東北独立  

2013年07月31日

私的東北論その47〜道州制導入の現状と課題(「東北復興」紙への寄稿原稿)

tohoku-fukko_12 早いもので7月も今日で最後である。気がつけば、と言うか、実は気がついていたのだが、今月はこれまでアップしたものに細々追記をしたくらいで(「東北各地の今年のビールイベント」など)、新しいものはまだ何もアップしていないではないか(汗)。

 この間、「東北復興」紙の第12号が5月16日に、第13号が6月16日に刊行された。本業を抱えつつ、私のような入稿の遅い執筆者を抱えつつ(汗)、東北復興のための情報を発信するために、電子新聞を毎月毎月1日の遅れもなく発行し続けている砂越豊氏の姿勢には本当に頭が下がる。




tohoku-fukko_13 この第12号、第13号では2回に亘って、私は道州制の現状と課題について取り上げた。紹介の遅れを取り戻すためにここで一挙掲載させていただく。しかも、ほとんどどうでもよいことだが(笑)、誌面の都合でカットした部分も復活させた「完全版」である。2回分+追加分ということで、ブログにあるまじきとんでもない字数(9,937字)となってしまっているので、時間に余裕のある時に読んでいただければ幸いである。
 






道州制導入の現状と課題

道州制を巡るこれまでの動き
 民主党政権時代に停滞していた道州制導入に関する議論が、第二次安倍政権に代わって再び動き出しつつある。今回はこの動きについて見ていきたい。

 そもそも、道州制導入に関する議論が最も進展したのは、第一次安倍内閣の時である。元々小泉政権下の二〇〇六年に、第二八次地方制度調査会が「道州制のあり方に関する答申」を出したのを受ける形で、次の第一次安倍内閣では道州制担当大臣が置かれた。

 また、第一次安倍内閣では道州制ビジョン懇談会が設立されたが、二〇〇八年に出されたその中間報告では「道州制は、日本を活性化させる極めて有効な手段であり、その実現に向けて国民全体に働きかけて、邁進すべきものである」として、道州制導入に極めて前向きな姿勢を示している。そして、「『中央集権国家』から『分権型国家』、いわゆる『地域主権型道州制国家』への転換は、画一的企画大量生産から知価社会、グローバル化という時代の転換に対応する歴史的必然である」とまで述べている。

 それに次いで二〇〇八年七月に出された自民党の「道州制に関する第三次中間報告」でも、「二一世紀に羽ばたこうとする日本は、官僚統治による中央集権政治から脱却し、国民の総意と努力による、安全で、安心で、公平な国づくり、地域づくりを推進しなければならない。そしてわが国の存続と発展のためには、抜本的に国のあり方を見直し、中央政府及び地方政府のそれぞれの責任を明確化するとともに、地域の経済力の強化を図ることが必要である」と高らかに謳っている。道州制導入の目的としては、|羆集権体制を一新し、基礎自治体中心の地方分権体制へ移行、国家戦略、危機管理に強い中央政府と、広域化する行政課題にも的確に対応し国際競争力を持つ地域経営主体として自立した道州政府を創出、9顱γ亙の政府の徹底的な効率化、づ豕一極集中を是正し、地方に多様で活力ある経済圏を創出、の四点を挙げている。

 この他、日本経団連も二〇〇七年に「道州制の導入に向けた第一次提言」を、翌二〇〇八年に「道州制の導入に向けた第二次提言」を相次いで公表し、道州制導入を速やかに進めるよう強く要望している。

 こう見てくると、道州制について取り沙汰されるようになったのはつい最近のことのように見えるが、実はそうではなく、例えば行政制度審議会が一九二七年に「州庁設置案」を提言するなど、議論そのものは戦前から続いてきており、その後も地方制度調査会や行政改革審議会などで道州制に関する答申が出されている。すなわち、国と地方の関係や、地方自治の「受け皿」についての問題は、長らく議論の対象になってきている一方、いまだ具体的なアクションがなされていないということが分かるのである。

dousyuusei再び動き出した道州制導入
 自民党の道州制推進本部は既に昨年六月に「道州制のイメージ」を公表、九月には「道州制基本法案」の骨子案を取りまとめていた。昨年一二月の総選挙では自民党が圧勝し、第二次安倍内閣が発足したが、この選挙において道州制導入は公約の一つともなっていた。総選挙での勝利、そして政権奪還を経て、自民党は道州制導入への動きを本格化させてきている。

 自民党が先に取りまとめた「道州制基本法案」は、連立与党である公明党の「道州制導入を前提とした法案ではない」との主張に配慮して「道州制推進基本法案」という名称となり、地方の意見を踏まえて議論を進める旨が盛り込まれた。両党は、この法案を今国会に提出し、早ければ今国会中にも可決・成立させる考えのようである。道州制導入には日本維新の会やみんなの党、民主党も賛成すると見られ、採決されれば成立はほぼ確実な情勢である。

基本法案に盛り込まれた道州制の姿
 では、この「基本法案」とはどのようなものだろうか。最初に押さえておきたいのは、今回の法案は、一飛びに道州制の導入を決定するというものではなく、導入の具体的な検討に入るための基本的方向や手続き、必要な法制の整備について定めるという趣旨のものであるということである。

 法案ではまず道州制の定義について、都道府県の区域より広い区域において設置され、国から移譲された広域事務と都道府県から承継した事務を処理する広域的な地方公共団体である「道州」と、市町村の区域を基礎として設置され、従来の市町村の事務と都道府県から承継した事務を処理する基礎的な地方公共団体である「基礎自治体」で構成される地方自治制度である、としている。

 その上で、導入の基本理念として、
 
 々颪量魍箋擇啜’修硫革の方向性を明らかにする。
 中央集権体制を見直し、国と地方の役割分担を踏まえ、道州及び基礎自治体を中心とする地方分権体制を構築する。
 9颪了務を国家の存立の根幹に関わるもの、国家的危機管理その他国民の生命、身体及び財産の保護に国の関与が必要なもの、国民経済の基盤整備に関するもの並びに真に全国的な視点に立って行わなければならないものに極力限定し、国家機能の集約、強化を図る。
 きに規定する事務以外の国の事務については、国から道州へ広く権限を移譲し、道州は、従来の国家機能の一部を担い、国際競争力を持つ地域経営の主体として構築する。
 ゴ霑端治体は、住民に身近な地方公共団体として、従来の都道府県及び市町村の権限をおおむね併せ持ち、住民に直接関わる事務について自ら考え、自ら実践できる地域完結性を有する主体として構築する。
 国及び地方の組織を簡素化し、国、地方を通じた徹底した行政改革を行う。
 東京一極集中を是正し、多様で活力ある地方経済圏を創出し得るようにする。

の七点を挙げた。一覧すると分かるように、これらは前述の「道州制に関する第三次中間報告」の内容を多く汲んでいる。

 その基本理念を踏まえ、制度化の基本的な方向としては、
 
 ‥堝刺楔を廃止し、全国の区域を分けて道州制を設置する。都の在り方については、道州制国民会議において、その首都としての機能の観点から総合的に検討するものとする。
 道州は、広域的な地方公共団体とし、前述に規定する事務を除き、国から道州へ大幅に事務を移譲させて、広域事務を処理するとともに、一部都道府県から承継した事務を処理する。
 4霑端治体は、市町村の区域を基礎として編成し、従来の市町村の事務を処理するとともに、住民に身近な事務は都道府県から基礎自治体に大幅に承継させて、当該事務を処理する。基礎自治体においては、従来の市町村の区域において、地域コミュニティが維持、発展できるよう、制度的配慮を行う。
 て蚕5擇售霑端治体の長及び議会の議員は、住民が直接選挙する。
 テ蚕の事務に関する国の立法は必要最小限のものに限定するとともに、道州の自主性及び自立性が十分に発揮されるよう道州の立法権限の拡大、強化を図る。
 国の行政機関は整理合理化するとともに、道州及び基礎自治体の事務に関する国の関与は極力縮小する。
 道州及び基礎自治体の事務を適切に処理するため、道州及び基礎自治体に必要な税源を付与するとともに、税源の偏在を是正するため必要な税制調整制度を設ける。

の七点を挙げている。

道州制導入へのプロセス
 道州制導入への具体的な手続きについてはまず、内閣に「道州制推進本部」を置くことを定めている。同本部は、‘蚕制に関する企画及び立案並びに総合調整に関する事務、道州制に関する施策の実施の推進に関する事務、その他法令の規定により本部に属する事務、を司るとしている。

 さらに、内閣府には「道州制国民会議」を置く。同会議は、‘盂嫣輙大臣の諮問に応じて道州制に関する重要事項を調査審議する、↓,僚斗彁項に関し、内閣総理大臣に意見を述べる、その他法令の規定によりその権限に属する事務を司る、とされている。

 と同時に内閣総理大臣は、
 
 ‘蚕制の区割り、事務所の所在地その他道州の設置に関すること
 国、道州及び基礎自治体の事務分担に関すること
 9颪竜々修虜栃塋造咾帽颪瞭蚕5擇售霑端治体への関与の在り方に関すること
 す顱道州及び基礎自治体の立法権限及びその相互関係に関すること
 テ蚕5擇售霑端治体の税制その他の財政制度並びに財政調整制度に関すること
 ζ蚕5擇售霑端治体の公務員制度並びに道州制の導入に伴う公務員の身分の変更等に関すること
 道州及び基礎自治体の議会の在り方並びに長と議会の関係に関すること
 ┫霑端治体の名称、規模及び編成の在り方並びに基礎自治体における地域コミュニティに関すること
 道州及び基礎自治体の組織に関すること
 首都及び大都市の在り方に関すること
 道州制の導入に関する国の法制の整備に関すること
 都道府県の事務の道州及び基礎自治体への承継手続きその他の道州制の導入に伴い検討が必要な事項に関すること

については必ず同会議に諮問しなければならないと定められており、法案成立後はこの道州制国民会議の動向が道州制導入の具体化を図る上で大きな鍵になることが分かる。

 また、同会議は諮問を受けた場合には三年以内の答申を、また政府は答申があった時は二年を目途に必要な法制の整備を実施しなければならないことが定められている。いわば同会議の決定事項がそのまま法制として整備されることになるわけで、ここからも同会議の存在の大きさが見て取れる。

根強い慎重論・反対論
 こうした動きを見ていると、あたかも道州制導入がすぐ現実のものとなりつつあるようにも見えるが、一方で道州制導入には根強い慎重論や反対論もある。

 道州制導入に前向きな知事と政令指定都市市長でつくる「道州制知事・指定都市市長連合」は二月に「地方分権の究極の姿である道州制の早期実現に向けた積極的な取組を求める」との声明を発表しているが、四月一八日に開催された全国知事会では、道州制導入に慎重な立場を取る知事から反対意見が相次いだ。

 全国知事会では今年一月、「道州制に関する基本的考え方」を取りまとめている。その中では、道州制の基本原則、道州制検討の進め方、地方分権改革の推進の三点について詳細に前提条件を提示している。これは実効性ある道州制導入について提言を行っていると見える一方、「このような条件を満たさない道州制の導入は認められない」として道州制導入のハードルを上げているようにも見える。

 結局四月一八日の会合では、全国知事会は、道州制基本法案には「いくつかの懸念がある」として、

 |羆府省等国の行政組織のあり方について、法案骨子案においては、国の行政機関の整理合理化との方向性が示されてはいるが、道州制が中央集権体制を改め、地方分権型国家を構築する、正に国のあり方を根底から見直す改革とするならば、法案骨子案において、国の出先機関の原則廃止、国の中央府省の解体・再編が不可欠であると考える。
 基礎自治体のあり方について、法案骨子案においては、都道府県を廃止してその大部分の事務を基礎自治体に移譲し、残りの一部を道州に引き継ぐとしている。しかし、産業・雇用政策や指定区間外国道、指定区間一級河川の管理、また、警察、環境保全といった広域的事務は道州が自己完結的に担うものと考えられる。仮に、そうした事務を基礎自治体が引き継ぐとするならば、市町村の広域的再編が問題となるのではないかと考える。
 
と指摘、これらの二点について更なる検討を求めた。

 道州制推進知事・指定都市市長連合の共同代表を橋下徹大阪市長とともに務める村井嘉浩宮城県知事は周知の通り道州制導入に極めて前向きだが、道州制導入の暁には同じ「東北州」を構成すると思われる他の東北五県の知事は揃って道州制導入に慎重である。ばかりか、この連合には仙台市長も参加していない。村井知事はもっと他の知事や仙台市長との関係を強化して足元を固めるべきではないかというのが率直な印象である。

 一方、自由法曹団も四月一五日に「住民の声とくらしを切り捨てる道州制を批判する」との声明を出している。その中では道州制の問題点として,びやかされる社会権保障、空洞化する地方自治、8務員の大量解雇による雇用不安の拡大、の三点を挙げている。

 こうした道州制に対する不信や疑心暗鬼も分からないではない。何と言っても北海道の例がある。北海道は二〇〇六年に成立した道州制特区推進法の対象となった。既に道州の規模を持つ北海道に、先行して道州制の「モデル事業」を担わせようとしたのである。ところがである。北海道が提言した三〇にも及ぶ権限移譲項目の中で、認められたのはたったの二項目である。これでは国の道州制導入への姿勢に疑念を抱かれても仕方がないのではないか。すなわち、道州制は導入されても、国は権限を大幅に地方に移譲する考えはないのではないか、ということである。

 ここまで、道州制を取り巻く現状と課題について見てきた。次回はこれらを踏まえて、導入されるべき道州制像についてさらに考えてみたい。(註:ここまで第12号掲載分)


 道州制に対する根強い反対
 前回、道州制を巡るこれまでの動きを振り返ってみた。こうして見てみると、現在の都道府県をどうするかということについての議論は実に長い期間に亘って、何度も取り上げられてきていることが分かる。にも関わらず、いまだ具体的なアクションは起こっていないわけである。その背景には、道州制に関する反対意見が根強いことがある。

 その代表的な意見は「道州になって現在の都道府県がなくなると地方自治が住民から遠くなるのではないか」というものである。確かに一見、そのようにも見える。例えば、東北六県が一つの州となった場合、どこが州の中心になっても、それ以外の地域から見れば、現在の県庁所在地よりも明らかに遠くなることになる。

 ただ、ここで現在の四七都道府県になった頃のことを考えてみたい。一八七一年(明治四年)の廃藩置県から幾度かの変遷を経て四七都道府県となったのは一八九〇年(明治二三年)のことである。ちなみに、その前年の一八八九年に新橋神戸間の鉄道が開通している。この時の新橋神戸間の所要時間は驚くなかれ下りで二〇時間五分、上りで二〇時一〇分である。四七都道府県が定められたのはそのような時代だったのである。翻って今、東京大阪間の所要時間はN700系「のぞみ」で二時間二五分である。時間距離がおよそ一〇分の一近くにもなっている中、道州になって多くの住民からの距離が遠くなるから自治も遠くなるというのは根拠が薄いように思われる。

 そもそも、州の中心から遠くなるから、地方自治も遠くなるという論も、そう単純に結び付けられる話ではないようにも思われる。実際、現在の都道府県による自治は本当にそこに住む住民にとって近いものであるかどうか。それは中心地からの距離の問題ではなく、そこで行われている自治の内容によるのではないだろうか。

道州は「大きい」のか「小さい」のか
 今の都道府県から見ると、それらが集まってできる道州は確かに大きいように見える。しかし視点を転じてみるとどうか。もしそれが従来、国が担っていた権限を大きく移譲されてできたものだとしたら、ということである。その場合、道州はこれまでの国よりもはるかに小さく、身近なものになっていると言えるのではないだろうか。これまで東京都心で全て決められてきたことのうちの相当数の権限が道州に移っていれば、政治はまさに住民から見てより近いものになるのではないだろうか。そのような道州制であるならば、私は道州制に賛成である。その意味でも、道州制の導入は国からの権限移譲とセットでないとうまくいかないに違いない。権限移譲なき道州制は、単なる都道府県合併にしか過ぎないだろう。

 今後導入されようとする道州制が、権限移譲とセットになった実質を伴ったものか、それとも都道府県合併の表面を装う名前だけのものかを判断する端的な手掛かりは、中央省庁の地方支分部局の扱いである。地方に権限を移譲させようとすれば、現在中央省庁の所掌事務を分掌する地方出先機関であるこれらの地方支分部局も、当然道州に統合されなければならないはずである。もし、これら地方支分部局がそのまま温存され、その一方で都道府県が道州となるような事態となれば、それは道州には何の権限も移譲されていない何よりの証左となる。

 逆に言えば、地方支分部局が道州に統合されることになれば、道州にとってこれほど心強いことはない。これまで都道府県は、各々のエリアの大きさで物事を考えていればよかったが、これからはその数倍の大きさのエリアで物事を考えていかなくてはならない。中央省庁の地方支分部局は、まさにこの道州のエリアの大きさでこれまでその職務を遂行してきている。そのノウハウは道州を前に進めるために何よりの力となるはずである。

やはり問題となる「州都」
 ただ、道州制でもたらされる変化はそれだけではない。先般一部週刊誌でも報じられたが、道州制を導入することによって実は地価にも大きな変化が生じることが予測されている。いわば、自分たちの住んでいる土地の価値に直結する問題があるのだというのである。具体的には、県が集まって州になることで行政機能が「州都」に集中し、それによって「州都」やその周辺の地価は上昇する一方、州都以外の都市では大幅な地価下落に見舞われるのではないかと不安視する声が出ているのである。

 現在でも県庁所在地と同じ県内の他地域の都市との格差は厳然としてある。道州制を導入した暁には、それと同様のことが、「州都」とそれ以外の現在の県庁所在地の間で起こるのではないか、という懸念があるのである。

 「東北州」実現の暁に「州都」と目されるのは、東北最大の人口を擁し、経済圏の規模も圧倒的に大きい仙台市だが、だからこそ決して仙台市を「州都」にしてはいけないのである。首都ワシントンと最大都市ニューヨークを持つアメリカや、首都北京と最大都市上海を持つ中国を例に引くまでもなく、なぜ世界で少なくとも三〇以上の国と地域が首都と最大都市とを分けているのかを考えれば、その理由は自明である。すなわち、政治の中枢と経済の中枢とを兼ねることによる首都への一極集中の弊害を避けるためである。

 東北州の「州都」を仙台市とすれば、確かに仙台市には東北のヒト・モノ・カネが集まり、市内及びその周辺の地価も上がり、そこに住む人はそのメリットを最大限享受できるかもしれない。しかし、そのメリットが東北の他地域にもたらされたデメリットの上に成り立っているのだとすれば、そんな道州制には何の意味もない。

 私は、「州都」は仙台市でもなく、またそれ以外の東北各県の県庁所在地でもないところに新たに設けるべきと考える。それで以前、この欄で岩手県平泉町を挙げた。平泉町は歴史的に見ても奥州藤原氏の拠点として東北の中心だったことがあり、地理的にも東北のちょうど中間点にある。最近奥州藤原氏時代の文化遺産が世界遺産に登録されたこともあり知名度もある。また現在の平泉町が面積約六三・五平方キロメートル、人口約八〇〇〇人の小さな町であることもプラスに働く。ここが「州都」になれば、なんでも州都に集中させるということは物理的にも不可能である。経済圏としては一関都市圏に属するが、その人口は合わせて十一万人程度で、仙台都市圏の一四分の一の規模である。地価の上昇も極めて限られた範囲内で収まるに違いない。

 小さな「州都」に加えて、東日本大震災のような大災害が発生した時のバックアップを考えて、「副都」も定めておく必要もあるだろう。こちらに関しては「州都」が太平洋側だとすれば、地理的に離れた日本海側のどこかが相応しいと考える。内陸の平泉を「州都」とすれば、「副都」は沿岸の港町山形県酒田市辺りも考えられる(秋田市も考えられるが現在の県庁所在地であるためここでは除外)。平泉からの距離や日本海側の南北の中間点ということを考慮するならば、秋田県湯沢市辺りも視野に入れる必要があるだろう。

「州都」だけではない難しい問題
 道州制を導入する際に難しいのは、「州都」をどこにするかということだけではない。財源の問題が大きく立ちはだかる。中央省庁の言い分はこうである。「大幅な権限移譲を求めるのであれば、財源も道州が独自に調達すべき」。そうなれば道州は独自に課税をするなどして財源を確保しなければならない。もちろん、権限が大きく移譲されるのであれば、現在の国税と地方税の比率の見直しも不可欠であるから、全て新たな課税で賄う必要はないにせよ、それで足りなかった場合に道州独自に増税することが果たしてそれが可能かどうか。

 また、膨大な国の債務をどうするかという問題も、道州制の行方を大きく左右する。中央省庁はこう主張するに違いない。「国の債務のうちこれまで地方に回すために背負った分は地方で肩代わりしてほしい」。

 これは、ちょうど国鉄の分割民営化の時の債務の処理を連想させる。あの時は三七兆円に上る旧国鉄債務を、国が二二・七兆円、分割民営化されたJR各社が一四・五兆円引き受けるということになった。道州制で国の肩代わりをするのなら、権限だけではなく財源や借金もという議論は、今のところ出てきていないが、今後具体的な議論が行われる中できっと出てくる。

 中央省庁は、地方に権限を渡さないために、この問題を持ち出してくる可能性が高い。その時にどう対応するかで、まさに道州制の成否が決まると言っても過言ではない。肝心なのは、ここで各都道府県が、借金まで背負わされるくらいなら権限など持たなくてもよいという近視眼的な思考に陥らないようにすることである。四七都道府県になって一二〇年余りが経過した。今ここで考えるべきは、これからの一二〇年を託すことのできる国の形、地方自治のあり方とはどのようなものなのかということである。それは決して、見た目ばかりの道州制ではないはずである。

まずは六県がまとまることから
 宮城県は村井知事の道州制に対する積極姿勢を反映して、地方分権・道州制推進本部を設置して、地方分権や道州制に関する情報の共有化を図り、それらを推進するために必要な課題解決や取組方策の検討を行っている。もちろん、それは道州制を進めるために必要なことの一つである。しかし、そのようにして道州制に関して得た情報や検討した結果などを東北の他の五つの県に提供したり、それについての意見交換をしたりという取り組みを、推進本部は十分にしているだろうか。道州制は一つの県だけでできるものではない。ましてや、東北の他の五つの県は、仙台への一極集中を懸念して、道州制そのものに極めて後ろ向きである。そこから一足飛びに道州制導入に持っていくことは困難である。まずは情報のやり取りをする中で信頼関係を構築していくことが必要である。特に、北東北三県は、元々三県での道州制を視野に、協調して検討を重ねてきた実績がある。そこで得られた検討結果について、今後の道州制の進展を念頭に、率直に耳を傾けることも必要であろう。

 他の先行事例に学ぶことも必要である。北海道はかつてイギリスのスコットランドに職員を派遣して、かの地の地方分権の実態について詳細な分析を行っている。スコットランドについては、この紙面でも奥羽越現像氏が何度か取り上げてくれているが、そうした事例についての学びを今後の取り組みに活かしていく努力も欠かせない。(註:ここまで第13号掲載分)

 また、住民に対する情報提供もまだまだ不十分であると言わざるを得ない。いまだ、道州制が何なのか、導入して何が変わるのかについて、住民の理解が十分とはとても言えないのが現状である。例えば、住民を対象にした道州制に関するイベントの開催やパンフレットの作成などを行うなど、住民にも道州制導入についての取り組みや議論に参加してもらう工夫を、これから積極的に進めていく必要があるのではないだろうか。

 そうした取り組みを進めつつ、やはりトップである村井知事に求められるのは、他の5つの県の知事、そして仙台市長との信頼関係の構築である。かつて北東北三県の知事が道州制に関して緊密な連携を取っていた状況を参考に、同じ東北にいる者同士として関係を深めていく努力をしていくべきであろう。その際に最も効果があると思うのは、前にも言ったが、「『州都』は仙台以外に置く」宣言をすることである。道州制導入の目的は、仙台市を「州都」にすることにあるのではないはずである。仙台市の「州都」を諦める、その決断こそが、道州制を前に進めるものと私は考える。


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2013年06月20日

私的東北論その46〜東北の「独立」はお話の中だけのことか(「東北復興」紙への寄稿原稿)

イメージ 11 4月16日に「東北復興」紙の第11号が刊行された。今回砂越氏は、一面で「松島・石巻復興レポート」と題して、松島と石巻の復興の現状についてレポートしている。また、道州制推進知事・指定都市市長連合が主催した「道州制推進フォーラム」についても詳しく報じている。新聞各紙が小さな扱いだっただけに、砂越氏のレポートは貴重である。スコットランドのローランドと東北の福島を「ボーダーズ(国境)」というキーワードで対比させたげんさんの論考も興味深かった。

 また、まつもとけいこ氏の寄稿「墓で眠っていないで起きてください!」も極めて印象的であった。氏によれば、岩手の民俗芸能は、その8割が供養のためのものだが、その供養とは「鎮魂」ではなく「魂奮い(たまふるい)」なのだそうである。「やすらかに眠ってください」ではなく、墓前で地を踏みしめ反閇し、笛や太鼓を激しく打ち鳴らして、「眠っていないで起きてください。そしてあの世まで持って行った無念な気持ち、やりたかったこと、我慢出来ないことを私たちに話してください。生きている私たちがその無念を晴らしますから」と魂で語りかけるものなのだとのことである。これは目からウロコであった。そのように見ると、民俗芸能の見方も随分変わってくる。そしてそれは、いわば今の震災復興にも密接につながるものであると言うことができるわけである。
 
 その第11号に寄せた拙文が下記である。西村寿行の「蒼茫の大地、滅ぶ」については、本ブログでも3回に亘って詳しく取り上げたことがあるが、今回はそのダイジェスト版に、その後の情報を付記したような感じである。なお、文中で紹介している原 亮氏の素晴らしいプレゼン「新生東北の門出、前途は実に洋々たり」のスライドはここでシェアされている。


蒼茫の大地滅ぶ上東北の「独立」はお話の中だけのことか

東北の「独立」を扱った小説
 東北の独立を扱った小説として最も有名なのは、井上ひさしの「吉里吉里人」だろう。これは、東北地方のある小さな村が政府に愛想を尽かして、「吉里吉里国」を名乗って独立を宣言する、というものである。昨年も村雲司の「阿武隈共和国独立宣言」が出てちょっとした話題になった。こちらは、「阿武隈村の人々が長年培った独自ブランドの米や牛豚鶏が都会の消費者に認知され、ようやく落ち着いた生活を手にした矢先に起きた福島第一原発事故…」という設定である。

 東北を舞台として日本からの独立を描く小説はこのようにいくつかあるが、中でも東北六県全部が日本国から独立を果たす、というスケールの大きなストーリーが特徴的なのが西村寿行の「蒼茫の大地、滅ぶ」である。現在では絶版となってしまっているが、上下二巻からなる大作である。実は以前、拙ブログでも詳しく取り上げたことがあるのだが、今回は再度この小説を題材に、東北の独立について考えてみたい。

 飛蝗というトノサマバッタなどの変異種がいる。時折大量発生して大集団を作り、植物や作物を食い尽くす蝗害を引き起こす。その飛蝗が中国大陸で大発生して総重量二億トンという想像を絶する巨大な群れとなり、日本海を渡って東北地方に襲来、東北地方はありとあらゆる農作物を食い尽くされ、深刻な飢餓状態に陥るという設定である。

 「そんなこと起こるわけがない」と思ってしまうが、実は有史以来現代に至るまで人類は度々蝗害に襲われている。日本でも、二〇〇七年に開港寸前の関西空港第二滑走路にトノサマバッタが数百万匹という大量発生をしたことがあった。実害はなかったが、このように何の前触れもなくバッタが突然大量発生することはあり得るのである。

 飛蝗が最初に降り立った青森県では津軽平野の農作物が瞬く間に食い尽くされる。与党の幹事長を務め次の総理とまで言われながら中央政界を引退して青森県知事となっていた野上正明は、東北六県から若者を六〇〇〇人集めて「東北地方守備隊」を結成させ、混乱の収拾に努める。一方、政府は被害の拡大に備えて、全国の備蓄米を東北分も含めてすべて首都圏に集めようとするが、食糧難に喘ぐ東北からの備蓄米の搬出は東北地方守備隊に阻止される。その後、飛蝗は岩手県へ南下、さらに宮城県、秋田県、山形県へも広がり、米や野菜は軒並み食い尽くされ、食糧難が深刻になり、治安も悪化する。蝗害の影響で株価が大暴落、円の価値も下がる。政府が決定した被災地支援は六〇〇〇億円の救済費割り当てのみ。失業や食糧難で暮らせなくなった東北地方の住民は一五〇万人もの難民となって首都圏を目指すが、東京都は難民の流入を警察力で阻止し、東京都周辺の各県も難民の滞在と国道以外の通行を禁じて締め出しを図る。苦境に立つ東北地方の住民に向けて、野上知事は他の東北の知事と共に、東北六県の日本国からの独立、そして「奥州国」の建国を宣言する、というのが「蒼茫の大地、滅ぶ」のストーリーである。

 蝗害以上に「東北の独立」が現実にあり得ない設定ではないか、と思われるかもしれない。しかし、実は東北が実際に独立を目指したことが歴史上あったとされる。本書の中でも紹介されているが、他でもない明治維新の時である。

 この時、奥羽越列藩同盟は輪王寺宮公現法親王を推戴した。輪王寺宮公現法親王は「東武皇帝」と称した。年号も「大政」と改元した。諸外国に使者を送り貿易開始の要請も行った。これはまさに「もう一つの日本」ができたような様相である。当時のニューヨークタイムズは、「日本の東北地方に新帝が立ち、二人のミカドが並立する状況になった」と伝えていたそうで、国際的に見ても日本という国が二つに分かれたという認識があったようである。しかし、奥羽越列藩同盟側の敗戦と同盟自体の瓦解により、この「もう一つの日本」が日の目を見ることはなかったわけである。

憲法に見る地方の独立
 日本国憲法の第九二条では「地方公共団体の組織及び運営に関する事項は、地方自治の本旨に基いて、法律でこれを定める」とされている。また、第九四条では「地方公共団体は、その財産を管理し、事務を処理し、及び行政を執行する権能を有し、法律の範囲内で条例を制定することができる」とされている。九二条の「地方自治の本旨」とは通常、住民自らが地域のことを考え、自らの手で治める「住民自治」と、地域のことは地方公共団体が自主性・自立性をもって、国の干渉を受けることなく自らの判断と責任の下に地域の実情に沿った行政を行っていく「団体自治」の二点からなるとされる。九四条では、地方公共団体の特定の地方における行政機関としての役割を定めると共に、地方における「独自立法」としての条例制定権を認めている。憲法はこのように、地方自治についてあえて一つの章を設けてその権利を保障している。その上に立って、小説の中で野上知事は、九二条は「確認事項」であって、憲法で言う地方公共団体は国家の成立以前から自然発生的に存立しており、そこに自治権も自然発生的に成立していた権利であるから、個人の基本的人権と同様に、地方自治の権限を国が立法で制限することは許されない、と主張している。

 にも関わらず、国と地方の間に厳然たる上下関係があるように見えるのは、事ある毎に槍玉に挙がる「三割自治」の問題のためである。一方に憲法で認められた「地方自治の本旨」というものがありながら、実際には財源を押さえられているために、国の意向に沿った形でしか自治体はその権限を行使できないという実態があるのである。最近、「一票の格差」を巡って「違憲」「違憲状態」という判決が相次いで出されたが、国と地方を取り巻くこのような固定化されている現状こそ「違憲状態」なのではないだろうか。

 かつて沖縄の読谷村長だった山内徳信氏は「地方は末端にあらず、国の先端なり」と喝破した。この言葉に込められた地方の気概に、今だからこそ思いを至らせるべきだと思う。地方のことは地方にいる自分たちが最もよく分かっているのだという自信と確信を持って、画一的な国の方針を超えた地方の独自性、自立性を、憲法に明記されている趣旨に則って確立していく時期に来ているのではないだろうか。たとえ財政の自立は難しいのだとしても、精神の自立から始めることは可能である。

東北の「独立宣言」
 本小説の白眉は何と言っても、東北の「独立宣言」の箇所である。小説の中で、東北から首都圏を目指した多数の難民が、「難民受け入れ拒否」を告げた東京都と荒川で衝突し、多数の死傷者を出した。その直後、野上知事はテレビとラジオで緊急会見を開き、東北の独立を宣言したのである。

 その中にこのようなくだりがある。「諸君には東北地方人たる名誉を守ることを、願う。自分の足で大地に立つことを、お願いする。諸君に武器を向けた東京都に未練を抱くな。中央政府に幻想を抱くな。たとえ、飢え死のうと、意地は捨てるな」。フィクションの話ではあるが、東北に住む者として、強いメッセージを感じる。

 今、東北は小説の中の蝗害に勝るとも劣らない大震災からの復興の途上にある。その震災復興を巡るこれまでの動きを振り返ると、残念な思いに駆られることも少なからずある。そこにこのメッセージである。

 曰く、「東北地方人たる名誉を守れ」、「自分の足で大地に立て」、「東京に未練を抱くな」、「中央政府に幻想を抱くな」、「たとえ、飢え死のうと、意地は捨てるな」、である。

 中央政府に過剰な期待を抱くことは禁物である。なぜなら、そこにいる人たちは、この地にいないからである。では、東北の復興は今後も進まないかと言えば、決してそのようなことはないと私は確信している。

 先日素晴らしいプレゼンテーションに接して、まさにわが意を得たりという心境だった。Fandroid EAST JAPAN 理事長の原亮氏は、大震災後、東北の地で「自らの手足と知恵で自走を始めた人たち」を多数紹介しながらこう言う。「東北は『人』という最大の資源を手にいれた」と。では、東北がさらなる発展を起こすための可能性、その条件面でのアドバンテージはどこにあるのだろうか。原氏は、東北は「課題先進地」だと指摘する。大震災でさらに拍車のかかった少子高齢化と過疎、その大震災では情報通信技術の限界や脆弱さも経験している。これらが「東北版リバースイノベーション」につながるのだ、と原氏は言うのである。「リバースイノベーション」とは、新興国で生まれた革新的な製品やサービスを先進国に逆流させる新しい経営手法のことである。「人」を得た東北で生まれた様々な分野の革新を日本の他地域、さらには日本国外にももたらす、そのような復興の姿が垣間見えるのではないだろうか。

 「グローカル」という言葉を最近よく聞く。「地球規模の視野で考え、地域視点で行動する(Think globally, act locally)」考え方のこととされるが、逆にローカルな営みが持つ可能性の大きさにも、その適用範囲を広げられるのではないかと私は考える。

 原氏は、東北に集う「人」に対して、ー走する意識とスキルを持つ、地域や分野を超えた対話を仕掛ける、Lね茲鯊臙世忙廚ど舛、の三点を要請している。確かに、そうした人がこの東北の地で相互に影響力を及ぼし合えば、自分たちで決め、自分たちでつくる、東北の未来への道筋が拓けてくるに違いない。

 東北の「独立」は、必ずしも政治的な独立を意味するのではない。東北にいる人たちが、自分たちのことは自分たちで決める、ということを決め、そのことを様々な場面、様々な領域で確かに実行に移した時、その時こそが東北が「独立」する時なのだと思う。


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2013年05月03日

私的東北論その45〜「一つの東北」の象徴としてのブナ(「東北復興」紙への寄稿原稿)

新しい画像10 3月16日に「東北復興」紙の第10号が刊行された。今回砂越氏は、一面で「郷土の祭礼と宗教と復興」と題して、各地の祭礼と宗教との関わりについて論考している。また、地名研究家の太宰幸子氏への取材から、地名を手掛かりに古代東北の実像に迫ろうとしている。このアプローチも興味深い。

 げんさんは今回、「蝦夷の国」としての庄内について、古代から近世に亘ってその足跡を紹介している。

 その第10号に寄せた拙文が下記である。





「一つの東北」の象徴としてのブナ

白神山地は見渡す限りのブナの森が広がる広すぎる東北を統合する象徴はあるか
 以前紹介した野田一夫氏の「東北は広すぎる」との言葉を引くまでもなく、東北地方は広く、大きい。日本の面積の十七・七%、新潟県まで含めた東北圏では二一・〇%を占める。同じ東北と言っても、青森の人にとっては福島より北海道の方が親近感があるかもしれない。その福島の人にとっては青森より茨城・栃木・群馬の方が親近感があるかもしれない。そう考えると、「東北は一つ」と思っているのは東北の中の方にいる人間の感覚であって、他地域と接している人間から見ると必ずしもそうは感じられないものなのかもしれない。

 地理的感覚だけではない。進もうとしている方向性にも違いがあったりする。以前げんさんがこの紙面でいみじくも書いていた通り、青森は震災後も原子力推進の立場であり、一方の福島は今も原発事故の影響が復興の最大の妨げとなっておりもちろん廃止の立場である。同じ東北でもこれだけ違う。道州制に対するスタンスも以前紹介したように、知事によって見解はかなり異なっている。

 「一つの東北」を東北にいる人が等しく実感するには、東北に共通する何かを見つけることが必要であるように思われる。例えば、この欄で何度か取り上げている、日本の中世史に燦然と輝く平泉文化。これは岩手のものと言うより、東北の至宝である。なんとなれば、平泉文化の影響を受けた仏像や建造物、遺跡が、東北各地に存在するからである。このような「一つの東北」を象徴するようなものが他にも何かあるだろうか。

世界遺産白神山地の意味するもの
 平泉の文化遺産が世界遺産に登録されたのは震災のあった二〇一一年のことであるが、東北にはそれより先に世界遺産に登録された遺産があった。知っての通り、それは白神山地である。

 青森県と秋田県にまたがる白神山地は、八〇〇〇年前の縄文時代から続くそのブナの原生林が世界的に見ても貴重なものであるとして、屋久杉で有名な鹿児島県の屋久島と共に、一九九三年に日本で初めての世界遺産として登録された。そのブナの森の面積は世界遺産の核心地域だけで一六九・七平方キロメートル、全体では実に一三〇〇平方キロメートルにも及ぶ。東京二三区の面積(六二一平方キロメートル)の倍以上である。特に核心地域に指定された地域はほとんど人の手が入っていないが、これだけの規模のブナの森が手つかずで残っているのは、世界的にもこの白神山地だけであるという。

 このブナに代表される落葉広葉樹、日本では東日本に多く分布している。秋になると紅葉し、冬になると葉を落とす落葉広葉樹の森は、針葉樹の森や常緑広葉樹の森と違い、四季の変化に富んでいる。ブナの森は特にそれが印象的である。春の目にまぶしい新緑。夏のブナの葉の濃い緑。秋の見事な紅葉。冬の葉を全て落とし寒風に耐える凛とした姿。どの季節も見る者の心を掴むものがある。もちろん、私もブナの木は大好きである。

使い道のないブナの有用性
 ところで、このブナ、漢字ではブナ、木へんに無と書く。木でない、木として使えるところがない、そのような意味合いであるそうである。確かに、木材としては腐りやすく曲がりやすく、なかなかに使い勝手の悪い材質である。それで各地に広く分布していたブナの森は次々に伐採され、代わりに木材として有用なスギなどが植林された。しかし、ブナの利用価値は、実は木材としての活用にあるのではない。

 ブナの森は、ブナの木材としての利用価値の低さとは対照的に、豊かな恵みをもたらす森である。ブナの森には実に多くの動植物が生育している。ブナを始めとするブナの森の中の植物は秋に実をつける。その実は森に住む動物の貴重な餌となる。また、ブナは冬に葉を落とす。それは大量の落ち葉となって森の微生物の餌となると共に、腐葉土層となって堆積する。腐葉土層は雨水や雪解け水を蓄え、濾過し、ミネラル分を付加して、清冽な天然水をつくる。その水はもちろん、森に住む動植物の命の源となる。ブナの森が「天然のダム」と言われるのは、そのような理由による。東北では実に数多くの天然水が商品化されているが、そのうちの少なくない天然水はブナの森から湧き出している天然水である。ブナの森のブナが老いて雪や強風などで倒れると、キノコ類が分解し、その倒木は森の土の一部となってまた植物を育てる。そのような生々流転が、ブナの森では延々と続いてきたわけである。

 我々の祖先もまた、こうした豊穣の森の恵みを得て生きていたと思われる。森に入って安らぎを覚えるのは、そうした先祖の遠い記憶が受け継がれているのかもしれない。

 もちろん、東北にあるブナの森は白神山地だけではない。規模の大きなものだけでも、福島の奥会津一帯にあるブナの森や、岩手と秋田の間にある和賀山塊のブナの森も見事なものである。その他にも、岩木山、八甲田山系、八幡平、岩手山、早池峰山、森吉山、鳥海山、月山、朝日連峰、蔵王連峰、飯豊連峰、吾妻連峰、安達太良山、会津磐梯山、会津駒ケ岳など、東北の有名な山の山麓には大抵ブナの森が広がっている。

 東北以外では、石川、岐阜、富山、福井の四県にまたがる白山山系のブナの森がその規模の大きさで有名である。白山信仰は東北各地でも広く見られるが、両者にはブナの森という共通性があるわけである。

バイオビジネスのフィールドとしてのブナの森
 ブナの森の恵みは水だけではない。最近、バイオビジネスが持て囃されているが、白神山地は有用な微生物の宝庫である。その中で最も有名なのは「白神こだま酵母」である。一九九七年に発見された、太古から白神山地に住んでいるこの酵母は、通常のパン酵母より天然の甘味成分トレハロースを多く作るため、パンに添加する糖分を少なくでき、またさすがに冬の厳しい白神山地に生息しているだけあって、低温に極めて強く、冷凍保存しても生き延びるために、貯蔵や移送もしやすいというメリットもある。このようなことから、東北だけではなく各地でこの酵母を使ったパンが作られており、その味わいは好評を得ているようである。他にも、やはり低温に強く、雑菌を駆逐する力の強い乳酸菌「作々楽(ささら)」なども製品化されている。

 また、白神山地ではないが、秋田県の別のブナの森からは、ビールを醸造するのに適した酵母も見つかっており、既にその酵母を使ったビールが、「ぶなの森ビール」として商品化されている。こちらのビールは、通常のビールよりも風味が爽やかでのど越しもよい。たとえて言えば、「森林浴」の印象である。

 余談だが、東北でも特に秋田県はこうしたバイオビジネスに東北で最も熱心な印象がある。「白神こだま酵母」も「作々楽」も秋田県の外郭団体である秋田県総合食品研究センターが特許を保有している。同センターは他にも、秋田県内の地ビール醸造所と共同で桜の木から採取した天然酵母で地ビールを醸造するなど、官民一体でバイオビジネスを推進している。秋田にはまた、麹の元菌会社として全国の九〇%以上という圧倒的なシェアを誇る秋田今野商店のような企業もある。地ビールの醸造所を見ても、ここのビール酵母を使ってビールを作っている醸造所は数多い。今後の展開が楽しみな領域である。

ブナの緑は一際鮮やかである東北人の目指す姿としてのブナ
 東北にとってブナが親しみのある存在であることを示す事実がある。ブナを市町村の木と定めている自治体は全国に三一あるが、このうち東北六県と新潟で十四もある。東北圏だけで、全国の半分に近い数の自治体がブナを市町村の木としているのである。東北にとってブナがいかに身近な木であるかを如実に示すものと言える。

 ところで、翻って東北を見ると、東北人は実にブナである。

 この地に住んだ蝦夷はかつては人ではないと言われた。蝦夷は「えみし」と読む。また「えびす」とも呼ばれた。坂東の荒武者を「あづまえびす」と言ったが、これは恵比寿さまの「えびす」ではなく、「えみし」の意味である。人ではないと言われた蝦夷は、木ではないと言われたブナにそのまま重なるような気がする。

 木材としては使いにくく、一見役に立たないブナの木が実は大いなる恵みをもたらす素晴らしい森をつくっているように、かつて蝦夷の住む地と蔑まれ、近世においても戊辰戦争での敗北が尾を引いて開発が遅れた東北を、未曽有の大震災でかつてないダメージを受けた東北を、そこに住まう我々一人ひとりが新たなものとしてつくり上げる、その象徴としてブナは相応しいように思うのである。

 ブナは厳しい風雪に晒されてその身が樹氷となっても春に向けて力を蓄え、春になれば一斉にその芽を出す。ブナの新緑は一際鮮やかである。それは厳しい風雪に耐えたからこそのものなのかもしれない。大震災からの復興を目指す東北人にとって、ブナはまさにその範となる。ブナのようにしなやかにたくましく、使い道がないと蔑まれようとも動ぜず、一致して恵み豊かな森をつくる、その姿はまさに東北人が目指す姿そのものである。


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2013年03月27日

私的東北論その44〜「幸福」はどこにあるのか(「東北復興」紙への寄稿原稿)

イメージ9 2月16日に「東北復興」紙の第9号が刊行された。今回砂越氏は、石巻市十三浜の大室南部神楽、同雄勝町の雄勝法印神楽、同桃浦の桃浦獅子舞の復活に向けた歩みをトップで取り上げている。古代蝦夷の悪路王、赤頭、高丸に関する論考も興味深い。

 他にも、げんさんは仙台に向けて檄を飛ばしておられるし、「笑い仏」さまの記事は、被災地支援を行っておられる奈良の名刹元興寺の辻村泰善住職のお話が読める。

 その第9号に寄せた拙文が下記である。




「幸福」はどこにあるのか

都道府県別の「幸福度」
 昨年十二月、「日本でいちばんいい県 都道府県別幸福度ランキング」(寺島実郎監修、東洋経済新報社)が刊行された。同書では、全国の都道府県について、幸福度に関係すると考えられる五五の指標から分析し、ランキング化を試みている。

 総合ランキングで第一位となったのは長野県である。続く第二位が東京都、第三位が福井県となった。ちなみに、東北圏では秋田県が第二八位、山形県が第三一位、新潟県が第三三位、岩手県が第三五位、福島県が第三六位、宮城県が第四四位、青森県が第四五位という結果であった。全体的に見て、このランキングでは、東北各県が中位以下に位置していることが分かる。

 同種のランク付けが行われたのは今回が初めてではない。法政大学教授の坂本光司氏も二〇一一年に四七都道府県幸福度ランキングを発表している(参照PDF)。こちらは「地域住民の幸福度を端的に示していると思われる四〇の指標」でランキングしている。このランキングでは第一位が福井県、第二位が富山県、第三位が石川県と、北陸三県がベスト三を占めた。

 今回のランキングで第三位の福井県が坂本氏のランキングでも第一位になっているわけだが、今回第一位の長野県はこちらでは第七位、第二位の東京都はなんと第三八位である。わずか一年でこれら都道府県を取り巻く環境が大きく変わったとは考えられないので、幸福度はどういった指標に基いてどういった重み付けで判定するかによって、結果が大きく変わるということが見て取れる。

 個別にランキングを見てみると、東北各県の現状が浮き彫りになる。ただそれは幸福度というよりも、今後の地域づくりにこそより活かせそうな内容である。東北圏の各県が一位になった指標について見てみると、「基本健康診査受診率」で宮城県、「余暇時間」で新潟県、「正規雇用者比率」で山形県、「持ち家比率」で秋田県、「待機児童率」で青森県、「一人暮らし高齢者率」で山形県、「学力」で秋田県、「不登校児童生徒率」で岩手県、「余裕教室活用率」で秋田県、青森県、新潟県がそれぞれ全国一位となっている。基本指標(人口増加率、一人あたり県民所得、選挙投票率、食料自給率、財政健全度)と五分野(健康分野、文化分野、仕事分野、生活分野、教育分野)別に見てみると、秋田県が教育分野で二位、新潟県が生活分野で八位、宮城県が健康分野で八位にランクインしている。


「気温」と「体感温度」
 しかし、果たしてこれらの指標が満たされていれば、そこに住む住民は即幸福と言えるものであろうか。肝心なのは、そこに住む住民が、幸福と感じられているかどうかではないだろうか。

 こうしたランキングでよく起こりがちなこととして、そのランク付けがされた判断基準やプロセスが顧みられずに、ランキングそのものだけが話題になるということがある。実際、今回のランキングでも、「 ○○県にいる人は幸せ」とか「××県の人は不幸せ」といった公表されたランキングだけ取り上げた議論がネット上でも出ているが、何が幸福を規定するのか、あるいは、何が幸福を実感することに大きく貢献するのか、ということを考えることは、大変難しいことであると思う。

 今回のランキングは「人間の幸福度に関連する度合いが高いと判断して抽出した」指標に基いて分析がなされているが、それがすなわちその都道府県に実際に住む人々の幸福感につながっているという証明がなされているわけではない。書籍の中でも「今回は除外したが、幸福の基本要素である本人の自己意識という主観的な要因については、来年度以降のランキング解析における課題としたい」と断りが入れられてあるが、そもそも幸福とは主観的なものである。何を以て幸福とするかも、人によって様々である。

 この「本人の自己意識」に、地域によってどれだけ差があるのか、すなわち都道府県によって「自分は幸福である」と感じている人の割合に差があるのかについても調査を進め、その結果と今回のランク付けに使用した五五の指標それぞれの充実度との関連について照合してみれば、あるいは多くの人が幸福と感じることと関連の深い指標が見つかるかもしれない。

 「体感温度」という言葉がある。肌で感じる温度のことだが、同じ気温であっても肌が感じる温度は日差しの有無、風の強弱、湿度の高低によって一定ではない。日差しがあると暖かく感じ、風が強いと寒く感じるということはよくある。具体的には、風速一m/秒につき体感温度はおよそ一度ずつ下がるそうである。

 幸福度を図る五五の指標について充足していれば、より幸福を感じやすい傾向があるということは言えるかもしれない。しかし、実際に幸福を「体感」できるかどうかは、そこに住む人次第である。その人の心に日差しがあれば幸福と感じるかもしれないし、心に北風が吹いている状態では幸福は感じ取れないかもしれない。幸福度を図る指標とそこに住む人が実際に幸福と感じているかどうかは、気温と体感温度の関係に似ているように思うのである。


ブータンと日本の幸福度の差
 一昨年、ブータン王国の国王夫妻が来日し、被災地を訪問し、国会でも演説を行った。国会での演説、被災地での子どもたちとの対話、いずれもこの若き国王の一方ならぬ徳を映し出していたように思う。ブータンと言えば、国民総幸福量というGDPに代わる尺度をつくり、経済成長のみに拠らない国家運営を志向していることで知られる。ブータン国民の幸福度は日本国民のそれよりもはるかに高いそうで、「国民の九七%が『幸福』と答えている」と報じられていた。

 世界第三位のGDPを誇るこの国で、毎年三万人前後の人が自ら命を絶っているという事実、それにはもちろん様々な要因があるのだろうが、その大きな一つは幸福が実感できないということにあるのではないかとも言われる。これまでの日本は経済成長によってGDPが拡大すれば生活も豊かになる、生活が豊かになれば幸福になる、と考えてきたが、現状を鑑みるとどうやらそうではないのではないか、ということが特に震災以降、よく取り沙汰されるようになった。

 ブータン国王夫妻の来日により、改めてブータンのこのアプローチにも注目が集まったが、実はわが国でも内閣府に「幸福度に関する研究会」が設置されて、昨年「第一回生活の質に関する調査」が大々的に実施された。この調査では「主観的幸福度」についても調べている。○点を「とても不幸せ」、一〇点を「とても幸せ」として「現在の幸福感」について調査しているが、訪問留置による調査で平均六.六、インターネットによる調査で平均六.一という結果が出ている。

 ちなみに、「ブータン国民の九七%が『幸福』と答えた」のは、同国の二〇〇五年の国勢調査だが、この時の設問に対する回答の選択肢は「非常に幸福」、「幸福」、「非常に幸福でない」の三つで、この「非常に幸福」と「幸福」と答えた人の割合の合計が約九七%であったということである。その後、二〇一〇年にブータン国内の研究所が行った調査は、内閣府の調査と同様、一〇段階で幸福度を尋ねるものだったが、その結果、ブータン国民の幸福度の平均は六.一だったそうである。日本も幸福度についてはもう少し自信を持ってよいのではないだろうか。


「幸福」と「弥勒菩薩」と「極楽浄土」
 幸福度を測るのが難しい理由の一つは、幸福ということの定義が定まっていないことにもよると思う。幸福の定義というものは、それこそ人の数だけあるように思う。例えば、私が「幸福とは?」と聞かれたら、「今、自分が置かれている状態のこと」と答える。どんなに辛い状況のように思えても、その中でも「幸福」であることを感じることは可能だと考えているからである。しかし、もちろんそれは私の考えであって、百人いれば百人違う考えがあるに違いない。

 弥勒菩薩という仏がいる。釈尊の入滅後五六億七千万年後にこの世に現れ、一切衆生を救済するという。なぜそのような遥か遠い先の未来にならないと救いの手は現れないのだろうか。救いの手はそれくらい気が遠くなるような時間を待たないと差し伸べられない、言ってみれば出現する可能性の極めて低いものだということを、この弥勒菩薩の伝承は言わんとしているのだろうか。

 単なる私個人の解釈だが、「弥勒菩薩」は実は、既にこの世に現れて一切衆生を救済したことになっているのではないだろうか。「救済」されてもそのことに気づかない人はまったく気づかない。ちょうど、我々の目に最も近いところにあるまつ毛が、我々の目に最も見えにくいのと同じように。その、あまりに近くて遠い隔たりを「五六億七千万年後」という遥か見えないくらい先の未来という形で表現したのが弥勒菩薩に関する伝承なのではないか、などと考えるのである。

 「『弥勒菩薩』の救済」を「幸福」と捉えるとよりイメージがしやすいと思う。幸福は追い求め続けなければ得られないものではなく、実は今すぐそこ、目の前にあるものだと私は思っている。ただ、それは私の考えであって、そうでない捉え方ももちろんある。

 極楽浄土についても、私の解釈は同様である。西方十万億土の仏土を隔てた遥か彼方に、阿弥陀如来のいる極楽浄土は存在するという。そのような途方もない距離であるとすれば、極楽浄土とは何と遠いことかと思う。しかし、それもまた今ここにあるのに気づかれない、そのあまりに遠い心理的距離をそのように表現しているのだとすれば、まったくその意味合いは変わってくる。

 そのような観点から、以前書いたが、平泉の文化遺産の意味は、浄土をこの世に創り出すことであったのだと私は考えている。 単に、平泉の地に「浄土のテーマパーク」のようなものを作って浄土のイメージを見せるということなのではなく、「この世こそが浄土である」ということを誰の目にも分かる形で示すことが目的だったのだということである。そしてそれは取りも直さず、この地に住む人の「幸福度」を高めようとした藤原清衡の施策の一つだったのではないかと私は考えるのである。


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2013年03月09日

私的東北論その42〜「地域資源」としての東北の温泉(「東北復興」紙への寄稿原稿)

イメージ 1 このところすっかり更新が滞っているが、1月16日に「東北復興」紙の第8号が刊行された。今回も、「埋もれた東北文化を掘り起こす旅」その△箸靴董◆崙本刀から東北の歴史を考える …中鉢美術館からの問題提起」が取り上げられるなど、相変わらず砂越氏の行動力は卓越している。

 げんさんの論考も健在であるし、「笑い仏」さまも順調に歩みを続けておられるようである。

 その第8号に寄せた拙文が下記である。





「地域資源」としての東北の温泉


東北の地域資源
 東北の復興に関して、「地域資源」という言葉を耳にすることが多い。地域資源の活用が復興に重要な意味を持つ、というようなことがよく言われる。この地域資源とは何かということについての定義はいろいろあるが、二〇〇七年に施行された「中小企業による地域産業資源を活用した事業活動の促進に関する法律」、いわゆる中小企業地域資源活用促進法を例に取ると、ここでは「地域産業資源」と言っているが、ー然的経済的社会的条件からみて一体である地域(以下単に「地域」という。)の特産物として相当程度認識されている農林水産物又は鉱工業品、∩姐罎坊任欧觜杞業品の生産に係る技術、J顕什癲⊆然の風景地、温泉その他の地域の観光資源として相当程度認識されているもの、のうちのいずれかに該当するものを地域資源と定義している。
 
 この法律で都道府県知事は、「当該都道府県における地域産業資源活用事業の促進に関する基本的な構想」を作成して認定を申請することができるとされているが、その中で地域産業資源の内容についても定めることができる。これを受けて各都道府県では様々な「地域産業資源」が指定されており、それらについてはそれぞれの都道府県のサイトで確認することができるが、東北に関しては特にのカテゴリにおいて実に多くの祭りと温泉とがリストアップされている。これらが東北に共通する「地域資源」であることは疑いないところである。


東北の温泉
 このうち祭りについては、本紙面で砂越氏が特に力を入れて取り上げておられるのでそちらに譲るとして、ここでは温泉について見てみたい。東北の人にとって温泉というのはあまりにも身近で、そのために逆にその地域資源としての価値を量りかねているのではないかと思うからである。

 火山の国である日本はその恩恵で世界でも有数の、数多くの温泉を持つ国である。その日本には、温泉地が平成二二年のデータでこの狭い国土になんと三一八五もある。そのうち、東北六県と新潟には合わせて七六七の温泉地がある。全国の温泉地の二四・一%、すなわち四分の一が東北圏にあることが分かる。

 その一方で、宿泊施設数は二六〇五で全国の一四〇五二に対して十八・五%、年間延宿泊利用人員が二〇一九四五五九人で全国の一二四九二五二七二人の十六・二%と、いずれも温泉地の割合に比べてかなり低い。これは、東北圏にある温泉が、大規模な宿泊施設や温泉街を伴ったものではなく、いわゆる「秘湯」を含む中小規模のものが多いことの表れであると言える。言い換えれば、鄙びた温泉が東北には多いということである。

 温泉を歓楽と捉えると、こうした温泉は物足りないかもしれないが、大自然の中でゆったりとした時間を静かな空間で過ごして日常と異なった環境に身を置くということを考えた場合には、東北の温泉はまさにうってつけである。

 東北には以前も紹介した通り、全国でも屈指の地熱資源があるが、それがこうした豊富な温泉を生み出している。東北には今も湯治の習慣が残るが、これは冬季の厳しい環境への対応、農閑期の骨休めという意味合いがある。東北の人にとって温泉は大いなる大地の恵みであり、まさに貴重な地域資産である所以である。

 実際、歴史ある温泉が東北圏には数多くある。開湯から千年以上の歴史を持つ温泉が少なくとも東北六県に二四ある。その中で最も歴史があるのは西暦一一〇年に吉備多賀由(きびのたがゆ)によって発見されたという伝承を持つ山形市の蔵王温泉で、次いで西暦三〇〇年代に発見されたという福島県いわき市のいわき湯本温泉、同じく四〇〇年代の秋田県大館市の大滝温泉が続く。東北に住む人と温泉との関わりは実に長い歴史を持っているのである。

 温泉の湧出量で見ても、全国的には自噴泉、すなわち自然に湧出している温泉が七六〇〇二四L/分であるのにに対して動力泉、すなわち掘削技術の発達によって人為的に汲み上げている温泉が一九二六五三五L/分と、圧倒的に動力を用いて温泉が多いが、東北圏に限ってみると自噴泉一九六〇八三L/分に対して動力泉三九六五〇二L/分と、自噴泉の割合が高くなる。ということは、掘削して掘り当てた温泉ではなく、昔からそこに湧き出ていた温泉が多いということである。


質の高い東北の温泉
 こうした歴史的な側面とは別に、東北圏の温泉は質の高さでも誇るべきものを持っている。まず、環境大臣が指定する「国民保養温泉地」というものがある。全国でこれまで九一箇所の温泉地が指定されているが、東北六県と新潟にはそのうち二二箇所がある。このうち、青森市の酸ヶ湯温泉は、一九五四年に栃木県の日光湯元温泉と共に指定された国民保養温泉地第一号、福島県二本松市にある岳温泉は翌一九五五年に指定された第二号である。
 
 また、全国津々浦々のすべての温泉を巡ったことで知られる松田忠徳氏の「温泉教授の日本全国温泉ガイド」(光文社新書)では全国二二七の温泉が推薦されているが、そのうち東北六県と新潟の温泉は六九を数え、実に全体の三分の一近くを占めている。この書では、氏が「マガイモノの温泉」と断じる「循環・濾過・塩素殺菌風呂」は紹介されていない。そうした中で東北のこれだけの温泉が紹介されているというのは、それだけ東北の温泉の質の高さを表していると言える。
 
 先ほど、東北には秘湯を含む中小規模の温泉が多いと書いたが、この「秘湯」という言葉を初めて使ったのは、「日本秘湯を守る会」である。日本秘湯を守る会は、一九七五年に、高度経済成長真っ盛りという時代背景にあって、「今の状況は、本来の旅の姿ではない。人間性を置き忘れている。旅の本質を見失っている。何時の日か人間性の回復を求め、郷愁の念に駆られ山の小さな温泉宿に心の故郷を求め、本当の旅人が戻ってくる。旅らしい旅が求められる時代が来る」、「日本の温泉のよさを保ち、環境保全に努める経営理念を相互に啓発・啓蒙する温泉旅館を集めて共同宣伝、相互誘客を図る組織の結成を」と提唱した故岩木一二三氏によって設立された。設立当時三三軒だった会員宿は今や全国に一八八を数えるに至ったが、このうち東北六県と新潟には合わせて七七ある。実に全国の「秘湯」の四一%が東北圏に集中しているのである。
 
 病を癒す湯として全国から人が集まる秋田県仙北市の玉川温泉は、様々な角度から「日本一」の温泉である。まず湧き出る湯量九〇〇〇L/分は一箇所の源泉としては文句なしの日本一である。またその湧き出る温泉はPH一・一というとてつもない強酸性の湯で、この酸性度も日本一である。温泉の湯温は沸騰寸前の摂氏九八度でこれまた日本一である。これほど強烈ではないが、東北圏にはその泉質の良さや効能の高さで知られる温泉が数多くある。


地域資源としての温泉の活用
 温泉を地域資源として活用しようという動きは震災前から既にあった。その典型例が、先に挙げたいわき湯本温泉である。いわき湯本温泉旅館協同組合では、温泉の魅力を再確認し、その保健的機能を活用するためとして、独自に「温泉保養士(バルネオセラピスト)」を養成する事業を二〇〇一年から行っている。

 きっかけとなったのは、ドイツの温泉保養地との交流だったという。ドイツでは温泉が医療の一環として取り入れられ、温泉地にて長期間の療養が行われているという取り組みの事例を知った。先に挙げたように、日本にも「湯治」の文化があるが、それをコーディネートできる人材がいなかった。

 そこでいわき湯本温泉旅館協同組合では、社団法人日本温泉療法士協会を立ち上げ、温泉医学、予防医学に基づいて、温泉の持つ保健的機能を引き出す知識、技術を習得し、温泉療法を活用した健康づくりを安全かつ適切にアドバイスできる人材の育成を始めた。日本温泉保養士協会が実施する養成講習会で規定の講習を修了し、認定試験に合格した人材を温泉保養士(バルネオセラピスト)として認定している。認定の有効期間は五年間で、認定を継続するためには更新講習会の受講が必要となっている。お膝元のいわき湯本温泉では、全ての施設に有資格者がいて、宿泊客・日帰り客などからの相談に応じてアドバイスを行っているということである。

 この事例からは、地域資源とは、それだけでは地域資源たり得ず、それを理解し、活用する人材がいてこそ地域資源となるということが見て取れる。その意味では、結局のところそうした「人」こそが最大の地域資源と言えるかもしれない。


復興にも温泉の活用を
 さて、温泉について語られる際によく言われることの一つに「転地効果」がある。転地効果とは、日常生活を離れ、いつもと違った環境に身を置くことによって、心身ともに気分転換を図れるということである。旅行がその最たるものとされるが、温泉地への旅行においては温泉そのものの効能が上乗せされるため、さらに効果が高いと考えられる。特に山間の「秘湯」の多い東北圏の温泉では、これに森林浴の効果も期待できる。
 
 転地効果をしっかりと得るためには、まず目的地として自宅から一〇〇勸幣緡イ譴疹貊蠅望ましいとされる。また転地効果はおよそ一ヶ月の滞在を経ると「慣れ」が生じて効果が減殺されてくるため、四、五日から一週間程度の期間が適していると言われる。こうした条件はまさに、東北における「湯治」そのものと言える。東北の人たちは古くから湯治を通して、心身の疲労を癒していたわけである。

 復興までの決して近くはない道のりの中で、この温泉についての魅力を再度見直したい。東北にとって温泉は、域外の人を呼び込む地域資源としてだけでなく、否が応でも長丁場となる東北復興の道程において、復興に携わる全ての人たちが心身のストレスを解消するまたとない手段としても積極的に活用でき得る資源でもある。


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2012年12月29日

私的東北論その41〜「震災遺構」をどうするか(「東北復興」紙への寄稿原稿)

イメージ 1 「東北復興第7号が12月16日に刊行された。

 今回、砂越氏は、「東北の『伝説』の真偽を追求し、東北の歴史・文化の定説をひっくり返そうというチャレンジ」の連載開始を高らかに宣言された。貴重な試みだと思う。 その掘り起こした東北文化を共有し、自信を取り戻し、復興という難事業に東北全体で、東北人が同胞となって取り組もうという呼びかけでもある。そして、早速「埋もれた東北文化を掘り起こす旅」を始めた。この辺りの行動の速さはさすがと言う他ない。

 他にも、前号に引き続いての郷土芸能取材、古山拓氏の「ケルトと東北」シリーズの完結編、げんさんによる九州と東北の比較文化論など読みどころ満載である。「笑い仏」さまの連載は今回、「笑い仏」さまが逗留された當麻寺中之坊院主の松村實昭師が寄稿されている。

 この第7号に寄せた私の拙文が下記である。


「震災遺構」をどうするか

議論が分かれる「震災遺構」の取り扱い
 東日本大震災発生からまもなく一年九カ月になる。大津波によって甚大な被害を受けた沿岸地域でも瓦礫の撤去は進んでいる。それに伴って議論の的となっているのが、「震災遺構」の取り扱いである。

 震災後マス・メディアによって繰り返し報じられた、陸に打ち上げられた大型船、建物の二階部分に乗った大型バスや観光船、転倒した鉄筋コンクリートの建物、鉄筋の骨組みだけになった建物、これらは津波のとてつもない威力をまざまざと見せつけた「生き証人」である。こうした「震災遺構」は瓦礫の撤去と被災地域の復興が進むにつれ、徐々にその数を減らしてきている。つまり、こうした地震や津波の恐ろしさを物語る遺構も瓦礫と一緒に撤去されつつあるのである。

 このことについて、意見は真っ二つに分かれている。一方は「あると地震の恐怖や亡くなった家族のことを思い出すので早く撤去してほしい」というもの、もう一方は「地震や津波の恐ろしさを後世に伝えるものとして保存してほしい」というものである。
 

他地域における先例
 実は、こうした「震災遺構」の保存については、同様の議論が過去に地震に見舞われた地域でも起こっている。そして、それに対してどのような結論を出したかについては、地域によって異なっているのである。

 九三年に北海道南西沖地震による津波と火災で一九八名の犠牲者を出した奥尻島では、「震災遺構」は残されなかった。海水に浸かった建物の保存や維持管理の困難さ、遺族感情への配慮がその理由だったようである。壊滅した集落の跡地には公園ができ、慰霊碑も立っているが、震災そのものの痕跡は残っていないそうである。島は復興したが、一方で震災の記憶の風化も指摘されている。

 九五年の阪神大震災では、神戸市は大火災に見舞われた。その火災に耐えて残った公設市場の壁は、「震災の語り部」として海を隔てた淡路島の北淡震災記念公園に移設されて保存された。「神戸の壁」と呼ばれるこの震災遺構も、神戸市自体は保存に消極的で、地域でも必ずしも保存に賛成の声ばかりではなかったという。そのような時に、対岸の淡路島の旧津名町長の故柏木和三郎氏が受け入れを表明してくれたため、震災後つくられた北淡震災記念公園で保存されることになったのだそうである。神戸市でも現在、「海を渡った」この「神戸の壁」を除けば震災の爪痕を感じさせるものはほとんどないようである。

 一方、〇四年の新潟県中越地震を経験した長岡・小千谷両市は昨年、地震の「メモリアル拠点」として残された四つの施設と三つの公園を結んだ「中越メモリアル回廊」を立ち上げた。これは被災地をそのまま「情報の保管庫」にする試みとのことで、それぞれの拠点を巡って、震災の記憶と復興の軌跡に触れてもらうことを目的に整備されたのだそうである。土砂崩れでできた「天然ダム」によって水没した家屋がそのまま残されたメモリアルパークもある。車が土砂崩れに巻き込まれた現場はそのまま慰霊のためのメモリアルパークとなった。

 このように、地震一つ取ってみても、撤去、移設、保存と、地域によって取られた対応は異なっていることが分かる。日本では地震だけでなく、火山の噴火による災害もある。九一年には雲仙・普賢岳噴火で四三名もの犠牲者が出た。その後、現地では火砕流で焼けた小学校や自動車、土石流で埋没した住宅群が保存された。三宅島の噴火でも溶岩流に埋没した学校や土石流に埋没した神社が残されている。


「原爆ドーム」に学ぶ
 こうした事例を参考にしながら、今回の大震災においても「震災遺構」の取り扱いについて考えていかなければならない。もちろん、瓦礫と一緒に撤去してしまうのが最も簡単である。それ以降の保存や維持のための費用も掛からないし、被災者も見る度に震災のことを思い出さなくても済む。

 しかし、本当にそれでよいのだろうか、と思うのである。失ったものは二度と戻せない。見るのは辛い、その気持ちは分かる。しかし、辛い、という今の気持ちだけで即撤去してしまう前に、将来のためにもう少し考える時間が必要なのではないかと思うのである。

 もう一つ、参考にしたい事例は、広島市にある「原爆ドーム」である。原爆ドームは、元々広島県物産陳列館として竣工され、その後広島県産業奨励館と改称された。四五年八月六日に広島市に落とされた原子爆弾により、爆心地から約一六〇mの距離にあったこの産業奨励館も爆風と熱線で大破し全焼、当時建物の中にいたおよそ三〇人の人は皆即死だったそうである。

 戦後、そのてっぺんの形から誰からともなく「原爆ドーム」と呼ばれることになったこの旧産業奨励館についてはやはり、記念物として残すべきという声と、被爆の悲惨な記憶につながるので取り壊すべきという声に二分されたという。保存に向けて大きく動き出したきっかけは、一歳の時に被爆し、六〇年にわずか十六歳で白血病のため亡くなった楮山ヒロ子さんが残した日記に書かれていた「あのいたいたしい産業奨励館だけが いつまでも おそろしい原爆を世にうったえてくれるのだろうか」という言葉だったそうである。

 これを契機に保存を求める声が次第に高まり、六六年広島市議会は「原爆ドーム保存を要望する決議」を採択する。そこには、「ドームを完全に保存し、後世に残すことは、原爆でなくなられた二〇数万の霊にたいしても、また世界の平和をねがう人々にたいしても、われわれが果たさねばならぬ義務の一つである」とある。この翌年、第一回の保存工事が行われた。被爆から実に二二年後のことである。その後、九六年に世界遺産への登録が決定したのは周知の通りである。


「間接資料」と「実物資料」
 「百聞は一見に如かず」と言う。原爆ドームは核兵器の恐ろしさを如実に物語る象徴的存在となった。我々は、あの建物を見る度に、自分が体験していなくても、広島を襲った悲劇に思いを馳せることができる。

 今回の地震では、多くの人が携帯のカメラなどで津波の写真や動画を撮影した。たくさんの証言もある。「震災遺構」がなくても、それらが地震や津波の恐ろしさを伝えてくれるのではないか、そのような意見もあるだろう。もちろん、それはそれで震災の貴重な記録である。しかし、それはあくまで記録である。

 記録は、博物館学の観点から見れば「間接資料(二次資料)」である。それに対して、「震災遺構」のようなものは「実物資料(一次資料)」と呼ばれる。記録に加えて、地震や津波の恐ろしさを他の何よりも雄弁に語ってくれる「震災の語り部」たる「震災遺構」があれば、それらがまさに、原爆ドームが終戦から六七年経った今も戦争の悲惨さと平和の尊さを語り継いでいるのと同様に、これから先も自然災害の恐ろしさと防災意識の大切さを教え続けてくれるに違いないと思うのである。


被災全市町村が最低一つ震災遺構保存を
 先の原爆ドーム保存を求める決議になぞらえれば、震災の遺構を保存し、後世に残すことは、地震で亡くなられた二万近い霊に対しても、また災害からの復興を願う人々に対しても、我々が果たさねばならぬ義務の一つである、と言える。

 この国では、どこにいても地震を始めとする自然災害のリスクからは免れ得ない。私たちが遭遇したこの上なく恐ろしく悲しい体験を、自分や自分の大切な人の身を守るための方策と共に他の地域の人たちに伝えることは、私たちにしかできないことである。そしてそれは、震災後、全国各地から寄せられ、今も続いている支援の手に対する、私たちができる恩返しの一つでもある。

 他地域の人たちだけのことではない。この地域の将来の世代の人たちのこともある。私たちは大震災のことは決して忘れない。私たちの子どもの世代も大丈夫だろう。しかし、その子どもやその先の世代となればどうだろうか。それら先の世代でも、見れば地震や津波の恐ろしさが伝わる、そうしたものを残すことは、やはり私たちの責務ではないだろうか。

 もちろん、残すと判断するのは、今すぐでなくてもいい。ただ、将来の可能性のために、震災遺構となりうる対象の早期撤去については、しばし留保してほしいと思うのである。広島の原爆ドームが保存されるまでには二二年の歳月が必要だったが、その間原爆ドームが撤去か保存かという判断を留保されたために、保存の機運が高まった後の保存が可能となったのである。もし戦後すぐ撤去され、被爆を物語るものが何も残っていなかったとすれば、当然保存を求める動きもなく、世界遺産登録もなく、日本に住む誰もが被爆の悲劇の手掛かりとしていつでも思い起こすことができるあの建物の映像もなかったわけである。

docx 今回の大震災で東北は、北は青森の三沢市から南は福島のいわき市まで、太平洋岸のほとんどの市町村が被害を受けた。私は願わくは、これらの被災した市町村がそれぞれ、最低一つずつでも、大震災の痕跡を伝える遺構を残してくれればよい、と強く思っているのである(写真は津波によって3階建ての建物の上に乗り上げた乗用車。震災直後随所で見られた光景である)。


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2012年12月28日

私的東北論その40〜「東北独立」論から10年(「東北復興」紙への寄稿原稿)

イメージ 2 紹介するのが遅くなってしまったが(と言うか、既に次の第7号も出てしまっているが…)、「東北復興」の第6号が11月16日に発行された。

 今回、砂越氏は「東北って何だろう?東北人って何だろう?」と問いかける。 これは東北に住む我々にとっては根源的な問いである。その問いについての論考を進めていく中で、「お仕着せの『東北』という呼び名を返上するという議論があってもいいのではないか」と指摘している。確かに、「東北」という呼称は、中央から見たこの地のある方角しか指し示していない。この地、あるいはこの地に住む人のことを表している呼び名ではない。

 「東北」という名になったのは明治以降のことだが、それ以前の東北地方の主に太平洋側の地域を示す「陸奥」も「道の奥」すなわち「みちのく」から来ているが、誰にとって「道の奥」なのかと考えると、少なくてもこの地に住む人にとってのことではない。そのようなことから考えても、それでは自分たちを表す言葉が何なのかを考えることは重要なことであると思う。

 もっとも、現在、世界にある国名も、その意味を見てみると「え?そんな意味だったの?」というものが少なくない(すべて正しいかどうか不明だが例えば「国名を意味通り訳した地図を作ってみた」など)。それを考えると、この地をどう呼ぶかということについては、自分たちとは何かを考えるきっかけにはなるかもしれないが、と言って、あまり「唯一無二の名前」を作るということに拘泥しなくてもよいようにも思える。 

 さて、その第6号に寄稿した拙文が以下である。


「東北独立」論から10年

野田一夫氏の「東北独立」論
 野田一夫氏が「東北独立」を提唱してから、今年で十年になる。長年に亘り、大学教育の改革、企業経営の改革を推進してきた行動派の経営学者として知られる氏は、宮城大学の初代学長として一九九七年から二〇〇一年まで仙台におられた。それまで約六〇年東京で暮らした氏だが、盛岡は父祖の地であるとのことで、宮城県に県立大学を創設する際に協力要請に応じたのも、「東北の都」である仙台に素晴らしい大学を創りたかったからだと振り返っておられる。
 
 ところが、実際に宮城大学の学長として仙台に赴いてみると、それまで知らなかった東北の姿が見えてきた。特に、中央権力との関係における東北人の不甲斐なさに驚きと怒りを募らせたそうである。氏は言う。「田村麻呂の蝦夷征伐から戊辰の役までの約千年間に、東北は中央権力によって実に五回にわたって故なき攻撃の対象とされながら、只の一回も反撃勝利を収めえず、屈辱的支配に服した。維新から今日までの百数十年間、わが国は日清・日露戦争および第一次大戦後と、太平洋戦争後と二回にわたって工業化による目覚ましい経済発展を遂げたが、その間東北は常に『食糧と労働力の供給基地』という裏方に回され、不当な貧しさに甘んじた」。

 その上で氏は、「私は『東北の独立』を視野に入れた自主的な東北の開発を、断然志向したいのだ」と主張し、次のように述べる。「府県は事実上日本政府の出先機関にほかならないから、東北を七県によって構成された一地域と考えるかぎり、東北はこれからも経済的には日本国中最も恵まれることのない辺境に甘んじさせられるのが歴史的運命に思える。それより、一時の空しい豊かさの後にいま早くも頽廃と混迷の道を急ぐ日本国と決別し、東北人の総力を結集してもっと健全で、国際的にももっと魅力のある国家の建設を目指すべきだ」と。

 氏のこうした主張が盛り込まれた「『東北の独立』は幻想でも願望でもない」が、燈台舎の月刊パロス第六号に掲載されたのは二〇〇二年六月のことであったが、それから十年を隔てた二〇一二年の今年を見ても、東北は独立どころかますます国への依存を深めているようにすら見える。

「総合特区」に見る「東北独立」の現状
 「独立」への歩みが遅々として進まない東北に嫌気が差したのか、氏は東北から次第に距離を置き始めたように見えた。その後も秋田の国際教養大学や今年開学した東京の事業構想大学院大学の創設に関わるなど、八五歳になった今でも氏のその独創性や行動力に全く陰りは見られないどころか、さらに磨きがかかったとすら感じられる。とりわけ私が感嘆したのは、東北で牛歩の如く動かなかった「独立運動」を、氏は縁あって淡路島に所を変えて継続しておられたことである。

 今年四月に刊行された氏の最新刊である「悔しかったら、歳を取れ!〜わが反骨人生」(幻冬舎ゲーテビジネス新書)の中で、氏は「仙台で何を……?」といぶかる東京の友人たちを「東北独立運動をしている」と煙に巻いたエピソードなどを紹介しながら、「目下の僕の抱負」として、「“淡路共和国”建設を通しての日本再生」を高らかに宣言しておられる。
 
 それによれば、「少しでも実現の可能性のある“日本改造”の手がかりはないものか?」と真剣に考え続けた結果、シンガポールをロールモデルとする「淡路共和国」の建設構想が生まれたとのことである。きっかけは、菅政権時代に打ち出された「新成長戦略」の一つ、「総合特区制度」だったのだという。
 
 なるほど、東日本大震災発生時の対応のまずさなど、とかくネガティブなイメージが伴う菅政権時代だが、その中でとりあえず成果と言えるものの一つがこの「総合特区制度」であることは確かであると私も思う。
 
 総合特区は、小泉政権下で生まれた構造改革特区が個別の規制の特例措置を対象として、税制・財政・金融措置はその対象としなかったのに対して、複数の規制の特例措置に加えて税制・財政・金融上の支援措置などを総合的に実施することを「売り」にしている。また、構造改革特区が地方公共団体のみを対象としたのに対し、総合特区では企業なども含む「要件を満たす地域」にその対象を拡大し、また国と実施主体の「協議の場」を設け、国と地域が一体となって推進することを謳っている。使いようによっては確かに、創設時の触れ込み通り、「地域主権改革を加速する突破口」ともなり得るアイテムである。
 
kokusen_map ところが、ここでも他地域に比して東北の足取りの重さが浮き彫りになっている。なんとなれば、全国に第一次指定から第三次指定まで、国際戦略総合特区が七、地域活性化総合特区が三二ある中で、東北には何と秋田の「レアメタル等リサイクル資源特区」の一つしか総合特区は存在しないのである。地域ごとの濃淡は、首相官邸のサイト内にある「総合特区一覧」を見れば一目瞭然である(図参照)。東北地域の「空白」、これこそが残念ながら東北の現状を如実に物語っている。 
 
「淡路共和国」への道程
 さて、野田一夫氏が挙げておられるシンガポールは周知のように、一九六五年にマレーシア連邦から独立を果たし、リー・クワンユー初代首相の下、短期間に驚異的経済成長を遂げた。人口は五〇〇万人を超え、一人当たりGDPでも二〇〇九年に日本を抜いてアジア一となっている。シンガポールの国土の面積約七〇〇平方キロメートルに対して、淡路島も約六〇〇平方キロメートルとほぼ同じ「国土」を持つ。しかし、淡路島の人口は現在、わずか約十四・五万人である。高齢化率でも日本の平均を遥かに上回る、超高齢社会を絵に描いたような地域である。

 しかし氏は、淡路島の「可能性」に言及する。「平成の大合併」により、淡路市、洲本市、南あわじ市の三つの市から構成されることになった淡路島は、日本列島の中心部に立地している。それだけでなく、世界第四位の規模を持つ関西経済圏に近接し、気候は温暖、地勢は穏やかで、風光は明媚であると。そして、「やり方いかんでは、『一国』としては最高の条件を具備している」と確信しておられる。

 その上で氏は、「淡路島=淡路三市の活性化のための七ヵ条」を挙げる。その七ヵ条とは、

 〜躪臚旦茲稜Р勅萋生綢やかに、あくまでも非公式ながら“共和国”を宣言する。
 ∋飴堋垢聾濮または交代制で大統領および副大統領を名乗り、自覚を強める。
 F本国憲法の趣旨に沿い、より具体的・魅力的な「淡路共和国憲法」を制定する。
 い△蕕罎觀舛痢伴治権”を絶えず実質的に拡大することに努力しつづける。
 ヌノ賄な政策を果断に実行することにより、国内外から各種の有為の人財を集める。
 社会の活性化→経済的繁栄を実現させ、日本に“共和国建設ブーム”を引き起こす。
 У羔謀には、日本国を「多種多様な個性に溢れた共和国によって構成される“日本連邦(The United Republics of Japan)”」化させることによって再生する。

である。「注」として、「“共和国”はあくまで擬制国家であるから、淡路共和国の成功を契機に、全国に“共和国”が増え、相互に結束力が十分固められた時点で、本国=日本国と議論を重ねた末に、新しい日本国の形態を決める」とある。この構想を世に問うてからまだ一年足らずだそうだが、既に淡路島の三市長と会談するなど、着々と歩みを進めておられるようである。
 
  氏は言う。「日本は将来、(米国の一州以上の権限を有する)国内の自治体群による“連邦国家” になっていくべきです。先ず総合特区“淡路共和国”が、卓越した指導者のもと希望あふれる政策を続々実行に移し、国内はもとより世界各国から続々人材を結集して繁栄の道を示せば、『淡路』に習って次々に誕生していく国々が、日本を必ず力強く再生していくことでしょう」と(はがき通信ラポール八〇五、二〇一〇年十二月十四日)。

 国の統治機構改革につながる狼煙を東北からも
  「私にとって、『東北の独立』は今や幻想でもなければ願望でもなく、残りの人生をかけた一大事業なのである」と主張しておられた氏から見て、今の東北がどのように映っているのか、今なお「独立」を進めるとすればどこから手をつけていくのがよいのか、一度お聞きしてみたいとかねてから思っていた。そうしたところ、折しも去る一〇月二六日、仙台市内で氏の講演会が開催された。講演会の中では質疑応答の時間はなかったが、その後に懇親会が催されたので、ここぞとばかりにその場で、短い時間ではあったが氏に「東北独立」について改めて尋ねてみた。
 
 氏からは、「東北はあまりに大きい。まずは淡路島のように小さく限定された地域で実績を重ねてそれを周辺にも広げていくという戦略で臨むべき」、「君のような若い意欲もある人が中心となって進めていかなければ結局のところ何も進まない」といったアドバイスをいただいた。その上で、「協力は惜しまないから、いつでも東京の事務所を訪ねていらっしゃい」と、とてもありがたい言葉もいただけた。

 氏によれば、淡路島以外にも「独立」に向けた歩みを進めている地域があるそうである。同時多発的にそうした取り組みが進んでいけば、国の統治機構の改革にも過たずつながっていくのではないかと思える。そのための狼煙を東北からも上げていかなければならない、と改めて考えさせられた。


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2012年10月31日

私的東北論その38〜「憂いのない備え」のために「伝家の宝刀」を(「東北復興」紙への寄稿原稿)

イメージ 5 「東北復興」の第5号が10月16日に発行された。今回の1面は「1年半後の岩手沿岸部のいま」と題した砂越さんのレポート。その実態をつぶさに見て、「『忘れない』ではなく、『何とかせよ』に切り替えるべし」と訴えている。
 
 2・3面は「遠野まつり」のレポートである。私はまだ実際に目にしたことはないが、げんさんからそのすごさについては何度か聞いていた。どのようにすごいかは砂越さんのレポートを見ていただくとして、同じ紙面ではそのげんさんも遠野まつりについて書いているので、遠野まつりについて多面的に知っていただくことができるかもしれない。7面では古山拓さんが東北への思いについて書いておられる他、「笑い仏」様も引き続き順調に福島への歩みを続けておられるようである。

 この第5号に寄せた拙文が下記である。


「憂いのない備え」のために「伝家の宝刀」を

「自然災害ワーストワン」は宮城県?
 「都道府県のワーストを描いた地図」というものがネット上にある。その中で宮城県の全国ワーストワンは「自然災害」である。この地図は東日本大震災の一か月ほど前に作成されたものであるので、それを踏まえてのものではない。しかし、住んでいて風水害が顕著であるとは思えないので、これはほぼ間違いなく地震のことであると推測できる。

 地図の作成に参照されたデータをよくよく読んでみると、宮城県における二〇〇八年の人口一人当たりの自然災害被害額が他の都道府県に抜きん出て大きいということから「ワーストワン」となったようである。二〇〇八年に何があったかと思い返してみると、その年は岩手宮城内陸地震があった。被害額が大きいのは恐らくそのことによるのであろう。

 岩手宮城内陸地震はいわば想定外の地震だったが、それ以外にも宮城県はおよそ三〇〜四〇年に一度の間隔で、宮城県沖地震と呼ばれるM七・五規模の地震に襲われてきた。考えてみれば、日本全国でこれだけ定期的に大きな地震に襲われている地域は他にないのではないか。その意味では、確かにここ宮城県は、自然災害ワーストワンと言えるかもしれない。

 直近では一九七八年、M七・五の地震が発生し、二八名の死者を出した。死者のうち一八名は倒壊したブロック塀の下敷きとなって亡くなった。当時のブロック塀には鉄筋が入っていないものが多く、地震の際に脆くも崩れたのである。

 この時のことを教訓に、三年後に建築基準法が改正され、建築物の耐震基準が大きく強化された。そのお陰で、それ以後に建てられた建物やブロック塀はこの時の地震と同等以上の地震に襲われてもたやすく倒壊しないものとなった。

研究成果の活用前に起きた大地震
 東日本大震災発生から一年半が経過した。昨年三月一一日に発生した地震は、一九七八年の地震から三三年が経過し、いつ起こってもおかしくないと言われていた宮城県沖地震ではなく、それを恐ろしいまでに大きく上回るM九・〇の超巨大地震 であった。マグニチュードが〇・一大きくなると地震のエネルギーは約一・四倍、一大きくなるとおよそ三二倍にもなる。今回の地震は、想定されていた宮城県沖地震のエネルギーを、実に一八〇倍近く上回る地震だったわけである。

 地震考古学という学問がある。過去の地震について、残っている文献や遺跡に残る地震の痕跡の調査などからその規模や被害状況などを推定する学問である。また、ボーリングによる津波堆積物の調査も大きく進歩した。その結果、宮城県沖を震源とする、三〇〜四〇年周期の地震とは異なる超巨大地震について、今回の地震の少なくとも四年前にはある結論が導き出されていた。それによると、宮城県を始めとする太平洋の沿岸地域においては、およそ八〇〇〜一、一〇〇年の周期で今回の東日本大震災と同規模の超巨大地震とそれに伴う大津波に襲われていたというのである。

 「日本三大実録」という文献に残されていた記述から、今回の地震の前の地震は八六九年の貞観地震であることも分かっている。その記述や津波堆積物調査の結果から、貞観地震においても巨大津波が発生し、その浸水域は今回の東日本大震災とほぼ一致することも判明した。

 惜しむらくは、こうした地震学における研究の成果が実際の地域防災計画に反映される前に、今回の地震が起きてしまったことである。例えば、宮城県沖地震で想定されていた津波の高さは「平成一四年度仙台市地震被害想定調査報告書」によれば、〇・三〜一・一 mである。M七・五程度の宮城県沖地震を想定したものであるためにこのような予測となったが、今回の地震で仙台平野を襲った津波は少なくとも高さ七・二mに達した。

 これに対して今回、M九・〇という超巨大地震に襲われたものの、最大震度七を観測した宮城県栗原市でも建物の倒壊に伴う死者はなかった。これは、もちろん阪神淡路大震災のような直下型の地震ではなかったという要素はあるものの、前回の宮城県沖地震を教訓とした建物の耐震性の強化の成果と言える。

 実際、仙台市の地震被害想定調査報告書でも、宮城県沖地震と同程度のM七・五の地震が起きた際には三、七四〇棟の建物が倒壊し、最大で二七人の死者が出ると予測していたのである。それを大きく上回る規模の地震が今回起き、全壊と判定された建物は二九、九一二棟に上ったが、それでも建物の倒壊による死者は、正確なところは分からないものの仙台市内でもほとんどなかったのではないか。これは特筆すべきことである。

「森の防波堤」で防災とがれき処理を
 一方、今回の地震における死者のほとんどは津波によるものであった。防潮堤を過信しない、大きな地震の後はすぐ高台に避難する、といったこの地に住む我々がしっかり認識しておくべきソフト面での対策もより強化する必要があるが、とは言え、やはりハード面の整備も必要である。

 今回、仙台平野沿岸の防潮林は、津波によって根こそぎ倒されてしまった地域も多かった。しかしその一方で、防潮林がしっかり残った地域もある。この違いはいったい何だったのだろうか。

 実は、残った防潮林は、盛り土をしてしっかり土台をつくったところに松が植えられていたものだった。対して、根こそぎ倒された防潮林は、砂地に直接植林されたものがほとんどであったのである。

 そして、残った防潮林の中には何と、伊達政宗の時代に遡るものも多くあったそうである。先ほど、今回の地震に匹敵する地震は八七四年まで遡ると書いたが、こと大津波に関してはそれだけではなく、平均するとほぼ二〇〇〜四〇〇年に一度仙台平野を襲っていることが分かっている。前回は一六一一年の慶長三陸地震、その前は一四五四年の享徳地震である。そのうち一六一一年の地震は、伊達政宗が居城を仙台に移して一〇年後に起こっている。この時の大津波は、政宗の城下町づくりにも大ダメージを与えたと伝えられる。

 しかし、政宗は、戦国武将として合戦に強かっただけではなく、領主としても極めて有能だった。大津波の襲来を踏まえて沿岸にしっかり土台をつくった上で防潮林をつくり、その後背地には貞山掘という運河を掘った。今で言う多重防護の仕組みを作ったのである。そして、津波浸水地域は除塩をした上で水田として復興させた。今回の地震でこの政宗の防潮林が津波の勢いを減殺した地域では、そこでできた時間的余裕の間に住民が避難できたということもあったそうである。

 今、震災がれきの処理が復興の大きな課題となっている。広域処理を唱える環境省に対して、がれきを受け入れる側の自治体では、放射線に対する不安から受け入れ反対の住民運動が起きたりしている。

 そうした中、がれきを有効活用して防潮林を再生させようという取り組みが始まっている。がれきを細かく粉砕して、砂地の上の土台づくりに活用すれば、しっかり根を張った、いざという時に役立つ防潮林がつくれるというのである。横浜国立大学名誉教授の宮脇昭氏が「森の防波堤」として提唱し、宮城県内ではその主張に賛同した人たちが実際に取り組みをスタートさせている。

 ところが、がれきの広域処理にこだわる環境省は、この防潮林再生の取り組みには消極的なのだという。つくづく東京のど真ん中にいると現地のことがまったく見えないのだと実感する。今、仙台の高台に立って沿岸を見ると、櫛の歯が欠けたような防潮林が見える。これを一刻も早く再生させ、がれきを土台に自然の防潮堤を作れば、今回の地震でひとまず震源域のエネルギーは解放されたという宮城県沖地震が三〇〜四〇年後に再びこの地を襲ったとしても、それによる津波で人命が失われるような結果にはならないはずである。

 「備えあれば憂いなし」、「天災は忘れた頃にやってくる」、いずれも先人たちの貴重な教えである。今回の地震の教訓を風化させてはならない。復興の足を引っ張る国など差し置いてでも、次なる地震に対する備えを進めるべきである。

今こそ地方自治体は「伝家の宝刀」を
 それに関して言えば、もちろん津波対策だけでは足りない。津波によるあまりに大きな被害に目を奪われてあまり耳目を集めないでしまったものの、仙台市の隣にある利府町では、地震で郊外型の大規模ショッピングセンターの天井が落下し、お母さんと買い物に来ていた六歳の子が亡くなるという痛ましい事故が起きている。国土交通省の調査では、今回の地震では何と約二、〇〇〇施設の天井が崩落し、五人が死亡し、七二人が負傷していたことが分かったという。

 これらの施設では建物自体は倒壊していない。にも関わらず、なぜ天井は落下したのか。実は、こうした大規模施設の天井は「つり天井」なのだという。それが地震の際に、釣られている天井同士ぶつかるなどして釣っているワイヤーから外れて落下したのである。これを放置していては、次なる地震の発生時にまた犠牲者を出す恐れがある。国土交通省でもこの点を問題視して、つり天井の対策ガイドラインを出しているが、強制力があるものではなく、改善は進んでいないようである。

 ところで、地方自治体には「伝家の宝刀」がある。「上乗せ条例」、「横出し条例」の制定である。法律より厳しい基準を課す条例を「上乗せ条例」、法律が定めていないことについて規制する条例を「横出し条例」と言う。記憶に新しいのは、首都圏八都県市の連帯で国に先駆けてディーゼル車の走行規制を実現した首都圏環境確保条例の制定である。

 既存・新設を問わず、つり天井を持つ施設に対して崩落対策を義務付けるという条例を、少なくとも四〇年以内にまた大きな地震が来ることが予測されている宮城県並びに県内の自治体は制定すべきではないだろうか。

 何度でも言うが、国に任せていては、迅速かつ実効性のある地震対策は望むべくもない。再び宮城県沖を震源とする地震が起きて実際に被害を受けるのは、霞が関や永田町ではなくこちらなのである。今回の地震の教訓を余すところなく次なる地震への対策に活かして「防災先進地域」をつくる。それが未曾有の大地震を経験し生き残った我々の義務なのではないかと思うのである。


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2012年09月27日

私的東北論その37〜志を持つ人の「新天地」としての東北(「東北復興」紙への寄稿原稿)

イメージ 4 「東北復興」の第4号が9月16日に刊行された。今回の号で砂越氏は、東北の復興に手をこまねいている既存の政治家を批判し、自ら「東北復興を実現する政治家」を目指すことを勧め、そのための政治研究会設置についての意見交換も呼び掛けている。

 また、今号からは私も存じ上げている仙台在住の画家の古山拓氏の連載が始まった。旅行作家YASUYUKI氏の連載も始まった。「笑い仏」も順調に福島に向けての行脚を続けているようである。

 その第4号に寄せた拙文が以下である。




志を持つ人の「新天地」としての東北

白河の関史上初の「快挙」に寄せて
 この稿が掲載された紙面が発行される頃にはもはや旧聞に属することになってしまっていることだろうが、今年の全国高校野球選手権大会で青森の光星学院が昨年夏から春夏合わせて三度連続となる準優勝を成し遂げた。

 「成し遂げた」と表現したが、もちろん選手、監督や関係者は、「準」の取れた「優勝」を郷里、そして東北にもたらしたかったに違いない。青森のみならず東北の高校野球関係者の間では「真紅の大優勝旗を『白河の関』を越えて持ち帰る」ことが大きな目標となっているからである。
 とは言え、三度連続の準優勝は長い高校野球の歴史の中でも史上初の快挙である。選手達の大健闘を讃えたい(写真は東北の南端福島県白河市に残る
白河の関跡)。

「隣県の応援」は当たり前?
 さて、東北に住む人にとっては当たり前すぎて誰も突っ込まないことで、他の地域から見ると「何で?」と思われることが、実は高校野球についてはある。曰く「なぜ東北の他の県も応援するの?」である。上で「優勝」を「東北にもたらしたかった」と書いたが、これは意外に他の地域にしてみると、違和感とまではいかないようだが、「へえ」と思うことであるらしい。
 
 そう、東北地方の住人は自分の県の高校だけではなく、東北の他の県の高校のことも当たり前のように応援するのだ。最近は東北の高校も強くなってきて、一回戦で全て姿を消すなどということはなくなったが、寄ると触ると「あとどこの県が残ってる?」「どこそこの県は今年強いから何とか優勝狙ってほしい」といった会話になるものである。東北勢同士が当たろうものなら、我が身を引き裂かれる思い、とまでは言い過ぎだが、くじ運を恨みつつ、どちらを応援したらよいか真剣に悩む。

 東北の人にとって、「甲子園」というのはそのようなものである。しかし一方、他の地域から見るとなぜ自分の県ではない高校をそこまで応援するのか分からないものであるらしい。

白河の関2優勝旗は「白河の関」を越えたが…
 このようになった一因には、ちょっと書いたように、かつて東北各県の高校が他地域に比べてお世辞にも強豪とは言えず、一回戦敗退が珍しくなかったということがあったのかもしれない。甲子園の楽しみがあっという間に終わってしまうので、それを補うために隣県も応援するというようなことからこの「慣習」は始まったのかもしれない。
 
 しかし、隣県と言っても、北海道はまず応援しないし、北関東の茨城・栃木・群馬も応援しない。新潟もこと高校野球に関しては積極的に応援してはいないように見える。あくまで東北六県の範囲内での応援なのである。

 東北がかつてより負けなくなった昨今でも、東北六県の高校を互いに応援し合うという慣習は続いている。するとこれは、単に弱かったからというだけではない理由がそこにはあるのではないかと考えられるのである。

 「白河の関」越えということで言えば、北海道で駒大苫小牧高校が優勝を果たしているので、実は既に「白河の関」は越えているのであるが、「白河の関」を越えただけでなく、津軽海峡も越えていってしまったので、東北の高校野球関係者としては目指していたことと少し違う。「『白河の関』を越えてそこにとどまる」、というのが新たな目標になったわけである。

 この点を以ってしても、やはり北海道と東北は隣接地域ではあるものの異なる地域ということが分かる(写真の中世の館跡の周囲には空堀の跡などが今も残る)。

東北は「六つで一つ」
 ではなぜ、東北の人たちは自分の県以外の県の高校も応援するのか。それはやはりこの東北地方が「一つの地域」としてのアイデンティティを有していることによるのではないか、と思うのである。

 それぞれの市町村に属している、それぞれの県に属している、という意識の上に、東北に属している、という意識が、この地域に住んでいる人の中にはあるのではないか、ということである。これは大きなまとまりで地域を考える上ではとても重要なことである。

 「東北人」という言葉がある。日本の地方区分名+「人」ということでウィキペディアに載っているのは、東北人だけである。「関西人」もあるではないかという意見があるかもしれないが、「関西」は大阪を中心とした京阪神地域とその周辺地域を概念的に表現した言葉である。地方区分名で言えばこの地域は「近畿地方」である。

 考えてみれば、東北のような複数の県からなるこれだけ大きな地域が一体感を保っていられるというのはすごいことのように思う。大きさで言えば中部地方が東北に匹敵する大きさを持つが、中部は北陸、甲信越、東海に分割されることが多く、同じ地域という印象が薄い。

 近畿地方は学校教育では京都・大阪・兵庫・滋賀・奈良・和歌山・三重の二府五県を指すが、三重は東海地方に含まれることもあるし、逆に北陸地方の福井、中国地方の鳥取、四国地方の徳島などが近畿地方に含まれることもあり、実際には状況に応じて二府四県から二府八県にまで変化する。

 北海道はもちろん一体性を保っているが、それと同様に東北六県も「六つで一つ」という一体性を持っているように思うのである。

東北に住む人が「東北人」
 かと言って、東北がそこに住む人だけで固まっている内向きな地域というわけでもない。第二回で取り上げた奥州藤原氏は、遡れば都の藤原氏に連なる。奥州藤原氏の前に東北で大きな勢力を誇った清原氏や安倍氏は蝦夷と思われていたが、最近では異論があり、やはり藤原氏と同様に中央から東北に来て定着したのではないかという説も有力となってきている。

 鎌倉幕府滅亡後に鎮守大将軍となって東北に陸奥将軍府を打ち立てた北畠顕家も中央の貴族である。もちろん、伊達政宗を始め、東北の多くの戦国大名も東北以外の出自である。

 古来、東北は中央の政争で敗れた人が落ち延びる先でもあったし、罪人の流刑地でもあった。奥州藤原氏滅亡後に東北入りした武将たちは「新天地」を目の当たりにして胸を躍らせたことだったろう。東北には理由の如何を問わず様々な人がやってきた。東北の地に住む人はそうした人たちを拒絶せず、同化し、力のあるリーダーであれば上に押し頂いてきたのである。

 「東北人」というのは必ずしも東北生まれの人だけを指すわけではない。かつて東北に住む人は中央から「蝦夷(えみし)」と呼ばれたが、それは決して特定の民族を指すのではなく、東北に住む人間を指す言葉であった。奥州藤原氏は先に書いたように土着の東北人ではなかったが、中央からは蝦夷扱いされた。

 「東北人」という言葉もこの「蝦夷」と似たところがあるように思う。すなわち、東北にいる人すべてが「東北人」である。

東北は今も「新天地」
 「よそ者・若者・ばか者」という言葉がある。地域活性化に必要な人材のことであるそうである。折しも東日本大震災からの復興支援に全国各地から支援の手を差し伸べていただいている。これまでの現地の既成概念、固定観念にとらわれない復興のために、まさに東北にこそ「よそ者・若者・ばか者」の力が必要である。

 そして、東北に来て東北を支援してくれる「よそ者・若者・ばか者」も「東北人」である。そうした人たちが東北の地で元からいる人と交流し、融合することで、新たな東北が生まれると確信する。

 しかし、そうした方々に伝えたいのは、決してボランティア的な目的で東北に来る必要はないということである。東日本大震災後の東北は、いわば今も「新天地」だからである。

 一例を挙げる。原発事故問題に揺れる福島県内の医療状況はよくない。被曝を恐れた医師・看護師らが県外に逃れたからである。しかし、その一方で福島での勤務を希望して赴任する医師もいる。彼らは決して自己犠牲の精神で福島を目指すのではないそうである。

 福島県内での勤務は、志のある医師にとって実は非常にやりがいのある仕事なのだという。世界中から注目されている福島で診療活動を行い、丁寧に臨床データを積み重ねていけば、被曝医療について間違いなく後世に素晴らしい成果を残せる、というのがその理由だそうである。

 同様に津波で町が壊滅的な被害を受けた沿岸地域の復興はようやく緒についたばかりである。困難も多い。しかし、一から町を作り上げる場など、日本の他のどの地域にもない。これも他では決して得られない、やりがいと意義のある仕事である。

 他地域から東北を目指す人にとってだけではない。東北に住む我々にとってもそれは同じことである。高校野球でよく言われる言葉がある。「ピンチの後にチャンスあり」。今の東北はまさにそれである。住んでいる地域を問わず、志を持ち、その実現を図りたい人にとって、東北の大地は昔も今も、大いに魅力ある場所だと言えるのである。


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2012年07月26日

私的東北論その35〜平泉を草創した藤原清衡の願いとは(「東北復興」紙への寄稿原稿)

イメージ 2 7月16日に砂越豊さんの作る電子タブロイド紙「東北復興」の第2号が発刊された。今回の号では砂越さんの石巻復興に関する渾身の取材記事が読める。げんさんの論考も大変参考になる。ぜひご一読をオススメしたい。

 その第2号に寄せた私の拙文が以下である。






 


平泉を草創した藤原清衡の願いとは

世界遺産となった平泉の意味するところとは
 前回、「東北独立」を掲げて東北が一つとなること、東北がひとつになった暁には平泉こそがその中心地にふさわしい、ということを書いた。今回はこの平泉について考えてみたい。

 昨年、平泉にある中尊寺、毛越寺、観自在王院跡、無量光院跡、金鶏山の六つの史跡が世界文化遺産に登録されたことは記憶に新しい。東北では、縄文時代からのブナの森がそのまま残る白神山地が世界自然遺産に登録されているが、世界文化遺産への登録は平泉が初めてである。この「世界遺産効果」で平泉を訪れる観光客の数は大幅に増加しているそうである。

 平泉の文化遺産、登録名は「平泉―仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群」というものである。中尊寺を建立した奥州藤原氏初代の清衡は中尊寺を建立し、二代基衡は毛越寺を建立し、三代秀衡は毛越寺を完成させ、無量光院を建立した。中尊寺の金色堂、毛越寺の浄土庭園、無量光院越しに金鶏山山頂に沈む夕陽、いずれも浄土を表している。

 奥州藤原氏が三代揃って浄土を表す寺院を建立した、その意味するところは何だったのか。そうした寺院を建立することで自身の来世の極楽往生を願ったのだろうか。それとも、浄土はこういうものだということを示す「テーマパーク」のようなものを作りたかったのだろうか。

 世界文化遺産に登録された平泉の六つの構成遺産については、「現世における仏国土(浄土)の空間的な表現を目的として創造された独特の事例である」と説明されている。簡潔かつ的確な表現である。しかし、今に残る構成遺産は、ただ単に「浄土とはこのようなものである」ということを表現しようとしたのにとどまったのではない。奥州藤原氏は初代の清衡以降、この東北の地をそのまま浄土としたいと考えた。その祈りが込められたものこそが、今回世界遺産に登録された建築・庭園・遺跡なのである。

「中尊寺建立供養願文」が語ること
 当時の平泉は「平和」と「平等」の理念を持っており、それは世界各地で戦乱の絶えない現代にも誇れるものだった、と地元では胸を張る。なぜそのようなことが言えるのか。その根拠は今に残された「中尊寺建立供養願文」である。その中では、清衡がなぜ中尊寺を建立しようとしたか、その思いが余すところなく語られている。

 特に印象的なのは「二階の鐘楼一宇」について書かれたくだりである。この鐘楼には大きな鐘が懸けられた。その鐘について供養願文では、「この鐘の音はどこまでも響いていって苦しみを抜いて安楽を与える。それはあまねく皆平等である。官軍の兵と蝦夷の兵が戦で命を落としたことは、昔から今に至るまで幾多のことであった。獣や鳥や魚や貝が人に殺されることも過去から今まで数え切れない。それらの魂はあの世に去ってしまったが、その骨は朽ち、今もなおこの世の塵となっている。鐘の音がこの地を揺り動かす度に、心ならずも命を奪われてしまった者たちの霊を浄土に導かせよう」と書いている。

 ここに清衡の思いが集約されている。敵味方を問わない。それどころか、人であるか人でないかすら問わない。とにかく、自らの生を全うできなかったあらゆる生き物の魂を皆平等に浄土に導きたい、そう言っているのである。なんと壮大な願いであろうか。

中尊寺、奥大道、村々に置かれた寺院の意味
 そして、それが虚言空語に終わらなかったところが清衡のすごいところである。しかも、清衡の願いは、死んだ者を浄土に導くことだけにとどまらなかった。東北の地に今生きている者をも浄土に導こうとしたのである。清衡は東北の南端の白河の関(現在の福島県白河市)から北端の外ヶ浜(現在の青森県青森市)まで「奥大道(おくだいどう)」という「幹線道路」を整備した。そのちょうど 中間 に 中尊寺をつくった。その奥大道には、約一〇〇mおきに阿弥陀如来が金で描かれた傘卒塔婆を立てたと伝えられる。また、清衡の影響下にあった奥羽の一万余りの村にはそれぞれ寺院を置いた。

 余談だが、この「奥大道」という名称。なぜ「大」という名称がついているのだろうか。現代に住む我々は、ただ単に道幅の大きな幹線道路だったからだろうとしか考えない。しかし、ならば同じように「幹線道路」であった東海道や東山道も同じように「大」がついてしかるべきだが、そうなってはいない。「奥大道」のこの「大」は、仏教で「人智を超えた偉大な」という意味の「摩訶(まか)」と同義だという(摩訶不思議の「摩訶」である)。「摩訶」はサンスクリット語の「maha」の音に漢字を当てたもので、「maha」は漢訳では他に「大」「多」「勝」の字も当てられる。従って、「奥大道」は「みちのくの偉大な仏の加護に守られた道」という意味なのである。

 さて、これらはいったい何のためのものであったか。それは、この東北の地が仏の加護の下にあることを、この地に住む人々に伝えたかったのである。東北の地は古くから戦乱に明け暮れた。しかも、それは東北の地に住む者が望んで起こしたものではなく、いつも中央からの「侵略」に対する抵抗という形であった。 故なくして戦に巻き込まれて命を落とす理不尽、それがこの地に住む者にとって過酷な現実であった。

110820-130735「この世の浄土」実現への清衡の取り組み
 清衡自身も過酷な前半生を送っている。幼い頃に前九年の役で父親を殺され、母親は父親を殺した敵方である清原武貞に嫁がされた。その後起こった後三年の役では、母親がその武貞との間に産んだ異父弟家衡に自分の妻子を皆殺しにされ、自らの手でその家衡を討った。戦乱がもたらす無残さを身を以て嫌というほど味わわされたのが、他でもない清衡その人だったのである。

 清衡はだからこそ、過去から今に至るまで、そのようにたくさんの人が命を落としたこの東北の地を、丸ごと浄土にしようと考えた。浄土は来世にあるのではなく、この世から来世まで続いているものだということを、清衡は伝えたかったのである。その清衡の意図を今に伝えるものこそが、平泉の文化遺産なのである。

 清衡は、平泉に中尊寺を建立し、村々に寺院を建立してこの東北の地が浄土であることを示す一方で、東北が戦乱に巻き込まれない浄土とするための政治工作を中央に対して行った。 当時の関白藤原師実の子、師通の日記 に「清衡が初めて関白師実に馬を献上した」との記述がある。 当時、みちのくの馬は名馬として殊の外珍重された。馬だけではなく砂金も献上したと見られる。清衡からの貢物によって中央では、そのように労せずして欲しいものが手に入るのであれば、わざわざ大きな犠牲を払って戦をしなくてもよいのではないか、というように意識が変わっていったのだろう。結果として、清衡はその後もおよそ一〇〇年に亘って中央から攻められることのない、平和な東北を実現したのである。(写真は二代基衡の妻が建立したという観自在王院の浄土庭園)

110820-114954今だからこそ受け止めたい清衡の願いとメッセージ
 阿弥陀如来のいる極楽浄土は、この地から十万億土を隔てた西の果てにあるという。であるならば、極楽浄土というのはなんと遠いところにあるものだろうか。しかし、清衡の伝えたかったことは、そうではなく、「浄土というのは今ここにあるのだ」ということである。自分たちのいるこの場所が浄土だとは、なかなか実感できないことではある。しかし、我々の目に最も近いところにありながら見えないまつ毛のように、浄土も私たちのすぐそばにありながら見えにくいもの、と考えることはできないだろうか。

 そのことを伝えるために中尊寺はつくられ、清衡の遺志を継いだ基衡、秀衡によって毛越寺も無量光院もつくられた。「多くの人が亡くなった東北の地をそのまま浄土とする」という清衡の願いを、そして「我々の住むこの地こそが浄土である」という清衡のメッセージを、先の大震災で大きな痛みを受けた今だからこそ、もう一度東北に住む我々は心して受け止めたいと思うのである。(写真は無量光院跡、 中央遠くに見えるのが金鶏山)


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2012年06月27日

私的東北論その34〜「東北独立」を旗印に東北を一つに(「東北復興」紙への寄稿原稿)

イメージ 1 砂越豊さんからメールをいただいたのは昨年の9月のことだった。「東北 道州制」で検索していて、このブログがヒットしたそうで、拙論を読んでいただいたとのことだった。砂越さんは株式会社遊無有という出版社を立ち上げ、自らも「もう一つの構造改革」「立ち上がれ、オジサン!」などの著作を持つ文筆家兼編集者であった。

 震災後の東北の復興や東北の今後について持っておられた問題意識に共通するものを感じたので、仙台に来られる機会があったらぜひ東北を酒の肴に飲みましょうとお誘いした。砂越さんは宮城県内のご出身で現在でも月に一度ほどのペースで帰省されているとのことだったので、その時手掛けておられた震災後の東北復興のあり方を世に問う新著「東北独立」が脱稿するのを待って昨年12月に初めてお会いした。

 その際、このブログにも何度かコメントいただいたげんさん(げんさんのブログ「奥羽越現像 番外地通信」)や、私があちこちの公開講座や講演会でよくお会いしたやはり東北について造詣の深い鉄休さん(鉄休さんのブログ「エミシの森」)もお誘いして、4人で東北について大いに語り合った。それ以降も月に1回程度、砂越氏の帰省に合わせて集まって飲み食いしながらあれやこれや話している。その他に、Facebook内にも「東北独立っ!」と称するグループを作り、そこで日々情報交換を行っている。

 ちなみに、この飲み会の正式名称はまだない。私は「東北をどうする会(仮)」と呼んでいるが、げんさんは「東北を語ろう会」、砂越さんは「東北を考える会」と言っておられる。どれもみな同じ飲み会のことを指している(笑)。

 そうした中、砂越さんは東北の復興や今後について明確なメッセージを発信する媒体が必要だと考え、自ら「『東北魂』を鼓舞する電子新聞」を創刊することを決めた。それが月1回発行の電子タブロイド紙「東北復興」である。文筆家兼編集者であった砂越さんは、創刊に向けて今度は記者としても、今年は盛岡で行われた東北六魂祭の現地取材や東北復興へのキーパーソンと見られる人物への取材などを精力的にこなした。

 そして、この「東北復興」には、私やげんさんも寄稿することになった。創刊号が今月16日に発行されたが、そこに寄せた拙論が以下である。


「東北独立」を旗印に東北を一つに

今、なぜ「東北」の「独立」?
 この新聞を手掛けている砂越豊氏は、「東北独立」というタイトルの書籍を上梓している。「東北」の「独立」?恐らく、東北に住む多くの人にとってはまったく寝耳に水、それこそ想定外の話であろうと思う。「なぜわざわざ独立しなければいけないのか」「東北が独立したってやっていけないことは目に見えているじゃないか」、そう言う人も少なからずいるに違いない。ただ、ここでそれが本当にそうなのか、あるいは単なる思い込みであるのかを考えてみることは意味のあることではないかと思う。
 
 「独立」、つまりここでは「日本国からの独立」ということであるが、この「独立」について将来取りうる選択肢の一つとして検討してきた人がいる地域は、実は東北以外には存在している。具体的には、北海道や沖縄などである。最近では黒岩神奈川県知事が神奈川県の「独立」を目指すことを表明して話題になった。北海道では、例えば白井暢明氏が「北海道独立論」を以前から展開している。白井氏の試算によると、「独立」に伴う収入減は北海道全体で実質七千〜八千億円、道民一人当たり、年間約十三万円とのことである。つまり財政的には、一人年間十三万円を負担する覚悟があれば、「独立」は可能ということになる。

 そうまでしてなぜ独立しなければならないのか。そう思う向きもあるだろう。そこには「自分たちのことは自分たちで決めたい」という強い思いがある。白井氏によれば、北海道は炭鉱依存型経済から北海道開発庁中心の公共事業依存型経済へと転換して生き延びてきたということだが、その予算も年々減額され、その額はいまや往時の半分にも満たない五千億円弱にしか過ぎない。減らされる一方の国の予算に依存し続けるのではなく、雄大な自然、それを基盤とした大規模な農業、豊富な水産資源、美しい景観といった「資源」を生かした独自の「国づくり」に挑戦すれば、北海道の明るい未来も描けるのではないか、というのが白井氏の主張である。

 その北海道の「お手本」となる「国」がある。イギリスのスコットランドである。スコットランドも北海道と実によく似た境遇にあった。古くは石炭の産地として栄え、その後スコットランド開発公社が多額の開発予算を投じて公共事業を行い、地域経済を支えてきていた。そのスコットランドは一九九九年、ブレア政権の地方分権政策の下で、事実上の内政独立を果たしている。外交や防衛についてはイギリス政府に委ねるものの、「自分たちのことは自分たちで決める」体制が実現しているのである。

 北海道もスコットランドの動向には大いに注目していたらしく、「独立」から四年後の二〇〇三年に視察団を派遣して調査を行っている。その調査報告書は今も北海道のサイト内で閲覧できる。

一向に進まない「地方分権」
 さて、翻って我らが東北である。東北では少なくとも「独立」という話は寡聞にして聞かない。その理由は何なのだろうか。かつてこの地域は「蝦夷(えみし)」という「異民族」が住む、朝威の及ばない化外の地とされていた。奥州藤原氏の時代の前に東北に起こった二つの大きな戦はそれぞれ「前九年の役」「後三年の役」と呼ばれている。戦いに「役」という言葉がつくのは、元寇と呼ばれる「文永の役」「弘安の役」を見ても分かるように、「対外戦争」のみである。すなわち、「蝦夷」の住むこの地は、「日本」とは見なされていなかったのである。

 蝦夷の族長アテルイは、朝廷軍の「侵略」に対し、自分たちの「独立」のために敢然と戦った。それ以外にも東北の地は度々中央から攻め込まれてきた。源頼朝が奥州藤原氏を滅ぼした「文治五年奥州合戦」、豊臣秀吉による「奥州仕置」、そして明治維新に伴う「戊辰戦争」など、いずれも東北は中央から敵とされ、新体制樹立に向けた総仕上げの対象とされた。東北に住む人はそうした悲劇がもう二度と繰り返されないように、ことさらに「ここは日本の一部である」と意識し、理不尽なことにも黙って耐えるようになってきたのではないだろうか。

 もちろん、中央集権国家と呼ばれるこの国で、中央が地方の実情を地方以上によく知り、それに応じた施策を適時に打ち出しているのなら別に問題はない。しかし、現状がそうであると考える人はほとんど皆無というのが実情ではないだろうか。それができないのなら、「地方のことは地方に」ということで権限の委譲が実現すればよいのだが、それも望むべくもないようである。

 今回の震災における対応を見て分かったことは、「中央」は予算も権限も「地方」に委ねようとする考えを全く持っていない、ということである。鳴り物入りで設置された復興庁は単なる国の出先機関以外の何物でもなく、復興を推し進めようという「エンジン」よりは、地方のアイディアに待ったをかける「ブレーキ」としての役割に秀でているようである。この辺りは、インドネシアがかのスマトラ地震の後に被災地に設置し、強力な権限を持って復興を推し進めた「復興再建庁」とは対照的である。

 本来、政権交代が実現した暁には、中央集権政治から「地域主権政治」への転換が実現しているはずであったが、多くの他のマニフェストと同様、まったく実現する気配すらない。都道府県を全国で九〜十三の「道州」に再編する「道州制」も第二八次地方制度調査会で答申されたが、その後具体的なアクションは何も起こっていない。この未曾有の大震災を経てすら国の統治構造が変わらないのであれば、今後も自ら変わることは期待できないに違いない。

 よく、道州制を議論する際によく話題になるのが、自分たちの県がどの道州に入るのかという「区割り」の問題だが、道州制については、道州を受け皿とした権限の移譲もセットで進めないと、単に都道府県が合併しただけの結果になりかねない。それでは何も変わらない。今の北海道と同じくらいの面積は持つものの、自分たちのことを決める権限を何ら持たない「名ばかり道州」ができるだけである。

広域連携すら遠い東北の現状
 本当に権限を持った「自分たちのことは自分たちで決める」体制をつくるためには、「道州制」をゴールとしては恐らくダメである。結果的に予算と権限を持った道州制に落ち着くにしても、それを実現させるためにはそれよりももっと大きな目標を持つことが不可欠である。それくらいの「大風呂敷」を掲げてそれに向かってアクションを起こしていった結果が、各道州が実質的権限を持った道州制になる、そうしたプロセスは大いに有り得る。では、その「大風呂敷」とは何かと言った場合に、その旗印としてふさわしいのが、「東北独立」である。「東北独立」を掲げて、中央からの権限と予算の大幅な移譲を要求していく。その落とし所が道州制ということであれば、よもや「なんちゃって道州制」となることはないと思われる。

 ただ、現下の一番の懸念は、「東北独立」に向けて協働すべき東北六県の知事の道州制に対するスタンスがあまりに違いすぎるということである。かつては、特に北東北三県は二〇一〇年の「合併」を視野にまさに協働していたが、それぞれの県で「政権交代」が起こった結果、結局この合併は現在に至るまで実現していない。六県知事の中では村井宮城県知事が道州制に前向きだが、村井知事が道州制に前のめりになればなるほど、仙台への一極集中を懸念する他の五県知事が後ずさりするという構図がある。これでは東北が一つになることなど不可能である。かねてから震災復興のために、まさに東北が一つとならなければいけない時であるのに、道州制への呼び水となるのを恐れてか、広域連携への道筋すら立っていないのは見ていて歯噛みする思いである。

 村井知事は仙台を「州都」にしたいのかもしれないが、ここは道州内での「権限移譲」も進めるべきである。域内で最大の人口と経済規模とを誇る仙台がそのまま東北の「州都」となってしまっては、結局東京への一極集中の問題を抱えた今の日本の「縮小コピー」しか生まれないのではないか。そのような東北州には、宮城以外の五県の知事は協力しようとはしないだろう。

 そこで村井知事に提案したいのは、「道州制が実現した暁には州都は仙台以外に定める」ということを他の五県知事に対して確約するということである。

「州都」は平泉がいい
 さらに言えば、「州都」は平泉がいい、と私は考えている。そう、昨年世界文化遺産となって震災後の東北を勇気づけてくれた、あの平泉である。

 当時、東北地方のほぼ全域を支配した奥州藤原氏初代の清衡は、平泉の地に本拠を構えた。なぜ清衡は平泉に本拠としたのか。それは、「国土の均衡ある発展」を企図してのことだった。奥州藤原氏の前に奥六郡と呼ばれた岩手県南部を支配した安倍氏の拠点は平泉より北の衣川(現在の岩手県奥州市衣川区)にあった。その場所を引き継がず、敢えて南下した理由は、何より平泉がまさに「東北の中心」だったからである。北緯三七度に位置する東北の南端、白河の関(現在の福島県白河市)から、北緯四一度に位置する東北の北端、外ヶ浜(現在の青森県青森市)のちょうど中央、北緯三九度地点に平泉はある。奥州藤原氏が支配した地域のちょうど中央が平泉だったのである。

イメージ 1a 現在でも、平泉を中心にして東北を見てみると、平泉から北八〇kmに盛岡市があり、南八三kmに仙台市がある。こ
れら二都市は南北から平泉を支えると同時に、他の都市とも有機的に連携する役目を担える。盛岡市の北に青森市、西に秋田市があり、仙台市の西に山形市、南に福島市がある。すなわち、平泉を中心にその外側に盛岡、仙台、さらにその外側に青森、秋田、山形、福島という現在の県庁所在地が配置され、そしてそれらはすべて新幹線及び高速道路でつながっている、という非常にバランスの取れた構図が浮かび上がる。これはまさに「国土の均衡ある発展」のためにふさわしい形である。これに対して、仙台は東北全体から見るといかにも南に寄り過ぎである。

 現在の平泉は面積約六三平方キロ、人口約八千人の小さな町である。この小さな町に東北全体の州都を置いて事足りるのかという懸念もあるかもしれない。私はこの小ささが逆によいと考える。州都は必要最小限の権限を持ち、あとは各地域がより大きな権限を持つべきである。それには平泉の「小ささ」はうってつけである。仙台などに州都を置いたら、それこそ何でもかんでも仙台が抱え込んでしまうことにもなりかねない。「一極集中」を許さない物理的な好条件を、平泉は持っているのである。

九〇〇年前の「自治政府」を再建する
 平泉が栄えた時代は、東北が一つとなって栄えた時代でもあった。奥州藤原氏初代清衡が後三年の役を生き延びてから、四代泰衡が源頼朝に滅ぼされるまでのおよそ百年の間、東北には大きな戦乱がなかった。今の世界にも誇れる理念を掲げ、それを具現化した仏教文化が平泉を中心に東北各地に花開いていた。その意味で平泉は、東北の統合と繁栄の象徴的存在である。それもまた「州都」にふさわしい要件である。

 村井知事には、このような論拠を以て、ぜひ「仙台以外の州都」を宣言してもらい、他の知事の疑心暗鬼を払拭してもらいたいと思う。仙台は、「ワシントン」ではなく「ニューヨーク」になればよいのである。

 東北の古代・中世史研究の第一人者、高橋富雄氏はその著書「平泉の世紀」の中で、奥州藤原氏の政治について、「(奥羽では)朝廷も国府も、摂関も院政もそのまま上にいただきながら、実際にはこれを名目上の主権に棚上げし、その執行権の全権を掌握した『委任統治制度』を実現していた。『在国司』と呼ばれるこの奥羽行政権は『事実上の自治政府』として、『幕府政治』のはじまりになっていくものである」といみじくも指摘している。今、東北が目指すべき道は、この、九〇〇年前に東北の地に実現していた「自分たちのことは自分たちで決める」仕組みを、もう一度つくり上げることである。それこそがまさに「東北の独立」なのだろうと思う。そのために必要なこと、それはまず九〇〇年前にこの地にいた人たちが持っていた気概を取り戻すことである。そして、今、目の前にある現実を当たり前のもの、変わらないものと捉えるのではなく、変わる余地のあるもの、自分たちの手で変えられるものと捉える、すべてはそこから始まるに違いない。


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2012年02月10日

東北に関係する書籍その6〜「東北独立」を扱った小説

イメージ 1 さて、独立を果たした東北地方についてである。小説中では以下のように紹介されている。

国名:奥州国

暫定政府樹立
首相:野上高明青森県知事
60名の国務大臣:5県知事、脱出してきた国会議員からなる
合議制
・暫定政府であることを国民に告げ、完全独立が成り、国情安定後に投票による新政府樹立をすると約束
首都:岩手県盛岡市
・県名は従来通り、元号は廃止、西暦制を採用。

暫定政府の決定事項
国境:福島県、山形県の県境をそのまま指定、北は津軽海峡の中間ラインに設定

奥州国内通過問題:いずれは日本国との条約により相互通行の権利を認め合うことになるが、現時点においても通行の制限は行わない

奥州国内にある日本国の資産の没収:
・全資産を一時的に奥州国国有とすることを決定。
・鉄道は国境以北は奥州国鉄道運営局が運営管理。
・東北電力その他についても同様の処置。電力局が設置、稼働中の三基の原子力発電所、建設中の三基の原子炉も接収。
・このほか鉱山、油田、漁業関係などすべてが接収の対象。それぞれ奥州国鉱山局、漁業局、産業局に組み入れ。
・民間企業であると否とを問わず。

かつての県警の処置:
・県警察官は県が雇用、地元採用のため、警視以下は県が給料を支給。
・警視以上の国家公務員には退去を勧告、残る者はそのまま新警察に雇用。奥州国警察局が統轄。
奥州国の治安維持は東北地方守備隊が受け持つ。「奥州国警備隊」と改称。

立国の基本:「立国の基本は農業」
農業資源
・人口約1,000万人
・水田69万ヘクタール
・収穫できる米290万トン
・主食米としての消費量は年間一人当たり約88キロ、奥州国全体で概算90万トン
・余剰米が200万トン超
・畑30万ヘクタール。麦、野菜は人口に見合う
・大豆と果物など一部に若干の不足が見込まれる→耕地面積の拡大で処理

漁業資源
・漁獲量年間120万トン強(スケソウダラなど肥料用漁獲を含まず)
・消費量一人1日100グラムとして年間40キロとすれば3年分の魚が収穫できる
・貝類、海藻類を入れると数字はさらに上昇
・内水面漁業・養殖漁業で合計約1万トン。鮎、鮒、鯉、鱒、鰻、シジミなど

・余剰食品は日本国との貿易に振り向ける

鉱物資源
・金:376キロ
・銅:53.456トン
・鉄:285.548トン
・鉛:29.510トン
・タングステン:238トン
・亜鉛:111.279トン
・硫化鉄:212.752トン

・粗鋼の日本国内消費量は7000トン、一人当たり年間約690キロ
・奥州国1,000万人で年間700万トン
・生産額28万5千トンでは絶対的不足。

林業資源
・林業産物のうち素材生産量は625万立方メートル(全国の15%)
・人口比、木材需要の傾向から供給は充分。

石油資源
・一人当たり年間平均2.72キロリットル
・奥州国1,000万人で2,720万リットル
・備蓄分60日分で約450万キロリットル
・合計3,000万キロリットル
・原油産出量は年間約20万キロリットル
・極めて不足状況

 以上を踏まえた野上奥州国首相の就任演説は以下の通りである。

「人間の生活基本は農業にある。いかに時代が変化しようと、その基本姿勢は変わらない。大地を耕してそこから食物を得る。そうするかぎり、国も、われわれも、滅びることはない。

 さいわい、わが独立国奥州は広大な山野、沃野を擁している。国民人口は一千万人である。一千万人の国民が潤沢に暮らしていける資源には、こと欠かない。……

 わたしは、奥州国建国に当たって、大自然との調和を第一義に据えたいと思う。それには、まず、土壌の改良をなさねばならない。日本国は農業基本法設定以来、労働生産性のみを考え、作物の専作化がすすみ、大量の化学肥料を使用した結果、いま、土壌は極度に悪化している。土は本来生きものである。微生物による活動が有機物を分解し、作物に養分を与え、通気性を保ち、保水性を強化して、作物を力強く育ててきた。

 ところが、いまの農作物はどうか。弱体化がはげしい。大量の農薬撒布は作物の弱体化だけではなく、人体にも害毒を瀰漫(びまん)させている。

 土壌改良には厩肥(きゅうひ)が必要である。それには家畜を増やさねばならない。とくに牛が必要である。わたしは、向こう五年間に、わが国に乳牛、肉牛あわせて五百万頭の牛を増やす政策を採りたい。飛蝗来襲前には東北六県には乳牛肉牛合わせて五十六万頭、豚百十五万頭を飼育していた。それを十倍まで増やすことが、農業立国の基本方針である。そうすることによって、はじめて、土壌改良もなろう。そして、われわれは、大量に農薬に汚染された食物とは、訣別できる。

 わが奥州国には悠久の大河がある。北上川、阿武隈川、最上川だ。まだまだ、無数の川がある。われらは、この河川を蘇らせる。鮭を放流するのだ。臨時政府は産業再編成に着手している。その主たる目的は河川の汚染厳禁にある。大小無数の河川は一、二年以内に完全に蘇るであろう。清冽な流れが戻るのだ。そこに、鮭や鱒、鮎などが群れをなして遡上することを、わたしは、約束する。鮭の放流は現在回帰率がニパーセントにまで高められている。五億匹を放流すれば、一千万尾の鮭が回帰遡上することになる。

 われわれには、山林も戻った。かつて、日本政府に押さえられていた官有林も、現在は、すべて、国民のものだ。明治以降、われわれは広大な国有林設定に、泣いた。東北地方のひとびとを漂民化し、隷属化させた最大の癌が、この山林国有化であった。

 われわれには製造工業もある。現在、三万六千以上の工場を接収している。ここからは年間四兆五千億以上の製品を出荷している。食糧から、武器まで、あらゆる製造工場が揃っている。

 製鉄、セメントなどの大規模工場もある。

 製造工場では生活必需品と、農業機械、建設機械、トラック、バスその他が生み出されるであろう。

 もちろん、よいことばかりではない。わが奥州国には鉄の絶対量が不足している。しかし、わが国はベトナムなどのように戦火の中から復興するのではない。すでに諸君は家を持っている。鉄道もあれば橋もある。鉄の不足は耐えられないものではない。わが国には地下資源が豊富だ。新たな鉱山の開発に期待をつなげる。

 電力の不足はさほど心配することはない。現在、建設中の三基の原子力発電所が稼働をはじめれば、約二十パーセントの節電で充分に乗り切れる。

 問題は原油にある。産出量は二十万キロリットル。天然ガスが五千五百万立方メートル。これは、日本国が国産を軽視して開発を怠った結果である。われわれは採掘規模の拡大、秋田沖油田の開発などに着手するであろう。アジア諸国の一人当たり消費量は〇・三八キロリットルである。われわれのニ・七ニキロリットルは明らかに使いすぎだといえる。これは、肥料、プラスチック、繊維などに石油を消費しているからにほかならない。われわれは当分の間、石油は燃料以外には消費しないのを原則とする。すでに、衣類などの各種製品は潤沢に行き渡っているはずだ。ニ、三年は、そうしたものに石油を使わなくても不便は感じないであろう。現在、流通経路上に備蓄されている石油で、すくなくとも来年の春までは保(も)つであろう。

 以上が独立国家運営における見通しである。

 つぎにわれわれは、外交における確固たる理念を持たねばならない。わたしは、外交の基本を平和におく。いかなる国とも敵対関係を持たない。これは隣国日本とも同じである。独立はしても、われわれは同胞であることに変わりはない。いずれ、条約で二国間に関するかぎり、通行制限は行なわないことを取り決めたい。ただ、わが国の侵略される懸念のある間は、特定国との安全保障条約は結ばねばならないと考える。

 中立を守る意味で、三沢にある米軍基地および、日本国の陸海空各自衛隊基地は早急なる撤去を要請する。わが国にはいかなる国の軍隊をも駐留させないのが、基本方針である。

 ……

 最後に、国民諸君に独立国家誕生についての充分なる認識と気概を持たれることをお願いする。日本国が、自衛隊による武力行使に訴える可能性がないとは、いいがたい。そうなっても、断じて、屈してはいけない。屈伏は第二の戊辰戦争となるだけである。われらは日本国の奴隷となるよりも名誉ある死を選ぶべきである。二度と、われらは、隷従しない。

 わが国にある無数の石の地蔵をこれ以上、増やさないために、われらは侵略に体を張るべきである。血をもってあがなわねばならぬものなら、そうしよう。

 われらは、永遠の侵略に歯止めをかけるべきときに遭遇している」

 野上首相の下、東北地方が「奥州国」として独立を果たした1978年当時の人口は約1,000万人とあるが、現在では921万2千人となっている(新潟県を含めた7県では1,157万2千人)。今後、少子化の進展でさらに人口減少の度合は加速すると見られる。

 小説では東北六県が独立したことになっているが、これに新潟県も加えた7県で見た場合、域内GDPは41兆7,830億円で、これは北欧のスウェーデンの41兆5,366億円を上回る。「国」としての実力は、欧州の中堅国並といったところである。

 問題は歳入構成比で、全国平均と比べ、東北地方は歳入に占める地方税の割合が低く(全国平均31%、東北地方19.3%)、逆に、地方交付税(全国平均20.0%、東北地方29.0%)と国庫支出金(全国平均15.7%、東北地方17.9%)の占める割合が高い。他地域よりも国の財源に依存する度合いが大きいということである。

 小説の中では「農業立国」を基本としているが、これは独立する、しないに関わらず、今後東北が必ず取り組んでいかなければならない最重要テーマであると私も思う。そして、農業立国のベースとなるのが、農業の成長産業化である。日本では農業は「衰退産業」というレッテルを半ば貼られてしまっている。高齢化の進展、なり手がいない、国土が狭い、高コストで輸入品に太刀打ちできない、などなど、事ある毎に農業の衰退が取り沙汰される。では、なぜ同じように高齢化が進み、国土が狭いヨーロッパの国々の中で農業が基幹産業となっている国があるのだろうか。それらの国の日本との違いは何なのだろうか。

 宮城大学副学長の大泉一貫氏はこの農業の成長産業化について、具体的な方策も含めて主張している。氏の講義を以前聞いたが、なるほどと思うことがいくつもあった。「農業において『余ったら輸出』というのが世界の常識だが、『余ったら生産調整』が日本の常識」、「市場発見、顧客発見の必要が農業にもあるにも関わらず、日本の農業政策は輸出忌避、顧客志向忌避で衰退させるべくして衰退させている」と指摘し、オランダ、デンマーク、スイス、フィンランド、ノルウェーなどの取り組みを紹介する。なるほど、まだまだヨーロッパ諸国に学ぶことはたくさんあるのだなと実感する。

 大泉氏が挙げるのは\こ市場への進出(市場の発見・創造、輸出の推進)∪源裟の向上(重機による分業協業、オートメーション工場、IT化施設の導入)CΓ閏〇唆伐宗蔽工業化社会、情報産業化、サービス産業化、ブランド化、他産業との融合)である。その中で、その通り!と思った氏の発言は「東北は食糧供給県ではない!」というものである。東北と言うと、まさにそのような位置づけで語られることが多い。しかし、発想の大転換が必要である。食糧を供給するのではない、味、品質共に優れた東北の食糧を日本含め世界中に売り込む、そのような意識が「農業立国」には絶対に必要である。そう言えば、以前紹介したが、青森県は三村知事を筆頭に、農産物の積極的な海外進出を図っていた。あの姿勢が必要なのである。そうそう、こうした大泉氏の講演、ウェブ上では全国肥料商連合会での講演の内容が文字になっている。当日の配布資料もPDFデータとなっていてありがたい。

 電力の問題も大きい。小説の中では原子力発電所を接収したことになっているが、東日本大震災後、事故を起こした福島第一原発は言うに及ばず、福島第二原発、女川原発、東通原発がすべて停止したままである。太陽光発電、風力発電など、自然エネルギーによる発電が模索されているが、その不安定さやコスト高がどうしてもネックになる。私が注目しているのは地熱発電である。日本は世界第三位の地熱資源がありながら、その活用は遅れている。その理由の一つが、地熱発電の候補地が温泉地に近く、地熱発電の開発によって温泉の源泉に影響が出るのではないかという懸念である。

 この懸念を払拭するバイナリー発電という方式での地熱発電が現在導入され始めている(参照サイト)。日本の地熱資源の中でも、東北には有望な地域が多い。日本地熱開発企業協議会は昨年9月に東北六県の地熱開発有望地区についての調査結果を発表している(参照PDF)。青森県の下北、八甲田、岩手県と秋田県にまたがる八幡平、岩手県と秋田県と宮城県にまたがる栗駒山、山形県と宮城県にまたがる蔵王、福島県の磐梯山が挙げられているが、中でも福島県の磐梯地域には、なんと原発2基分の地熱が埋まっているということである。八幡平地域もこの磐梯地域に匹敵する「埋蔵量」が見込まれている。確かに、八幡平山麓の玉川温泉だけ見ても、98度という沸騰寸前の日本一高温の温泉が、これまた日本一の毎分約9,000リットルも湧出している。これをバイナリー発電に生かさない手はない。また、風力発電では、洋上風力発電にも期待したい。

 農業以外の産業については、これまた以前紹介したが、「鉱業」を強く推したい。「都市鉱山」の開発は「黄金の国復活の狼煙となるに違いない。この「都市鉱山の開発」=非鉄金属リサイクルは秋田県北部を中心として現在産業化が進んでいる。それを含めた東北の産業創出プロジェクトは現在進行中である。東北地域産業クラスター形成戦略、通称「TOHOKUものづくりコリドー」である。

 この中では自動車関連部材等分野、光産業分野、半導体製造装置関連分野、医歯工連携・健康福祉分野、MEMS(微小電気機械素子)技術分野、非鉄金属リサイクル分野、IT分野の7つの技術・産業分野を、広域仙台地域、北上川流域地域、山形・米沢地域、広域郡山地域の4つの「牽引役」と、青森・弘前地域、八戸地域、秋田北部地域、本荘・由利地域、会津地域、いわき地域の6つの「産業集積地域」において、相互に連携を図りながら重点化することを目指している。このプロジェクトを基に、東北の各地域のさらなる産業発展を図っていくのが、「奥州国」の産業振興の近道であろうと考える。

 そうそう、「奥州国」という名称だが、奥州と言うと、陸奥国、すなわち東北の太平洋側の地域を指すので、もし東北地方が丸ごと独立する場合は別の名称を考えた方がよいと思う。「東北国」が真っ先に思い浮かぶが、この東北という言葉は中央から見た方角しか指し示していない。まあ、世界の国を見渡してみても、意外に「え?そんな意味だったの?」という国名が結構あるので(参照サイト)、「東北国」でもいいと言えばいいのだろうが、歴史的に言えば、小説の中で野上首相も紹介した「日高見(ひたかみ)国」を名乗るのもありだろうし、「蝦夷(えみし)国」「日之本(ひのもと)国」なども考えられる。

 独立国と言えば、以前「ミニ独立国」が流行ったことがあった。現在でも活動している国はあるようだが、どちらかと言うと下火の感がある。とりあえず、東北六県ないしは新潟も含めた7県は、この「ミニ独立国」として独立してみてはどうだろうか。規模から言ってまったく「ミニ」ではない「ミニ独立国」となるが、インパクトは大、地域振興にそのスケールメリットも最大限活かせるのではないだろうか。

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2012年02月09日

東北に関係する書籍その5〜「東北独立」を扱った小説

i_std_bsc_02_1-1a 上巻の白眉が先に紹介した、地方自治についての憲法解釈を巡るやり取りだとすると、下巻、そして本小説全体の白眉はもちろん、野上青森県知事による東北地方の「独立宣言」である。小説の中では、野上知事がテレビとラジオで緊急会見を開き、それを宣言している。首都圏を目指したおびただしい数の東北地方の難民が、難民受け入れ拒否を告げた東京都と荒川で衝突し、多数の死傷者を出した直後のことである。以下がその全文である。

 故郷を捨てた難民のみなさん。

 これから、わたしの述べることを、心して、聴いていただきたい。これは難民となって異郷を彷徨(さすら)うみなさんだけではなく、東北地方の全住民に聴いていただきたい。

 わたしは、昨日、難民受け容れを拒否するとの都知事声明を聴いた。それにつづく、沿道各県県知事の声明も聴いた。わたしは、そのことを予測していた。予測はしていたが、わたしの力では流民、難民となって旅立つひとびとを喰い止めることができなかった。いま、総数で百五十万を超すひとびとが故郷を捨てている。わたしは、都知事声明を聴いて、泪を流した。入都を拒否され、国道以外の通過はならぬと各県から通告されたみなさんは、わが同胞である。

 今日、難民と警視庁との激突も、聴いた。みなさんの攻撃は失敗に終わった。怪我人が二百余人。死者が三十二人。その他、荒川の水に消えた者がかなりある。極秘の警視庁情報だ。

 みなさんの敗北は最初から予想できた。三浦都知事は綿密な計画を樹(た)てていたのだ。すでに入都している六十万人の難民に専門家をまぎれ込ませて、暴徒化を口族(けしか)けた。とうぜん、暴動が起こった。都知事はそれを背景に、難民受け容れ拒否を断行したのだ。

 諸君には死の行進が課されている。現在、五本の国道を埋めた難民の数は約六十万人だ。都知事および、沿道各県知事は、六十万人の難民に死を宣告した。親を、子供を、犬猫を抱いた諸君は、飢えに苦しめられ、妻や娘を売りながら、ふたたび歩いて荒れはてた故郷に向かわねばならない。諸君に死を宣告したのは、なにも都知事、各県知事だけではない。もっとも諸君に無情だったのは、中央政府だ。政府が難民受け容れ対策をたてさえすれば、このような悲惨な状態にはならなかった。

 中央政府の東北蔑視は、いまに、はじまったことではない。

 わたしは、ここで過去に触れざるを得ない。

 わが東北地方は、明治絶対政権誕生前夜に、中央と生存を賭けて戦ったことがある。いわゆる、戊辰戦争だ。一八六七年。将軍徳川慶喜の大政奉還と同時に、薩長土は王政復古の宣言を行なった。時の京都守護職であった会津藩主松平容保が徳川家に味方したのは許せないというのが、口実だった。だが、それは口実だ。本音は東北地方諸藩を武力で叩きのめすことにあった。叩いて、ひれ伏させないかぎり、維新以降の主導権確立が危ないとみたのだ。当時の書簡で木戸孝允は、こう、述べている。<確乎、御基礎の相立候事、戦争より良法ござなく……太平は誓って血をもってのほか買求め相済まざるものと思考仕り候>と。

 薩長土は、松平容保死罪、庄内藩主酒井忠篤は領地没収との方針をたてた。朝廷より奥羽鎮撫総督をいただき、大山格之助、世良修蔵などを参謀として、進軍を開始した。東北諸藩に対しては会津、庄内両藩討伐令が下った。だが、東北諸藩は従うはずがなかった。逆に、明治元年に東北諸藩は奥州白石に集まって同盟を結んだ。

 四月十九日。世良参謀を斬った。そして、五月、仙台で東北二十五藩の大同盟が成った。さらには越後諸藩も加えて、奥羽越大同盟となったのだ。奥羽越大同盟は輪王寺宮法親王を擁立して<東武皇帝>と称し、東北地方の独立を宣言した。年号も、大政元年と改めた。諸外国に独立宣言を発し、ここに敢然と中央政府に独立戦争を挑んだのだ。

 だが、戦いは敗れた。六月にはじまり、十月に終わった。敗因は三春藩・河野広中の裏切りと、農民の戦争拒否にあった。何よりも、農民の協力拒否が敗北につながった。東北地方の自然条件はきびしい。農民は戦争どころではなかった。戦争は階級の争いである。自分たちには無縁だとみた。

 しかし、わたしにいわせれば、当時の農民の戦争拒否は残念だった。戦わねばならなかったのだ。全住民が挙げて、奥羽越同盟軍に馳せ参じるべきだった。戦いを放棄したばかりに、明治政府に隷従する身となった。ここに、中央政府の東北地方蔑視がその芽をふいたのだ。

 明治政府は富国強兵を方針とした。富は関東以南に築き、強兵は東北地方に求めた。

 無数の東北地方の若者が戦いの最前線に送られて、死んだ……。

 たとえば、ここに、一つの資料がある。

 明治二十五年に完成した林野行政による、官有林、民有林の区分だ。例をとる。奈良県の民有林は九十九・七パーセント。官有林は、わずか〇・三パーセントしかない。わが東北地方はどうか。官有林が宮城県で六十六パーセント。山形県八十三パーセント、福島県八十パーセント。秋田県はじつに九十四パーセントだ。そして、青森県。ここは九十七パーセントが官有林に没収されておる。

 農民は完全に山林から締め出された。中央政府によって生活の根拠を断ち切られたのだ。それまでは自由に木の枝や下草を取りに入山したのが、いっさい禁止された。当時の大林区署・小林区署、つまり、営林署の役人が警官と同じ支度であったのは、入山者を取り締まるためであった。東北地方の農業経営には山林原野が最重要であった。そこから飼料肥料の供給をたえず仰いでいたのだ。生活の根を絶たれた農民は、土地を捨てて都会に出るしかなかった。富国を急ぐ政府には、産業を支える低賃金労働者が必要だった。中央政府は東北地方の山林を国有林として農民の生活を奪うことで、労働力を得ようとした。

 幾多の婦女子が売られ、男は戦場にて、死んだ。

 都会に出た学業もなく、技術もない東北県人は、賤民として扱われた。ひとたび恐慌が襲うと、真っ先に馘(くび)を切られた。故郷には水呑み百姓の父母がいる。そこに戻れば喰えるだろうというのが、政府のことばだった。<今日の経済を考えるとき、人間の力で失業者を防ぐことはできやしません。とうぜん不景気は来る。失業者はできるのです。それはもう、わたしは当然だろうと思う。すこしも不思議はない>大蔵大臣井上準之助はそういった。内務大臣安達謙蔵は、こういった。<東北地方人の失業は、失業にあらず、帰村すればそれで済むのだ>と。また、雑誌「改造」の座談会で、こうも述べている。<そこは東洋流の家族制度のおかげで欧米とはよほどちがうのですね><失業手当てなどやると、遊民、惰民を生じるから、そういう弊害を極力防ごうと考えている。いかに日本の政府が民衆政治になったからといって、民衆におもねってそういうことをしたら、百年の禍根を残すと思うのです>と。

 賤民は故郷に追い返された。

 妻の身売り、娘売りがつづき、子供を買う最上婆アがあらわれた。東北地方の歴史はこの身売りにつきまとわれている。

 いまも、諸君は、わが妻や娘を沿道の男たちに売りながら南下している……。

 中央政府は、東北地方住民が貧しいのは土地が狭いからだと、定義した。その定義は満州占領の布石だった。広大な満州へはばたけと、大宣伝をはじめた。そして、若者はぞくぞくと満洲に渡った。政府の真の狙いは現地調達できる兵力にあった。

 話を現時点に進めよう。

 日本の高度経済成長が緒についた昭和三十六年、政府は、農業基本法を制定した。農業従事者と他産業従事者の所得格差をなくするための法律だとある。一戸当たり二・五ヘクタールの耕地があれば、他産業従事者と同じ所得があげられるから、小規模農家はやめろといった。そして、工場を東北地方に大量進出させた。これが、経済成長を遂げさせる基盤になった。その結果が貿易収支の黒字となり、その見返りとして諸外国の余剰農産物が法外な安値でどんどん入ってくるようになった。

 政府は稲作の減反を命じた。

 アメリカ産の飼料を使って家畜を飼えという総合農政がはじまったのだ。


 ――諸君は故郷を捨てた。巨大な難民の群れとなって、南下した。そこに諸君を待ち受けていたものがなんであったか。中央政府の壁だ。抜きがたい東北地方蔑視の壁だ。飛蝗来襲と同時に中央政府は東北地方から備蓄米を運び去ろうとした。そして、六千億の援助で、われわれを見捨てた。諸君の飢えは、だれも考えない。明治以来、中央政府は一貫してその棄民政策を取りつづけている。それでも、諸君は東京にさえ入ればなんとかなるだろうとの、幻想をいだいた。その諸君を待ち受けていたのは、警察力によるシャットアウトだった。諸君は幻想を打ち破られた。いまは、醒(さ)めるべきだ。すでに、その時がきている。

 わたしは、ここに、諸君に要請する。

 北に帰りたまえ。

 歩けない者は協力して連れ戻りたまえ。夫は、妻を沿道の男に差し出すのは、やめることだ。いかに苦しくとも、盗みはするな。犯罪は起こすな。全員で協力し合うことだ。落伍者は出すな。故郷まで、いかに遠かろうとも、自身の足で歩いて戻ることだ。

 わたしは、再度、要請する。

 諸君には東北地方人たる名誉を守ることを、願う。自分の足で大地に立つことを、お願いする。諸君に武器を向けた東京都に未練を抱くな。中央政府に幻想を抱くな。たとえ、飢え死のうと、意地は捨てるな。

 百五十万難民に、要請する。北に帰りなさい。

 諸君の安住の地は、北にしかない。

 故郷に戻りさえすれば、わたしが、諸君の食糧は保証する。

 わたしは、ここに、東北六県知事会を代表して、宣言する。われわれは、日本国から独立する。

 この大演説を聞いた、打ちひしがれた東北地方の難民たちの様子を作者はこう描写している。

「ことばにならない声が、国道を埋めた。透明で巨大な何かが、雨の国道を、難民の間を、走り抜けた。
 どよめきが野上高明の声を掻き消した。
 ボリュームはいっぱいに上げてあるが、それでもどよめきに掻き消された。
 号泣が湧いた。
 だれもかれもが、泣いていた。他人の目をはばかる者はなかった。何万という男女が、闇の底で泣き伏した」


 この野上知事の演説の中では、明治以降東北が置かれてきた状況が浮き彫りにされている。その中で、私もこれまで知らないでいたことがある。官有林と民有林の比率の件である。東北地方と他地域との間にそれほど割合に差があるのだとすれば、それは明らかな不均衡・不平等以外の何物でもない。現代ではどうなっているのか。そこで早速調べてみた。データは「2010年世界農林業センサス報告書」の第7巻「農山村地域調査報告書−都道府県編−」にある。結論から言うと、この小説中で野上知事が挙げているのは明治時代のことであり、現在ではそこまで極端な差ではないが、依然として西日本と比べて東北地方の国有林比率は高い。なるほど、明治維新以降の東北地方の貧しさは単に気候的な問題ではない、そのような政策的な理由もあったのかと勉強になった。

 例えば、演説中で例に挙げられている奈良県では、現在でも現況森林面積283,900ha中、国有林は12,701haで4.5%、民有林は271,199haで95.5%を占める。これに対して、東北各県を見てみると、青森県は615,064ha中、国有林375,903ha(61.1%)、民有林239,161ha(38.9%)、岩手県は1,147,152ha中、国有林360,716(31.4%)、民有林786,436(68.6%)、宮城県は408,510ha中、国有林121,793ha(29.8%)、民有林286,717ha(70.2%)、秋田県は820,640ha中、国有林373,509ha(45.5%)、民有林447,131ha(54.5%)、山形県は643,395ha中、国有林329,653ha(51.2%)、民有林313,742ha(48.8%)、福島県は936,128ha中、国有林372,449(39.8%)、民有林563,679(60.2%)と、明治時代よりは比率が下がっているものの、依然西日本に比べて高い割合を占めている。それが目で見て分かるのは、「私の森.jp」の中にあるこのページの図(上の写真)である。

 震災復興を巡るこれまでの動きを見て分かったことがある。「中央政府」は地方に財源や権限を譲り渡す意思は微塵も持っていない、ということである。未曾有の大震災に際してさえそうなのだから、平時にそうした議論が進むと考えるのは望むべくもないのだろう。

 野上知事の「独立宣言」、フィクションの話でありながら、同じ東北に住む者として、強いメッセージを感じる。

 東北地方人たる名誉を守れ。
 自分の足で大地に立て。
 東京都に未練を抱くな。
 中央政府に幻想を抱くな。
 たとえ、飢え死のうと、意地は捨てるな。


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2012年02月08日

東北に関係する書籍その4〜「東北独立」を扱った小説

蒼茫の大地滅ぶ下 作者である西村寿行は、作品の題材について徹底した調査を行うことには定評があったそうで、本作でもこうした明治以降、東北地方が置かれた状況について、野上知事が事細かに語っている。

 上下巻のうち、上巻についての白眉は、衆議院の地方行政委員会に喚問された野上知事の、自治大臣との応酬にあると言っていいと思う。場面は、衆議院の地方行政委員会。明野和重議員ら東北出身の与党国会議員47名が、東北六県知事に「非常時大権」を与えようという動議を提出しようとするが、先に野党の勝俣議員が、野上知事に対する審決請求の動議を提出する。そこでは野上知事の興味深い憲法解釈が披瀝される。以下にそのやり取りを挙げてみる。

野上青森県知事「宮根自治大臣。畦倉首相。あなたがたの質問に、わたしは同時に答えよう。勝俣委員からあったが、自治大臣は地方自治法にもとづいて行政不服審査法の規定を準用すればよい。また、首相は法一四六条にもとづいて、職務執行命令訴訟を起こし、わたしを罷免に持ち込みたまえ」

宮根自治大臣「野上知事。わたしは、この危機を深く認識しているつもりです。もちろん、明野委員の動議にも意義を認めています。しかしながら、勝俣委員の申請を無視するわけにはいかない。法治国家である以上、地方自治体首長といえども、憲法上の限界に服するのは、とうぜんです。日本国憲法が地方自治に関して一章四カ条を設けて自治権を保障しているのは承知しています。ですが、それは、あくまでも地方自治を国家の基本的統治機構の一環としてであって、<地方自治の本旨>は法律でこれを定めることにしたと、九二条にあります。勝俣委員の審決請求は、あなたの、個人権限への不当介入、個人および国家の財産侵奪――そういう訴えがもとになっているのです。いいかげんな釈明はあなたの立場をよけい不利にすると思いますが」

野上「勝俣委員の審決請求となっているもろもろの件については、あとで答えよう。しかし、自治大臣、わたしは、あなたとは別の解釈に立っていることを、申し上げておく。
 あなたは、憲法が地方自治を、国家の基本的統治機構の一環としてしか認めていないといったが、それは、ちがう。憲法九四条に地方自治の条例制定権が定められてあるが、これは、わたしは確認規定にすぎないと理解しておる。なぜなら、地域団体というものは国家の成立以前から存立していたものだからである。つまりは、自然発生だ。とうぜん、自治権も自然発生的に地方団体に生じていた。この権利を侵すことはならない。それは個人の基本的人権と同じだからだ。国が個人の基本的人権を侵せないのと同様に、国の立法でもって地方自治体の権限をみだりに収奪することは、許されない。
 <武内宿禰(たけのうちのすくね)東国より還(かえ)りまゐきて奏言(まう)さく、東夷(あづまのひな)の中、日高見(ひたかみ)国有り。其の国人男女(をとこめのこ)並に椎髪(かみをあげ)、身を文(もとろ)げて、人と為り勇悍(いさみたけ)し。是を統(す)べて蝦夷(えみし)と曰(い)ふ。亦(また)土地沃壌(こえ)て曠(ひろ)し。撃ちて取るべし>日本書紀にある記述だ。ここにある蝦夷が、かつての地方自治体の姿だといえる。律令国家に、つねに攻められ、国土をかすめとられてきた。現在は日本国家の一部として編入されている。現行憲法の精神はその時点に立ちかえって、地方自治というものをあらためて確認した。ただ、それだけのことにすぎない。わたしは憲法九二条、九四条を、その意味に解釈しておる。とうぜん、九四条にいう条例制定権も、そのことを確認しておるものと解す。地方自治法一四条一項にある<条例は地方公共団体の事務に関するものでなければならない>とする枷は、わたしは、とらない」

宮根「つまり、国の立法に従わないということですか」

野上「いや。

 国の立法を尊重しないわけではない。地方自治体は現に国と折衝をしながら政治を進めてきておる。ただし、あなたがた国家はつねに地方自治体から収奪することのみにつとめて、われわれを尊重しようとしない。現行憲法で自治権を確認したにもかかわらず、財源を抑えている。たとえば国税だ。国税本位の政策を改めようとしない。そのために、地方自治体には財源がとぼしい。政策を国庫補助金にたよらざるを得ない仕組みになっておる。三割自治といわれるゆえんだ。中央官庁の操作に、従わざるを得ない立場に置かれている。立法に従うとか従わないとかを論ずるより先に、憲法の精神を、あなたがたがつかむことが先決ではないのか。国と地方自治体は相互尊重主義で交わるべきだ」

宮根「あなたの論旨が、わたしには、わからない。いったい、あなたは何がいいたいのですか」

野上「地方自治体に対するみだりがましい干渉はやめなさい――わたしは、そう、あなたがたに忠告しておるのだ」

宮根「みだりがましい干渉!

 あなたは、地方自治体首長として、行政の責任を問われているのですよ。国家管掌米搬出を暴力で阻止し、警察の職務執行を妨害し、個人の財産を侵奪し、その上、東北地方守備隊なるものまで創設して、警察権を与え、あげくは暴行殺人までやらかしているのですぞ。にもかかわらず、あなたの論旨は明快だ。国は地方自治体にかかわるな。放っておけ――あなたは、青森県知事として、国家と対立を希(のぞ)み、あるいは革命でも起こそうというのですか」

野上「まだ、おわかりにならない」

宮根「わかりません。これは自治大臣に対する侮辱ですか」

野上「ちがう。

 君は有能な政治家だ。ただし、君が行なう政治と、わたしの行なう政治は、根本的にちがう。もし、君がわたしの立場なら、何をするかね」

宮根「…………」

野上「青森県は飢えておる!

 青森県全体が焼け野原(ローカスト)になっておる。熱風が走り回り、食糧は暴騰に暴騰をつづけておるのだ。このままでは大量の死者が出るのは、目に見えておる。暴騰を抑え、闇物資を扱う死の商人の跳梁(ちょうりょう)を監視し、暴動を抑えるために。東北地方守備隊がどれほど働いているか、ご存じか。あなたがたは、その青森県から、備蓄米を搬出しようとした。なぜだ、なぜ、そのような非人道的なことをする」

宮根「…………」

野上「それが君たちの、地方自治体に対するもののみかただ。つねに中央にしか目が行かない。地方からは、絞れるだけ、絞ろうとする。昔は、地方自治体の長官は国が派遣した。中央政界の収奪機関としてのみの、政治だった。とくに東北地方蔑視はひどかった。たとえば文化四年の北海道斜里海岸の防備に当たった津軽藩。明治三十五年一月の歩兵第五連隊の無謀きわまる八甲田山行軍、旅順攻撃、満蒙開拓団、太平洋戦争――つねに、わが東北地方の若者が最前線に立たされておる。そして、無数に死んでおるのだ。君たちに、われらが怨念がわかるか。
 新憲法ができた。
 憲法は地方自治体の自治権を認めた。いや、認めたのではない。もともとあったものを、確認したのだ。なるほど、たしかに地方自治体と国家とは尊重し合っていかねばならない。わたしとて、国家の権益を尊重しないわけではない。だが、君たちのやり方は、汚すぎる。未曾有の飛蝗禍を前に東北地方から米を搬出しようとした。その米はだれが作ったのだ。米を作れという。いまでも三年に一回は襲ってくる凶冷害に飢饉――それらと闘いながら、東北地方の農民は品種改良にはげみ、日本一の米倉に仕上げた。いまは、国民の基本的食糧である米は作るなという。もっとも、米を作ったところで、機械化攻勢の前に農民はつねに借金に苦しめられているのが現状だ。かつては子供を間引きしては石の地蔵を建て、娘は製糸工員に、売春婦に流れた。男は出稼ぎだ。その出稼ぎは、いまも連綿と続いておる。漂民だ。それでも、東北地方の住民は必死に耐えてきた。君たちはわが青森県にあるとほうもない数の石の地蔵をみたことがあるか。それらにこめられた貧しい県民の願いがわかるか。
 いままた、大飢饉が訪れている。有史以来のものだ。また、無数の石の地蔵が増えようとしているのだ。にもかかわらず、君たちは、わたしの行政を審決にかけようとしている。おそらく、畦倉君はわたしを職務執行訴訟に持ち込み、罷免を狙っているのであろう。やるがよい。わたしの答えは、それだ。わたしは現行憲法を、いま述べたように解釈する。国家の要(い)らざる介入は、許さない。かりに、憲法学者が、法律家が、そして国家が、わたしの解釈をまちがいだというのなら、それもよい。わたしは、そういう憲法には、従わない」

宮根「憲法に、従わない……」

野上「そうだ。人間には生きる権利がある。わが東北地方住民にも、その権利はある。わたしは知事会を招集して、ひとびとが生きのびるためのギリギリの政治を、行なっている。特別の条例を設けたのもそうなら、東北地方守備隊を設けたのも、それだ。生きのびるための戦いが憲法違反、国法違反というのなら、そんな憲法も国法も、わたしには要らぬ」

宮根「…………」

野上「わたしが、憲法だ」

野上「明野委員。

 動議を取り消したまえ。もっと勉強をすることだ。地方自治体首長が、国家から非常時大権をもらう必要は、毫(ごう)もない。政治は対等だ。わたしの権限は、畦倉君にも宮根君にも、また、この地方行政委員会にも、犯させはせぬ。国会だとて、それは、同じだ」

明野「わかりました。動議は取り消します」

 以上である。架空の想定であるが、国と地方、法律と地方自治に関して侃々諤々の議論が行われている。

 小説の中では、この野上知事の発言について、反対、賛成それぞれの立場から「識者」のコメントが挙げられているが、「反対」の立場からは、

・国法無視。
・独善性。
・政府管掌備蓄米が青森県民140万人にとって生命綱なのはわかるが、暴力で抑えるのではなく、話し合いで、あるいは陳情でそうすべきで、それが政治というもの。
・一度も上京をせずに軍隊まがいの隊を創設し、それに警察権を与えるのは重大な法無視。
・国法を超えた県条例を制定するなどはもっての外。
・「このわたしが憲法だ」と言わせたのは危険な思い上がり。

との意見が出されている。一方、「賛成」の立場からは、

・野上の説いた憲法92条の解釈はまったく正しい。地方自治の精神はそうあらねばならない。
・中央官庁が国庫資金給付で締め付け、地方住民の意志を自由に操作するために制定している国税主義のやり方は危険な中央集権主義。
・地方税主義に改め、県財政を豊かにして、地域住民の繁栄を図ってこその地方自治。憲法もその精神に立って地方自治を侵すべからざる権限として確認している。地方自治を国家官僚に踏みにじらせるべきではない。
・この天下非常時に野上知事を糾弾するために地方行政委員会を開くなどは論外。超法律的な強権を付与してこそしかるべき。

といった意見が出されたことになっている。

 ちなみに、ここで挙げられている憲法の第92条と第94条の条文は以下の通りである。

第九十二条 地方公共団体の組織及び運営に関する事項は、地方自治の本旨に基いて、法律でこれを定める。

第九十四条 地方公共団体は、その財産を管理し、事務を処理し、及び行政を執行する権能を有し、法律の範囲内で条例を制定することができる。

 第92条で議論になるのはこの「地方自治の本旨」についてであるが、それについては通常、住民自らが地域のことを考え、自らの手で治める「住民自治」と、地域のことは地方公共団体が自主性・自立性をもって、国の干渉を受けることなく自らの判断と責任の下に地域の実情に沿った行政を行っていく「団体自治」の2点からなるとされる。

 もう一つの第94条では、地方公共団体の特定の地方における行政機関としての役割を定めると共に、地方における「独自立法」としての条例制定権を認めている。ここでは、「法律の範囲内」という制約について、地方公共団体が独自に、条例で法律では規制されていない行為について規制することや、法律よりも厳しい基準で特定の行為を規制することなどについての適法性が議論となるところである。

 宮根自治大臣の主張は、「地方自治は憲法で保障された権利だが、それはあくまでも国家の基本的統治機構の一環としており、地方自治体首長といえども、その制約を受ける」というものである。ただし、「<地方自治の本旨>は法律でこれを定めることにした」と主張しているのは明らかに拡大解釈である。92条では「地方自治の本旨に基づいて、法律でこれを定める」とある。言うなれば「地方自治の本旨」の方が上であって、その地方自治の本旨に基づいて地方自治に関する法律を定めなければならないと言っているのである。

 宮根自治大臣の指摘するように、日本国憲法は、地方自治についてあえて一つの章を設けてその権利を保障している。それは特筆すべきことである。しかも真っ先に92条で「地方自治の本旨」に基づいて法律を定めなければいけないとしていることは、憲法が地方自治の権利について並々ならないレベルで重視していることが窺える。そこから野上青森県知事の主張は導き出されている。すなわち、92条は「確認事項」であって、憲法で言う地方公共団体は国家の成立以前から自然発生的に存立しており、そこに自治権も自然発生的に成立していた権利であるから、個人の基本的人権と同様に、地方自治の権限を国が立法で制限することは許されない、という主張である。

 私は法律の専門家でも何でもないが、逆に予断を持たずに条文を読んでみると、一見、この92条と94条との間には齟齬があるように思える。92条には「地方自治の本旨に基づいて、これを法律で定める」とあって、法律より先に地方自治の本旨があることを謳っておきながら、一方、94条では「法律の範囲内で条例を制定することができる」として、その地方自治の権能の一つである条例の制定範囲を「法律の範囲内」に制限している。これをどう解釈すべきかということである。その部分で、先ほども挙げた、94条に関連して、条例が法律では規制されていない行為を規制することや、法律よりも厳しい基準で特定の行為を規制することなどについての是非が問われてしまうことにもなるのである。

 94条を文字通り厳格に解釈すれば、法律で定めている範囲にない物事について規制することは許されないように見える。事実、かつてはそのような解釈もまかり通っていたようである。法律先占論と言うそうだが、国の法律が既に規制している事項については、その法律の委任がない限り条例を制定できないとする考え方である。しかし、時代の流れとともに、地域の実情を鑑みずに国が一律に規制をして例外を許さないことの非効率かつ不合理な面も指摘されるようになり、より柔軟な解釈で条例が運用されるようになってきた。

 その先駆けとなったのは1960年代の公害問題で、東京都などの自治体が条例で、国の法律よりも厳しい排出基準を定めたり、既存の法律が規制していない物質についての排出基準を新たに定めたりしたことである。ちなみに、前者のように法律より厳しい基準を課す条例を「上乗せ条例」、後者のように法律が定めていないことについて規制する条例を「横だし条例」と言うそうである。

 これらの条例を是とする解釈としては、「法律というのは全国的に適用される最低基準を定めたもので、それが憲法の言う『地方自治の本旨』に基づいた法律のあり方である」という主張が挙げられる。判例でも、「条例が法律に違反するかどうかは、両者の対象事項と規定文言を対比するだけでなく、それぞれの趣旨や目的、内容や効果を比較して、両者の間に矛盾抵触があるかどうかによって判断すべきである」とされている(徳島市公安条例事件、最大判:昭50・9・10)。つまり、94条で言う「法律の範囲内」というのは法律が対象としている事項や規定されている文言による制約ということではなく、制定された趣旨・目的・内容・効果が法律と矛盾していないということであるというのが、司法の憲法判断というわけである。

 とは言え、国と地方の間に上下関係があるように見えるのは、議論の中で野上知事が指摘し、現実にも事ある毎に槍玉に挙がる「三割自治」の問題の故である。一方に憲法で認められた「地方自治の本旨」というものがありながら、実際には財源を押さえられているために、国の意向に沿った形でしか自治体はその権限を行使できないという実態があるわけである。「違憲状態」という文言はよく「一票の格差」問題で取り沙汰されるが、それと同様に、もしくはそれ以上に、国と地方を巡るこのような状況が固定化されている現状こそ「違憲状態」なのではないかという気がしてならない。

 「地方は末端にあらず、国の先端なり」という言葉がある(山内徳信・水島朝穂「沖縄・読谷村の挑戦―米軍基地内に役場をつくった」岩波書店)。その言葉に込められた地方の気概、とりわけ地方のことはそこにいる自分たちが一番よく分かっているという自信と確信とに裏打ちされた、単なる国の「沙汰」を待つのではない、それを超えた地方の独自性、自立性を、憲法の趣旨に則って確立していく時期に来ているのではないかと思う。財政の自立が難しいのであれば、まずは精神の自立から。

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2012年02月07日

東北に関係する書籍その3〜「東北独立」を扱った小説

蒼茫の大地滅ぶ上 「蒼茫の大地、滅ぶ」(上下巻)は、西村寿行(にしむらじゅこう)が1978年に発表した小説である。最初、講談社からハードカバーで刊行され(アマゾン該当ページ )、その後1981年に徳間書店の選集に収録されると共に(アマゾン該当ページ)、講談社文庫から文庫版が刊行された( )。1984年には角川文庫としても刊行された( )。また、コミックにもなった(アマゾン該当ページ )。しかし、現在はいずれも絶版となり、古本としてしか手に入らない。しかも、これがなかなか見当たらない。Amazonなどでもかなり高値がついていたりする。私はネット上で奇しくも(そう、この小説の舞台からすると奇しくも、である)青森県にある古書店に在庫があるのを見つけて安く手に入れることができた。

 オビにはこうある。

「豊穣多彩な想像力が未来を予見した―。東北六県壊滅の飛蝗襲来と悲劇の奥州国独立 西村寿行の代表作 感動のパニック・ロマン巨編」

「飛蝗の群団――。幅十キロ、長さ二十キロ 蒼々茫々の大地に 壊滅を す死の群団の来襲。生地獄の東北に明治以来百年の歴史を覆す独立の烽火。日本政府と奥州国の対決。自然の壮絶さと悲劇の独立を謳うバイオレンス、パニック・ロマン巨編。」

 飛蝗(ひこう)というのはトノサマバッタなどの変異種で、大量発生して大集団を作り、植物や作物を食い尽くす蝗害(こうがい)を引き起こすことがある。その飛蝗が中国大陸で大発生して総重量2億トンという想像を絶する巨大な群れとなり、日本海を渡って東北地方に襲来、東北地方はありとあらゆる農作物を食い尽くされ、深刻な飢餓状態に陥るという設定である。

 一見、あり得なさそうな設定であるが、有史以来人類は蝗害に度々襲われている。しかも、過去の災害というわけではなく、特にアフリカでは近現代でも時折被害がある。中国でも2005年に海南省が飛蝗の被害を受けている。2007年にエチオピアで発生した飛蝗は北ソマリアからインド洋を越え、パキスタンやインドにまで到達したということで、中国で発生した飛蝗が日本に到達することもあり得ないことではないことが分かる。日本でも、明治初期には北海道の道南や東南部で、昭和40年代には沖縄県の大東諸島で、昭和60年代には鹿児島県の馬毛島で、それぞれ蝗害が発生している。最近では2007年に開港寸前の関西空港第二滑走路にトノサマバッタが数百万匹という大量発生をしたことが話題になった(参照サイト)。

 この小説は、オビにもあるように、そうした蝗害を取り扱ったパニック小説と捉えることもできるが、話の展開はむしろ蝗害を受けてからの東北地方と中央政府との軋轢や駆け引きといった動きに焦点が当たっており、また明治維新以降東北地方の置かれた立場などについても詳細に語られているので、その意味では社会派小説としても捉えられそうである。

 飛蝗が最初に降り立った青森県では津軽平野の農作物が瞬く間に食い尽くされる。与党の幹事長を務め次の総理とまで言われながら中央政界を引退して青森県知事となっていた野上正明は、東北六県から若者を6,000人集めて「東北地方守備隊」を結成させ、混乱の収拾に努める。一方、政府は被害の拡大に備えて、全国の備蓄米を東北分も含めてすべて首都圏に集めようとするが、食糧難に喘ぐ東北からの備蓄米の搬出は東北地方守備隊に阻止される。その後、飛蝗は岩手県へ南下、さらに宮城県、秋田県、山形県へも広がり、米や野菜は軒並み食い尽くされ、食糧難が深刻になり、治安も悪化する。蝗害の影響で株価が大暴落、円の価値も下がる。政府が決定した被災地支援は6,000億円の救済費割り当てのみ。失業や食糧難で暮らせなくなった東北地方の住民は150万人もの難民となって首都圏を目指すが、東京都は難民の流入を警察力で阻止し、東京都周辺の各県も難民の滞在と国道以外の通行を禁じて締め出しを図る。苦境に立つ東北地方の住民に向けて、野上知事は他の東北の知事と共に、東北六県の日本国からの独立、そして「奥州国」の建国を宣言する、――というストーリーである。

 「独立」と言うと、どこか遠い国の話であって、今の日本にあっては非現実的な話と捉える向きもあるかもしれない。しかし、この小説にあるような、中央政府が自分たちのことばかりが優先で、地方からは収奪することしか頭にない、という状況があった場合、本当に自分たちのことを自分たちで決めることのできる新しい国を自分たちでつくる、という動きが出てきても不思議ではない。

 事実、東北が独立を目指したことが歴史上あったとされる。本書の中でも紹介されているが、明治維新の時である。この時、奥羽越列藩同盟は輪王寺宮公現法親王を推戴した。輪王寺宮公現法親王は「東武皇帝」と称した。年号も「大政」と改元した。諸外国に使者を送り貿易開始の要請も行った。これはもう一つの日本ができたような様相である。当時のニューヨークタイムズは、「日本の東北地方に新帝が立ち、2人のミカドが並立する状況になった」と伝えていたそうで、国際的に見ても日本という国が2つに分かれたという認識があったようである。しかし、奥羽越列藩同盟側の敗戦と同盟自体の瓦解により、この「もう一つの日本」が日の目を見ることはなかったわけである。

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2004年09月03日

私的東北論その2〜東北の「首都」は平泉に

a7c38816.jpg 青森、岩手、秋田の北東北三県で、将来の合併を念頭に置いた様々な取り組みが始まっている。三県は、産業廃棄物税の共同導入や三県合同の事務所の設置、三県知事によるサミット、三県の若手職員による北東北広域政策研究会の活動などの実績を積み重ねてきた。

 同研究会は昨年8月に出した最終報告書の中で「2010年に対等合併して『北東北特別県』となり、さらにその後5年から10年をかけて東北六県による『東北州』実現」を提言しており、恐らく将来の道州制の実現に一番近い位置にいるのがこれら三県だと思われる。

 野田一夫氏という高名な経営学者がいる。若かりし頃はP.F.ドラッガーの著書を日本で初めて翻訳して紹介し、最近では多摩大学宮城大学など、既存の枠にとらわれない大学を作ったことで話題を呼んだ。

 野田氏は宮城大学学長の職を辞した後も、社会開発研究センターの理事長として、仙台にとどまり、週の半分は仙台にいる。というのも野田氏の生まれは岩手の盛岡であり、かつては岩手の野田村の有力者だった家柄だそうで、東北には殊のほか思い入れが強いからなのだそうである。その野田さんがここ数年主張しているのが、「東北独立」である。中央権力に依存せず、東北が独立して自主的な開発をすべきだとしている(参考サイト)。

 独立国というのは一つの比喩で、独立するくらいの気概を持って東北は一体となって進めというメッセージだと私は思っており、それには大賛成である。ただ、野田氏は東北が独立した際には仙台はその「首都」となれと言っている。確かに、人口、都市機能など見ても仙台はそれにふさわしい要件を備えているように思える。

 しかし、私はあえて「首都」には、仙台でない地を選ぶべきと思っている。具体的には、私は東北が独立した暁の「首都」、あるいは東北が一つの州になった際の「州都」として、岩手県の平泉町を推したい。以下そう考える理由を述べたい。

 まず、地域全体のバランスである。仙台は東北全体を考えた際に南に偏り過ぎている。北三県から見て遠い「首都」は、「国土」の均等な発展を考えた際に果たしてふさわしいかどうか。今ですら仙台への一極集中が言われている。その状態がそのまま引き継がれるようでは、一つになった後の状況が心配である。仙台がそのまま「首都」になると、東京にすべてが集中している今の日本をそのまま「縮小コピー」したような変わり映えのしない「国」ができてしまう公算が高い。

 ましてや、先に触れたように、現在統一への動きは北三県で盛んである。北東北三県が合併した後に、南三県がそれに合流するという形で東北が一つになる可能性もある。そうした時に、合併した後の「首都」が南の仙台というのでは、北三県としては「今までの自分たちの苦労をよそに後から来た仙台がおいしいところを取っていってしまう」というような思いを抱くのではないだろうか。

 それに対して、平泉は岩手にある古都である。藤原清衡がここを本拠と定めたのにはもちろん理由がある。東北の南端の白河の関(現在の福島県白河市)から北端の外ヶ浜(現在の青森市)までのちょうど中間に位置していたのである。現在の地理的条件を見ても、平泉から北80kmに盛岡市があり、南83kmに仙台市がある。そして、その盛岡市の北129km先に青森市、西90km先に秋田市があり、仙台市の西46km先に山形市、南66km先に福島市がある(いずれも直線距離)。

 こうして見ると、実に絶妙の位置に平泉はある。平泉を「首都」と定め、仙台、盛岡が南北から平泉を支えつつ、それぞれ福島・山形、青森・秋田と平泉とをつなぐ役割を果たせば、北東北三県も「疑心暗鬼」に陥ることなく、一つとなった東北について一緒に考えていけるはずである。

 もう一つ、平泉を「首都」とするメリットは、平泉の「小ささ」である。三方を山に囲まれた平泉の土地には限りがある。さらに、平泉は現在世界文化遺産登録を目指しており(参考サイト)、重要な史跡なども数多く、安易に開発できない。それがよいのである。地域を元気にするためには、それぞれの地域の裁量を増やすことが必要である。今地方分権の論議が活発なのもそれが理由だが、東北州(あるいは東北国)においても「大きな政府」はいらない。平泉の町に収まる規模の「小さな政府」があればよいのである。

 平泉は早晩世界文化遺産に登録されるだろうが、その世界文化遺産を抱えた「首都」の誕生に期待したい。(写真は平泉にある毛越寺の浄土庭園のもみじ)

anagma5 at 19:12|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!