河田次郎  

2006年08月26日

東北の歴史のミステリーその10〜泰衡は本当に凡愚の将だったのか

84a1f701.jpg 泰衡は最期の地となった比内(現在の秋田県大館市比内町)でいったい何をしていたのか。

 吾妻鏡によると、泰衡が平泉の自分の館に火を放ってさらに北に逃れたのが文治5年8月21日、河田次郎の裏切りに遭って命を落としたのが9月3日である。

 奥州は南端の白河関(福島県白河市)から北端の外ヶ浜(青森県青森市)まで、奥州藤原氏初代清衡が「奥大道(おくだいどう)」と呼ばれる街道を整備した。全行程20日余だという。平泉は白河と外ヶ浜のちょうど中間に位置しているので、平泉から外ヶ浜までは10日余である。

 泰衡が逃亡に逃亡を重ね、果ては夷狄嶋(北海道)を目指して北上したのだとすれば、普通の行程でも8月21日に平泉を立てば、8月末までには外ヶ浜までたどり着けたはずである。吾妻鏡に記されている通り、慌てふためいて一目散に逃げ出したのだとすれば、もっと早く外ヶ浜に着いて、「念願」の夷狄嶋への逃亡が可能だったに違いない。

 にも関わらず、河田次郎に殺害された9月3日の段階で泰衡が秋田県北部の比内(秋田県大館市比内)に留まっていたのはなぜなのか。さらに吾妻鏡には、夷狄嶋を目指して糠部郡に赴いたともある。糠部郡とは現在の青森県東南部から岩手県北部にかけての地域であり、秋田県北部の比内はそこに含まれない。

 さらに言えば、夷狄嶋を目指してということであれば、その順当な「逃走ルート」は奥大道であったろうから、そこから外れる糠部郡に向かうのには、何か理由があったのではないかとも考えられる。あるいは、奥大道に沿って北上したのではなく、糠部郡を経由して宇曽利郷(現在の下北半島)から夷狄嶋に渡ろうとしたのかもしれない。しかし、そうすると、なぜ糠部郡へ向かう道にない比内にいたのかやはり不明である。要するに、平泉を離れた後の泰衡の足取りには謎が多いように思えるのである。

 この間、泰衡は頼朝に命乞いの手紙を出したと吾妻鏡には記されている。その手紙には、返事は比内の辺りに落としてほしいと書いてあった。泰衡は頼朝からの返事を待つために比内に留まったのだろうか。しかし、吾妻鏡には夷狄嶋目指して逃亡していたとある。逃亡するなら、頼朝に命乞いの手紙を出す必要も、返事を待つ必要もないように思えるのだが…。この辺り、吾妻鏡の編者はどう考えていたのだろうか。

 以前、このブログを読んでくれた璃奈氏に兜神社鎧神社のことをコメントで指摘していただいた。指摘していただくまでその存在をすっかり忘れていたのだが、確かに、兜神社にはその名の通り泰衡の兜が、鎧神社には泰衡の鎧がご神体として祭られているという。

 問題なのは、これらの神社のある場所である。これらの神社はいずれも秋田県北西部の能代市の旧二ツ井町にある。最期の地比内からさらに西に約60kmの場所である。泰衡がここまで来ていたのだとすると、「夷狄嶋目指して北上した」という吾妻鏡の記述と矛盾するし、いったんここまで来ながらなぜ比内まで戻ったのかも不明である。

 兜神社にはその由来を記したものがなかったが、鎧神社には「泰衡が源義経をかくまったとして頼朝軍に攻められ平泉を逃れるが、この地に達したとき疲労甚だしく、鎧を薄井に置いて逃げたという。泰衡は郎党、河田次郎によって殺害されるが、村人はこれを憐みこの社に祀ったとされる」とある。さらっと「この地に達したとき」とあるが、この地に達した泰衡がなぜ比内に舞い戻ったのかについては記されていない。

 泰衡は逃げたのではなく、戦略的に北上したのだとする見方もある。海保嶺夫氏は「エゾの歴史−北の人びとと『日本』」(講談社学術文庫、アマゾン該当ページ)の中で、「平泉藤原氏はより北方に拠点(良港)を築いていた可能性がある」と指摘している。氏は泰衡の北走について、「四代泰衡が源頼朝の北征軍とろくな戦いもせず『夷狄島』へ逃げようとした(『吾妻鏡』)のは、たんなる逃走ではなく、彼なりの計算があったように思われてならない」と述べている。氏によれば、平和が100年も続いて実践の経験が皆無の奥州武士と、源平合戦などで実戦経験を十分に持っている関東武士との陸上戦の結果は見えているが、拠点を北方に移して日本海の荒波を乗り切った水軍を指揮して、海戦に持ち込めば勝機はあると泰衡は考えたのではないか、というのである。

 もちろん、氏自ら「文字通りの推測である」と述べており、泰衡がそのように考えて北に逃れたのだと判断できる材料は残っていない。津軽には安東水軍などの伝承はあるものの、奥州藤原氏が水軍を持っていたという確たる証拠も今のところない。しかし、吾妻鏡に記述されている材料を拾ってみても先に紹介したように、泰衡の行動には不可解さが残る。何か考えるところがあっての行動だったと解釈してもそう無理な推測ではないように思える。もちろん、それが何だったかは今となっては歴史の狭間に埋もれてしまってわからないままなのであるが(写真は泰衡最期の地なのではないかと私が考えている秋田県大館市の二井田八幡神社)。

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2006年06月16日

東北の歴史のミステリーその7〜泰衡は本当に凡愚の将だったのか

08134ec7.jpg 奥州藤原氏四代泰衡は、源頼朝に追われ、蝦夷地に逃れようとして、贄の柵(にえのさく、現在の大館市二井田付近)の河田次郎を頼って立ち寄ったところを、河田次郎の裏切りにあって殺されてしまう。ここに奥州藤原氏は滅亡したわけである。文治5年(1189年)9月3日のことである。

 泰衡の首は河田次郎が頼朝の元に持参するが、頼朝は「譜第の恩を忘れ主人の首を梟」したことを責め、河田次郎を斬罪に処した。その後、首のない泰衡の死体は、里人が錦の直垂に大事に包んで埋葬したという。その墓が「にしき様」と呼ばれ、錦神社となり(写真参照)、今に至っている。泰衡の死から800年以上経った今も、泰衡の命日である旧暦9月3日には、お祭りが催されているという。

 ところで、河田次郎がどのように泰衡を殺害したかについては、吾妻鏡には詳しくは記されていないが、地元ではその経緯を詳しく語り伝えている。それによると、河田次郎は泰衡をかくまって罪になるより、泰衡を討って頼朝から恩賞を得ようと考え、主人殺しの罪にならずに泰衡を討つ計画を練った。そして旧暦9月3日の夜、河田次郎は多くの家来を使って、頼朝の大軍が贄の柵に攻め入ったように見せかけ、泰衡が観念して切腹するように仕向けた。この計画は成功して、河田次郎は泰衡の首をはねたのだという。

 江戸時代の紀行家菅江真澄は享和3年(1803年)にこの地を訪れ、錦神社にまつわる村人の心やさしいはからいと、泰衡の命日にちなむ行事を「贄能辞賀楽美(にえのしがらみ)」という紀行文に書き残し、泰衡が頼みにしていた旧臣に裏切られ、露のように命を散らせたことを偲んで、「たのみつる その木のもとも 吹風の あらきにつゆの 身やけたれけむ」という歌を詠んでいる。

 ちなみに、泰衡最期の地である贄の柵があった場所は正確には特定されていないそうであるが、大館市二井田の中心部に程近い、それも贄ノ里という地名の所には八幡神社がある。そして、この八幡神社には泰衡も合祀されているのだという。現地を訪れたが、残念ながら神社の由来などが書かれたものがなく、詳細は不明だった。

 ただ、周囲よりも若干高台にあり、近くには犀川という川が流れており、柵として適した場所であるように思えた。この八幡神社の辺りがかつて贄の柵のあった場所かもしれない。泰衡がここに祀られているのもそうした理由であれば合点がいく。さらに想像を膨らませれば、八幡神社は源氏の守り神である。かつて贄の柵だった泰衡最期の地に八幡神社を建立し、泰衡を祀ったのは実は頼朝その人だったのではないかという気もする。

img113 一方、錦神社から南西に直線距離にして約3kmほど離れた大館市比内町八木橋字五輪台には西木戸神社という神社がある。この神社は、泰衡の妻北の方を祭神とする神社である。

 北の方は、平泉を逃れて贄の柵を目指す泰衡の後を追うが、この地にたどり着いた時、泰衡が既に4日前に河田次郎の変心によって討たれたと聞かされた。絶望した北の方は、従者由兵衛に後事を託して自害した。里人がその心根を憐れんで祠を建立し、五輪の塔を納めて北の方の霊を慰めたのが、この神社の始まりなのだという。現在残る五輪台の地名もそこに由来するが、以来800年以上の長きにわたって里人の寄進が続けられているという。

 この西木戸神社は、泰衡の死体が埋められた錦神社の方を向いているのだそうである。夫泰衡に再会することなくこの世を去った北の方の思いを少しでも叶えてあげたいというこの地の人々のやさしい心を感じさせる事実である。

 なお、この西木戸神社の名前の由来ははっきりとはしていないが、この神社のある一帯が泰衡の異母兄西木戸太郎国衡の采邑地だったから、と地元では伝えられている。

 これら2つの神社の存在を見ても、もちろん「怨霊を恐れた」ということもあったのかもしれないが、泰衡という人がその時代の庶民に慕われた存在だったことが窺えるようにも思える。志半ばにして斃れた君主とそれを手厚く葬り、その跡を800年以上もの間大切に守ってきたその地の人々。やっぱりどうも、凡愚のイメージとは結びつかない気がするのである。

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2006年05月19日

東北の歴史のミステリーその5〜泰衡は死んでいなかった?

ae68235d.jpg 泰衡不死説を主張しているのは、楠木誠一郎氏である。氏は、著書「歴史おもしろ推理 謎の迷宮入り事件を解け」(二見文庫、写真参照アマゾン該当ページ )で、この泰衡の首級について「<藤原泰衡謀殺事件の謎>金色堂に眠るミイラが物語る驚愕の策謀」として真っ先に取り上げている。

 その中で、楠木氏は先に紹介した御遺体調査の結果分かった藤原三代の頭骨と泰衡のものとされた首級の顔高(眼孔の中心から顎の先までの長さ)を比較した。その結果、三代の頭骨が初代清衡(118mm)、二代基衡(129mm)、三代秀衡(137mm)と少しずつ長くなっているのに対して、泰衡の首級は突然初代清衡のものよりもさらに短くなっている(116mm)という事実を論拠に、これは泰衡ではない別の誰かの首級であると主張しているのである。

 また、楠木氏は、この首級が泰衡のものと判断された当時の状況にも目を向ける。吾妻鏡にあるが、河田次郎が泰衡の首を持参した際、鎌倉方では捕虜となっていた平泉方の赤田次郎に首実検させた。泰衡の顔を見知った者が鎌倉方にいなかったからということだが、楠木氏はこの場で河田次郎と赤田次郎が目配せして、身代わりの首を泰衡のものとした可能性が強いと指摘している。

 この楠木氏の推理だが、疑問点がいくつかある。まず、首実検は確かに吾妻鏡にある通り平泉方の赤田次郎だけで行ったのだろうが、その後この首級は釘打にしてさらされているのである。もしそのさらされた首級が泰衡のものでなかったなら、その際に「恐れながら…」と鎌倉方に訴え出る者がいなかったのだろうか、という疑問がある。平泉側のすべての人間が泰衡のものでないと知っていて、それでも全員が知らないふりをしていたということはちょっと考えにくい。

 また、泰衡のものとされる首級が三代の首よりも小さいからと言って、即別の人間の首だと断ずるのも乱暴な気がする。そもそも、初代清衡から三代秀衡までだんだん長くなっているのは事実としても、それがその後もずっと続くとも思えない。そうでなければ、我々の頭は昔の人に比べてかなり大きいということになってしまう。

 では、顔高だけではなく、頭骨の形そのものから判別はできないのだろうか。親子であれば当然骨格は似るはずである。果たして、頭骨の形から親子関係は分かるのだろうか。そこで、親子鑑定なども手掛けている法医学の先生に聞いてみたが、残念ながら形だけで親子かどうかを判別するのはまず無理とのことであった。

 状況的にも、泰衡が実は生きていたということを示すものは何もない。義経に関しては生存伝説が東北のあちこちに残っている。もちろん、だからと言って義経が生きていたと断定することはできないのであるが、泰衡に関してはそのような「実は生きていた」とする伝承が一つもない。それどころか、泰衡最期の地、贄の柵(秋田県大館市二井田付近と言われる)の近くには、首のない泰衡の死体を埋葬した錦神社という神社がある。里人が錦の直垂に大事に包んで埋葬したことがその名の由来とのことだが、この故事を見てもやはり泰衡はこの地で死んだと考えるのが自然な気がする。

 もっとも、以前紹介した金色堂はなぜ建てられたか―金色堂に眠る首級の謎を解く」にあるように、金色堂に納められている泰衡の首級が実は泰衡のものでないのだとするとその首級の行方が気になるところではあるのだが。

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2006年04月07日

東北の歴史のミステリーその4〜「泰衡の首」は泰衡の首じゃない?

e8195066.jpg では果たして、金色堂に納められている首級は経清のものなのだろうか。これについては、私はまだ高井氏に全面的に賛成ではない。経清の首と考えると生じる疑問がいくつかあるからである。

 まず、経清の首が釘付けにされたという記述はないということである。吾妻鏡には、前九年の役の安倍貞任の例にならって泰衡の首を釘打ちしたとはあるが、前九年の役の折に経清の首も貞任と同様に釘打ちされたとは書いていない。ただ、これについては、経清も貞任と同じ先の戦の首謀者であるから同様に釘打ちされたと見てもよいかもしれない。

 次に、なぜ、この首級が三代秀衡の遺体の脇に納められていたのかということである。これが経清の首で、金色堂が経清のためのものであったとするならば、三代秀衡の遺体の脇に安置されているという状況には違和感がある。独立して安置されるか、少なくとも初代清衡同様中央に納められるべきではないだろうか。

 そして、これが最大の疑問なのだが、もしこれが経清の首ならば、泰衡の首はどこへ行ったのかということである。さらされた後、粗末にされた(捨てられたなど)ことは考えにくい。なぜなら、この文治五年奥州合戦は、吾妻鏡も「義顕(義経)といい泰衡といい、させる朝敵に非ず。ただ私の宿意を以て誅亡する」(宝治二年(1248年)二月五日条)と認めているように、実は頼朝の「私怨」から行われた戦である。そのような場合、敗者は怨霊となって祟るというのが、日本における「怨霊信仰」である。頼朝は当然泰衡の首を丁重に葬ったはずである。その安置先としてはやはり金色堂よりふさわしい場所はないと思われるが、もしこの首を経清のものとした場合、泰衡の首はどこに行ってしまったのかが新たな疑問として浮上するのである。

 ただ、経清の首とする高井氏の説に有利と思われる状況もある。それは他でもない、「泰衡の首級」の状況そのものが物語っている。昭和25年の御遺体学術調査の報告書に書かれているのだが、泰衡の首には7回斬り付けられた跡があるという。また顔の表面には無数の刀傷もあるという。7回斬り付けられたというのは、鈍刀で首を切られた経清の状況に符合する気もする。

 泰衡は、実は奥州藤原氏が頼朝に滅ぼされた文治五年奥州合戦では、一度も頼朝軍と戦っていない。その泰衡になぜ無数の刀傷があるのか。泰衡が比内(現在の秋田県大館市比内)を治めていた郎従の河田次郎の裏切りにあって殺されたときにつけられたのか。しかし、吾妻鏡によれば泰衡が河田次郎を頼って贄の柵に身を寄せた時、泰衡に従う兵は数千いたという。その中で河田次郎が泰衡の首を取るのは正面からの戦ではまず無理で、ちょうど源頼朝の父、義朝が平治の乱で敗れて尾張の長田忠致の元に身を寄せた時、入浴中に襲撃されて最期を遂げたように、だまし討ちにするしかなかったはずである。そうすると激しい合戦の後を物語るような刀傷はいかにも不自然ではある。

 殺された後頼朝らによってつけられたという見方もあるかもしれないが、傷には前後関係、すなわち時間の経過があるという。つまり治りかけのものから討たれる直前のものまであるという。このように見ると、これはむしろ、12年に及んだ長い戦のその最後の乱戦の中生け捕りになった経清のものとする高井氏の見方にもそれ相応の説得力がある。

 結局のところ、真相は4体の遺体のDNA鑑定でもしない限りは明らかにならないのかもしれない。そもそも、もともとこの首級は、寺伝では泰衡に殺された忠衡のものだとされていたのである。ならば忠衡の首はどこへ行ったのかという疑問もあり、義経生存説を唱える人は、これこそ義経が生きていた傍証で、義経は殺されたと見せかけて姿を消した忠衡の案内で北に逃れたのだと言うのである。

 英雄不死伝説は多いが、その最たるものが「義経北行伝説」であると言える。が、それほど英雄視されていなかった泰衡にも実は不死説がある。次回はそれを見てみたい(写真は金色堂を風雨から守っている覆堂)。

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