浄土  

2012年07月26日

私的東北論その35〜平泉を草創した藤原清衡の願いとは(「東北復興」紙への寄稿原稿)

イメージ 2 7月16日に砂越豊さんの作る電子タブロイド紙「東北復興」の第2号が発刊された。今回の号では砂越さんの石巻復興に関する渾身の取材記事が読める。げんさんの論考も大変参考になる。ぜひご一読をオススメしたい。

 その第2号に寄せた私の拙文が以下である。






 


平泉を草創した藤原清衡の願いとは

世界遺産となった平泉の意味するところとは
 前回、「東北独立」を掲げて東北が一つとなること、東北がひとつになった暁には平泉こそがその中心地にふさわしい、ということを書いた。今回はこの平泉について考えてみたい。

 昨年、平泉にある中尊寺、毛越寺、観自在王院跡、無量光院跡、金鶏山の六つの史跡が世界文化遺産に登録されたことは記憶に新しい。東北では、縄文時代からのブナの森がそのまま残る白神山地が世界自然遺産に登録されているが、世界文化遺産への登録は平泉が初めてである。この「世界遺産効果」で平泉を訪れる観光客の数は大幅に増加しているそうである。

 平泉の文化遺産、登録名は「平泉―仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群」というものである。中尊寺を建立した奥州藤原氏初代の清衡は中尊寺を建立し、二代基衡は毛越寺を建立し、三代秀衡は毛越寺を完成させ、無量光院を建立した。中尊寺の金色堂、毛越寺の浄土庭園、無量光院越しに金鶏山山頂に沈む夕陽、いずれも浄土を表している。

 奥州藤原氏が三代揃って浄土を表す寺院を建立した、その意味するところは何だったのか。そうした寺院を建立することで自身の来世の極楽往生を願ったのだろうか。それとも、浄土はこういうものだということを示す「テーマパーク」のようなものを作りたかったのだろうか。

 世界文化遺産に登録された平泉の六つの構成遺産については、「現世における仏国土(浄土)の空間的な表現を目的として創造された独特の事例である」と説明されている。簡潔かつ的確な表現である。しかし、今に残る構成遺産は、ただ単に「浄土とはこのようなものである」ということを表現しようとしたのにとどまったのではない。奥州藤原氏は初代の清衡以降、この東北の地をそのまま浄土としたいと考えた。その祈りが込められたものこそが、今回世界遺産に登録された建築・庭園・遺跡なのである。

「中尊寺建立供養願文」が語ること
 当時の平泉は「平和」と「平等」の理念を持っており、それは世界各地で戦乱の絶えない現代にも誇れるものだった、と地元では胸を張る。なぜそのようなことが言えるのか。その根拠は今に残された「中尊寺建立供養願文」である。その中では、清衡がなぜ中尊寺を建立しようとしたか、その思いが余すところなく語られている。

 特に印象的なのは「二階の鐘楼一宇」について書かれたくだりである。この鐘楼には大きな鐘が懸けられた。その鐘について供養願文では、「この鐘の音はどこまでも響いていって苦しみを抜いて安楽を与える。それはあまねく皆平等である。官軍の兵と蝦夷の兵が戦で命を落としたことは、昔から今に至るまで幾多のことであった。獣や鳥や魚や貝が人に殺されることも過去から今まで数え切れない。それらの魂はあの世に去ってしまったが、その骨は朽ち、今もなおこの世の塵となっている。鐘の音がこの地を揺り動かす度に、心ならずも命を奪われてしまった者たちの霊を浄土に導かせよう」と書いている。

 ここに清衡の思いが集約されている。敵味方を問わない。それどころか、人であるか人でないかすら問わない。とにかく、自らの生を全うできなかったあらゆる生き物の魂を皆平等に浄土に導きたい、そう言っているのである。なんと壮大な願いであろうか。

中尊寺、奥大道、村々に置かれた寺院の意味
 そして、それが虚言空語に終わらなかったところが清衡のすごいところである。しかも、清衡の願いは、死んだ者を浄土に導くことだけにとどまらなかった。東北の地に今生きている者をも浄土に導こうとしたのである。清衡は東北の南端の白河の関(現在の福島県白河市)から北端の外ヶ浜(現在の青森県青森市)まで「奥大道(おくだいどう)」という「幹線道路」を整備した。そのちょうど 中間 に 中尊寺をつくった。その奥大道には、約一〇〇mおきに阿弥陀如来が金で描かれた傘卒塔婆を立てたと伝えられる。また、清衡の影響下にあった奥羽の一万余りの村にはそれぞれ寺院を置いた。

 余談だが、この「奥大道」という名称。なぜ「大」という名称がついているのだろうか。現代に住む我々は、ただ単に道幅の大きな幹線道路だったからだろうとしか考えない。しかし、ならば同じように「幹線道路」であった東海道や東山道も同じように「大」がついてしかるべきだが、そうなってはいない。「奥大道」のこの「大」は、仏教で「人智を超えた偉大な」という意味の「摩訶(まか)」と同義だという(摩訶不思議の「摩訶」である)。「摩訶」はサンスクリット語の「maha」の音に漢字を当てたもので、「maha」は漢訳では他に「大」「多」「勝」の字も当てられる。従って、「奥大道」は「みちのくの偉大な仏の加護に守られた道」という意味なのである。

 さて、これらはいったい何のためのものであったか。それは、この東北の地が仏の加護の下にあることを、この地に住む人々に伝えたかったのである。東北の地は古くから戦乱に明け暮れた。しかも、それは東北の地に住む者が望んで起こしたものではなく、いつも中央からの「侵略」に対する抵抗という形であった。 故なくして戦に巻き込まれて命を落とす理不尽、それがこの地に住む者にとって過酷な現実であった。

110820-130735「この世の浄土」実現への清衡の取り組み
 清衡自身も過酷な前半生を送っている。幼い頃に前九年の役で父親を殺され、母親は父親を殺した敵方である清原武貞に嫁がされた。その後起こった後三年の役では、母親がその武貞との間に産んだ異父弟家衡に自分の妻子を皆殺しにされ、自らの手でその家衡を討った。戦乱がもたらす無残さを身を以て嫌というほど味わわされたのが、他でもない清衡その人だったのである。

 清衡はだからこそ、過去から今に至るまで、そのようにたくさんの人が命を落としたこの東北の地を、丸ごと浄土にしようと考えた。浄土は来世にあるのではなく、この世から来世まで続いているものだということを、清衡は伝えたかったのである。その清衡の意図を今に伝えるものこそが、平泉の文化遺産なのである。

 清衡は、平泉に中尊寺を建立し、村々に寺院を建立してこの東北の地が浄土であることを示す一方で、東北が戦乱に巻き込まれない浄土とするための政治工作を中央に対して行った。 当時の関白藤原師実の子、師通の日記 に「清衡が初めて関白師実に馬を献上した」との記述がある。 当時、みちのくの馬は名馬として殊の外珍重された。馬だけではなく砂金も献上したと見られる。清衡からの貢物によって中央では、そのように労せずして欲しいものが手に入るのであれば、わざわざ大きな犠牲を払って戦をしなくてもよいのではないか、というように意識が変わっていったのだろう。結果として、清衡はその後もおよそ一〇〇年に亘って中央から攻められることのない、平和な東北を実現したのである。(写真は二代基衡の妻が建立したという観自在王院の浄土庭園)

110820-114954今だからこそ受け止めたい清衡の願いとメッセージ
 阿弥陀如来のいる極楽浄土は、この地から十万億土を隔てた西の果てにあるという。であるならば、極楽浄土というのはなんと遠いところにあるものだろうか。しかし、清衡の伝えたかったことは、そうではなく、「浄土というのは今ここにあるのだ」ということである。自分たちのいるこの場所が浄土だとは、なかなか実感できないことではある。しかし、我々の目に最も近いところにありながら見えないまつ毛のように、浄土も私たちのすぐそばにありながら見えにくいもの、と考えることはできないだろうか。

 そのことを伝えるために中尊寺はつくられ、清衡の遺志を継いだ基衡、秀衡によって毛越寺も無量光院もつくられた。「多くの人が亡くなった東北の地をそのまま浄土とする」という清衡の願いを、そして「我々の住むこの地こそが浄土である」という清衡のメッセージを、先の大震災で大きな痛みを受けた今だからこそ、もう一度東北に住む我々は心して受け止めたいと思うのである。(写真は無量光院跡、 中央遠くに見えるのが金鶏山)


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2011年07月01日

私的東北論その26〜時を超えて生き続ける清衡の思い

spotphoto_konjikido_01 平泉の「仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群」が、6/25にユネスコ世界遺産委員会の審議の結果、「世界遺産一覧表」に記載されることが決定した。日本の世界遺産暫定一覧表に記載されてからちょうど10年、日本が推薦書を提出した遺産の中で初めて「記載延期」の勧告を受けてから3年(その時書いたブログ)、ようやく関係者の念願が叶ったわけである。

 前回、「平泉―浄土思想を基調とする文化的景観」として提出された推薦書は、「記載延期」の勧告を受けて「平泉―仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群」として再提出された。その過程で以前紹介したように勧告に沿って構成資産を平泉町内にある6つのみに絞り込んだ。世界遺産委員会の審議ではその中の奥州藤原氏の居館跡である柳之御所遺跡も除外した上で「記載」と決定された。前回の「浄土思想を基調とする文化的景観」という名称は何度読み返しても意味がよく分からなかったが、それに比べると今回の「仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群」は言わんとしていることが明確でよい名称だと思う。

 平泉の世界遺産一覧表への記載というニュースを受けて、「震災からの復興に向けて大きな励みになる」といった声や、震災後減少している観光客の増加に対する期待の声も上がっている。ここでは、平泉の遺跡群がそもそも何だったのかについて、改めて考えてみたい。

 以前も紹介した中尊寺建立供養願文」。これは奥州藤原氏初代の藤原清衡の名で書かれているものである。実際には、当代きっての文章家として知られた藤原敦光の手になるものだが、その内容にはもちろん清衡の意向が隅々にまで反映されているとされている。私にとって特に印象的な一節は「二階の鐘樓一宇」について書かれた部分である。ここには「廿釣の洪鐘一口を懸く」とある。大きな鐘を懸けたわけである。その鐘について、

一音の覃(およ)ぶ所千界を限らず。苦しみを抜きて、樂を興へ、普く皆平等なり。官軍と夷虜(いりょ)の死事、古来幾多なり。毛羽鱗介の屠(と)を受くるもの、過現無量なり。精魂は、皆他方の界に去り、朽骨は猶此土(しど)の塵となる。鐘聲の地を動かす毎に、冤霊(えんれい)をして、浄刹(じょうさつ)に導かしめん。

と書かれている。

 「この鐘の音は、どこまでも響いていって、苦しみを抜いて楽を与える」、そしてそれは「あまねく皆平等である」、とある。「官軍の兵と蝦夷の兵が戦で命を落としたことは昔から幾多もあった。獣や鳥や魚や貝といった生き物が人間に殺されてきたことも過去から現在に至るまで数え切れない。それらの魂はあの世に去ってしまったが、その骨は朽ち、今もこの世の塵となっている。この鐘が響く度に、心ならずも命を奪われてしまった者たちの霊を浄土に導かせよう」、そのようなことが書いてある。死んだ者たちの敵味方は問わない。それだけではない。人間かそうでないかも問わない。とにかく、自分の生を全うできなかったあらゆる生き物の霊を、皆平等に浄土に導きたい、そのような思いが綴られている。

 供養願文の最後も、法皇や天皇を讃えた上で、次のような文章で締め括られている。

弟子の生涯、久しく恩徳の海に浴し、身後必ず安養の郷(くに)に詣(いた)らん。乃至鐵圍(てっち)砂界、胎卵濕化(たいらんしつけ)、善根の覃ぶ所、勝利無量ならん。

 弟子(ていし)というのは、清衡自身のことであるが、清衡自身は法皇や天皇のお陰で死後必ず浄土に至るだろうとまず書いている。それだけではない。自分だけではなく、世界中のすべての生き物にもそうした善根が及ぶ、それは量り切れないくらいだと書いている。つまり、自分だけ極楽往生するのではなく、ありとあらゆる生き物もそれは一緒だと言っているのである。朝廷の御願寺という位置づけの中尊寺の落慶供養願文で天皇や法皇への感謝を述べるのは普通のことだろうが、こうした目上の人だけでなく、清衡の周りにいる、朝廷からはおよそ人間扱いすらされてこなかったような蝦夷、そして人間だけでなくすべての生き物、そうした者への眼差しを持っていた清衡という人間の大きさを感じずにはいられない。

 しかもである。清衡のこの、全ての生き物を極楽浄土に、という思いは、決して絵空事に終わったのではない。清衡はまず東北の入り口である白河の関から東北の最北端である外ヶ浜に至る道(奥大道)の真ん中に中尊寺を置いた。そこには、浄土の象徴とも言うべき金色堂が輝き、中尊寺を中間点として東北を貫くその道の約100mおきには金で描かれた阿弥陀如来の笠卒塔婆が配置されていたという。また、清衡の勢力下にあった陸奥出羽両国には、一万余もの村があったが、清衡はその一つひとつの村に寺を建てたとの記述が、吾妻鏡にある。「中尊寺落慶供養願文」で高らかに宣言した、この東北を浄土とするための具体的なアクションを清衡は実際に起こしていたということである。しかもそれは、死んだ後の浄土というだけではなく今生きているこの地を浄土とする(此土浄土)という壮大な取り組みであったということに留意すべきである。

 今回の世界遺産一覧表への記載で、平泉を訪れる観光客は確かに地元の期待通り増えるだろう。しかし、中尊寺金色堂や毛越寺浄土庭園を見ただけでは、こうした清衡の東北全体を浄土とするというスケールの大きな取り組みの全貌は見えてこない。その象徴としての、その極々一部分としての、構成遺産なのである。以前も書いたが、何度でも強調したいと思う。そこの部分こそを一生懸命理解していただく努力をしなければ、訪れる人の平泉への理解は極めて一面的なものとなり、金色堂を見て「なんだこんなものか」とがっかりし、「二度は見なくてもよい」という感想を残して去っていってしまう、そのような結果にならないとも限らない。

 冒頭で触れた「仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群」という名称がよいと書いたのもそういうことである。清衡が目指した、この地域すべてを浄土としようとしたその取り組みのうち、現在まで建築・庭園あるいは遺跡として残っているものが、今回世界遺産となった、それが直接的に伝わるよい名称だと思う。平泉を訪れる人にはどうか、そのような視野で以て金色堂の輝き、浄土庭園の優美を鑑賞していただきたいものと切に願う。

 そうそう、藤原清衡のすごさについては、ここで私が何万言費やすよりもはるかに説得力を持って先達の方々が極めて的確にご指摘されている。中でも、「みちのく中央総合博物館市民会議」のサイトにある、「中尊寺落慶供養願文」についての佐々木邦世氏と高橋富雄氏の講演録はオススメである。

 藤原清衡の前半生は悲劇としかいいようのないものだった。前九年の役では父親である藤原経清を殺され、母親は父親を殺した相手である清原氏に嫁がされた。そのお陰で清衡自身も命は助けられるが、その後起こった後三年の役では母親が生んだ異父弟の家衡に妻子を殺され、その家衡を自らの手で討たざるを得なかった。そうした修羅場をくぐり抜けての後半生である。決して順風満帆に育った金持ちのボンボンが自らの権勢を誇るために思いつきで作ったというようなものではない。自らもこれ以上ない悲劇を体験した戦乱。その戦乱で多くの人が亡くなった東北の地をそのまま浄土とする、それが清衡の宿願だったわけである。

 その清衡の思いは、未曽有の大震災でやはり多くの人が亡くなった今の東北にも通じている。今、このタイミングで平泉が世界遺産となったのも決して偶然ではないように思う。今も金色堂にいる清衡からのメッセージが、力強く発せられているように思えてならないのである。清衡の思いは800年の時を超え、今も生きている、そう思えるのである。

 ― 我々が住んでいるこの地こそが浄土である ―

 このような時だからこそ、その清衡の思いに東北に住む我々も再度思いを馳せたいと思うのである(写真は中尊寺のサイトより)。


追記(2011.9.16):「中尊寺建立供養願文」は「中尊寺落慶供養願文」とも称されるが、ここでは中尊寺の表記の方を尊重して「中尊寺建立供養願文」としている。

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2008年08月30日

私的東北論その13〜世界遺産への登録延期―平泉の価値は変わらない

5acc2ab7.JPG 今年度の世界遺産登録を目指していた平泉の文化遺産が、先月6日に行われたユネスコの世界遺産委員会で「登録延期」となった。平泉の世界遺産登録については、5月にユネスコの諮問機関である国際記念物遺跡会議(イコモス)が「登録延期」の勧告を既に出していたが、日本政府代表部は昨年の石見銀山に続く「逆転登録」を目指して各方面に働き掛けを続けていた。結果的にそれが実を結ばなかったことになる。

 日本は、平泉の文化遺産を「浄土思想を基調とする文化的景観」と位置づけて世界遺産登録を目指したが、今回「落選」したことに対して、メディアは「浄土思想」が諸外国に理解されるのが難しかったのではないかと報じている。

 しかし、実際は浄土思想の理解云々よりも、世界遺産の登録基準に適合するかどうかの証明が不十分とされてしまったことによるところが大きかったようだ。世界遺産の登録基準は社団法人日本ユネスコ協会連盟のサイト内にある通りであるが、今回平泉はこのうち(iii)、(iv)、(v)、(vi)に当たるとして登録を目指していた。ところが、世界遺産委員会とその前のイコモスの勧告で、その証明が不十分とされたのである。これについては、実はイコモスは、平泉の一部物件はこれら(iii)〜(vi)ではなく、(ii)に該当すると評価していたと、ユネスコの松浦晃一郎事務局長が明らかにしている(参照サイト)。とすると、推薦書の全面的な練り直しが求められるが、今のところ文化庁を始め関係者によると、大幅な推薦書の改訂は行わない方針のようである。

 また、「一部物件」という言葉が使われている通り、今回平泉は9つの構成遺産で世界遺産登録を目指していたのだが、この9つがどのように「浄土思想を基調とする文化的景観」に結びつくかの証明が不十分だったようである。確かに、素人目に見ても、「これは浄土思想とどのように関係するのか」と首を傾げたくなる構成遺産があるのは事実である。

 ちなみに9つとは中尊寺、毛越寺、無量光院跡、柳之御所遺跡、達谷窟、金鶏山、骨寺村荘園遺跡、長者ヶ原廃寺、白鳥舘遺跡である。このうち、奥州藤原氏三代が建立した中尊寺、毛越寺、無量光院跡、奥州藤原氏の政庁だった柳之御所遺跡、山頂に経塚のある金鶏山は平泉の浄土思想を直接的間接的に伝える構成遺産であると言える。達谷窟も奥州藤原氏時代のものと見られる浄土庭園の遺構が出土しており、構成遺産に加えてよいと考えられる。骨寺村荘園遺跡は中尊寺の寺領であったところで、周辺には寺社関連の遺跡も多数残っており、これも構成遺産と見てよいだろう。ただし、今のように中世の荘園がそのまま残っていることを強調しすぎると、かえって浄土思想との関連が分かりにくくなるようにも思える。一方、残り2つ、長者ヶ原廃寺と白鳥舘遺跡は奥州藤原氏と直接関係がなく、また浄土思想とも特に関連が見られないので、構成遺産として加えるのは厳しいのではないだろうか。

 「浄土思想を基調とする文化的景観」と言うならこれら2つよりもむしろ、例えば藤原清衡の孫である樋爪俊衡の居館樋爪館跡と伝えられる五郎沼は元は浄土庭園だった可能性があるように思われるし、三峯神社(月山神社)のように中尊寺の奥の院として栄えたと伝えられる神社もある。中尊寺金色堂と同様の阿弥陀堂は、宮城県角田市の高蔵寺阿弥陀堂、福島県いわき市の白水阿弥陀堂があり、こちらの方が「浄土思想」との関連がはるかに深いのではないか。

 これら構成遺産の選定に当たっては、学術的な見地からだけでなく、関係者の様々な思惑なども交錯したと伝えられているが、その結果「浄土思想を基調とする文化的景観」の証明が分かりにくいものとなってしまった感も否めない。再登録を目指すに当たっては、登録基準の見直しと共に、思い切って構成遺産の見直しも必要なのではないだろうか。

 ところで、後三年の役が終わって藤原清衡が奥羽両国の実権を握ったと見られるのが1088年、そこから四代泰衡が討たれた1189年までの101年が奥州藤原氏の時代と言えるが、三代秀衡が鎮守府将軍に任命されたのは1170年、陸奥守に任命されて名実共に奥羽の「統治者」と認められたのは1181年、初代清衡が実権を握ってからそれぞれ82年後、93年後のことである。名前が現実を追認するのに実にそれだけの時間がかかったわけである。

 今回の「落選」は日本で初めてだったこともあって、落胆の声が多く聞かれた。しかし、平泉の世界遺産登録は、2001年に国の世界遺産暫定リストに登載されてからまだたったの7年である。奥州藤原氏の辿った道から見れば、まだまだ始まったばかりである。そしてもちろん、世界遺産に登録されようがされまいが、平泉の価値は変わらない。それは、鎮守府将軍や陸奥守に任命されなくても藤原清衡が実質的に奥羽両国の覇者であったのと同じようなものである(写真は毛越寺浄土庭園にある紅葉である)。


追記(2009.4.5):新聞報道によると(河北新報記事岩手日報記事)、「平泉の文化遺産」の推薦書作成委員会は、上記9つの構成資産から骨寺村荘園遺跡、白鳥舘遺跡、長者ケ原廃寺跡、達谷窟の4つを外し、平泉町内の5つの資産のみで世界遺産登録を目指す方針を決めたそうである。長者ヶ原廃寺と白鳥舘遺跡だけでなく、達谷窟と骨寺村荘園遺跡も外すという、思い切った構成遺産の絞り込みを行ったわけである。今後の推移を見守りたい。

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2006年03月30日

東北の歴史のミステリーその3〜「泰衡の首」は泰衡の首じゃない?

1fa3428b.jpg 先に紹介した「中尊寺建立供養願文」には、鐘樓の洪鐘について、

「この鐘の一音が及ぶ所は、世界のあらゆる所に響き渡り、苦しみを抜き、楽を与え、生きるものすべてのものにあまねく平等に響くのです。(奥州の地では)官軍の兵に限らず、蝦夷の兵によらず、古来より多くの者の命が失われました。それだけではありません。毛を持つ獣、羽ばたく鳥、鱗を持つ魚も数限りなく殺されて来ました。命あるものたちの御霊は、今あの世に消え去り、骨も朽ち、それでも奥州の土塊となっておりますが、この鐘を打ち鳴らす度に、罪もなく命を奪われしものたちの御霊を慰め、極楽浄土に導きたいと願うものであります」(佐藤弘弥氏訳)

とある。中尊寺の建立は、そうした過去に命を落とした人や生き物を供養し、この奥州の地を仏国土(浄土)にするということが目的の一つとしてあったわけである。

 中尊寺は鳥羽天皇の御願寺という形を取っていたので、その落慶法要には、都から多くの貴人が訪れた。それらの貴人たちは当然、落成した中尊寺に向かって手を合わせたのだろうが、もう一つの意図と前回言ったのは、金色堂のことである。この「中尊寺建立供養願文」には金色堂のことが出てこないのである。では、落慶法要の時点で金色堂はまだ完成していなかったのかというとそうではない。「棟木墨書銘」によれば、金色堂はこの落慶法要が営まれる2年前の天治元年(1124)には既に上棟されていたのである。中尊寺供養願文に現れないということは、金色堂の存在は、落慶法要の時点では公表されていなかったということなのではないか。そのことは何を物語るのか。

 ところで、金色堂を巡る謎の一つは、これが何なのかということである。何なのかというのはつまり、藤原三代が納められていることから、当初から「葬堂」として想定されたのか、当初は本尊として阿弥陀如来が安置されていることから「阿弥陀堂」として建立され、結果として葬堂になったのかということである。

 この点を巡っては、葬堂説、阿弥陀堂説双方の研究者からさまざまな考察が出されているが、供養願文に登場しないという点から見ると、やはり「葬堂」だったのではないだろうか。つまり、葬堂という「私的なもの」だったからこそ、あえて供養願文では触れなかったということである。阿弥陀堂であれば、「皆金色」とされる極楽浄土をこの世に具現化したものとして声高らかに謳ってもよかったはずである。

 金色堂に安置されている地蔵菩薩六体の存在も葬堂説を補強している。阿弥陀堂説の論者からは、阿弥陀如来と地蔵菩薩との関係について、横川(よかわ)流浄土教の影響とする説も出されているとのことだが、では横川流浄土教が平泉にどのように影響を与えたのか今一つよく分からず、やや牽強付会の感がある。しかも、横川流でいう、阿弥陀、観音、勢至、地蔵、龍樹の「弥陀五仏」は、当然ながら安置されるのは通常一体ずつである。金色堂のように六体の地蔵菩薩が安置されているのは、「輪廻転生の六道の入口に立って衆生を教化する」という地蔵菩薩本来の意図が明示されたものと見るのが自然である。

 以上のような点から、金色堂は葬堂だったと考えられるが、では誰の葬堂だったかという問題がある。これまでは、清衡自身が死後葬られていることから、自分自身のための葬堂だったと考えられていたが、この見方にはどうも違和感がある。「中尊寺建立供養願文」で亡き魂への供養を高らかに謳いあげた清衡が、自分の来世の極楽往生のために葬堂を築くだろうか、という疑問である。従来の葬堂説では、この点がどうもしっくりこない感がある。

 高井氏は、この金色堂こそが、清衡が自分の父経清の首を安置し、供養するための葬堂だったと結論付けているのである。この見方には私も賛成である。確かに、清衡自身のためではなく、陸奥のために戦って命を落とした父のための葬堂だったとすれば、供養願文の趣旨ともまったく相違しない。しかも、経清は先の「前九年の役」の首謀者、「戦犯」の一人である。その経清を祀った金色堂を、都から来た貴人の前に堂々と披露するわけにはいかなかったのである。

 しかし、だからと言って清衡の意図は、ただ天皇の御願寺である中尊寺の落慶を祝うために都から貴人を呼び寄せたのではなかったものと考える。元々、東北の側から見れば、紛れも無い「侵略戦争」であった。清衡の意図は、実は、都から来た貴人に、中尊寺の広大な敷地の一角にあった金色堂にそれと知れずに手を合わせさせたかったのではないだろうか。

 落慶法要が行われた大治元年(1126)3月24日は地蔵の縁日でもあるという。これはただの偶然と見るのではなく、そこに何らかの意図があったと見るべきだろう。その意図とは、すなわち、先の戦で父経清討伐を命じた朝廷の側の人間に、手を合わせさせたかったということなのだと考える。逆に言えば、そのためにこれだけの規模の大きな寺院を天皇の御願寺という形を取って建立したのだ、とも言える。

 もちろん、朝廷に無用の介入をさせないために、清衡自身の権勢を示し、奥州を掌握していることを高らかに宣言する必要もあったろうが、それだけでない、公にはできない意図もあったのではないだろうか。いわば、中尊寺の中に金色堂があるのではなく、金色堂のあるところに誰もが手を合わせる寺院を、清衡は作りたかったのではないかと私は考えるのである(写真は中尊寺月見坂)。

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