東日本大震災  

2015年09月30日

私的東北論その73〜いわきと富岡で見聞きして考える震災復興の現在

150806-093509 8月16日に刊行された「東北復興」第39号は、「笑い仏」特集であった。同紙にその旅の模様が連載されてきた「笑い仏」さんが、この8月に最終目的地である福島に到着したのである。

 富岡町の浄林寺にてその開眼供養が行われることになり、そこに私と同紙編集長の砂越豊さん、さらに「とにかく東北を語る会」にも来ていただいたNPO法人STELA副理事長の坂本拓大さんの3人で参加してきた。その開眼供養の模様は砂越さんの記事や、「笑い仏」プロジェクトを進めてきたMONKフォーラムの平原憲道さんの記事に詳しいので、私は少し別の角度から書いてみた。以下がその全文である。

いわきと富岡で見聞きして考える震災復興の現在

「笑い仏」さん、ついに福島へ
 「笑い仏」さんがついに、3年余りの旅を終えて福島に到着した。福島第一原発から直線距離で約11kmの場所にある富岡町の浄林寺がその最終目的地である。8月6日にその開眼法要が営まれ、檀家の方々を中心に、約150名の方が集まった。恐らく今号では編集長の砂越さんやMONKフォーラムの平原さんがその模様を詳細に報じておられることと思うので、ここでは、震災発生から4年5月が経過した現時点での復興について、いわきで見聞きしたことを基に、改めて考えてみたいと思う。

「記憶の記録プロジェクト『田』」
 私は、仙塩地区の医療・介護関係者でつくる「夜考虫。」という集まりで、震災関連のプロジェクトである「記憶の記録プロジェクト『田』」を担当している。このプロジェクトでは、震災以降、とりわけ介護・福祉領域の方々の取り組みがマスメディア等でほとんど報じられていないということに問題意識を持ち、それらの方々の震災発生から今に至る行動やそこにある思いなどについて話していただいている。

 東日本大震災は我々にとって未曽有の災害であったが、歴史を紐解くと過去にも同様の震災が繰り返し起こっていたことが分かる。それは他地域においても同様で、少なくともこの国にいる限り、どこにいても今回のような震災に遭遇するリスクは存在する。したがって、今回の震災体験から得た学びや知恵を他の地域の人や、この地域のこれからの人に伝えていくことはこの上なく重要なことであると思うのである。

いわきで聞いた震災のこと
 この「記憶の記録プロジェクト『田』」の活動の一環として、7月26日、27日の両日、「震災復興交流訪問活動 in いわき(田旅いわき)」と銘打って、いわき市内で9人の医療・介護関係者の方々に震災体験についてお聞きしたが、聞けば聞くほど、現在のいわきの置かれている状況の難しさを思い知らされた。

 いわきはその市域の北端が福島第一原発から30km圏内にあるために、原発事故の影響を受けたと思われている。事実、震災直後、物資はいわきにはなかなか届かなかった。中通りの郡山までは物資が来ていたが、そこからいわきには当初輸送されなかったのである。やむなくいわきから郡山まで物資を受け取りに行った事例が数多くあった。大手のマスメディアも3月下旬までいわきには入らなかった。実際には当時の風向きの関係でいわきのある福島の浜通り南部よりも、中通りの県庁所在地福島や郡山の方が放射線量が高かったというのは大いなる皮肉であった。

 いわきは、あまり知られていないことだが、東北では仙台に次ぐ人口第2位の都市である。つまり、仙台を除く東北の他の5県の県庁所在地の人口をも上回る。同じ浜通りの福島第一原発に近い双葉郡の町村の避難者を受け入れるキャパシティーがある都市は、浜通りにはいわきを措いて他にはなかった。もちろん、中通りの福島や郡山、会津の会津若松なども相応に大きな都市ではあるが、気候が違う。浜通りは住むのに実に快適な地域で、夏は内陸の中通りや会津ほど暑くならず、冬は東北の中で最も温暖で雪もほとんど降らない。こうした浜通りに長らく住んだ人が中通りや会津、ましてや他地域に移り住むには相当なストレスがあったことだろう。

 その意味では同じ浜通りの南端にあるいわきは、原発事故から避難してきた人たちにとっては住みやすい場所だったに違いない。それでいわきには2万人超の避難者が移り住んだ。しかし、そのことが元からのいわき市民との間に軋轢を生んでしまった。片や住み慣れた故郷を離れざるを得なかったとは言え、東電からの多額の賠償金を得ている人たち。片や原発事故の風評被害に苦しみながらも、東電からの賠償は一時金としてほんの数万円得ただけの人たちである。急激に人口が増えたことで、道は朝晩渋滞するようになった、病院の混雑は増した(しかも避難者の医療費は無料である)、賃貸物件が不足した、保育園の待機が深刻になった、賠償金を元手にいわき市内の土地や家が買われて地価が上がり家を建てにくくなった、かつ避難者の大部分は住民票をいわきには移していないので実質的に人口が増えたにも関わらずいわきの税収はほとんど変化がない、そのような声を聞いた。

「他の地域が同じ目に遭ったら助けたい」
 このプロジェクトの活動をしていてよかったと思う時がある。震災発生から4年以上経って、震災のことを日常の中で振り返ったり、他の人と話したりという機会は着実に少なくなってきている。そうした中で改めて話を聞かせていただくことで、もちろんこちらにとっても様々な気づきや学びがあるが、それと同時に話をしてくれた人にとっても震災当時に思いを馳せ、そこから今に至った経緯を振り返ることで、同じように気づきや学びがあるようなのである。

 避難者を受け入れたことによって生じた軋轢について語ってくれたお一人が、ふと気づいたように「でも、それは本筋と違うよね」と言った言葉がとても印象的だった。何が復興の本筋なのか。避難者同士の境遇の差を論じることが復興につながるのでは、少なくともない。元からいわきに住んでいた人にとっては確かに理不尽に感じることがあるに違いない。しかし、願わくは、そうした彼我の差を乗り越えて、共に手を携えての震災復興を成し得てほしい。

 東北第二の都市であるいわきは、いわば浜通りの市町村の「兄貴分」である。2万人以上もの避難者を一手に受け入れるというのはまさにそのポジションに相応しい、さすがの対応ぶりであったと思うし、先ほど述べた気候風土の点や多くの人を受け入れられる余地のある都市規模ということを考えても、他の市町村では同じように対応することはとても不可能であったろうと思う。人口の急増の影響はあろうが、多くの市町村で人口減少が止まらない中での人口増を、地域活性化や震災復興のエンジンに据える取り組みへとつなげていく方策を今後考えていければよいのではないかと思うのである。

 今回お話をお聞きした中のお一人である長谷川祐一さんの言葉を紹介したい。長谷川さんはいわき市内の本拠を置く調剤薬局タローファーマシーの代表取締役として、震災直後県外への撤退事例が相次いだ中でも市内に踏みとどまり、必要な薬を患者に提供し続けた方である。他の地域の人、この地域のこれからの人に何を一番伝えたいかとの問いに長谷川さんはまず、「僕らの震災は続いている。それを分かっていただきたい」と前置きした後、「震災に遭った人たちのために働きたいという心ある人たちはいる。心ない人を恨むより、心ある人たちと一緒に復興に取り組みたい」と言った。そして、「他の地域が同じ目に遭ったら、今度は僕らが助けたい」とも言った。今回の震災体験を無駄にせずに活かしたい、助けてもらったお返しにそれを活かして今度は他の地域の役に立ちたい、そのように話す人は長谷川さんだけでなく、いろいろな方の口からも出た。被災し、被災から立ち上がろうとしている人に共通の思いなのだと思う。

「常磐線」で見た震災のこと
 そのようなことを考えさせられた「田旅いわき」の翌週の「笑い仏」さんの浜通り入りであった。「田旅いわき」の時は、仙台から東北本線で郡山まで行き、そこから磐越東線でいわきに行ったが、今年1月末に福島第一原発付近の区間で代行バスの運行が開始され、代行バスを2回乗り継げば何とか仙台からいわきまで常磐線経由でも行けるようになっていたので、今回はそちらを利用してみた。

 最初の代行バス区間である宮城の山元町から福島の相馬市までは、まちづくりに合わせて順調に鉄路の再建も進んでいた。しかし、次の代行バス区間である南相馬市から楢葉町までは、福島第一原発のある帰還困難区域を通る関係で、常磐自動車道と国道6号線という幹線道路こそ開通したものの、まちはいまだ再建の緒にすら就いていない。国道沿いの人のいない街並みを見ながら、ひとたびあの事故が起きて、何気ない日常を送っていたこの住み慣れた地を、心ならずも離れざるを得なかった方々の心境はいかばかりだったかと、改めて考えた。

開眼法要で見聞きした震災のこと
 開眼法要が行われた浄林寺も帰還困難区域にあるため、ご住職の早川さんも毎日いわきから車で通っているが、寺の檀家となっているこの地域の皆さんも同様で、普段は様々な地域で避難生活を送っていて、お盆前の施餓鬼法要の折には集まって先祖供養をしているそうである。

 開眼法要もその施餓鬼法要の日に合わせて営まれたので、境内や本堂は大入り満員状態だったが、いわき市内はもとより、仙台や首都圏から来た檀家の人もいて、あちこちで積もる話に笑顔の花が咲く様子が見られた。地域のコミュニティーに果たす寺院の役割の大きさを実感した。

 作者の山本竜門さんが、微笑を湛えた「笑い仏」さんについて、「笑顔を見ると笑顔になる。皆さんにたくさんの笑顔がもたらされますように」と挨拶された言葉が印象的だった。また、早川住職の「諦めたらそこで終わり。し太く頑張ろう」との言葉も、現状が現状であるだけに身に沁みた。

 いわき市内は仙台と同じく、開眼法要が営まれた8月6日から3日間七夕まつりであった。街にたくさんの人が溢れ、浴衣姿の子供達もたくさん見掛けたが、今回様々な調整の労を取ってくださった左雨弘光さんの「子供達が何も気にせずにこうして自由に外に出られる日常が本当にありがたい」という言葉には、本当に実感がこもっていた。

 取り戻せていない日常もまだある。一方で、震災前の通りに戻った日常もある。そしてそこにはそこに住む人の様々な思いがある。いろいろな困難に直面しながらも、その目線は今の先を見ている。まさしく「震災は終わっていない」が、そこからの復興を目指す人は元気である。そのように実感できた2度のいわき訪問であった。


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2015年03月12日

私的東北論その67〜震災から4年目の3月11日

150311-130028震災発生から4年目の今日は午後休みを取って、まず若林区役所へ行ってみた。

いつもある献花場がない、と思ったら、今年は若林区文化センターに会場が移動になっていた。




150311-131216同センターでは地震発生の時刻に合わせて追悼式も行われるようだったが、それには出ず、献花した後に区役所に戻り、折からの強い西風に背中を押されながら、自転車あの日弟が通ったであろう道を通って、一路荒浜へ向かった。
 




150311-133318県道塩釜亘理線沿いに「希望」という名前の茶房を発見した。

災害危険区域に指定されている荒浜地区でやっている店は恐らくここくらいだろう。

しかし、今日は休みのようであった。
 


150311-134956かつての深沼海水浴場の入り口付近に立つ荒浜慈聖観音。

今日はひっきりなしに人が訪れていた。
 
その深沼海水浴場は防潮堤工事のために現在立ち入り禁止である。




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移動販売車で石焼き芋を無料で配っている方がいた。

荒浜に来るのは初めてとのことだが、震災以来毎年この日は無料で石焼き芋を配っているとのこと。

「どうして無料で配ってるんですか?」との私の問いに、「いやぁ、だってみんなあっての私だから」なんて言葉がさらっと出てくる石焼き芋屋さん、素敵すぎである。
 
いただいた石焼き芋は、とても温かかった。
 
150311-140659その後、荒浜地区唯一の寺院、浄土寺で行われた追悼法要に出席。








150311-141942大人が数十人でかかっても倒すことなど到底不可能そうな大きな石標が横倒しのまま。

津波の凄まじさを如実に物語っている。

同寺は今年で創建から390年を迎えるそうだが、これからも毎年この日には追悼法要を営み続けるとのことである。


150311-153711昨年参加した地元の「HOPE for project」の風船リリースは、今年は追悼法要が終わる前に始まってしまったので間に合わずじまいだった。

「届いても 届かなくても 思いを伝えること」という同プロジェクトの趣旨は、その通りだと思う。

ちなみに、大空高く放った風船は、太陽光で自然分解され、落下したら土に還るエコバルーンだそうである。
 
会場となった荒浜小学校には、いまだ見上げる高さに津波襲来の痕跡が残っている。
 
150311-154549この界隈に津波が押し寄せた15時54分には、弟が見つかった南長沼に。
 
あの日、海の向こうから10mもの高さの水の塊がものすごいスピードで押し寄せてきた様を想像してみた。

強風が吹き荒れているにも関わらず、沼は波静かであった。



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帰りに立ち寄ったシベールの「仙台いちごケーキフェア」でどのケーキも美味しそうだったので全部買ってしまったり、今日も美味しいビールを1L缶で飲めたりするのも、生きていればこそのこと。
 
あの日思ったことは、昨日の次に今日が来て、今日の次に明日が来る、ということは、決して当たり前のことではないということ。

にも関わらず、その後、今日の次に明日が来る毎日が続いているために、迂闊にも、ついそのことを忘れがちなこの頃。

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明日はないかもしれない、と思って今日を生きること、その大切さを改めて思い起こさせてくれた、あの日から4回目の3月11日であった。


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2015年03月03日

私的東北論その66〜特殊公務災害逆転認定までの経緯◆屬箸△訃男表隶の証言」

150303-014654 前回、特殊公務災害に認定されるまでのおおよその経緯について説明した。最初に特殊公務災害非該当との決定がなされたのは地方公務員災害補償基金仙台支部だが、その決定に至るプロセスでは、弟が津波避難の広報活動を行った仙台市若林区荒浜で、同様に避難誘導を行っていた若林消防署荒浜航空分署の署員から、発災当時の状況について証言を得ていた。

 その一部は以前紹介したが、それは仙台支部の決定通知書にあった記載を引いたもので、ごく断片的なものであった。その後、支部審査会に対する審査請求の段階で両親の代理人となった土井浩之弁護士が、支部審査会に要請して当該証言の全文を入手した。その内容は詳細かつ具体的で、今まであまり知られていなかった、地震発生当日の荒浜地区における津波避難のための活動の実際について知ることができる貴重な資料となっている。そこで今回はその証言の主要部分について紹介したい。

 ちなみに、日付は2011年6月28日となっている。地震発生から3ヶ月あまり後のことで、当時の記憶もまだ正確かつ鮮明に残っていたと考えられる。以下がその証言である。


 「平成23年3月11日午後、私は若林消防署で訓練業務にあたっておりましたが、午後2時46分の大地震発生により、『市内上空からの被害調査』の任務指示で急いで所属(荒浜航空分署)へ戻り、帰署途上大津波警報の発表を知りました。津波到達予定時刻は3時00分と予想され、同時刻に荒浜航空分署に到着しました。

 その後、津波到達予定が3時30分に変更になったことから、その時刻ギリギリまで、荒浜地区の住民の避難誘導にあたることにしました。活動は、深沼橋からさらに海側に入った辺りの住民を消防車に乗せて荒浜小学校に避難させたり、通行していた一般車両に避難者を乗せて東部道路より西に避難させるように指示を出したり、避難誘導や救助活動を実施していました。小学校までを何度も往復し、その最中に、若林区役所の広報車らしい車を何度か見たような記憶があります。後日車両の発見に立ち会った際に、『あのときの車じゃないか?』と感じました。私ばかりでなく、同僚も、当該車両を『震災当日、現地で見かけた記憶がある』と言っています。

 現地では、私たち消防局の他、警察、さらにもう一台の車両が、避難の広報をしていたと思います。『区役所の車かな?』と思っていました。

 私たちは、津波が迫っている情報を消防ヘリコプターからの無線で得ていました。私は同僚に、『言葉なんてどうでも良い。『逃げろ!』で良いから、大声で呼びかけろ!』と指示し、住民を学校に避難させる途中も、ずっと広報し続けました。一人でも多くの住民を避難させなければと、とにかく必死でした。

 しかし、県道塩釜亘理線沿いのコンビニの前では市民の反応が鈍かったのも事実です。座り込んで何かを食べている人たちすらいました。『ここまでは来ないだろう』と、皆思っていたのでしょう。確かに今までの経験では、これほどまでの大津波が来るとは、誰も予想していなかったと思います。

 『荒浜航空分署の出場体制を立て直す必要と、2機目のヘリコプターを出場させるから、すぐ戻れ!』という命令(3時40分)がなかったら私たちも津波に巻き込まれていたと思います。荒浜航空分署職員の使命は、消防ヘリコプターを活用して上空からの避難誘導と津波到達してからの人命救助です。とにかく分署に戻る必要がありましたので、最後に住民を(車内に)乗せ、隊員は車両の上に乗って荒浜小学校に向かいました。そのとき、上に乗った隊員が、津波の白波が迫って来るのを遠方に見たと言っていました。3時50分に小学校を出発し、53分に分署に到着しました。大津波が分署を襲ったのは、その僅か1分後のことでした。私たちも、まさに間一髪、命が助かった状況です。

 分署からの命令により荒浜小学校を離れるとき、荒浜新一丁目の住宅街の方向から、避難を呼びかける広報車の声が響いていたのを記憶しております。

 後日、荒浜でたくさんの住民が亡くなったことを知りました。あれほど力を尽くしてたくさんの方々を避難させたけれど、まだ多くの住民が荒浜地区に残っていたのだなと思うと非常に残念です。」


 以上が荒浜地区で避難誘導に当たっていた消防署員による3月11日の状況についての証言である。いろいろなことが分かる。消防と警察以外にもう一台避難広報をしている車があり、この消防署員はその車を区役所の車と認識していたこと、県道塩釜亘理線付近の地域住民の反応は鈍く、逃げようとしていなかった人もいたこと、消防署員が署に戻ろうとした3時50分の段階でまだ避難を呼び掛ける広報の声が聞こえていたこと、などである。

 この、消防や警察や区役所が避難誘導をすることは、これまた以前も書いたが、「仙台市地域防災計画」で定められている。「地震災害対策編」の第3章「災害応急対策計画」の「5 津波応急対策計画」では、津波発生時における人的被害を最小限に止めるため、津波予報の収集・伝達、海面監視及び避難体制について定めている。そして、その実施機関は、消防部、区本部、宮城県警察の3者とされているのである。

 なお、避難誘導体制のうち避難広報等については、「避難勧告等を行ったときは、消防車、広報車及び報道機関との連携等により迅速に地域住民等に対し周知徹底を図」るものとされているが、今回のこの証言からは消防と区役所が相互に連携した様子は窺えない。未曽有の大地震で多少なりとも混乱があったのだろうが、消防が把握していた「津波接近!」との情報が、弟の乗った広報車にも伝わっていればと残念に思うところである。

 ちなみに、なんと3月28日に弟が乗っていた車が発見したのも、4月28日に弟の遺体を発見したのも、この証言をしてくれた消防署員の班だったとのことで、「縁があるのかな」と思ったそうである。弟の遺体が発見された南長沼付近では、住民の遺体も数多く発見されており、そのことからも、大津波が押し寄せる最後の最後まで、広報していて津波に巻き込まれたのではないか、とこの消防署員は推察している。そして最後に、今回のことは、「仙台市の大津波に対する避難誘導のあり方として多くの教訓を残してくれ」たとして、その「死を無駄にすることなく、私たち仙台市職員がやるべきことは、これからの安全安心な仙台市の復興に、また、これからの津波対策に生かしていくこと」であり、それが供養になると締め括っていた。

 このように、現地での弟の様子について、もちろん詳細に観察したり言葉を交わしたりしたわけではないにせよ、見ていた人がいてくれたことは率直に言って嬉しいことである。この証言によって、弟が最後まで地域住民のために避難の呼び掛けをしていたことが、弟だったらそうしただろうなとは思っていたが、それが単なる身びいきではなく分かったのである。

 冒頭の写真は、弟の遺体発見時に会ったその消防署員を父親が撮影したものである。連日の捜索活動の疲れの色も見せずに、弟の遺体発見時の様子について丁寧に説明してくれたそうである。 


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2015年03月01日

私的東北論その65〜阪神・淡路大震災と東日本大震災の間(「東北復興」紙への寄稿原稿)

tohoku-fukko32 「東北復興」紙の第32号が2月16日に発行された。今回は1月に起きた阪神・淡路大震災と3月に起きた東日本大震災の間の月ということで、阪神・淡路大震災から、東日本大震災を経験した我々が学べることについて考えてみた。

 今年は阪神・淡路大震災から20年となることもあって、改めてこの震災を振り返ろうという動きが随所で見られた。本文でも書いたが、この震災では東日本大震災とはまた違う地震の恐ろしさが浮き彫りとなっており、東日本大震災に遭遇した我々が改めて学ぶべきことも多くある。ことに、神戸市と同様に直下に活断層を持つ仙台市は阪神・淡路大震災クラスの地震に対する備えについて、再点検すべきであると思う。

 ちなみに、次の3月16日に発行される第33号の原稿の締切がもうそろそろなのだが、まだ何を書くかも決まっていないことは編集長の砂越氏には内緒である。(汗)


阪神・淡路大震災と東日本大震災の間

阪神・淡路大震災から20年
 1月17日は阪神・淡路大震災を引き起こした兵庫県南部地震の発生から20年となる節目の日であった。3月11日は言うまでもなく、東日本大震災を引き起こした東北地方太平洋沖地震発生の日である。震災発生から20年の節目ということもあり、改めて阪神・淡路大震災について振り返る報道も多かった。そうした情報に接して改めて阪神・淡路大震災について考えさせられることもいろいろとあった。1月の阪神・淡路大震災と3月の東日本大震災の間にある今月2月は、そこを掘り下げてみたい。

阪神・淡路大震災と東日本大震災
 阪神・淡路大震災での死者は6,434名、行方不明者3名、地震の規模はM7.3であった。これに対して東日本大震災では2015年1月9日現在、死者は15,889人、行方不明者は2,594人である。地震の規模はM9.0でこれは世界の観測史上でも4番目の大きさである。地震の規模を示すM(マグニチュード)が0.1大きくなるとエネルギーは約1.4倍となるので、東北地方太平洋沖地震のエネルギーは兵庫県南部地震のエネルギーの実に約500倍に相当するわけである。
 
 では、阪神・淡路大震災の地震の規模をはるかに上回る地震を体験した東北地方の太平洋岸の我々が、阪神・淡路大震災から学ぶことは何もないのかと言えば、決してそのようなことはない。世界で4番目の地震に直面したからと言って、地震に関する全てを体験したわけではない。地震のことを全て分かったつもりになっていては、次に地震に遭遇した時にまた「想定外」という言葉を持ち出さなければいけなくなるに違いない。

 兵庫県南部地震と東北地方太平洋沖地震、この2つの地震はその性格も、もたらした被害も、今さら言うまでもないが、全く異なる。もちろん、震災後のまちづくり、コミュニティづくりの面でいろいろと学ぶことはあるが、それは今までも事ある毎に指摘されてきており、ここでは取り上げない。一方で、防災対策という面から学ぶことはまだまだたくさんある。
 
 東日本大震災における死者・行方不明者の大半は周知の通り、大津波によるものであった。これに対して阪神・淡路大震災における死者のほとんどは建物の倒壊、それに大規模火災によるものであった。東日本大震災を経験した私たちは、阪神・淡路大震災で発生したこれらのことをほとんど経験していない。それは兵庫県南部地震が直下型の地震で、それに対して東北地方太平洋沖地震は海底を震源とする海溝型地震という違いによるところが大きい。
 
 もちろん、地震の規模の割に建物の被害が少なかったのは、特に宮城県は25〜40年に一度の周期で、宮城県沖地震に襲われてきたという経緯があったことも関係している。1978年の宮城県沖地震でもブロック塀の倒壊などによって28名の死者を出したこともあって、建物の耐震化も他の地域に比べれば進んでいたという要因も考えられる。しかし、それ以上に震源が市街地直下ではなかったということが大きかった。次にもし直下型地震に襲われる可能性があると考えれば、その時どのようなことが起きるかは、阪神・淡路大震災にその多くを学ぶことができる。

地震による建物倒壊と火災発生にどう対応するか
 先述のように、阪神・淡路大震災における死者の8割以上は、老朽化した住宅の倒壊による圧迫や窒息が原因であったとされる。これはほとんど東日本大震災では体験されていない。この阪神・淡路大震災で倒壊した住宅のほとんどは、1978年の宮城県沖地震を契機に1981年に改正された建築基準法の成立以前に建築されたものであったそうである。一方で、この改正された建築基準法の新耐震基準に合致した建築物には、震度7の揺れがあった地域であってもほとんど被害は見られなかったという。したがって、直下型地震による住宅の倒壊を防ぐ最良の手段は耐震補強である。特に、1981年以前に建てられた建物については、仮に震度7の地震が来ても人命を守れるように必要な補強や改修をすることが必要である。
 
 もう一つ、阪神・淡路大震災では、火災による被害も甚大であった。東日本大震災で発生した大規模な火災は「津波火災」、すなわち津波をきっかけに発生した火災が主であった。津波で破壊された石油タンク、建物やLPガスボンベ、自動車が主な出火原因と考えられるとされている。日本火災学会の地震火災専門委員会の調査によると、東日本大震災で発生した火災325件のうち162件が津波によるものであった。
 
 一方、阪神・淡路大震災当時、特に神戸市長田区では木造住宅が密集していた地域を中心に大規模な火災が発生した。消防庁の資料によると、地震後に少なくとも合計285件の火災が発生した。そのうちの7割は地震発生当日の火災であるが、地震直後の午前6時までに出火した件数は87件にとどまり、地震発生から一定時間が経過した後の火災発生が相当数あったことが分かる。地震翌日以降の出火もあった。これらの火災によって実に7,000棟を超える住宅が焼失し、焼損面積は80万平方メートルに上った。
 
 それにしても、いったいなぜ地震で火災が発生するのか。しかも、なぜ地震直後のみならず、一定時間が経過した後や翌日以降に火災が発生するのだろうか。阪神・淡路大震災における火災のうち、出火原因が判明したのは全体の約半数だが、そのうち最も多かったのが電気機器や配線に関係する火災であった。建物が倒壊したり、家具や家電が転倒、散乱したりする状況の中で、電気ストーブや照明器具が可燃物と接触したことにより、火災が発生したと見られている。また、地震翌日以降の出火では、送電の再開に伴うものがかなりあったという。地震発生後にはほとんどの地域で停電が起こった。その後、電気が復旧した際、通電状態となった電気ストーブや観賞魚用のヒーター、地震によって損傷を受けた配線から出火する火災が相次いだのである。電気関係の火災以外では、ガスコンロや石油ストーブ、仏壇のローソクからの出火が原因の火災もあったそうである。
 
 こうした経緯から考えるべきことは、地震発生時には使用中の電気機器類のスイッチを切る、避難時にはブレーカーを遮断する、地震後に電気機器を再使用する際には配線などの安全確認を行う、といったことである。また、日頃から電気機器のそばに可燃物を置かず落下物がないように配慮する、不要な電気機器のプラグは抜いておく習慣を身につける、ブレーカーの位置を把握しておく、といったことも必要である。地震を感知すると通電を遮断する感震ブレーカーも開発されているが、コスト高で普及していないのがネックである。なお、都市ガスやLPガスの方には震度5弱以上の揺れでガスを遮断する装置が必ず設置されているので、こちらの方はあまり心配する必要はないようである。

来るべき直下型地震に備えて
長町−利府断層の地震による想定震度分布図 東北地方太平洋沖地震は「1000年に一度の地震」と言われた。実際、これだけの規模の地震がこの地域を襲ったのは、869年のいわゆる貞観地震以来のことである。しかし、だからと言って、この地域がその間全く地震に襲われなかったということではない。今回の地震が起こる前に「津波は来ない」という誤った常識がまかり通っていた仙台平野を含め、東北地方の太平洋沿岸地域は、度々津波を伴った地震に襲われている。残念なのは、そのことが地域に十分伝承されていたとは言えないということである。
 
 したがって、これだけの人的な被害をこの地域にもたらす地震はあと1000年はやってこない、などとはとてもではないが言えることではない。個人的に、特に想定しておかなければならないと考えているのは、まさに兵庫県南部地震と同様の市街地での直下型地震である。
 
 よく知られていることだが、仙台市から利府町にかけては、「長町−利府断層」と呼ばれる、南北約40kmにも亘る活断層がある。この断層ではおよそ3000年に一度の割合で地震が発生していると考えられているが、前の地震は約16000年前以後だったとはされているものの具体的にいつだったか正確には分かっていない。

 この断層によって起こる地震の規模はM7.0〜7.5と、まさに阪神・淡路大震災を引き起こした兵庫県南部地震とほぼ同規模であると想定されている。この地震によって、旧仙台市のほぼ全域で震度6強の揺れが起こると予測されている。そうすると仙台市内でも特に建物が集中している地域が最も強い揺れに襲われることになる。予測される地震の規模と言い、市街地直下の震源と言い、ひとたびこの地震が起きればまさに、仙台市内は阪神・淡路大震災と同様の被害に見舞われる恐れがあるのである。このことがあまりよく認識されていないのではないだろうか。
 
 この長町−利府断層による地震が今後30年以内に発生する確率は1%以下と考えられており、それならばまず起きることはないと思ってしまいがちであるが、決してそうではない。兵庫県南部地震の30年以内の発生確率を地震後に計算してみたところ、0.02〜8%という結果になったそうである。つまり、発生確率が低いと言ってもそれは決して起こらないことを意味するのではなく、いつ起こるか分からないことを意味していると解釈すべきである。この市街地直下型の地震への備えが、特に今の仙台には決定的に足りないように思う。これこそ、阪神・淡路大震災に改めて学ぶべき最大のポイントであると考える。
 
 もちろん、今回同様の太平洋沖を震源とする地震に対する備えも怠るべきではない。東日本大震災を起こした東北沖の震源域で、プレートにかかる力の状態が早くも地震前と同じ水準まで回復していることを示唆するデータが得られた、とする発表が今月、筑波大とスイス連邦工科大などの研究チームからあった。復興は次の地震への対応と両睨みで進めるべきということである。
 
 地震予知連絡会は、東北地方太平洋沖地震時に、25〜40年周期でやってくる宮城県沖地震も同時に発生していたとの見解を発表している。すると次の宮城県沖地震は少なくとも四半世紀後かと思いたくなるが、実際には宮城県沖地震とされた地震の中には前の地震から数年しか経っていないにも関わらず起こっているものもいくつかある。

 「天災は忘れた頃にやってくる」とは、まさにありふれた言葉が真実を突いていることの好例であるが、実際には、忘れてなくても「まだ来ないだろう」と油断しているうちにやってくるものでもあるのではないだろうか。阪神・淡路大震災と東日本大震災の間にある今の時期、もう一度天災に対する日頃からの備えについて振り返っておきたい。


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2015年02月16日

私的東北論その64〜特殊公務災害逆転認定までの経緯 孱嫁半にも及ぶやり取り」

10480101_834560373238510_19171634336791573_o 昨年2014年6月13日の朝刊各紙に一斉に弟のことが載った。仙台市職員だった弟の殉職に関してはこのブログでも何度か取り上げているが、両親はそれについて、特殊公務災害に認定してもらえるよう申請していた。その特殊公務災害への認定の申請が地方公務員災害補償基金仙台市支部で非該当の決定となり、地方公務員災害補償基金仙台市支部審査会への審査請求も却下と、二度に亘って退けられた後、地方公務員災害補償基金審査会への再審査請求でこれらが取り消されて逆転認定された。この三度目の逆転認定が前例のないことだということで、マスメディアでも注目されたようである。私は見ていないが、6月12日のTVニュースでも取り上げられたそうである。

 この特殊公務災害、一般にはあまり耳慣れない言葉だが、公務員が「高度に危険が予測される職務」で死亡、負傷した場合に適用されるもので、単に公務遂行中に労働災害に遭遇した場合の公務災害認定に比べて補償金も増額されるが、その代わり目撃証言など含めて「高度に危険が予測される職務」であったことの証明が必要とされる。公務に従事していた際に遭遇した災害については民間企業の労働災害と同様、公務災害として認定されるが、公務員にはさらに、命に関わるような公務に就いていた際に遭遇した災害について別枠で認められる制度があるわけである。

 公務災害、特殊公務災害とも、ちょうど裁判の三審制のように、認定のチャンスは三度ある。冒頭に書いた通り、まずは地方公務員の公務災害に関する補償を担う地方公務員災害補償基金の都道府県並びに政令指定都市の支部。弟は仙台市職員だったので、地方公務員災害補償基金仙台市支部に特殊公務災害の認定を申請したわけである。ここで特殊公務災害非該当の決定となるなど、その決定に不服がある場合は有識者等第三者でつくる支部審査会に審査請求をする。仙台の場合は地方公務員災害補償基金仙台支部審査会がある。そして、この支部審査会の裁決にも不服がある場合はさらに、支部の審査会ではなく中央の地方公務員災害補償基金審査会に対して再審査請求をする、という流れである。

 ただ、建前上3回のチャンスがあるとは言え、それは、「3回に亘って当事者からも話を聞いて慎重に検討して決定しましたよ」という既成事実を作ることにはなっても、そのプロセスの中で最初の決定が覆ることはめったにない。弟の例でも、一度目に特殊公務災害非該当との決定が下され、二度目の支部審査会への審査請求でもその判断が覆らなかった。私は二度目の支部審査会への審査請求時に意見書を提出しているが、その意見書への反論が、何度読んでも論理的に納得のいく内容ではなかった。にも関わらず結論が特殊公務災害非該当とされて審査請求が却下されているということは、これは非該当という結論だけが先にあって、その結論に合わせるために無理な理由付けをしているのだと私は考えた。

 とすると、恐らくこの先も一旦下された判断が覆ることは難しいだろう。そう思った私は、争い事に身を投じたままではいつまでも安寧な日は訪れないのではと思い、両親に、弟が最後まで頑張ったことは我々3人が一番よく知っているのだから、そのことを以て矛を収めるという道もあるのではないか、と言ってみた。しかし、両親は「これは子を亡くした親の戦いだから」と言って、諦めようとしなかった。そう言われてしまうと、私は「子を亡くした親」ではないし何も言えないので、その後は黙って推移を見守ってた。

 両親は支部審査会への審査請求の段階から、労働災害に詳しい土井浩之弁護士の助けも借りて、反論書の提出、そして口頭陳述を行った。支部審査会で審査請求が却下された後は、逆転認定に向けての最後の機会となる本部審査会での裁決に向けて、意見陳述の準備をしていた。そこではまさに無念の死を遂げた我が子の最後の働きに報いたいという親としての執念を感じた。

 そうしたところ、日本共産党の高橋千鶴子衆議院議員がこのことを知って、衆議院の予算委員会第二分科会の場で、弟の実名を挙げて取り上げてくれた。そしてまた、答弁に立った新藤義孝総務大臣も、判断の見直しに前向きな答弁をしてくれた。その後、地方公務員災害補償基金補償課長名で特殊公務災害の認定の取扱いについての事務連絡が発出されて、基金の方針転換を呼び、晴れて特殊公務災害該当という決定に至ったわけである。仙台市支部審査会とは異なり、宮城県支部審査会では地方公務員災害補償基金宮城県支部で不認定とされた特殊公務災害認定の申請について多数の逆転認定を行っていたが、それも後押しとなった。

 言ってみれば、両親の諦めない思いが動かないと思われた事態を動かした形になったわけで、わが両親のことながらお見事だったと思う。もちろん両親は、補償金の増額が目当てだったわけではなく、(兄の私と違い)人一倍優しく親思いでしっかり者だったわが子の生涯最後の仕事が、地域住民のために文字通り生命を賭して遂行したものだったということを認めてほしい、ただそれだけの思いで動いていた。新聞各紙のうち、河北新報には父親の、朝日、毎日、日経の各紙には母親のそうした思いのコメントが載った。

 この一連の動きを時系列で示してみると以下のようになる。

平成23年(2011年)12月6日:特殊公務災害認定の申請
平成24年(2012年)1月12日:地方公務員災害補償基金仙台市支部事務長より地方公務員災害補償基金補償課長宛に特殊公務災害の認定について照会
平成24年(2012年)6月26日:地方公務員災害補償基金補償課長より地方公務員災害補償基金仙台市支部事務長宛に特殊公務災害非該当との回答
平成24年(2012年)9月18日地方公務員災害補償基金仙台市支部長(仙台市長)が特殊公務災害非該当の決定
平成24年(2012年)11月5日:地方公務員災害補償基金仙台市支部審査会に審査請求、被災職員兄(=私)意見書提出
平成25年(2013年)1月22日:地方公務員災害補償基金仙台市支部長(仙台市長)より同支部審査会長宛に意見書に対する弁明書提出
平成25年(2013年)2月22日:弁明書に対する反論書の提出(土井弁護士)
平成25年(2013年)6月5日:地方公務員災害補償基金仙台市支部審査会にて口頭陳述(両親)
平成25年(2013年)8月29日:地方公務員災害補償基金仙台市支部審査会より審査請求棄却の回答
平成25年(2013年)9月20日:地方公務員災害補償基金審査会長宛に再審査請求、理由書提出(土井弁護士)
平成26年(2014年)2月26日:地方公務員災害補償基金審査会にて口頭陳述(両親、土井弁護士)
同日:高橋千鶴子衆議院議員が衆議院予算委員会第二分科会で質疑
平成26年(2014年)5月1日:地方公務員災害補償基金補償課長より地方公務員災害補償基金岩手県支部、宮城県支部、福島県支部、仙台市支部事務長宛に事務連絡「東日本大震災に係る特殊公務災害の認定の取扱いについて」が発出
平成26年(2014年)5月28日:地方公務員災害補償基金審査会より支部の処分と支部審査会の裁決を取り消す逆転裁決
平成26年(2014年)6月12,13日:新聞各紙、TVニュースが一斉報道

このように、震災の年の12月から始まって、逆転認定までには実に2年半近くにも及ぶ期間を要したのである。

 私は、申請から逆転認定に至る一連の経緯を書き留めておくことも、震災に関わる記録の一つとして必要と考えていた。にも関わらず、上の表で分かる通り、逆転裁決が出てから今まで、実に8ヶ月以上、なかなかまとめようという気にならなかった。その大きな理由は、基金仙台市支部の決定通知書と、支部審査会の裁決書を読み返すことが正直、嫌だったからである。これらを読むと、いまだにあの当時の何とも言えない複雑な感情が甦る。通じて当然と思った理屈が一向に通じないことへの焦り、苛立ち、全く筋の通っていない弁明に対する何とも言えない割り切れない気持ち、納得のいく理由がないにも関わらず決定が覆らないことに対する無力感など、できれば二度と体験したくない気持ちがこれらを読むとまたぞろ沸き起こる。そのことに心理的な抵抗があってなかなか資料を開く気にならなかったのである。…と言い訳しておく(笑)。

 しかし、いつまでもそのままにしておくわけにもいかない。時間が立てば立つほど、ディテールは曖昧になり、記憶も風化していってしまう。それではこの先同じような事態が起こった時に何ら役に立つ情報を提供できないことになる。そこで、とりあえず現段階で手元にある資料などを読み返しつつ、特殊公務災害認定に至る経緯をこれから何回かに分けてまとめてみたい。


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2014年11月26日

東北で地ビールが飲める店その67〜宮城県女川町

 宮城県女川町は宮城県の沿岸にある、人口約7,000人の町である。東日本大震災の発災前は約10,000人の人口があったが、東日本大震災の大津波により874名の死者・行方不明者を出した。町の人口の実に約9%の人が亡くなったか行方不明になったわけで、これは津波による被害を受けた全市町村の中で最も高い割合である。大津波によって町自体も壊滅的なダメージを受けたが、現在、町の中心部、離半島部、JR女川駅周辺部に分けて震災復興まちづくりが進行中である。

141121-180958 この女川町に今年5月、素晴らしいお店が誕生した。その名も「ガル屋Beer」(牡鹿郡女川町浦宿浜字十二神60-3-3、TEL090-9534-9979、17:00〜22:30LO、水曜定休)である。 店長の木村優佑さんは、女川の出身で、震災前は東京でIT関係の企業で働いていたそうだが、震災後、故郷のために何かできないか考え、来た人が楽しく飲めて互いの輪が広がるようなお店をということで、まず勤めていた会社を辞め、都内のブルーパブ(醸造所を備えたビアパブ)で経験を積み、そして女川で初めてのビアバーを作ったのである。

141121-181649 「ガル屋Beer」には、樽生ビールのタップが実に10個備えてあり、各地の地ビールなどが常時樽生で飲める。タップの数は今のところ、仙台を含めても最多であると思う。評判を聞きつけて、宮城県内のみならず他県や首都圏からもはるばる訪ねてくる人がいるそうである。フードメニューにも地元女川の美味しいフードが名を連ねたりしていてこちらも楽しめる。左の写真は、静岡のベアードビールの「ウィートキングウィット」と、ホタテのオリーブオイル漬けである。

 現在は「きぼうのかね商店街」という仮設の商店街の一角にあるが、来年後半にJR女川駅が新しく完成し、JR石巻線も全線復旧するのに合わせて、駅の近くにできる予定の「プロムナード商店街」に移転するそうである。ゆくゆくはここ女川で、特産品を使った地ビールづくりにもチャレンジしたいとのことで、これからがさらに楽しみなお店である。

141121-200549 私が訪れた時には静岡のベアードビールが3種、神奈川のサンクトガーレンが4種あったが、何が飲めるかはその時のお楽しみで、基本的に全国各地のいろいろなビールを仕入れているとのことである。左が店長の木村さんと、自慢の樽生10タップである。

 現在のお店は、JR石巻線の現在の終点浦宿駅(その次の女川駅までは代行バスが出ている)から徒歩圏内なので、仙台からでもJRを使って飲みに行ける。浦宿駅で降りたら、駅の前の国道398号線を女川駅方向すなわち東の方(駅を背にして右)へ歩く。その際、歩道は道路の左側にしかなく、右側は路側帯も狭く歩くのに適さないので、先に駅の前の横断歩道を渡って左側を歩くのがおススメである。1kmほど歩くと、まっすぐ行くと引き続き国道398号線で、右折すると国道398号バイパス(バイパスと言っても国道4号線仙台バイパスのような広い道路ではない)となる分岐点があるので、ここをバイパス方向に右折し、上り坂となっている道を200mほど行くと左手に「きぼうのかね商店街」がある。その一画に目指す「ガル屋Beer」がある。

 JR石巻駅で仙台まで帰れる最終の仙石線(石巻駅21:02発矢本行)に接続する石巻線は、JR浦宿駅20:35発石巻行であるので、その気になれば17時のオープンから3時間飲んでも仙台まで帰ってくることが可能である(笑)。


WP_20180308_18_02_09_Rich追記(2018.3.6):2015年にJR女川駅前にテナント型商業施設「シーパルピア女川」ができた。駅から海に向かって商店が並んでいる。その一角に「ガル屋beer」も移転オープンした。樽生地ビールが10種類飲めるタップは健在である。

また、同じシーパルピア女川の一角にある「Bar OWL(バー・オウル)」には、シメイの赤、白、青など、海外のビールが瓶で8種類置いてある。

JR石巻線もJR仙石線も全線復旧しており、途中で代行バスに乗り換えなくても、女川〜仙台間を行き来できるようになった。女川からの石巻線の最終列車石巻行は20:27発である。…って、復旧前より微妙に早くなってる!(上記浦宿は20:35発だった…)
全線復旧したから女川でより遅くまで飲んでいられる、というわけではなかった(汗)。ちなみに、これに乗れば、石巻発20:58の仙石東北ライン最終の特別快速に間に合うので、21:50仙台着である。


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2014年07月28日

私的東北論その58〜「福島」はまるごと「危険」なのか(「東北復興」紙への寄稿原稿)

tohoku-fukko25 「東北復興第25号が先月6月16日に発行された。一面は各所で話題となった日本創生会議の「全国1800市町村別・2040年人口推計結果」について。他に、山形で行われて今年も盛り上がった「東北六魂祭」のレポート、第3回の「とにかく東北を語る会」のレポート、げんさんの「連載むかしばなし『芭蕉の辻で会いませう』」、MONKフォーラム代表の長谷川稔氏による「笑い仏さん〜福島への行脚」など、今回も充実した内容であった。

 その中で私が何を書いたかと言えば、やはり話題となった福島について取り上げたあのマンガのことだった。書くのは気が重かったが、何も言わないでおくことはできないと思い、書いた記事である。ただでさえ、この問題については、東北の中でもその見方は分かれている。必要なことは、異なる見方に基づく議論がきちんと行われること、その際事実と仮説とを混同しないことであると考える。


「福島」はまるごと「危険」なのか

「美味しんぼ」騒動
 非常に気が重い。この話題に触れることが、である。触れれば恐らく「福島第一原発がある福島は危険だ」と主張する人からの反発を招くだろう。それでも、この話題については、私も言っておきたいことがある。それはやはり書いておくべきだろうと思った。
 
 賛否両論が喧々諤々噴出した、かの「美味しんぼ」の「福島の真実」編が及ぼした影響は大きい。低線量被曝による鼻血については、私はその科学的論拠を知らないが、それだけでなくあそこで論じられていることには、作者の思い込み、あるいは予断による決めつけが横行しており、それが私から見ると、福島のいわれなき「危険の引き受け」につながっているように見える。あの事故から3年経った福島に沸き起こった「福島=危険」の論陣、ここで再考してみたいと思う。


横行する印象操作
 作中の最も衝撃的な場面としてネット上でも繰り返し伝えられている、福島第一原発を見学に行った主人公が帰ってきて鼻血を出す場面。所詮はフィクションではないか、という見方もある。普通のマンガならそう割り切ることもできる。ただ、ここには実在の人物が登場する。前・双葉町長の井戸川克隆氏は作中で、主人公が突然鼻血を出したのを見て、「私が思うに、福島に鼻血が出たり、ひどい疲労感で苦しむ人が大勢いるのは、被ばくしたからですよ」と語る。
 
 実に巧妙である。架空の人物の中で、実在の人物に語らせる。読み手は実在する人物の言うことは現実のことなのだろうと受け取りがちである。
 
 鼻血が出る人がいるのが事実として、それを被曝と結びつける根拠がどこにあるのか。作中では、岐阜環境医学研究所所長の松井英介氏が、「放射線は直接粘膜や毛細血管の細胞・DNAを傷つけますが、同時に水の分子が切断されて細胞の中にできる、ラジカルによる間接作用が大きいのです」と述べているが、当の松井氏が「まだ医学界に異論はあります」と認めている通り、単なる仮説である。にも関わらず主人公に「そうか、それで鼻の粘膜の細胞が破れて鼻血が出るんだ」と納得させているのは明らかに印象操作である。 


何が「真実」なのか
 作者は自身のブログに、「私は自分が福島を2年かけて取材をして、しっかりとすくい取った真実をありのままに書くことがどうして批判されなければならないのか分からない」と書いている。しかし、逆に「2年取材してこれか」、との感が正直否めない。結局、自身の考えに基づく結論が先にあり、その考えに合致する主張のみを取り入れ、そうでない主張は全く示されていない。取材期間が長ければその内容が真実に近づくとは限らない、という好例とも言える。
 
 作中に登場して「福島がもう取り返しのつかないまでに汚染された」、「福島を広域に除染して人が住めるようにするなんて、できない」と発言している福島大学行政政策学類准教授の荒木田岳氏は、事前に自らの発言を作品で使わないよう求めたとのことだが、編集部が「作品は作者のもので登場人物のものではない」との理由で却下している。取材対象者の思いよりも作者の主張を通すことが優先されたわけである。

 ちなみに、この「福島の真実」編、この部分だけが取り沙汰されているが、その前には主人公たちが東日本大震災の後に6回福島の取材に行ったことになっており、その中で福島の食べ物の安全性についての取材も行って、「安全が証明されている食べ物を食べないともったいない」とも主張している。その主張と後半のこの「福島は危険」という「真実」は、どうにも相容れない印象がある。後半の「福島は危険」の方が作者の最も言いたかったことであるとするならば、前半の「もったいない」は単なるお体裁にしか過ぎないことになる。


「福島」とはどこだ?
 作中では荒木田氏の発言のみならず、再三再四「福島は危険」と連呼される。先述の井戸川氏も作中で「今の福島に住んではいけないと言いたい」と発言している。では、この「福島」とはいったいどこのことなのか。まさか福島「市」のことではあるまい。となると、これは福島県全体のことを言っていると解釈せざるを得ない。
 
 関東や近畿にいる人にはあまり実感できないかもしれないが、福島県を始め、東北各県は軒並み面積が広い。とりわけ福島県は、北海道、岩手県に次いで、全国第三位の面積を持つ大きな県である。まずこのことがよく理解されていないのではないか。
 
 確かに、福島県内に福島第一原発の周辺を始めとして、いまだ高線量の地域が存在するのは紛れもない事実である。しかし、例えばラーメンで有名な喜多方市などは福島第一原発から100km以上離れている。仙台市や山形の米沢市、さらには栃木の那須塩原市や茨城の日立市の方が福島第一原発に近いのである。それでも喜多方市は同じ福島県という、ただそれだけの理由でこれらの都市よりも「危険」なのだろうか。
 
 そもそも、放射能が危険と言うのなら、その問題を福島の県境の内側に押し込めることに何の意味があるのだろうか。事故発生当時の放射性プルームの汚染ルートから見れば、福島の西部会津地方よりも栃木や茨城、群馬、埼玉や東京の一部などの方がはるかに危険ではないのだろうか。危険があるのを福島県内に限定してしまうことは、福島県内で問題のない地域に「濡れ衣」を着せる一方、福島県外で問題があるかもしれない地域のことを見えなくしてしまっている。


「そばもん」のアプローチ
 ネット上にはこの「美味しんぼ」、「マンガとして面白くない」という意見もあった。なるほど、確かにこの視点も重要である。描かれていることが真実かどうかという議論ばかりが先行しているが、そもそもこれはマンガというジャンルの一つの作品である。その出来不出来を論じる視点があってしかるべきである。
 
 その視点で見ると、確かにこの問題になった「福島の真実」編、マンガとしてもそれほど面白くない。登場人物がことごとく作者のスタンスに立っており、作中に異論、反論は現れない。登場人物が語るセリフは作者のスタンスを是とするものばかりである。ストーリーに振幅がなく、ただ単に作者の主張が登場人物の口から代わる代わるに述べられるだけである。一人の人物のモノローグでもよいのではないかと思わせられるくらいである。
 
 ちょうど同時期に「福島」を扱ったマンガがあった。ビッグコミックに連載されている「そばもん」である。その名の通り、蕎麦をテーマにしたマンガで、この時期に福島の会津そばについて取り上げられている。
 
 「そばもん」のアプローチは「美味しんぼ」とは対極にある。「会津そば―山都編」では、全国を放浪中の主人公のそば職人が、「震災後3年、会津のそばを訪ねる」という企画で取材するライターに同行、そこで会津の人々のこれまでの苦労とそばづくりに対する熱意と努力が明らかにされる。ただ、それだけでなく、このライターが「福島産のものは食べないという読者もいる」と主張して、福島産の安全性について丁々発止の議論となるのだ。
 
 こうした展開であれば、賛否双方の主張が明確になった上で話が進んでいくので論点が自ずと整理される。ストーリーとしても面白い。しかも、よく分からない根拠によって「被曝した」とか「住めない」とか主張することもなく、あくまでそれに関するデータを明らかにした上で考察が進められている。片や登場人物全員の語りだけで不安を煽る展開、片やデータに基いて賛成反対双方の議論が進む展開、どちらに説得力があるかは言うまでもない。
 
 この「会津そば―山都編」の前編は異例なことに、期間限定ではあったが全文がネット上で公開された。この問題に対する「そばもん」の作者の並々ならぬ意思が窺える。
 

問われている私たちの心構え
 「美味しんぼ」では作中で主人公の父親が、「福島に住んでいる人たちの心を傷つけるから、住むことの危険性については、言葉を控えるのが良識とされている。だが、それは偽善だろう」と述べている。しかし、まず、そのような「良識」はない。リスクについての情報があればそれは隠さずに公開されることを福島の人たちも求めているはずである。ただし、それはそのことがそれこそ「真実」であった場合、という大前提がつく。今回のような被曝の影響とは立証されていない鼻血をあたかも被曝したために出たものと印象づけようとしたり、広大な福島全土が住むのに危険な地域であるかのような言説を振り回したりというのはまったくそれには当たらない。もっと言えば、どちらが「偽善」かと言えば、自身の頭の中にある「真実」のみに固執し、それに反対する指摘には耳を傾けず、徒に人心の不安を煽る方が「偽善」と言えるのではないだろうか。
 
 福島第一原発事故が未曾有の惨事であることは言うまでもない。その影響が今後数十年、あるいは数百年に亘って残り続けることも疑い得ない事実である。また、放射性物質、特にそれが人体にもたらす影響については分かっていないことも多い。そこで多様な意見が出ることは、本来望ましいことである。今回の作者の主張もその文脈では多様な意見の一つとして尊重されてしかるべきである。
 
 ただ、今回どうしても看過できないと思ったのは、本来そうした多様な意見の一つでしかないはずの「福島は全部危険」という意見をあたかも「真実」であるかのように伝えたという、その伝え方の姿勢である。
 
 と同時に、今回のことは福島、そして東北に住む私たちが試された機会でもあったと思う。数十年、数百年のスパンで考えなければいけない今回のこの福島第一原発事故に関してはきっと、これからも時折思い出したように今回のような言説が何らかの形で飛び交うことになるに違いない。その時に今回のようにただ単に風評被害の発生を心配するだけではなく、全く根拠の伴わない言説に対してしっかりと根拠を挙げて反論し、論破していく必要があるということである。

 今回の作中でも、福島の人たちの「人の良さ、我慢強さ」が言われているが、謂れのない非難や中傷を受けた時には、そうした美質を擲って的確にこちらの意見を表明していくことが求められている、と私は思った。今回のことは、今後折に触れて続くであろう「汚染された東北」にまつわる言説(そしてそれは「蝦夷」と呼ばれた古の東北の人たちが辿った道でもあるが)に対する私たちの心構えを問うものだったと考えたい。


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2014年04月11日

私的東北論その55〜3回目の「3・11」(「東北復興」紙への寄稿原稿)

tohoku-fukko22 「東北復興」の第22号が3月16日に発行された。この号で砂越氏は、「東北二段階復興論」を提言している。

 「とにかく東北を語る会」の案内も載っている。そう言えば、このブログでお伝えするのが遅くなってしまったが、以前このブログにコメントを寄せていただいたげんさんと、このブログを見てメールをくださった砂越さんとは、定期的に会って東北について話し合っていた。その「会」の呼び方も3人バラバラで、私は「東北をどうする会」、げんさんは「とにかく東北を語る会」、砂越さんは「東北を何とかする会」と呼んでいた。すべて同じ会のことを指している(笑)。今年から、東北に関心を持つ他の人にも集まっていただこうということになったのを機に正式名称を検討したが、結局げんさんの呼称に一本化することになった。次は5月25日(日)の予定である。

 私はこの号では、震災後3回目の「3・11」について取り上げた。「東北復興」に掲載された分は、スペースの関係で写真が載せられなかったが、ここでは3月11日に訪れた仙台市若林区荒浜地区の写真も併せて掲載したいと思う。

3回目の「3・11」

復興の現状
 3月11日は言うまでもなく、東日本大震災発災の日である。この日が近づくにつれて、新聞各紙やテレビで震災をテーマにした特集記事・番組が増える。その中では、震災からの復興における課題や問題点などについても数多く取り上げられている。実際に課題や問題点があるのは事実であるのだろうが、それらについてはここでは繰り返さない。
 
 復興の現状については、復興庁が定期的にまとめている。復興に関する客観的なデータが把握でき、有用である。最新のものは1月17日のものであるが、その内容は概ね以下の通りである。

・避難者数は1年で約32万1千人から約27万4千人に減少。
・仮設住宅等への入居戸数は減少しはじめている。
・被災3県における人口は減少傾向にあるものの、社会増減率は沿岸市町村においても震災前の水準に戻りつつある。
・災害廃棄物(がれき)は福島県の一部地域を除き、平成26年3月末までに処理可能な見込み。
・公共インフラの復旧・復興については、海岸対策、海岸防災林の再生は概ね6割弱の着手、1割台の完了。河川対策、水道施設、下水道、災害廃棄物の処理は概ね9割超完了。復興住宅、防災集団移転、土地区画整理、漁業集落防災強化は概ね6割前後の着工、1割前後の完了。医療施設、学校施設等は概ね9割超完了。復興道路・復興支援道路は37%完了。港湾は77%完了。農地は63%完了。漁港は37%完了。養殖施設は84%完了。
・鉄道については被災総延長2350・9劼里Δ繊運行再開区間2079・7辧運休区間271・2辧
・現在の売上げ状況が震災直前の水準以上まで回復していると回答した企業の割合は、36・6%。・平成24年度の被災3県の工場立地件数は、前年度より31件増(+48%)の95件。
・農業・水産業・観光業も改善が見られるが、本格的な復興が今後の課題。
・被災企業の復興に向けた進捗状況は地域格差が顕著。・税制上の特例の適用を受けることができる指定事業者による投資見込額は約1兆1300億円、雇用予定数は約82600人。
・福島県では、避難指示区域等からの避難者数が約10・2万人、福島県全体で約14・2万人。うち福島県外への避難者数約5・1万人。
・除染の進捗状況については、国直轄除染地域では対象11市町村のうち、9市町村の全域又は一部地域において除染の作業中、1市で除染が終了。市町村除染地域では、94市町村において特に子ども空間や公共施設において除染が進捗し、予定した除染の終了に近づきつつあるが、全体が終了するまでには更に数年はかかる見込み。

 一方、株式会社マクロミルは、「震災白書2014」を公表している。全国と岩手・宮城・福島の東北3県在住の20〜69歳の男女を対象に「東日本大震災に関する調査」を実施した結果をまとめたものである。その中では生活の復旧状況についても聞いている。
それによると、日常生活が東日本大震災前の状態に「完全に戻った」と答えた人の割合は、全国で54%、東北三県では39%と差があることが報告されている。復興の現状は概ねそのような状況である。

震災の「風化」をどう捉えるか
 今、頓に震災の「風化」が言われている。先の「震災白書」でも震災に関する情報が減ったと回答した人は7割にも上る。
 
 しかし、情報が減ったから風化が進んでいるのかと言うと、そのせいばかりではあるまい。風化させているのは震災からの「時間」である。それは被災地においては、過酷な体験、悲しい体験に対する痛みを、忘れることで軽減しようとする人間の正常な反応である。

 また、被災地以外の地域に住む人にとっては、震災に関する情報の上に日々、日常の情報が積み重なっていくわけであるから、やはり震災のことが次第に薄れていくのはやむを得ないことであると思う。

 ただ、被災地の人が「風化」によって何を恐れているのかと言えば、いまだ復興していない自分たちが忘れ去られてしまうことであろうと思う。忘れられないためには、まさに「百聞は一見に如かず」と言う通り、実際に他地域から被災地に足を運んでいただいて、その目で現状がどうなっているのか見ていただくのが最良の方法だと思う。

 「震災白書」でも、全国で69%の人が東北地方への観光意向があるとの調査結果が示されている。しかし、その一方で、復興庁の「復興の現状」の中では、観光客中心の宿泊施設の延べ宿泊者数が、震災前の平成22年との比較において、いまだにマイナスとなっている現状が紹介されている。

 このギャップの原因は何なのか。そこには被災地以外の人に躊躇があるようである。「震災白書」の自由記述の欄にも、「観光に行っても良いものか?考えてしまう。被災地では、大変な生活を送っている人も、まだ多くいるのに、その地域に楽しみ目的の旅行は抵抗を感じる…」という声があった。

 これについては、被災地でも「ぜひ現状を見てほしい」という声は少なからずある。足を運んでみれば感じるものが必ずある。実際に現地を訪れて、その目で見て回ることそれ自体も被災地支援であると考えて、ぜひとも東北に出掛けてほしいものである。

決して「風化」させてはならないもの
 震災で直面したことが時間と共に風化していくのはある程度やむを得ないことであるとしても、決して風化させてはいけないものがある。そのうちの一つは防災に対する意識である。これまで風化させてはならない。東日本大震災で被災地が得た教訓、ノウハウ、並びにそうしたものに基づく防災意識は、ぜひこの地域に住まう人にはもちろん、他地域の人にも持ち続けてほしい。それが来たるべき次の災害への何よりの備えとなる。

 もっと根源的には、生かされていることへの意識も風化させてはならない。3年前のあの日、最も強く思ったことは、昨日の次に今日が来て、今日の次に明日が来るのが当たり前と思っていた日常が、いともたやすく崩れるということであった。ある日突然、来るべき明日が奪い去られてしまうことがあり得るということであった。何の前触れもなく、突然命が断ち切られてしまうことが起こり得るということであった。

 こうした意識が、3年を経て、日常の中に埋没して薄らいでしまっていることを私自身、強く感じている。そうして、昨日の次の今日を実に迂闊に生きてしまっていることを思う。

 毎年来る3月11日は、否が応でもあの日のことを思い返させてくれる。3年前の今頃何をしていたか、どんな状況だったか、やはり意識する。

 改めて思う。誰でも、いつ人生を「チェックアウト」することになるか分からない。ならば、今日チェックアウトするとして、果たしてそれを受け入れられるのかどうか。それを日々自分に問い掛けたいと、この日が来る度に思う。

貞観地震からの復興
 今回の地震と類似性が指摘される地震がある。貞観11年(869年)のいわゆる貞観地震である。
この年の5月26日夜、マグニチュード8・4以上とされる巨大地震が陸奧国(現在の岩手・宮城・福島三県)を襲った。この地震によって、家屋が倒壊、土地は地割れし、多賀城内の城郭・倉庫・門・櫓・築地塀なども倒壊した。また、城下に押し寄せた大津波による溺死者が1000人に達するなど、この地が壊滅的な被害を受けたことが「日本三代実録」に記されている。津波堆積物の研究から、貞観地震における津波浸水域が、今回の東日本大震災におけるそれとほぼ重なっていることが明らかになっている。

 この地震における甚大な被害からの復興の様子も一部、同書には記されている。それによると、朝廷はまず9月7日に紀春枝という人物を「検陸奥国地震使」に任命し、陸奥国に派遣した。10月13日には、天皇の詔が出され、税を免除すると共に、独力で生活できない住民に食料を配給している。併せて、各地の神社で祈祷を行わせている。また、当時高い技術を持っていた新羅人10名を「陸奥国修理府」という復興の拠点に派遣している。

 その後、これらの復興策がどのようになったについては同書では触れられていないが、その後元慶2年(878年)に出羽国で起きた元慶の乱の際に、陸奥国から2000もの兵が派遣されていることから、この頃にはある程度復興が成し遂げられていたものと推察される。

今年の「3・11」
140311-142528 3月11日、仙台市の沿岸、荒浜地区に足を運んでみた。がれきこそすべて撤去されたものの、それだけである。







140311-141955この日は猛烈な北西の風が吹いていたにも関わらず、海は波静かで、3年前のこの日、この地で起きたことが信じられないくらいであった。
 






140311-143835 地区内にある浄土寺は津波で本堂始め建物を全て流されてしまったが、現在同じ場所にプレハブの仮本堂を建てている。毎年この日には地区の合同法要を行っているとのことで、今年も普段は別の地域で避難生活を送っている住民が集まり、住職の読経に手を合わせていた。住職はこの地で亡くなった人の名前を一人ひとり挙げて供養していたが、なかなか途切れないその数に、改めてこの地で亡くなった人の多さを改めて実感する。


140311-152456 地区にある仙台市立荒浜小学校。津波が校舎の2階部分にまで押し寄せた痕跡が今も残る。これが証拠となって、あの日仙台平野を襲った津波が、平野部の津波としては観測史上世界一の高さであったことが判明した。









140311-153252その校庭では、地元荒浜の復興・街づくりを中心としたプロジェクト「HOPE FOR project」が、集まった地元の人と一緒に花の種を入れた風船を大空高く飛ばしていた。荒浜から飛ばした花の種が、どこかの地で芽を出し、花を咲かせるかもしれない、と考えると、まさにそれは一つの「HOPE」である。



 1140年前の大地震からも東北は復興を遂げていた。しかし、それは決して2、3年のスパンでのことではなかった。ここからも、復興においては、最低10年のスパンを持って見ていく必要があることが分かる。

 幸い、東北人は地道に取り組むことに長け、粘り強いと評される。腰を据えて復興に取り組んでいくのは得意なはずである。目の前のできることを一つひとつやっていく。その積み重ねの先に、復興の成就はあるに違いない。


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2013年03月11日

私的東北論その43〜弟の最後の足跡を追う

弟の死から2年が経って
130311-144629 東日本大震災発生から2年が経った。書くべきことはいろいろあるのだろうが、この日に当たって何を書くかと考えた時に、やはりこの地震で命を落とした弟のことを書いておきたいと思った。

 弟は、仙台市若林区役所の区民部まちづくり推進課地域活動係の主事として勤務していた。2011年3月11日(金)午後2時46分に東北地方太平洋沖地震が発生し、直後に区役所内に若林区災害対策本部が設置された。弟は、若林区の沿岸地域である荒浜方面の広報活動を行うよう命ぜられ、午後3時17分に公用車で出動した。広報活動に当たっては、仝道塩釜亘理線より東には入らないこと、▲薀献をつけながら行くことの2点が指示されていた。午後4時5分頃、広報活動を命じた上司が弟の携帯電話に連絡したが、連絡が取れなかった。その後3月28日に乗っていた公用車が発見され、その1ヶ月後の4月28日、弟は、若林区荒浜字南長沼にある南長沼で(ややこしいがそこにある南長沼という沼がそのままその周辺の地名になっている)遺体で発見された。

 これが、震災発生当日から遺体発見までに事実として分かっていたことの全てである。これ以上のことはもはや分かることはないだろうと思っていたのだが、その後、弟の最後の足取りに関して分かってきたことがある。弟のことを忘れないためにも、記録として残す意味でも、ここにまとめておきたい。

 写真は、今日の午後2時46分に撮った、弟が見つかった荒浜の南長沼の様子である。誰が供えてくれたものか、花が手向けてあった。


なぜ弟は沿岸地域に出掛けていかなければならなかったのか
図1aa 今更ながら、なぜ弟は津波の危険が迫る仙台市の沿岸地域に出掛けていかなければならなかったのだろうか。ちょっと長くなるが、「仙台市地域防災計画」にある記載を紹介しておきたい。その「地震災害対策編」の第3章「災害応急対策計画」の「5 津波応急対策計画」では、津波発生時における人的被害を最小限に止めるため、津波予報の収集・伝達、海面監視及び避難体制について定めている。その実施機関は、消防部、区本部、宮城県警察の3者であり、このうち区本部の担当業務は、…吐箸隆躙雲や避難方法等に関する住民への周知、避難勧告、指示に関すること、H鯑饅蠅粒設及び運営管理に関すること、つ吐箸亡悗垢訃霾鵑療礎、避難誘導に関すること、とされている。津波発生時には、消防と区役所(の災害対策本部)と警察の三者が役割を担うことになっていたわけである。

 津波情報の収集伝達については、「消防部は、仙台管区気象台、宮城県及び宮城県警察本部等から伝達される津波情報を受信した場合は、次の伝達系統に基づき、関係する部、区本部及び市民に対し速やかに伝達する」ものとされており、仙台市内の各区は消防局防災安全課からの情報伝達を受け、広報車によって市民に津波情報を伝達する旨が図示されている。このうち、沿岸住民等への情報伝達については、「消防部及び関係する各区本部は、津波予報の発表と同時に次の手段で『海面監視・警戒要領』に基づいた区域内の住民等に対し、津波に関する情報を伝達する」とされている。「次の手段」としては、\臑羯堋吐半霾鹽礎システム、警鐘の打鐘又はサイレンの吹鳴(消防部)、消防車、ヘリコプター(消防部)及び広報車(区)による巡回広報、つ内会長等への連絡(区)、ナ麁撒ヾ悗箸力携、ε里療塰漂劵瓠璽襦△裡兇弔挙げられている。区役所の役割として、広報車による巡回広報で市民に津波情報を伝達することが規定されているわけである。

 避難誘導体制のうち避難広報等については、「避難勧告等を行ったときは、消防車、広報車及び報道機関との連携等により迅速に地域住民等に対し周知徹底を図り、また、避難誘導にあたっては安全な経路を選定するとともに、高齢者及び障害者等の災害時要援護者に十分配慮する」こととされている。弟はつまり、この仙台市地域防災計画の地震災害対策編における災害応急対策計画の津波応急対策計画に記載されている区本部に割り当てられた担当業務の遂行のために荒浜地区にて広報活動を行ったわけである。

 荒浜地区中心部を図1に示す。後に示す消防隊員の証言に基づく消防隊員の行動範囲と弟の行動範囲も書き入れてみた。青が消防隊員のたどった進路、赤が弟がたどったと考えられる進路である。


「県道塩釜亘理線より東には入らないこと」の意味
図2 広報活動を行うに当たって、先述の通り、「県道塩釜亘理線より東には入らないこと」との指示が出されていた。これはどういうことだろうか。これは「平成14年度仙台市地震被害想定調査報告書(概要)」に基づいた仙台市の「津波ハザードマップ」によるものと考えられる。その予測図のうちの荒浜近辺の部分を図2に示す。図2図1で示された周辺の地域も示している。この津波ハザードマップでは、県道塩釜亘理線よりもさらに東、荒浜地区で言えば、荒浜新のさらに東が津波浸水予測地域となっている。

 なお、津波ハザードマップでは、海岸に近いエリアについて、津波警報が出た際に避難勧告が出され、大津波警報が出された際に避難指示が出される津波避難エリア機図2の右側の斜線部分)、気卜拈椶靴織┘螢△蚤臘吐鳩拱鵑出された際に避難指示が出される津波避難エリア供図2の左側の斜線部分)が設定されている。「県道塩釜亘理線より東には入らないこと」という指示は、この津波ハザードマップに基いて、津波による浸水が予想される津波避難エリア亀擇哭兇鯣鬚韻覦嫐9腓いあったことが分かる。もっとも、実際には海岸から直線距離で0.9kmのところにある県道塩釜亘理線どころか、そのはるか西、海岸から3.2kmの仙台東部道路まで津波が押し寄せたのは周知の通りである。

 ところが、弟の特殊公務災害の申請などの過程で、地震発生当日、やはり「仙台市地域防災計画」に基づいて、同じ地域で住民の避難誘導にあたっていた仙台市消防局若林消防署荒浜航空分署の消防職員の証言として、何と以下のような証言が得られたのである。

 /湿其兇らさらに海側に入った辺りの住民を消防車に乗せて荒浜小学校に避難させる等していた際に、区役所の広報車らしき車を何度か見たような記憶がある。
 ⊂男俵匹里曚、警察、さらにもう一台の車両が、避難の広報をしており、「区役所の車かな」と思っていた。
 9喇擁署からの戻るようにとの命令を受け、午後3時50分に荒浜小学校を出発し、午後3時53分に荒浜分署に到着し、1分後に津波が到達した。
 ぞ学校を離れるとき、荒浜新一丁目の住宅街の方向から、避難を呼びかける広報車の声が響いていたのを記憶している。

 また、3月28日に、弟が乗車していた公用車の発見に立ち会った消防職員は、「あの時の車じゃないかと感じた」と証言しており、別の消防職員も以前紹介したが「災害当日、現地で見かけた記憶がある」と証言しているのである。これらの証言は何を意味しているのだろうか。

 証言から、この時の消防職員の活動範囲は、図1に示した通り、荒浜橋を渡った海岸に極めて近い地域から、この地域唯一の避難場所であった仙台市立荒浜小学校の間である。その範囲で市の広報車を見かけたということは、弟の広報車も県道塩釜亘理線より東の地域で活動していたことを示しているに他ならない。私はてっきり、弟は事前の指示通り県道塩釜亘理線の西側あるいは県道塩釜亘理線沿いで広報活動をしていたとばかり思っていた。なぜ、弟は、立ち入るなと言われていた県道塩釜亘理線より東で広報活動を行っていたのだろうか。


県道塩釜亘理線より東で目撃された理由を解く
 上記の通り、消防職員の証言から、弟の乗った広報車は、「県道塩釜亘理線より東には入らないこと」の事前指示にも関わらず、その東に位置する荒町新地区にて活動していたと判断できる。それはなぜだったのだろうか。

 「仙台市統計書『平成23年版』」によると、荒浜小学校区すなわち荒浜地区は世帯数782、人口1,920人である。この荒浜地区内の各町丁目名毎の世帯数をポスティング業者のサイト等で確認してみると(参照サイト)、平成17年の数値だが、県道塩釜亘理線の東側にある荒浜新1丁目、2丁目に合わせて333世帯、すなわち全体の約43%の世帯が集中している。荒浜新を除く荒浜に440世帯があるが、そのうちの多くの世帯は消防職員の行動を見ても分かる通り、荒浜新のさらに東側つまり海側にある荒浜北丁、中丁、南丁、西、一番山と呼ばれる各地区にある。

 これが何を意味するかと言えば、荒浜地区の世帯の大半は県道塩釜亘理線の東側から海岸付近に集中しているということである。図らずも図2の津波浸水予測図に、これらの地域に多くの家屋が集中している様子が図示されている。もし、こうした状況であるにも関わらず、事前の指示通り、県道塩釜亘理線より東側に立ち入らないとすると、荒浜小学校区の大部分の世帯に対して津波避難の呼び掛けができないことになるわけである。

 すなわち、荒浜地区の世帯に対して津波からの避難を呼び掛ける広報活動を行うという業務と、県道塩釜亘理線より東には入らないことという指示との間には、相反するものがあった。荒浜地区の大多数の世帯に対して避難を呼び掛けようとすれば、県道塩釜亘理線より東に立ち入らざるを得ず、県道塩釜亘理線より東には入らないという指示の通りにしようとすれば、荒浜地区の大多数の世帯には避難の呼び掛けができない、という状況だったわけである。

 従って、この荒浜地区の大多数の世帯に対して即座の避難を呼び掛けるためには、どうしても県道塩釜亘理線の東側に立ち入る必要があったのである。そして―、弟は避難の呼び掛けの徹底の方を優先して、県道塩釜亘理線より東で避難広報活動を行うことを選んだのである。

 さて、「津波浸水予測図」は前述の通り、「平成14年度仙台市地震被害想定調査報告書(概要)」に基づいて作成されているが、同報告書における想定の前提は、単独型(M7.5)と連動型(M8.0)の宮城県沖地震であり、それより大きな地震については一切想定がされていない。津波の予測について、「単独モデルでは,津波の波高は小さく,浸水域は大変小さいことが予測されています。また,連動モデルでは,単独型モデルと比べて津波の波高は大きくなり,浸水域も大きくなりますが,極沿岸域に限定され,仙台港周辺での浸水高さは30〜110cmが予測されています」とある。

 今から見るとまったく楽天的との誹りを免れ得ないような想定であるが、要は「津波浸水予測図」における津波浸水予測地域はすなわち、当時の予測で最も大きな連動型(M8.0)の地震であっても、仙台港周辺で最大110cmの津波と予測されていたわけである。前述のように「県道塩釜亘理線より東には入らないこと」という事前の指示は、この想定に基いて、荒浜新の東側一帯が津波浸水予測地域であることを踏まえて、さらに安全マージンを取って伝えられたものと考えられる。

図3 しかし、今回の地震でこの荒浜地区を襲った津波の高さは10mに達していたことが荒浜小学校に残った津波の痕跡から明らかになっている。平野部としては世界最大級だそうである。想定の10倍近い津波が押し寄せたのである。残念ながら、「県道塩釜亘理線より東には入らないこと」という事前の指示は、あまり意味を持たなかった。東日本大震災後に改定された新しい津波ハザードマップ(図3参照)では、津波警報で避難勧告が出される津波避難エリア気帽喇与恵篭茲魎泙瓩晋道塩釜亘理線以東の全域が含まれることになり、津波避難エリア兇聾道塩釜亘理線の西側一帯が含まれることになった。


なぜ被災するまで現地に留まっていたのか
 気象庁がまとめた「東北地方太平洋沖地震による津波被害を踏まえた津波警報の改善の方向性について」によって、今回の地震における津波警報発表経緯を追ってみると概ね、

 ゞ杁淬録迷報における地震波データの処理で、地震検知から約105秒後に地震の規模を最終的にM8.1と推定した。
 地震発生の3分後、津波警報第1報(高さ予想は宮城県6m、岩手県・福島県3m)を発表し、直ちに検潮所等による津波の監視を開始した。
 C録免生の13分後、津波観測データに基づき、大船渡で第1波引き波0.2m、最大波0.2mと報じた。
 15時10分頃から岩手釜石沖などのGPS波浪計において潮位の急激な上昇が観測されたため、15時14分に津波警報の第2報を発表し、予想される津波の高さを宮城県10m以上、岩手県・福島県6mなどに引き上げるとともに津波観測情報を発表した。
 イ修慮紊盂ご濾婉瓩慮…所における津波の観測状況から、津波警報の続報を発表した。

となっている。

 これを見ると、地震発生から3分後に、既に宮城県沖地震における想定を上回る6mの高さ予想を伴った津波警報が出されていることが分かる。さらに気象庁は、地震発生から28分後の午後3時14分には予想される津波の高さを宮城県で10m以上と上方修正している。

 弟が荒浜地区に向けて出発した午後3時17分の時点では、既に気象庁の津波の高さ予想は宮城県内で6mから10m以上へと引き上げられていたことになる。すなわち、想定をはるかに超える津波が荒浜地区を襲う可能性があることは若林区役所を出発しようとしたこの時点で既に分かっており、その上で前述の「仙台市地域防災計画」で区本部の役割として規定されている住民への避難誘導のために荒浜地区に向かったわけである。当初の「津波浸水予測図」の想定の下では、県道塩釜亘理線より東の荒浜新地区などは、津波浸水予測地域から外れ、危険のない地域であったが、その後想定外の大津波警報が出されていたことからも分かる通り、これらの地区は一転して「危険地域」へと変わっていたわけである。

 先に挙げた通り、避難誘導体制のうち避難広報等については、「避難勧告等を行ったときは、消防車、広報車及び報道機関との連携等により迅速に地域住民等に対し周知徹底を図」るとされている。ところが、予想を超える巨大な地震に遭遇したためか、先の消防職員の証言から判断しても、「消防車、広報車及び報道機関との連携等」が積極的に行われた形跡は見られない。当時は、にも関わらず「迅速に地域住民等に対し周知徹底を図」ることが求められていた状況であったのであり、その任務の遂行のためには、事前の「県道塩釜亘理線より東には入らないこと」との指示を敢えて踏み越えて、県道塩釜亘理線の東の荒浜新地区にて避難広報活動を行う必要があったわけである。

 繰り返すと、仮に事前指示通り、県道塩釜亘理線より東に足を踏み入れず、その以西を範囲として避難広報活動をしていたとしたならば、荒浜地区の大部分の住民に対して津波からの避難を周知徹底させることは不可能であったはずである。弟は、命じられた荒浜地区における避難広報を徹底するために、消防職員の証言にある通り、荒浜新の住宅街に入って避難呼び掛けをしていた。それは、県道塩釜亘理線よりも東に位置する荒浜新地区で避難呼び掛けを行えば、荒浜新地区はもちろん、同地区の東側に隣接し、荒浜地区の世帯の多くがある荒浜北丁、中丁、南丁、西、一番山の各地区の住民に対しても避難広報の周知徹底を行うことは可能だからである。

 さて、事前指示の2つめは「ラジオをつけながら行くこと」であった。弟が避難広報活動を行っていた時点では、気象庁の津波警報発表経緯に見られる通り、ラジオは気象庁の大津波警報の内容や、仙台平野よりも早く津波が襲来した三陸沿岸地域における状況を繰り返し伝えていた。したがって、ラジオから情報を得ていたならば、弟は、自らが大変な生命の危機に曝されていることを相当程度理解していたに違いない。

 では、にも関わらずなぜその危険な地域に、最終的に被災するまで留まっていたのか。消防職員の証言い砲△訥未蝓⊂男豹Πが荒浜地区を離れようとしたその時にも荒浜新地区からは避難を呼び掛ける広報車の声が響いていたのである。この時に弟もその場を離れてくれていれば、と思わずにはいられないが、それを解く手がかりとなるのは東京経済大学の吉井博明氏による「津波避難行動に関する調査結果」である。これを見ると、三陸沿岸の市町村と今回弟が赴いた荒浜地区のある仙台市若林区とでは、津波に対する意識に大きな差があったことがわかる。

 例えば、実際に避難した人に「地震発生の何分後に避難開始したか」を聞いた結果の平均は、三陸沿岸の南三陸町や女川町が11分であるのに対し、仙台市若林区は16分と、5分もの差がある。津波からの避難において、この5分の差はあまりにも大きい。「津波来襲確信度」についても、南三陸町では「津波が必ず来ると思った」と答えた人の割合が63.0%なのに対して、仙台市若林区では28.6%である。仙台平野は長らく津波に襲われた経験がない。荒浜地区の住民も三陸沿岸の住民と比較すると、「地震即避難」という意識が薄いと言わざるを得ない状況であったのである。

 実際に避難をした住民を比較しても三陸沿岸と仙台市若林区とではこれだけ差があるのである。しかも、この調査はあくまで「避難して助かった人」への調査である。津波から避難しなかった人の多くは津波に巻き込まれてしまったと考えられるので検証は不可能だが、避難しなかった人の割合も恐らくは三陸沿岸よりも仙台平野の方がはるかに高いはずである。弟は、三陸沿岸の住民に比べて津波に対する危機意識が高いとは言えなかった荒浜地区の住民に対して、身に迫る危険を感じながらも少しでも多くの住民を避難させようと繰り返し避難を呼び掛け続けたのであり、その結果津波により命を落としてしまったのだろう。

 もちろん、そのことで荒浜地区の住民を責めることなどできない。私とて、仙台平野をこれだけの津波が襲うとは思ってもいなかった。他の多くの仙台市民もそうだったのではないか。恐らく住民だけではなく行政もそうだったのだろうが、三陸沿岸の自治体に比べて仙台平野沿岸の自治体では、津波に対する防災教育も十分行われていなかった。以前紹介したように、歴史を紐解けば、この地を再三大きな津波が襲っていたことは分かるのだが、そうしたことも十分意識されていなかった。

 だが、次は同じ言い訳は通用しない。日本で百万都市がこれだけの津波に襲われたのは、恐らくここ仙台が初めてである。ひょっとすると、世界でも例がないのではないだろうか。ならば仙台は今後同じような津波被害が他地域で繰り返されないように、特に平野部を襲う津波について研究を重ね、日本のみならず世界にその情報を発信していくのが、責務とも言うべき役割であろう。

 当日の乗車車両である仙台市の公用車スズキ・エスクード・ノマドが見つかった地点は荒浜新から西に約500m離れた荒浜南長沼地区内であり、荒浜新で津波に遭遇し、津波によって西に運ばれたと推定すると辻褄が合う。ただし、弟は最後、車に乗ったまま津波に巻き込まれたのではなかったようである。弟の遺体は、広報車が見つかった場所からさらに西に数10m離れた沼の中から見つかっている。発見された広報車は、リアウィンドウが割れていたが、シートベルトは外れた状態だった。確かに津波の力はものすごいのだろうが、だからと言って、事故の衝撃でも外れないことを想定して作られているシートベルトを外してまで人間を車外に攫っていくことまでは考えられない。弟は自分でシートベルトを外して車外に出たのである。

 その理由は恐らく渋滞である。当日津波からの避難の車で県道塩釜亘理線はかなり渋滞していたという証言がある(参照サイトの<8>)。とすると、荒浜地区から県道塩釜亘理線に出る道路も同様だったに違いない。弟が区役所から荒浜地区に向かった道路の逆方向の車線もそうだったろう。残念ながら、荒浜地区への車での出動は、行けはしても戻ってくることは困難な「片道切符」だったわけである。

130311-153825 左の写真は、今日の午後3時38分に撮影したものである。荒浜地区から県道塩釜亘理線に出る道路である。つまり、海を背に西の内陸部に向かう道路である。右に写っているのは、この地区唯一の避難場所であった仙台市立荒浜小学校である。今日は午後3時まで、この地区の合同慰霊祭が行われていた。この地区の住民はほとんど他地区で避難生活を送っているので、この慰霊祭に参加するために殆どの人が車でこの地を訪れた。それが終了して帰途につく車が列を連ねているのが分かる。恐らく震災当日も、避難しようとする車が同様に列を連ねていたに違いない。

 津波の襲来を目撃したのか、最後の瞬間、弟は車を離れ、走って避難をしようとしたのだろう。海岸沿いの防潮林を超えてくる巨大津波を間近に見て弟は何を思ったろう。その後、陸上でも30km/h以上という津波の速さには勝てず、弟は結局は津波に巻き込まれてしまった。その時刻は、荒浜地区に隣接する名取市で津波第一波の到達時刻が午後3時50分だったこと、消防職員の証言があることなどから、恐らく午後3時53分頃だったものと考えられる。

 若林区役所から荒浜地区までは、私の自転車で飛ばして15、6分である。車だともっと速いだろうから、午後3時17分に若林区役所を出て、弟が荒浜地区に到着したのは恐らく15時30分前後、そこからの20分間余りの時間は、弟の生涯で最も重大な時間だった。弟は文字通り命を賭して、命ぜられた住民避難のための広報活動に最後の最後まで尽力したわけである。

 弟の友人で、このブログにも何度かコメントを書いてくれた高橋さんが、ご自分のブログに弟のことを書いてくれた時に、荒浜出身の方からコメントをもらったそうである。その方の叔母さんが津波の危険を察知して避難したのは、どうやら弟の広報活動のお蔭だったらしい。なんでもその方の叔母さんは、停電で情報がない中、避難を呼びかける声が尋常な様子ではなかったから外へ出たのだそうである。きっと弟の必死の思いが声に出ていたのだろう。それによって避難を促すことができたのであれば、任務は間違いなく遂行されたわけである。

 コメントを残してくれたその方は、私の両親に宛ててこう結んでくださっている。

最後の最後まで、市職員として任務を全うされた息子さんのおかげで、たくさんの命が救われました。本当にありがとうございました。ご冥福をお祈り申し上げます

 この言葉は弟への何よりの手向けである。

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2013年03月09日

私的東北論その42〜「地域資源」としての東北の温泉(「東北復興」紙への寄稿原稿)

イメージ 1 このところすっかり更新が滞っているが、1月16日に「東北復興」紙の第8号が刊行された。今回も、「埋もれた東北文化を掘り起こす旅」その△箸靴董◆崙本刀から東北の歴史を考える …中鉢美術館からの問題提起」が取り上げられるなど、相変わらず砂越氏の行動力は卓越している。

 げんさんの論考も健在であるし、「笑い仏」さまも順調に歩みを続けておられるようである。

 その第8号に寄せた拙文が下記である。





「地域資源」としての東北の温泉


東北の地域資源
 東北の復興に関して、「地域資源」という言葉を耳にすることが多い。地域資源の活用が復興に重要な意味を持つ、というようなことがよく言われる。この地域資源とは何かということについての定義はいろいろあるが、二〇〇七年に施行された「中小企業による地域産業資源を活用した事業活動の促進に関する法律」、いわゆる中小企業地域資源活用促進法を例に取ると、ここでは「地域産業資源」と言っているが、ー然的経済的社会的条件からみて一体である地域(以下単に「地域」という。)の特産物として相当程度認識されている農林水産物又は鉱工業品、∩姐罎坊任欧觜杞業品の生産に係る技術、J顕什癲⊆然の風景地、温泉その他の地域の観光資源として相当程度認識されているもの、のうちのいずれかに該当するものを地域資源と定義している。
 
 この法律で都道府県知事は、「当該都道府県における地域産業資源活用事業の促進に関する基本的な構想」を作成して認定を申請することができるとされているが、その中で地域産業資源の内容についても定めることができる。これを受けて各都道府県では様々な「地域産業資源」が指定されており、それらについてはそれぞれの都道府県のサイトで確認することができるが、東北に関しては特にのカテゴリにおいて実に多くの祭りと温泉とがリストアップされている。これらが東北に共通する「地域資源」であることは疑いないところである。


東北の温泉
 このうち祭りについては、本紙面で砂越氏が特に力を入れて取り上げておられるのでそちらに譲るとして、ここでは温泉について見てみたい。東北の人にとって温泉というのはあまりにも身近で、そのために逆にその地域資源としての価値を量りかねているのではないかと思うからである。

 火山の国である日本はその恩恵で世界でも有数の、数多くの温泉を持つ国である。その日本には、温泉地が平成二二年のデータでこの狭い国土になんと三一八五もある。そのうち、東北六県と新潟には合わせて七六七の温泉地がある。全国の温泉地の二四・一%、すなわち四分の一が東北圏にあることが分かる。

 その一方で、宿泊施設数は二六〇五で全国の一四〇五二に対して十八・五%、年間延宿泊利用人員が二〇一九四五五九人で全国の一二四九二五二七二人の十六・二%と、いずれも温泉地の割合に比べてかなり低い。これは、東北圏にある温泉が、大規模な宿泊施設や温泉街を伴ったものではなく、いわゆる「秘湯」を含む中小規模のものが多いことの表れであると言える。言い換えれば、鄙びた温泉が東北には多いということである。

 温泉を歓楽と捉えると、こうした温泉は物足りないかもしれないが、大自然の中でゆったりとした時間を静かな空間で過ごして日常と異なった環境に身を置くということを考えた場合には、東北の温泉はまさにうってつけである。

 東北には以前も紹介した通り、全国でも屈指の地熱資源があるが、それがこうした豊富な温泉を生み出している。東北には今も湯治の習慣が残るが、これは冬季の厳しい環境への対応、農閑期の骨休めという意味合いがある。東北の人にとって温泉は大いなる大地の恵みであり、まさに貴重な地域資産である所以である。

 実際、歴史ある温泉が東北圏には数多くある。開湯から千年以上の歴史を持つ温泉が少なくとも東北六県に二四ある。その中で最も歴史があるのは西暦一一〇年に吉備多賀由(きびのたがゆ)によって発見されたという伝承を持つ山形市の蔵王温泉で、次いで西暦三〇〇年代に発見されたという福島県いわき市のいわき湯本温泉、同じく四〇〇年代の秋田県大館市の大滝温泉が続く。東北に住む人と温泉との関わりは実に長い歴史を持っているのである。

 温泉の湧出量で見ても、全国的には自噴泉、すなわち自然に湧出している温泉が七六〇〇二四L/分であるのにに対して動力泉、すなわち掘削技術の発達によって人為的に汲み上げている温泉が一九二六五三五L/分と、圧倒的に動力を用いて温泉が多いが、東北圏に限ってみると自噴泉一九六〇八三L/分に対して動力泉三九六五〇二L/分と、自噴泉の割合が高くなる。ということは、掘削して掘り当てた温泉ではなく、昔からそこに湧き出ていた温泉が多いということである。


質の高い東北の温泉
 こうした歴史的な側面とは別に、東北圏の温泉は質の高さでも誇るべきものを持っている。まず、環境大臣が指定する「国民保養温泉地」というものがある。全国でこれまで九一箇所の温泉地が指定されているが、東北六県と新潟にはそのうち二二箇所がある。このうち、青森市の酸ヶ湯温泉は、一九五四年に栃木県の日光湯元温泉と共に指定された国民保養温泉地第一号、福島県二本松市にある岳温泉は翌一九五五年に指定された第二号である。
 
 また、全国津々浦々のすべての温泉を巡ったことで知られる松田忠徳氏の「温泉教授の日本全国温泉ガイド」(光文社新書)では全国二二七の温泉が推薦されているが、そのうち東北六県と新潟の温泉は六九を数え、実に全体の三分の一近くを占めている。この書では、氏が「マガイモノの温泉」と断じる「循環・濾過・塩素殺菌風呂」は紹介されていない。そうした中で東北のこれだけの温泉が紹介されているというのは、それだけ東北の温泉の質の高さを表していると言える。
 
 先ほど、東北には秘湯を含む中小規模の温泉が多いと書いたが、この「秘湯」という言葉を初めて使ったのは、「日本秘湯を守る会」である。日本秘湯を守る会は、一九七五年に、高度経済成長真っ盛りという時代背景にあって、「今の状況は、本来の旅の姿ではない。人間性を置き忘れている。旅の本質を見失っている。何時の日か人間性の回復を求め、郷愁の念に駆られ山の小さな温泉宿に心の故郷を求め、本当の旅人が戻ってくる。旅らしい旅が求められる時代が来る」、「日本の温泉のよさを保ち、環境保全に努める経営理念を相互に啓発・啓蒙する温泉旅館を集めて共同宣伝、相互誘客を図る組織の結成を」と提唱した故岩木一二三氏によって設立された。設立当時三三軒だった会員宿は今や全国に一八八を数えるに至ったが、このうち東北六県と新潟には合わせて七七ある。実に全国の「秘湯」の四一%が東北圏に集中しているのである。
 
 病を癒す湯として全国から人が集まる秋田県仙北市の玉川温泉は、様々な角度から「日本一」の温泉である。まず湧き出る湯量九〇〇〇L/分は一箇所の源泉としては文句なしの日本一である。またその湧き出る温泉はPH一・一というとてつもない強酸性の湯で、この酸性度も日本一である。温泉の湯温は沸騰寸前の摂氏九八度でこれまた日本一である。これほど強烈ではないが、東北圏にはその泉質の良さや効能の高さで知られる温泉が数多くある。


地域資源としての温泉の活用
 温泉を地域資源として活用しようという動きは震災前から既にあった。その典型例が、先に挙げたいわき湯本温泉である。いわき湯本温泉旅館協同組合では、温泉の魅力を再確認し、その保健的機能を活用するためとして、独自に「温泉保養士(バルネオセラピスト)」を養成する事業を二〇〇一年から行っている。

 きっかけとなったのは、ドイツの温泉保養地との交流だったという。ドイツでは温泉が医療の一環として取り入れられ、温泉地にて長期間の療養が行われているという取り組みの事例を知った。先に挙げたように、日本にも「湯治」の文化があるが、それをコーディネートできる人材がいなかった。

 そこでいわき湯本温泉旅館協同組合では、社団法人日本温泉療法士協会を立ち上げ、温泉医学、予防医学に基づいて、温泉の持つ保健的機能を引き出す知識、技術を習得し、温泉療法を活用した健康づくりを安全かつ適切にアドバイスできる人材の育成を始めた。日本温泉保養士協会が実施する養成講習会で規定の講習を修了し、認定試験に合格した人材を温泉保養士(バルネオセラピスト)として認定している。認定の有効期間は五年間で、認定を継続するためには更新講習会の受講が必要となっている。お膝元のいわき湯本温泉では、全ての施設に有資格者がいて、宿泊客・日帰り客などからの相談に応じてアドバイスを行っているということである。

 この事例からは、地域資源とは、それだけでは地域資源たり得ず、それを理解し、活用する人材がいてこそ地域資源となるということが見て取れる。その意味では、結局のところそうした「人」こそが最大の地域資源と言えるかもしれない。


復興にも温泉の活用を
 さて、温泉について語られる際によく言われることの一つに「転地効果」がある。転地効果とは、日常生活を離れ、いつもと違った環境に身を置くことによって、心身ともに気分転換を図れるということである。旅行がその最たるものとされるが、温泉地への旅行においては温泉そのものの効能が上乗せされるため、さらに効果が高いと考えられる。特に山間の「秘湯」の多い東北圏の温泉では、これに森林浴の効果も期待できる。
 
 転地効果をしっかりと得るためには、まず目的地として自宅から一〇〇勸幣緡イ譴疹貊蠅望ましいとされる。また転地効果はおよそ一ヶ月の滞在を経ると「慣れ」が生じて効果が減殺されてくるため、四、五日から一週間程度の期間が適していると言われる。こうした条件はまさに、東北における「湯治」そのものと言える。東北の人たちは古くから湯治を通して、心身の疲労を癒していたわけである。

 復興までの決して近くはない道のりの中で、この温泉についての魅力を再度見直したい。東北にとって温泉は、域外の人を呼び込む地域資源としてだけでなく、否が応でも長丁場となる東北復興の道程において、復興に携わる全ての人たちが心身のストレスを解消するまたとない手段としても積極的に活用でき得る資源でもある。


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2012年12月29日

私的東北論その41〜「震災遺構」をどうするか(「東北復興」紙への寄稿原稿)

イメージ 1 「東北復興第7号が12月16日に刊行された。

 今回、砂越氏は、「東北の『伝説』の真偽を追求し、東北の歴史・文化の定説をひっくり返そうというチャレンジ」の連載開始を高らかに宣言された。貴重な試みだと思う。 その掘り起こした東北文化を共有し、自信を取り戻し、復興という難事業に東北全体で、東北人が同胞となって取り組もうという呼びかけでもある。そして、早速「埋もれた東北文化を掘り起こす旅」を始めた。この辺りの行動の速さはさすがと言う他ない。

 他にも、前号に引き続いての郷土芸能取材、古山拓氏の「ケルトと東北」シリーズの完結編、げんさんによる九州と東北の比較文化論など読みどころ満載である。「笑い仏」さまの連載は今回、「笑い仏」さまが逗留された當麻寺中之坊院主の松村實昭師が寄稿されている。

 この第7号に寄せた私の拙文が下記である。


「震災遺構」をどうするか

議論が分かれる「震災遺構」の取り扱い
 東日本大震災発生からまもなく一年九カ月になる。大津波によって甚大な被害を受けた沿岸地域でも瓦礫の撤去は進んでいる。それに伴って議論の的となっているのが、「震災遺構」の取り扱いである。

 震災後マス・メディアによって繰り返し報じられた、陸に打ち上げられた大型船、建物の二階部分に乗った大型バスや観光船、転倒した鉄筋コンクリートの建物、鉄筋の骨組みだけになった建物、これらは津波のとてつもない威力をまざまざと見せつけた「生き証人」である。こうした「震災遺構」は瓦礫の撤去と被災地域の復興が進むにつれ、徐々にその数を減らしてきている。つまり、こうした地震や津波の恐ろしさを物語る遺構も瓦礫と一緒に撤去されつつあるのである。

 このことについて、意見は真っ二つに分かれている。一方は「あると地震の恐怖や亡くなった家族のことを思い出すので早く撤去してほしい」というもの、もう一方は「地震や津波の恐ろしさを後世に伝えるものとして保存してほしい」というものである。
 

他地域における先例
 実は、こうした「震災遺構」の保存については、同様の議論が過去に地震に見舞われた地域でも起こっている。そして、それに対してどのような結論を出したかについては、地域によって異なっているのである。

 九三年に北海道南西沖地震による津波と火災で一九八名の犠牲者を出した奥尻島では、「震災遺構」は残されなかった。海水に浸かった建物の保存や維持管理の困難さ、遺族感情への配慮がその理由だったようである。壊滅した集落の跡地には公園ができ、慰霊碑も立っているが、震災そのものの痕跡は残っていないそうである。島は復興したが、一方で震災の記憶の風化も指摘されている。

 九五年の阪神大震災では、神戸市は大火災に見舞われた。その火災に耐えて残った公設市場の壁は、「震災の語り部」として海を隔てた淡路島の北淡震災記念公園に移設されて保存された。「神戸の壁」と呼ばれるこの震災遺構も、神戸市自体は保存に消極的で、地域でも必ずしも保存に賛成の声ばかりではなかったという。そのような時に、対岸の淡路島の旧津名町長の故柏木和三郎氏が受け入れを表明してくれたため、震災後つくられた北淡震災記念公園で保存されることになったのだそうである。神戸市でも現在、「海を渡った」この「神戸の壁」を除けば震災の爪痕を感じさせるものはほとんどないようである。

 一方、〇四年の新潟県中越地震を経験した長岡・小千谷両市は昨年、地震の「メモリアル拠点」として残された四つの施設と三つの公園を結んだ「中越メモリアル回廊」を立ち上げた。これは被災地をそのまま「情報の保管庫」にする試みとのことで、それぞれの拠点を巡って、震災の記憶と復興の軌跡に触れてもらうことを目的に整備されたのだそうである。土砂崩れでできた「天然ダム」によって水没した家屋がそのまま残されたメモリアルパークもある。車が土砂崩れに巻き込まれた現場はそのまま慰霊のためのメモリアルパークとなった。

 このように、地震一つ取ってみても、撤去、移設、保存と、地域によって取られた対応は異なっていることが分かる。日本では地震だけでなく、火山の噴火による災害もある。九一年には雲仙・普賢岳噴火で四三名もの犠牲者が出た。その後、現地では火砕流で焼けた小学校や自動車、土石流で埋没した住宅群が保存された。三宅島の噴火でも溶岩流に埋没した学校や土石流に埋没した神社が残されている。


「原爆ドーム」に学ぶ
 こうした事例を参考にしながら、今回の大震災においても「震災遺構」の取り扱いについて考えていかなければならない。もちろん、瓦礫と一緒に撤去してしまうのが最も簡単である。それ以降の保存や維持のための費用も掛からないし、被災者も見る度に震災のことを思い出さなくても済む。

 しかし、本当にそれでよいのだろうか、と思うのである。失ったものは二度と戻せない。見るのは辛い、その気持ちは分かる。しかし、辛い、という今の気持ちだけで即撤去してしまう前に、将来のためにもう少し考える時間が必要なのではないかと思うのである。

 もう一つ、参考にしたい事例は、広島市にある「原爆ドーム」である。原爆ドームは、元々広島県物産陳列館として竣工され、その後広島県産業奨励館と改称された。四五年八月六日に広島市に落とされた原子爆弾により、爆心地から約一六〇mの距離にあったこの産業奨励館も爆風と熱線で大破し全焼、当時建物の中にいたおよそ三〇人の人は皆即死だったそうである。

 戦後、そのてっぺんの形から誰からともなく「原爆ドーム」と呼ばれることになったこの旧産業奨励館についてはやはり、記念物として残すべきという声と、被爆の悲惨な記憶につながるので取り壊すべきという声に二分されたという。保存に向けて大きく動き出したきっかけは、一歳の時に被爆し、六〇年にわずか十六歳で白血病のため亡くなった楮山ヒロ子さんが残した日記に書かれていた「あのいたいたしい産業奨励館だけが いつまでも おそろしい原爆を世にうったえてくれるのだろうか」という言葉だったそうである。

 これを契機に保存を求める声が次第に高まり、六六年広島市議会は「原爆ドーム保存を要望する決議」を採択する。そこには、「ドームを完全に保存し、後世に残すことは、原爆でなくなられた二〇数万の霊にたいしても、また世界の平和をねがう人々にたいしても、われわれが果たさねばならぬ義務の一つである」とある。この翌年、第一回の保存工事が行われた。被爆から実に二二年後のことである。その後、九六年に世界遺産への登録が決定したのは周知の通りである。


「間接資料」と「実物資料」
 「百聞は一見に如かず」と言う。原爆ドームは核兵器の恐ろしさを如実に物語る象徴的存在となった。我々は、あの建物を見る度に、自分が体験していなくても、広島を襲った悲劇に思いを馳せることができる。

 今回の地震では、多くの人が携帯のカメラなどで津波の写真や動画を撮影した。たくさんの証言もある。「震災遺構」がなくても、それらが地震や津波の恐ろしさを伝えてくれるのではないか、そのような意見もあるだろう。もちろん、それはそれで震災の貴重な記録である。しかし、それはあくまで記録である。

 記録は、博物館学の観点から見れば「間接資料(二次資料)」である。それに対して、「震災遺構」のようなものは「実物資料(一次資料)」と呼ばれる。記録に加えて、地震や津波の恐ろしさを他の何よりも雄弁に語ってくれる「震災の語り部」たる「震災遺構」があれば、それらがまさに、原爆ドームが終戦から六七年経った今も戦争の悲惨さと平和の尊さを語り継いでいるのと同様に、これから先も自然災害の恐ろしさと防災意識の大切さを教え続けてくれるに違いないと思うのである。


被災全市町村が最低一つ震災遺構保存を
 先の原爆ドーム保存を求める決議になぞらえれば、震災の遺構を保存し、後世に残すことは、地震で亡くなられた二万近い霊に対しても、また災害からの復興を願う人々に対しても、我々が果たさねばならぬ義務の一つである、と言える。

 この国では、どこにいても地震を始めとする自然災害のリスクからは免れ得ない。私たちが遭遇したこの上なく恐ろしく悲しい体験を、自分や自分の大切な人の身を守るための方策と共に他の地域の人たちに伝えることは、私たちにしかできないことである。そしてそれは、震災後、全国各地から寄せられ、今も続いている支援の手に対する、私たちができる恩返しの一つでもある。

 他地域の人たちだけのことではない。この地域の将来の世代の人たちのこともある。私たちは大震災のことは決して忘れない。私たちの子どもの世代も大丈夫だろう。しかし、その子どもやその先の世代となればどうだろうか。それら先の世代でも、見れば地震や津波の恐ろしさが伝わる、そうしたものを残すことは、やはり私たちの責務ではないだろうか。

 もちろん、残すと判断するのは、今すぐでなくてもいい。ただ、将来の可能性のために、震災遺構となりうる対象の早期撤去については、しばし留保してほしいと思うのである。広島の原爆ドームが保存されるまでには二二年の歳月が必要だったが、その間原爆ドームが撤去か保存かという判断を留保されたために、保存の機運が高まった後の保存が可能となったのである。もし戦後すぐ撤去され、被爆を物語るものが何も残っていなかったとすれば、当然保存を求める動きもなく、世界遺産登録もなく、日本に住む誰もが被爆の悲劇の手掛かりとしていつでも思い起こすことができるあの建物の映像もなかったわけである。

docx 今回の大震災で東北は、北は青森の三沢市から南は福島のいわき市まで、太平洋岸のほとんどの市町村が被害を受けた。私は願わくは、これらの被災した市町村がそれぞれ、最低一つずつでも、大震災の痕跡を伝える遺構を残してくれればよい、と強く思っているのである(写真は津波によって3階建ての建物の上に乗り上げた乗用車。震災直後随所で見られた光景である)。


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2012年10月31日

私的東北論その38〜「憂いのない備え」のために「伝家の宝刀」を(「東北復興」紙への寄稿原稿)

イメージ 5 「東北復興」の第5号が10月16日に発行された。今回の1面は「1年半後の岩手沿岸部のいま」と題した砂越さんのレポート。その実態をつぶさに見て、「『忘れない』ではなく、『何とかせよ』に切り替えるべし」と訴えている。
 
 2・3面は「遠野まつり」のレポートである。私はまだ実際に目にしたことはないが、げんさんからそのすごさについては何度か聞いていた。どのようにすごいかは砂越さんのレポートを見ていただくとして、同じ紙面ではそのげんさんも遠野まつりについて書いているので、遠野まつりについて多面的に知っていただくことができるかもしれない。7面では古山拓さんが東北への思いについて書いておられる他、「笑い仏」様も引き続き順調に福島への歩みを続けておられるようである。

 この第5号に寄せた拙文が下記である。


「憂いのない備え」のために「伝家の宝刀」を

「自然災害ワーストワン」は宮城県?
 「都道府県のワーストを描いた地図」というものがネット上にある。その中で宮城県の全国ワーストワンは「自然災害」である。この地図は東日本大震災の一か月ほど前に作成されたものであるので、それを踏まえてのものではない。しかし、住んでいて風水害が顕著であるとは思えないので、これはほぼ間違いなく地震のことであると推測できる。

 地図の作成に参照されたデータをよくよく読んでみると、宮城県における二〇〇八年の人口一人当たりの自然災害被害額が他の都道府県に抜きん出て大きいということから「ワーストワン」となったようである。二〇〇八年に何があったかと思い返してみると、その年は岩手宮城内陸地震があった。被害額が大きいのは恐らくそのことによるのであろう。

 岩手宮城内陸地震はいわば想定外の地震だったが、それ以外にも宮城県はおよそ三〇〜四〇年に一度の間隔で、宮城県沖地震と呼ばれるM七・五規模の地震に襲われてきた。考えてみれば、日本全国でこれだけ定期的に大きな地震に襲われている地域は他にないのではないか。その意味では、確かにここ宮城県は、自然災害ワーストワンと言えるかもしれない。

 直近では一九七八年、M七・五の地震が発生し、二八名の死者を出した。死者のうち一八名は倒壊したブロック塀の下敷きとなって亡くなった。当時のブロック塀には鉄筋が入っていないものが多く、地震の際に脆くも崩れたのである。

 この時のことを教訓に、三年後に建築基準法が改正され、建築物の耐震基準が大きく強化された。そのお陰で、それ以後に建てられた建物やブロック塀はこの時の地震と同等以上の地震に襲われてもたやすく倒壊しないものとなった。

研究成果の活用前に起きた大地震
 東日本大震災発生から一年半が経過した。昨年三月一一日に発生した地震は、一九七八年の地震から三三年が経過し、いつ起こってもおかしくないと言われていた宮城県沖地震ではなく、それを恐ろしいまでに大きく上回るM九・〇の超巨大地震 であった。マグニチュードが〇・一大きくなると地震のエネルギーは約一・四倍、一大きくなるとおよそ三二倍にもなる。今回の地震は、想定されていた宮城県沖地震のエネルギーを、実に一八〇倍近く上回る地震だったわけである。

 地震考古学という学問がある。過去の地震について、残っている文献や遺跡に残る地震の痕跡の調査などからその規模や被害状況などを推定する学問である。また、ボーリングによる津波堆積物の調査も大きく進歩した。その結果、宮城県沖を震源とする、三〇〜四〇年周期の地震とは異なる超巨大地震について、今回の地震の少なくとも四年前にはある結論が導き出されていた。それによると、宮城県を始めとする太平洋の沿岸地域においては、およそ八〇〇〜一、一〇〇年の周期で今回の東日本大震災と同規模の超巨大地震とそれに伴う大津波に襲われていたというのである。

 「日本三大実録」という文献に残されていた記述から、今回の地震の前の地震は八六九年の貞観地震であることも分かっている。その記述や津波堆積物調査の結果から、貞観地震においても巨大津波が発生し、その浸水域は今回の東日本大震災とほぼ一致することも判明した。

 惜しむらくは、こうした地震学における研究の成果が実際の地域防災計画に反映される前に、今回の地震が起きてしまったことである。例えば、宮城県沖地震で想定されていた津波の高さは「平成一四年度仙台市地震被害想定調査報告書」によれば、〇・三〜一・一 mである。M七・五程度の宮城県沖地震を想定したものであるためにこのような予測となったが、今回の地震で仙台平野を襲った津波は少なくとも高さ七・二mに達した。

 これに対して今回、M九・〇という超巨大地震に襲われたものの、最大震度七を観測した宮城県栗原市でも建物の倒壊に伴う死者はなかった。これは、もちろん阪神淡路大震災のような直下型の地震ではなかったという要素はあるものの、前回の宮城県沖地震を教訓とした建物の耐震性の強化の成果と言える。

 実際、仙台市の地震被害想定調査報告書でも、宮城県沖地震と同程度のM七・五の地震が起きた際には三、七四〇棟の建物が倒壊し、最大で二七人の死者が出ると予測していたのである。それを大きく上回る規模の地震が今回起き、全壊と判定された建物は二九、九一二棟に上ったが、それでも建物の倒壊による死者は、正確なところは分からないものの仙台市内でもほとんどなかったのではないか。これは特筆すべきことである。

「森の防波堤」で防災とがれき処理を
 一方、今回の地震における死者のほとんどは津波によるものであった。防潮堤を過信しない、大きな地震の後はすぐ高台に避難する、といったこの地に住む我々がしっかり認識しておくべきソフト面での対策もより強化する必要があるが、とは言え、やはりハード面の整備も必要である。

 今回、仙台平野沿岸の防潮林は、津波によって根こそぎ倒されてしまった地域も多かった。しかしその一方で、防潮林がしっかり残った地域もある。この違いはいったい何だったのだろうか。

 実は、残った防潮林は、盛り土をしてしっかり土台をつくったところに松が植えられていたものだった。対して、根こそぎ倒された防潮林は、砂地に直接植林されたものがほとんどであったのである。

 そして、残った防潮林の中には何と、伊達政宗の時代に遡るものも多くあったそうである。先ほど、今回の地震に匹敵する地震は八七四年まで遡ると書いたが、こと大津波に関してはそれだけではなく、平均するとほぼ二〇〇〜四〇〇年に一度仙台平野を襲っていることが分かっている。前回は一六一一年の慶長三陸地震、その前は一四五四年の享徳地震である。そのうち一六一一年の地震は、伊達政宗が居城を仙台に移して一〇年後に起こっている。この時の大津波は、政宗の城下町づくりにも大ダメージを与えたと伝えられる。

 しかし、政宗は、戦国武将として合戦に強かっただけではなく、領主としても極めて有能だった。大津波の襲来を踏まえて沿岸にしっかり土台をつくった上で防潮林をつくり、その後背地には貞山掘という運河を掘った。今で言う多重防護の仕組みを作ったのである。そして、津波浸水地域は除塩をした上で水田として復興させた。今回の地震でこの政宗の防潮林が津波の勢いを減殺した地域では、そこでできた時間的余裕の間に住民が避難できたということもあったそうである。

 今、震災がれきの処理が復興の大きな課題となっている。広域処理を唱える環境省に対して、がれきを受け入れる側の自治体では、放射線に対する不安から受け入れ反対の住民運動が起きたりしている。

 そうした中、がれきを有効活用して防潮林を再生させようという取り組みが始まっている。がれきを細かく粉砕して、砂地の上の土台づくりに活用すれば、しっかり根を張った、いざという時に役立つ防潮林がつくれるというのである。横浜国立大学名誉教授の宮脇昭氏が「森の防波堤」として提唱し、宮城県内ではその主張に賛同した人たちが実際に取り組みをスタートさせている。

 ところが、がれきの広域処理にこだわる環境省は、この防潮林再生の取り組みには消極的なのだという。つくづく東京のど真ん中にいると現地のことがまったく見えないのだと実感する。今、仙台の高台に立って沿岸を見ると、櫛の歯が欠けたような防潮林が見える。これを一刻も早く再生させ、がれきを土台に自然の防潮堤を作れば、今回の地震でひとまず震源域のエネルギーは解放されたという宮城県沖地震が三〇〜四〇年後に再びこの地を襲ったとしても、それによる津波で人命が失われるような結果にはならないはずである。

 「備えあれば憂いなし」、「天災は忘れた頃にやってくる」、いずれも先人たちの貴重な教えである。今回の地震の教訓を風化させてはならない。復興の足を引っ張る国など差し置いてでも、次なる地震に対する備えを進めるべきである。

今こそ地方自治体は「伝家の宝刀」を
 それに関して言えば、もちろん津波対策だけでは足りない。津波によるあまりに大きな被害に目を奪われてあまり耳目を集めないでしまったものの、仙台市の隣にある利府町では、地震で郊外型の大規模ショッピングセンターの天井が落下し、お母さんと買い物に来ていた六歳の子が亡くなるという痛ましい事故が起きている。国土交通省の調査では、今回の地震では何と約二、〇〇〇施設の天井が崩落し、五人が死亡し、七二人が負傷していたことが分かったという。

 これらの施設では建物自体は倒壊していない。にも関わらず、なぜ天井は落下したのか。実は、こうした大規模施設の天井は「つり天井」なのだという。それが地震の際に、釣られている天井同士ぶつかるなどして釣っているワイヤーから外れて落下したのである。これを放置していては、次なる地震の発生時にまた犠牲者を出す恐れがある。国土交通省でもこの点を問題視して、つり天井の対策ガイドラインを出しているが、強制力があるものではなく、改善は進んでいないようである。

 ところで、地方自治体には「伝家の宝刀」がある。「上乗せ条例」、「横出し条例」の制定である。法律より厳しい基準を課す条例を「上乗せ条例」、法律が定めていないことについて規制する条例を「横出し条例」と言う。記憶に新しいのは、首都圏八都県市の連帯で国に先駆けてディーゼル車の走行規制を実現した首都圏環境確保条例の制定である。

 既存・新設を問わず、つり天井を持つ施設に対して崩落対策を義務付けるという条例を、少なくとも四〇年以内にまた大きな地震が来ることが予測されている宮城県並びに県内の自治体は制定すべきではないだろうか。

 何度でも言うが、国に任せていては、迅速かつ実効性のある地震対策は望むべくもない。再び宮城県沖を震源とする地震が起きて実際に被害を受けるのは、霞が関や永田町ではなくこちらなのである。今回の地震の教訓を余すところなく次なる地震への対策に活かして「防災先進地域」をつくる。それが未曾有の大地震を経験し生き残った我々の義務なのではないかと思うのである。


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2012年03月14日

私的東北論その33〜地震から1年が経って

120311-160836 地震発生から1年経った。3月11日には、弟が見つかった仙台市若林区荒浜にある南長沼に久々に足を運んで、花を供えてきた。

 南長沼には先客がいた。以前、このブログにもコメントを寄せてくれた「ブルーバードつながりの知人さんだった。「ブルーバードつながりの知人」さんは、弟とは弟の愛車だったブルーバード(ただのブルーバードではない。U12型のSSS ATTESA LIMITEDという、知る人ぞ知るマニアックなスポーツカーである)が縁で知り合ったそうである。弟がたまたま駐車場で車いじりをしていた際に声を掛けてくれてそれ以来親交が始まったとのことだった。

 聞けば「ブルーバードつながりの知人」さんは、この日だけではなく、なんと月命日である11日には毎月この南長沼を訪れて弟の冥福を祈ってくれていたらしい。両親もこの南長沼で「ブルーバードつながりの知人」さんとばったり顔を合わせたことがあったそうである。実の兄である私がこの南長沼を訪れるのなど昨年5月以来10か月ぶりだと言うのに、弟は本当にいい友達を持ったものである。もっとも、ずぼらで知られる私との比較があまり意味のあることではないのは言を俟たない(笑)。

 さて、この1年いろいろなことがあった。もちろん、これだけの大きな地震であるから、復興は途上であるが、それぞれに新たな歩みを始めている。先日ドクター・ディマティーニの講演を聴く機会があったが、氏は、起きた出来事はすべてニュートラル、どんなことにも必ずプラスとマイナスがあると話していた。その両方に目を向けることが大事で、プラスにだけ目を向けるのはファンタジー、マイナスにだけ目を向けるのは悪夢だと強調していた。震災に関するこの1年の動きにももちろん、プラスもマイナスもある。肝心なのは、ファンタジーに生きるのではなく、さりとて悪夢の中に生きるのでもない、絶えず現実を見据えて一歩ずつ進むことである。

 震災関連で最近よく耳にするのは震災瓦礫の広域処理問題である。仙台にいる私から見ると、もちろん放射線量の高い地域の瓦礫は放射性物質の拡散を防ぐ意味でも域外に持ち出すべきではないと思うが、放射線量が高くない地域のがれきで域内処理が追いつかない分についてはもう少し協力が得られてもいいのではないか、という印象を持つ。ただ、きっと受け入れる側にとっては、東北は押し並べて放射性物質に汚染されていると見えるのだろう。

 誰が作成したものなのか不明だが、それが分かるような秀逸な図がネット上にアップされていた。東電と政治家の認識はネタだろうが、東北と他地域の汚染地域についての認識の差は、確かに概ねこのようなものだろうと思う。岩手県宮古市のがれきの受け入れに福島第一原発からほぼ同じ距離にある神奈川県で反対運動が起こる、原発の放射性物質の影響がほぼないに等しい青森県の雪を使ったイベントが沖縄で中止になる、といった事態は、まさにそうした認識の差の現れであると言える。そのような中でも、東京や静岡に加えて青森、秋田、山形の同じ東北の3県が瓦礫受け入れを表明してくれているのはやはり心強く、ありがたいことである。

 しかし、だからと言って、がれきを受け入れない自治体を東北にいる我々が責めてはいけないと思う。受け入れは現在のところ、義務ではなくあくまで受け入れ側の善意・好意によるものであるからである(今後は国が法律に基づいて自治体に要請するということだそうだが)。我々としては、受け入れてくれる自治体には感謝しつつ、さりとて受け入れてくれない自治体を恨みに思わず、受け入れられない分については、自分たちで何とか処理する方法を考える機会を与えられたと考える方がよいと思う。

 実際、自治体の首長からも、がれき処理を雇用対策の事業として自前でやりたいという意見が出されていることでもあるし(岩泉町長のインタビュー陸前高田市長のインタビュー)、多くの自治体が計画している沿岸部の海岸防災林の復旧や「復興の森」構想にもがれきは使える。まさに知恵の出しどころである。

 海岸防災林について言えば、今回仙台平野の沿岸に植えられていた松は軒並み津波に倒され、それだけでなくがれきの一部となってかなり内陸の方にまで押し流された。津波そのものはもちろんだが、この倒れた松がぶつかったことによって倒壊した住宅もあったのではないだろうか。ところが、よくよく見てみると、同じ仙台平野でもほとんど根こそぎ松が倒された地域と、かなりの密度で松が残った地域がある。地形の面から言って、仙台平野に押し寄せた津波にそれほど地域差があったとは考えられないので、その違いは何なのか気になっていた。

 そうしたところ、この記事(海岸林が発揮した防災機能)を読んで謎が解けた。やはり、沿岸の松(クロマツ)が根こそぎ押し倒された場所と、倒れずに津波を受け止め、津波が住宅地に押し寄せる時間を遅らせた場所があったのだそうである。そして、そのクロマツが津波を押しとどめた時間のお蔭でその地域の住民は仙台空港に逃げ込むことができたというのである。仙台平野の防潮林は今回の大津波に全面敗北したわけではなかった。場所によってはしっかりその役割を果たしていたのである。その違いは、記事によれば盛り土をして植林したか、海岸の砂に直接植林したかだったそうである。盛り土をせずに植えられたクロマツは砂の上では十分に根を張ることができず、わずかな力で倒れてしまう。それが津波によって倒された松と、踏みとどまって住民の命を救った松との違いだったのである。

 実際に「復興の森」となるような海岸防災林をつくるとすれば、このようにいざという時に、津波を完璧に防ぐことはできなくても、その威力を弱め、近隣住民が避難できる時間をつくることができる森にしなければいけない。この記事(がれきも生かし、自然植生で「森の防波堤」を作ろう)によれば、そのためにはぜひともがれきが必要だというのである。倒壊した家屋の木材やレンガ、コンクリートといった多くのがれきをある程度の大きさに砕いて土と交ぜれば、「森の防波堤」のマウンド(土台)作りに活用できるのだそうである。そのマウンドの上に、松だけでなくその土地本来の常緑広葉樹を中心に混植していけば、15〜20年後には多層群落の「本物の森」が育つ。その根は地中深く育つのでマウンドのがれきをしっかりと固定でき、かつがれきで土中にすき間ができるため、根が呼吸できるというのである。誰も引き受けたがらないがれきだが、実は防災にとって欠かすことのできない重要なアイテムともなり得るのである。

 もう一つ復興の上で避けては通れないのは、まさにがれきの広域処理が進まない大きな要因となっている原発事故を抱えるその福島の問題である。先日、ある人からこう言われた。「宮城県として福島県に救いの手を差し伸べているのか」、と。これには虚を突かれた思いであった。同じ被災地であって、こちらは津波による甚大な被害、あちらは津波プラス原発事故による影響。しかし、福島は大変だということは重々承知しつつ、こちらも被災地であるという思いがどこかにあって、それでこちらから積極的に支援の手を差し伸べてはこなかったのではないかと気づかされた。

 福島を失っては、東北は東北でなくなる。福島を助けることが、東北全体が立ち上がるためには不可欠である。もちろん、まだまだ大変なことも多いが、その大変な中でも決して福島のことを忘れず、できることは助力を惜しまないという意識が、この先も長く続く復興のためには必要なことだと思う。

 南長沼で弟には、とりあえず元気でやっているということくらいしか報告することができなかった。来年、この地を訪れる時にはもっと多くのことを報告できるようにしたいと思う。

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2012年01月17日

私的東北論その32〜笑顔で、たくさん「いいね!」が言い合える年に

image 2011年は東日本大震災、それに新潟・福島豪雨や台風12号・15号による被害など、自然災害に見舞われた年だった。東日本大震災からの復興については、いまだ道半ばどころか、緒についてすらいない地域もまだまだ多い。新しい年にはなったが、だからと言って状況が一夜で劇的に改善するわけではない。私の住んでいる仙台はほぼ旧に復したが、ひとたび沿岸に足を運ぶと、まだ何も解決していない現状がそこにはある。福島第一原発の問題も依然そのままである。避難した先で不自由な暮らしを強いられている人、職がなくなって仕事を探している人、一日一日を必死の思いで過ごしている人は数多くいる。

  だからこそ、あえて言いたい。今年は笑顔で過ごそう、と。笑っている場合ではない、笑う気など起きない、その気持ちは分かる。まさに、そのような人にこそ本当に笑いが必要なのである。

 アルフォンス・デーケン氏という、長らく上智大学で教鞭を取った哲学者がいる。氏は「死生学」が専門で、日本において「死の準備教育(Death Education)」の必要性を説き、それを実践してきた。私は以前、氏を取材させていただいたり、講演会を企画して講師にお招きしたりしたことがあったが、いつも実に示唆に富むお話をしていただいた。

 特に印象に残っているのは、ドイツにおける「ユーモア」の定義である。ドイツでは、「ユーモアとは『にもかかわらず』笑うこと」だそうである。氏によれば、困難な状況で苦しんでいるにもかかわらず、相手に対する思いやりとして、笑顔を示す、それが「ユーモア」だということであった。

 氏は、「ジョーク」と「ユーモア」を明確に区別していた。ジョークは「頭から頭へのテクニック」、それに対してユーモアは「心から心への愛の表現」と言っていた。悩みや苦しみのまっただ中にあっても、それに流されず溺れずに相手に笑顔を向けようとするやさしさや思いやりこそが、ユーモアの原点だと強調していた。だから、ユーモアはセンスだとか生まれつきの才能だとかではなく、ましてや物事が順調に運んでいる時の心の余裕がもたらすものなどではなく、もっともつらいときにこそ発揮されなければならないものなのだ、ということだった。

 氏はかつて、こうも言っていた。「愛する相手を失うかそうでないかは運命的なものです。でも、その後どう生きるかは、自分自身が選ぶことができる。それは運命的なものじゃないのです」と。同じ生きるなら、笑顔がいっぱいの方がいいな、と私などは思う。そう言えば、デーケン氏の笑顔は、写真のように、その温かい人柄がにじみ出たような笑顔で、とても素敵だった。

 笑いたくないのに相手のために(仕方なく)笑う、というのはあまりに悲壮に過ぎると思われるかもしれない。でも、笑いは相手のためだけではない、笑うことは自分をも励まし、勇気づけ、力になると思う。「情けは人のためならず」ではないが、笑いも相手のためだけでなく自分のためにもなると思う。そう言えば、心理学の学説に、「悲しいから泣くのではなく、泣くから悲しいのだ」という「ジェームス=ランゲ説」がある。学問的には賛否両論ある説だが、それを援用すれば「楽しいから笑うのではなく、笑うから楽しい」となる。自分では無理と思ってもまず笑ってみれば、自分自身の気分が上向く可能性もある。

 話は変わるが、最近Facebookを使っている。実のところ、mixiTwitterは長続きしなかったのだが、Facebookは今のところまだ続いている。何が理由だろうかと考えてみたが、その理由の一つが「いいね!」ボタンだったのではないかと思う。

 「いいね!」ボタンというのは、友人の投稿につけられる簡単なレスポンスである。全部の投稿についてコメントを残すのは難しくても、「いいね!」ボタンを押して、「読んだ」ということ、そしてそれが「よかった」ということを伝えることはできる。それが私にとってはよかったように思う。しかもまさに私がFacebookについて「いいね!」と思うのは、「いいね!」ボタンはあるが「よくない!」といった「ダメ出し」ボタンはないことである(笑)。

 ちなみに、「いいね!」ボタンはアメリカでは「Like!」だそうである。「Like!」を日本語版で「いいね!」としたのはなかなかよいと思う。これが「好きだ!」ではちょっとおいそれと押せなかったかもしれない。英語版では「Like!」になる前は「Awesome!」だったらしいが、こちらはより「いいね!」というニュアンスが強いようなので、その趣旨が日本語版の「いいね!」に生きていると言えるのかもしれない。

 「ダメ出し」がなくて、「いいね!」だけがある、これは「ポジティブフィードバック」だけがあるということである。よくないと思ったら、Facebookではあえてそれを表立って言うのではなく、「いいね!」ボタンを押さなければそれで済むのである。この姿勢は、現実の世界でも使えるのではないだろうか。

 ニュースや新聞の報道に接すると、そこで報じられていることにはネガティブな情報がひどく多いことに気づく。しかし、世の中決して悪いことばかりがあるわけではない。それを数の上で圧倒的に上回るいいことがあるから、世の中は成り立っているのだと思う。特に、震災で大きなダメージを受けた地域で、思わず「それはいいね!」と言いたくなる取り組みはそれこそたくさんある。そうした取り組みに対しては、なるべくたくさん「いいね!」と伝えたいと思う。

 結局のところ、いいものに対して「いいね!」と言うことを続けることこそが、今一番必要なのだと思う。「いいね!」と言われることがたくさんあれば、それだけ間違いなく復興は進んでいるということである。今年は「笑顔」で「いいね!」と言うことがたくさんある年になれば、と強く思う。

 なお、日本財団図書館のサイト内に、デーケン氏の「老いと死とユーモア」と題した講演の講演録がある。

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2011年12月13日

私的東北論その31〜大津波は「千年に一度」ではない!

wakaran-p111213 文部科学省の地震調査研究推進本部地震調査委員会は11月25日、「三陸沖から房総沖にかけての地震活動の長期評価(第二版)について」を公表した。左の朝日新聞に掲載された図が分かりやすいが、今回の長期評価の中では、三陸沖北部から房総沖の日本海溝寄りでマグニチュード(M)8.6〜9の地震が、今後30年以内に、30%の確率で起きると予測されている。

 今回の東北地方太平洋沖地震と同様の、三陸沖から茨城県沖までの広い範囲の震源域が連動する地震については、今後30年に起こる確率は0%と予測している。しかし、今回の地震でエネルギーは解放されたとされる三陸沖中部から南部のその周辺部分や三陸沖北部にはまだ地震を引き起こすエネルギーが残っているとされている。

 実際、その三陸沖北部では1896年に明治三陸地震が起きて、三陸沿岸を今回の津波に匹敵する大津波が襲っている。他に、江戸時代の1611年と1677年にも大津波をもたらした地震が起きたとされている。

 この明治三陸地震の場合、今回の地震の前には地震計の振れ幅などからM8.2程度と推測されていた。しかし、津波の記録から計算し直したところ今回の地震同様のM9クラスと大幅に上方修正された。

 1611年は三陸沖で、1677年は房総沖で大津波が起きたとされている。余談だが、1611年のこの慶長三陸地震による大津波は、今回同様仙台平野にも押し寄せたらしく、1601年に仙台入りしたばかりの伊達政宗の城下町づくりにも大打撃を与えたと言われている。しかし政宗はこの大津波による壊滅的な被害を乗り越えて現在の仙台の基となった城下町を作り上げたのである。

 政宗のすごいところは、戦国武将として合戦にも強かっただけでなく、その土地を治める領主としても極めて有能だったというところである。その大津波の被害を踏まえて海岸沿いに貞山堀を掘り、その外側には防潮林を配するなど、今で言う多重防護の仕組みを作ると共に、津波で浸水した地域での新田開発を進めるなどして、震災復興を成し遂げている。

 今回の発表では、こうした過去に繰り返し起きた地震の発生間隔と、最後の地震からの経過年数で今後の発生確率を割り出しているが、三陸沖から房総沖にかけては今回の地震を含めて少なくとも400年で4回、大津波をもたらした地震が発生していることになり、それを基に今後の発生確率を30年以内に30%、50年以内に40%、100年以内に60%と計算している。

 今回の地震と同様の多数の震源域が連動して起きた大地震は、以前書いたように今回の前は869年の貞観地震で、その前は縄文時代に遡るということであったから、発生頻度はおよそ1000年に1回である。しかし、今回の地震や貞観地震以外にも甚大な津波被害をもたらす地震がある、ということを今回の「長期評価」は伝えている。

 仮に東日本大震災の直前に今回の長期評価と同様の方法で計算していたとしたら、今回の東北地方太平洋沖地震の発生確率は30年以内に20%だったとのことである。20%の確率でも現実に地震は起きた。それを考えると30年以内に30%というのはかなり高いと言えるのではないだろうか。すなわち、「今回は『1000年に1回』の地震だったからあと1000年は大丈夫」などとは考えず、同様の津波をもたらす地震はもっと短い間隔で起きていることを肝に銘じておかなくてはいけない。

 ちなみに、同じ方法で計算すると、阪神・淡路大震災を引き起こした兵庫県南部地震の発生確率は8%だそうである。今回の地震の後、「想定外」という言葉がよく聞かれたが、想定外という意味では阪神・淡路大震災の方がはるかに想定外だったということである。

 そうした中、衝撃的な記事があった。今回の地震の後、西日本に住む人の津波への警戒感が低下したというのである(参照サイト)。普通に考えれば、あれだけの大津波の映像をリアルタイムで目の当たりにしたら、津波への危機意識はより高まるのではないかと思うのだが、実際にはその逆なのだそうである。

 東京大学地震研究所助教の大木聖子氏の調査結果によると、今回の震災のほぼ1年前に起きた2010年のチリ地震のあと、住民に対して、津波への備えに関する質問を行ったところ、危険だと思う津波の高さを「10cm〜1m」と回答した人が70.8%で、「この大きさの津波が近づいているという警告を聞いたら避難する」人も60.9%だったのに対し、今回の震災の1カ月後に同じ質問を行ったところ、危険な津波の高さを「10cm〜1m」と答えたのは回答者の45.7%で、この高さで避難すると答えた人は38.3%しかいなかったのだという。逆に、危険な高さを「5〜10m」と答えた人は、震災前には3.7%だったのが、震災後は20.2%にまで増加したのだそうである。

 つまり、三陸沿岸に押し寄せた14、5mの高さの津波を見、あるいは標高40m近いところまで津波が遡上したという報道を聞いたことによって、逆に数10cmや1mくらいの津波は大したことはないと考える人が増えてしまったということのようである。これは大変に危険なことである。

 実際には、50cmの津波でも人は流される。また、木造住宅は1mの津波で半壊、2mの津波で全壊する。津波の高さが1mだから家の2階にいれば大丈夫、ということでは決してないのである。

 津波を「波」の一種だと考えたり、台風の時に見られる高潮のようなイメージで捉えたりするのは大きな間違いである。実際にはあれは「波」ではない巨大な水の壁がものすごい勢いでぶつかって来るようなものと考えた方がよいようである。

 それを理解するのに役立ちそうなのはTBSのニュース映像である。このニュース映像では、記者が港湾空港技術研究所の協力を得て30cmの高さの津波と60cmの高さの津波を体験している。見れば分かるように、30cmの高さで既に立っていられない。60cmの高さではあっという間に流されてしまっている。まさに「百聞は一見に如かず」である。

 「百聞は一見に如かず」と言えば、このサイトにある「東北地方太平洋沖地震 発生地点・規模・時刻分布図」という動画もリアルである。3月から10月中旬までに日本列島付近で起きた地震の分布を地図上に動画で表現したものである。あの日を境に地震が急増していることが音(!)と映像で一目瞭然である。東北地方の太平洋沖を震源とするものがもちろん多いが、その他の地域での地震も増えているように見える。

 「災害は忘れた頃にやってくる」というのはあまりに使い古された標語であるが、実に真実を突いているのではないだろうか。この国に住む限り、今回のような災害はある間隔で発生するものと強く認識して、いつも対策を怠らないようにしておきたい。

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2011年11月24日

東北に関係する書籍その1〜東北に日本の「ふるさと」の風景を見出した本

nokositainihon 私の手元に1冊の本がある。「残したいね 日本の風景」( アマゾン該当ページ )という本である。

  出版元のサイトでは本書について、

「あの頃の自分が一瞬にして蘇ってくる里山風景。何でもない、けれどその人にとってはかけがえのない風景。そんな風景がいまだに残っていればいいが、現実にはふるさとの風景はひどい勢いで消えつつある。この活動は、これが見納めとなるかもしれない、〈絶滅のおそれのある風景〉にいまのうちに足を運んでほしいという著者の切なる願いであり、誘いです。最後のDISCOVER JAPANです。」

と説明している。

 DISCOVER JAPANというのは、旧国鉄が1970年に始めた個人旅行拡大キャンペーンで、当時電通でこのキャンペーンを企画したのが、この本の著者である藤岡和賀夫氏である。この本の初版は2006年で、キャンペーン開始から36年が経っている。氏は「絶滅」のおそれのある日本の言葉、風景、習慣を書物に採録する「レッドブック運動」を提唱し、活動している。上の説明からは、自身が企画した"DISCOVER JAPAN"の締め括りとして、そしてこの「レッドブック運動」の一環としてこの本が出されたことが窺える。

 ちなみに、2008年から判佝納劼茲同名の雑誌が隔月刊で出されているが、これは旧国鉄のキャンペーンとは直接の関係はないようである。なお、藤岡氏は本当の集大成として、キャンペーンから40年目の2010年に「DISCOVER JAPAN 40年記念カタログ」(アマゾン該当ページ)を出している。

 この本を見つけたのは、私が盛岡に行った時には必ず立ち寄る「さわや書店」である。さわや書店は、盛岡市に本店のある書店チェーンで、盛岡では東山堂と並ぶ老舗書店である。大通りに本店があるが、盛岡駅内のフェザン店が行きやすいので、私が行くのはもっぱらこっちである。何がいいかと言うと、このフェザン店、通路に面した一番人通りの多いスペースの一角に、地元岩手や東北に関係した書籍を多数陳列しているのである。地元出身の作家の小説から観光ガイドブック、いわゆる分冊百科のうちの東北に関係する号、地元出版社の本まで、東北に関する様々な書籍がそこには並べられており、行く度に何か新しい本が出てないか見る楽しみがある。

 普通の書店は、一番人通りが多いところには売れ筋の本を並べるものだと思うが、東北の本をピックアップして展示することにも端的に表れている、自分の店でチョイスした本をあえて並べるというこのさわや書店の姿勢は、私は好きである。こうしたさわや書店のスタイルが出来上がった経緯は、「盛岡さわや書店奮戦記」( アマゾン該当ページ ) として一冊の本になってまとめられている他、東北経済産業局の「東北21」でも紹介されている。

 さて、この「残したいね 日本の風景」のサブタイトルは、「絶滅のおそれのある懐かしい日本の風景」である。その「残したい」日本の風景が本書では50カ所紹介されているが、なんとそのすべてが東北六県のものなのである。藤岡氏は、今なお残る「懐かしい日本の風景」を、東北の様々な地域の風景の中に見出していたということなのだろう。

 それにしても東北のあちこちをよく訪ね歩いたものである。私が知らなかった地域もいくつもあった。確かに、見ているだけで心が和むような、そんな景色がページを繰る毎に現れる。この景色をこの先も残していきたいと考えた藤岡氏の思いがよく伝わってくる。

 本書には、東北の選りすぐりの50の風景の写真と共に、その土地の料理や名産品、行事などを紹介する「ふるさとアレコレ」や「ゆかりの人」などの雑学、周辺のみどころ案内なども掲載されており、実際にその土地を訪れたいと思った時に役立つ情報も収録されている。

 しかし、藤岡氏が残したいと強く思った、この本に収められたかけがえのない50の東北の景色のうち、残念ながら失われてしまった景色がいくつかある。言うまでもない、東日本大震災のためにである。本書で紹介されている宮城県南三陸町志津川、宮城県石巻市雄勝町、福島県相馬市松川浦、などがそうである。

 志津川の風景には「平凡な幸せ 絵に描いた町」というタイトルが付いている。近景に田圃、中景に家々、遠景に志津川湾の海が写る、本当にそのタイトルのような風景である。その「平凡な幸せ」を「絵に描いた」ような風景が、あっという間に消し去られてしまったことの重さに改めて思いが至る。
 
 そうした意味でも、この本は震災前の東北の景色を捉えた貴重な本となってしまった。確かにそこに、「幸せな風景」があったことを印す記念碑的な存在とも言える。本書に収録されている風景は、単に東北の美しい自然を紹介したものではない。そのような類書は他にたくさんあるが、ここに収められている風景は、サブタイトルに「懐かしい日本の風景」という言葉がある通り、多くの人が見て懐かしいと思うようないわゆる「ふるさと」の風景である。そこには、自然と共存してつくり上げてきたその土地の人の生活の営みがある。

 本書の風景の写真の中に人はほとんど登場しないが、これらの風景の土台には間違いなくそこに住む人々の日々の営みが前提条件としてあったはずである。それがなくしてこれらの風景が残したいふるさとの風景とはなり得なかったはずだからである。言い換えれば、不幸にも失われてしまったこれらの風景がこの地で再び見られるようになった時こそ、東北が本当に復興したと言える時かもしれない。

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2011年09月01日

私的東北論その30〜言葉の力を忘れてはいないか

110819-125202 日本の政治を40年以上研究し続けてきたコロンビア大学教授のジェラルド・カーティス氏は、今回の震災後、被災地を4度にわたって訪ね歩き、自治体の首長や被災者の話にじっくり耳を傾けた。それを踏まえて考えた様々なことを日経ビジネスオンラインのサイトに「ジェラルド・カーティスの東北ダイアリー」としてまとめているが、その第2回が「リーダーは希望の言葉を伝えてほしい」だった。

 カーティス氏は東北の人についてこう書いている。

「被災した東北の人々の精神力、自己抑制、粘り強さをたたえる声は多い。尊厳を保ち、誰に言われずとも力を合わせ助け合う人々。その勇気と強靭さは世界に感動を与えたが、おそらく誰よりも感銘を受けたのは、ほかならぬ日本人自身だったろう。日本人の大切な価値観は薄れ、あるいは失われてしまったと考えていた人々は、テレビの前に釘付けになり、目を見張った。そこに映し出されたのは、長い列を作って給水と夕食のおにぎり1個を辛抱強く待つ被災者の姿だった。あるいは、避難所で肩を寄せ合って暮らす大勢の被災者が、避難所をできるだけ秩序ある快適な場所にするために自治会を組織し、リーダーを選び、班を作って行動する姿だった。

 東北から伝えられる映像や記事は、胸の張り裂けるようなものであると同時に、勇気をもたらしてくれるものでもあったのである。東北の人々は、日本人に新たな誇りを与えた。それは、大きなエネルギーの源にもなっていたはずだ――日本に、それをすくい上げて活用する才覚を持った政治家がいさえしたら。」


 これは東北に住む人に対しての最大の賛辞である。それだけに、最後の一文が重く響く。

 菅首相が退陣した。別にそのことに対しては何の感慨もない。と言うか、正直言って、この首相が震災からの復興に関して、何か力強いメッセージを発しただろうかと振り返ってみても、まったく思い浮かばない。この人はいったい地震発生から今まで何を発信してきたのだろうと首をかしげるばかりである。いや、もちろんその時その時で一見意表をつくような発言はあった。「1000万戸に太陽光パネル」「浜岡原発停止」「脱原発」などなど。しかし、たとえば「脱原発」は「個人の考え」だった。実現の見通しのない考えなど単なる「願望」に過ぎない。我々が首相の口から聞きたいと思っていたことは、そのようなことではない。

 カーティス氏は菅首相の震災対応について、「2005年8月末にアメリカ南東部を襲った大型ハリケーン『カトリーナ』へのブッシュ政権の対応に比べればはるかにましだ」と評価しつつも(「ただし、福島第一原発への対応は別」と断っている)、

「だが日本人は、まことにもっともなことながら、被災地で法が守られ秩序ある行動がとられたのも、被災者が互いに助け合いながら自らを高く保っているのも、東北の人々が立派だからであって、政府のおかげではないと考えている。被災者は、政府から当然受けられるはずの支援すら受けられていない。せっかく津波から助かったのに、毛布や衣類が迅速に配られなかったせいで、避難所で低体温症のために亡くなった高齢者もいる。」

と指摘している。

 そして、大船渡の魚肉加工場の経営者の発言として、「政策の細部まで煮詰めるのに時間がかかるのは知っているし、それは十分理解できる。だがわれわれが聞きたいのは、将来に希望と安心を与えてくれるような総理の言葉なのだ。言葉は大切だ」という言葉を紹介している。これは多くの被災者も首肯できる言葉ではないだろうか。

 カーティス氏は、

「『みなさんが長年暮らしてきた土地が、再び住むにはもはや安全でないこと、みなさんの農地が海水に浸って壊滅的打撃を被ったことはよく理解しています。これをどうするか、現時点で具体的にお話しすることはできません。ですが、必ずみなさんとご近所の方々が一緒に高台に移り住み、共同体として共に暮らせるようにします。また、みなさんが仕事を再開するために必要な漁船や農機などの機械設備を備えられるよう、支援を提供することを約束します。どうか希望を捨てないでください。東北がゆたかな土地になるよう、私たちは努力します』――菅首相がこのような発言をしていたら、東北の重苦しい雰囲気はずいぶんと明るくなっていただろう。」

と書いている。確かにその通りだっただろうと思う。そのような言葉を東北の人たちはずっとずっと待っていたのだ。

 そのことを菅首相を始めとするこの国の中枢にいる人が誰一人気づかずに、長らく日本を見続けてきたとは言え、アメリカの一学者が初めて指摘するというこの状況はいったいどうしたことなのだろう。

 日本は古来「言霊の幸わう国」と言われたのではなかったか。古代、「言」と「事」は同一とされ、言葉にしたことは良いことも悪いことも現実の世界に何かしらの影響を及ぼすと信じられていた。それは何も霊的なことを持ち出さなくても、経験則的にそうだと実感できることではないだろうか。

 苦境にある時、人を奮い立たせたのは何よりもその言葉ではなかったか。よく例に出されるのが、第二次世界大戦の時のイギリスの首相、チャーチルである。当時のイギリスはドイツの圧倒的な攻撃に曝され苦境に立たされていた。そのイギリス国民を奮い立たせたのはチャーチルの演説だった(参照サイト)。

 人々を奮い立たせた演説は、フィクションの中にさえある。例えば、映画「インディペンデンス・デイ」。ある日突然、人類は圧倒的な攻撃力を持つエイリアンの侵攻を受け、地球存亡の危機に立たされるという設定だが、そこで行った架空のアメリカ大統領の演説は、映画の中の民衆ばかりか、観客まで奮い立たせるような名演説だった(参照サイト)。

 いまだかつてない災害に遭遇し、じっと苦境に耐え、日々を必死の思いで送っている被災地の人が、最も聞きたかったのは、我が国の首相から発せられる、困難の底にある人々を奮い立たせ、希望と安心が得られるような言葉ではなかったか。

 しかし、残念なことに、最後の最後まで、先の首相からそのような言葉は聞かれずじまいだった。

 東北の被災者は震災後、様々な困難に直面しながらも、それでも希望は捨てていなかったはずだ。火の中に飛び込んで死に、その灰の中から再び現れるという不死鳥のように、この震災を契機に、新しい東北地方ができるのではないか、そのような期待もあった。ところが、震災後5ヶ月経っても何も変わらない。変わるのではと期待させることも何もない。

 ただ、首相は変わった。野田新首相の、党首選の時の政見演説を聞いたが、心に届くものは確かにあった。

 カーティス氏はこう警鐘を鳴らしている。

「新しい東北開発モデルを打ち出す絶好の機会は、いまここにある。東北を経済特区に指定し、県や地方自治体に権限と予算を与えることだ。企業には、国内・国外を問わず免税措置を適用するなど、東北経済特区に投資するインセンティブを設定する。さらに県には、国の規制適用の可否を判断する権限および、独自の規制(たとえば津波の危険のある地区での建設を禁止するなど)を行う権限を認める。

 何が必要かをいちばんよくわかっているのは、そこで暮らしている人たちだ。東京にいる政治家や、アドバイザーを務める有識者ではない。彼らはたまさかの打ち合わせのために現地に飛びはしても、すぐに東京に戻ってしまう。復興構想会議の第一次提言ではいくつかの復興特区の設置が提案されているが、これは形ばかりのものに過ぎない。特定の産業や市町村に限定されており、随所に中央官庁の官僚の差し金が透けて見える。」


「早く行動を起こさないと、機を逸してしまう。東北に住んでいない人たちの生活は正常に戻り、それに伴って、大胆な改革への熱意は衰えていく。サプライチェーンの混乱は一時的なものだし、東北復興のための特別な予算措置は、経済を刺激する効果がある。したがって、悲劇からの立ち直りは早いと予想される。日本の成長率は、地震から6〜8カ月後には、災害がなかった場合の水準に戻るはずだ。

 被災した東北でも、津波で家や工場や店を失った人の一部は3月11日以前の生活に戻ろうとし、元あった土地に再建を始めるだろう。いったんそうした動きが始まれば、さまざまな機会が失われる。地域共同体全体を高台の新設住宅に移すことも、ソーラーパネル網を海岸沿いの地区に設置することも、漁師を会社として組織することも。思慮深く行動力のある地元の指導者たちは、このほかにも大胆な改革を考えているが、それらを実行に移すチャンスも潰えるだろう。」

 カーティス氏が指摘する、こうした「大胆な改革」を伴った「新しい東北開発モデル」が実行に移されるという感触が、日に日に小さくなっていっているのを感じる。この5ヶ月余りの動きを振り返ってみても、何と言うか、時既に遅しという気がしてならないのである。しかし、このタイミングで新首相が誕生した。人の心に届く発信力を持つ新しい首相の采配に期待したいところである。

 写真は、先月19日に訪れた宮城県南三陸町の様子である。


追記(2011.9.11):地震発生からちょうど半年の今日、テレビ各局は様々な特番を組んだが、その中でNHKスペシャル「巨大津波 知られざる脅威」の後に紹介された視聴者から寄せられたメッセージ、涙が出るほど嬉しい言葉がたくさんあった。

 この国は、政治家ではなく、普通の人こそが卓越しているのだ、と実感した。日本の底力というのは、まさにここにあるのだと思った。

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2011年08月15日

私的東北論その29〜震災後初のお盆に寄せて

1108_2  昨日、夢を見た。夢の中で弟は震災後も生きていた。その理由は忘れたが、「それで無事だったんだ、本当によかった」と私も納得して、笑顔で談笑していた。しかし、夢の中の私の脳裏によぎるものがある。「あれ?それじゃあの時安置所で見た弟の遺体は何だったんだ?」と。夢の中ではその後も弟と一緒にいるのだが、だんだん夢の中の状況と現実に体験したそのこととの矛盾が抜き差しない亀裂となって夢の世界が維持できず、それで目が覚めた。夢の中の世界さえも、現実に起きたことによって浸食されてしまったのかと思った。でももし、夢の中で矛盾を来すことなく幸せだったなら、目が覚めた時の現実との落差がもっと大きかったに違いないから、それでよかったのかもしれない。

 弟が死んでから知ったのだが、弟もブログを綴っていた。弟は私のこのブログのことを知っていたが、私は弟のブログのことは知らなかった。最近初めて見たのだが、5年前の3月から書き始められ、ほぼ日をおかず書き綴られていた。投稿件数は908!私のブログは始めたのこそ弟より早かったが、投稿はこれで244件目だから弟のブログはその4倍近くの投稿件数である。ただただ、すごい! 最後の更新は3月10日。地震の前日である。その次の更新を、弟はすることができなかった。

 話題は、弟が大好きだった自然のことがメインで、それ以外にも日々の仕事のことや政治に関することまで幅広く書き綴っていた。その中ではいわゆる有害鳥獣のことについて繰り返し取り上げられていた。そうした動物への優しい眼差しを弟は持っていた。兄貴が「どこそこで飲んだくれてた」なんてことを書き連ねていた間に、弟はとても意味のある情報を発信していた。「賢弟愚兄」という言葉があるが、いやはやまさにその通りである。

 以前ここに追記した、弟がかつて勤務していた仙台市博物館での「震災復興パネル展」、このお盆休み中にようやく見に行ってきたが、自然をこよなく愛した弟らしく、博物館周辺の豊かな自然が余すところなく写し出されていた。弟はこれらの写真を自費で写真集にまとめ、博物館に寄贈していたが、その後書きで「自然を美しいと思える人の感性・気持ちは、自然以上にすばらしい」と書いているそうである。我が弟ながら本当にいいことを言う。その通りだと思う。しかし、まさかその弟がこよなく愛した自然に命を奪われることになるとは、なんという巡り合わせなのだろうか。

 弟の職場の同僚が、地震が収まった直後にデジカメで写したという写真を、両親に届けてくれた。その写真には、弟が写っていた。弟の斜め後方から写した写真のようで、弟は地震で散乱した書類の整理をしていた様子である。弟の生前、最後に撮られた写真であることは間違いない。「この時はまだ生きてたんだよな」と思う。弟自身も、まさかこの数十分後、自分が命を落とすことになろうとは、夢にも思っていなかったんだろうなと思う。

 「メメント・モリ(memento mori)」というラテン語については、大学の時の美学の講義で習った。「死を忘れるな」というこの警句は、西洋の様々な文化・芸術の根本を成していたそうである。

 我々はいつか必ず死ぬ。その「いつか」は今日かもしれないし、明日かもしれないし、数十年後かもしれない。私などは普段そのことをうっかり忘れて、昨日の次に今日が来たように、今日の次は当然のように明日が来るということを信じて疑わないのだが、その「当然来る」と思っていた明日が来ないということだって、当然のように起こり得るのだということを、私は今回の地震で改めて思い知った。

 弟が死んでから時々ふと、「今この状況で自分が死んだとしたら」ってことを考えるようになった。今この状況で死を迎えたとしたら、果たして自分はその死を受け入れられるだろうか、と。いつ何時、死ななければいけない状況を迎えたとしても後悔しないように毎日を生きていたい、そう思う。もし今死ななければならないとして、いろいろやり残したことはあったとしても、そう悪くない人生だったと思うことはできると思う。遺された人たちはもちろん悲しむだろうが、きっとその悲しみを乗り越えて自分の人生を生き切ってくれるとも思う。そう思えても、やっぱりできればもっともっと生きていたい、そう思うものなのだなと思う。だからこそ、弟の無念さも胸に迫る。

 何となく漠然と、お互い爺さんになっても一緒にいられるものだと思ってた。まさか「享年38歳」なんて書かれることになろうなんて思ってもいなかった。生きていればきっと、私なんかよりもっともっと、世の中のためになるいい情報を発信し続けていたに違いないと思う。それがある日突然、何の前触れもなく、途中で断ち切られてしまう。本当に人生というものは思う通りにはいかないものだ。

 「弟の分まで生きる」、などということは、不肖の兄にはできっこない。弟の人生は弟のもので、それは誰も代わりになることのできない、かけがえのないものであった。それが失われたということ、それは返す返すも残念なことであるが、そういう人生を生きた弟が間違いなくいたということ、そのことを忘れないことが私にできる唯一のことであるのだと思う。

 そうそう、「メメント・モリ」、今では「自分がいつか必ず死ぬことを忘れるな」という戒めの意味で使われるが、元々はその裏に「だからこそ今この瞬間を楽しめ」という意味が込められていたのだそうである。中尊寺貫主も務めた作家の故今東光氏は「人生は、冥土までの暇潰し」と喝破したそうである。それは人生を矮小化するものではない。だからこそ、それまでは「極上の暇潰し」をすべきなのだと今氏は諭したのだそうである。洋の東西を問わず、賢人は人生の本質を知っていたということなのだろう。

 写真は、仙台市博物館のサイトで毎月更新されるカレンダーである。このカレンダーに使われている写真は弟が撮ったものである。今月のこの写真も「震災復興パネル展」で飾られていた。カメラのファインダーを覗いていた弟は、この美しい景色をぜひたくさんの人に見せたい、そう思ってひたすらシャッターを切っていたに違いない。「虎は死して皮を残す」と言うが、弟も本当にいろいろなものを残していってくれた。そのことに感謝したい。


追記(2011.10.12):「愛・きずな・希望−支え合う笑顔と緑のわかばやし−」をテーマに、第23回若林区民ふるさとまつりが10月16日(日)に若林区役所の特設会場で開催される。弟は毎年、このまつりを訪れる子供たちの笑顔見たさ、ただそれだけのために、まつりが近づくと毎日夜遅くまで一生懸命準備をしていたそうである。

 そのまつりで、今回は「震災パネル展」も開催される。その中では弟が撮った震災前の若林区の写真も展示されるとのことである。

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2011年07月21日

私的東北論その27〜自転車活用のススメ

110424-132041 前回前々回と自転車のメリットについてつらつら書いたが、自転車とて万能ではない。ちょっと考えてみただけで、いろいろなリスクを思いつく。例えば、パンク雨・雪などの悪天候夜間交通事故盗難などである。これらへの対策についても考えてみたい。

 まず、パンクについては、ほぼ解決できると思う。パンクの大部分は前回紹介したように空気圧の低下したタイヤで段差などを越えた時に起こる。だから、定期的に空気圧をチェックし、適正空気圧を維持していれば、パンクのリスクは相当程度解決できる。

 とは言え、道路に落ちている鋭利なものを踏んでしまったことによるパンクもある。自転車の走る道路の端にはなぜかガラスの破片やら釘やら金属片やらがよく落ちている。運悪くそれを踏んでしまうと空気圧が適正でもやはりパンクしてしまうことはある。それを解決するにはパンクに強いタイヤを使用することが有効だと思う。技術革新が進んで、一頃とは比べ物にならないくらい、耐パンク性能で優れたタイヤが出てきている。

 自転車乗りの間でパンクに対して「最強」と絶大な信頼を得ているのは、シュワルベマラソンというタイヤである。このタイヤ、耐パンク性能は驚異的だそうである。1分1秒を争うレースならともかく普段の使用であれば、パンクをすればするほど時間をロスしているわけであるから、パンクしにくいタイヤを使った方が長い目で見ればトータルの移動時間は少なくて済む。世界一周をしている人も愛用しているようである(参照サイト)。

 ただ、このシュワルベのマラソン、普段使うにはあまりにも重い、と私は感じる。700×25Cというロードバイクにつけるサイズのタイヤで何と500gもある。ちなみに、レース用の高級タイヤの代表例と言えるミシュランのPRO3 Raceの同じサイズの重さは215gである。通常、車輪外周部の軽量化は、わずか50gの減少でも車体全体で1kg軽量化させたのと体感的には同等とも言われるので、それを考えると500gのタイヤは重さも「最強」である(笑)。なので、私はパナレーサーリブモPTを愛用している(参照PDF)。これなら同じサイズの重さは330gである。パンクのリスクを考えた場合、これくらいならガマンできる。このタイヤも同社の従来品と比較すると、貫通パンクのしにくさは100倍になっているそうである。実際、私は震災後、道路の至る所に瓦礫が散乱していた仙台市若林区荒浜地区にこのタイヤを履いた自転車で何度も出掛けたが、一度たりともパンクすることはなかった。他に、最近ミシュランから出たパンクの自己修復機能を持ったチューブもある(参照サイト)。まだ適用サイズが多くないが、要注目である。

 雨や雪については、確固たる解決策は私はまだ持っていない。と言うか、雨や雪の日は自転車に乗らないのが最良である(笑)。私は、雨の日は自転車に乗らずに公共交通機関を使うようにしているが、もし帰りに雨が降ったらレインウェアを着て、低速で走るようにしている。タイヤのグリップ力が格段に落ちるからである、という理由の他に、私の自転車には泥除けがついていないので、自分や周囲に泥ハネが飛ぶのを避けるという理由もある。経験から言えば、濡れた路面なら時速15km/h以下、水たまりなどは時速10km以下まで速度を落とすと泥ハネはほとんど飛ばない。

 このレインウェアであるが、ゴアテックスでできたものが雨を通さず汗は発散させて快適らしいが、高いしかさばるので、私はポンチョを使用している。ポンチョはバックパックごとかぶれるし、蒸れないので重宝しているが、体に密着せず風になびくので高速走行には向かない(前述のとおり雨の日はゆっくりしか走らないので支障はない)。レインコートやポンチョを着るのが煩わしいという人は、屋根付き自転車という手もある(笑)(参照サイト)。

 雪の日は雨の日以上に危険なので乗らない。どうしてもということであれば、自転車用のタイヤチェーンやスパイクタイヤもあるようであるが(参照サイト)、使ってみたことはないので、実際にどの程度有効なのかは分からない。雨、雪、いずれの場合も、とにかく傘さし運転はもっての外である。

 夜間については、自動車から身を守るためにも、とにかく目立つことが大事である。その意味では、無灯火の自転車に乗るのは、私から見ると間違いなく自殺行為である。ダイナモで走りが重くなるのが嫌でライトをつけないで走っている人もいるようだが、それならばハブダイナモを内蔵したホイールを使うという手がある(参照サイト)。こういうのも1万円の自転車にはもちろんついていない。乾電池式のライトを使う手だってある。電池代が掛かるのがイヤだというのなら、エネループなどの充電池を使うのが経済的である。乾電池式のフロントライトには点滅が可能なものもあり、恐らく電池の消耗を避けるためなのであろう、点滅状態で走っている自転車も見掛けるが、自動車に対して存在を知らせるという意味はあっても、路面を照らすという点ではまったく意味をなさないので、必ず点灯とすべきである。

 前照灯に関しては、各都道府県の公安委員会が定めることになっているが、例えば東京都では「白色又は淡黄色で、夜間、前方10メートルの距離にある交通上の障害物を確認することができる光度を有する前照灯」となっており、他の県も概ね同様のようであるので、この基準を満たすフロントライトが必要である。

 フロントライトはもちろんであるが、できればリアライトも装備しておきたい。リアライトについては、「赤色(他の道府県は橙色又は赤色)で、夜間、後方100メートルの距離から点灯を確認することができる光度を有する尾灯」となっているが、「夜間、後方100mの距離から、基準に適合する前照灯で照射したとき、その照射光を照射位置から容易に確認でき」て、「反射光の色は、橙色又は赤色である」ような反射器材を備え付けていればリアライトはなくてもよいとされている。ただ、やはりリアライトもつけておくに越したことはないと思う。ライトが当たって初めて光る反射板と、ライトが当たらなくても光っているリアライト、どちらが安全かは言うまでもないことである。

 これも凝り出すと深みにハマるパーツなのだが(笑)、私は、前照灯はステムにつけられ(つけられるのはたいていハンドルバーでステムにつけられるライトは現状ほとんどない)、かつものすごく明るいSupernovaというドイツのメーカーのAirstreamという、充電式のいわゆるバッテリーライト(乾電池式と違って大電流が得やすく明るいが高価である)、リアライトはWiiリモコンと同じ加速度センサーを内蔵し、自転車の動きを感知してブレーキング時にもライトが点灯するSungoという台湾のメーカーのMaxxon MX-050というリアライトを使用している。

 交通事故については、私は自動車の動向を把握しやすいようにバックミラーを付けている。もちろん、バックミラーだけに頼るのではなく、絶えず周囲の状況に目を配ることが必要である。それからいつも荷物がいっぱいのバックパックを背負っているが、それがいざという時には背中の保護にも少しは役立つかもしれない(笑)。頭部にはもちろんヘルメットである。高校の頃から、日本人の頭の形に合わせて作っているという、OGKのヘルメットをかぶっている。基準(JCF(財)日本自転車競技連盟公認など)をクリアしているとは言え、通気性や軽量さを重視した、周りに自転車しか走っていない自転車レース用のヘルメットが、公道での事故発生時にどれくらい役に立つのか疑問が残るが、ないよりはいいに違いないということで必ず着用している(が、ヘルメットの着用については賛否両論があるようである)。

 ヘルメットの安全基準ということについて言えば、世界で最も厳しいスネル規格を満たしたヘルメットであればより安心かもしれない。スネル規格の認証を得たヘルメットはスネル財団サイト(英語)で検索できる。規格は何年かに一度改訂され、改訂されるたびに基準が厳しくなっているが、自転車用ヘルメットの最新の基準はB95A、B95Cである(B95Cは子供用)。国産では私がかぶっているOGKのものも含め、フルフェイスタイプのものを除いてほとんどスネル規格をクリアしたヘルメットはないが、海外のものではクリアしているものがいくつもある。日本で手に入りやすいものという点で考えてみると、例えばスペシャライズドS-Worksなどがそうである(ただし、B95Aの前の基準のB90Aの認証である)。

 また、自転車の場合、対自動車で被害者になるというケースの他に、歩行者などを相手に加害者側になってしまう可能性もある。歩道を我が物顔で走るのは論外(自転車は原則車道左端走行である)であるが、交通規則を守っていたとしても、いつ何時事故に遭遇するかは分からない。そのリスクを考えて、自動車同様保険加入も考えた方がよいと思う。私は日本サイクリング協会(JCA)の賛助会員になると自動的についてくる「JCA自転車総合保険」に加入している。

 盗難については堅牢な鍵の使用が必須である。毎日の通勤・通学に耐えうる快適さと丈夫さを持った自転車を買おうと思ったら5万円台以上の自転車がおススメだと前回書いたが、その自転車が盗難に遭ったとすれば経済的・精神的ダメージは大きい。自転車の価格が高くなればなるほど、鍵にもお金をかけるべきである。例えば、信頼性で言うなら、多関節ロック参照サイト)やU字ロック太さが15mm以上のワイヤーロックなどを複数組み合わせるのが理想である。耐切断性が高くなるほど重くなり価格も高くなるので、どの辺で折り合いをつけるかは乗っている自転車や財布と相談である(笑)。

 駐輪するときには、何かに括り付けるようにすること(「地球ロック」と言うらしい)も重要である。そうでないと、鍵のついたまま車などに積んで運び去られてしまうかもしれない。それと、前輪と本体を結びつけておくことも必要である。でないと前輪だけ盗まれる、あるいは鉄柱などにくくりつけた前輪だけ残して本体が盗まれることがありうる。それから、駐輪中は、自転車についているスピードメーターやライトやバッグなどはできるだけ外すのも大事である。サドルは高さ調節がしやすいようにクイックリリース式になっていることが多いが、これだとサドルだけ盗まれて「立ち漕ぎ専用自転車」となってしまうこともある。一流選手ともなるとサドルの高さの数mmの違いでパフォーマンスが変わるということだが、私を含めて普段そう頻繁にサドルの高さは変えないはずなので、サドルはネジ式の方がよいと思う。

 昨今、自転車に乗る人が増えてきたのは喜ばしいことなのであるが、交通マナーが行き届いてない場面にもよく遭遇する。自転車に乗るなら絶対にやめてほしいと思うのは、  
 1.右側通行
 2.夜間無灯火
 3.雨天時の傘差し運転
 4.携帯電話を操作しながらの走行
 5.歩道の通行
 6.並列走行

などである。これらが複数組み合わさっているケースもある。夜間、無灯火で道路の右側を走っている自転車などは命知らずの極みである。雨天時に傘を差しながら歩道を激走する自転車も危ないことこの上ない。もし歩道沿いの店や家などから歩行者が突然出てきたり、前方を歩いている歩行者が急に方向転換したりしたらどう対処するのだろうか(繰り返すが自転車は車道走行が原則である)。イヤホンで音楽を聞きながらの走行も賛成しない。自転車走行時に耳から入ってくる情報をあえてスポイルしてまで音楽を聞く必要はない、と個人的には思っている。

 要は、自転車の可能性がよく理解されていないということと表裏一体だと思うのだが、自転車がともすれば凶器ともなりうるということが、街中を自転車で走っている人の間でまだ十分認識されていないということなのだろう。自転車も車両の一つであり(「軽車両」という区分である)、乗るには交通法規を遵守することが求められるということを肝に銘じておく必要がありそうである。そうでないと、ゆくゆく自転車に乗るにも免許や講習が必要となったりするかもしれない。人力を最も効率よく活用できる自転車が、人にとって最も身近な乗り物であり続けるために、乗る人の姿勢が問われていると思う。

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2011年07月01日

私的東北論その26〜時を超えて生き続ける清衡の思い

spotphoto_konjikido_01 平泉の「仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群」が、6/25にユネスコ世界遺産委員会の審議の結果、「世界遺産一覧表」に記載されることが決定した。日本の世界遺産暫定一覧表に記載されてからちょうど10年、日本が推薦書を提出した遺産の中で初めて「記載延期」の勧告を受けてから3年(その時書いたブログ)、ようやく関係者の念願が叶ったわけである。

 前回、「平泉―浄土思想を基調とする文化的景観」として提出された推薦書は、「記載延期」の勧告を受けて「平泉―仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群」として再提出された。その過程で以前紹介したように勧告に沿って構成資産を平泉町内にある6つのみに絞り込んだ。世界遺産委員会の審議ではその中の奥州藤原氏の居館跡である柳之御所遺跡も除外した上で「記載」と決定された。前回の「浄土思想を基調とする文化的景観」という名称は何度読み返しても意味がよく分からなかったが、それに比べると今回の「仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群」は言わんとしていることが明確でよい名称だと思う。

 平泉の世界遺産一覧表への記載というニュースを受けて、「震災からの復興に向けて大きな励みになる」といった声や、震災後減少している観光客の増加に対する期待の声も上がっている。ここでは、平泉の遺跡群がそもそも何だったのかについて、改めて考えてみたい。

 以前も紹介した中尊寺建立供養願文」。これは奥州藤原氏初代の藤原清衡の名で書かれているものである。実際には、当代きっての文章家として知られた藤原敦光の手になるものだが、その内容にはもちろん清衡の意向が隅々にまで反映されているとされている。私にとって特に印象的な一節は「二階の鐘樓一宇」について書かれた部分である。ここには「廿釣の洪鐘一口を懸く」とある。大きな鐘を懸けたわけである。その鐘について、

一音の覃(およ)ぶ所千界を限らず。苦しみを抜きて、樂を興へ、普く皆平等なり。官軍と夷虜(いりょ)の死事、古来幾多なり。毛羽鱗介の屠(と)を受くるもの、過現無量なり。精魂は、皆他方の界に去り、朽骨は猶此土(しど)の塵となる。鐘聲の地を動かす毎に、冤霊(えんれい)をして、浄刹(じょうさつ)に導かしめん。

と書かれている。

 「この鐘の音は、どこまでも響いていって、苦しみを抜いて楽を与える」、そしてそれは「あまねく皆平等である」、とある。「官軍の兵と蝦夷の兵が戦で命を落としたことは昔から幾多もあった。獣や鳥や魚や貝といった生き物が人間に殺されてきたことも過去から現在に至るまで数え切れない。それらの魂はあの世に去ってしまったが、その骨は朽ち、今もこの世の塵となっている。この鐘が響く度に、心ならずも命を奪われてしまった者たちの霊を浄土に導かせよう」、そのようなことが書いてある。死んだ者たちの敵味方は問わない。それだけではない。人間かそうでないかも問わない。とにかく、自分の生を全うできなかったあらゆる生き物の霊を、皆平等に浄土に導きたい、そのような思いが綴られている。

 供養願文の最後も、法皇や天皇を讃えた上で、次のような文章で締め括られている。

弟子の生涯、久しく恩徳の海に浴し、身後必ず安養の郷(くに)に詣(いた)らん。乃至鐵圍(てっち)砂界、胎卵濕化(たいらんしつけ)、善根の覃ぶ所、勝利無量ならん。

 弟子(ていし)というのは、清衡自身のことであるが、清衡自身は法皇や天皇のお陰で死後必ず浄土に至るだろうとまず書いている。それだけではない。自分だけではなく、世界中のすべての生き物にもそうした善根が及ぶ、それは量り切れないくらいだと書いている。つまり、自分だけ極楽往生するのではなく、ありとあらゆる生き物もそれは一緒だと言っているのである。朝廷の御願寺という位置づけの中尊寺の落慶供養願文で天皇や法皇への感謝を述べるのは普通のことだろうが、こうした目上の人だけでなく、清衡の周りにいる、朝廷からはおよそ人間扱いすらされてこなかったような蝦夷、そして人間だけでなくすべての生き物、そうした者への眼差しを持っていた清衡という人間の大きさを感じずにはいられない。

 しかもである。清衡のこの、全ての生き物を極楽浄土に、という思いは、決して絵空事に終わったのではない。清衡はまず東北の入り口である白河の関から東北の最北端である外ヶ浜に至る道(奥大道)の真ん中に中尊寺を置いた。そこには、浄土の象徴とも言うべき金色堂が輝き、中尊寺を中間点として東北を貫くその道の約100mおきには金で描かれた阿弥陀如来の笠卒塔婆が配置されていたという。また、清衡の勢力下にあった陸奥出羽両国には、一万余もの村があったが、清衡はその一つひとつの村に寺を建てたとの記述が、吾妻鏡にある。「中尊寺落慶供養願文」で高らかに宣言した、この東北を浄土とするための具体的なアクションを清衡は実際に起こしていたということである。しかもそれは、死んだ後の浄土というだけではなく今生きているこの地を浄土とする(此土浄土)という壮大な取り組みであったということに留意すべきである。

 今回の世界遺産一覧表への記載で、平泉を訪れる観光客は確かに地元の期待通り増えるだろう。しかし、中尊寺金色堂や毛越寺浄土庭園を見ただけでは、こうした清衡の東北全体を浄土とするというスケールの大きな取り組みの全貌は見えてこない。その象徴としての、その極々一部分としての、構成遺産なのである。以前も書いたが、何度でも強調したいと思う。そこの部分こそを一生懸命理解していただく努力をしなければ、訪れる人の平泉への理解は極めて一面的なものとなり、金色堂を見て「なんだこんなものか」とがっかりし、「二度は見なくてもよい」という感想を残して去っていってしまう、そのような結果にならないとも限らない。

 冒頭で触れた「仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群」という名称がよいと書いたのもそういうことである。清衡が目指した、この地域すべてを浄土としようとしたその取り組みのうち、現在まで建築・庭園あるいは遺跡として残っているものが、今回世界遺産となった、それが直接的に伝わるよい名称だと思う。平泉を訪れる人にはどうか、そのような視野で以て金色堂の輝き、浄土庭園の優美を鑑賞していただきたいものと切に願う。

 そうそう、藤原清衡のすごさについては、ここで私が何万言費やすよりもはるかに説得力を持って先達の方々が極めて的確にご指摘されている。中でも、「みちのく中央総合博物館市民会議」のサイトにある、「中尊寺落慶供養願文」についての佐々木邦世氏と高橋富雄氏の講演録はオススメである。

 藤原清衡の前半生は悲劇としかいいようのないものだった。前九年の役では父親である藤原経清を殺され、母親は父親を殺した相手である清原氏に嫁がされた。そのお陰で清衡自身も命は助けられるが、その後起こった後三年の役では母親が生んだ異父弟の家衡に妻子を殺され、その家衡を自らの手で討たざるを得なかった。そうした修羅場をくぐり抜けての後半生である。決して順風満帆に育った金持ちのボンボンが自らの権勢を誇るために思いつきで作ったというようなものではない。自らもこれ以上ない悲劇を体験した戦乱。その戦乱で多くの人が亡くなった東北の地をそのまま浄土とする、それが清衡の宿願だったわけである。

 その清衡の思いは、未曽有の大震災でやはり多くの人が亡くなった今の東北にも通じている。今、このタイミングで平泉が世界遺産となったのも決して偶然ではないように思う。今も金色堂にいる清衡からのメッセージが、力強く発せられているように思えてならないのである。清衡の思いは800年の時を超え、今も生きている、そう思えるのである。

 ― 我々が住んでいるこの地こそが浄土である ―

 このような時だからこそ、その清衡の思いに東北に住む我々も再度思いを馳せたいと思うのである(写真は中尊寺のサイトより)。


追記(2011.9.16):「中尊寺建立供養願文」は「中尊寺落慶供養願文」とも称されるが、ここでは中尊寺の表記の方を尊重して「中尊寺建立供養願文」としている。

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