世界遺産登録については、5月にユネスコの諮問機関である国際記念物遺跡会議(イコモス)が「登録延期」の勧告を既に出していたが、日本政府代表部は昨年の石見銀山に続く「逆転登録」を目指して各方面に働き掛けを続けていた。結果的にそれが実を結ばなかったことになる。

 日本は、平泉の文化遺産を「浄土思想を基調とする文化的景観」と位置づけて世界遺産登録を目指したが、今回「落選」したことに対して、メディアは「浄土思想」が諸外国に理解されるのが難しかったのではないかと報じている。

 しかし、実際は浄土思想の理解云々よりも、世界遺産の登録基準に適合するかどうかの証明が不十分とされてしまったことによるところが大きかったようだ。世界遺産の登録基準は社団法人日本ユネスコ協会連盟のサイト内にある通りであるが、今回平泉はこのうち(iii)、(iv)、(v)、(vi)に当たるとして登録を目指していた。ところが、世界遺産委員会とその前のイコモスの勧告で、その証明が不十分とされたのである。これについては、実はイコモスは、平泉の一部物件はこれら(iii)〜(vi)ではなく、(ii)に該当すると評価していたと、ユネスコの松浦晃一郎事務局長が明らかにしている(参照サイト)。とすると、推薦書の全面的な練り直しが求められるが、今のところ文化庁を始め関係者によると、大幅な推薦書の改訂は行わない方針のようである。

 また、「一部物件」という言葉が使われている通り、今回平泉は9つの構成遺産で世界遺産登録を目指していたのだが、この9つがどのように「浄土思想を基調とする文化的景観」に結びつくかの証明が不十分だったようである。確かに、素人目に見ても、「これは浄土思想とどのように関係するのか」と首を傾げたくなる構成遺産があるのは事実である。

 ちなみに9つとは中尊寺、毛越寺、無量光院跡、柳之御所遺跡、達谷窟、金鶏山、骨寺村荘園遺跡、長者ヶ原廃寺、白鳥舘遺跡である。このうち、奥州藤原氏三代が建立した中尊寺、毛越寺、無量光院跡、奥州藤原氏の政庁だった柳之御所遺跡、山頂に経塚のある金鶏山は平泉の浄土思想を直接的間接的に伝える構成遺産であると言える。達谷窟も奥州藤原氏時代のものと見られる浄土庭園の遺構が出土しており、構成遺産に加えてよいと考えられる。骨寺村荘園遺跡は中尊寺の寺領であったところで、周辺には寺社関連の遺跡も多数残っており、これも構成遺産と見てよいだろう。ただし、今のように中世の荘園がそのまま残っていることを強調しすぎると、かえって浄土思想との関連が分かりにくくなるようにも思える。一方、残り2つ、長者ヶ原廃寺と白鳥舘遺跡は奥州藤原氏と直接関係がなく、また浄土思想とも特に関連が見られないので、構成遺産として加えるのは厳しいのではないだろうか。

 「浄土思想を基調とする文化的景観」と言うならこれら2つよりもむしろ、例えば藤原清衡の孫である樋爪俊衡の居館樋爪館跡と伝えられる五郎沼は元は浄土庭園だった可能性があるように思われるし、三峯神社(月山神社)のように中尊寺の奥の院として栄えたと伝えられる神社もある。中尊寺金色堂と同様の阿弥陀堂は、宮城県角田市の高蔵寺阿弥陀堂、福島県いわき市の白水阿弥陀堂があり、こちらの方が「浄土思想」との関連がはるかに深いのではないか。

 これら構成遺産の選定に当たっては、学術的な見地からだけでなく、関係者の様々な思惑なども交錯したと伝えられているが、その結果「浄土思想を基調とする文化的景観」の証明が分かりにくいものとなってしまった感も否めない。再登録を目指すに当たっては、登録基準の見直しと共に、思い切って構成遺産の見直しも必要なのではないだろうか。

 ところで、後三年の役が終わって藤原清衡が奥羽両国の実権を握ったと見られるのが1088年、そこから四代泰衡が討たれた1189年までの101年が奥州藤原氏の時代と言えるが、三代秀衡が鎮守府将軍に任命されたのは1170年、陸奥守に任命されて名実共に奥羽の「統治者」と認められたのは1181年、初代清衡が実権を握ってからそれぞれ82年後、93年後のことである。名前が現実を追認するのに実にそれだけの時間がかかったわけである。

 今回の「落選」は日本で初めてだったこともあって、落胆の声が多く聞かれた。しかし、平泉の世界遺産登録は、2001年に国の世界遺産暫定リストに登載されてからまだたったの7年である。奥州藤原氏の辿った道から見れば、まだまだ始まったばかりである。そしてもちろん、世界遺産に登録されようがされまいが、平泉の価値は変わらない。それは、鎮守府将軍や陸奥守に任命されなくても藤原清衡が実質的に奥羽両国の覇者であったのと同じようなものである(写真は毛越寺浄土庭園にある紅葉である)。


追記(2009.4.5):新聞報道によると(河北新報記事岩手日報記事)、「平泉の文化遺産」の推薦書作成委員会は、上記9つの構成資産から骨寺村荘園遺跡、白鳥舘遺跡、長者ケ原廃寺跡、達谷窟の4つを外し、平泉町内の5つの資産のみで世界遺産登録を目指す方針を決めたそうである。長者ヶ原廃寺と白鳥舘遺跡だけでなく、達谷窟と骨寺村荘園遺跡も外すという、思い切った構成遺産の絞り込みを行ったわけである。今後の推移を見守りたい。

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2008年02月26日

東北の歴史のミステリーその19〜なぜ「阿津賀志山」だったのか

00ad1e74.jpg 吾妻鏡によると、この防塁の存在は鎌倉側も察知し、畠山重忠は鋤や鍬を持った工兵隊80名を同行させ、夜のうちにこの堀を埋めてしまったという。しかし、延べ25万人が半年以上かけて築いた大規模な防塁を80人が一晩のうちに埋めてしまえるものだろうか。この記述の背景には以前も書いたが、鎌倉側の「平泉側のやることなどこの程度」ということを強調したかった意図があるように思えてならない。

 そのことを暗示しているような文献があった。「義経とその時代」(大三輪龍彦、関 幸彦、福田豊彦編、山川出版社、アマゾン該当ページ )に収録されている吉井 宏氏の「阿津賀志山防塁を考える」である。そこには以下のようにある。

 「堀の埋め土を発掘断面図でみると、埋め土のほとんどが水平に堆積しているのがわかる。凹部に自然に土が堆積していくときには凹部の形状にあわせてレンズ状(三日月状)にたまっていくものであるから、水平堆積は人為的に埋めた証拠と考えることができる。ただしその堆積状況は耕土を意味すると思われ、けっして鎌倉軍が堀の片側から一気に土砂を流し込んだというものではない。つまり発掘地点のどこからも工兵隊の作業痕跡は発見されなかったのである」

 とすると、吾妻鏡にある畠山隊の記述は単なる「フィクション」か、または仮に本当に埋められたのだとしてもそれは広大な防塁のごくごく一部にとどまり、吾妻鏡の記載から想像されるようなほどの範囲が埋められたのではなかったのではないかと考えられる。

 実際には、堀を埋める埋めないよりも大きかったのは、安藤次なる地元民に案内させ、鎌倉側の小山朝光ら7騎が阿津賀志山の西部の山の道なき道を越え、国衡の本陣の北方に出て鬨の声を挙げて濃霧の中、矢を放ったために、平泉側が大混乱に陥ったことであったようである。いわば、源平合戦の一の谷の戦いの鵯越のようなことを鎌倉側にされてしまったのである。

 この壮大な防塁で安心してしまったのか、奥州軍がこの阿津賀志山から外に動かず、守りに徹していたことは返す返すも残念なことである。防塁で鎌倉軍を足止めしつつ、史実とは逆に、奥州軍の方が急峻な山道を越え、阿津賀志山の南から鎌倉軍の横手に奇襲をかけていたらどうなったかと想像するのである。

 ましてや、この合戦、頼朝が奥州制覇という父祖の宿意を晴らすべく、前九年の役で源頼義が勝利を収めた厨川の柵に到着する日にちまで前九年の役終結の日に合わせたが、それは旧暦の9月17日である。この年の9月17日は新暦で言うと10月28日である。すなわち、かつての奥州軍が得意とした騎馬兵を主体としたゲリラ戦に持ち込んであと1月ほど持ちこたえることができていれば、東北は本格的な冬を迎え、「アウェー」で冬の寒さに慣れていない鎌倉軍との力関係も変わったのではないか、それこそ前九年の役の折に、安倍貞任が源頼義に冬場の戦いで壊滅的な打撃を与えたという「黄海の戦い」の再現になったのではないか、と想像するのである。

 ところで、前述の吉井氏は面白いことを書いている。阿津賀志山の防塁は未完成だったというのである。氏は、まず元寇の防塁や万里の長城などを例に、こうした防塁は軍事的な防塁であると同時に異民族・異文化との境界を示しているものである」と指摘している。つまり、奥州藤原氏側から見ると、鎌倉軍の進軍は仏都平泉を蹂躙せんとする「異民族」の侵攻だったというわけである。その上で氏は、阿津賀志山の中腹で終わっている防塁は、「本来はどこまでも西に延びて日本海に通じるべきものであった」としている。それによって、「自分たちの領域を阿津賀志山以北に設定し、これよりは『奥州夷狄』の地であることを宣言した」というのが吉井氏の解釈である。

 吉井氏は阿津賀志山の戦い以降、奥州軍が総崩れになった理由を、「阿津賀志山という境界線を越えられたこと」によるものだと指摘している。つまり、単なる防衛線ではなく、心理的な境界線でもあった阿津賀志山を越えられてしまったことによる「深刻な敗北感」が奥州軍や泰衡自身を襲ったというのである。これまでにないユニークな視点だと思う(写真は阿津賀志山山頂から見た福島盆地。819年前この地に立った奥州側の大将軍、藤原国衡に眼下の鎌倉方の大軍はどのように映ったのだろうか)。

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2008年01月27日

東北の歴史のミステリーその18〜なぜ「阿津賀志山」だったのか

b2743c21.jpg さて、もっとも、泰衡が阿津賀志山に防塁を築いたのには、積極的な理由だけではなく、もう一つやむを得なかった理由もあるようである。それは、奥州藤原氏の支配形態と関係している。

 すなわち、奥州藤原氏が陸奥と出羽の広大な二国を実効支配していたとは言っても、その状況は北と南ではずいぶん違っていたということである。北は泰衡を討った河田次郎が吾妻鏡で「累代の家人」と書かれているように、奥州藤原氏に臣下の礼を取っていた豪族が多かったのに対し、南は早くから荘園開発が進んだこともあって、在地武士団とも言うべき集団が割拠しており、奥州藤原氏はそれらのうちの有力者とは乳母関係、あるいは婚姻関係を通じて関係を深めていたという側面があるのである。

 鎌倉側と対峙する局面となった際、陸奥の南(南奥)、領域で言うとほぼ今の福島県地域であろうが、その地域にはこれまでどおり奥州藤原氏との関係を続けようとする武士団と、鎌倉側につこうとする武士団とが、それぞれの領域争いも絡んで分かれて存在し、一枚岩ではなかったのである。実際、文治五年奥州合戦後も旧来の領土を安堵された豪族も南奥には少なからずいたことが分かっているが、それは紛れもなく鎌倉側についたことを表している。

 吾妻鏡の文治五年奥州合戦の部分を読んでいて不思議に思っていたのは、海道軍、大手軍、北陸軍と3つに分けた鎌倉側の軍のうち、頼朝率いる大手軍と日本海岸を北上した北陸軍が奥州側と交戦した記録はあるが、福島の太平洋岸を北上した海道軍が奥州軍と交戦したという記載がなかったことである。それは、福島の太平洋岸を押さえていた武士団は頼朝に従い、交戦しなかったか、あるいは交戦した軍があったとしても書くに値しないくらい散発的な抵抗でしかなかったということなのであろう。

 実際、福島県いわき市にある飯野八幡神社には文治二年に頼朝の意向に従って八幡神社に宮換えしたという記録が残っているそうである。文治二年と言えば、北方の王者と言われ、歴代の奥州藤原氏の中でも最大の勢力を誇ったと言われる三代藤原秀衡が在世中のことである。頼朝の対奥州戦略は水面下でそのように着々と進んでいたわけである(写真の向こうに見えるのが国道4号線から見た厚樫山(阿津賀志山)。まさに、それまで真っ直ぐ伸びてきたこの国道の行く手を阻んでいる)。

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2007年12月09日

東北の歴史のミステリーその17〜なぜ「阿津賀志山」だったのか

519272c9.jpg 以前、私がかつて義経が好きで泰衡のことが好きではなかったということを書いたが、その理由の一つが奥州藤原氏滅亡前夜の「阿津賀志山(あつかしやま)」にもあった。

 子供でも読める義経の伝記は大抵義経記を中心に源平盛衰記、平家物語などにある義経の話をミックスして書かれているが、秀衡臨終の場面はだいたい義経記に則して書かれている。義経記を読むと、秀衡は死の直前、

「定めて秀衡死したらば、鎌倉殿より判官殿討ち奉れと宣旨院宣下るべし。勲功には常陸を賜はるべきと有らんずるぞ。相構へてそれを用うべからず。入道が身には出羽奥州は過分の所にてあるぞ。況んや親に勝る子有らんや、各々が身を以て他国を賜はらん事叶ふべからず。鎌倉よりの御使なりとも首を斬れ。両三度に及びて御使を斬るならば、其の後はよも下されじ。たとひ下さるとも、大事にてぞ有らんずらん。其の用意をせよ。念珠、白河両関をば西木戸に防がせて、判官殿を愚になし奉るべからず。過分の振舞あるべからず。此の遺言をだにも違へずは、末世と言ふとも汝等が末の世は安穏なるべしと心得よ、生を隔つとも」

と遺言している。

 つまり、「秀衡は自分の死後頼朝が朝廷の宣旨や院宣をたてに義経を討て、その暁には常陸(茨城県)も与えるぞと言ってくるだろうが、それに乗ってはいけない。鎌倉から使いが来たら首を斬って戦の用意をせよ。国衡に念珠関(山形と新潟の県境)と白河関(福島と栃木の県境)を防がせ、義経を奉じればそなたらは安穏だ」と遺言したというのだ。ところが、実際には泰衡はこの偉大な父の遺言に背いて、あろうことか義経を討ち、これで一件落着かと思いきや、義経がいなくなってこれ幸いとばかりに突如頼朝に攻められる。驚いた泰衡は奥州の南端、福島と栃木の県境の白河を固めることができず、慌ててもっと平泉寄り、福島と宮城の県境にある阿津賀志山に防塁を俄かごしらえで作るが、ここを破られると一戦もせずに逃げ回り、挙句の果てに家臣の河田次郎に討たれて最期を遂げるという筋書きである。

 義経記の最後はこう結ばれている。

「故入道が遺言の如く、錦戸、比爪両人両関をふさぎ、泰衡、泉、判官殿の御下知に従ひて軍をしたりせば、いかでか斯様になり果つべき。親の遺言と言ひ、君に不忠と言ひ、悪逆無道を存じ立ちて、命も滅び、子孫絶えて、代々の所領他人の宝となるこそ悲しけれ。侍たらん者は、忠孝を専とせずんばあるべからず。口惜しかりしものなり」。

 読んでいる昔の私も、まったくこの作者と同じ心境で、「口惜し」がっていたものである。

 東北の南端を固めずに易々と宮城県境付近まで鎌倉軍の侵入を許してしまったことも私としてはかなり口惜しかったものである。なぜなら、この一連のストーリーで言えば、「阿津賀志山」(現在では厚樫山と表記する)というのは、泰衡の「先見性のなさ」の現われであって、鎌倉軍の進軍が早かったために奥州と坂東との境界であった白河以北を捨て、宮城・福島県境付近に防塁を築かざるを得なかったということになるからである。

 しかし、では実際のところ本当にそうだったのかと言うと、実はこの阿津賀志山の防塁はそのような慌てて作った俄かごしらえのものではないことが、発掘調査の結果既に分かっている。この作業には、半年以上かけて、延べ25万人が動員されたと推定されている。現在でもその遺構の一部は福島県国見町に残っているが(写真参照)、阿津賀志山の山麓に端を発して、現在の国道4号線、JR東北本線とほぼ重なると思われる奥大道を寸断してさらに東進し、阿武隈川にまで至るおよそ4kmにも及ぶ長大な防塁である。二重の堀とその前後の三重の土塁からなり、そこから地元ではこの防塁のことは二重堀(ふたえぼり)と呼ばれているが、確かにいかにも駿馬の一大産地であった奥州に築かれた防塁らしく、福島県立博物館にある復元模型などを見ると、ここを騎馬で越えるのはほとんど不可能と思えるような構造の防塁である。

 ちなみに、この阿津賀志山防塁、元寇の際に築かれた福岡市の元寇防塁、太宰府の水城防塁と並んで日本三大防塁の一つに数えられている。とても、その規模から言っても急造の不完全な防御施設と言って済ませられるような類のものではない。つまり、泰衡は鎌倉軍の侵攻が行われることを事前に察知して、ある程度の時間的余裕(とは言ってももちろん時間は限られていただろうが)を持ってこの防塁を築いたと言えるのである。

 また、この阿津賀志山の地を選んだというのも非常に合理的な理由があってのことである。福島県中通り北部から宮城県に入ろうとする境界にこの阿津賀志山はあるが、ここはまさに天然の要害である。今でも、ここを通るJR東北本線、東北自動車道、国道4号線のすべての行く手を阻み、そのためこれらの鉄道、道路は阿津賀志山を大きく迂回し、その合間をそれこそ肩を寄せ合うように通り抜けているのである(ちなみに、JR東北新幹線だけは阿津賀志山の西にトンネルを掘り真っ直ぐ走っている)。まさにここを閉鎖されれば、鎌倉側の大軍がその先に進むことは極めて困難な、そのような場所なのである。

 これに対して、奥州最南端の白河の関があるところは、栃木県との県境付近であり、今も残っている関所跡の南には「峠の明神」が祭られてある県境の峠があるが、「天然の要害」と言えるような地形ではない。ただ登って下るだけの地形である。誰かが言っていたが、白河の関は「交通検問所」のようなもので、陸奥と坂東の境界線を示すという意味合いが強く、決して外的の進入を防ぐのに適した場所とは言えないのである。

 事実、関所跡を見ると、一応周囲は堀が廻らされているが、ここに籠って外敵を討つなどというのはほとんど不可能と思えるような代物で、奥州藤原氏やその前の安倍氏、清原氏が築いていた柵と言われる防衛拠点とは比ぶべくもない。特に、この時代には既に関所としての機能は失われていたようで、白河の関はまさに単なる境界線でしかなかったわけである。泰衡には、阿津賀志山にこそ防塁を築く積極的な理由があったわけである。

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2006年07月26日

東北の歴史ミステリーその9〜泰衡は本当に凡愚の将だったのか

yuda ユダと言えば、聖書によれば銀貨30枚で師イエスを裏切った男である。イエスはユダに裏切られて十字架にかけられ、その結果、ユダの名前は「裏切り者」の代名詞になった。

 ところが、1970年代にエジプトの砂漠で発見され、アメリカのナショナル・ジオグラフィック協会の支援プロジェクトが復元、解読に成功して今年4月に全容が公表された1700年前のパピルス文書「ユダの福音書」という文書には、その「常識」とはまったく異なる内容のことが書かれてあったという。

 それによれば、これまで「裏切り者」の代名詞だったユダこそ、実はイエスの一番弟子であり、イエスは自らの魂を「肉体の牢獄」から解放するために、ユダに指示して密告させたとも書かれているのだという(詳細は、ナショナル・ジオグラフィックの特集ページ)。今年4月以降、「ナショナル・ジオグラフィック 日本版 2006年 05月号」で特集が組まれたのを皮切りに(アマゾン該当ページ )、「ユダの福音書を追え」(アマゾン該当ページ )「原典 ユダの福音書」(写真参照アマゾン該当ページ )、「ビジュアル保存版 ユダの福音書」(アマゾン該当ページ )など、関連書が相次いで刊行されている。

 もちろん、そこに記載された内容が歴史的真実かどうかは分からない。しかし、今私たちが歴史を知ることができるのは、今に至るまで残された文書によってである。ところが、残された文書がすべて真実を語っているとは限らない。ひょっとしたら失われた文書の方に真実に近い内容が記載されていることもあるかもしれない。しかし、それはその文書が失われたままである限り、永遠に分からないことなのである。

 さて、泰衡がこれまで時代の流れも読めない暗愚な人物と捉えられたきたのは、実はよくよく考えてみると、鎌倉方の「公文書」である吾妻鏡の影響が大きい。吾妻鏡を読んでみると、泰衡という人物を徹底して矮小化して書いているように取れるのである。

 目に付く例を挙げてみよう。奥州藤原氏と源氏の事実上の決戦の場になった阿津賀志山(あつかしやま)で、自軍が大敗したことを聞いた泰衡は「周章度を失い、逃亡し奥方に赴く」とある。慌てふためいて逃げ出したと書いてあるわけである。

 平泉に戻った泰衡は、「縡急にして自宅の門前を融ると雖も、暫時逗留するに能わず」という状況だったという。頼朝の追撃に怯えて自分の屋敷にとどまることもできなかったそうである。まるでその場で見ていたような書きぶりであるが、当然頼朝軍はこの時まだ北上の途上だったわけであるから、本当にそうだったのか確たる証拠があるわけではない。

 北上する泰衡は数千の軍兵に囲まれ、「一旦の命害を遁れんが為、隠れること鼠の如く退ぞくこと雛に似たり」と評されている。一時の命惜しみのためにネズミのように隠れ、雛のように逃げたということである。泰衡の意図が本当にそうだったのかどうか分からないが、少なくとも鎌倉方はそのように見ていたわけである。

 吾妻鏡のこうした記載をそのまま受け取れば、泰衡は逃げ回るばかりの、将の器にない小心者というレッテルを貼られてしまうことになる。しかし、よくよく見てみると、今まで挙げた例はあくまでもその時の勝者の側から見た、極めて一面的な見方であると言うこともできる。さらに言えば、これらの記述は、必要以上に泰衡という人物を矮小化しているようにも思える。

 では、もし吾妻鏡の編者が泰衡ないし奥州藤原氏を必要以上に低く書いていたとして、その動機は何なのだろうか。普通に考えれば、奥州藤原氏は想像以上の難敵だったと書く方が、それに勝った鎌倉側の株もより上がりそうなものなのに、である。

 私は、その動機は鎌倉側の奥州藤原氏に対する強烈なライバル意識の故だったと考える。いずれ紹介することもあるだろうが、源氏と奥州藤原氏は、共に武家の棟梁の座を争っていた関係であったようである。しかも、文治五年奥州合戦で勝敗がつくまでは、三代百年にわたって奥州には覇を唱えてきた奥州藤原氏の方が源氏に先行していたと見ることもできる。平泉が「藤原王国」の「首都」として栄華を極めていた時、鎌倉はまだ都市づくりが始まったばかりの「発展途上の町」だったのである。事実、奥州から鎌倉に戻った後、頼朝は、もちろん奥州藤原氏の鎮魂の意味もあったのだろうが、平泉の二階大堂を模して鎌倉に永福寺(ようふくじ)を建立している。

 しかし、鎌倉側としては、そうした奥州藤原氏の態様を認めることは自らのプライドが許さない。武家の唯一の棟梁は鎌倉でなければならないからである。そこで、できる限り貶めて記載することによって、奥州藤原氏は武家の棟梁に相応しくない、武家の棟梁は唯一鎌倉だけであるということを強調したかったのではないか、と私は推測している。

 勝者が歴史を規定する時、当然自分たちにとって都合の悪い内容は削除、ないし黙殺するはずである。鎌倉方にとって都合の悪い内容とは、鎌倉に先行して奥州に武家政権があった、ということをおいて他にはないであろう。よって、仮に奥州藤原氏の政権がそうした性格を備えたものであった場合、これを徹底的に矮小化し、そうではなかったことにしてしまうということが考えられる。それは、鎌倉政権こそが初めてで唯一の武家政権であるということを主張したいがためのことだったのではないだろうか。

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2004年10月23日

私的東北論その4〜沖縄に負けない東北らしさを

424e93fc.JPG 私事で恐縮だが、私は歌うことが好きである。小中高と、校内で合唱祭、合唱コンクールなどがあると、クラスに一人はやけに張り切って人一倍大きな声で歌う生徒がいるが、それが私の昔の姿である。その私は、数年前県内の某大学の学園祭の折にカラオケ大会に出場し、何を間違ったか優勝してしまったことがある。その賞品として仙台―札幌の往復航空券をもらった。

 その往復航空券で冬にスキーに行ったが、その機内でアンケートに答えたところ、なんと今度は行き先自由の往復航空券が当たった。恐るべき勝負運というところだが、その往復航空券でどこに行くか考えて、北には行ったので、今度は南だろうということで沖縄にすることにした。私は歌うことと同じくらい自転車に乗ることが好きなので、沖縄を自転車で一周することにした。私が当たった航空会社の沖縄便は福島からしか出ていなかったので、福島県南部にある福島空港までは高速道路を使って車で移動した。

 初めて訪れる沖縄は、実に刺激的な地であった。沖縄の人たちは自分たちのアイデンティティをとても大切にしていると感じた。沖縄は1609年に島津氏に侵攻されて以来、島津氏の支配下にあった。1879年の琉球処分以後は、沖縄は強制的に日本の一部に組み入れられた。それでも沖縄の人たちは自分たちの自分たちらしさを失わず、悲劇の戦禍も乗り越えて現在を生きている。彼らの中には「自分たちは『うちなんちゅ』だ」という確固たるアイデンティティがあり、それが彼らの心の根っこの部分にある。そうした思いが沖縄という地の至るところから感じられ、それが私には刺激的だったのである。

 沖縄の文化・慣習・食などを目の当たりにしながら、東北はどうだろうと考えさせられた。東北も元はと言えば、大和朝廷の支配の外にあった「独立国」であった。朝廷に従わない者は蝦夷と言われて虐げられ、従った者は俘囚と呼ばれて蔑まれた。征夷大将軍坂上田村麻呂と蝦夷の族長アテルイとの激しい戦いの以後、岩手県内陸部の「奥六郡」と秋田県南部の「仙北三郡」以南は朝廷の支配下に置かれた。平安時代末期の1世紀にわたる奥州藤原氏三代の時代は、平泉文化が花開いた。京都の仏教文化を取り入れつつも、金色堂に代表されるような京都にもないものを作ろうという気概が感じられた。

 しかし、源頼朝による文治五年奥州合戦を経て「日本」に組み込まれた後は、単に私の不勉強かもしれないが目を瞠るような文化は見られないように思う。以降、今に至るまで、東北は日本の一部として同化することに専心してきたように見える。

 今、沖縄の文化に互角に対抗できるとすれば、東北ではやはり津軽だろうか。沖縄の三線と津軽三味線、島唄と津軽民謡、全島エイサー祭りと青森ねぶた祭…、こうして見るとがっぷり四つのいい勝負ができるかもしれない。

 沖縄からの帰りの飛行機、ふと窓の下を見ると首都圏の街並みが見えた。どこまでも広がる市街地、ビルの群れ、それらが霞んで見える空気、時々出張で訪れる街は上から見るとこのような街だったのだとわかった。人脈もあり情報もあり、仕事で行くにはとても貴重な街だが、自分が住むには大きすぎると思った。

 飛行機はそれから北に進路を変えてしばらく飛んで、夕方頃に福島空港の上空に差し掛かった。眼下には遥か先まで続く緑の森がオレンジ色の夕陽に照らされて、とてもまぶしく美しく見えた。ここが自分の住んでいる場所なのだと思うと、何か無性に嬉しかった。

 「東北には何もない」という声を住んでいる人から聞くことがある。何もないことはないのだと思う。その人が探しているものはないのかもしれない。でも、それを補って余りあるものが東北にはあると私は思う(写真は沖縄の喜屋武岬。沖縄戦では人々の血で海が赤く染まった、という)。

 ちなみに、私はその後抽選や懸賞の類には一切当たっていない。どうやら一生分の運を既に使い果たしてしまったようである(笑)。

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