源義経  

2009年11月20日

東北の歴史のミステリーその24〜消えた?「奥十七万騎」

165234.jpg 今でも覚えているのだが、中学校の時の歴史の副読本に東北の歴史について説明した冊子があった。その「奥州征伐」の項には(「征伐」というのは鎌倉側から見た一方的な表現であるので現在では「文治五年奥州合戦」という名称が定着している)、「なぜ源頼朝は28万4千もの大軍を率いて奥州に攻め込んだのでしょうか」という問いかけがあり、当時義経びいき、奥州藤原氏びいきだった私が、「そうだそうだ、いったいどんな理由があって東北に攻めてきたんだ?」と思いながら読み進めると、次の文章が「それは奥州藤原氏の兵力が20万騎と言われていたからです」と来て、「そっち(兵の数)の話かよ〜」と肩透かしを食らったような思いをした記憶がある(笑)。

 当時、 奥州藤原氏の擁する兵力は17万とも、18万とも、あるいは20万とも言われていて、それこそ今世界遺産登録を目指している通りの浄土思想を基調とした「平和国家」の顔の一方で、平氏や源氏とも単独で対等以上に渡り合える強大な軍事力を持っているとされていた。頼朝は平氏追討に当たって、自ら鎌倉を動くことはなかったが、それは背後に控える奥州藤原氏の「奥十七万騎」を脅威に感じてのことだったとも言われる。

 ところが、いざ文治五年奥州合戦となると、以前紹介した阿津賀志山の合戦で大将軍に任ぜられた泰衡の兄、西木戸太郎国衡が率いたのは二万騎だったと吾妻鏡にはある。しかも、阿津賀志山以降は散発的な抵抗はあったものの、大規模な合戦らしい合戦はなく、平泉は事実上「無血開城」だった。出羽方面でも戦闘が行われたと記述があるが、阿津賀志山以上の兵力がそちらに集結したと考える理由はない。してみると、17万騎どころか、実際にはほんの数万騎が、頼朝率いる大軍(もちろん28万4千騎という数字には誇張もあるだろうが)と戦ったわけである。ならば、奥州藤原氏が誇った残りの兵力は戦わずしてどこに消えたのか。

 前回、東北のオススメスポットとして、平泉衣川を紹介した(ここここ)が、両地域を比較して「おや?」と思ったことがある。史跡(地名にのみ言い伝えが残っているものも含めて)の数に、平泉と衣川とでは違いがあり過ぎるのである。すなわち、平泉は奥州藤原氏が100年の栄華を誇った地であるにも関わらず、それにしては遺跡の数が少なすぎやしないかということである。

 というのも、既に紹介した通り、衣川の遺跡、そしてそれは多くが安倍氏に由来するものだが、非常に多いのである。1日で全部回ろうと思ったら、それこそ誇張ではなく朝から夕方までかかる。安倍氏は当時奥六郡を中心とする大きな勢力であったが、陸奥出羽両国の全体を掌握していたわけではなかった。一方、奥州藤原氏はその両国、つまり今の東北地方のほぼ全域を掌握していたとされている。それにしては、その本拠地たる平泉に往時を偲ばせるような遺跡が少なすぎやしないだろうか。

 衣川には安倍氏が乗馬5〜600頭を繋いでいたという場所(「駒場」という地名で残っている)や「乗馬訓練場」跡(「馬駆」という地名で今も残っている)まで残っているのである。いかにも騎馬兵を主体とした精強な兵を率いた安倍氏にふさわしい伝承だが、対して奥十七万騎を誇る奥州藤原氏の訓練場跡があったという話はついぞ聞いたことがない。もちろん、安倍氏の訓練場をそのまま引き継いだということなのかもしれないが、それであれば「安倍氏の」ではなく、より新しくより強大な勢力を誇ったはずの「奥州藤原氏の」という伝承になってもよさそうなものである。

 これはいったい何を意味するのかと考えてみると、実は「奥十七万騎」は「虚構」と言うか、「誇大広告」だったのではないかということである。それだけの兵力はなかったが、そう喧伝することでかつての前九年の役のように、奥州を我が物にせんとする源氏のような勢力に外部から攻め込まれることを未然に防ごうとしたのではなかったかという気がするのである。

 その「情報戦略」は、頼朝が朝廷の制止を振り切って有無を言わさず攻め入ってきたことで「実像」が露呈して瓦解した。その実像とは、阿津賀志山の地で、全国から動員された頼朝の大軍を3日足止めするのが精いっぱいの兵力だったということなのではないだろうか。

 本当の意味での「判官びいき」、と言うか、義経が好きな人にしてみれば(かつての私もそうだったが)、奥州藤原氏のこのようなあっけない終焉をとらえて、義経さえ生きていればこのようにたやすく滅びることはなかったろうに、と思うものだが(以前紹介したが、「義経記」の作者もそのようなニュアンスの言葉で最後を締め括っている)、もしこのような圧倒的な兵力の差が端からあったのだとすると、仮に義経が生きていたとしても状況は同じであったかもしれない。いや、「ゲリラ戦」が得意だった義経がいればやはり状況は違っていたはずだ、という反論が即出そうではあるが。

 写真は残念ながら平泉の世界遺産登録に当たっての構成遺産からは外された白鳥館遺跡から見た北上川である。この遺跡は安倍貞任の弟、白鳥八郎則任の館跡と伝えられる。その立つ場所から考えて、奥州藤原氏時代にも重要な役割を果たしたのでは、とも思われるのだが、少なくともそのような伝承は聞いたことがない。

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2009年10月27日

東北のオススメスポットその11〜岩手県平泉・衣川地区その2

a6425b99.jpg 平泉の知名度は恐らく東北でも屈指と思われるが、衣川を知っている人はそう多くないに違いない。歴史に詳しい人なら、源義経が藤原泰衡に攻められ命を絶ったという合戦が「衣川の戦い」と呼ばれていて、義経最期の地であるということを知っているかもしれないが、それ以外で人口に膾炙することはほとんどないと言っていい。しかし、本当に興味があって平泉を訪れた人にはぜひ、衣川にも足を運んでほしいと思う。

 東北の歴史に詳しい人なら、衣川は安倍氏の本拠地だということを知っているかもしれない。安倍氏の安倍頼時(頼良)・貞任親子は、前九年の役で源頼義・義家親子と戦った俘囚(朝廷に従った蝦夷)の長である。奥州藤原氏から見ると、初代藤原清衡の母親が安倍氏の棟梁貞任の妹であったので、安倍氏は母方の家系ということになる。

 旧衣川村は、合併して奥州市の一部になったが、この旧衣川村は、平泉町の北隣で、現在の平泉町の北端である中尊寺から衣川を渡るとすぐである。この衣川以北が奥六郡と言われて俘囚の地とされていた。

 旧衣川村に足を運んで驚かされるのは、その遺跡の数の多さである。前回紹介した平泉町内の遺跡よりもはるかに多い数の遺跡が、今も旧村内のあちこちに残っているのである。そのうちのかなりの割合は、安倍氏の居館跡であった安倍舘古舘(安倍新城)、政庁であったという並木屋敷(衣川柵)など、安倍氏に関係するものだが、それだけ安倍氏がこの地で勢威を振るったことが窺える。

 もちろん、四代藤原泰衡の弟で最後まで義経を支持したという泉三郎忠衡の居館泉ヶ城跡や、三代藤原秀衡の母が衣川を渡って旅をしてきた人をもてなしたという言い伝えのある接待館(せったいだて)跡、秀衡が京都の御室御所の木をこの地に移し植えてつくった庭園跡と言われる室の木(むろのき)跡など、奥州藤原氏時代とされる遺跡もある。奥州藤原氏時代の衣川は、経済の中心地だったそうである。奥羽二国の政治の中心地であった平泉をワシントンにたとえれば、衣川はニューヨークに当たると言えるかもしれない。

 ただ、最近の発掘調査の結果からは、衣川は単に経済の中心地だっただけではなく、政治的にも重要な地位を占めていたことが明らかになってきている。それは柳之御所跡などから大量に見つかったかわらけという宴や儀礼の時に使われたという素焼きの杯が、衣川の接待館跡からも大量に見つかったことによる。

 東北の歴史に詳しい人にとっては、衣川は秀衡の政治顧問的な立場にあったとされる藤原基成(もとなり)の居館「衣河館」があったとされる場所ということも知っているかもしれない。そして、義経最期の地は、吾妻鏡によれば義経堂のある平泉の「高館」ではなく、この「衣河館」だということも知っているかもしれない。「衣河館」の場所は実はまだ特定されていないのだが、地元ではこの接待館が「衣河館」だったのではないか、とも言われている。

 さらに、以前も少し書いたが、この衣川には平泉の中尊寺の「奥の院」として栄えたという霊峰月山(がっさん)もある。この月山、山形にある出羽三山のひとつである同じ名前の月山とは比較にならないくらいの小さな山で、10数分も歩けば頂上の月山神社に着くほどの山であるが、そこに私が見ただけで、月山神社と麓にある三峯神社を含め、6つもの社が祀られていた。確かに古くから尊崇されてきた様子が窺える。

 その中で最も印象的なのは、山頂の月山神社の奥の院前にある、巨石を御神体とする和我叡登挙神社(わかえとのじんじゃ)である。巨石を御神体とする社殿のない神社、これは安倍氏の崇拝したという荒覇吐(あらはばき、または現在東北の夏のロックフェスティバルの名称に冠されて名を留める荒吐(あらばき)とも)の神を祀る神社の共通項である(旧衣川村内には磐神社女石神社という、やはり共に巨石を御神体とする荒覇吐神を祀る神社があり、陰陽一体の神として崇敬されてきたが、現在は社殿が設けられている)と同時に、同じ名を持つ月山を含む出羽三山との類似性も感じられる。このように衣川は、この時代の歴史に関心のある人にとっては、とても興味深い場所なのである。

 衣川歴史ふれあい館では係の人に面白いことを聞いた。平泉の無量光院跡からは、春分、秋分の日に太陽が金鶏山山頂に沈むのが見えることが分かっているが、衣川の長者ケ原廃寺(地元では元々単に「長者ケ原」と呼ばれ、義経を秀衡に引き合わせたとされる金売り吉次の屋敷跡と信じられてきたのだが、発掘調査の結果寺院であることが判明したため、現在ではこう呼ばれている)からは、春分、秋分の日に太陽が月山山頂に沈むのが見えるのだそうである。もし、これが無量光院と同様に意図的にそうなる地が選ばれた結果ということであれば、無量光院は衣川の長者ケ原廃寺を参考に作られた可能性があるわけである。

 平泉はこれまで京の都を参考に作られたとされてきたが、実はそれだけでなく、安倍氏の本拠地、すなわち蝦夷の都だった衣川も参考に作られていたのかもしれない。この辺りのことはきっと今後衣川の発掘調査が進んで明らかになるに違いない。そして、衣川にももっとスポットが当たることを期待したい(写真は月山山頂にある月山神社である。知らないで行くと見落とすかもしれないが、鳥居の奥に見えている拝殿のさらに奥に奥の院があり、そこに和我叡登挙神社もある)。


koromogawa1追記(2009.10.28):旧衣川村内にある数々の遺跡を、位置関係も含めて分かりやすく解説しているサイトはあまりないのだが、現地で入手したパンフレットがその点とても分かりやすかったので、興味を持った方のためにここにアップしておきたいと思う。





koromogawa2 遺跡は大きく分けて、旧衣川村内の東側の月山周辺(写真上)と西側の安倍館周辺(写真下)とに分かれて分布している。見て分かる通り、これだけ多くの遺跡がいまだこの地域に残っているのである。

 なお、このパンフレットの絵地図は、北東方向から見た地図(つまり上が北になっていない)なので、その点だけ注意が必要である。


追記(2011.7.4):無量光院跡から金鶏山山頂に沈む夕日が見られるのは、春と秋2回あるが、正確には春分・秋分の日ではなく、4月中旬(13日頃)と8月末とのことであった。


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2007年12月09日

東北の歴史のミステリーその17〜なぜ「阿津賀志山」だったのか

519272c9.jpg 以前、私がかつて義経が好きで泰衡のことが好きではなかったということを書いたが、その理由の一つが奥州藤原氏滅亡前夜の「阿津賀志山(あつかしやま)」にもあった。

 子供でも読める義経の伝記は大抵義経記を中心に源平盛衰記、平家物語などにある義経の話をミックスして書かれているが、秀衡臨終の場面はだいたい義経記に則して書かれている。義経記を読むと、秀衡は死の直前、

「定めて秀衡死したらば、鎌倉殿より判官殿討ち奉れと宣旨院宣下るべし。勲功には常陸を賜はるべきと有らんずるぞ。相構へてそれを用うべからず。入道が身には出羽奥州は過分の所にてあるぞ。況んや親に勝る子有らんや、各々が身を以て他国を賜はらん事叶ふべからず。鎌倉よりの御使なりとも首を斬れ。両三度に及びて御使を斬るならば、其の後はよも下されじ。たとひ下さるとも、大事にてぞ有らんずらん。其の用意をせよ。念珠、白河両関をば西木戸に防がせて、判官殿を愚になし奉るべからず。過分の振舞あるべからず。此の遺言をだにも違へずは、末世と言ふとも汝等が末の世は安穏なるべしと心得よ、生を隔つとも」

と遺言している。

 つまり、「秀衡は自分の死後頼朝が朝廷の宣旨や院宣をたてに義経を討て、その暁には常陸(茨城県)も与えるぞと言ってくるだろうが、それに乗ってはいけない。鎌倉から使いが来たら首を斬って戦の用意をせよ。国衡に念珠関(山形と新潟の県境)と白河関(福島と栃木の県境)を防がせ、義経を奉じればそなたらは安穏だ」と遺言したというのだ。ところが、実際には泰衡はこの偉大な父の遺言に背いて、あろうことか義経を討ち、これで一件落着かと思いきや、義経がいなくなってこれ幸いとばかりに突如頼朝に攻められる。驚いた泰衡は奥州の南端、福島と栃木の県境の白河を固めることができず、慌ててもっと平泉寄り、福島と宮城の県境にある阿津賀志山に防塁を俄かごしらえで作るが、ここを破られると一戦もせずに逃げ回り、挙句の果てに家臣の河田次郎に討たれて最期を遂げるという筋書きである。

 義経記の最後はこう結ばれている。

「故入道が遺言の如く、錦戸、比爪両人両関をふさぎ、泰衡、泉、判官殿の御下知に従ひて軍をしたりせば、いかでか斯様になり果つべき。親の遺言と言ひ、君に不忠と言ひ、悪逆無道を存じ立ちて、命も滅び、子孫絶えて、代々の所領他人の宝となるこそ悲しけれ。侍たらん者は、忠孝を専とせずんばあるべからず。口惜しかりしものなり」。

 読んでいる昔の私も、まったくこの作者と同じ心境で、「口惜し」がっていたものである。

 東北の南端を固めずに易々と宮城県境付近まで鎌倉軍の侵入を許してしまったことも私としてはかなり口惜しかったものである。なぜなら、この一連のストーリーで言えば、「阿津賀志山」(現在では厚樫山と表記する)というのは、泰衡の「先見性のなさ」の現われであって、鎌倉軍の進軍が早かったために奥州と坂東との境界であった白河以北を捨て、宮城・福島県境付近に防塁を築かざるを得なかったということになるからである。

 しかし、では実際のところ本当にそうだったのかと言うと、実はこの阿津賀志山の防塁はそのような慌てて作った俄かごしらえのものではないことが、発掘調査の結果既に分かっている。この作業には、半年以上かけて、延べ25万人が動員されたと推定されている。現在でもその遺構の一部は福島県国見町に残っているが(写真参照)、阿津賀志山の山麓に端を発して、現在の国道4号線、JR東北本線とほぼ重なると思われる奥大道を寸断してさらに東進し、阿武隈川にまで至るおよそ4kmにも及ぶ長大な防塁である。二重の堀とその前後の三重の土塁からなり、そこから地元ではこの防塁のことは二重堀(ふたえぼり)と呼ばれているが、確かにいかにも駿馬の一大産地であった奥州に築かれた防塁らしく、福島県立博物館にある復元模型などを見ると、ここを騎馬で越えるのはほとんど不可能と思えるような構造の防塁である。

 ちなみに、この阿津賀志山防塁、元寇の際に築かれた福岡市の元寇防塁、太宰府の水城防塁と並んで日本三大防塁の一つに数えられている。とても、その規模から言っても急造の不完全な防御施設と言って済ませられるような類のものではない。つまり、泰衡は鎌倉軍の侵攻が行われることを事前に察知して、ある程度の時間的余裕(とは言ってももちろん時間は限られていただろうが)を持ってこの防塁を築いたと言えるのである。

 また、この阿津賀志山の地を選んだというのも非常に合理的な理由があってのことである。福島県中通り北部から宮城県に入ろうとする境界にこの阿津賀志山はあるが、ここはまさに天然の要害である。今でも、ここを通るJR東北本線、東北自動車道、国道4号線のすべての行く手を阻み、そのためこれらの鉄道、道路は阿津賀志山を大きく迂回し、その合間をそれこそ肩を寄せ合うように通り抜けているのである(ちなみに、JR東北新幹線だけは阿津賀志山の西にトンネルを掘り真っ直ぐ走っている)。まさにここを閉鎖されれば、鎌倉側の大軍がその先に進むことは極めて困難な、そのような場所なのである。

 これに対して、奥州最南端の白河の関があるところは、栃木県との県境付近であり、今も残っている関所跡の南には「峠の明神」が祭られてある県境の峠があるが、「天然の要害」と言えるような地形ではない。ただ登って下るだけの地形である。誰かが言っていたが、白河の関は「交通検問所」のようなもので、陸奥と坂東の境界線を示すという意味合いが強く、決して外的の進入を防ぐのに適した場所とは言えないのである。

 事実、関所跡を見ると、一応周囲は堀が廻らされているが、ここに籠って外敵を討つなどというのはほとんど不可能と思えるような代物で、奥州藤原氏やその前の安倍氏、清原氏が築いていた柵と言われる防衛拠点とは比ぶべくもない。特に、この時代には既に関所としての機能は失われていたようで、白河の関はまさに単なる境界線でしかなかったわけである。泰衡には、阿津賀志山にこそ防塁を築く積極的な理由があったわけである。

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2007年10月13日

東北の歴史のミステリーその16〜首途八幡神社は奥州藤原氏の京都出先機関跡か

7949e581.jpg 以前紹介した大報恩寺(千本釈迦堂)から東に500mほど行った所に、首途八幡神社(かどではちまんじんじゃ)という神社がある。源義経が16歳の時に鞍馬山を抜け出して藤原秀衡を頼って金売り吉次と共に奥州に向けて旅立つ際に、道中の無事を祈願した神社とも言われ、今も旅行安全などにご利益があるとして信仰を集めているそうである。

 この首途八幡神社について、江戸時代初期の貞享元年(1648年)に黒川道祐が著した、京都の地誌学の古典と言われる「雍州府志」という書物には、「西陣五辻南桜井辻子(現在の上京区智恵光院通今出川上ル)に橘次(吉次)が在り。このところ、売金商橘次末春の宅地なり」、「源義経は橘次の東行に従ってここより首途(門出)す」とあり、元々ここは義経にまつわる話には必ず登場する金商人、金売り吉次の屋敷跡だとする説があるのである。

 ところで、金売り吉次という人物についても謎が多い。京都と奥州を行き来した金商人だというのがもっぱらの見方だが、上の「雍州府志」を見ても分かるように、「吉次」を「橘次」と記している文献もある。「橘次」(きちじ)は元々は「橘次郎」(たちばなじろう)という名で、商人ではなく実は侍で、後に義経の家来となったという説もある。源九郎を「げんくろう」と読み慣わすのと同じだというのである。確かに橘姓はこの時代の東北の武士に比較的よく見られる姓である。この説の通りだとすると、吉次は本当は奥州ゆかりの武士だったということになる。

 なお、京都には、「平泉第」(ひらいずみてい)という、奥州藤原氏の出先機関があったと言われている。この出先機関が辺境であった奥州と京都とのパイプを確保し、対朝廷工作などを担っていたというのである。この時代、奥州は半独立国状態であったので、言ってみれば平泉第はその「大使館」だったとも言えるかもしれない。ただ、実際にこの平泉第が京都のどこにあったのかは分かっていない。吉次が金商人ではなく奥州ゆかりの武士であり、かつこの首途八幡神社がその屋敷だったとすると、ここがかつての「平泉第」だったのかもしれない。歴史家の角田文衛氏が既に指摘している通りである。

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2007年02月17日

東北の歴史のミステリーその14〜海を渡った奥州藤原氏

45f3380f.jpg 奥州藤原氏が源頼朝の侵攻に遭ってあえなく滅亡してしまったのは文治五年(1189年)である。吾妻鏡には、泰衡は「夷狄嶋を差し、糠部郡に赴く」とあり、北海道を目指して逃亡したと書かれている。

 既に紹介したように、泰衡はその後なぜか北海道には渡らず、贄の柵(秋田県大館市)で河田次郎に討たれ、その生涯を終えるが、実際に北海道に渡った奥州藤原氏ゆかりの人々もいたようである。これは以前、コメントを寄せてくれた瑠奈氏に教えていただいた。

 北海道に義経が渡ったという伝説があることは知っていたが、奥州藤原氏の関係の人々が渡ったことは知らなかった。その後調べてみると、確かに北海道の渡島半島の各地には、奥州藤原氏の人々が渡ってきたという伝承が残っていることが分かった。

 正保二年(1645年)に成立した松前藩の史書「新羅之記録・上巻」には、「右大将頼朝卿進発して奥州の泰衡を追討し御たまひし節、糠部、津軽より人多く此国に逃げ渡って居住す」とある。また、大正七年渡島教育会が編纂した「凾館支庁管内町村誌・其二」(道立文書館所蔵) の吉岡村の項でも、同じく松前藩の史書「福山舊事記(ふくやまくじき)」に「文治五年七月十五日鎌倉将軍右大将頼朝公藤原泰衡追討ノ節津軽糠部ヨリ里人多ク当国ヘ逃渡リ初メテ定住ス」とあることを紹介している。

 いずれも、糠部や津軽の住人が北海道に渡ってきたとしているが、それ以外の地に住んでいた人も含めてこれらの場所から北海道に渡ってきたと考える方が自然な気がする。糠部や津軽の地域は実際には頼朝に攻められていないのであるから、「難民」が発生したのだとすると、それは他の地域から逃れてきた人々だと考えられる。吾妻鏡には泰衡は「数千の軍兵に圍まれ」ていたとある。ひょっとするとこの数千の軍兵の一部が泰衡の死後、北海道に渡ったとも考えられる。

 ちなみに、「凾館支庁管内町村誌・其二」は、同じ吉岡村の項で「津軽ヲ距ルコト僅カニ七里自然ノ港湾ヲ有スル當地ノ如キ最初ノ上陸地点ナルベキカ」として、これら奥州藤原氏ゆかりの人々の最初の上陸地点は吉岡だったのではないかと推測している。また、江差町の「桧山沿革史」 によれば、 これら奥州藤原氏のゆかりの人々がその後定着した所は、吉岡、松前、江差の三ヶ所であると記されている。したがって、これらの町では、町の開基を1189年としているようである(「福島町史」、「古代・中世の松前」など参照)。

 では、これらの町に奥州藤原氏ゆかりの人々が上陸し、定着した形跡が何らかの形で残っているかというと、残念ながら残ってはいなかった。江差町の郷土資料室(現在移転作業中)で話を聞いたが、当時の北海道は擦文文化の時代であり、発掘された土器の特徴などから北東北と交流があった形跡は見られるものの、文字として残っている同時代の資料はなく、また館の跡なども残っていないとのことであった。館と言えば、渡島半島では「道南十二館」と呼ばれる中世の城館跡が残っているが、これはもっと後代のものである。

 しかし、奥州藤原氏ゆかりの人々が新天地である「夷狄嶋」で覇を唱えたであれば、それは後世まで続いて例えば道南十二館の時代の資料にもそのように記載されていたと考えられるし、そうでないところを見ると、この時代に渡ってきた人々はこの地で静かにひっそりと暮らしていたのかもしれない(写真は松前町から見た冬の日本海。818年前、この日本海の荒波を乗り越えて渡ってきた東北の人々がいたのだろうか)。


追記(2011.9.13):江差町の郷土資料室は現在、旧檜山爾志郡役所に移転し、「江差町郷土資料館」という名称になった。

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2006年12月22日

東北の歴史のミステリーその13〜邪馬台国は東北・岩手にあった?

e48ca4a5.jpg 邪馬台国と言えば、中国の三国時代の歴史書「三国志」のうちの「魏書」東夷伝の倭人の条に出てくる女王卑弥呼が治めていた国のことである。邪馬台国については様々な謎があるが、最大の謎の一つは邪馬台国がどこにあったのかということである。有力な説は「畿内説」、「九州説」の2つであるが、「邪馬台国比定地一覧」によると、それ以外にも徳島、和歌山、山梨、長野、愛媛、石川、千葉、さらにはエジプト、インドネシアなど、様々な説が出されている。

 これに対して、たまたま書店をブラブラしてた時に見つけた「邪馬台国はどこですか?」(鯨統一郎、創元推理文庫、アマゾン該当ページ)で、主人公の宮田は邪馬台国は東北の岩手にあったとして、「こんなに堂々と土地全体が“邪馬台国はここだ!”って叫んでるのにそれに気づかないなんて、そうとう呑気だぜ」と豪語している。

 なぜそこまで断言できるのか、その根拠となるところをここで紹介したい、ところなのだが、何と言っても相手は論文でもなく歴史書でもなく「推理小説」である。安易に論旨だけ抜き出してしまうと、いわゆる「ネタバレ」になってしまう。他の人もそう考えたのであろう、ネット上に同書を紹介しているサイトは少なからずあるが、いずれもなぜ岩手にあると言えるのかまで紹介しているサイトは皆無である。そのせいかどうか、邪馬台国=岩手説はおおっぴらに語られることもなく、先に紹介した「邪馬台国比定地一覧」にも載っていない。

 しかしこれは残念なことではないだろうか。それ相応の根拠があっての邪馬台国=岩手説である。実際、この本を読むと、邪馬台国が岩手にあったという説が相当な説得力を持って語られているのだが、皆が「ネタバレ」を気にしているからか、そこから先話が発展しない。

 特に最後、岩手のどこにあったのか聞かれて(岩手と言っても広いのである、何と言っても四国と同じくらいの面積がある)、主人公がそれを明かす場面があるのだが、そこで出た地名こそが邪馬台国=岩手説の最大の根拠と言って差し支えないと思う。「土地全体が叫んでいる」わけである。東北の人なら誰でも知っているある有名な山の名前がそこで語られるのだが、この小説のクライマックスと言っていい場面、すなわち通常の推理小説で言えば名探偵が「犯人はキミだ」と指差しているような場面であるだけに、その地名を出すことも「犯人」が誰かを言ってしまうようで憚られる。

 考えてみればこのような、主人公が歴史の謎に挑む小説で最も有名な例は、義経=ジンギスカン説を正面から取り上げた高木彬光の「成吉思汗の秘密」(光文社文庫、アマゾン該当ページ)だと思うが、こちらについては刊行から既に50年近く経っているからか、義経=ジンギスカン説が既に巷間広く知られているからか、主人公の名探偵神津恭介の義経=ジンギスカンの論旨はネット上のあちこちで紹介されている。そうすると、邪馬台国=岩手説が公に論じられるにはまだまだ時間が必要ということになるのかもしれない(尤も、噴飯もので端から取り上げられないかもしれないが)。それまでは、邪馬台国=岩手説は、作者である鯨統一郎氏に敬意を表して、同書を読んだ人同士で議論する他ないかもしれない。

 そう言えば、「成吉思汗の秘密」では、ジンギスカンが義経である証拠として、この「成吉思汗」の名前そのものに注目していた。すなわちこれは「吉(野山での誓いが)成りて水干(白拍子の衣装=静)を思う」という意で、ジンギスカン(成吉思汗)とは、義経が日本にいる静御前に「自分はここにいる」というメッセージを伝えるための名前だったのだということになっている。

 それだけでなく、さらに同書の最後では、「成吉思汗」を万葉仮名として読み下せば「なすよしもがな」となり、これは静御前が敵である頼朝の眼前で義経を思って詠んだ「しずやしず しずのおだまき 繰り返し 昔を今に なすよしもがな」の「なすよしもがな」のことで、やはり義経が静御前に自分のことを伝えようとしたのだということが語られている。「邪馬台国はどこですか?」で明かされる、邪馬台国=岩手説の根拠となる地名もこれと同じようなニュアンスで語られていると言えば、分かる人には分かるだろうか。

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2006年05月26日

東北の歴史のミステリーその6〜泰衡は本当に凡愚の将だったのか?

7e24cb1d.jpg 子どもの頃、私は泰衡が大嫌いだった。小学6年の頃、学校で歴史を勉強したが、中でも源平合戦での義経や弁慶らの活躍に心躍らせていた。親に平泉中尊寺に初めて連れて行ってもらって、そこでねだって買ってもらったのが「平泉ものがたり 秀衡と義経」という当時中尊寺で出していた小冊子であったというくらい、義経が好きだった。

 となると当然、兄頼朝と不仲となって窮鳥の如く東北に落ちてきた義経を温かく迎え入れた秀衡は偉大な人物で、それに対して「義経を大将軍として鎌倉に対抗せよ」という父の遺言を守らずに義経を討ち、あげくに頼朝に攻められて東北の黄金の一世紀を終焉に導いた泰衡はどうしようもない馬鹿者だということになる。そして「あの時泰衡が義経を討たなかったら…」、と800年も前の出来事に対して、子供心に地団駄踏む思いでいたものである。

 その後も泰衡に対する私の評価はやっぱり芳しいものではなかった。奥州藤原氏を描いた高橋克彦の「炎立つ 伍」(講談社文庫、アマゾン該当ページ )を最初に読んだ時も、「泰衡のことを無理やりよく書きすぎじゃないか」と抵抗を覚えたくらいである。私に限らず、東北人の泰衡に対する評価というのは、だいたい似たようなもののような気がする。端的に言ってしまえば、「偉大な父親の跡を継いだボンボンのバカ息子」というイメージなのではないだろうか。

 その最も手厳しい意見は、松田弘洲氏が「津軽中世史の謎〜虚構の"津軽安東氏"を切る」(あすなろ舎、津軽共和国文庫ぁ砲涼罎能劼戮討い襪發里任△蹐Α松田氏は泰衡のみならず奥州藤原氏そのものを批判する。「"平泉文化"というのは、平泉藤原氏が陸奥・出羽の庶民を酷使して、しぼりあげ、自らのために造営した"仏教文化"のことである」として、「泰衡は平泉から北上川の上流に向かって逃亡したわけだが、その地はもと安倍一族の根拠地である。平泉の藤原氏が、己れの栄華のためだけに富を集積せず、地方豪族が成長するための余地を残していたとしたら、北上川の上流にいくらでも頼るべき柵、頼るべき軍勢は存在したはずなのである」、「平泉軍が北上川の上流に退却したのち、再び押し出して来れなかったのは、平泉藤原氏の治政(原文ママ)がいかなるものであったかを、そのまま物語っているのである」と述べている。

 実際に、奥州藤原氏の治世がどのようなものであったかを知るすべはないので、この松田氏の見解が是か非かは判断できかねる。ただ、後で書くが、首のない泰衡の遺体を里人が丁寧に錦の直垂で包んで埋葬したという錦神社、それから泰衡の後を追ってきた泰衡の妻北の方が夫の死を知って自害したのを憐れんで里人が建立したという西木戸神社の存在を考えると、奥州藤原氏はそこまで庶民を「しぼりあげ」てはいなかったのではないかという気がする。

 さて、泰衡を嫌いだった私だが、最近少しずつ泰衡に対する見方が変わってきた。実は泰衡はそれほど暗愚な君主ではなかったのではないか、と思うようになってきたのである。そう思うようになってきた理由はいろいろある。それを少しずつ書いていきたい。

 秋田県の北東端に鹿角市がある。その鹿角市の中心部花輪から山間の方へ、直線距離にして9kmくらい南下していくと、桃枝(どうじ)という集落がある。戸数は20戸に満たない、目立たない小さな集落であるが、この集落は非常に興味深い。実は、この集落、ほとんどの人が藤原姓なのである。この地域に伝えられている話によると、昔源頼朝に追われて落ちてきた泰衡は、この地に宿陣した際、つき従ってきた家臣に「自分が戦死したら藤原の姓を継ぐように」と言い残したのだという。泰衡の家臣の一部は泰衡の死後もこの地に残り、それでこの地に住む人々は皆、藤原姓なのだそうである。

 この逸話は先に挙げた「炎立つ 伍」でも取り上げられていて、自分の一命と引き換えに奥州を救おうと死を覚悟した泰衡が家臣たちに藤原の姓を与え、後を追って死のうとする家臣に対して「藤原を名乗るからには生き延びよ」と諭したことになっている。その巻の中でも印象的な場面の一つである。

 実際、桃枝集落の一角には墓地があるが、墓のほとんどが藤原姓である。他には綱木姓の墓が2、3あるだけである。そして、藤原姓の墓に刻まれた家紋はすべて、奥州藤原氏と同じ「下がり藤」の紋である。それらの墓の一つに墓誌が刻まれていた。それには「我が藤原家の先祖は、今を去る事七百九十余年の昔、平泉を落ち給う泰衡公に属従し、此の地に至り、浪人して山深く隠れ住み、千古不斧の大森林に開拓の鍬を振っていた。(以下略)」とあった。

 この桃枝のある場所は、実は泰衡が蝦夷地に向けて落ち延びようとした道からは外れている。蝦夷地に向けて落ち延びようとしたのであれば、清衡が整備した奥大道を北上したものと考えられるが、桃枝はそのルートからかなり外れているのである。周囲を山に囲まれた地であるから、実際には泰衡自らここを訪れたのではなく、泰衡の死後、その遺言をおしいだいた家臣たちがひっそりと移り住んだ地なのだろう。

 ただ、泰衡が本当にどうしようもない凡愚の将であったなら、その藤原の姓を800年もの間桃枝の人々が大事に名乗り通してくるというようなことはなかったのではないかという気がするのである(写真は桃枝集落の入り口)。

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2006年04月07日

東北の歴史のミステリーその4〜「泰衡の首」は泰衡の首じゃない?

e8195066.jpg では果たして、金色堂に納められている首級は経清のものなのだろうか。これについては、私はまだ高井氏に全面的に賛成ではない。経清の首と考えると生じる疑問がいくつかあるからである。

 まず、経清の首が釘付けにされたという記述はないということである。吾妻鏡には、前九年の役の安倍貞任の例にならって泰衡の首を釘打ちしたとはあるが、前九年の役の折に経清の首も貞任と同様に釘打ちされたとは書いていない。ただ、これについては、経清も貞任と同じ先の戦の首謀者であるから同様に釘打ちされたと見てもよいかもしれない。

 次に、なぜ、この首級が三代秀衡の遺体の脇に納められていたのかということである。これが経清の首で、金色堂が経清のためのものであったとするならば、三代秀衡の遺体の脇に安置されているという状況には違和感がある。独立して安置されるか、少なくとも初代清衡同様中央に納められるべきではないだろうか。

 そして、これが最大の疑問なのだが、もしこれが経清の首ならば、泰衡の首はどこへ行ったのかということである。さらされた後、粗末にされた(捨てられたなど)ことは考えにくい。なぜなら、この文治五年奥州合戦は、吾妻鏡も「義顕(義経)といい泰衡といい、させる朝敵に非ず。ただ私の宿意を以て誅亡する」(宝治二年(1248年)二月五日条)と認めているように、実は頼朝の「私怨」から行われた戦である。そのような場合、敗者は怨霊となって祟るというのが、日本における「怨霊信仰」である。頼朝は当然泰衡の首を丁重に葬ったはずである。その安置先としてはやはり金色堂よりふさわしい場所はないと思われるが、もしこの首を経清のものとした場合、泰衡の首はどこに行ってしまったのかが新たな疑問として浮上するのである。

 ただ、経清の首とする高井氏の説に有利と思われる状況もある。それは他でもない、「泰衡の首級」の状況そのものが物語っている。昭和25年の御遺体学術調査の報告書に書かれているのだが、泰衡の首には7回斬り付けられた跡があるという。また顔の表面には無数の刀傷もあるという。7回斬り付けられたというのは、鈍刀で首を切られた経清の状況に符合する気もする。

 泰衡は、実は奥州藤原氏が頼朝に滅ぼされた文治五年奥州合戦では、一度も頼朝軍と戦っていない。その泰衡になぜ無数の刀傷があるのか。泰衡が比内(現在の秋田県大館市比内)を治めていた郎従の河田次郎の裏切りにあって殺されたときにつけられたのか。しかし、吾妻鏡によれば泰衡が河田次郎を頼って贄の柵に身を寄せた時、泰衡に従う兵は数千いたという。その中で河田次郎が泰衡の首を取るのは正面からの戦ではまず無理で、ちょうど源頼朝の父、義朝が平治の乱で敗れて尾張の長田忠致の元に身を寄せた時、入浴中に襲撃されて最期を遂げたように、だまし討ちにするしかなかったはずである。そうすると激しい合戦の後を物語るような刀傷はいかにも不自然ではある。

 殺された後頼朝らによってつけられたという見方もあるかもしれないが、傷には前後関係、すなわち時間の経過があるという。つまり治りかけのものから討たれる直前のものまであるという。このように見ると、これはむしろ、12年に及んだ長い戦のその最後の乱戦の中生け捕りになった経清のものとする高井氏の見方にもそれ相応の説得力がある。

 結局のところ、真相は4体の遺体のDNA鑑定でもしない限りは明らかにならないのかもしれない。そもそも、もともとこの首級は、寺伝では泰衡に殺された忠衡のものだとされていたのである。ならば忠衡の首はどこへ行ったのかという疑問もあり、義経生存説を唱える人は、これこそ義経が生きていた傍証で、義経は殺されたと見せかけて姿を消した忠衡の案内で北に逃れたのだと言うのである。

 英雄不死伝説は多いが、その最たるものが「義経北行伝説」であると言える。が、それほど英雄視されていなかった泰衡にも実は不死説がある。次回はそれを見てみたい(写真は金色堂を風雨から守っている覆堂)。

anagma5 at 23:14|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!