東北地方太平洋沖地震  

2019年05月16日

「記憶の記録プロジェクト『田』」の5年間の活動〜私的東北論その118

v4ttGKdJJTJqx5i1557992092_1557992134 主に仙塩地区の医療介護福祉職の人たちによる任意の集まりである「夜考虫。」の中に、医療介護福祉関係の方々の震災に関する記憶を記録して発信するプロジェクトである「記憶の記録プロジェクト『田』」がある。私も4人いるそのメンバーの一人として活動を続けてきたが、早いもので2014年の活動開始から丸5年となった。
 これまで毎年、年度末に活動報告書を作成してきたが、今回は5年の区切りということで、これまでの5年間の活動報告書をまとめ、加筆などもしてみた。こうして振り返ってみると、本当にたくさんの人にお話を聞かせていただいたことを改めて実感する。その情報を埋もれさせることなく広く世に発信していくことが、聞かせていただいた者の責務だと思うので、今後も機会ある毎に震災に関する情報を伝え続けていくつもりである。

 まずは一区切りとしてこの5年間の活動報告書を公表すると共に、追ってこれまでお話を聞かせていただいた方々にも個別にお送りする予定である。これからの5年間に向けて今年も、できる範囲でではあるが、活動を続けていこうと思う。

 なお、活動報告書は上の画像をクリックしていただくか、ここをクリックしていただくと表示される(はずである)。

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2019年03月11日

震災から8年〜私的東北論その115

あの日から8年である。
8回目の3月11日は、朝から強い風と雨。
この8年で雨の日は初めてだろう。
あの日、地震に追い打ちをかけるように雪まで降ってきたことを思い出す。

8年経っても、この日だけはいつもと違う心持ちになる。
心の中が何となくざわついているような、何か胸に引っかかるものがあるような、何とも落ち着かない気分である。
その傾向は地震発生時刻の14時46分に向けて強くなるような気がするので、とても平気な顔して仕事を続ける気にもなれず、毎年この日は午後休みを取って、弟の最期の場所、仙台市の沿岸、荒浜に足を運んでいる。

WP_20190311_14_04_18_Rich_LI今年もまず、弟がいた若林区役所を訪れる。
献花場は、昨年から近くの若林区文化センターに移されたので、そちらに行って献花する。
会場では仙台市の追悼式も開催されようとしているところだったが、出る気にはならず、今年もあの日弟が通ったであろう道を自転車で一路荒浜に向かった。






WP_20190311_15_12_02_Rich_LI今年は雨風が強かったためか、例年より随分人は少なかったが、それでも旧浄土寺の慰霊碑の前や荒浜慈聖観音の前では、一心に手を合わせる人の姿があった。










WP_20190311_15_14_20_Rich_LI大津波でほとんどが倒れてしまった松林、少しずつ新たに植林が進んでいた。
何十年後か、またこの海沿いに見事な林が復活することだろう。









WP_20190311_15_17_21_Rich_LI防潮堤に登って見下ろすこの日の海は、強い風を受けて大きな波が打ち寄せていたが、はるか向こうで波しぶきが立っているだけで、あの日この防潮堤を易々と超えていった大津波とは比べるべくもない。









WP_20190311_15_52_51_Rich_LIこの地に大津波が押し寄せた15時54分に合わせて、今年も弟の遺体が見つかった南長沼に赴いて手を合わせる。
これで何がどうなるということでもないが、今や自分の中では毎年の恒例行事である。







WP_20190311_16_20_49_Rich_LI帰りに、霞目にある「浪分神社」に寄る。
江戸時代にこの地を襲った大津波が、ここで南北に分かれたと伝えられている。
つまり、過去の津波到達地点を示す神社であり、実際今回の地震でもこの神社の近くまで津波が押し寄せたが、この神社の津波に関わる伝承は残念ながら広く伝わってはいなかったそうである。
どんな教訓も、伝わらなければ意味がない。
今回の地震の教訓も、伝える努力を続けなければいけないと改めて思った。

WP_20190311_23_28_20_Rich_LIなどと振り返りながら、家に帰ってお気に入りのビールを飲む。
震災以来、この日はどんなイベントがあろうと、誰からお誘いがあろうと、家に帰ってあの日を思い起こしながら飲んでいる。
つまみは必ず、子どもの頃、弟とおやつに食べてたやきとりの缶詰である。
二人とも特に皮のついたところが大好きで、でもケンカせずに仲良く分け合って食べてたことを覚えている。
今年は昔二人の憧れだった大きな缶が手に入らなかったので、小さい缶を4段重ねである。

こうして飲み食いできるのも、生きていればこそ。今日生きていられることに感謝しつつ、もしまた明日が来てくれたなら、またいつもの一日を送りたいと思う。



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2018年03月11日

私的東北論その106〜震災から7年の仙台・荒浜

 今年も3月11日がやってきた。震災発生から7年。今年も新聞各紙が一面で伝え、NHK、民放各社とも特別番組を企画するなど、忘れずに取り上げてくれるのはありがたいことである。仙台の街中にいると、震災の爪跡を見つけることはもうほとんどないが、それでもやはりこの日だけは毎年、普段とは違った心持ちになる。

WP_20180311_14_02_07_Rich 今年も出発点は若林区役所である。今日は日曜日ということで閉庁日だったが、献花台は今年も設けられ、人がひっきりなしにやってきていた。ここでこうして手を合わせている人、一人ひとりにきっと失われた大切な命があったのだと思うと、改めてこの震災の大きさに思い至る。

 若林区役所を出て一路東に向かい、沿岸の荒浜を目指す。震災直後、「海岸で200〜300人の遺体が見つかる」などとショッキングに報じられた地区である。あの報道は実は誤報だったが、かなり後まで繰り返し報じられ続けた。

 あの日、津波からの避難を地区住民に呼び掛けるべく、弟が公用車に乗って辿ったであろう道を走る。今日は南東の風が強く、自転車がなかなか前に進まない。冬の時期、いつもは北西の強くて冷たい風が吹く。南東の風は春の風のはずだが、全く暖かさは感じない。冬の冷たさのままの風である。

WP_20180311_14_18_50_Rich 荒浜に行く途中、仙台市地下鉄東西線の東の終点、荒井駅に寄り道する。ここには2年前の2月、「せんだい3.11メモリアル交流館」が開設された。交流スぺ―ス、展示室などからなる施設で、震災やこの地域に関する各種情報を発信していくことを目的につくられた。昨年6月には来場者が10万人に達したとのことである。




WP_20180311_14_38_21_Rich 荒浜に向かう道は今年も渋滞していた。荒浜地区一帯は震災後、災害危険区域となり、人が住むことのできない地域となった。他の地域への移住を余儀なくされた元住民の人たちがこの日は皆、ここに集まってくる。今年も地区唯一の寺院、浄土寺ではこの地区で亡くなった人のための追悼法要が営まれた。また、海岸近くに立つ「荒浜慈聖観音」には今年も焼香所が設けられ、たくさんの人が焼香していた。


WP_20180311_14_42_54_Rich 防潮堤に登って海を見下ろす人、海岸に下りて海を見る人もたくさんいた。今日は風が強く、消波ブロックに打ち付ける波はいつもより高かった。しかし、あの日ここに押し寄せた大津波はこのようなものではなかった。震災前よりも高さが増した7.2mの高さの防潮堤すら超える、平野部を襲った津波としては世界最大級という、およそ10mの高さの津波。上空から撮影された映像はあるが、地上にいてあの日、その大津波がどのように見えたのか、ここでこうして海を見ていても想像することすら難しい。

 そして、午後2時46分。地震発生の時刻である。サイレンが鳴ったり、放送があったりしたわけではないが、手元の時計を見て海に向かって手を合わせた。他の人も皆、同じように手を合わせていた。

WP_20180311_15_24_05_Rich 地区にある仙台市立荒浜小学校。地区が災害危険区域に指定されたことで閉校となったが、震災遺構として保存されることになり、昨年4月から校舎内が開放されている。校舎の1階は被災当時の状態がそのまま残されている。2階にあるひしゃげたフェンスもそのままで津波の大きさと破壊力が想像できる。地震発生からここに避難した住民が救助されるまでの経過、荒浜地区の歴史や文化などがパネルなどで紹介されている。昨年末までの8カ月でおよそ6万人がここを訪れたとのことである。

 仙台平野の一部で延々と平地が広がるこの地域には、津波発生時に避難できる高台が存在しない。あの日大津波に遭遇した住民が避難できる場所はこの荒浜小学校のみであった。小学校の児童、地域住民ら約320名がここに避難して難を逃れたが、一方で192名が津波に飲まれて亡くなった。仙台市の沿岸はどこもこの荒浜地区のように高台が存在しない。そこで仙台市では津波避難施設を沿岸に13カ所整備した。いざという時にはそこに避難することができるようになった。この荒浜小学校も、津波避難施設を兼ねている。

WP_20180311_15_14_43_Pro 今年も荒浜小学校では、荒浜を拠点に「繋がりが失われた街に、もう一度笑顔や思いを共有するプロジェクト」である「HOPE FOR PROJECT」が、花の種を入れた風船を空に飛ばすイベントを行っていた。震災から7年が経って、このイベントもすっかり3月11日の荒浜の風物詩として定着した感がある。




WP_20180311_15_41_29_Rich 私にとっては、午後2時46分よりも午後3時54分の方が重要である。午後3時54分は、この地区に大津波が押し寄せた時刻である。この時刻については、弟と同様にこの地区で避難呼び掛けをしていた若林消防署荒浜航空分署の署員の方の証言で明らかになっている。この時刻に合わせて、南長沼に行ってみる。この地区の方々の遺体の大部分は、自衛隊や消防、警察による懸命の捜索の結果、ここで見つかった。決して2、300人もの遺体が震災当日に海岸で見つかったというような状況ではなかったのである。

 だいぶ埋め立てられて以前より小さくなってしまったが、それでもまだ水鳥が羽を休めるくらいのスペースはある。沼越しに望む海岸沿い、防風林として植えられていた松は、いまだ櫛の歯が欠けたような状態のままである。様々な団体が植林を続けているが、再生にはまだまだ時間が必要である。

 人口100万人を抱える大都市がこれだけの大津波に襲われた事例は、世界的に見ても稀だと思われる。この未曽有の災害から得た知見を発信することは、日本のみならず世界の都市防災にとっても大いに有意義なことである。その意味では、「せんだい3.11メモリアル交流館」や荒浜小学校を多くの人が訪れていることは、そうした情報発信がある程度うまくいっている一例と言えるのではないだろうか。9日には3回目となる「仙台防災未来フォーラム」も開催された。

 よく言われる「風化」をさせないために、こうした不断の情報発信に勝る方策はないと考える。もちろん、それは自治体やメディアがやればよいというのではなく、震災を経験した我々一人ひとりが考えていくべきことである。

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2017年08月02日

私的東北論その97〜「東北でよかった」(「東北復興」紙への寄稿原稿)

 「東北復興」紙、今年の5月16日に刊行された分で60号に達した。月刊なので足掛け5年ちょうどである。この間、ひと月も休まずに同紙を刊行し続けた砂越豊氏には心から敬意を評したい。5年を一区切りとして完結させる考えもあったようであるが、東北の復興が今に至っても道半ばであることもあって、さらに続ける決意を固められた。
 バックナンバーを見てみると、その時々で課題となっていたことが的確に取り上げられている。その意味で、同紙は東北の復興に関しての貴重な記録の一つである。今後の展開にも期待したい。
 さて、その記念すべき5周年、60回目の原稿は例のアレについてであった。以下がその全文である。


「東北でよかった」

「あっちの方だったからよかった」

 今村雅弘氏が復興大臣を辞任した。自身が所属する派閥のパーティーでの講演の中で、「また社会資本等の毀損も、いろんな勘定の仕方がございますが、25兆円という数字もあります。これはまだ東北でですね、あっちの方だったから良かった。これがもっと首都圏に近かったりすると、莫大なですね、甚大な被害があったというふうに思っております」と発言したことがきっかけとなった。

 恐らく、被災地が東北だったからこれくらいの被害額で済んだのであって、これが首都圏だったらこんなものでは済まないはずだ、ということを言いたかったのだろう。ただ、それにしても、「まだ東北で、あっちの方だったから良かった」はいかにも余計である。災害が起きたのがどこだったからよかった、どこだったらよくないということはない。どこであっても、災害が起きてよかったということはない。

 そして、もう一つ、「あっちの方」という言葉である。むしろ、この言葉の方に今村氏の東北に対するスタンスが表れているのではないかと思った。東北は「あっちの方」、つまり「こっち」じゃない。どこか遠いところ。自分のいる場所とは違うところ。東北に対するそのような今村氏の認識が感じられる。

 今村氏は、「総理からの御指示や内閣の基本方針を踏まえ、現場主義を徹底し、被災者に寄り添い、司令塔の役割を果たしつつ、被災地の復興に全力を尽くしてまいる決意であります」と就任時の記者会見で述べている。「被災者に寄り添って」と言うが、自分だけ被災者と違うところに身を置いていて、どうやって寄り添うつもりだったのだろう。

 前復興大臣が東北の復興に対して、全く無関心であったとは思わない。福島の企業を訪問した時にもらったアニメ柄のネクタイを、「風評対策を含めて、とにかく地元のいろいろ企業を元気にしようという思いで」締めてきたと語っているし、辞任の前日には岩手の三陸鉄道の「三鉄オーナー」にもなっている。ちなみにこれは、岩手県へのふるさと納税「ふるさと岩手応援寄付」で三陸鉄道への支援のために10万円以上寄付した人のことで、「オーナー」は今村氏が5人目であった。JR九州出身の同氏らしい復興支援と言えた。

 ただ、残念ながら、ご自分の発する言葉に対する感度がそれほど高くない方だったのかもしれない。講演後の記者とのやり取りでも、この発言の何が悪かったのか全く分かっていない様子であった。そこの感度は、今村氏の発言についてその後にすぐさま謝罪した安倍首相とは対照的であった。安倍首相は、「まず冒頭ですね、安倍内閣の今村復興大臣の講演の中におきまして、東北の方々を傷つける、極めて不適切な発言がございましたので、総理大臣としてまずもって、冒頭におわびをさせていただきたいと思う次第でございます」と述べた。恐らくその時点で、「この発言はかばい切れない」と思ったのだろう。


「東北でよかった」の劇的転換
 さて、そのような今村氏の「東北でよかった」発言とその後の辞表提出を受けて、私はfacebookに、「生まれ、育って、今も生活している場所が『東北でよかった』と、心底私は思ってます。前復興大臣も一度住んでみたらいいと思う。ホントいいところなんだから。(^▽^)」と投稿した。日が変わって4月26日の0時59分のことだった。普段、飲み食いした店の話や参加した会合の模様を発信するのがほとんどの私の投稿の中では、異例な感じの投稿だったが、お蔭様でいつもの倍以上の「いいね!」やたくさんのコメントをいただいた。

 私の友人も同様に、「僕は生まれたのが『東北で良かった』。音楽を学んだのも『東北で良かった』。僕の街もステキな街だし、死ぬまで東北に住んでいたいゼ。東北の田舎の人たちだから助け合えたし乗り越えられた。東北『が』良かったって言い間違えたんじゃないかな?まあ、関東の爺様の言うことにいちいち腹は立てない。この機会に、みんな東北一度は来て見て。」と投稿していた。

 一夜明けて、私のそのfacebookの投稿へのコメントで、ツイッターのハッシュタグで「#東北でよかった」がすごいことになっていることを教えてもらった。見てみるとそこには予想だにしなかった投稿が並んでいた。東北の美しい景色や美味しい食べ物の画像、心に残るエピソードなどが、「#東北でよかった」のハッシュタグと共に大量に投稿されていたのである。

 どうやら、最初のうちはやはりこの「#東北でよかった」のハッシュタグは、今村氏の発言を批判、非難するものばかりであったらしい。ところがその後、この「#東北でよかった」が、まさに「東北でよかった」という意味で投稿されるように変わり、その意味での投稿が圧倒的な数に上ったのである。なんという鮮やかかつ素敵な切り返しだろう。様々な画像に添えられていたメッセージも印象的なものが多かった。

「#東北でよかった 生まれた場所が」
「#東北でよかった ボクらのふるさとが」
「綺麗な景色 優しい人達 旨い飯…(酒…) 生まれた場所が #東北でよかった」
「私の大好きな、愛すべき地方が #東北でよかった」
「2008年から、震災を経て、2014年まで住んだ宮城・仙台は、私にとって第二の故郷。心から #東北で良かった」
「故郷を離れても忘れない。あの町で育ってよかった。#東北でよかった」
「生まれも育ちも、良かったと思える場所だよ。ご飯が美味しい、素朴な人々、のどかな景色。これだけで東北でよかった、なんだよ いいとこだよ、東北」
「震災後、東北に5回旅行しました。福島、宮城、山形、青森の地元の人たちはいつもあたたかくみんな親切で、東北に遊びに行って良かったなあと思っています。まだ訪れていない所へも旅しようと思います」
「初めて鉄道目的の旅行で、迷った時、優しいおばあちゃんに教えてもらいました。 あの時のことは忘れられない」
「かなしみも よろこびも すべてつつんでくれる #東北でよかった」
「みんな! #東北でよかった ってのは、こういうことを言うんだってことを教えてやろうぜ!」
「失言で終わらせないのは確かにいいな。というわけで、去年の仙台七夕。夏は東北各地で祭りが開催されます。おいでよ東北」
「このハッシュタグがいい意味で使われてトレンドに上がっているのが東北民としては嬉しい。」
「これぞ東北の心意気」
「生まれた場所が #東北でよかった こんなにも強い仲間がいる。おいでよしてる仲間がいる」
「#東北でよかった のタグが素敵な写真でいっぱいで、本当に東北は良いなと思いました」
「ひどい言葉を言われても、ひどい言葉で返さないで、何言ってんの、私たちの住む地の素晴らしさを知ってよって、みんなが笑う、そんな東北でよかった」

 東北に住む人、東北に縁のある人、東北に心を寄せてくれている人によるこれらの投稿、本当に素晴らしいとしか言いようがない。


復興大臣が今村氏でよかった
 そしてまた、これらの東北に関係する人たちによる投稿を見た人たちからも、好意的なコメントがものすごい数投稿されていた。曰く、

「なんて強くて綺麗なタグ…」
「このタグ、なんとなく見てみたら『東北本当にいいところだよ!東北に生まれて良かった!東北に行って良かった!』的なツイートで溢れてたから世界は本当に美しいなおい!ってなった」
「こういう失言を明るく変えていく流れ好きです」
「愛にあふれたタグになっていた」
「すてきな使い方になっていて涙が出た」
「さっそく #東北で良かった  という言葉の『良い東北を広げよう』としてるツイートを発見し、心打たれました…」
「みんな東北のハッシュタグが素敵な方に使ってていいなって思った」
「タグが素敵すぎる」
「不適切発言を裏返すこのタグには感動。震災を経験したからこその団結力」
「震災にも負けない人たちを見ることができた」
「このハッシュタグのお陰でほっこりした」
「美しい国。『よかった』って言葉はこう使うのだね。とても素敵な意味に変わってる、このハッシュタグ」
「ステキなタグになって本当に嬉しい 私  関西人だけど、さんさやはねこを踊った事があるんだわ」
「あぁなんて素敵なタグなんでしょう」
「なんだろうこのタグ…目から水滴が…」
「このタグ泣くよ… 東北は行ったことないけど絶対行きたい土地の一つ」
「変な意味を持ったタグを乗っ取ってオラが町自慢の幸せなタグに変えてしまう東北人の図々しさ大好き」
「失言が、#をつけたことで郷土愛に変わった。失言する人がいる一方で、その失言を『東北の魅力を発信するハッシュタグ』にして、東北を盛り上げよう、応援しようとする人もいる。そんな国でよかった。こんなに泣けるハッシュタグは初めて」

このように、「東北でよかった」という言葉が、発せられた時の意味を離れて、一夜のうちに本来の意味を取り戻したことに対する驚きと称賛の声が溢れていた。

 この「東北でよかった」、同時多発的に起こっているのが興味深い。私のfacebook投稿はこれらツイッターの投稿とは関係なく行ったものだし、友人のも恐らくそうだ。ツイッターだけではなく、インスタグラムでも同様に「#東北でよかった」のハッシュタグでの画像がものすごい数投稿されている。「東北でよかった」と思っている人がそれだけ多数いて、今村氏の発言が引き金となって、ネットに溢れ出たということだろう。

 「東北でよかった」が「東北においでよ」につながっている投稿の多さも特筆に値する。私の投稿も友人の投稿も東北に来てみることを勧めているし、多くのツイッターの投稿も東北の素晴らしい景色や美味しそうな料理の画像を投稿して「東北においでよ」と投稿しているものが多い。

 このように「東北でよかった」のハッシュタグで東北に来ることを勧めている東北人に対して、既に「おいでよ族」という称号(?)も与えられている。こんなツイートがあった。

「『東北で良かった』についた悲しいイメージを払拭するかのように、『#東北でよかった 』とタグ付けしてTLに流れる東北の生命力の強さを現す光景…… さすが、おいでよ族の民たち」

このツイートに対して、

「そう。我らはおいでよ族の民」

と返している人もいた。

 この「おいでよ」という投稿の多さこそ、東北に住んでいる実に多くの人が、自分たちの住んでいる土地に対して愛着を持っていること、誇りを持っていること、心底いいところだと思っていることの何よりの現れであると思う。それが夥しい数の「東北ってこんなにいいところなんだよ、とにかく一度おいでよ」という投稿になっているのである。

 最後に。今村氏のあの発言がなかったら、これら東北を巡る数多くの素晴らしい投稿もなかったわけである。誰も言わないが、私はあえて言おう。復興大臣が今村氏でよかった、と。


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2017年07月31日

私的東北論その96〜2回目の「仙台防災未来フォーラム」(「東北復興」紙への寄稿原稿)

 4月16日に発行された「東北復興」第59号では、昨年初開催された「仙台防災未来フォーラム」について取り上げた。この取り組み、ぜひ今後も毎年続けてほしいものである。以下がその全文である。


2回目の「仙台防災未来フォーラム」

「仙台防災未来フォーラム」とは
 3月12日、「仙台防災未来フォーラム2017」が開催された。昨年3月の第46号で取り上げたが、一昨年仙台で開催された国連防災世界会議をきっかけに昨年初開催された、地域における防災の取り組みを共有し、これからの防災について考えるためのフォーラムである。

 震災の発生から6年が経過した。この間の震災の経験や教訓を、地域を超えて、世代を超えて、どのように伝えていくかについては、多様な主体、媒体が手探りで様々な取り組みを続けている。そのような中で、この「仙台防災未来フォーラム」は、仙台市が主催し、震災経験の伝承や、地域防災の次代の担い手づくり、人々の多様性と防災といったさまざまなテーマについて、「伝える」ことの大切さや今後の課題について理解を深め、経験や教訓を世界へ、そして将来へどのように受け継いでいけばよいのかを考えるという趣旨で開催されている。

 一昨年の3月に開催された「第3回国連防災世界会議」には、世界185か国から6,500人以上が参加し、成果文書として「仙台防災枠組2015-2030」が採択された。「仙台」の名を冠するこの防災枠組は、防災に関わる新たな国際的な取り組みの指針で、期待される成果と目標、指導原則、優先行動、関係者の役割や国際協力等が規定されている。枠組の策定に当たっては、東日本大震災からの復興を目指すこれまでの取り組みを踏まえて、多様な主体の関与や防災・減災への投資、「より良い復興(Build Back Better)」の重要性などが日本から提案され、その考え方がこの枠組の中には取り入れられている。

 「仙台防災未来フォーラム」は、この国連防災世界会議の仙台開催から1周年となったのを機に昨年3月に開催され、今年が2回目である。仙台市では現在、子供から高齢者まで、性別や国籍の違い、障害の有無などによらず、地域のすべての関係者が自助・共助を担うという地域づくりを進められている。フォーラムは、そうした取り組みを踏まえ、防災の担い手たちが自分たちの取り組みを共有・継承することで、新たなネットワークを生み出し、未来の防災に貢献することが目的とされた。


「インクルーシブ防災」とは

 今回のフォーラムのテーマは「経験を伝える・共有する・継承する」で、6つのテーマセッション、ミニプレゼンテーション、連携シンポジウム、各種関連イベント等が開催された。6つのテーマセッションの一つは「インクルーシブ防災を目指した地域づくり」である。「インクルーシブ防災」とは、障害者や高齢者などを含む、あらゆる人の命を支える防災を目指していこうという考え方である。東日本大震災を機に防災・減災への関心は高まり、日頃からの備えと対策が必須だと言われているが、災害発生時の対応はまさに平時の取り組みの延長であるとされる。そしてまた、災害が発生した際の安心・安全の確保には、普段からの地域住民の相互理解とネットワークの構築が大切である。

 このセッションでは、そうしたことを踏まえて、「仙台防災枠組」に記載されたステークホルダーの役割を問いつつ、インクルーシブ防災をめざした地域づくりについて議論が行われた。その中で、立木茂雄氏(同志社大学社会学部)は、「災害時の当事者力イコール防災リテラシー」で、防災リテラシーは「理解×備え×とっさの行動」と指摘していた。そして、平時のケアプランから個別に災害時ケアプランを作成する『別府モデル』を構築しようとしている取り組みについて紹介した。山崎栄一氏(関西大学社会安全学部)は、法学の専門家の立場から、「インクルージョンとは、排除・除外のない状態」で、そこには「意図的な差別的取り扱い」以外に、「無配慮・無関心によるもの」もあるとした上で、各種の支援制度には、「支援」、「配慮」に「参画」を加えた三要素の連動が必要と指摘した。阿部一彦氏(東北福祉大学総合福祉学部)は、「障害による暮らしにくさは個人の問題でなく、多くは社会環境によって作り出される」と訴えた。

 コーディネーターの三浦剛氏(東北福祉大学総合福祉学部)は、「地域に住む住民を理解し、日頃からの関わりを通してどのような支援が必要か把握していくことが『我がこと・まるごと地域づくり』の推進につながる」とまとめたが、フロアから発言した熊谷信幹氏(柏木西部自治会防災担当)は、「『インクルーシブ』と言うが、そもそも障害者基準で防災システムを作るべき」と主張した。「誰でも年老いたら障害者」であり、「障害者は多数派」なのだから、「『障害者も交ぜてくれ』という話は筋違い」だという論旨で、フロアから拍手が起こっていた。

 他には「"地域のきずな"が生きる防災まちづくり〜仙台市の事例から学ぶ」というテーマセッションもあった。「持続可能な防災まちづくり」を進めていくために、日頃からの“顔の見える”人と人とのネットワークや地域コミュニティづくりがまず大切ということから、「日常的にまちづくり活動が活発で、それが防災の優れた取り組みにもつながっている」という事例を共有し、コミュニティーにおける地域防災の今後の活動や課題解決のヒントを考えるという趣旨のセッションであった。登壇した今野均氏(片平地区連合町内会)の「防災活動はまちづくりの一つ」という言葉に如実にそのことが表れていた。

 また、菅井茂氏(南材地区町内会連合会)は、「自分達のまちは自分達で守る。自分の命は自分で守る。そのために地域で顔の分かる関係の構築が大切」と訴えた。町内会として他の被災地に「押しかけ支援」としてできる範囲の支援・協力を行ってきたを続けてきた福住町町内会の菅原康雄氏は、その秘訣として「できることから始める」を挙げた。その上で、「自助・共助に加えて、自制(見返りを求めない)・他助が大事」として、「自助・共助で助かった命で他を助ける」ことの重要性も強調した。

 こうした発表について、佐藤健氏(東北大学災害科学国際研究所)は、「日常的なまちづくり、ひとづくり、きずなづくりの取り組みが防災力を高め、活動の持続可能性と次世代の人材育成という波及効果ももたらす」として、そこでは「ソーシャルサポート」と「コミュニティ・ソリューション」の2つがキーワードであるとした。


「多様な主体」による防災・減災
 フォーラムのまとめとして、「クロージング」が行われた。ここでは、それぞれのテーマセッションでの議論結果が報告されると共に、それを基に震災の経験や教訓などを伝えることについて、その大切さや課題について考え、多様な主体(マルチステークホルダー)による防災・減災の取り組みの今後の方向性などについて参加者で共有した。

 「ともに考える防災・減災の未来〜『私たちの仙台防災枠組講座』、『結プロジェクト』合同報告会〜」の保田真理氏(東北大学災害科学国際研究所)は、報告会の模様を紹介しつつ、「社会の構成員全てが共に考えることがレジリエントな社会をつくる」と述べた。「もしものそなえ SENDAIと世界のつながり〜伝えよう、共有しよう、継承しよう〜」の秋山慎太郎氏(JICA地球環境部)は、JICAの取り組みを伝えつつ、「伝えていく中で、伝えられる側、伝える側双方の学びが重要。それがもしもの備えにつながる」と指摘した。

 「震災から6年・教訓伝承と防災啓発の未来〜連携と発信の拠点づくりに向けて」と「次世代が語る/次世代と語る〜311震災伝承と防災〜」の武田真一氏(河北新報社防災・教育室)は、「震災だけでなく、地域の過去や未来、希望も併せて伝えることでさらに(震災のことを)伝えられる」と強調した。ミニプレゼン・展示ブースの小美野剛氏(JCC-DRR事務局)は、「教訓を未来の活動につなげる」ことの重要性に言及しつつ、「全ての活動は共感に基づく」こと、そしてこれからは「単なる支援から、新たな価値の創造への移行が必要」であることも併せて主張した。

 コメンテーターの松岡由季氏(国連国際防災戦略事務局)は、一連の発表を踏まえて、「『レジリエント』と『インクルーシブ』が仙台防災枠組のキーワード」であり、「社会全体が『レジリエント』であるためには『インクルーシブ』である必要がある」とまとめた。また、「伝承は人の命を救う力がある」とも述べた。もう一人の立花貴氏(公益社団法人MORIUMIUS)は、「防災は日常の延長線上」にあるとして、「地域の取り組みが有事にも機能」するとした。また、「単なる事実でなく、そこに込められた思いを伝える」ことが震災の伝承においては重要であるとも指摘した。

 会場では、「救州ラーメン」も販売された。東北の被災地での提供食数が10,000食超というプロジェクトで、博多ラーメンの老舗「秀ちゃんラーメン」によるラーメンの炊き出しを通じた復興支援である。また、仙台市内では2月から3月に掛けて、今回のフォーラムに関連して、様々な防災・減災・復興に関するイベントが開催された。まさに「多様な主体」による防災・減災の取り組みである。


六県連携でより幅広い発信を
 仙台市では、11月に「世界防災フォーラム/ IDRC 2017 in SENDAI」の開催が決定した。スイスのダボス2年に1回開催される防災の国際会議「国際災害・リスク会議」(IDRC)で発表されたもので、東北大学、仙台市が中心となって内外の防災関係者が集い、震災の教訓・知見の発信や議論を行いながら連携を強化する場として開催するもので、今年だけでなく、以降も隔年での開催が予定されているという。

 仙台防災未来フォーラムに加え、世界防災フォーラムも開催されることとなり、東日本大震災への対応、そこからの復興に関する情報発信を継続的に行っていく場が着々とつくられていることは実に喜ばしいことである。願わくは、これを仙台市だけの取り組みとするのではなく、宮城県内の他の市町村や東北の他の五県とも連携して、より幅広い情報を発信していってほしい。

 岩手県内の沿岸市町村の復興への動きは仙台市とはまた異なるし、福島県内の沿岸市町村は言うまでもなく原発事故による影響が加わってさらに複雑な課題への対応を余儀なくされている。あまり知られていないが、青森でも津波によって24平方キロメートルが浸水し、死者も出ている。直接の被害が軽微であった秋田・山形両県では、被災地のバックアップという点で重要な役割を果たしており、そこでの知見も大いに伝えられるべきである。せっかくの震災から得た知見を地域や世代を超えて発信していく場である。より多くの知見をより多様な視点から伝えるということに、今後はより力を入れていくべきであると考える。


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私的東北論その95〜震災から6年ということ(「東北復興」紙への寄稿原稿)

 だいぶ間が空いてしまい、その間、またしても「東北復興」紙に寄稿した記事の再録が滞ってしまっていた。以下は3月16日に刊行された「東北復興」紙第58号に寄稿した原稿の全文である。この時期はどうしてもやはりこの話題である。


震災から6年ということ

6年という歳月

 今年の3月11日で、東日本大震災の発災から丸6年になる。先日、同じ仙台市内に住む知り合いと打ち合わせの日程調整のやり取りをしていて、「3月11日は空いてますか」と聞かれた。その日は静かに故人に思いを馳せる日にしたいので、そのように返事したところ、「そう言えばそうでしたね」という答えが返ってきた。別にその人が無神経というわけではない。震災から6年という年月は、そのような時間だということである。

170310-025005 他人事ではない。私の左手首にはいつも水晶のブレスレットがある。震災で亡くした弟の遺体が地震発生からちょうど49日目に見つかって、これでようやく葬式をあげることができるとなった時に、手元に数珠がないことに気づいた。どれだけそれまで、死から縁遠い日常を送っていたのかと思ったが、ともあれ急いでお気に入りの石である水晶で数珠を作ってもらった。その時余った水晶の玉でブレスレットを作ってもらったのである。

 弟の死を忘れないように、そして、いつ死がやってくるか分からないということを忘れないようにという意図を込めて、その日以来、このブレスレットを肌身離さず身につけてきた。ところが、先日、温泉に行った時に、なんと脱衣所にこのブレスレットを忘れてきてしまった。すぐに思い出して取りに戻って事なきを得たが、我が身にしてそうである。そもそもこのブレスレット、震災から6年が経って、毎日身につけることは習慣になってはいても、これを見て死を意識するということは本当に少なくなってきているのを感じている。


3月11日に行われるイベント
 仙台市内では、2年前に開催された国連防災世界会議をきっかけに昨年開催された「仙台防災未来フォーラム」が、今年も3月12日(日)に仙台国際センターを会場に開催される。フォーラムでは、震災経験の伝承、地域防災の次代の担い手づくり、人々の多様性と防災などのさまざまなテーマから、「伝える」ことの大切さや今後の課題について理解を深め、経験や教訓を世界へ、そして将来へどのように受け継いでいけばよいのかを考えることとなっている。

 このフォーラムには今年も足を運ぶつもりで、恐らく来月のこの欄でその模様を紹介できると思うが、このフォーラムに伴って開催される関連イベントの中に、フォーラムの前日の11日に開催されるものがかなりある。もちろん、震災のその日に震災について考える趣旨のイベントを開催することを否定するものではないが、私としては追悼のための行事ならともかく、先に書いたように震災当日は静かに故人を偲ぶ日にしたいと思っているので、震災当日に開催されるこのようなイベントには、恐らく今年も、これからも、ずっと参加しないだろうなと思っている。

 来年は3月11日が日曜日となる。この「仙台防災未来フォーラム」も来年は3月11日に開催されてしまうのだろうか。願わくは、来年はどうか3月11日以外の別の日曜日の開催となることを。


「カレンダー記事」の功罪
 毎年この時期になると、新聞やテレビで東日本大震災関連の記事や特集番組が増える。このように定期的に報じられる新聞記事のことは「カレンダー記事」、「あれから何年もの」と呼ばれるようである。ジャーナリストの烏賀陽弘道氏や作家の相場英雄氏はこうした「カレンダー記事」を批判している。烏賀陽氏は、カレンダー記事はその日が来たら自動的に記事が発生するので記者の能動性を奪うものとし、「思索を深めるための記事がいつの間にか自己目的化」していると批判する。相場氏も、カレンダーに合わせた取材態勢が継続されることから、関連する報道が逆にその時期まで減ってしまうことを批判する。特に相場氏は「在京の大メディア」にその傾向が強いとして、逆に岩手、宮城、福島の地元紙、テレビのことは、「自らが震災の被害に遭っている上に、身内同然の同胞が苦しんでいる姿を、地元メディアは今も追っているのだ」と、その報道姿勢を高く評価している。

 確かに、岩手日報や河北新報、福島民報、福島民友などは、「カレンダー」によらず継続的に震災関連記事を配信している。ただ、必ずしも地元だけではなく、例えばNHKは「東日本大震災プロジェクト」を組んで、「明日へ つなげよう」を合言葉に6年前から変わらずに震災関連の番組を提供しているし、最近では朝日新聞も「てんでんこ」というタイトルで、東日本大震災を中心に「日本の『いま』と『これから』を見つめ直して」いくという趣旨の連載記事を毎日掲載している。

 考えてみれば、地震発生から6年が経って、多くの地域で復興はまだ道半ばという状況ではあっても、日常押し寄せるたくさんのニュースがそうした東北各地の状況の上に積み重なっていく現状では、自ずと震災関連のニュースは少なくなっていかざるを得ない。その意味では「自動的に記事が発生する」という「カレンダー記事」であっても、毎年定期的に震災のことを多くの人に思い出してもらえるきっかけにはなるのではないかと思う。


復興「てんでんこ」
 「てんでんこ」という言葉については以前この欄でも取り上げたことがあるが、元々は、「てんでんばらばらに」の意味で、地震が来たら一人ひとりが必死で逃げろという三陸沿岸に伝わる教訓である。震災から6年を迎えるに当たり、そこから一歩進めて、一人ひとり震災について考える、一人ひとりこれから先の生き方を考える、という意味での「てんでんこ」があるのではないだろうか。

 震災以後、一人ひとり置かれた状況は全く異なる。衣食住を取り巻く環境も全く違う。仙台市や宮城県岩沼市のように、仮設住宅が全てなくなった地域もあれば、岩手県の釜石市や大槌町、山田町、陸前高田市のようにいまだ3,000人前後の人が仮設住宅での暮らしを続けている地域もある。

 避難指示区域を抱える福島県の浜通り地域の町村では、避難指示区域が昨年9月時点で3分の2にまで減少しており、この春に飯舘村、川俣町、浪江町、富岡町にある地域が解除されればさらに避難指示区域は減少するが、解除イコール復興ではない現状がある。先日、浪江町に行ってきたが、そこで目にした「町おこしから町のこしへ」の文字は胸に突き刺さった。震災前はいかにして町おこしをするかを考えていた。ところが、震災後は「おこす」前にいかにして「のこす」かを考えなければいけない状況に置かれてしまったわけである。

 このように、当然地域によって状況が全く異なるわけで、そうすると当然そこに住む人の心持ちもそれぞれ異なる。その胸の内は、そこに住んでいるその人にしか分からない。十把一絡げにして、「被災地の復興は」などと語ることはもともと不可能なのだ。

 未曽有の大災害を経て、何かを参考にしてということも難しいし、この先どうしていくのがよいのかの答えが見えているわけでもない。だからこそ、「てんでんこ」なのである。一人ひとりがそれぞれ自分のこれからを考える。自分にとってどうなることが復興なのか、そのために今何をしていくのがよいのか。

 一人ひとり、目指すところは違っても、また歩み具合は違っても、少なくても目指すところに向かってちょっとずつでも歩いていれば、その積み重ねが復興になるのではないかと思う。もちろん、疲れたら休めばいい。道のりは長い。飛ばし過ぎれば息切れする。目の前にあることを、一つずつ、少しずつ、である。


忘れることと忘れてはいけないこと
 震災から時が経つにつれて、震災のことが忘れられてしまうことへの懸念がある。しかし、どんな出来事であっても記憶の風化、忘却からは免れ得ない。他地域の人のみならず震災を体験した人であっても、つらい体験をそのままの形で抱えてその先を生きていくことはしんどいことである。忘れることは人間の偉大な能力であるともいう。そう考えれば、冒頭に紹介した知り合いは、3月11日イコール震災という束縛を超えて、すっかり震災前の日常に戻れたのだ、と解釈することもできるかもしれない。

 ただ、忘れることはできても、なかったことにすることはできない。たくさんの人が亡くなったあの震災から得た教訓だけは、しっかりとこの地の次の世代に引き継いで、また他の地域の人にもしっかりと伝えて、二度と同じような被害が起きないようにしていかなければならない。

 その意味では、先に紹介した「仙台防災未来フォーラム」はとてもよい取り組みであると思うし、各地域における震災遺構の整備も本当に意義のあることであると思う。忘れられることを心配するより、本当に忘れてほしくないことを発信し続けること、それこそが大切なのであるに違いない。

 私としても、ここでこの時期にこのように書いていることが「『カレンダー記事』じゃないか」と言われないように、これからも震災のことは折に触れて発信し続けていきたいと思う。


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2017年03月12日

私的東北論その90〜6回目の3・11

DSCN0461 東日本大震災が起きてから6回目の3月11日である。今年もまず弟が勤めていた若林区役所に行ってみた。今年は土曜日ということで、区役所は閉庁していたが、向かいの若林区文化センターでは、今年も東日本大震災仙台市追悼式が行われていた。献花場もあったので、献花した。





DSCN0463 その後、今年も、あの日弟が通ったであろう道を自転車で走り、荒浜へと向かった。毎年思うのだが、なぜかこの日はいつも強い北西の風が吹いている印象がある。仙台東部道路の下をくぐってすぐの神屋敷地区に、荒浜地区唯一の寺院である浄土寺が移転して新築されているのを見た。毎年仮設の本堂で合同追悼法要が行われているが、今年はこの新しい本堂で行われたようである。



DSCN0464 さらに東に向かい、県道塩釜亘理線を越えて、荒浜地区に入る。浄土寺の仮本堂があった所には、この地域で亡くなったすべての人の名前が刻まれた慰霊碑がある。地域の住民、交番の警官、消防団の団員、高齢者施設の職員、そして弟の名前がある。そこに着いたのはちょうど地震が発生した午後2時46分だったが、この慰霊碑の前で浄土寺の住職が法要を行っていて、たくさんの人が手を合わせていた。弟の友人から声を掛けられた。「ヘルメットをかぶって自転車に乗ってここにいる人は、さてはお兄さんではないかと思ったらやはりそうでした」とのこと。「ずっと来たいと思っていたものの、いつも平日で休みが取れなかったが、今年は土曜日だったのでようやく来れました」と言っていただいた。

DSCN0465 仮本堂の近くから海岸を望む。海岸沿いにあった松林は津波によってほとんどがなぎ倒され、今も櫛の歯が欠けたような状況である。もとより、あの見事な松林がたかだか6年ほどの時間で元に戻るはずもない。しかし、植林作業は現在も続いている。いつかまたきっと、海岸沿いの豊かな林が戻ってくるはずである。




DSCN0476 さらに東に向かい、貞山堀を越えて、深沼海水浴場に至る。ここにも東日本大震災慰霊之塔があり、荒浜慈聖観音と名付けられた観音様が立っている。こちらでも追悼の法要が行われたようである。慰霊之塔の近くには、鐘のなるモニュメントが立っていた。犠牲者の鎮魂、追悼のために造られたという「荒浜記憶の鐘」である。ちょうど今日除幕式が行われたそうである。ここでもう一人、弟の友人に声を掛けられた。やはりヘルメットと自転車でひょっとして、と思ったそうである。この友人も、土曜日ということで来られたと言っていただいた。本当にありがたい限りである。





DSCN0471 海岸に足を向ける。震災後高さが積み増しされた防潮堤があり、この防潮堤を登らないと海の様子はまったく見えない。防潮堤のてっぺんに立ってみると、風は強いのに、波はおだやかだった。あの日猛り狂った海とは対極にある姿である。





DSCN0475 荒浜地区のあちこちには、「偽バス停」がある。県内の美術作家が制作したバス停のオブジェである。以前、確かにここに人が住んでいたということを語ってくれているようである。昨年12月には、この「偽バス停」を本物の仙台市営バスが走るツアーも企画された。

 荒浜地区は仙台平野の真っ只中にある。津波から逃げられる高台がどこにもない。あの日、地域の住民が唯一避難できた建物が、旧荒浜小学校である。ここの屋上に避難した人たちは津波の難を逃れた。

DSCN0477 その旧荒浜小学校では、今年も荒浜小学校の卒業生らでつくる「HOPE FOR project」が、花の種を入れた風船を荒浜を訪れた人と一緒に飛ばした。「繋がりが失われた街に、もう一度笑顔や思いを共有するプロジェクト」で、これまでにも様々な活動を行ってきている。





DSCN0484 荒浜小学校は、この地区が災害危険区域に指定され、住むことができなくなったため閉校したが、建物は震災遺構として、この地を襲った平野部としては世界最大級という津波の有様を伝える「生き証人」となった。そしてまた、津波の際の避難場所にもなり、車椅子用のスロープや屋上に行けるエレベーターなどが整備された。屋上の倉庫には災害時用備蓄物資も貯蔵されていた。今日は開放されており、階段を上って屋上に出ることができた。あの日、この場所から見えた光景を想像してみる。向こうに仙台の街並みも見える。向こうに見える風景とこちらの周囲の風景とはあまりに違う。

170311-154750 地上に降りてきて校舎を見上げると、背丈のはるか上、2階部分に津波の高さを示す表示がある。津波によって、海側にある2階のバルコニーの柵が津波によって折れ曲がり、バルコニーの壁の一部も倒されてしまっている様子が今も残る。





DSCN0480 普段、仙台の街中にいると、震災当時を思い出させるものはほとんどない。6年経って、震災を意識しながら過ごすことが本当に少なくなってきたのを感じる。しかし、この日だけは別である。普段と同じようにいるつもりでも、何となく心がざわざわと波立っているのが自分でも分かる。特に、地震が発生した午後2時46分から、この地を未曽有の大津波が襲った午後4時くらいまでの間は、6年経った今でも、焦燥感というのか、居ても立っても居られないような心持ちになる。






170311-154900 校舎の4階部分に時計があり、今も動いている。その時計が午後3時49分を指していた。この地を大津波が襲ったのは、近くにあった消防署の職員の方の証言によれば、午後3時54分。6年前のこの時刻、迫りくる津波の危険を感じながら、弟はここでどのような気持ちで避難を呼び掛けていたのだろうか。その時の弟の姿に思いを馳せる。

 そして、午後3時54分。目を疑うような10mもの高さのどす黒い水の塊を見た時の弟の気持ちはどうだったのだろうかと想像してみる。驚き、焦り、恐怖、悲しみ、絶望感…、様々な気持ちが一緒くたになって押し寄せたのだろうか。

170311-160926 震災から49日目に弟の遺体が見つかった南長沼に足を運んでみる。水鳥の群れがのんびり泳いでいた。手を合わせるのはこの日何度目だろう。







170311-161820 荒浜地区に隣接する笹屋敷地区では、津波避難タワーの建設が進んでいた。仙台市内に13か所設置される予定だそうである。造って終わり、ではなく、それぞれの家から津波避難タワーへの避難ルートの検討、津波避難タワーまでの避難を実際に行う訓練などが必要だろう。

 元来た道を自転車で戻る。この道を、弟は行ったきり、戻ってこれなかったんだよなと思いながら。いつもは途中で家に帰る道に曲がるのだが、今年はもう一度若林区役所まで戻ってみようと思った。もちろん、それで何がどうなるというものでもない。単なる思い付きである。

 若林区役所に着いた。隣接する養種園跡地は公園のような形に整備されているが、そこには犬の散歩をする人、ジョギングをする人、お母さんと手をつないで歩く小さな子、などの姿があり、何事もない日常の風景が広がっていた。ふと、弟はこういう風景を守りたかったのではないか、と思った。

170311-191822 命さえあれば何度でもやり直せる。しかし、命がなくなればそれですべてが終わりというものでもない。私の大好きだった青森県弘前市のカレー店、「カリ・マハラジャ」、3年前にご主人が急逝されたために、閉店してしまった。そのカレーを最近、奥様が通販限定で復活させた。そのお蔭で、あの絶品カレーをまた食べることができる。弟が遺したものの幾ばくかは、私も引き継がせてもらっているように思う。

 普段、震災について考えることも、弟について考えることも、ひと頃に比べると減ってきているように感じる。しかし、やはりこの日だけは全く違う。荒浜地区に足を運び、いわば「定点観察」しながら、震災について考え、弟のことを想う。これはきっとこれからも変わらない営みとなるような気がしている。


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2016年10月28日

私的東北論その88〜「未来会議」のアプローチ(「東北復興」紙への寄稿原稿)

 9月16日に刊行された「東北復興」第52号では、9月4日に開催された福島県いわき市の「未来会議」について取り上げた。この「未来会議」、詳しくは本文をご参照いただきたいが、とても得るところの多い会議であった。利害の異なる人も含めて、いろいろな立場の人が一堂に会して、それぞれの意見の隔たりを尊重しつつ、相互理解を模索するというアプローチである。私が座った席の隣には東電の副社長が座っていた。こうしたアプローチ、いわき市ならずとも有効なのではないかと思った。以下がその全文である。


「未来会議」のアプローチ

「未来会議」発足の経緯
160904-132330 9月4日に開催された「未来会議」に参加した。未来会議というのは、福島県いわき市で2013年に始まった、寛いだ雰囲気で誰もが参加できるワークショップ形式の対話の場である。

 震災と原発事故によって、いわき市はものすごく難しい立場に立った。地震と津波による紛れもない被災地でありながらも、福島県の浜通り地域最大の都市として福島第一原発の周辺自治体から2万人以上もの避難者を受け入れた。その一方で、被ばくへの不安からいわきから自主的に避難した市民もいた。原発周辺の避難者は東電からの賠償金を得たが、いわき市民は風評被害に悩まされつつその補償は何もなかった。そのような立場や考えの異なる人たちがいわき市の中には多くいて、互いに本音では話しづらい雰囲気があって、人々の間に分断と軋轢をもたらしていたのである。

 そうした中、2012年秋に、東日本大震災復興支援財団による子ども被災地支援法の聴き取り対話ワークショップが開催され、そこに参加した数名の有志によって、「未来会議」開催に向けての動きは始まった。「継続的な対話の場が、多くを抱えるこの地域には必要なのではないか?」「異なる価値観や違いはむしろ財産ではないか?」「対立ではなく一緒になって考えることが大切なのではないか?」「失敗してもいい!という雰囲気の中で互いを伸ばし合うことが、未来への種を育むことに繋がるのではないだろうか?」といった考えから、「多様な声に耳を傾け、自分に出来ることを考える時間をもちたい」ということで、未来会議のコンセプトが形成されてきた。

 そして2013年1月に、現在まで続く「未来会議」がスタートした。いわき市民はもちろん、双葉郡など原発周辺の自治体からいわきに来ている人、福島県内外の人、支援者としていわきに来ている人など、地域、年代関係なく様々な職業や立場の人が集まる場となっている。

「未来会議」の特徴
 こうした発足の経緯から、未来会議では「相手の意見を否定しない」「一つの結論を目指さない」をルールとしている。2014年1月に開催された会議では、子どもの被ばくに対する不安から給食の地産地消に反対する主婦と、風評被害に悩む農家が、同じくゲストとして会議の中で、それぞれの意見を表明していた。

 互いに主張しても、意見の相違は完全には解消できないかもしれない。しかし、違う立場の人が対等に出会う機会をつくることによって、そこにいる人々全てに気付きをもたらし、変化を促すことができると、未来会議では考えている。重要なのは対話することによって、目下の課題を可視化し、かつ価値観の多様性を互いに認め合うこと、互いの立場を尊重して批判はしないことであった。

 地域の課題や自分自身の考えを話し合うための場は元々そこにあるわけではない。だから、意図してつくる必要がある。未来会議はまさにそのような場として誕生したわけである。

 似たような名前の会議は東日本大震災の被災地を始め各地に存在するが、このいわきの未来会議はそれらとは一線を画したユニークな会議である。まず、各地の「未来会議」は行政主導で立ち上がったものが多いが、ここいわきの未来会議は、行政関係者も参加者として参加しているものの、立ち上げたのは地元の有志である。そして、未来会議は自らを次のように規定している。

 ,海両譴蓮⊃燭断鬚淵ャンバス。主体は参加する一人ひとり。ニュートラルな場として30年の継続開催を予定しています。
 現状や課題を、共有・可視化し、未来のために出来ることを創造的に話す場です。
 C楼茲力箸魃曚─∧‥腓慮充造鯊人佑平諭垢閥Δ紡え、様々な角度から考えます。
 ぅ錙璽ショップ対話手法を取り入れ、誰もが安心して参加出来る場を 目指しています。
 ヌね茲鬚弔るためのプラットホームとして、人と人、人と団体、団体と団体が出会い、ネットワークを形成するきっかけを提供します。
 ι發びあがってくるものをアーカイブとして残します。

 とりわけ印象に残ったのは、「30年の継続開催」である。こうした会が30年続く例はほとんどないのではないだろうか。しかし、未来を論ずる場であるこの未来会議では、半ば当然のこととして少なくとも30年は続けていこうと、発足当初から考えていたのである。

「未来会議」の手法
 9月4日の未来会議は13回目の開催とのことであった。100名を超える参加のあったこの日のテーマは「それぞれの、ふるさと」で、ふるさとというのは町という場所なのか、町を構成していた人なのか、それとも人を含めての場所なのか、そしてまた景色が変わってしまった町をふるさとと呼べるのか、といった観点から、人々のふるさとに対する想いについて取り上げた。

 まずゲストに作家の柳美里氏と勿来ひと・まち未来会議会長の室井潤氏を迎え、事務局で双葉郡未来会議主宰の平山勉氏が進行役となって行うトークがあり、その後広島修道大学の田坂逸朗氏がファシリテーターを務める対話ワークショップが行われた。今回は、話し合ってみたいふるさとのテーマについて参加者から13のテーマが出され、他の参加者は自分の関心があるテーマのところに集って対話を行った。

 震災関連のイベントは仙台など被災地各地でも各種開催されており、私自身何度か企画開催しているが、この未来会議、いろいろな工夫が随所に感じられ、とても勉強になった。このトークとワークの組み合わせは、聞くだけでも話すだけでもなく、インプットとアウトプットの両方があっていい形であると思った。

160904-143435 特筆すべきは、そのトークについてもワークについても、ファシリテーショングラフィックという手法を用いて、その専門家である玉有朋子氏が会場に貼り出された大きな紙にリアルタイムでヴィジュアルも交えてその要点を書き記していたことである。目で見て分かる議事録がその場でできているようなもので、参加者同士がそれを見ながら話すことで、さらに対話が進み、話が膨らむように感じられた。

 いわき市内や双葉郡など浜通り地域だけでなく、他地域からの参加が多いのも特徴的で、毎回ファシリテーターを務めている田坂氏は福岡、ファシリテーショングラフィックの玉有氏は徳島の方で、参加者についても私が話した範囲に限ってみても、群馬、埼玉、東京、神奈川、愛知、広島、熊本、沖縄の方がいた。仙台から参加した私はむしろ近い方であった。

「未来会議」の広がり
 他地域からの参加がこれだけ多くあるその求心力もすごいが、「30年の継続開催」を打ち出しているこの未来会議、そのためのいわば次の世代に引き継ぐことまでを視野に入れた取り組みも既に実施している。実際、この日の午前中には2回目となる「子ども審議会」が開催されており、小中高生と大人が一堂に会して対話を行っていた。

 未来会議から派生した企画も数多い。この子ども審議会の他、深夜のバーのような親密でゆったりとした雰囲気の中、のんびり飲み物を飲みながら一緒にゲストの話に耳を傾ける「MIRAI BAR」、双葉郡8町村固有の課題について話し合う「双葉郡未来会議」、子どもが一人でも来られる居場所として実施している「こども食堂*みらいのたね」、かつて地域に開かれた対話の場でもあった旧暦二十三日の下弦の月の月待講を復活させた「廿三夜講復活プロジェクト」など、活動はさらに広がりを見せている。

 未来会議終了後は、「夜の未来会議」と称する懇親会が行われた。「昼の未来会議」は13時から17時の4時間であったが、この「夜の未来会議」は18時から始まり、22時半で中締めとなったもののそこからさらに参加者相互の対話が続いており、夜の部の方が昼の部よりも長いわけである。未来会議の対話を重視する姿勢がここでも窺えた。

いわきの未来だけでなく
 この未来会議、当初は「いわき未来会議」と称していたが、いわきだけの未来を考えるというわけではないということから、名称から「いわき」を外して「未来会議」とい名称になったという。確かに、震災から先の未来を考えるために、いわき市内だけでも福島第一原発のある双葉郡だけでもなく、東北の太平洋沿岸の被災地のみならず全国各地から様々な人が集い、対話する、そのような場にこの未来会議はなりつつあるように見える。

 多様な背景を持った人と人とが出会い、それぞれが感じていることを共有し、お互いの立場や考えの違いからも気づきや学びを得る。そうしたアプローチの中から、一人ひとりが震災からの一歩を踏み出すきっかけをつかむ場、あるいは疲れた時にいつでも戻ってこれる場となる。未来会議が目指すこうした目的を実現するためには、確かにこの会議は一過性のものであってはならず、継続開催していくことが必須なのであろう。30年先の未来会議の「未来」がどのようなものになっているのか、ぜひ今後も注目していきたい。


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2016年05月26日

私的東北論その82〜「仙台防災枠組」を踏まえた防災対策を(「東北復興」紙への寄稿原稿)

 3月16日発行の「東北復興」第46号では、昨年仙台で開催された第3回国連防災世界会議で採択された「仙台防災枠組2015-2030」について取り上げた。2030年までの今後15年間の防災に関する行動指針となるものだが、せっかく仙台で開催されたにも関わらず、地元でもその内容を知っている人は少ないように見える。今後の防災を考える上で重要な視点を提示してくれているので、ぜひ多くの人に目を通していただきたいものである。

 以下がその時寄稿した記事の全文である。


「仙台防災枠組」を踏まえた防災対策を

5回目の「3・11」
 「3・11」と呼ばれるようになって5回目の3月11日がやってきた。「3・11」の前後は毎年、震災に関する新聞記事、特別番組、関連イベントが増える。それはそれで、震災への関心を喚起し、防災に対する意識を高める効果はあると言えるが、当然のことながら震災やそれを含む自然災害についてはこの日にだけ考えればそれで済むものではなく、年間を通して継続して考え、アクションを起こしていくことが重要である。

 後で紹介する「仙台防災枠組2015-2030」で指摘されているが、世界ではこの10年間に、災害の発生によって、70万人以上が死亡し、140万人以上が負傷し、約2,300万人が住む家を失い、15億人以上の人々がさまざまな形で災害の影響を受けた。経済的損失は合計で1兆3千億ドル以上にも上ったという。自然災害に対する防災・減災は不断の努力が必要である。東日本大震災を経験した私たちはとりわけ、その経験を踏まえた防災・減災対策について引き続き考えていく必要がある。

「仙台防災枠組2015-2030」の採択
 そうした中で昨年、ひと際重要なイベントが昨年4月、仙台市内で開催された。第3回国連防災世界会議である。本体会議に世界187カ国から6,500名超の関係者が、パブリック・フォーラムには行政、研究者だけでなく一般市民も多数足を運び、実に延べ15万人超の参加者が集った。参加国数やその各国の参加者数はもちろん、全体での参加者数が15万人にも上ったというのは、日本で開催された国連関係の国際会議の中でも史上最大級とのことである。このことは、「防災に対する国際社会の政治的なコミットメントを得て,防災の主流化を進める上で,大きな成果となった」と評価されている。特筆したいのは市民参加の多さで、未曽有の震災体験を踏まえ、防災に対する並々ならぬ意識の高さが窺える。

 この会議では「仙台防災枠組2015-2030」が採択された。国連防災世界会議は過去3回、いずれも日本で開催された。1994年に第1回会議が横浜で行われ、初の国際的な防災・減災の指針となる「より安全な世界に向けての横浜戦略」が策定された。第2回は阪神淡路大震災を経験した神戸で2005年に開催された。この時はさらに具体的な指針として「兵庫行動枠組2005-2015」が採択され、2015年までの10年間に防災・減災に関して各国が達成すべき目標と重点行動が設定された。

 第3回の仙台での会議ではこの「兵庫行動枠組2005-2015」をさらに発展させて、今後2030年までの15年間、各国の行動の指針となるもので、期待される成果とゴール、7つの「グローバルターゲット」、13の「指導原則」、4つの「優先行動」が設定された。

 期待される成果は、今後15年間で「人命・暮らし・健康と、個人・企業・コミュニティ・国の経済的・物理的・社会的・文化的・環境的資産に対する災害リスク及び損失を大幅に削減する」ことで、 この成果を実現させるためのゴールは「ハザードへの暴露と災害に対する脆弱性を予防・削減し、応急対応及び復旧への備えを強化し、もって強靭性を強化する、統合されかつ包摂的な、経済的・構造的・法律的・社会的・健康的・文化的・教育的・環境的・技術的・政治的・制度的な施策を通じて、新たな災害リスクを防止し、既存の災害リスクを削減する」こととされている。

 そしてその進捗状況の評価のために、「災害による死亡者数の2020年から2030年の平均値を2005年から2015年までの平均値に比して低くする」など7つの「グローバルターゲット」を設定し、また、枠組の実施に当たっての基本的な考え方を、「各国は災害リスクを防止し、削減する第一義的な責任を有する」など13にまとめて示している。

 4つの「優先行動」は、〆匈殴螢好の理解、∈匈殴螢好を管理する災害リスク・ガバナンスの強化、6靱性のための災害リスク削減への投資、じ果的な災害対応への備えの向上と、復旧・復興過程における「より良い復興(Build Back Better)」 で、そのそれぞれについて「国家レベル及び地方レベル」、「世界レベル及び地域レベル」での具体的な行動が示されている。

仙台・東北こそ「枠組」に基づいた対策を
 重要なのは、こうした各国の防災・減災に向けての行動指針に「仙台」の名が冠されていることである。既に参加国の中にはこの枠組に基づいて自国の防災・減災計画を策定する動きも出ているという。そうした国々の中には、この枠組にある「仙台」に対して関心を持つ人も出てくるに違いない。さらにその中には、実際にこの枠組が採択された仙台に実際に足を運んでみる人もいるに違いない。そうした時に採択された仙台を含む、震災からの復興を目指す東北で、この「仙台防災枠組」が知られていない、あるいは活用されていないという状況があったとしたら、かなり失望されるのではないだろうか。開催地、そして開催地のある地域として、私たちは、他の地域よりもさらにこの「仙台防災枠組2015-2030」に関して理解を深め、実際に行動に移していく責務があると思うのである。

 とは言え、外務省にある「仙台防災枠組2015-2030」の和訳、しかも仮訳を読んでも、それが行政レベルではともかく、私たち市民レベルでどう落とし込んでいけるのかという点については、必ずしも明確に記載されているとは言えない。「后ゥ好董璽ホルダーの役割」のところにわずかに記載があるくらいである。

「市民向け解説冊子」の発行
 と思っていたところに、実に素晴らしい冊子を防災・減災日本CSO-ネットワークが作成してくれた。「仙台防災枠組2015-2030」の市民向け解説冊子である。3月12日から配布を始めており、国連防災世界会議開催から1年になるのを機に仙台市内で開催された仙台防災未来フォーラム会場でも来場者に配布された他、みやぎ連携復興センター国際協力NGOセンターでも希望者に無料で配布している。また、PDF版は同ネットワークのサイトからダウンロードできる。

 A5判40ページの分量で、「仙台防災枠組2015-2030」にある、世界各国で今後2030年を目標に実践される防災・減災への取り組みについて、「市民としてどのように行動すべきか」に重点を置いて分かりやすく解説している。とりわけ、先ほど挙げた4つの「優先行動」について、それぞれ市民レベルで何ができるかを示した「市民の行動まとめ」が付されており、大いに参考になる。ぜひご一読をお薦めしたい。

 市民レベルという点で言えば、この解説冊子が配布された仙台防災未来フォーラムも実に有意義な企画であった。仙台および東北で復興や防災・減災に取り組んできた市民、行政、研究者などが一堂に会し、それぞれの活動事例を発表し合って情報交換・共有を図ると共に、国連防災世界会議で採択された「仙台防災枠組2015-2030」を踏まえて今後の活動の方向性や課題解決に向けた方策を検討するという内容であった。今回も行政関係者や研究者だけでなく、市民の参加も多く、依然防災に対する意識の高さが表れているように思った。できればこうした企画を今回限りのものにせず、年に一回程度開催して、市民が参加できて防災・減災について考える場を確保すると共に、そこで得られた知見を内外に発信するということを継続して行っていくことが重要なのではないだろうか。

国だけでなく個人も「レジリエンス」を
 仙台での国連防災世界会議では、災害に対する「レジリエンス」の強化を急ぐという決意も示された。「レジリエンス」というのは元々は物理学の用語で「外力による歪みを跳ね返す力」という意味であるが、災害関連では「回復力」の意味で使われる。つまり、「システムおよびその構成部分が重大なショックによる影響を適時かつ効率的に予測し、吸収し、対応し、あるいはそこから回復することが可能であること」である。

 なお、政府はレジリエンスを「強靭化」「強靭性」という意味で使っている。震災後に制定された国土強靭化基本法は、「必要な事前防災及び減災その他迅速な復旧復興に資する施策を総合的かつ計画的に実施する」ことを目的に制定されているが、これは災害に対するレジリエンスの強化を目的としたものである。

 ところでこの「レジリエンス」、心理学の分野では「しなやかで折れない心」「逆境から立ち直る力」といった精神的な回復力の意味で使われている。考えてみれば、災害からの復興には社会システムのレジリエンスももちろん必要であるが、それ以上に個人レベルでのこの心理学で言うところのレジリエンスが求められるのではないだろうか。なんとなればその社会を構成するのは紛れもなく、一人ひとりの個人だからである。

 ハードの整備から心のケアへと震災復興における重点事項もその軸足を少しずつ移しつつあるように見える。その重要なキーワードとしてレジリエンスはあるのではないかと思う。

 繰り返し自然災害に襲われ、その度に立ち上がってきた私たちの先人たちはきっと、強いレジリエンスを持っていたに違いない。震災発生から5年目を迎え、今度レジリエンスを発揮するのは私たちの番である。


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2016年04月16日

熊本地震を受けて〜私的東北論その80

 「平成28年熊本地震」と名付けられた4月14日の地震は、直下型地震だったためにM6.5と規模はそれほど大きくなかったにも関わらず、最大震度が7という、最近では東日本大震災を引き起こした東北地方太平洋沖地震以来の大きな揺れを引き起こした。改めて直下型地震の恐ろしさを知った。

 もう二度と地震で人が亡くなるのは見たくないと思ったが、今回の地震でも残念ながら9名の方が亡くなった。本当に心が痛む。ご冥福をお祈りしたい。

 テレビで報じられる映像を見ても、他人事とは思えない。居ても立っても居られないような気持ちになる。何か伝えられることはないか考えて、思いつくままに取り急ぎまとめてみる。後から思いついたことは随時追記していく。


熊本の被災地の方に伝えたいこと

 夜間に起きた非常に大きな揺れ、度重なる余震、気の休まる間もない状況だろうとお察しします。本当に心が痛くなります。気象庁が余震について解説しています(参照サイト)。これを見ると、余震は1週間から10日は続くとあります。今回の地震は殊の外余震が多いようですので、くれぐれも気を付けてください。

 特に気を付けていただきたいのは、「ため池」です。何のことかと思われるかもしれません。東日本大震災において、津波の被害の甚大さの陰に隠れてあまり知られていませんが、福島県でため池が3か所決壊しました。このうち藤沼湖の決壊では、ため池の大量の水が濁流となって下流の集落を襲い、死者・行方不明者8名という被害が発生しました。

 全国にため池はおよそ21万か所あり、そのうち7割が江戸時代事前に築造されているそうです。熊本県内にも2,158か所のため池があります。これまでの本震と余震によって、かなりのダメージを受けているため池もあるかもしれません。これらのため池の近くには決して近寄らないように特に気を付けてください。
ため池については、農林水産省のページが詳しいです(参照サイト)。

 私は、主に介護・福祉関係者の方に震災に関する話を聴く活動を行っています。その中で必ず尋ねるのが、「他地域の人、この地域のこれからの人に一番伝えたいことは何か」ということです。

 その中で挙がったいくつかの声を以下に示します。

・情報を得てください(ラジオは用意して)。
・助けが来るまでの助けはご近所。
・どんなときでも協力は強力!!助け合って!!
・とにかく生き残る努力を。
・本当に困っている人は支援がほしいと言えない。
・今後のために正しい情報を集めて残しておくことが必要。
・災害は単独では来ない。人災もあるということをしっかり頭に入れて対応を。情報が来ない、ガセ情報が来るのも人災。天災はしょうがないが、大きな災害に並行していろいろな不備が災いを大きくする。 ・人間には敵わないものがある。でも、生きてさえいれば何とかなる。
・震災はきついけれど、試練を与えられたと思って、前向きにプラスに考えたい。
・震災はつらい出来事だけど、それを乗り越えたからこそ、素晴らしい出会いがあり、人と人との絆が深まったと思う。
・震災で人の心の温かさを感じた。どんな人にも役割があって生かされている。無駄な体験は一つもない。感謝して命を大切に生きたい。

 発生したばかりで、現状を受け入れる心の余裕もないかもしれません。避難所に避難している人は、環境の大きな変化に体調を崩したりすることもあるかもしれません。でも、震災からの復興は「長期戦」です。とにかく栄養と休養をしっかり取って、家族、友人・知人とつながりを保ちつつ、できることを少しずつ、一つずつ積み重ねていってみていただけたらと思います。

(2016.4.16追記)
 この記事を書いている間に、さらに大きな地震が起こって、さらに多くの方が亡くなってしまいました。なぜそれを書かないでしまったのだろうと思います。その可能性についても頭の中にはあったのに、書かないでしまいました。書いても時間的には間に合わなかったわけですが…。

 東日本大震災で、私たちも実は同じ経験をしていました。あの3月11日のM9.0の地震の2日前の3月9日に、M7.3の大きな地震を経験していました。その2日後の大きな地震ですっかりそのことは忘れられてしまっていますが、確かに、「大きな地震があったから、後は余震だ」ということばかりでなく、それがその後に来る本震の前震ということもあるのでした。

 報道では、気象庁は16日午前の記者会見で、熊本、阿蘇、大分へと震源が移動して地震が起きていることについて、「広域的に続けて起きるようなことは思い浮かばない」と話していますが、これは見方を変えれば、東日本大震災で起こったことが時間をかけて起こっていると見ることもできます。東日本大震災では、5分前後の間に3つの震源で地震が起きました。まず宮城県沖の震源で地震が発生し、それに続いて宮城県のさらに沖合で地震が発生し、さらに茨城県北部沖でも地震が発生し、それらが複合して巨大な地震になったとされています。今回はそれが5分ではなく数日という単位で起こっているという見方もできるのではないでしょうか。
 
 とすると、先の文章で「余震は1週間から10日続く」という気象庁の解説を紹介しましたが、もっと長いスパンで備える必要があると思います。東日本大震災では、2011年3月11日の本震の27日後の4月7日に、M7.2の極めて大きな余震を経験しました。その4日後の4月11日にもM7.0の地震がありました。これらの地震でそれぞれ4名の方が亡くなっています。地震から4か月後の7月10日にM7.3、翌年2012年の12月7日にM7.3、2年後の2013年10月26日にもM7.1の余震があり、2012年の地震で1名の方が亡くなっています。

 くれぐれも用心してください。ひょっとしたら、今回の地震も本震でないかもしれない、という前提で。また、もし今回の地震が本震であったとしても、本震がM7.3ということは、余震は14日の地震と同じクラスのものが来る可能性が大いにあります。山の斜面に近い建物、瓦屋根の建物、1981年以前に建てられた建物、そしてブロック塀には決して近づかないでください。

 ブロック塀は、鉄筋が入っていない塀が多数崩壊しているのを見てショックを受けました。私が子供の頃体験した1978年の宮城県沖地震の時は28名の方が亡くなりましたが、うち18名が鉄筋の入っていないブロック塀の下敷きとなって亡くなりました。それ以来、ブロック塀には必ず鉄筋を入れることになったはずなのですが、それ以前に作られたのか、いまだそうでない塀が多く存在しているのですね。

 瓦屋根の建物は台風には強いですが、建物上部が重くなる分、地震には極めて弱いです。1981年は1978年の宮城県沖地震で建物倒壊が相次いだことを受けて、建築基準法が改正されて耐震基準が強化された年です。この年から建物を建てる際に、「震度6強から7程度の大規模地震でも倒壊は免れる」ことが義務づけられていますので、この年以降に建てられた建物であれば、もちろん100%とは言えませんが、倒壊で命を落とすような事態はある程度避けられると思います。

(2016.4.19追記)
 Googleが「災害情報マップ」で「熊本地震リソースマップ」を公開し始めました。「スーパー営業情報」、「炊き出し&支援物資集積地点」、「給水所」、「給油可能ガソリンスタンド」、「営業中の銭湯・温泉」、「利用可能トイレ」、「自動車通行実績マップ」を地図上で確認することができます(右上の「レイヤ」をクリックして欲しい情報の項目にチェックを入れます)。

(2016.5.2追記)
 1981年以降に建てた建物は「震度6強から7程度の大規模地震でも倒壊は免れる」ことが義務づけられていると書きました。ところが、その後の調査では1981年以降の建物でも倒壊した建物があったとのことです。その理由として、建築基準法では震度7の地震が2度来ることは想定しておらず、1回目(4/14)の地震で倒壊はしなかったもののダメージを受けた建物が2回目(4/16)の地震で耐え切れず倒壊したということが考えられます。そしてさらに、「地震地域係数Z」の欠陥が指摘されています(参照サイト)。

 建物を新築する場合、建築基準法が定める「新耐震基準」に従って耐震設計を行います。この時、地震によって建物に作用する「地震力」を、「地震力」=「地震地域係数Z」×「標準地震力」という式で計算します。「標準地震力」というのは、「震度6強から弱い震度7程度の地震力」を意味します。問題の「地域地震係数Z」はその名の通り、地域によって異なる係数となります。地域係数Zが「1.0」であれば作用する地震力は「震度6強〜弱い震度7の地震力」、地域係数Zが「1.2」であれば作用する地震力は「一般的な震度7の地震力」、地域係数Zが「0.8」であれば作用する地震力は「弱い震度6強の地震力」になるとされます。つまり、同じように「新耐震基準」に従って耐震設計を行っても、地域によってその強度には差が出るということです。
 今回地震のあった熊本では、最初に設定された「地域地震係数Z」は0.8、その後2度ほど改訂されていますが、最新の2007年版でも熊本は0.8と0.9となっています。つまり、「新耐震基準」の建物でも、熊本の建物は震度7の地震には耐えられない可能性があったわけです。今回のような地震を経験すると、「地震地域係数Z」は有害無益であると言えます。参照サイトの記事によると、耐震強度を1.5倍にしてもそれによるコスト増は3〜5%程度であることが紹介されています。

 ともあれ、1981年以降に建てられた建物でも、「危険」と判定された建物には決して近づかないでいただきたいと思います。


東北を含む他地域の方に伝えたいこと

 政府の地震調査研究推進本部が長期評価結果一覧を公表しています(参照サイト)。これを参考に、自分の住んでいる地域でどのような地震が起こり得るのか、把握しましょう。ただし、この中の発生確率にはあまり左右されないようにしてください。低くても決して安心してはいけません。阪神淡路大震災の発生直前の同地域の地震の30年以内の発生確率は0.02〜8%でした。今回の平成28年熊本地震は布田川断層帯、日奈久断層帯が動いて起きたのではないかという見解が既に出ていますが、これらの30年以内の地震発生確率も、布田川断層帯で最大でもほぼ0〜0.9%、日奈久断層帯で最大でもほぼ0%〜16%でした。仮に自分の地域がほぼ0%であっても決して油断してはならないことが分かります。次にどこで大きな地震が起こるかを予測することは、現在のところほぼ不可能です。いざという時のための備えを進めましょう。

 今回の地震の被災者へのマスメディアによるインタビューで「え?」と思ったことがありました。「家具が倒れてきて…」という話が多いです。家具転倒防止対策をしていない家も多かったのかもしれません。これは必須です。ホームセンターに行けば家具転倒防止用品がいろいろ売っています。倒れてくると危険な大きな家具にはこれを使うようにしましょう。L字型金具が最も効果が大きいとされますが、壁や家具にねじ止めするのが難しい場合もあります。L字金具に比べると効果が低いとされるストッパー式、マット式、ポール式も、複数組み合わせることで効果を高めることができます。総務省消防庁は「地震による家具の転倒を防ぐには」を公開していて参考になります(参照サイト)。

 今回、家屋の倒壊が相次ぎましたが、建物の耐震補強工事は金銭的な面でなかなか進まないという現実もあります。それでも、屋内に耐震シェルターを設置するという方法もあります。費用は20万円から可能だそうで、仮に住宅が倒壊してもこの中にいれば守られるとのことです。東京都の耐震ポータルサイトに詳しい説明があります(参照サイト)。

 支援物資を送らなければと考えている人も多いと思います。その前に認定NPO法人レスキューストックヤードのサイトを見てみていただきたいと思います。「支援物資等を提供する」にある「物資による支援をする前に」は参考になります。(参照サイト)。以下のようなことが書かれています。

1. ものが不足するのは、ものが無いからではない

 災害で直ちにものがなくなることはなく、交通やライフラインが断たれて一時的に品不足が起こるだけ。供給ルートが立ち直ればすぐに大量の物資が被災地に届く。逆に被災地内外のルートが寸断されている限り、個人で物資を送っても被災者には届かない。

2. 届いた時には必要とする物が変わっている

 TVや新聞で足りないものを知ってそれから物資を送っても、被災地に届くまでに数日かかる。その間に被災地で必要なものは変わってしまい、受け取り手がいなくなった物資は、被災地で不良在庫になる。

3. 個人の物資支援はむずかしい

 個人で送れる物資は、量も質もバラバラ。同じ箱に衣類や学用品や食料をまとめて詰め込んだものは特に面倒。開封して仕分けないと配布も出来ないが、災害時にそんな人手はない。被災自治体は職員が総動員で被害の確認や避難所の運営に当たっているが、こうした人たちに一層の負担を強いることになり、結果的には有効に配布できないまま終わってしまうことになる。

4. 保管も処分もお金がかかる

 物資には保管料もかかる。最後の最後まで余った物資は廃棄処分することになるが、阪神・淡路のある自治体では物資の処分に2,300万円かかったとのこと。被災者の税金を使って処分しているのだから、こうなるともはや二次災害。

5. 「まだ使える」ものと、「これなら使いたい」もの

 自分のタンスにあるもので「まだ着られる」と思う衣類と、フリーマーケットで「これなら着てみたい」と思う古着、品質にずいぶん差がある。「まだ使える」中古品を被災地に送って、そのぶん自分が新品を買うのなら、はじめから新品を買えるお金を被災地に送った方がいい。救援物資は在庫処分ではない。

6. 送るときに注意したいもの

 古着は避け、なるべく新品を送る。食料では、生鮮品は腐り、保存食なら自治体に備蓄があったり、企業から提供があったりする

7. ものは金に替える

 ものを被災地に役立てたいのなら、フリーマーケットなどに出品して、お金に替えてしまうのも手。売り上げた金額は少ないかもしれないが、宅急便一箱送るのにもけっこうお金がかかる。その送料分を上乗せして被災地に送れば、それなりの金額になる。

8. それでもものを送る場合

 被災地支援をしているNGO/NPOやボランティアグループが物資の募集をしていることがある。これまでの経験を踏まえて、あらかじめ品目を絞ったり、被災地の外で仕分けをして被災地に届けるしくみを考えたりしている。いきなり被災地に届けるよりは多少は有効に使ってもらえる可能性が高い。

 救援物資が「二次災害」にもなり得るというのですから、よくよく考えなくてはなりません。このように見てくると、支援はモノよりお金の方がよいということが分かります。では、そのお金をどのように被災地に届ければいいのかということになります。

 すぐに思いつくのは、日本赤十字社などへの義援金です。「義援金」は被災者に配分されるお金です。今回の地震の義援金の受け付けも始まりました(参照サイト)。もう一つ、「支援金」というものがあります。被災者への配分ではなく、被災地で活動している専門性の高い緊急支援団体への支援として使われるのが「支援金」です。寄付サイト「GiveOne」のスタッフブログに詳しい説明があります(参照サイト)。

 熊本地域の被災者の方々に向けてそれぞれできる支援を行っていくと共に、自分自身の周囲を見回してみて、今ここで地震が来たら、という想定をしてみて、対応が不十分と思われるような箇所については、速やかにそれを補う取り組みを進めていく必要があると思います。

(2016.4.18追記)
 木楽社が、出版している「災害支援手帖」を、熊本地震を受けてWeb上で限定公開しています(参照サイト)。これは本当に素晴らしい判断です。英断です。熊本地震で支援を行いたいと考える人たちにとって、参考になる内容が本当にたくさん盛り込まれています。「支援はモノではなくお金で」という見解を紹介しましたが、それでもどうしてもモノを送りたい!という人はぜひ、この書籍の第2章「モノで支援しよう!」は最低限読んでから、行動を起こしていただければと思います。

(2016.4.19追記)
 旭川医科大学病院緩和ケア診療部の阿部泰之先生が東日本大震災の折に書かれた「災害時の『こころのケア』」という文章があります。東日本大震災の時にも「心のケア」の必要性が叫ばれ、いろいろな個人、団体が被災地にやって来ましたが、中には有効どころか有害と思われるものもあったという話を聞いています。ひょっとしたら「釈迦に説法」かもしれませんが、熊本で「心のケア」に当たる方々にはぜひご一読いただきたいです。

(2016.4.21追記)
 昨年、仙台で国連防災世界会議が開催されましたが、そこで採択された今後15年間の防災に関する国際的なガイドラインが「仙台防災枠組2015-2030」です。防災・減災日本CSOネットワーク(JCC-DRR)は、国連加盟国向けのこの文書を市民向けに解説した冊子「市民のための仙台防災枠組2015-2030」を作成し、配布しています。冊子の中では仙台防災枠組に盛り込まれた項目について、市民の立場からどのような取り組みが必要かについてもまとめられていて、身の回りの防災について考える上で役立ちます。防災に関する具体的なアクションについては、東京都がまとめ、全戸に配布した「東京防災」が大いに参考になります。

 災害発生時に対応に当たる責任ある立場の自治体職員の方々には、「東日本大震災の実体験に基づく災害初動期指揮心得」をぜひ読んでおいてほしいです。東日本大震災の折に東北地方整備局が行った災害対応の経験知を他の地方整備局向けにまとめたいわば内部資料ですが、Kindle版を無償公開してくれています。実際の体験に基づく心得はとても説得力があります。また、あまりマスメディアでは取り上げられなかった方々の奮闘ぶりを知る上でもとても有益です。


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2016年03月12日

私的東北論その78〜5回目の「3・11」

昨日は、この日が「3・11」と呼ばれるようになって5回目の日だった。

160311-083429震災に関して言えば、別にこの日だけが特別な日というわけじゃなく、一年365日毎日が復興に向けた大切な一日一日だと思っているのだが、それでもやはり、5年が経っても、この日だけはいつもと比べてほんの少し、心の中がざわざわとさざ波を立てているのを感じるのである。

通勤途中のとあるタクシー会社は弔旗を掲げていた。





160311-085518職場から見える仙台の街中の風景は既に震災前と変わりなく、復興特需を一身に集めて一人勝ち状態と見られることもしばしばであるが、ひとたび仙台市のその沿岸に足を運んでみると、目の前の風景と彼方に見える市街地の風景とのあまりのギャップに愕然とする。
写真にははっきり写っていないが、津波で根こそぎ倒された沿岸の防風林は、懸命に植樹作業がされているものの、いまだ櫛の歯が欠けたような状態である。



160311-091004地元紙「河北新報」の一面は見開きに広げるようになっていて、見出しには「あすへ歩む あの日胸に」とあった。








160311-140406今年も午後は休みを取って、その沿岸に足を運んだ。
途中、若林区役所にある献花台には、多くの花が供えられていた。
この花の数だけ、ここに足を運んで祈りを捧げた人がいるのだと思うと、改めてこの震災がもたらした悲しみの多さに思いが至る。






160311-143329沿岸の荒浜では、地区唯一の寺院、浄土寺で今年も追悼法要が営まれていて、たくさんの人が手を合わせていた。
震災直後、「海岸に200人〜300人の遺体」との衝撃的な報道がされたここ荒浜。
その報道は実は誤報であったが、随分後まで真実と思われていた。
実際には、ここで亡くなった方は173名、遺体が見つかったのも震災直後ではなくその後の捜索の結果であったし、見つかった場所も海岸などではなくほとんどがより内陸の南長沼周辺であった。


160311-144412ここの防潮堤工事は昨年末に終わり、自由に海岸に足を運べるようになった。
この日の海は、時折波しぶきが消波ブロックに打ちつけていたものの、概ね穏やかで5年前に10mの津波が押し寄せたことなど想像もできない。






160311-145201その防潮堤、従来のものにさらに上乗せされたことが見て取れる。









160311-145432海岸に近い一画には、震災前後の荒浜の写真が数多く掲示されていた。
震災前の人々の生活の営みが窺える写真と、震災後の同じ地区とは思えない荒涼とした景色の写真。
この地区の人々の暮らしを一瞬にして奪った大津波の脅威を今さらながらに感じた。





160311-152134震災直後、助かった人が避難した荒浜小学校では、今年もHOPE FOR projectが、土に還るエコバルーンに花の種を入れてリリースした。
飛んで行った花の種がどこかで花を咲かせることを想像すること、それもまさにHOPEである。






160311-232814夜は、お気に入りのビールを飲んだ。
肴は、子どもの頃、弟と一緒によく食べたやきとりの缶詰である。
この日だけは奮発して大きなサイズのものである。



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2015年12月31日

私的東北論その76〜東日本大震災被災地からの伝言(「東北復興」紙への寄稿原稿)

 11月16日に刊行された「東北復興」第42号では、これまで震災に関連して「記憶の記録プロジェクト『田』」として活動してきた中で聴いた言葉を紹介した。東日本大震災を経て、どのようなことを伝えたいと現地の人たちが考えているか、その一端をぜひ知っていただきたいと思う。


東日本大震災被災地からの伝言

被災地から伝えたいメッセージ

 本紙第39号でも書いたが、私は「夜考虫。」という集まりで、震災関連のプロジェクト「記憶の記録プロジェクト『田』」を担当している。このプロジェクトでは、震災以降、とりわけ介護・福祉領域の方々の震災発生から今に至る行動やそこにある思いなどについて話していただく機会を作っている。
 そうした中で私が意識してお聴きしているのは「他の地域の人、この地域のこれからの人に一番伝えたいこと」が何かということである。この日本に住んでいる限り、いつでもどこででも地震を始めとする自然災害に遭遇する可能性はある。未曽有の大災害を踏まえて伝えたいことはどのようなことか、今回はこれまでの活動の中で得られたメッセージのうちのいくつかを紹介していきたいと思う。

津波について

・地震が来たら津波!
・津波の時いち早く高い所へ避難する。
・地震後6時間は自宅に戻るな!「津波てんでんこ」。
・津波の情報が入ったら少しでも早く内陸部に逃げる!
・大地震が来たらすぐに陸続きの高い場所に逃げて下さい。とにかく生き残る努力を。
・逃げる時は大きな声で叫んで逃げる。みんなに危険を知らせる。
・とにかく逃げろ!!!戻るな!!危険×

普段からの心構え

・まずは「個」で耐える力が必要。
・災害では周りは助けてくれない。まず自分で守るしかない。
・結婚したら海のそばに寄らないで(家を建てないで)。
・80超えた人は逃げられない。初任給をもらったらぜひ祖父母に車椅子をプレゼントして。
・住んでる所、職場で、高い所を確認、集合場所を決めておく。
・車は常に使えるようにしておく。車の燃料は半分になったら給油する。
・皆、自分の所には来ない、大丈夫と思っている。海・山の災害を忘れずに準備してほしい。
・自分の住んでいる「地域」を知る。日常生活の中での「防災」「減災」「備蓄」を話し合いで、「普段」の生活で考える。
・起きないだろうと思っていたことも起こる可能性がある。自分の住んでいるところから遠いほど、身近に感じられないもの。
・自分で生きる力を常日頃から意識していかないと。震災で動揺する人も、肝の据わった人もいた。生きる力、生きる知恵を。(震災を)知らない人には正しい情報を集めて残しておくことが必要。3日は我慢。
・日頃から訓練し、常に頭の中に置いておくべき。災害は時と所を選ばない。

震災を通じて感じたこと

・昨日までしゃべってた人でも死ぬんだなと思った。
・震災を機につながりが増えた。
・できることを一個一個やった結果として今がある。いい経験をしたと思う。
・本当に困っている人は支援がほしいと言えない。支援ニーズの把握をいかに行うかが重要。
・震災はつらい出来事だけど、それを乗り越えたからこそすばらしい出会いがあり、人と人との絆が深まったと思う。
・情報は信じる。そして共有する。「危ない」は「危ない」として対応する。何もなければそれでいい。後手に回ったら取り返しがつかない。
・行政はあてにはならない。利用者の家族、お付き合いのあった人、見ず知らずの人に助けられた。そうした関係を普段どれだけつくっておくか。
・津波から生き延びたその後が実は大変。助かった入所者に多大なストレスがあった。震災後に亡くなった人は、本来はもっと長く生きられたのではないか。
・震災で便利な生活が消えた。でも人と人のつながりが出来た。助け合わないと生活が築けない状態になった。亡くなった人も多いけど、実のある生活を知ることが出来た。
・「災害は起きる」を前提に、福祉に携わる人が協力して対応する仕組みづくりが必要。バラバラでは力を発揮できない。専門家が連携して対応する支援チームを複数つくらないと。
・災害は単独では来ない。人災もあるということをしっかり頭に入れて対応を。情報が来ない、ガセ情報が来るのも人災。天災はしょうがないが、大きな災害に並行していろいろな不備が災いを大きくする。
・震災体験は、一時期「武勇伝」化して語られた。4年経った今は忘れられ始めている。
・津波は憎い。でも、津波が取り持った縁もある。

震災を踏まえた地域づくり

・その地域に住む先人の経験を取り込んだ地域作り!!
・元々つながりが密な地域だったことが震災時の情報収集や発信にも活きた。
・今だからこそあのときのことを安心してはき出せる場が必要。そこからじゃないと未来は造れない。
・自分が、自分の身の回りの人や自分の先祖が体験したことを本当に活かせる情報の共有、コミュニティーの形成が大切。
・助けが来るまでの助けはご近所。隣に誰が住んでるかから始めて嫌がらずにご近所付き合いを。つながりは自分のため、人のため。
・日頃から地域のつながりを密にしておきたい。こういう人がいるというアピールをしておけばいざという時声掛けくらいはしてくれるかもしれない。
・いざとなると生きるために自分のことしか考えられなくなる人もいる。決していいことだけがあったわけではない。だからこそ、コミュニティーが大事。
・経済的問題で仮設から出られない人もいるのではないか。互いにできることを担って報酬が得られて共同で生活できるようなシステムが必要だと考えている。
・感謝の気持ちをもち、ありがとう一杯聞こえる豊かなまちになるように。

他の地域へのメッセージ

・あたり前のことは、あたり前じゃないよ!!
・他地域の人に伝えたいことは、人間にはかなわないものがある、ということ。
・命を大事に!いつ何があるかわからないから。
・どんなときでも協力は強力!!助け合って!!
・地域コミュニティーを大事にしよう。友人を作りましょう。
・地域のつながり、支え合いを。他の地域でも専門職が仕掛け作りを。
・今、この瞬間、自分にできる精一杯のことをして生きていますか?
・後悔しないようにポジティブに生きて。どうせ後悔するならやってから。
・自分の体調と生活環境を万全にしなければケアに向けるための力は起きない。
・常時はムリでも今の時間や家族との当たり前を当たり前と思わないで考えてみて!
・「世のため人のため」が結局は自分のためになる。人を粗末にすれば自分も粗末にされる。
・災害後、その当時のことを話せる人は話していってください。そして、聴いてください!!
・百聞は一見にしかず!!この街の「今」そして「これから」を何度でも見に来い!美味いもの食ってけらいん!
・まずは自分の命を守ること。家族の命も優先してもいい。やりたいことをしてほしい。…って自分にも言い聞かせてる。
・人は日進月歩、成長しなければならない。停滞したり、2、3歩下がったように見えたりしても、それは前進のための準備。
・東北にはいろいろな人がいる。他の地域の人は東北に学んでほしい。毎日楽しく生きて。苦しいことも悲しいことも含めて充実した1日を。
・現代の文明はありがたいが、いざという時はとても不便(使えないよ)。一人ひとりやる事はある。自信をもって生きて。隣の人を大切に。
・人は孤独ということを日頃から自覚して生きること。何か起きた時にどう動いたらいいか判断に迷ったら、自分の使命と、人とつながっていることを頼りに動いていく。
・他地域の人に伝えたいことは、管理者として、家族を持っている身として、ある程度の覚悟が必要だということ。家族の安否をあれこれ考え出すと自分を保てなくなるので考えないようにした。利用者とスタッフを守ることが最優先だったので、生きていると言い聞かせた。最悪の場合のシミュレーションをしつつ、そうならないための準備が必要。
・たくさんのご支援ありがとうございました。

これからを生きる決意

・今を生ききる。
・心の復興を、皆で行いたい。
・毎日を楽しく生きよう。
・人と関わることで楽しく生きる。皆で生きる楽しさを伸ばせる地域をつくる。
・組織の長として覚悟を決めて役割を果たす。死んでも死ぬ以上のことはない。
・震災はきついけれど、試練を与えられたと思って、前向きにプラスに考えたい。
・過去を振り返らず、前を向いて行きましょう。夢も希望もないけど、もう少し生きてみようかな。
・ただただ生きているのでは面白くない。生きてきた経験が関わる人の生き方にプラスになれば。
・人の親切、ありがたさに救われた。自分たちも何かあったら助けたい。人と人とのつながりは大切にしたい。
・自分の街をどうしたいのかな?震災時の様子・心構えなど、くらしやすい、住みやすい町にしたいな!次世代につなぐ為にも。
・いつ死ぬか分からない。いつでも後悔しない、やりたい事をやっていこー!!普通の事あたりまえかもしんないけどとても幸せなんだぜ!!丁寧に大事に物事やっていこー!!
・身体障がいの人への支援の手は少ない。居場所もない。ないなら自分達で創る。やりたいことをやって地域に貢献したい。生かされたからには自分のため人のために何かやりたい。
・身近に起きるとは見ていなかった。自分の身は自分で守る。自分で守れない人を抱えている。どんな判断をするのがいいのか悩ましい。自分の身を守れない人を守らざるを得ない立場。自分の身を守り、家族も守り、利用者も守る。
・震災で人の心の温かさを感じた。どんな人にも役割があって生かされている。無駄な体験は一つもない。感謝して命を大切に生きたい。
・僕らの震災は続いている。それを分かっていただきたい。立ち直るために必要なことがある。震災の人たちのために働きたいという心ある人たちはいる。心ない人を恨むより、心ある人たちと一緒に復興に取り組みたい。
・他の地域が同じ目に遭ったら今度は僕らが助けたい。

 これらについて私から付け加えることは何もない。これら、震災をくぐり抜けてここまで来た一人ひとりのメッセージから何か得るものがあれば、これに勝る幸いはない。


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2015年03月12日

私的東北論その67〜震災から4年目の3月11日

150311-130028震災発生から4年目の今日は午後休みを取って、まず若林区役所へ行ってみた。

いつもある献花場がない、と思ったら、今年は若林区文化センターに会場が移動になっていた。




150311-131216同センターでは地震発生の時刻に合わせて追悼式も行われるようだったが、それには出ず、献花した後に区役所に戻り、折からの強い西風に背中を押されながら、自転車あの日弟が通ったであろう道を通って、一路荒浜へ向かった。
 




150311-133318県道塩釜亘理線沿いに「希望」という名前の茶房を発見した。

災害危険区域に指定されている荒浜地区でやっている店は恐らくここくらいだろう。

しかし、今日は休みのようであった。
 


150311-134956かつての深沼海水浴場の入り口付近に立つ荒浜慈聖観音。

今日はひっきりなしに人が訪れていた。
 
その深沼海水浴場は防潮堤工事のために現在立ち入り禁止である。




150311-135900
移動販売車で石焼き芋を無料で配っている方がいた。

荒浜に来るのは初めてとのことだが、震災以来毎年この日は無料で石焼き芋を配っているとのこと。

「どうして無料で配ってるんですか?」との私の問いに、「いやぁ、だってみんなあっての私だから」なんて言葉がさらっと出てくる石焼き芋屋さん、素敵すぎである。
 
いただいた石焼き芋は、とても温かかった。
 
150311-140659その後、荒浜地区唯一の寺院、浄土寺で行われた追悼法要に出席。








150311-141942大人が数十人でかかっても倒すことなど到底不可能そうな大きな石標が横倒しのまま。

津波の凄まじさを如実に物語っている。

同寺は今年で創建から390年を迎えるそうだが、これからも毎年この日には追悼法要を営み続けるとのことである。


150311-153711昨年参加した地元の「HOPE for project」の風船リリースは、今年は追悼法要が終わる前に始まってしまったので間に合わずじまいだった。

「届いても 届かなくても 思いを伝えること」という同プロジェクトの趣旨は、その通りだと思う。

ちなみに、大空高く放った風船は、太陽光で自然分解され、落下したら土に還るエコバルーンだそうである。
 
会場となった荒浜小学校には、いまだ見上げる高さに津波襲来の痕跡が残っている。
 
150311-154549この界隈に津波が押し寄せた15時54分には、弟が見つかった南長沼に。
 
あの日、海の向こうから10mもの高さの水の塊がものすごいスピードで押し寄せてきた様を想像してみた。

強風が吹き荒れているにも関わらず、沼は波静かであった。



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帰りに立ち寄ったシベールの「仙台いちごケーキフェア」でどのケーキも美味しそうだったので全部買ってしまったり、今日も美味しいビールを1L缶で飲めたりするのも、生きていればこそのこと。
 
あの日思ったことは、昨日の次に今日が来て、今日の次に明日が来る、ということは、決して当たり前のことではないということ。

にも関わらず、その後、今日の次に明日が来る毎日が続いているために、迂闊にも、ついそのことを忘れがちなこの頃。

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明日はないかもしれない、と思って今日を生きること、その大切さを改めて思い起こさせてくれた、あの日から4回目の3月11日であった。


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2015年03月03日

私的東北論その66〜特殊公務災害逆転認定までの経緯◆屬箸△訃男表隶の証言」

150303-014654 前回、特殊公務災害に認定されるまでのおおよその経緯について説明した。最初に特殊公務災害非該当との決定がなされたのは地方公務員災害補償基金仙台支部だが、その決定に至るプロセスでは、弟が津波避難の広報活動を行った仙台市若林区荒浜で、同様に避難誘導を行っていた若林消防署荒浜航空分署の署員から、発災当時の状況について証言を得ていた。

 その一部は以前紹介したが、それは仙台支部の決定通知書にあった記載を引いたもので、ごく断片的なものであった。その後、支部審査会に対する審査請求の段階で両親の代理人となった土井浩之弁護士が、支部審査会に要請して当該証言の全文を入手した。その内容は詳細かつ具体的で、今まであまり知られていなかった、地震発生当日の荒浜地区における津波避難のための活動の実際について知ることができる貴重な資料となっている。そこで今回はその証言の主要部分について紹介したい。

 ちなみに、日付は2011年6月28日となっている。地震発生から3ヶ月あまり後のことで、当時の記憶もまだ正確かつ鮮明に残っていたと考えられる。以下がその証言である。


 「平成23年3月11日午後、私は若林消防署で訓練業務にあたっておりましたが、午後2時46分の大地震発生により、『市内上空からの被害調査』の任務指示で急いで所属(荒浜航空分署)へ戻り、帰署途上大津波警報の発表を知りました。津波到達予定時刻は3時00分と予想され、同時刻に荒浜航空分署に到着しました。

 その後、津波到達予定が3時30分に変更になったことから、その時刻ギリギリまで、荒浜地区の住民の避難誘導にあたることにしました。活動は、深沼橋からさらに海側に入った辺りの住民を消防車に乗せて荒浜小学校に避難させたり、通行していた一般車両に避難者を乗せて東部道路より西に避難させるように指示を出したり、避難誘導や救助活動を実施していました。小学校までを何度も往復し、その最中に、若林区役所の広報車らしい車を何度か見たような記憶があります。後日車両の発見に立ち会った際に、『あのときの車じゃないか?』と感じました。私ばかりでなく、同僚も、当該車両を『震災当日、現地で見かけた記憶がある』と言っています。

 現地では、私たち消防局の他、警察、さらにもう一台の車両が、避難の広報をしていたと思います。『区役所の車かな?』と思っていました。

 私たちは、津波が迫っている情報を消防ヘリコプターからの無線で得ていました。私は同僚に、『言葉なんてどうでも良い。『逃げろ!』で良いから、大声で呼びかけろ!』と指示し、住民を学校に避難させる途中も、ずっと広報し続けました。一人でも多くの住民を避難させなければと、とにかく必死でした。

 しかし、県道塩釜亘理線沿いのコンビニの前では市民の反応が鈍かったのも事実です。座り込んで何かを食べている人たちすらいました。『ここまでは来ないだろう』と、皆思っていたのでしょう。確かに今までの経験では、これほどまでの大津波が来るとは、誰も予想していなかったと思います。

 『荒浜航空分署の出場体制を立て直す必要と、2機目のヘリコプターを出場させるから、すぐ戻れ!』という命令(3時40分)がなかったら私たちも津波に巻き込まれていたと思います。荒浜航空分署職員の使命は、消防ヘリコプターを活用して上空からの避難誘導と津波到達してからの人命救助です。とにかく分署に戻る必要がありましたので、最後に住民を(車内に)乗せ、隊員は車両の上に乗って荒浜小学校に向かいました。そのとき、上に乗った隊員が、津波の白波が迫って来るのを遠方に見たと言っていました。3時50分に小学校を出発し、53分に分署に到着しました。大津波が分署を襲ったのは、その僅か1分後のことでした。私たちも、まさに間一髪、命が助かった状況です。

 分署からの命令により荒浜小学校を離れるとき、荒浜新一丁目の住宅街の方向から、避難を呼びかける広報車の声が響いていたのを記憶しております。

 後日、荒浜でたくさんの住民が亡くなったことを知りました。あれほど力を尽くしてたくさんの方々を避難させたけれど、まだ多くの住民が荒浜地区に残っていたのだなと思うと非常に残念です。」


 以上が荒浜地区で避難誘導に当たっていた消防署員による3月11日の状況についての証言である。いろいろなことが分かる。消防と警察以外にもう一台避難広報をしている車があり、この消防署員はその車を区役所の車と認識していたこと、県道塩釜亘理線付近の地域住民の反応は鈍く、逃げようとしていなかった人もいたこと、消防署員が署に戻ろうとした3時50分の段階でまだ避難を呼び掛ける広報の声が聞こえていたこと、などである。

 この、消防や警察や区役所が避難誘導をすることは、これまた以前も書いたが、「仙台市地域防災計画」で定められている。「地震災害対策編」の第3章「災害応急対策計画」の「5 津波応急対策計画」では、津波発生時における人的被害を最小限に止めるため、津波予報の収集・伝達、海面監視及び避難体制について定めている。そして、その実施機関は、消防部、区本部、宮城県警察の3者とされているのである。

 なお、避難誘導体制のうち避難広報等については、「避難勧告等を行ったときは、消防車、広報車及び報道機関との連携等により迅速に地域住民等に対し周知徹底を図」るものとされているが、今回のこの証言からは消防と区役所が相互に連携した様子は窺えない。未曽有の大地震で多少なりとも混乱があったのだろうが、消防が把握していた「津波接近!」との情報が、弟の乗った広報車にも伝わっていればと残念に思うところである。

 ちなみに、なんと3月28日に弟が乗っていた車が発見したのも、4月28日に弟の遺体を発見したのも、この証言をしてくれた消防署員の班だったとのことで、「縁があるのかな」と思ったそうである。弟の遺体が発見された南長沼付近では、住民の遺体も数多く発見されており、そのことからも、大津波が押し寄せる最後の最後まで、広報していて津波に巻き込まれたのではないか、とこの消防署員は推察している。そして最後に、今回のことは、「仙台市の大津波に対する避難誘導のあり方として多くの教訓を残してくれ」たとして、その「死を無駄にすることなく、私たち仙台市職員がやるべきことは、これからの安全安心な仙台市の復興に、また、これからの津波対策に生かしていくこと」であり、それが供養になると締め括っていた。

 このように、現地での弟の様子について、もちろん詳細に観察したり言葉を交わしたりしたわけではないにせよ、見ていた人がいてくれたことは率直に言って嬉しいことである。この証言によって、弟が最後まで地域住民のために避難の呼び掛けをしていたことが、弟だったらそうしただろうなとは思っていたが、それが単なる身びいきではなく分かったのである。

 冒頭の写真は、弟の遺体発見時に会ったその消防署員を父親が撮影したものである。連日の捜索活動の疲れの色も見せずに、弟の遺体発見時の様子について丁寧に説明してくれたそうである。 


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2015年03月01日

私的東北論その65〜阪神・淡路大震災と東日本大震災の間(「東北復興」紙への寄稿原稿)

tohoku-fukko32 「東北復興」紙の第32号が2月16日に発行された。今回は1月に起きた阪神・淡路大震災と3月に起きた東日本大震災の間の月ということで、阪神・淡路大震災から、東日本大震災を経験した我々が学べることについて考えてみた。

 今年は阪神・淡路大震災から20年となることもあって、改めてこの震災を振り返ろうという動きが随所で見られた。本文でも書いたが、この震災では東日本大震災とはまた違う地震の恐ろしさが浮き彫りとなっており、東日本大震災に遭遇した我々が改めて学ぶべきことも多くある。ことに、神戸市と同様に直下に活断層を持つ仙台市は阪神・淡路大震災クラスの地震に対する備えについて、再点検すべきであると思う。

 ちなみに、次の3月16日に発行される第33号の原稿の締切がもうそろそろなのだが、まだ何を書くかも決まっていないことは編集長の砂越氏には内緒である。(汗)


阪神・淡路大震災と東日本大震災の間

阪神・淡路大震災から20年
 1月17日は阪神・淡路大震災を引き起こした兵庫県南部地震の発生から20年となる節目の日であった。3月11日は言うまでもなく、東日本大震災を引き起こした東北地方太平洋沖地震発生の日である。震災発生から20年の節目ということもあり、改めて阪神・淡路大震災について振り返る報道も多かった。そうした情報に接して改めて阪神・淡路大震災について考えさせられることもいろいろとあった。1月の阪神・淡路大震災と3月の東日本大震災の間にある今月2月は、そこを掘り下げてみたい。

阪神・淡路大震災と東日本大震災
 阪神・淡路大震災での死者は6,434名、行方不明者3名、地震の規模はM7.3であった。これに対して東日本大震災では2015年1月9日現在、死者は15,889人、行方不明者は2,594人である。地震の規模はM9.0でこれは世界の観測史上でも4番目の大きさである。地震の規模を示すM(マグニチュード)が0.1大きくなるとエネルギーは約1.4倍となるので、東北地方太平洋沖地震のエネルギーは兵庫県南部地震のエネルギーの実に約500倍に相当するわけである。
 
 では、阪神・淡路大震災の地震の規模をはるかに上回る地震を体験した東北地方の太平洋岸の我々が、阪神・淡路大震災から学ぶことは何もないのかと言えば、決してそのようなことはない。世界で4番目の地震に直面したからと言って、地震に関する全てを体験したわけではない。地震のことを全て分かったつもりになっていては、次に地震に遭遇した時にまた「想定外」という言葉を持ち出さなければいけなくなるに違いない。

 兵庫県南部地震と東北地方太平洋沖地震、この2つの地震はその性格も、もたらした被害も、今さら言うまでもないが、全く異なる。もちろん、震災後のまちづくり、コミュニティづくりの面でいろいろと学ぶことはあるが、それは今までも事ある毎に指摘されてきており、ここでは取り上げない。一方で、防災対策という面から学ぶことはまだまだたくさんある。
 
 東日本大震災における死者・行方不明者の大半は周知の通り、大津波によるものであった。これに対して阪神・淡路大震災における死者のほとんどは建物の倒壊、それに大規模火災によるものであった。東日本大震災を経験した私たちは、阪神・淡路大震災で発生したこれらのことをほとんど経験していない。それは兵庫県南部地震が直下型の地震で、それに対して東北地方太平洋沖地震は海底を震源とする海溝型地震という違いによるところが大きい。
 
 もちろん、地震の規模の割に建物の被害が少なかったのは、特に宮城県は25〜40年に一度の周期で、宮城県沖地震に襲われてきたという経緯があったことも関係している。1978年の宮城県沖地震でもブロック塀の倒壊などによって28名の死者を出したこともあって、建物の耐震化も他の地域に比べれば進んでいたという要因も考えられる。しかし、それ以上に震源が市街地直下ではなかったということが大きかった。次にもし直下型地震に襲われる可能性があると考えれば、その時どのようなことが起きるかは、阪神・淡路大震災にその多くを学ぶことができる。

地震による建物倒壊と火災発生にどう対応するか
 先述のように、阪神・淡路大震災における死者の8割以上は、老朽化した住宅の倒壊による圧迫や窒息が原因であったとされる。これはほとんど東日本大震災では体験されていない。この阪神・淡路大震災で倒壊した住宅のほとんどは、1978年の宮城県沖地震を契機に1981年に改正された建築基準法の成立以前に建築されたものであったそうである。一方で、この改正された建築基準法の新耐震基準に合致した建築物には、震度7の揺れがあった地域であってもほとんど被害は見られなかったという。したがって、直下型地震による住宅の倒壊を防ぐ最良の手段は耐震補強である。特に、1981年以前に建てられた建物については、仮に震度7の地震が来ても人命を守れるように必要な補強や改修をすることが必要である。
 
 もう一つ、阪神・淡路大震災では、火災による被害も甚大であった。東日本大震災で発生した大規模な火災は「津波火災」、すなわち津波をきっかけに発生した火災が主であった。津波で破壊された石油タンク、建物やLPガスボンベ、自動車が主な出火原因と考えられるとされている。日本火災学会の地震火災専門委員会の調査によると、東日本大震災で発生した火災325件のうち162件が津波によるものであった。
 
 一方、阪神・淡路大震災当時、特に神戸市長田区では木造住宅が密集していた地域を中心に大規模な火災が発生した。消防庁の資料によると、地震後に少なくとも合計285件の火災が発生した。そのうちの7割は地震発生当日の火災であるが、地震直後の午前6時までに出火した件数は87件にとどまり、地震発生から一定時間が経過した後の火災発生が相当数あったことが分かる。地震翌日以降の出火もあった。これらの火災によって実に7,000棟を超える住宅が焼失し、焼損面積は80万平方メートルに上った。
 
 それにしても、いったいなぜ地震で火災が発生するのか。しかも、なぜ地震直後のみならず、一定時間が経過した後や翌日以降に火災が発生するのだろうか。阪神・淡路大震災における火災のうち、出火原因が判明したのは全体の約半数だが、そのうち最も多かったのが電気機器や配線に関係する火災であった。建物が倒壊したり、家具や家電が転倒、散乱したりする状況の中で、電気ストーブや照明器具が可燃物と接触したことにより、火災が発生したと見られている。また、地震翌日以降の出火では、送電の再開に伴うものがかなりあったという。地震発生後にはほとんどの地域で停電が起こった。その後、電気が復旧した際、通電状態となった電気ストーブや観賞魚用のヒーター、地震によって損傷を受けた配線から出火する火災が相次いだのである。電気関係の火災以外では、ガスコンロや石油ストーブ、仏壇のローソクからの出火が原因の火災もあったそうである。
 
 こうした経緯から考えるべきことは、地震発生時には使用中の電気機器類のスイッチを切る、避難時にはブレーカーを遮断する、地震後に電気機器を再使用する際には配線などの安全確認を行う、といったことである。また、日頃から電気機器のそばに可燃物を置かず落下物がないように配慮する、不要な電気機器のプラグは抜いておく習慣を身につける、ブレーカーの位置を把握しておく、といったことも必要である。地震を感知すると通電を遮断する感震ブレーカーも開発されているが、コスト高で普及していないのがネックである。なお、都市ガスやLPガスの方には震度5弱以上の揺れでガスを遮断する装置が必ず設置されているので、こちらの方はあまり心配する必要はないようである。

来るべき直下型地震に備えて
長町−利府断層の地震による想定震度分布図 東北地方太平洋沖地震は「1000年に一度の地震」と言われた。実際、これだけの規模の地震がこの地域を襲ったのは、869年のいわゆる貞観地震以来のことである。しかし、だからと言って、この地域がその間全く地震に襲われなかったということではない。今回の地震が起こる前に「津波は来ない」という誤った常識がまかり通っていた仙台平野を含め、東北地方の太平洋沿岸地域は、度々津波を伴った地震に襲われている。残念なのは、そのことが地域に十分伝承されていたとは言えないということである。
 
 したがって、これだけの人的な被害をこの地域にもたらす地震はあと1000年はやってこない、などとはとてもではないが言えることではない。個人的に、特に想定しておかなければならないと考えているのは、まさに兵庫県南部地震と同様の市街地での直下型地震である。
 
 よく知られていることだが、仙台市から利府町にかけては、「長町−利府断層」と呼ばれる、南北約40kmにも亘る活断層がある。この断層ではおよそ3000年に一度の割合で地震が発生していると考えられているが、前の地震は約16000年前以後だったとはされているものの具体的にいつだったか正確には分かっていない。

 この断層によって起こる地震の規模はM7.0〜7.5と、まさに阪神・淡路大震災を引き起こした兵庫県南部地震とほぼ同規模であると想定されている。この地震によって、旧仙台市のほぼ全域で震度6強の揺れが起こると予測されている。そうすると仙台市内でも特に建物が集中している地域が最も強い揺れに襲われることになる。予測される地震の規模と言い、市街地直下の震源と言い、ひとたびこの地震が起きればまさに、仙台市内は阪神・淡路大震災と同様の被害に見舞われる恐れがあるのである。このことがあまりよく認識されていないのではないだろうか。
 
 この長町−利府断層による地震が今後30年以内に発生する確率は1%以下と考えられており、それならばまず起きることはないと思ってしまいがちであるが、決してそうではない。兵庫県南部地震の30年以内の発生確率を地震後に計算してみたところ、0.02〜8%という結果になったそうである。つまり、発生確率が低いと言ってもそれは決して起こらないことを意味するのではなく、いつ起こるか分からないことを意味していると解釈すべきである。この市街地直下型の地震への備えが、特に今の仙台には決定的に足りないように思う。これこそ、阪神・淡路大震災に改めて学ぶべき最大のポイントであると考える。
 
 もちろん、今回同様の太平洋沖を震源とする地震に対する備えも怠るべきではない。東日本大震災を起こした東北沖の震源域で、プレートにかかる力の状態が早くも地震前と同じ水準まで回復していることを示唆するデータが得られた、とする発表が今月、筑波大とスイス連邦工科大などの研究チームからあった。復興は次の地震への対応と両睨みで進めるべきということである。
 
 地震予知連絡会は、東北地方太平洋沖地震時に、25〜40年周期でやってくる宮城県沖地震も同時に発生していたとの見解を発表している。すると次の宮城県沖地震は少なくとも四半世紀後かと思いたくなるが、実際には宮城県沖地震とされた地震の中には前の地震から数年しか経っていないにも関わらず起こっているものもいくつかある。

 「天災は忘れた頃にやってくる」とは、まさにありふれた言葉が真実を突いていることの好例であるが、実際には、忘れてなくても「まだ来ないだろう」と油断しているうちにやってくるものでもあるのではないだろうか。阪神・淡路大震災と東日本大震災の間にある今の時期、もう一度天災に対する日頃からの備えについて振り返っておきたい。


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2015年02月16日

私的東北論その64〜特殊公務災害逆転認定までの経緯 孱嫁半にも及ぶやり取り」

10480101_834560373238510_19171634336791573_o 昨年2014年6月13日の朝刊各紙に一斉に弟のことが載った。仙台市職員だった弟の殉職に関してはこのブログでも何度か取り上げているが、両親はそれについて、特殊公務災害に認定してもらえるよう申請していた。その特殊公務災害への認定の申請が地方公務員災害補償基金仙台市支部で非該当の決定となり、地方公務員災害補償基金仙台市支部審査会への審査請求も却下と、二度に亘って退けられた後、地方公務員災害補償基金審査会への再審査請求でこれらが取り消されて逆転認定された。この三度目の逆転認定が前例のないことだということで、マスメディアでも注目されたようである。私は見ていないが、6月12日のTVニュースでも取り上げられたそうである。

 この特殊公務災害、一般にはあまり耳慣れない言葉だが、公務員が「高度に危険が予測される職務」で死亡、負傷した場合に適用されるもので、単に公務遂行中に労働災害に遭遇した場合の公務災害認定に比べて補償金も増額されるが、その代わり目撃証言など含めて「高度に危険が予測される職務」であったことの証明が必要とされる。公務に従事していた際に遭遇した災害については民間企業の労働災害と同様、公務災害として認定されるが、公務員にはさらに、命に関わるような公務に就いていた際に遭遇した災害について別枠で認められる制度があるわけである。

 公務災害、特殊公務災害とも、ちょうど裁判の三審制のように、認定のチャンスは三度ある。冒頭に書いた通り、まずは地方公務員の公務災害に関する補償を担う地方公務員災害補償基金の都道府県並びに政令指定都市の支部。弟は仙台市職員だったので、地方公務員災害補償基金仙台市支部に特殊公務災害の認定を申請したわけである。ここで特殊公務災害非該当の決定となるなど、その決定に不服がある場合は有識者等第三者でつくる支部審査会に審査請求をする。仙台の場合は地方公務員災害補償基金仙台支部審査会がある。そして、この支部審査会の裁決にも不服がある場合はさらに、支部の審査会ではなく中央の地方公務員災害補償基金審査会に対して再審査請求をする、という流れである。

 ただ、建前上3回のチャンスがあるとは言え、それは、「3回に亘って当事者からも話を聞いて慎重に検討して決定しましたよ」という既成事実を作ることにはなっても、そのプロセスの中で最初の決定が覆ることはめったにない。弟の例でも、一度目に特殊公務災害非該当との決定が下され、二度目の支部審査会への審査請求でもその判断が覆らなかった。私は二度目の支部審査会への審査請求時に意見書を提出しているが、その意見書への反論が、何度読んでも論理的に納得のいく内容ではなかった。にも関わらず結論が特殊公務災害非該当とされて審査請求が却下されているということは、これは非該当という結論だけが先にあって、その結論に合わせるために無理な理由付けをしているのだと私は考えた。

 とすると、恐らくこの先も一旦下された判断が覆ることは難しいだろう。そう思った私は、争い事に身を投じたままではいつまでも安寧な日は訪れないのではと思い、両親に、弟が最後まで頑張ったことは我々3人が一番よく知っているのだから、そのことを以て矛を収めるという道もあるのではないか、と言ってみた。しかし、両親は「これは子を亡くした親の戦いだから」と言って、諦めようとしなかった。そう言われてしまうと、私は「子を亡くした親」ではないし何も言えないので、その後は黙って推移を見守ってた。

 両親は支部審査会への審査請求の段階から、労働災害に詳しい土井浩之弁護士の助けも借りて、反論書の提出、そして口頭陳述を行った。支部審査会で審査請求が却下された後は、逆転認定に向けての最後の機会となる本部審査会での裁決に向けて、意見陳述の準備をしていた。そこではまさに無念の死を遂げた我が子の最後の働きに報いたいという親としての執念を感じた。

 そうしたところ、日本共産党の高橋千鶴子衆議院議員がこのことを知って、衆議院の予算委員会第二分科会の場で、弟の実名を挙げて取り上げてくれた。そしてまた、答弁に立った新藤義孝総務大臣も、判断の見直しに前向きな答弁をしてくれた。その後、地方公務員災害補償基金補償課長名で特殊公務災害の認定の取扱いについての事務連絡が発出されて、基金の方針転換を呼び、晴れて特殊公務災害該当という決定に至ったわけである。仙台市支部審査会とは異なり、宮城県支部審査会では地方公務員災害補償基金宮城県支部で不認定とされた特殊公務災害認定の申請について多数の逆転認定を行っていたが、それも後押しとなった。

 言ってみれば、両親の諦めない思いが動かないと思われた事態を動かした形になったわけで、わが両親のことながらお見事だったと思う。もちろん両親は、補償金の増額が目当てだったわけではなく、(兄の私と違い)人一倍優しく親思いでしっかり者だったわが子の生涯最後の仕事が、地域住民のために文字通り生命を賭して遂行したものだったということを認めてほしい、ただそれだけの思いで動いていた。新聞各紙のうち、河北新報には父親の、朝日、毎日、日経の各紙には母親のそうした思いのコメントが載った。

 この一連の動きを時系列で示してみると以下のようになる。

平成23年(2011年)12月6日:特殊公務災害認定の申請
平成24年(2012年)1月12日:地方公務員災害補償基金仙台市支部事務長より地方公務員災害補償基金補償課長宛に特殊公務災害の認定について照会
平成24年(2012年)6月26日:地方公務員災害補償基金補償課長より地方公務員災害補償基金仙台市支部事務長宛に特殊公務災害非該当との回答
平成24年(2012年)9月18日地方公務員災害補償基金仙台市支部長(仙台市長)が特殊公務災害非該当の決定
平成24年(2012年)11月5日:地方公務員災害補償基金仙台市支部審査会に審査請求、被災職員兄(=私)意見書提出
平成25年(2013年)1月22日:地方公務員災害補償基金仙台市支部長(仙台市長)より同支部審査会長宛に意見書に対する弁明書提出
平成25年(2013年)2月22日:弁明書に対する反論書の提出(土井弁護士)
平成25年(2013年)6月5日:地方公務員災害補償基金仙台市支部審査会にて口頭陳述(両親)
平成25年(2013年)8月29日:地方公務員災害補償基金仙台市支部審査会より審査請求棄却の回答
平成25年(2013年)9月20日:地方公務員災害補償基金審査会長宛に再審査請求、理由書提出(土井弁護士)
平成26年(2014年)2月26日:地方公務員災害補償基金審査会にて口頭陳述(両親、土井弁護士)
同日:高橋千鶴子衆議院議員が衆議院予算委員会第二分科会で質疑
平成26年(2014年)5月1日:地方公務員災害補償基金補償課長より地方公務員災害補償基金岩手県支部、宮城県支部、福島県支部、仙台市支部事務長宛に事務連絡「東日本大震災に係る特殊公務災害の認定の取扱いについて」が発出
平成26年(2014年)5月28日:地方公務員災害補償基金審査会より支部の処分と支部審査会の裁決を取り消す逆転裁決
平成26年(2014年)6月12,13日:新聞各紙、TVニュースが一斉報道

このように、震災の年の12月から始まって、逆転認定までには実に2年半近くにも及ぶ期間を要したのである。

 私は、申請から逆転認定に至る一連の経緯を書き留めておくことも、震災に関わる記録の一つとして必要と考えていた。にも関わらず、上の表で分かる通り、逆転裁決が出てから今まで、実に8ヶ月以上、なかなかまとめようという気にならなかった。その大きな理由は、基金仙台市支部の決定通知書と、支部審査会の裁決書を読み返すことが正直、嫌だったからである。これらを読むと、いまだにあの当時の何とも言えない複雑な感情が甦る。通じて当然と思った理屈が一向に通じないことへの焦り、苛立ち、全く筋の通っていない弁明に対する何とも言えない割り切れない気持ち、納得のいく理由がないにも関わらず決定が覆らないことに対する無力感など、できれば二度と体験したくない気持ちがこれらを読むとまたぞろ沸き起こる。そのことに心理的な抵抗があってなかなか資料を開く気にならなかったのである。…と言い訳しておく(笑)。

 しかし、いつまでもそのままにしておくわけにもいかない。時間が立てば立つほど、ディテールは曖昧になり、記憶も風化していってしまう。それではこの先同じような事態が起こった時に何ら役に立つ情報を提供できないことになる。そこで、とりあえず現段階で手元にある資料などを読み返しつつ、特殊公務災害認定に至る経緯をこれから何回かに分けてまとめてみたい。


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2013年03月11日

私的東北論その43〜弟の最後の足跡を追う

弟の死から2年が経って
130311-144629 東日本大震災発生から2年が経った。書くべきことはいろいろあるのだろうが、この日に当たって何を書くかと考えた時に、やはりこの地震で命を落とした弟のことを書いておきたいと思った。

 弟は、仙台市若林区役所の区民部まちづくり推進課地域活動係の主事として勤務していた。2011年3月11日(金)午後2時46分に東北地方太平洋沖地震が発生し、直後に区役所内に若林区災害対策本部が設置された。弟は、若林区の沿岸地域である荒浜方面の広報活動を行うよう命ぜられ、午後3時17分に公用車で出動した。広報活動に当たっては、仝道塩釜亘理線より東には入らないこと、▲薀献をつけながら行くことの2点が指示されていた。午後4時5分頃、広報活動を命じた上司が弟の携帯電話に連絡したが、連絡が取れなかった。その後3月28日に乗っていた公用車が発見され、その1ヶ月後の4月28日、弟は、若林区荒浜字南長沼にある南長沼で(ややこしいがそこにある南長沼という沼がそのままその周辺の地名になっている)遺体で発見された。

 これが、震災発生当日から遺体発見までに事実として分かっていたことの全てである。これ以上のことはもはや分かることはないだろうと思っていたのだが、その後、弟の最後の足取りに関して分かってきたことがある。弟のことを忘れないためにも、記録として残す意味でも、ここにまとめておきたい。

 写真は、今日の午後2時46分に撮った、弟が見つかった荒浜の南長沼の様子である。誰が供えてくれたものか、花が手向けてあった。


なぜ弟は沿岸地域に出掛けていかなければならなかったのか
図1aa 今更ながら、なぜ弟は津波の危険が迫る仙台市の沿岸地域に出掛けていかなければならなかったのだろうか。ちょっと長くなるが、「仙台市地域防災計画」にある記載を紹介しておきたい。その「地震災害対策編」の第3章「災害応急対策計画」の「5 津波応急対策計画」では、津波発生時における人的被害を最小限に止めるため、津波予報の収集・伝達、海面監視及び避難体制について定めている。その実施機関は、消防部、区本部、宮城県警察の3者であり、このうち区本部の担当業務は、…吐箸隆躙雲や避難方法等に関する住民への周知、避難勧告、指示に関すること、H鯑饅蠅粒設及び運営管理に関すること、つ吐箸亡悗垢訃霾鵑療礎、避難誘導に関すること、とされている。津波発生時には、消防と区役所(の災害対策本部)と警察の三者が役割を担うことになっていたわけである。

 津波情報の収集伝達については、「消防部は、仙台管区気象台、宮城県及び宮城県警察本部等から伝達される津波情報を受信した場合は、次の伝達系統に基づき、関係する部、区本部及び市民に対し速やかに伝達する」ものとされており、仙台市内の各区は消防局防災安全課からの情報伝達を受け、広報車によって市民に津波情報を伝達する旨が図示されている。このうち、沿岸住民等への情報伝達については、「消防部及び関係する各区本部は、津波予報の発表と同時に次の手段で『海面監視・警戒要領』に基づいた区域内の住民等に対し、津波に関する情報を伝達する」とされている。「次の手段」としては、\臑羯堋吐半霾鹽礎システム、警鐘の打鐘又はサイレンの吹鳴(消防部)、消防車、ヘリコプター(消防部)及び広報車(区)による巡回広報、つ内会長等への連絡(区)、ナ麁撒ヾ悗箸力携、ε里療塰漂劵瓠璽襦△裡兇弔挙げられている。区役所の役割として、広報車による巡回広報で市民に津波情報を伝達することが規定されているわけである。

 避難誘導体制のうち避難広報等については、「避難勧告等を行ったときは、消防車、広報車及び報道機関との連携等により迅速に地域住民等に対し周知徹底を図り、また、避難誘導にあたっては安全な経路を選定するとともに、高齢者及び障害者等の災害時要援護者に十分配慮する」こととされている。弟はつまり、この仙台市地域防災計画の地震災害対策編における災害応急対策計画の津波応急対策計画に記載されている区本部に割り当てられた担当業務の遂行のために荒浜地区にて広報活動を行ったわけである。

 荒浜地区中心部を図1に示す。後に示す消防隊員の証言に基づく消防隊員の行動範囲と弟の行動範囲も書き入れてみた。青が消防隊員のたどった進路、赤が弟がたどったと考えられる進路である。


「県道塩釜亘理線より東には入らないこと」の意味
図2 広報活動を行うに当たって、先述の通り、「県道塩釜亘理線より東には入らないこと」との指示が出されていた。これはどういうことだろうか。これは「平成14年度仙台市地震被害想定調査報告書(概要)」に基づいた仙台市の「津波ハザードマップ」によるものと考えられる。その予測図のうちの荒浜近辺の部分を図2に示す。図2図1で示された周辺の地域も示している。この津波ハザードマップでは、県道塩釜亘理線よりもさらに東、荒浜地区で言えば、荒浜新のさらに東が津波浸水予測地域となっている。

 なお、津波ハザードマップでは、海岸に近いエリアについて、津波警報が出た際に避難勧告が出され、大津波警報が出された際に避難指示が出される津波避難エリア機図2の右側の斜線部分)、気卜拈椶靴織┘螢△蚤臘吐鳩拱鵑出された際に避難指示が出される津波避難エリア供図2の左側の斜線部分)が設定されている。「県道塩釜亘理線より東には入らないこと」という指示は、この津波ハザードマップに基いて、津波による浸水が予想される津波避難エリア亀擇哭兇鯣鬚韻覦嫐9腓いあったことが分かる。もっとも、実際には海岸から直線距離で0.9kmのところにある県道塩釜亘理線どころか、そのはるか西、海岸から3.2kmの仙台東部道路まで津波が押し寄せたのは周知の通りである。

 ところが、弟の特殊公務災害の申請などの過程で、地震発生当日、やはり「仙台市地域防災計画」に基づいて、同じ地域で住民の避難誘導にあたっていた仙台市消防局若林消防署荒浜航空分署の消防職員の証言として、何と以下のような証言が得られたのである。

 /湿其兇らさらに海側に入った辺りの住民を消防車に乗せて荒浜小学校に避難させる等していた際に、区役所の広報車らしき車を何度か見たような記憶がある。
 ⊂男俵匹里曚、警察、さらにもう一台の車両が、避難の広報をしており、「区役所の車かな」と思っていた。
 9喇擁署からの戻るようにとの命令を受け、午後3時50分に荒浜小学校を出発し、午後3時53分に荒浜分署に到着し、1分後に津波が到達した。
 ぞ学校を離れるとき、荒浜新一丁目の住宅街の方向から、避難を呼びかける広報車の声が響いていたのを記憶している。

 また、3月28日に、弟が乗車していた公用車の発見に立ち会った消防職員は、「あの時の車じゃないかと感じた」と証言しており、別の消防職員も以前紹介したが「災害当日、現地で見かけた記憶がある」と証言しているのである。これらの証言は何を意味しているのだろうか。

 証言から、この時の消防職員の活動範囲は、図1に示した通り、荒浜橋を渡った海岸に極めて近い地域から、この地域唯一の避難場所であった仙台市立荒浜小学校の間である。その範囲で市の広報車を見かけたということは、弟の広報車も県道塩釜亘理線より東の地域で活動していたことを示しているに他ならない。私はてっきり、弟は事前の指示通り県道塩釜亘理線の西側あるいは県道塩釜亘理線沿いで広報活動をしていたとばかり思っていた。なぜ、弟は、立ち入るなと言われていた県道塩釜亘理線より東で広報活動を行っていたのだろうか。


県道塩釜亘理線より東で目撃された理由を解く
 上記の通り、消防職員の証言から、弟の乗った広報車は、「県道塩釜亘理線より東には入らないこと」の事前指示にも関わらず、その東に位置する荒町新地区にて活動していたと判断できる。それはなぜだったのだろうか。

 「仙台市統計書『平成23年版』」によると、荒浜小学校区すなわち荒浜地区は世帯数782、人口1,920人である。この荒浜地区内の各町丁目名毎の世帯数をポスティング業者のサイト等で確認してみると(参照サイト)、平成17年の数値だが、県道塩釜亘理線の東側にある荒浜新1丁目、2丁目に合わせて333世帯、すなわち全体の約43%の世帯が集中している。荒浜新を除く荒浜に440世帯があるが、そのうちの多くの世帯は消防職員の行動を見ても分かる通り、荒浜新のさらに東側つまり海側にある荒浜北丁、中丁、南丁、西、一番山と呼ばれる各地区にある。

 これが何を意味するかと言えば、荒浜地区の世帯の大半は県道塩釜亘理線の東側から海岸付近に集中しているということである。図らずも図2の津波浸水予測図に、これらの地域に多くの家屋が集中している様子が図示されている。もし、こうした状況であるにも関わらず、事前の指示通り、県道塩釜亘理線より東側に立ち入らないとすると、荒浜小学校区の大部分の世帯に対して津波避難の呼び掛けができないことになるわけである。

 すなわち、荒浜地区の世帯に対して津波からの避難を呼び掛ける広報活動を行うという業務と、県道塩釜亘理線より東には入らないことという指示との間には、相反するものがあった。荒浜地区の大多数の世帯に対して避難を呼び掛けようとすれば、県道塩釜亘理線より東に立ち入らざるを得ず、県道塩釜亘理線より東には入らないという指示の通りにしようとすれば、荒浜地区の大多数の世帯には避難の呼び掛けができない、という状況だったわけである。

 従って、この荒浜地区の大多数の世帯に対して即座の避難を呼び掛けるためには、どうしても県道塩釜亘理線の東側に立ち入る必要があったのである。そして―、弟は避難の呼び掛けの徹底の方を優先して、県道塩釜亘理線より東で避難広報活動を行うことを選んだのである。

 さて、「津波浸水予測図」は前述の通り、「平成14年度仙台市地震被害想定調査報告書(概要)」に基づいて作成されているが、同報告書における想定の前提は、単独型(M7.5)と連動型(M8.0)の宮城県沖地震であり、それより大きな地震については一切想定がされていない。津波の予測について、「単独モデルでは,津波の波高は小さく,浸水域は大変小さいことが予測されています。また,連動モデルでは,単独型モデルと比べて津波の波高は大きくなり,浸水域も大きくなりますが,極沿岸域に限定され,仙台港周辺での浸水高さは30〜110cmが予測されています」とある。

 今から見るとまったく楽天的との誹りを免れ得ないような想定であるが、要は「津波浸水予測図」における津波浸水予測地域はすなわち、当時の予測で最も大きな連動型(M8.0)の地震であっても、仙台港周辺で最大110cmの津波と予測されていたわけである。前述のように「県道塩釜亘理線より東には入らないこと」という事前の指示は、この想定に基いて、荒浜新の東側一帯が津波浸水予測地域であることを踏まえて、さらに安全マージンを取って伝えられたものと考えられる。

図3 しかし、今回の地震でこの荒浜地区を襲った津波の高さは10mに達していたことが荒浜小学校に残った津波の痕跡から明らかになっている。平野部としては世界最大級だそうである。想定の10倍近い津波が押し寄せたのである。残念ながら、「県道塩釜亘理線より東には入らないこと」という事前の指示は、あまり意味を持たなかった。東日本大震災後に改定された新しい津波ハザードマップ(図3参照)では、津波警報で避難勧告が出される津波避難エリア気帽喇与恵篭茲魎泙瓩晋道塩釜亘理線以東の全域が含まれることになり、津波避難エリア兇聾道塩釜亘理線の西側一帯が含まれることになった。


なぜ被災するまで現地に留まっていたのか
 気象庁がまとめた「東北地方太平洋沖地震による津波被害を踏まえた津波警報の改善の方向性について」によって、今回の地震における津波警報発表経緯を追ってみると概ね、

 ゞ杁淬録迷報における地震波データの処理で、地震検知から約105秒後に地震の規模を最終的にM8.1と推定した。
 地震発生の3分後、津波警報第1報(高さ予想は宮城県6m、岩手県・福島県3m)を発表し、直ちに検潮所等による津波の監視を開始した。
 C録免生の13分後、津波観測データに基づき、大船渡で第1波引き波0.2m、最大波0.2mと報じた。
 15時10分頃から岩手釜石沖などのGPS波浪計において潮位の急激な上昇が観測されたため、15時14分に津波警報の第2報を発表し、予想される津波の高さを宮城県10m以上、岩手県・福島県6mなどに引き上げるとともに津波観測情報を発表した。
 イ修慮紊盂ご濾婉瓩慮…所における津波の観測状況から、津波警報の続報を発表した。

となっている。

 これを見ると、地震発生から3分後に、既に宮城県沖地震における想定を上回る6mの高さ予想を伴った津波警報が出されていることが分かる。さらに気象庁は、地震発生から28分後の午後3時14分には予想される津波の高さを宮城県で10m以上と上方修正している。

 弟が荒浜地区に向けて出発した午後3時17分の時点では、既に気象庁の津波の高さ予想は宮城県内で6mから10m以上へと引き上げられていたことになる。すなわち、想定をはるかに超える津波が荒浜地区を襲う可能性があることは若林区役所を出発しようとしたこの時点で既に分かっており、その上で前述の「仙台市地域防災計画」で区本部の役割として規定されている住民への避難誘導のために荒浜地区に向かったわけである。当初の「津波浸水予測図」の想定の下では、県道塩釜亘理線より東の荒浜新地区などは、津波浸水予測地域から外れ、危険のない地域であったが、その後想定外の大津波警報が出されていたことからも分かる通り、これらの地区は一転して「危険地域」へと変わっていたわけである。

 先に挙げた通り、避難誘導体制のうち避難広報等については、「避難勧告等を行ったときは、消防車、広報車及び報道機関との連携等により迅速に地域住民等に対し周知徹底を図」るとされている。ところが、予想を超える巨大な地震に遭遇したためか、先の消防職員の証言から判断しても、「消防車、広報車及び報道機関との連携等」が積極的に行われた形跡は見られない。当時は、にも関わらず「迅速に地域住民等に対し周知徹底を図」ることが求められていた状況であったのであり、その任務の遂行のためには、事前の「県道塩釜亘理線より東には入らないこと」との指示を敢えて踏み越えて、県道塩釜亘理線の東の荒浜新地区にて避難広報活動を行う必要があったわけである。

 繰り返すと、仮に事前指示通り、県道塩釜亘理線より東に足を踏み入れず、その以西を範囲として避難広報活動をしていたとしたならば、荒浜地区の大部分の住民に対して津波からの避難を周知徹底させることは不可能であったはずである。弟は、命じられた荒浜地区における避難広報を徹底するために、消防職員の証言にある通り、荒浜新の住宅街に入って避難呼び掛けをしていた。それは、県道塩釜亘理線よりも東に位置する荒浜新地区で避難呼び掛けを行えば、荒浜新地区はもちろん、同地区の東側に隣接し、荒浜地区の世帯の多くがある荒浜北丁、中丁、南丁、西、一番山の各地区の住民に対しても避難広報の周知徹底を行うことは可能だからである。

 さて、事前指示の2つめは「ラジオをつけながら行くこと」であった。弟が避難広報活動を行っていた時点では、気象庁の津波警報発表経緯に見られる通り、ラジオは気象庁の大津波警報の内容や、仙台平野よりも早く津波が襲来した三陸沿岸地域における状況を繰り返し伝えていた。したがって、ラジオから情報を得ていたならば、弟は、自らが大変な生命の危機に曝されていることを相当程度理解していたに違いない。

 では、にも関わらずなぜその危険な地域に、最終的に被災するまで留まっていたのか。消防職員の証言い砲△訥未蝓⊂男豹Πが荒浜地区を離れようとしたその時にも荒浜新地区からは避難を呼び掛ける広報車の声が響いていたのである。この時に弟もその場を離れてくれていれば、と思わずにはいられないが、それを解く手がかりとなるのは東京経済大学の吉井博明氏による「津波避難行動に関する調査結果」である。これを見ると、三陸沿岸の市町村と今回弟が赴いた荒浜地区のある仙台市若林区とでは、津波に対する意識に大きな差があったことがわかる。

 例えば、実際に避難した人に「地震発生の何分後に避難開始したか」を聞いた結果の平均は、三陸沿岸の南三陸町や女川町が11分であるのに対し、仙台市若林区は16分と、5分もの差がある。津波からの避難において、この5分の差はあまりにも大きい。「津波来襲確信度」についても、南三陸町では「津波が必ず来ると思った」と答えた人の割合が63.0%なのに対して、仙台市若林区では28.6%である。仙台平野は長らく津波に襲われた経験がない。荒浜地区の住民も三陸沿岸の住民と比較すると、「地震即避難」という意識が薄いと言わざるを得ない状況であったのである。

 実際に避難をした住民を比較しても三陸沿岸と仙台市若林区とではこれだけ差があるのである。しかも、この調査はあくまで「避難して助かった人」への調査である。津波から避難しなかった人の多くは津波に巻き込まれてしまったと考えられるので検証は不可能だが、避難しなかった人の割合も恐らくは三陸沿岸よりも仙台平野の方がはるかに高いはずである。弟は、三陸沿岸の住民に比べて津波に対する危機意識が高いとは言えなかった荒浜地区の住民に対して、身に迫る危険を感じながらも少しでも多くの住民を避難させようと繰り返し避難を呼び掛け続けたのであり、その結果津波により命を落としてしまったのだろう。

 もちろん、そのことで荒浜地区の住民を責めることなどできない。私とて、仙台平野をこれだけの津波が襲うとは思ってもいなかった。他の多くの仙台市民もそうだったのではないか。恐らく住民だけではなく行政もそうだったのだろうが、三陸沿岸の自治体に比べて仙台平野沿岸の自治体では、津波に対する防災教育も十分行われていなかった。以前紹介したように、歴史を紐解けば、この地を再三大きな津波が襲っていたことは分かるのだが、そうしたことも十分意識されていなかった。

 だが、次は同じ言い訳は通用しない。日本で百万都市がこれだけの津波に襲われたのは、恐らくここ仙台が初めてである。ひょっとすると、世界でも例がないのではないだろうか。ならば仙台は今後同じような津波被害が他地域で繰り返されないように、特に平野部を襲う津波について研究を重ね、日本のみならず世界にその情報を発信していくのが、責務とも言うべき役割であろう。

 当日の乗車車両である仙台市の公用車スズキ・エスクード・ノマドが見つかった地点は荒浜新から西に約500m離れた荒浜南長沼地区内であり、荒浜新で津波に遭遇し、津波によって西に運ばれたと推定すると辻褄が合う。ただし、弟は最後、車に乗ったまま津波に巻き込まれたのではなかったようである。弟の遺体は、広報車が見つかった場所からさらに西に数10m離れた沼の中から見つかっている。発見された広報車は、リアウィンドウが割れていたが、シートベルトは外れた状態だった。確かに津波の力はものすごいのだろうが、だからと言って、事故の衝撃でも外れないことを想定して作られているシートベルトを外してまで人間を車外に攫っていくことまでは考えられない。弟は自分でシートベルトを外して車外に出たのである。

 その理由は恐らく渋滞である。当日津波からの避難の車で県道塩釜亘理線はかなり渋滞していたという証言がある(参照サイトの<8>)。とすると、荒浜地区から県道塩釜亘理線に出る道路も同様だったに違いない。弟が区役所から荒浜地区に向かった道路の逆方向の車線もそうだったろう。残念ながら、荒浜地区への車での出動は、行けはしても戻ってくることは困難な「片道切符」だったわけである。

130311-153825 左の写真は、今日の午後3時38分に撮影したものである。荒浜地区から県道塩釜亘理線に出る道路である。つまり、海を背に西の内陸部に向かう道路である。右に写っているのは、この地区唯一の避難場所であった仙台市立荒浜小学校である。今日は午後3時まで、この地区の合同慰霊祭が行われていた。この地区の住民はほとんど他地区で避難生活を送っているので、この慰霊祭に参加するために殆どの人が車でこの地を訪れた。それが終了して帰途につく車が列を連ねているのが分かる。恐らく震災当日も、避難しようとする車が同様に列を連ねていたに違いない。

 津波の襲来を目撃したのか、最後の瞬間、弟は車を離れ、走って避難をしようとしたのだろう。海岸沿いの防潮林を超えてくる巨大津波を間近に見て弟は何を思ったろう。その後、陸上でも30km/h以上という津波の速さには勝てず、弟は結局は津波に巻き込まれてしまった。その時刻は、荒浜地区に隣接する名取市で津波第一波の到達時刻が午後3時50分だったこと、消防職員の証言があることなどから、恐らく午後3時53分頃だったものと考えられる。

 若林区役所から荒浜地区までは、私の自転車で飛ばして15、6分である。車だともっと速いだろうから、午後3時17分に若林区役所を出て、弟が荒浜地区に到着したのは恐らく15時30分前後、そこからの20分間余りの時間は、弟の生涯で最も重大な時間だった。弟は文字通り命を賭して、命ぜられた住民避難のための広報活動に最後の最後まで尽力したわけである。

 弟の友人で、このブログにも何度かコメントを書いてくれた高橋さんが、ご自分のブログに弟のことを書いてくれた時に、荒浜出身の方からコメントをもらったそうである。その方の叔母さんが津波の危険を察知して避難したのは、どうやら弟の広報活動のお蔭だったらしい。なんでもその方の叔母さんは、停電で情報がない中、避難を呼びかける声が尋常な様子ではなかったから外へ出たのだそうである。きっと弟の必死の思いが声に出ていたのだろう。それによって避難を促すことができたのであれば、任務は間違いなく遂行されたわけである。

 コメントを残してくれたその方は、私の両親に宛ててこう結んでくださっている。

最後の最後まで、市職員として任務を全うされた息子さんのおかげで、たくさんの命が救われました。本当にありがとうございました。ご冥福をお祈り申し上げます

 この言葉は弟への何よりの手向けである。

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2013年03月09日

私的東北論その42〜「地域資源」としての東北の温泉(「東北復興」紙への寄稿原稿)

イメージ 1 このところすっかり更新が滞っているが、1月16日に「東北復興」紙の第8号が刊行された。今回も、「埋もれた東北文化を掘り起こす旅」その△箸靴董◆崙本刀から東北の歴史を考える …中鉢美術館からの問題提起」が取り上げられるなど、相変わらず砂越氏の行動力は卓越している。

 げんさんの論考も健在であるし、「笑い仏」さまも順調に歩みを続けておられるようである。

 その第8号に寄せた拙文が下記である。





「地域資源」としての東北の温泉


東北の地域資源
 東北の復興に関して、「地域資源」という言葉を耳にすることが多い。地域資源の活用が復興に重要な意味を持つ、というようなことがよく言われる。この地域資源とは何かということについての定義はいろいろあるが、二〇〇七年に施行された「中小企業による地域産業資源を活用した事業活動の促進に関する法律」、いわゆる中小企業地域資源活用促進法を例に取ると、ここでは「地域産業資源」と言っているが、ー然的経済的社会的条件からみて一体である地域(以下単に「地域」という。)の特産物として相当程度認識されている農林水産物又は鉱工業品、∩姐罎坊任欧觜杞業品の生産に係る技術、J顕什癲⊆然の風景地、温泉その他の地域の観光資源として相当程度認識されているもの、のうちのいずれかに該当するものを地域資源と定義している。
 
 この法律で都道府県知事は、「当該都道府県における地域産業資源活用事業の促進に関する基本的な構想」を作成して認定を申請することができるとされているが、その中で地域産業資源の内容についても定めることができる。これを受けて各都道府県では様々な「地域産業資源」が指定されており、それらについてはそれぞれの都道府県のサイトで確認することができるが、東北に関しては特にのカテゴリにおいて実に多くの祭りと温泉とがリストアップされている。これらが東北に共通する「地域資源」であることは疑いないところである。


東北の温泉
 このうち祭りについては、本紙面で砂越氏が特に力を入れて取り上げておられるのでそちらに譲るとして、ここでは温泉について見てみたい。東北の人にとって温泉というのはあまりにも身近で、そのために逆にその地域資源としての価値を量りかねているのではないかと思うからである。

 火山の国である日本はその恩恵で世界でも有数の、数多くの温泉を持つ国である。その日本には、温泉地が平成二二年のデータでこの狭い国土になんと三一八五もある。そのうち、東北六県と新潟には合わせて七六七の温泉地がある。全国の温泉地の二四・一%、すなわち四分の一が東北圏にあることが分かる。

 その一方で、宿泊施設数は二六〇五で全国の一四〇五二に対して十八・五%、年間延宿泊利用人員が二〇一九四五五九人で全国の一二四九二五二七二人の十六・二%と、いずれも温泉地の割合に比べてかなり低い。これは、東北圏にある温泉が、大規模な宿泊施設や温泉街を伴ったものではなく、いわゆる「秘湯」を含む中小規模のものが多いことの表れであると言える。言い換えれば、鄙びた温泉が東北には多いということである。

 温泉を歓楽と捉えると、こうした温泉は物足りないかもしれないが、大自然の中でゆったりとした時間を静かな空間で過ごして日常と異なった環境に身を置くということを考えた場合には、東北の温泉はまさにうってつけである。

 東北には以前も紹介した通り、全国でも屈指の地熱資源があるが、それがこうした豊富な温泉を生み出している。東北には今も湯治の習慣が残るが、これは冬季の厳しい環境への対応、農閑期の骨休めという意味合いがある。東北の人にとって温泉は大いなる大地の恵みであり、まさに貴重な地域資産である所以である。

 実際、歴史ある温泉が東北圏には数多くある。開湯から千年以上の歴史を持つ温泉が少なくとも東北六県に二四ある。その中で最も歴史があるのは西暦一一〇年に吉備多賀由(きびのたがゆ)によって発見されたという伝承を持つ山形市の蔵王温泉で、次いで西暦三〇〇年代に発見されたという福島県いわき市のいわき湯本温泉、同じく四〇〇年代の秋田県大館市の大滝温泉が続く。東北に住む人と温泉との関わりは実に長い歴史を持っているのである。

 温泉の湧出量で見ても、全国的には自噴泉、すなわち自然に湧出している温泉が七六〇〇二四L/分であるのにに対して動力泉、すなわち掘削技術の発達によって人為的に汲み上げている温泉が一九二六五三五L/分と、圧倒的に動力を用いて温泉が多いが、東北圏に限ってみると自噴泉一九六〇八三L/分に対して動力泉三九六五〇二L/分と、自噴泉の割合が高くなる。ということは、掘削して掘り当てた温泉ではなく、昔からそこに湧き出ていた温泉が多いということである。


質の高い東北の温泉
 こうした歴史的な側面とは別に、東北圏の温泉は質の高さでも誇るべきものを持っている。まず、環境大臣が指定する「国民保養温泉地」というものがある。全国でこれまで九一箇所の温泉地が指定されているが、東北六県と新潟にはそのうち二二箇所がある。このうち、青森市の酸ヶ湯温泉は、一九五四年に栃木県の日光湯元温泉と共に指定された国民保養温泉地第一号、福島県二本松市にある岳温泉は翌一九五五年に指定された第二号である。
 
 また、全国津々浦々のすべての温泉を巡ったことで知られる松田忠徳氏の「温泉教授の日本全国温泉ガイド」(光文社新書)では全国二二七の温泉が推薦されているが、そのうち東北六県と新潟の温泉は六九を数え、実に全体の三分の一近くを占めている。この書では、氏が「マガイモノの温泉」と断じる「循環・濾過・塩素殺菌風呂」は紹介されていない。そうした中で東北のこれだけの温泉が紹介されているというのは、それだけ東北の温泉の質の高さを表していると言える。
 
 先ほど、東北には秘湯を含む中小規模の温泉が多いと書いたが、この「秘湯」という言葉を初めて使ったのは、「日本秘湯を守る会」である。日本秘湯を守る会は、一九七五年に、高度経済成長真っ盛りという時代背景にあって、「今の状況は、本来の旅の姿ではない。人間性を置き忘れている。旅の本質を見失っている。何時の日か人間性の回復を求め、郷愁の念に駆られ山の小さな温泉宿に心の故郷を求め、本当の旅人が戻ってくる。旅らしい旅が求められる時代が来る」、「日本の温泉のよさを保ち、環境保全に努める経営理念を相互に啓発・啓蒙する温泉旅館を集めて共同宣伝、相互誘客を図る組織の結成を」と提唱した故岩木一二三氏によって設立された。設立当時三三軒だった会員宿は今や全国に一八八を数えるに至ったが、このうち東北六県と新潟には合わせて七七ある。実に全国の「秘湯」の四一%が東北圏に集中しているのである。
 
 病を癒す湯として全国から人が集まる秋田県仙北市の玉川温泉は、様々な角度から「日本一」の温泉である。まず湧き出る湯量九〇〇〇L/分は一箇所の源泉としては文句なしの日本一である。またその湧き出る温泉はPH一・一というとてつもない強酸性の湯で、この酸性度も日本一である。温泉の湯温は沸騰寸前の摂氏九八度でこれまた日本一である。これほど強烈ではないが、東北圏にはその泉質の良さや効能の高さで知られる温泉が数多くある。


地域資源としての温泉の活用
 温泉を地域資源として活用しようという動きは震災前から既にあった。その典型例が、先に挙げたいわき湯本温泉である。いわき湯本温泉旅館協同組合では、温泉の魅力を再確認し、その保健的機能を活用するためとして、独自に「温泉保養士(バルネオセラピスト)」を養成する事業を二〇〇一年から行っている。

 きっかけとなったのは、ドイツの温泉保養地との交流だったという。ドイツでは温泉が医療の一環として取り入れられ、温泉地にて長期間の療養が行われているという取り組みの事例を知った。先に挙げたように、日本にも「湯治」の文化があるが、それをコーディネートできる人材がいなかった。

 そこでいわき湯本温泉旅館協同組合では、社団法人日本温泉療法士協会を立ち上げ、温泉医学、予防医学に基づいて、温泉の持つ保健的機能を引き出す知識、技術を習得し、温泉療法を活用した健康づくりを安全かつ適切にアドバイスできる人材の育成を始めた。日本温泉保養士協会が実施する養成講習会で規定の講習を修了し、認定試験に合格した人材を温泉保養士(バルネオセラピスト)として認定している。認定の有効期間は五年間で、認定を継続するためには更新講習会の受講が必要となっている。お膝元のいわき湯本温泉では、全ての施設に有資格者がいて、宿泊客・日帰り客などからの相談に応じてアドバイスを行っているということである。

 この事例からは、地域資源とは、それだけでは地域資源たり得ず、それを理解し、活用する人材がいてこそ地域資源となるということが見て取れる。その意味では、結局のところそうした「人」こそが最大の地域資源と言えるかもしれない。


復興にも温泉の活用を
 さて、温泉について語られる際によく言われることの一つに「転地効果」がある。転地効果とは、日常生活を離れ、いつもと違った環境に身を置くことによって、心身ともに気分転換を図れるということである。旅行がその最たるものとされるが、温泉地への旅行においては温泉そのものの効能が上乗せされるため、さらに効果が高いと考えられる。特に山間の「秘湯」の多い東北圏の温泉では、これに森林浴の効果も期待できる。
 
 転地効果をしっかりと得るためには、まず目的地として自宅から一〇〇勸幣緡イ譴疹貊蠅望ましいとされる。また転地効果はおよそ一ヶ月の滞在を経ると「慣れ」が生じて効果が減殺されてくるため、四、五日から一週間程度の期間が適していると言われる。こうした条件はまさに、東北における「湯治」そのものと言える。東北の人たちは古くから湯治を通して、心身の疲労を癒していたわけである。

 復興までの決して近くはない道のりの中で、この温泉についての魅力を再度見直したい。東北にとって温泉は、域外の人を呼び込む地域資源としてだけでなく、否が応でも長丁場となる東北復興の道程において、復興に携わる全ての人たちが心身のストレスを解消するまたとない手段としても積極的に活用でき得る資源でもある。


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2012年12月29日

私的東北論その41〜「震災遺構」をどうするか(「東北復興」紙への寄稿原稿)

イメージ 1 「東北復興第7号が12月16日に刊行された。

 今回、砂越氏は、「東北の『伝説』の真偽を追求し、東北の歴史・文化の定説をひっくり返そうというチャレンジ」の連載開始を高らかに宣言された。貴重な試みだと思う。 その掘り起こした東北文化を共有し、自信を取り戻し、復興という難事業に東北全体で、東北人が同胞となって取り組もうという呼びかけでもある。そして、早速「埋もれた東北文化を掘り起こす旅」を始めた。この辺りの行動の速さはさすがと言う他ない。

 他にも、前号に引き続いての郷土芸能取材、古山拓氏の「ケルトと東北」シリーズの完結編、げんさんによる九州と東北の比較文化論など読みどころ満載である。「笑い仏」さまの連載は今回、「笑い仏」さまが逗留された當麻寺中之坊院主の松村實昭師が寄稿されている。

 この第7号に寄せた私の拙文が下記である。


「震災遺構」をどうするか

議論が分かれる「震災遺構」の取り扱い
 東日本大震災発生からまもなく一年九カ月になる。大津波によって甚大な被害を受けた沿岸地域でも瓦礫の撤去は進んでいる。それに伴って議論の的となっているのが、「震災遺構」の取り扱いである。

 震災後マス・メディアによって繰り返し報じられた、陸に打ち上げられた大型船、建物の二階部分に乗った大型バスや観光船、転倒した鉄筋コンクリートの建物、鉄筋の骨組みだけになった建物、これらは津波のとてつもない威力をまざまざと見せつけた「生き証人」である。こうした「震災遺構」は瓦礫の撤去と被災地域の復興が進むにつれ、徐々にその数を減らしてきている。つまり、こうした地震や津波の恐ろしさを物語る遺構も瓦礫と一緒に撤去されつつあるのである。

 このことについて、意見は真っ二つに分かれている。一方は「あると地震の恐怖や亡くなった家族のことを思い出すので早く撤去してほしい」というもの、もう一方は「地震や津波の恐ろしさを後世に伝えるものとして保存してほしい」というものである。
 

他地域における先例
 実は、こうした「震災遺構」の保存については、同様の議論が過去に地震に見舞われた地域でも起こっている。そして、それに対してどのような結論を出したかについては、地域によって異なっているのである。

 九三年に北海道南西沖地震による津波と火災で一九八名の犠牲者を出した奥尻島では、「震災遺構」は残されなかった。海水に浸かった建物の保存や維持管理の困難さ、遺族感情への配慮がその理由だったようである。壊滅した集落の跡地には公園ができ、慰霊碑も立っているが、震災そのものの痕跡は残っていないそうである。島は復興したが、一方で震災の記憶の風化も指摘されている。

 九五年の阪神大震災では、神戸市は大火災に見舞われた。その火災に耐えて残った公設市場の壁は、「震災の語り部」として海を隔てた淡路島の北淡震災記念公園に移設されて保存された。「神戸の壁」と呼ばれるこの震災遺構も、神戸市自体は保存に消極的で、地域でも必ずしも保存に賛成の声ばかりではなかったという。そのような時に、対岸の淡路島の旧津名町長の故柏木和三郎氏が受け入れを表明してくれたため、震災後つくられた北淡震災記念公園で保存されることになったのだそうである。神戸市でも現在、「海を渡った」この「神戸の壁」を除けば震災の爪痕を感じさせるものはほとんどないようである。

 一方、〇四年の新潟県中越地震を経験した長岡・小千谷両市は昨年、地震の「メモリアル拠点」として残された四つの施設と三つの公園を結んだ「中越メモリアル回廊」を立ち上げた。これは被災地をそのまま「情報の保管庫」にする試みとのことで、それぞれの拠点を巡って、震災の記憶と復興の軌跡に触れてもらうことを目的に整備されたのだそうである。土砂崩れでできた「天然ダム」によって水没した家屋がそのまま残されたメモリアルパークもある。車が土砂崩れに巻き込まれた現場はそのまま慰霊のためのメモリアルパークとなった。

 このように、地震一つ取ってみても、撤去、移設、保存と、地域によって取られた対応は異なっていることが分かる。日本では地震だけでなく、火山の噴火による災害もある。九一年には雲仙・普賢岳噴火で四三名もの犠牲者が出た。その後、現地では火砕流で焼けた小学校や自動車、土石流で埋没した住宅群が保存された。三宅島の噴火でも溶岩流に埋没した学校や土石流に埋没した神社が残されている。


「原爆ドーム」に学ぶ
 こうした事例を参考にしながら、今回の大震災においても「震災遺構」の取り扱いについて考えていかなければならない。もちろん、瓦礫と一緒に撤去してしまうのが最も簡単である。それ以降の保存や維持のための費用も掛からないし、被災者も見る度に震災のことを思い出さなくても済む。

 しかし、本当にそれでよいのだろうか、と思うのである。失ったものは二度と戻せない。見るのは辛い、その気持ちは分かる。しかし、辛い、という今の気持ちだけで即撤去してしまう前に、将来のためにもう少し考える時間が必要なのではないかと思うのである。

 もう一つ、参考にしたい事例は、広島市にある「原爆ドーム」である。原爆ドームは、元々広島県物産陳列館として竣工され、その後広島県産業奨励館と改称された。四五年八月六日に広島市に落とされた原子爆弾により、爆心地から約一六〇mの距離にあったこの産業奨励館も爆風と熱線で大破し全焼、当時建物の中にいたおよそ三〇人の人は皆即死だったそうである。

 戦後、そのてっぺんの形から誰からともなく「原爆ドーム」と呼ばれることになったこの旧産業奨励館についてはやはり、記念物として残すべきという声と、被爆の悲惨な記憶につながるので取り壊すべきという声に二分されたという。保存に向けて大きく動き出したきっかけは、一歳の時に被爆し、六〇年にわずか十六歳で白血病のため亡くなった楮山ヒロ子さんが残した日記に書かれていた「あのいたいたしい産業奨励館だけが いつまでも おそろしい原爆を世にうったえてくれるのだろうか」という言葉だったそうである。

 これを契機に保存を求める声が次第に高まり、六六年広島市議会は「原爆ドーム保存を要望する決議」を採択する。そこには、「ドームを完全に保存し、後世に残すことは、原爆でなくなられた二〇数万の霊にたいしても、また世界の平和をねがう人々にたいしても、われわれが果たさねばならぬ義務の一つである」とある。この翌年、第一回の保存工事が行われた。被爆から実に二二年後のことである。その後、九六年に世界遺産への登録が決定したのは周知の通りである。


「間接資料」と「実物資料」
 「百聞は一見に如かず」と言う。原爆ドームは核兵器の恐ろしさを如実に物語る象徴的存在となった。我々は、あの建物を見る度に、自分が体験していなくても、広島を襲った悲劇に思いを馳せることができる。

 今回の地震では、多くの人が携帯のカメラなどで津波の写真や動画を撮影した。たくさんの証言もある。「震災遺構」がなくても、それらが地震や津波の恐ろしさを伝えてくれるのではないか、そのような意見もあるだろう。もちろん、それはそれで震災の貴重な記録である。しかし、それはあくまで記録である。

 記録は、博物館学の観点から見れば「間接資料(二次資料)」である。それに対して、「震災遺構」のようなものは「実物資料(一次資料)」と呼ばれる。記録に加えて、地震や津波の恐ろしさを他の何よりも雄弁に語ってくれる「震災の語り部」たる「震災遺構」があれば、それらがまさに、原爆ドームが終戦から六七年経った今も戦争の悲惨さと平和の尊さを語り継いでいるのと同様に、これから先も自然災害の恐ろしさと防災意識の大切さを教え続けてくれるに違いないと思うのである。


被災全市町村が最低一つ震災遺構保存を
 先の原爆ドーム保存を求める決議になぞらえれば、震災の遺構を保存し、後世に残すことは、地震で亡くなられた二万近い霊に対しても、また災害からの復興を願う人々に対しても、我々が果たさねばならぬ義務の一つである、と言える。

 この国では、どこにいても地震を始めとする自然災害のリスクからは免れ得ない。私たちが遭遇したこの上なく恐ろしく悲しい体験を、自分や自分の大切な人の身を守るための方策と共に他の地域の人たちに伝えることは、私たちにしかできないことである。そしてそれは、震災後、全国各地から寄せられ、今も続いている支援の手に対する、私たちができる恩返しの一つでもある。

 他地域の人たちだけのことではない。この地域の将来の世代の人たちのこともある。私たちは大震災のことは決して忘れない。私たちの子どもの世代も大丈夫だろう。しかし、その子どもやその先の世代となればどうだろうか。それら先の世代でも、見れば地震や津波の恐ろしさが伝わる、そうしたものを残すことは、やはり私たちの責務ではないだろうか。

 もちろん、残すと判断するのは、今すぐでなくてもいい。ただ、将来の可能性のために、震災遺構となりうる対象の早期撤去については、しばし留保してほしいと思うのである。広島の原爆ドームが保存されるまでには二二年の歳月が必要だったが、その間原爆ドームが撤去か保存かという判断を留保されたために、保存の機運が高まった後の保存が可能となったのである。もし戦後すぐ撤去され、被爆を物語るものが何も残っていなかったとすれば、当然保存を求める動きもなく、世界遺産登録もなく、日本に住む誰もが被爆の悲劇の手掛かりとしていつでも思い起こすことができるあの建物の映像もなかったわけである。

docx 今回の大震災で東北は、北は青森の三沢市から南は福島のいわき市まで、太平洋岸のほとんどの市町村が被害を受けた。私は願わくは、これらの被災した市町村がそれぞれ、最低一つずつでも、大震災の痕跡を伝える遺構を残してくれればよい、と強く思っているのである(写真は津波によって3階建ての建物の上に乗り上げた乗用車。震災直後随所で見られた光景である)。


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2012年03月14日

私的東北論その33〜地震から1年が経って

120311-160836 地震発生から1年経った。3月11日には、弟が見つかった仙台市若林区荒浜にある南長沼に久々に足を運んで、花を供えてきた。

 南長沼には先客がいた。以前、このブログにもコメントを寄せてくれた「ブルーバードつながりの知人さんだった。「ブルーバードつながりの知人」さんは、弟とは弟の愛車だったブルーバード(ただのブルーバードではない。U12型のSSS ATTESA LIMITEDという、知る人ぞ知るマニアックなスポーツカーである)が縁で知り合ったそうである。弟がたまたま駐車場で車いじりをしていた際に声を掛けてくれてそれ以来親交が始まったとのことだった。

 聞けば「ブルーバードつながりの知人」さんは、この日だけではなく、なんと月命日である11日には毎月この南長沼を訪れて弟の冥福を祈ってくれていたらしい。両親もこの南長沼で「ブルーバードつながりの知人」さんとばったり顔を合わせたことがあったそうである。実の兄である私がこの南長沼を訪れるのなど昨年5月以来10か月ぶりだと言うのに、弟は本当にいい友達を持ったものである。もっとも、ずぼらで知られる私との比較があまり意味のあることではないのは言を俟たない(笑)。

 さて、この1年いろいろなことがあった。もちろん、これだけの大きな地震であるから、復興は途上であるが、それぞれに新たな歩みを始めている。先日ドクター・ディマティーニの講演を聴く機会があったが、氏は、起きた出来事はすべてニュートラル、どんなことにも必ずプラスとマイナスがあると話していた。その両方に目を向けることが大事で、プラスにだけ目を向けるのはファンタジー、マイナスにだけ目を向けるのは悪夢だと強調していた。震災に関するこの1年の動きにももちろん、プラスもマイナスもある。肝心なのは、ファンタジーに生きるのではなく、さりとて悪夢の中に生きるのでもない、絶えず現実を見据えて一歩ずつ進むことである。

 震災関連で最近よく耳にするのは震災瓦礫の広域処理問題である。仙台にいる私から見ると、もちろん放射線量の高い地域の瓦礫は放射性物質の拡散を防ぐ意味でも域外に持ち出すべきではないと思うが、放射線量が高くない地域のがれきで域内処理が追いつかない分についてはもう少し協力が得られてもいいのではないか、という印象を持つ。ただ、きっと受け入れる側にとっては、東北は押し並べて放射性物質に汚染されていると見えるのだろう。

 誰が作成したものなのか不明だが、それが分かるような秀逸な図がネット上にアップされていた。東電と政治家の認識はネタだろうが、東北と他地域の汚染地域についての認識の差は、確かに概ねこのようなものだろうと思う。岩手県宮古市のがれきの受け入れに福島第一原発からほぼ同じ距離にある神奈川県で反対運動が起こる、原発の放射性物質の影響がほぼないに等しい青森県の雪を使ったイベントが沖縄で中止になる、といった事態は、まさにそうした認識の差の現れであると言える。そのような中でも、東京や静岡に加えて青森、秋田、山形の同じ東北の3県が瓦礫受け入れを表明してくれているのはやはり心強く、ありがたいことである。

 しかし、だからと言って、がれきを受け入れない自治体を東北にいる我々が責めてはいけないと思う。受け入れは現在のところ、義務ではなくあくまで受け入れ側の善意・好意によるものであるからである(今後は国が法律に基づいて自治体に要請するということだそうだが)。我々としては、受け入れてくれる自治体には感謝しつつ、さりとて受け入れてくれない自治体を恨みに思わず、受け入れられない分については、自分たちで何とか処理する方法を考える機会を与えられたと考える方がよいと思う。

 実際、自治体の首長からも、がれき処理を雇用対策の事業として自前でやりたいという意見が出されていることでもあるし(岩泉町長のインタビュー陸前高田市長のインタビュー)、多くの自治体が計画している沿岸部の海岸防災林の復旧や「復興の森」構想にもがれきは使える。まさに知恵の出しどころである。

 海岸防災林について言えば、今回仙台平野の沿岸に植えられていた松は軒並み津波に倒され、それだけでなくがれきの一部となってかなり内陸の方にまで押し流された。津波そのものはもちろんだが、この倒れた松がぶつかったことによって倒壊した住宅もあったのではないだろうか。ところが、よくよく見てみると、同じ仙台平野でもほとんど根こそぎ松が倒された地域と、かなりの密度で松が残った地域がある。地形の面から言って、仙台平野に押し寄せた津波にそれほど地域差があったとは考えられないので、その違いは何なのか気になっていた。

 そうしたところ、この記事(海岸林が発揮した防災機能)を読んで謎が解けた。やはり、沿岸の松(クロマツ)が根こそぎ押し倒された場所と、倒れずに津波を受け止め、津波が住宅地に押し寄せる時間を遅らせた場所があったのだそうである。そして、そのクロマツが津波を押しとどめた時間のお蔭でその地域の住民は仙台空港に逃げ込むことができたというのである。仙台平野の防潮林は今回の大津波に全面敗北したわけではなかった。場所によってはしっかりその役割を果たしていたのである。その違いは、記事によれば盛り土をして植林したか、海岸の砂に直接植林したかだったそうである。盛り土をせずに植えられたクロマツは砂の上では十分に根を張ることができず、わずかな力で倒れてしまう。それが津波によって倒された松と、踏みとどまって住民の命を救った松との違いだったのである。

 実際に「復興の森」となるような海岸防災林をつくるとすれば、このようにいざという時に、津波を完璧に防ぐことはできなくても、その威力を弱め、近隣住民が避難できる時間をつくることができる森にしなければいけない。この記事(がれきも生かし、自然植生で「森の防波堤」を作ろう)によれば、そのためにはぜひともがれきが必要だというのである。倒壊した家屋の木材やレンガ、コンクリートといった多くのがれきをある程度の大きさに砕いて土と交ぜれば、「森の防波堤」のマウンド(土台)作りに活用できるのだそうである。そのマウンドの上に、松だけでなくその土地本来の常緑広葉樹を中心に混植していけば、15〜20年後には多層群落の「本物の森」が育つ。その根は地中深く育つのでマウンドのがれきをしっかりと固定でき、かつがれきで土中にすき間ができるため、根が呼吸できるというのである。誰も引き受けたがらないがれきだが、実は防災にとって欠かすことのできない重要なアイテムともなり得るのである。

 もう一つ復興の上で避けては通れないのは、まさにがれきの広域処理が進まない大きな要因となっている原発事故を抱えるその福島の問題である。先日、ある人からこう言われた。「宮城県として福島県に救いの手を差し伸べているのか」、と。これには虚を突かれた思いであった。同じ被災地であって、こちらは津波による甚大な被害、あちらは津波プラス原発事故による影響。しかし、福島は大変だということは重々承知しつつ、こちらも被災地であるという思いがどこかにあって、それでこちらから積極的に支援の手を差し伸べてはこなかったのではないかと気づかされた。

 福島を失っては、東北は東北でなくなる。福島を助けることが、東北全体が立ち上がるためには不可欠である。もちろん、まだまだ大変なことも多いが、その大変な中でも決して福島のことを忘れず、できることは助力を惜しまないという意識が、この先も長く続く復興のためには必要なことだと思う。

 南長沼で弟には、とりあえず元気でやっているということくらいしか報告することができなかった。来年、この地を訪れる時にはもっと多くのことを報告できるようにしたいと思う。

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