藤原泰衡  

2011年09月06日

東北の歴史のミステリーその25〜藤原泰衡の子は3人いた?

090828-174639 以前、泰衡の子が山形県酒田市に逃れてきたのではないかということを書いた(ここここここ)。その後、さらに調べてみるとより詳しいことが分かった。庄内の郷土史を研究している土岐田正勝氏の「最上川河口史」によると、泰衡の子万寿は、酒田に逃れてきた当時10歳に満たなかったそうで、元服するまで徳尼公の元にいた。そして、「その後泰高と名乗り、家来数人とともに津軽の外ケ濱に行き、『牧畑』を開拓した。やがて泰高は京都に出て、平泉藤原家再興を企図したがならず、紀州日高郡高家庄の熊野新宮領に定住した。その子孫が南北朝の天授三年(1377)瀬戸内海の因島に移り住み、『巻幡(まきはた)』姓を名乗っている」とのことである。

 実際、因島(旧因島市は合併して現在は尾道市)には藤原泰高(康高)の伝承があるようである。例えば耳明神社(みみごじんじゃ)がそれである。ブログなどでもその名が現れたりしているので(参照サイト)、因島の人にとっては藤原泰高は馴染みのある人物のようである。

 ただ、「最上川河口史」にある、泰高が開拓したという「津軽の外ヶ濱」の「牧畑」とはどの辺りなのか分からない。青森県内には該当しそうな地名が見当たらないのである。単なる推測だが、「外ヶ濱」の「牧畑」は津軽ではないのではないだろうか。例えば、隠岐の西ノ島町には「牧畑」があって(参照サイト)、「外浜」という地名がある(参照サイト)。ここでは「牧畑」は地名ではなく、「畑を区切り放牧と耕作を輪換する畑」のことだそうだが、想像を膨らませれば、ひょっとすると泰高は隠岐の外浜を開拓したのかもしれない。さらに言えば、隠岐は知っての通り、かつては流刑地だったので、ひょっとすると泰高は鎌倉に見つかって命は助けられたものの隠岐に流されたのかもしれない。その後赦されて熊野に移り住んだ可能性もある。

 泰衡の子については、実は酒田市以外に平泉から北に70km弱のところに位置する岩手県紫波町にも伝承がある参照サイト)。現在の紫波町は当時、奥州藤原氏初代清衡の孫の樋爪太郎俊衡、五郎季衡兄弟が治めていた。兄弟の館である樋爪館は五郎沼の近く、現在の紫波町立赤石小学校の場所にあったとされるが、この五郎沼の名前の由来は、五郎季衡が幼い頃によく泳いで遊んだことからつけられたという。

 太郎俊衡は文治五年奥州合戦の頃には出家して蓮阿と名乗っていたが、合戦後頼朝の陣に投降、この地を安堵された。その後俊衡は領内の大荘厳寺に居住したそうだが、そこで泰衡の子である秀安を育て、自分の娘の璋子を妻にさせたと伝えられているそうである。

 「岩手県史」第一巻には、「泰衡の子供については、胆沢郡小山村名号堂(今明後堂沢と云う)西風屋敷阿部家所蔵系譜によると、泰衡に男子二人があり兄時衡は討死、弟秀安は、樋爪俊衡入道に扶育されて成長し、子孫阿部氏(中頃安倍氏を称す)を称した」とある。この系譜の泰衡のところには「二子ヲ俊衡ニ委(ゆだね)テ、泉城ニ火ヲ放チ、臣河田次郎ヲ従ヒ、佐比内ニ逃遁ノ途、次郎返心シテ不意二討テ首ヲ頼朝ニ上ル。頼朝、次郎主ヲ討スル罪ヲ問ヒ、斬罪二処ス」とあるのだそうである。

 岩手県史にはその系図も掲載されているが、それには時衡について、「文治五・九・三 討死 二〇」と記載されている。文治5年9月3日というのはまさに泰衡が河田次郎の裏切りに遭い、殺された日である。頼朝の軍はこれより先、8月22日に平泉に進駐しており、以降合戦があったとは吾妻鏡にも記されていない。従って、この記述を信じるとすると、時衡も泰衡が河田次郎に襲われたこの時に一緒に討たれてしまったと考えられる。

 つまり、まず泰衡には時衡という長子がいたが、泰衡最期の地比内(系譜には「佐比内」とあるがこれは紫波町内にある地名であり吾妻鏡の記載にある秋田県の「比内」の誤りではないだろうか)で父泰衡と共に河田次郎の軍勢と戦って討死し、弟の秀安が樋爪俊衡に匿われて無事成長したということのようである。岩手県史の系図にはこの秀安について「安元二生」と書いてある。安元2年は1176年であるから、父泰衡と兄時衡が死んだ時、秀安は13歳だったことになる。

 ここで注目すべき記述がある。「岩手県史」で紹介されている系譜の「二子ヲ俊衡ニ委(ゆだね)テ」という記述である。一人は秀安であるとして、もう一人は誰だろうか。「岩手県史」の編者はこの「二子」を時衡と秀安のこととしてさらっと流しているが、兄時衡は父泰衡と行動を共にしたわけであるから、「俊衡ニ委」ねられたのが時衡のことでないのは明らかである。そこで思い出されるのが、酒田に逃れたという泰高である。すなわち、俊衡に委ねられたのは、秀安、そしてもう一人は泰高のことだったのではないだろうか。

 一旦俊衡に預けられたうちの一人がなぜ酒田に逃れたのか。恐らく俊衡は、二人とも見つかった時のことを考えたのではないだろうか。万が一泰衡の二人の子が同時に幕府に見つかって殺されでもしたら、奥州藤原氏の血統が途絶えてしまう。そう考えて、一人は自分の元に置き、もう一人は徳尼公と36人の家臣に託して遠くに逃れさせたのではないだろうか。それが酒田に落ち延びた泰高ではなかったかと思うのである。

 さて、以前紹介した泰衡の奥方を祀った西木戸神社に関する伝承にも泰衡の子のことが出てくる。奥方は夫泰衡の跡を追い子供3人と侍従を連れて現在西木戸神社のある地までやって来たが、泰衡は既に4日前に河田次郎に殺されたと知り、悲嘆のあまり子供を従者に託して自害したというのである。西木戸神社にある説明板には3人の子のことは出ていなかったが、一部にはそのような伝承もあるようである(参照サイト)。

 そうすると、泰衡の子は、時衡、秀安、泰高、それに西木戸神社までやってきた3人の子と、合わせて6人もいることになるが、さすがにこれは多すぎのような気がする。泰衡の父秀衡には泰衡を含めて6人の子(国衡、泰衡、忠衡、高衡(または隆衡)、通衡、頼衡)がいたことが分かっているが、秀衡は66歳まで生きたとされる。対して泰衡は35歳(25歳という説もあるがそれだと時衡が20歳で討死というのと計算が合わない)で死んでいる。そう考えると、泰衡の子はやはり最大でも時衡、秀安、泰高の3人で、西木戸神社に伝わっている3人の子というのはこの3人のことを言っているのではないだろうか(従って、3人の子は泰衡の奥方と行動は共にしていなかったことになる)。ついでに言えば、これまでの情報を整理すると、長男は時衡(文治五年奥州合戦時に20歳)、次男が秀安(同じく13歳)、三男が泰高(同じく10歳未満)ということになる。

090828-174248 上の写真は五郎沼である。中島もあって、俊衡が治めていた頃は浄土庭園だったのではないかという気もしている。同様の見方をしている方は他にもおられるようである(参照サイト)。五郎沼の案内板には五郎沼に隣接して樋爪館と大荘厳寺があった様子が再現されている(右写真参照)。これを見ると、当時の樋爪館周辺は、「ミニ平泉」とでも言うべき街並みがあったことが窺える。

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2008年11月13日

東北の歴史のミステリーその23〜酒田市の成り立ちと奥州藤原氏

da691530.jpg そもそも頼朝は、泰衡の子供のことについては考えなかったのだろうか。その気になれば支配下に置いた陸奥出羽両国内を徹底的に探し続けることもできたはずである。しかし、そのようなことをした形跡は、少なくとも記録上はない。

 この頼朝による奥州攻めは、徹底的に源頼義が安倍貞任を討った前九年の役に倣っている。源頼義が最終的に勝利を収めた厨川に入る日付も合わせ、泰衡の首に釘を打って晒すやり方も安倍貞任にしたやり方を踏襲、挙句にはその釘を打つ作業も貞任の首に釘を打った者の子孫を探し出してさせるなど、実に徹底している。源頼義は棟梁の貞任は殺したが、弟の宗任は西国へ流罪とした。頼朝も泰衡の首は取ったが、弟の高衡は流罪としている。全くの余談だが、安倍晋三元首相は、この時流罪となった安倍宗任の末裔だそうである。

 ただ一つ、頼義が「戦後処理」において、自分の思い通りにできなかったことがあった。安倍貞任の子供のことである。千代童丸という当時13歳で元服前だった貞任の子は捕縛された。頼義は哀れに思って命を助けようとしたのだが、前九年の役の勝利を決定づけた出羽の清原武則に反対され、やむなく斬らざるを得なかったのである。前九年の役を徹底的に模倣しようとした頼朝は、この場面をどう考えたろうか。頼義は敵の棟梁の子を助けようとしたができなかった。頼朝は頼義の意思を継いで、泰衡の首は取っても、その子は助けようと考えたのではないだろうか

 そう考えれば、頼朝が執拗に泰衡の子の行方を探し回らなかったことにも説明がつく。何といっても、自分の弟義経の時はあれだけ執拗に行方を探索させた頼朝である。その気になればどんなことをしてでも探し出すよう命じたはずである。それをしていないということは、泰衡の子については、端から殺すつもりはなかったということなのではないだろうか。

 もう一つ、泰衡の子を助けた理由になりそうなのは、頼朝の「罪悪感」のようなものである。鎌倉幕府の公文書吾妻鏡自らが認めている通り、義経にしても泰衡にしてもさしたる朝敵ではなかった。ただ、頼義・義家の時代に奥州を手に入れることができなかった遺恨で奥州藤原氏を攻め滅ぼしたというのが文治五年奥州合戦の実情である。当然頼朝にもそうした私的な思いから発した戦に対する罪悪感が少なからずあったのではないだろうか。したがって、棟梁の泰衡は殺さなければならなかったものの、その弟や子供は命までは奪わなくてもよいと考えたのではないかと思うのである。

 これまで頼朝のものと伝えられてきた神護寺の肖像画(実際には足利尊氏の弟直義のものとする説が有力である)のイメージ通り、頼朝については、冷徹な人間という見方が定着しているが、こと奥州合戦については、そうではない一面も見え隠れしている気がするのである(写真は頼朝が寄進した羽黒山の黄金堂である)。

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2008年11月02日

東北の歴史のミステリーその22〜酒田市の成り立ちと奥州藤原氏

24ba41a2.jpg 徳尼公はなぜ平泉を逃れなければならなかったのだろうか。普通、戦に敗れても棟梁の妻が殺されることはない。奥六郡の覇者であった安倍氏が滅ぼされた前九年の役で、安倍氏側について殺された藤原経清の妻は、源頼義側につき安倍氏に代わって奥六郡を収めることになった出羽の豪族清原氏の清原武貞に再嫁させられる。

 このことについては、かつては女性が「戦利品」扱いされた表れと捉えられたが、実際はそうではなくその地の人心をつかむためには、後家の処遇が鍵だったのである。事実、奥州藤原氏が滅んだ文治五年奥州合戦の後、藤原秀衡の後家が平泉で存命だったことを受けて、幕府が憐憫の情を持って対応するよう奥州総奉行に命じたことが、吾妻鏡に書かれているのである。

 そこでまた疑問が出る。秀衡の後家(これは本妻、すなわち泰衡の母だろう)が奥州藤原氏滅亡後も平泉にとどまっていて危害を加えられることがなかったにもかかわらず、なぜ秀衡の妹あるいは側室は平泉を逃れなければならなかったのかということである。何か平泉にとどまっていてはいけない理由があったのだろうか。

 そう考えると、後に徳尼公と称された女性は、決して頼朝に見つかってはならない何かを持っていて、そのために平泉を離れなければならなかったのではないだろうか。それはいったい何だろうか。平泉の繁栄を支えた黄金に関する何かか、それとも…。

 私にとって以前から疑問だったのは、泰衡の子がどうなったかということである。殺された時泰衡は35歳だった(25歳という説もある)。当然子供がいて不思議ではない年齢である。しかし、吾妻鏡には、泰衡の子が見つかって殺されたといったような記述はない。では元々子供がいなかったのか。以前、泰衡の妻については、夫泰衡の後を追って自害した場所が神社になっていることを紹介した。しかし、そこでも2人の子供のことについては何も触れられていない。

 そこで考え付いたのが、徳尼公は実は泰衡の子を守って平泉を逃れたのではないかということである。そう考えれば、徳尼公が平泉を離れなければならなかったことにも合点がいく。自身は殺されることはなくても、泰衡の子となれば殺されることはほぼ間違いない。それでその子を連れ、家臣に守られて酒田まで落ちのびたのではないだろうか。

 そう思って調べてみたら、やはりそのような伝承はあった。酒田市が発行した「酒田の歴史探訪」には、「平泉藤原家の遺臣三十六騎が藤原秀衡の後室と言われる徳姫と、泰衡の一子・万寿のお供をして平泉を逃れました」とある。万寿というのは元服前の名前のようなので、事実とすると泰衡の子はまだ幼かったことになる。

 泰衡の子万寿はその後どうしたのだろうか。徳尼公が天寿を全うし、三十六騎の遺臣が地侍となったことは伝わっていても、万寿がどうなったかは伝わっていないようである。しかし、状況から見て、きっと万寿もまた幕府に殺されたりすることなく、無事自分の人生を全うしたのではないかと思うのである(写真は現在の酒田市宮野浦の海岸。巨大な風車が並んでいる)。


追記(2010.9.5):「吾妻鏡」の文治5年(1189年)11月8日には、「泰衡の幼い子息の居所がわからないので探し出して身柄を確保せよ、その名前が若公(頼朝の子・頼家)と同じ名前(万寿)であるから、名を改めるように」との指示が出されている。これを見ると、幕府は泰衡に子があったことは把握しているが、その居場所については把握していなかったことが分かる。また、その後所在が明らかになったという記述もない。

 改名の指示も出ているが、これは本人がいる、いないに関係なくできることである(逃亡中の義経が「義行」「義顕」と二度も改名されたように)。

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2008年01月27日

東北の歴史のミステリーその18〜なぜ「阿津賀志山」だったのか

b2743c21.jpg さて、もっとも、泰衡が阿津賀志山に防塁を築いたのには、積極的な理由だけではなく、もう一つやむを得なかった理由もあるようである。それは、奥州藤原氏の支配形態と関係している。

 すなわち、奥州藤原氏が陸奥と出羽の広大な二国を実効支配していたとは言っても、その状況は北と南ではずいぶん違っていたということである。北は泰衡を討った河田次郎が吾妻鏡で「累代の家人」と書かれているように、奥州藤原氏に臣下の礼を取っていた豪族が多かったのに対し、南は早くから荘園開発が進んだこともあって、在地武士団とも言うべき集団が割拠しており、奥州藤原氏はそれらのうちの有力者とは乳母関係、あるいは婚姻関係を通じて関係を深めていたという側面があるのである。

 鎌倉側と対峙する局面となった際、陸奥の南(南奥)、領域で言うとほぼ今の福島県地域であろうが、その地域にはこれまでどおり奥州藤原氏との関係を続けようとする武士団と、鎌倉側につこうとする武士団とが、それぞれの領域争いも絡んで分かれて存在し、一枚岩ではなかったのである。実際、文治五年奥州合戦後も旧来の領土を安堵された豪族も南奥には少なからずいたことが分かっているが、それは紛れもなく鎌倉側についたことを表している。

 吾妻鏡の文治五年奥州合戦の部分を読んでいて不思議に思っていたのは、海道軍、大手軍、北陸軍と3つに分けた鎌倉側の軍のうち、頼朝率いる大手軍と日本海岸を北上した北陸軍が奥州側と交戦した記録はあるが、福島の太平洋岸を北上した海道軍が奥州軍と交戦したという記載がなかったことである。それは、福島の太平洋岸を押さえていた武士団は頼朝に従い、交戦しなかったか、あるいは交戦した軍があったとしても書くに値しないくらい散発的な抵抗でしかなかったということなのであろう。

 実際、福島県いわき市にある飯野八幡神社には文治二年に頼朝の意向に従って八幡神社に宮換えしたという記録が残っているそうである。文治二年と言えば、北方の王者と言われ、歴代の奥州藤原氏の中でも最大の勢力を誇ったと言われる三代藤原秀衡が在世中のことである。頼朝の対奥州戦略は水面下でそのように着々と進んでいたわけである(写真の向こうに見えるのが国道4号線から見た厚樫山(阿津賀志山)。まさに、それまで真っ直ぐ伸びてきたこの国道の行く手を阻んでいる)。

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2007年12月09日

東北の歴史のミステリーその17〜なぜ「阿津賀志山」だったのか

519272c9.jpg 以前、私がかつて義経が好きで泰衡のことが好きではなかったということを書いたが、その理由の一つが奥州藤原氏滅亡前夜の「阿津賀志山(あつかしやま)」にもあった。

 子供でも読める義経の伝記は大抵義経記を中心に源平盛衰記、平家物語などにある義経の話をミックスして書かれているが、秀衡臨終の場面はだいたい義経記に則して書かれている。義経記を読むと、秀衡は死の直前、

「定めて秀衡死したらば、鎌倉殿より判官殿討ち奉れと宣旨院宣下るべし。勲功には常陸を賜はるべきと有らんずるぞ。相構へてそれを用うべからず。入道が身には出羽奥州は過分の所にてあるぞ。況んや親に勝る子有らんや、各々が身を以て他国を賜はらん事叶ふべからず。鎌倉よりの御使なりとも首を斬れ。両三度に及びて御使を斬るならば、其の後はよも下されじ。たとひ下さるとも、大事にてぞ有らんずらん。其の用意をせよ。念珠、白河両関をば西木戸に防がせて、判官殿を愚になし奉るべからず。過分の振舞あるべからず。此の遺言をだにも違へずは、末世と言ふとも汝等が末の世は安穏なるべしと心得よ、生を隔つとも」

と遺言している。

 つまり、「秀衡は自分の死後頼朝が朝廷の宣旨や院宣をたてに義経を討て、その暁には常陸(茨城県)も与えるぞと言ってくるだろうが、それに乗ってはいけない。鎌倉から使いが来たら首を斬って戦の用意をせよ。国衡に念珠関(山形と新潟の県境)と白河関(福島と栃木の県境)を防がせ、義経を奉じればそなたらは安穏だ」と遺言したというのだ。ところが、実際には泰衡はこの偉大な父の遺言に背いて、あろうことか義経を討ち、これで一件落着かと思いきや、義経がいなくなってこれ幸いとばかりに突如頼朝に攻められる。驚いた泰衡は奥州の南端、福島と栃木の県境の白河を固めることができず、慌ててもっと平泉寄り、福島と宮城の県境にある阿津賀志山に防塁を俄かごしらえで作るが、ここを破られると一戦もせずに逃げ回り、挙句の果てに家臣の河田次郎に討たれて最期を遂げるという筋書きである。

 義経記の最後はこう結ばれている。

「故入道が遺言の如く、錦戸、比爪両人両関をふさぎ、泰衡、泉、判官殿の御下知に従ひて軍をしたりせば、いかでか斯様になり果つべき。親の遺言と言ひ、君に不忠と言ひ、悪逆無道を存じ立ちて、命も滅び、子孫絶えて、代々の所領他人の宝となるこそ悲しけれ。侍たらん者は、忠孝を専とせずんばあるべからず。口惜しかりしものなり」。

 読んでいる昔の私も、まったくこの作者と同じ心境で、「口惜し」がっていたものである。

 東北の南端を固めずに易々と宮城県境付近まで鎌倉軍の侵入を許してしまったことも私としてはかなり口惜しかったものである。なぜなら、この一連のストーリーで言えば、「阿津賀志山」(現在では厚樫山と表記する)というのは、泰衡の「先見性のなさ」の現われであって、鎌倉軍の進軍が早かったために奥州と坂東との境界であった白河以北を捨て、宮城・福島県境付近に防塁を築かざるを得なかったということになるからである。

 しかし、では実際のところ本当にそうだったのかと言うと、実はこの阿津賀志山の防塁はそのような慌てて作った俄かごしらえのものではないことが、発掘調査の結果既に分かっている。この作業には、半年以上かけて、延べ25万人が動員されたと推定されている。現在でもその遺構の一部は福島県国見町に残っているが(写真参照)、阿津賀志山の山麓に端を発して、現在の国道4号線、JR東北本線とほぼ重なると思われる奥大道を寸断してさらに東進し、阿武隈川にまで至るおよそ4kmにも及ぶ長大な防塁である。二重の堀とその前後の三重の土塁からなり、そこから地元ではこの防塁のことは二重堀(ふたえぼり)と呼ばれているが、確かにいかにも駿馬の一大産地であった奥州に築かれた防塁らしく、福島県立博物館にある復元模型などを見ると、ここを騎馬で越えるのはほとんど不可能と思えるような構造の防塁である。

 ちなみに、この阿津賀志山防塁、元寇の際に築かれた福岡市の元寇防塁、太宰府の水城防塁と並んで日本三大防塁の一つに数えられている。とても、その規模から言っても急造の不完全な防御施設と言って済ませられるような類のものではない。つまり、泰衡は鎌倉軍の侵攻が行われることを事前に察知して、ある程度の時間的余裕(とは言ってももちろん時間は限られていただろうが)を持ってこの防塁を築いたと言えるのである。

 また、この阿津賀志山の地を選んだというのも非常に合理的な理由があってのことである。福島県中通り北部から宮城県に入ろうとする境界にこの阿津賀志山はあるが、ここはまさに天然の要害である。今でも、ここを通るJR東北本線、東北自動車道、国道4号線のすべての行く手を阻み、そのためこれらの鉄道、道路は阿津賀志山を大きく迂回し、その合間をそれこそ肩を寄せ合うように通り抜けているのである(ちなみに、JR東北新幹線だけは阿津賀志山の西にトンネルを掘り真っ直ぐ走っている)。まさにここを閉鎖されれば、鎌倉側の大軍がその先に進むことは極めて困難な、そのような場所なのである。

 これに対して、奥州最南端の白河の関があるところは、栃木県との県境付近であり、今も残っている関所跡の南には「峠の明神」が祭られてある県境の峠があるが、「天然の要害」と言えるような地形ではない。ただ登って下るだけの地形である。誰かが言っていたが、白河の関は「交通検問所」のようなもので、陸奥と坂東の境界線を示すという意味合いが強く、決して外的の進入を防ぐのに適した場所とは言えないのである。

 事実、関所跡を見ると、一応周囲は堀が廻らされているが、ここに籠って外敵を討つなどというのはほとんど不可能と思えるような代物で、奥州藤原氏やその前の安倍氏、清原氏が築いていた柵と言われる防衛拠点とは比ぶべくもない。特に、この時代には既に関所としての機能は失われていたようで、白河の関はまさに単なる境界線でしかなかったわけである。泰衡には、阿津賀志山にこそ防塁を築く積極的な理由があったわけである。

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2007年02月17日

東北の歴史のミステリーその14〜海を渡った奥州藤原氏

45f3380f.jpg 奥州藤原氏が源頼朝の侵攻に遭ってあえなく滅亡してしまったのは文治五年(1189年)である。吾妻鏡には、泰衡は「夷狄嶋を差し、糠部郡に赴く」とあり、北海道を目指して逃亡したと書かれている。

 既に紹介したように、泰衡はその後なぜか北海道には渡らず、贄の柵(秋田県大館市)で河田次郎に討たれ、その生涯を終えるが、実際に北海道に渡った奥州藤原氏ゆかりの人々もいたようである。これは以前、コメントを寄せてくれた瑠奈氏に教えていただいた。

 北海道に義経が渡ったという伝説があることは知っていたが、奥州藤原氏の関係の人々が渡ったことは知らなかった。その後調べてみると、確かに北海道の渡島半島の各地には、奥州藤原氏の人々が渡ってきたという伝承が残っていることが分かった。

 正保二年(1645年)に成立した松前藩の史書「新羅之記録・上巻」には、「右大将頼朝卿進発して奥州の泰衡を追討し御たまひし節、糠部、津軽より人多く此国に逃げ渡って居住す」とある。また、大正七年渡島教育会が編纂した「凾館支庁管内町村誌・其二」(道立文書館所蔵) の吉岡村の項でも、同じく松前藩の史書「福山舊事記(ふくやまくじき)」に「文治五年七月十五日鎌倉将軍右大将頼朝公藤原泰衡追討ノ節津軽糠部ヨリ里人多ク当国ヘ逃渡リ初メテ定住ス」とあることを紹介している。

 いずれも、糠部や津軽の住人が北海道に渡ってきたとしているが、それ以外の地に住んでいた人も含めてこれらの場所から北海道に渡ってきたと考える方が自然な気がする。糠部や津軽の地域は実際には頼朝に攻められていないのであるから、「難民」が発生したのだとすると、それは他の地域から逃れてきた人々だと考えられる。吾妻鏡には泰衡は「数千の軍兵に圍まれ」ていたとある。ひょっとするとこの数千の軍兵の一部が泰衡の死後、北海道に渡ったとも考えられる。

 ちなみに、「凾館支庁管内町村誌・其二」は、同じ吉岡村の項で「津軽ヲ距ルコト僅カニ七里自然ノ港湾ヲ有スル當地ノ如キ最初ノ上陸地点ナルベキカ」として、これら奥州藤原氏ゆかりの人々の最初の上陸地点は吉岡だったのではないかと推測している。また、江差町の「桧山沿革史」 によれば、 これら奥州藤原氏のゆかりの人々がその後定着した所は、吉岡、松前、江差の三ヶ所であると記されている。したがって、これらの町では、町の開基を1189年としているようである(「福島町史」、「古代・中世の松前」など参照)。

 では、これらの町に奥州藤原氏ゆかりの人々が上陸し、定着した形跡が何らかの形で残っているかというと、残念ながら残ってはいなかった。江差町の郷土資料室(現在移転作業中)で話を聞いたが、当時の北海道は擦文文化の時代であり、発掘された土器の特徴などから北東北と交流があった形跡は見られるものの、文字として残っている同時代の資料はなく、また館の跡なども残っていないとのことであった。館と言えば、渡島半島では「道南十二館」と呼ばれる中世の城館跡が残っているが、これはもっと後代のものである。

 しかし、奥州藤原氏ゆかりの人々が新天地である「夷狄嶋」で覇を唱えたであれば、それは後世まで続いて例えば道南十二館の時代の資料にもそのように記載されていたと考えられるし、そうでないところを見ると、この時代に渡ってきた人々はこの地で静かにひっそりと暮らしていたのかもしれない(写真は松前町から見た冬の日本海。818年前、この日本海の荒波を乗り越えて渡ってきた東北の人々がいたのだろうか)。


追記(2011.9.13):江差町の郷土資料室は現在、旧檜山爾志郡役所に移転し、「江差町郷土資料館」という名称になった。

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2006年09月04日

東北の歴史のミステリーその11〜泰衡は死んでいなかった?

c10f6847.jpg 中尊寺金色堂に納められた首級がやはり泰衡のものである可能性が高いとする資料が実は私の手元にあった。「奥州平泉黄金の世紀」(荒木伸介・角田文衞他、新潮社、アマゾン該当ページ)という本であるが、その中に、東京大学理学部教授だった故・埴原和郎氏が「藤原一族の骨格データを読む」という論文を寄稿している。埴原氏は、自然人類学の権威であり、特に歯や骨のデータから日本人のルーツや成り立ちを解き明かそうとしていたひとである。

 この本の中で埴原氏は、昭和25年の御遺体学術調査の折に得られた藤原四代の頭骨の、‘骨最大長、頭骨最大幅、バジオン・ブレグマ高、に帽弓幅、ゾ經藕癲↓ι”、鼻高、といった「人類学的に重要な計測値」を多変量解析している(写真参照)。

 埴原氏はまず、クラスター分析によって藤原四代の頭骨の相互の類似性を分析している。それによると、4人の中で三代秀衡の頭骨と四代泰衡の頭骨がもっとも近いという結果が得られている。そして、秀衡・泰衡は二代基衡・初代清衡とはやや異なっており、それは基衡が安倍氏から妻を迎えて秀衡を産んだことと関係があるかもしれないとしている。

 この結果は、中尊寺金色堂に納められた首級がやはり泰衡のものであると判断するに足る根拠を提供しているように考えられる。以前紹介した金色堂はなぜ建てられたか―金色堂に眠る首級の謎を解く 」で高井ふみや氏が主張しているように、もし首級が経清のものとした場合、ではなぜ秀衡の頭骨と、秀衡から数えて三代前の経清の頭骨とが、清衡や基衡よりも互いに似通っているのかということを説明することは困難なように思える。まして、これまた以前紹介した歴史おもしろ推理 謎の迷宮入り事件を解け 」で楠木誠一郎氏が主張しているように、泰衡の首級が誰か別の人間のものだとした場合、それが秀衡の頭骨とかなり似ていることを説明するのはさらに困難である。

 埴原氏はさらに分析を進め、これら藤原四代の頭骨は、現代京都人に最も近く、現代東北人とはかなり違っていること、そしてまた14世紀鎌倉人、八雲アイヌとはまったく異なっているという結果を得ている。また、判別関数法から見てみると、アイヌと東北人のデータを使うと藤原四代は東北人に属すると分類され、さらに東北人と京都人のデータを使うといずれも京都人に分類されるという結果となったという。これらの結果から埴原氏は、奥州藤原氏が京都出身である可能性は相当高いと主張している。

 したがって、泰衡の首級がもし偽首だとした場合、頭骨データから見て、その身代わりは地元東北人であってはならず、京都出身の特徴を持つ秀衡や泰衡と極めて近い血縁者などでなくてはならないことになる。例えば少なくとも4人いた泰衡の弟たちがそうであろう。しかし、秀衡や泰衡に近い血縁者であればそれなりの地位にある人物ばかりであったろうし、そうした地位の人物を身代わりにするのはほぼ不可能に近いと思われる。

 ちなみに、泰衡は6人兄弟の2番目である。腹違いの兄国衡は阿津賀志山の合戦で、大将軍として鎌倉側と激しく戦い、戦死している。泰衡のすぐ下の弟の忠衡は義経に与したとして、頼朝の侵攻の前に泰衡に誅されている。四男の高衡(隆衡としている資料もある)は、義経の首を鎌倉に届ける際に使者となった人物だが、泰衡が河田次郎に討たれた後、鎌倉側に投降している。五男の通衡(みちひら)はわからない。六男の頼衡も泰衡に誅されたと室町時代に成立した「尊卑分脈」には記されている。忠衡が討たれたのと同じ理由だろうか(頼衡の実在を疑う説もある)。

 討たれたと言っても、忠衡の遺骸がどこに埋められたのか、定かではない。もちろん、頼衡もそうである。金色堂の秀衡の遺体のそばにあった首級は元々忠衡のものと伝えられてきたが、実はそうではなかったということが分かったのと同時に生じた疑問は、では忠衡の遺体はどこに行ったのかということである。もちろん、時代が移り変わる中で、単にどこに埋めたのかが明確でなくなっただけなのかもしれない。一方で、義経生存説は東北に根強いが、その中では忠衡は死んだと見せかけて義経を案内して渡島に渡ったと伝えられている。頼衡については津軽外が浜(青森県の陸奥湾沿岸)に逃れて津軽浪岡氏の祖になったという伝承がある。もちろん、いずれも正史と信じられるには至っていない。

 こうして見ると、6人兄弟のうち、五男の通衡だけが文治五年奥州合戦後の所在がわからない。通衡が泰衡の身代わりとなった可能性があったかどうか。さらに穿った見方をすれば、四男の高衡が投降したのは、面が割れていて逃げおおせないと考えたからなのかもしれない。それ以外の兄弟は鎌倉側に顔を知られていなかったのだから、敗色濃厚となって逃亡しようと思えば逃亡できたかもしれない。ただし、そのような証拠はないし(逃げようとする者がわざわざ逃げた証拠を残していくとも思えないが)、ない以上すべては憶測でしかなく、結局中尊寺に祀られている首級は泰衡のものである可能性が非常に高いという事実は動かしようがないということである。

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2006年08月26日

東北の歴史のミステリーその10〜泰衡は本当に凡愚の将だったのか

84a1f701.jpg 泰衡は最期の地となった比内(現在の秋田県大館市比内町)でいったい何をしていたのか。

 吾妻鏡によると、泰衡が平泉の自分の館に火を放ってさらに北に逃れたのが文治5年8月21日、河田次郎の裏切りに遭って命を落としたのが9月3日である。

 奥州は南端の白河関(福島県白河市)から北端の外ヶ浜(青森県青森市)まで、奥州藤原氏初代清衡が「奥大道(おくだいどう)」と呼ばれる街道を整備した。全行程20日余だという。平泉は白河と外ヶ浜のちょうど中間に位置しているので、平泉から外ヶ浜までは10日余である。

 泰衡が逃亡に逃亡を重ね、果ては夷狄嶋(北海道)を目指して北上したのだとすれば、普通の行程でも8月21日に平泉を立てば、8月末までには外ヶ浜までたどり着けたはずである。吾妻鏡に記されている通り、慌てふためいて一目散に逃げ出したのだとすれば、もっと早く外ヶ浜に着いて、「念願」の夷狄嶋への逃亡が可能だったに違いない。

 にも関わらず、河田次郎に殺害された9月3日の段階で泰衡が秋田県北部の比内(秋田県大館市比内)に留まっていたのはなぜなのか。さらに吾妻鏡には、夷狄嶋を目指して糠部郡に赴いたともある。糠部郡とは現在の青森県東南部から岩手県北部にかけての地域であり、秋田県北部の比内はそこに含まれない。

 さらに言えば、夷狄嶋を目指してということであれば、その順当な「逃走ルート」は奥大道であったろうから、そこから外れる糠部郡に向かうのには、何か理由があったのではないかとも考えられる。あるいは、奥大道に沿って北上したのではなく、糠部郡を経由して宇曽利郷(現在の下北半島)から夷狄嶋に渡ろうとしたのかもしれない。しかし、そうすると、なぜ糠部郡へ向かう道にない比内にいたのかやはり不明である。要するに、平泉を離れた後の泰衡の足取りには謎が多いように思えるのである。

 この間、泰衡は頼朝に命乞いの手紙を出したと吾妻鏡には記されている。その手紙には、返事は比内の辺りに落としてほしいと書いてあった。泰衡は頼朝からの返事を待つために比内に留まったのだろうか。しかし、吾妻鏡には夷狄嶋目指して逃亡していたとある。逃亡するなら、頼朝に命乞いの手紙を出す必要も、返事を待つ必要もないように思えるのだが…。この辺り、吾妻鏡の編者はどう考えていたのだろうか。

 以前、このブログを読んでくれた璃奈氏に兜神社鎧神社のことをコメントで指摘していただいた。指摘していただくまでその存在をすっかり忘れていたのだが、確かに、兜神社にはその名の通り泰衡の兜が、鎧神社には泰衡の鎧がご神体として祭られているという。

 問題なのは、これらの神社のある場所である。これらの神社はいずれも秋田県北西部の能代市の旧二ツ井町にある。最期の地比内からさらに西に約60kmの場所である。泰衡がここまで来ていたのだとすると、「夷狄嶋目指して北上した」という吾妻鏡の記述と矛盾するし、いったんここまで来ながらなぜ比内まで戻ったのかも不明である。

 兜神社にはその由来を記したものがなかったが、鎧神社には「泰衡が源義経をかくまったとして頼朝軍に攻められ平泉を逃れるが、この地に達したとき疲労甚だしく、鎧を薄井に置いて逃げたという。泰衡は郎党、河田次郎によって殺害されるが、村人はこれを憐みこの社に祀ったとされる」とある。さらっと「この地に達したとき」とあるが、この地に達した泰衡がなぜ比内に舞い戻ったのかについては記されていない。

 泰衡は逃げたのではなく、戦略的に北上したのだとする見方もある。海保嶺夫氏は「エゾの歴史−北の人びとと『日本』」(講談社学術文庫、アマゾン該当ページ)の中で、「平泉藤原氏はより北方に拠点(良港)を築いていた可能性がある」と指摘している。氏は泰衡の北走について、「四代泰衡が源頼朝の北征軍とろくな戦いもせず『夷狄島』へ逃げようとした(『吾妻鏡』)のは、たんなる逃走ではなく、彼なりの計算があったように思われてならない」と述べている。氏によれば、平和が100年も続いて実践の経験が皆無の奥州武士と、源平合戦などで実戦経験を十分に持っている関東武士との陸上戦の結果は見えているが、拠点を北方に移して日本海の荒波を乗り切った水軍を指揮して、海戦に持ち込めば勝機はあると泰衡は考えたのではないか、というのである。

 もちろん、氏自ら「文字通りの推測である」と述べており、泰衡がそのように考えて北に逃れたのだと判断できる材料は残っていない。津軽には安東水軍などの伝承はあるものの、奥州藤原氏が水軍を持っていたという確たる証拠も今のところない。しかし、吾妻鏡に記述されている材料を拾ってみても先に紹介したように、泰衡の行動には不可解さが残る。何か考えるところがあっての行動だったと解釈してもそう無理な推測ではないように思える。もちろん、それが何だったかは今となっては歴史の狭間に埋もれてしまってわからないままなのであるが(写真は泰衡最期の地なのではないかと私が考えている秋田県大館市の二井田八幡神社)。

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2006年07月26日

東北の歴史ミステリーその9〜泰衡は本当に凡愚の将だったのか

yuda ユダと言えば、聖書によれば銀貨30枚で師イエスを裏切った男である。イエスはユダに裏切られて十字架にかけられ、その結果、ユダの名前は「裏切り者」の代名詞になった。

 ところが、1970年代にエジプトの砂漠で発見され、アメリカのナショナル・ジオグラフィック協会の支援プロジェクトが復元、解読に成功して今年4月に全容が公表された1700年前のパピルス文書「ユダの福音書」という文書には、その「常識」とはまったく異なる内容のことが書かれてあったという。

 それによれば、これまで「裏切り者」の代名詞だったユダこそ、実はイエスの一番弟子であり、イエスは自らの魂を「肉体の牢獄」から解放するために、ユダに指示して密告させたとも書かれているのだという(詳細は、ナショナル・ジオグラフィックの特集ページ)。今年4月以降、「ナショナル・ジオグラフィック 日本版 2006年 05月号」で特集が組まれたのを皮切りに(アマゾン該当ページ )、「ユダの福音書を追え」(アマゾン該当ページ )「原典 ユダの福音書」(写真参照アマゾン該当ページ )、「ビジュアル保存版 ユダの福音書」(アマゾン該当ページ )など、関連書が相次いで刊行されている。

 もちろん、そこに記載された内容が歴史的真実かどうかは分からない。しかし、今私たちが歴史を知ることができるのは、今に至るまで残された文書によってである。ところが、残された文書がすべて真実を語っているとは限らない。ひょっとしたら失われた文書の方に真実に近い内容が記載されていることもあるかもしれない。しかし、それはその文書が失われたままである限り、永遠に分からないことなのである。

 さて、泰衡がこれまで時代の流れも読めない暗愚な人物と捉えられたきたのは、実はよくよく考えてみると、鎌倉方の「公文書」である吾妻鏡の影響が大きい。吾妻鏡を読んでみると、泰衡という人物を徹底して矮小化して書いているように取れるのである。

 目に付く例を挙げてみよう。奥州藤原氏と源氏の事実上の決戦の場になった阿津賀志山(あつかしやま)で、自軍が大敗したことを聞いた泰衡は「周章度を失い、逃亡し奥方に赴く」とある。慌てふためいて逃げ出したと書いてあるわけである。

 平泉に戻った泰衡は、「縡急にして自宅の門前を融ると雖も、暫時逗留するに能わず」という状況だったという。頼朝の追撃に怯えて自分の屋敷にとどまることもできなかったそうである。まるでその場で見ていたような書きぶりであるが、当然頼朝軍はこの時まだ北上の途上だったわけであるから、本当にそうだったのか確たる証拠があるわけではない。

 北上する泰衡は数千の軍兵に囲まれ、「一旦の命害を遁れんが為、隠れること鼠の如く退ぞくこと雛に似たり」と評されている。一時の命惜しみのためにネズミのように隠れ、雛のように逃げたということである。泰衡の意図が本当にそうだったのかどうか分からないが、少なくとも鎌倉方はそのように見ていたわけである。

 吾妻鏡のこうした記載をそのまま受け取れば、泰衡は逃げ回るばかりの、将の器にない小心者というレッテルを貼られてしまうことになる。しかし、よくよく見てみると、今まで挙げた例はあくまでもその時の勝者の側から見た、極めて一面的な見方であると言うこともできる。さらに言えば、これらの記述は、必要以上に泰衡という人物を矮小化しているようにも思える。

 では、もし吾妻鏡の編者が泰衡ないし奥州藤原氏を必要以上に低く書いていたとして、その動機は何なのだろうか。普通に考えれば、奥州藤原氏は想像以上の難敵だったと書く方が、それに勝った鎌倉側の株もより上がりそうなものなのに、である。

 私は、その動機は鎌倉側の奥州藤原氏に対する強烈なライバル意識の故だったと考える。いずれ紹介することもあるだろうが、源氏と奥州藤原氏は、共に武家の棟梁の座を争っていた関係であったようである。しかも、文治五年奥州合戦で勝敗がつくまでは、三代百年にわたって奥州には覇を唱えてきた奥州藤原氏の方が源氏に先行していたと見ることもできる。平泉が「藤原王国」の「首都」として栄華を極めていた時、鎌倉はまだ都市づくりが始まったばかりの「発展途上の町」だったのである。事実、奥州から鎌倉に戻った後、頼朝は、もちろん奥州藤原氏の鎮魂の意味もあったのだろうが、平泉の二階大堂を模して鎌倉に永福寺(ようふくじ)を建立している。

 しかし、鎌倉側としては、そうした奥州藤原氏の態様を認めることは自らのプライドが許さない。武家の唯一の棟梁は鎌倉でなければならないからである。そこで、できる限り貶めて記載することによって、奥州藤原氏は武家の棟梁に相応しくない、武家の棟梁は唯一鎌倉だけであるということを強調したかったのではないか、と私は推測している。

 勝者が歴史を規定する時、当然自分たちにとって都合の悪い内容は削除、ないし黙殺するはずである。鎌倉方にとって都合の悪い内容とは、鎌倉に先行して奥州に武家政権があった、ということをおいて他にはないであろう。よって、仮に奥州藤原氏の政権がそうした性格を備えたものであった場合、これを徹底的に矮小化し、そうではなかったことにしてしまうということが考えられる。それは、鎌倉政権こそが初めてで唯一の武家政権であるということを主張したいがためのことだったのではないだろうか。

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2006年06月16日

東北の歴史のミステリーその7〜泰衡は本当に凡愚の将だったのか

08134ec7.jpg 奥州藤原氏四代泰衡は、源頼朝に追われ、蝦夷地に逃れようとして、贄の柵(にえのさく、現在の大館市二井田付近)の河田次郎を頼って立ち寄ったところを、河田次郎の裏切りにあって殺されてしまう。ここに奥州藤原氏は滅亡したわけである。文治5年(1189年)9月3日のことである。

 泰衡の首は河田次郎が頼朝の元に持参するが、頼朝は「譜第の恩を忘れ主人の首を梟」したことを責め、河田次郎を斬罪に処した。その後、首のない泰衡の死体は、里人が錦の直垂に大事に包んで埋葬したという。その墓が「にしき様」と呼ばれ、錦神社となり(写真参照)、今に至っている。泰衡の死から800年以上経った今も、泰衡の命日である旧暦9月3日には、お祭りが催されているという。

 ところで、河田次郎がどのように泰衡を殺害したかについては、吾妻鏡には詳しくは記されていないが、地元ではその経緯を詳しく語り伝えている。それによると、河田次郎は泰衡をかくまって罪になるより、泰衡を討って頼朝から恩賞を得ようと考え、主人殺しの罪にならずに泰衡を討つ計画を練った。そして旧暦9月3日の夜、河田次郎は多くの家来を使って、頼朝の大軍が贄の柵に攻め入ったように見せかけ、泰衡が観念して切腹するように仕向けた。この計画は成功して、河田次郎は泰衡の首をはねたのだという。

 江戸時代の紀行家菅江真澄は享和3年(1803年)にこの地を訪れ、錦神社にまつわる村人の心やさしいはからいと、泰衡の命日にちなむ行事を「贄能辞賀楽美(にえのしがらみ)」という紀行文に書き残し、泰衡が頼みにしていた旧臣に裏切られ、露のように命を散らせたことを偲んで、「たのみつる その木のもとも 吹風の あらきにつゆの 身やけたれけむ」という歌を詠んでいる。

 ちなみに、泰衡最期の地である贄の柵があった場所は正確には特定されていないそうであるが、大館市二井田の中心部に程近い、それも贄ノ里という地名の所には八幡神社がある。そして、この八幡神社には泰衡も合祀されているのだという。現地を訪れたが、残念ながら神社の由来などが書かれたものがなく、詳細は不明だった。

 ただ、周囲よりも若干高台にあり、近くには犀川という川が流れており、柵として適した場所であるように思えた。この八幡神社の辺りがかつて贄の柵のあった場所かもしれない。泰衡がここに祀られているのもそうした理由であれば合点がいく。さらに想像を膨らませれば、八幡神社は源氏の守り神である。かつて贄の柵だった泰衡最期の地に八幡神社を建立し、泰衡を祀ったのは実は頼朝その人だったのではないかという気もする。

img113 一方、錦神社から南西に直線距離にして約3kmほど離れた大館市比内町八木橋字五輪台には西木戸神社という神社がある。この神社は、泰衡の妻北の方を祭神とする神社である。

 北の方は、平泉を逃れて贄の柵を目指す泰衡の後を追うが、この地にたどり着いた時、泰衡が既に4日前に河田次郎の変心によって討たれたと聞かされた。絶望した北の方は、従者由兵衛に後事を託して自害した。里人がその心根を憐れんで祠を建立し、五輪の塔を納めて北の方の霊を慰めたのが、この神社の始まりなのだという。現在残る五輪台の地名もそこに由来するが、以来800年以上の長きにわたって里人の寄進が続けられているという。

 この西木戸神社は、泰衡の死体が埋められた錦神社の方を向いているのだそうである。夫泰衡に再会することなくこの世を去った北の方の思いを少しでも叶えてあげたいというこの地の人々のやさしい心を感じさせる事実である。

 なお、この西木戸神社の名前の由来ははっきりとはしていないが、この神社のある一帯が泰衡の異母兄西木戸太郎国衡の采邑地だったから、と地元では伝えられている。

 これら2つの神社の存在を見ても、もちろん「怨霊を恐れた」ということもあったのかもしれないが、泰衡という人がその時代の庶民に慕われた存在だったことが窺えるようにも思える。志半ばにして斃れた君主とそれを手厚く葬り、その跡を800年以上もの間大切に守ってきたその地の人々。やっぱりどうも、凡愚のイメージとは結びつかない気がするのである。

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2006年05月26日

東北の歴史のミステリーその6〜泰衡は本当に凡愚の将だったのか?

7e24cb1d.jpg 子どもの頃、私は泰衡が大嫌いだった。小学6年の頃、学校で歴史を勉強したが、中でも源平合戦での義経や弁慶らの活躍に心躍らせていた。親に平泉中尊寺に初めて連れて行ってもらって、そこでねだって買ってもらったのが「平泉ものがたり 秀衡と義経」という当時中尊寺で出していた小冊子であったというくらい、義経が好きだった。

 となると当然、兄頼朝と不仲となって窮鳥の如く東北に落ちてきた義経を温かく迎え入れた秀衡は偉大な人物で、それに対して「義経を大将軍として鎌倉に対抗せよ」という父の遺言を守らずに義経を討ち、あげくに頼朝に攻められて東北の黄金の一世紀を終焉に導いた泰衡はどうしようもない馬鹿者だということになる。そして「あの時泰衡が義経を討たなかったら…」、と800年も前の出来事に対して、子供心に地団駄踏む思いでいたものである。

 その後も泰衡に対する私の評価はやっぱり芳しいものではなかった。奥州藤原氏を描いた高橋克彦の「炎立つ 伍」(講談社文庫、アマゾン該当ページ )を最初に読んだ時も、「泰衡のことを無理やりよく書きすぎじゃないか」と抵抗を覚えたくらいである。私に限らず、東北人の泰衡に対する評価というのは、だいたい似たようなもののような気がする。端的に言ってしまえば、「偉大な父親の跡を継いだボンボンのバカ息子」というイメージなのではないだろうか。

 その最も手厳しい意見は、松田弘洲氏が「津軽中世史の謎〜虚構の"津軽安東氏"を切る」(あすなろ舎、津軽共和国文庫ぁ砲涼罎能劼戮討い襪發里任△蹐Α松田氏は泰衡のみならず奥州藤原氏そのものを批判する。「"平泉文化"というのは、平泉藤原氏が陸奥・出羽の庶民を酷使して、しぼりあげ、自らのために造営した"仏教文化"のことである」として、「泰衡は平泉から北上川の上流に向かって逃亡したわけだが、その地はもと安倍一族の根拠地である。平泉の藤原氏が、己れの栄華のためだけに富を集積せず、地方豪族が成長するための余地を残していたとしたら、北上川の上流にいくらでも頼るべき柵、頼るべき軍勢は存在したはずなのである」、「平泉軍が北上川の上流に退却したのち、再び押し出して来れなかったのは、平泉藤原氏の治政(原文ママ)がいかなるものであったかを、そのまま物語っているのである」と述べている。

 実際に、奥州藤原氏の治世がどのようなものであったかを知るすべはないので、この松田氏の見解が是か非かは判断できかねる。ただ、後で書くが、首のない泰衡の遺体を里人が丁寧に錦の直垂で包んで埋葬したという錦神社、それから泰衡の後を追ってきた泰衡の妻北の方が夫の死を知って自害したのを憐れんで里人が建立したという西木戸神社の存在を考えると、奥州藤原氏はそこまで庶民を「しぼりあげ」てはいなかったのではないかという気がする。

 さて、泰衡を嫌いだった私だが、最近少しずつ泰衡に対する見方が変わってきた。実は泰衡はそれほど暗愚な君主ではなかったのではないか、と思うようになってきたのである。そう思うようになってきた理由はいろいろある。それを少しずつ書いていきたい。

 秋田県の北東端に鹿角市がある。その鹿角市の中心部花輪から山間の方へ、直線距離にして9kmくらい南下していくと、桃枝(どうじ)という集落がある。戸数は20戸に満たない、目立たない小さな集落であるが、この集落は非常に興味深い。実は、この集落、ほとんどの人が藤原姓なのである。この地域に伝えられている話によると、昔源頼朝に追われて落ちてきた泰衡は、この地に宿陣した際、つき従ってきた家臣に「自分が戦死したら藤原の姓を継ぐように」と言い残したのだという。泰衡の家臣の一部は泰衡の死後もこの地に残り、それでこの地に住む人々は皆、藤原姓なのだそうである。

 この逸話は先に挙げた「炎立つ 伍」でも取り上げられていて、自分の一命と引き換えに奥州を救おうと死を覚悟した泰衡が家臣たちに藤原の姓を与え、後を追って死のうとする家臣に対して「藤原を名乗るからには生き延びよ」と諭したことになっている。その巻の中でも印象的な場面の一つである。

 実際、桃枝集落の一角には墓地があるが、墓のほとんどが藤原姓である。他には綱木姓の墓が2、3あるだけである。そして、藤原姓の墓に刻まれた家紋はすべて、奥州藤原氏と同じ「下がり藤」の紋である。それらの墓の一つに墓誌が刻まれていた。それには「我が藤原家の先祖は、今を去る事七百九十余年の昔、平泉を落ち給う泰衡公に属従し、此の地に至り、浪人して山深く隠れ住み、千古不斧の大森林に開拓の鍬を振っていた。(以下略)」とあった。

 この桃枝のある場所は、実は泰衡が蝦夷地に向けて落ち延びようとした道からは外れている。蝦夷地に向けて落ち延びようとしたのであれば、清衡が整備した奥大道を北上したものと考えられるが、桃枝はそのルートからかなり外れているのである。周囲を山に囲まれた地であるから、実際には泰衡自らここを訪れたのではなく、泰衡の死後、その遺言をおしいだいた家臣たちがひっそりと移り住んだ地なのだろう。

 ただ、泰衡が本当にどうしようもない凡愚の将であったなら、その藤原の姓を800年もの間桃枝の人々が大事に名乗り通してくるというようなことはなかったのではないかという気がするのである(写真は桃枝集落の入り口)。

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2006年05月19日

東北の歴史のミステリーその5〜泰衡は死んでいなかった?

ae68235d.jpg 泰衡不死説を主張しているのは、楠木誠一郎氏である。氏は、著書「歴史おもしろ推理 謎の迷宮入り事件を解け」(二見文庫、写真参照アマゾン該当ページ )で、この泰衡の首級について「<藤原泰衡謀殺事件の謎>金色堂に眠るミイラが物語る驚愕の策謀」として真っ先に取り上げている。

 その中で、楠木氏は先に紹介した御遺体調査の結果分かった藤原三代の頭骨と泰衡のものとされた首級の顔高(眼孔の中心から顎の先までの長さ)を比較した。その結果、三代の頭骨が初代清衡(118mm)、二代基衡(129mm)、三代秀衡(137mm)と少しずつ長くなっているのに対して、泰衡の首級は突然初代清衡のものよりもさらに短くなっている(116mm)という事実を論拠に、これは泰衡ではない別の誰かの首級であると主張しているのである。

 また、楠木氏は、この首級が泰衡のものと判断された当時の状況にも目を向ける。吾妻鏡にあるが、河田次郎が泰衡の首を持参した際、鎌倉方では捕虜となっていた平泉方の赤田次郎に首実検させた。泰衡の顔を見知った者が鎌倉方にいなかったからということだが、楠木氏はこの場で河田次郎と赤田次郎が目配せして、身代わりの首を泰衡のものとした可能性が強いと指摘している。

 この楠木氏の推理だが、疑問点がいくつかある。まず、首実検は確かに吾妻鏡にある通り平泉方の赤田次郎だけで行ったのだろうが、その後この首級は釘打にしてさらされているのである。もしそのさらされた首級が泰衡のものでなかったなら、その際に「恐れながら…」と鎌倉方に訴え出る者がいなかったのだろうか、という疑問がある。平泉側のすべての人間が泰衡のものでないと知っていて、それでも全員が知らないふりをしていたということはちょっと考えにくい。

 また、泰衡のものとされる首級が三代の首よりも小さいからと言って、即別の人間の首だと断ずるのも乱暴な気がする。そもそも、初代清衡から三代秀衡までだんだん長くなっているのは事実としても、それがその後もずっと続くとも思えない。そうでなければ、我々の頭は昔の人に比べてかなり大きいということになってしまう。

 では、顔高だけではなく、頭骨の形そのものから判別はできないのだろうか。親子であれば当然骨格は似るはずである。果たして、頭骨の形から親子関係は分かるのだろうか。そこで、親子鑑定なども手掛けている法医学の先生に聞いてみたが、残念ながら形だけで親子かどうかを判別するのはまず無理とのことであった。

 状況的にも、泰衡が実は生きていたということを示すものは何もない。義経に関しては生存伝説が東北のあちこちに残っている。もちろん、だからと言って義経が生きていたと断定することはできないのであるが、泰衡に関してはそのような「実は生きていた」とする伝承が一つもない。それどころか、泰衡最期の地、贄の柵(秋田県大館市二井田付近と言われる)の近くには、首のない泰衡の死体を埋葬した錦神社という神社がある。里人が錦の直垂に大事に包んで埋葬したことがその名の由来とのことだが、この故事を見てもやはり泰衡はこの地で死んだと考えるのが自然な気がする。

 もっとも、以前紹介した金色堂はなぜ建てられたか―金色堂に眠る首級の謎を解く」にあるように、金色堂に納められている泰衡の首級が実は泰衡のものでないのだとするとその首級の行方が気になるところではあるのだが。

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2006年04月07日

東北の歴史のミステリーその4〜「泰衡の首」は泰衡の首じゃない?

e8195066.jpg では果たして、金色堂に納められている首級は経清のものなのだろうか。これについては、私はまだ高井氏に全面的に賛成ではない。経清の首と考えると生じる疑問がいくつかあるからである。

 まず、経清の首が釘付けにされたという記述はないということである。吾妻鏡には、前九年の役の安倍貞任の例にならって泰衡の首を釘打ちしたとはあるが、前九年の役の折に経清の首も貞任と同様に釘打ちされたとは書いていない。ただ、これについては、経清も貞任と同じ先の戦の首謀者であるから同様に釘打ちされたと見てもよいかもしれない。

 次に、なぜ、この首級が三代秀衡の遺体の脇に納められていたのかということである。これが経清の首で、金色堂が経清のためのものであったとするならば、三代秀衡の遺体の脇に安置されているという状況には違和感がある。独立して安置されるか、少なくとも初代清衡同様中央に納められるべきではないだろうか。

 そして、これが最大の疑問なのだが、もしこれが経清の首ならば、泰衡の首はどこへ行ったのかということである。さらされた後、粗末にされた(捨てられたなど)ことは考えにくい。なぜなら、この文治五年奥州合戦は、吾妻鏡も「義顕(義経)といい泰衡といい、させる朝敵に非ず。ただ私の宿意を以て誅亡する」(宝治二年(1248年)二月五日条)と認めているように、実は頼朝の「私怨」から行われた戦である。そのような場合、敗者は怨霊となって祟るというのが、日本における「怨霊信仰」である。頼朝は当然泰衡の首を丁重に葬ったはずである。その安置先としてはやはり金色堂よりふさわしい場所はないと思われるが、もしこの首を経清のものとした場合、泰衡の首はどこに行ってしまったのかが新たな疑問として浮上するのである。

 ただ、経清の首とする高井氏の説に有利と思われる状況もある。それは他でもない、「泰衡の首級」の状況そのものが物語っている。昭和25年の御遺体学術調査の報告書に書かれているのだが、泰衡の首には7回斬り付けられた跡があるという。また顔の表面には無数の刀傷もあるという。7回斬り付けられたというのは、鈍刀で首を切られた経清の状況に符合する気もする。

 泰衡は、実は奥州藤原氏が頼朝に滅ぼされた文治五年奥州合戦では、一度も頼朝軍と戦っていない。その泰衡になぜ無数の刀傷があるのか。泰衡が比内(現在の秋田県大館市比内)を治めていた郎従の河田次郎の裏切りにあって殺されたときにつけられたのか。しかし、吾妻鏡によれば泰衡が河田次郎を頼って贄の柵に身を寄せた時、泰衡に従う兵は数千いたという。その中で河田次郎が泰衡の首を取るのは正面からの戦ではまず無理で、ちょうど源頼朝の父、義朝が平治の乱で敗れて尾張の長田忠致の元に身を寄せた時、入浴中に襲撃されて最期を遂げたように、だまし討ちにするしかなかったはずである。そうすると激しい合戦の後を物語るような刀傷はいかにも不自然ではある。

 殺された後頼朝らによってつけられたという見方もあるかもしれないが、傷には前後関係、すなわち時間の経過があるという。つまり治りかけのものから討たれる直前のものまであるという。このように見ると、これはむしろ、12年に及んだ長い戦のその最後の乱戦の中生け捕りになった経清のものとする高井氏の見方にもそれ相応の説得力がある。

 結局のところ、真相は4体の遺体のDNA鑑定でもしない限りは明らかにならないのかもしれない。そもそも、もともとこの首級は、寺伝では泰衡に殺された忠衡のものだとされていたのである。ならば忠衡の首はどこへ行ったのかという疑問もあり、義経生存説を唱える人は、これこそ義経が生きていた傍証で、義経は殺されたと見せかけて姿を消した忠衡の案内で北に逃れたのだと言うのである。

 英雄不死伝説は多いが、その最たるものが「義経北行伝説」であると言える。が、それほど英雄視されていなかった泰衡にも実は不死説がある。次回はそれを見てみたい(写真は金色堂を風雨から守っている覆堂)。

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2006年03月24日

東北の歴史のミステリーその2〜「泰衡の首」は泰衡の首じゃない?

0df45924.jpg というわけで、いきなり「首」の話である。今まで地ビールやら温泉やらの話を続けてきたところに突然「首」の話とはこはいかに、という感じであるが、上を見ていただければ分かるように、このブログでは東北の歴史も扱うということを謳っている。なかなかそのきっかけがなかったのだが、最近ドキドキワクワクするような面白い本を見つけたので、それをネタに東北の歴史の話も少しずつ書いてみようかと思う。

 岩手県平泉町にある中尊寺には、日本の国宝第一号となった金色堂がある。その名の通り、皆金色のお堂で、マルコ・ポーロが東方見聞録に記した「ジパング伝説」の元となった建造物ではないかと言われている。

 金色堂には、平安末期に約一世紀にわたって東北全土を実質的に治めていた奥州藤原氏三代、初代清衡、二代基衡、三代秀衡の遺体と、四代目で源頼朝に滅ぼされた泰衡の首級が安置されている。

 実は、この泰衡のものとされている首級は、寺伝では泰衡の弟忠衡のものだとされてきた。忠衡は、三代秀衡の三男である。源義経が兄頼朝に追われて奥州に逃れてきた時、秀衡は義経を受け入れて鎌倉と対峙する道を選ぶが、その秀衡は義経が来て1年も経たないうちにこの世を去ってしまう。臨終に際して、秀衡は「前伊予守義顕(義経)を大将軍と為して、国務をせしむべき」(吾妻鏡)との遺言を残すが、忠衡はこの秀衡の遺言を守って源義経を擁いて鎌倉と対峙しようとして泰衡に誅されたとされる。父の遺命に従い、義経を主君として仰いだ忠孝の士として、その首級が金色堂に納められている、そう信じられてきたのである。

 ところが、昭和25年の御遺体学術調査の折、忠衡のものとされてきた首級には、右の耳の付け根から頭蓋骨の一部とともに切られ、頭頂1カ所、後頭部に二カ所、そして鼻など数カ所に刀傷があるほか、前頭部の中央から後頭部に達する直径1.5センチほどの穴が貫通していた。「吾妻鏡」には泰衡の首には、前九年の役の際に源頼義が、安倍貞任の首に長さ八寸の鉄釘を打ち付けたのに倣って、同様に釘を打ち付けたとの記述がある。安倍貞任の時に首を扱った者の子孫に泰衡の首を扱わせるという徹底ぶりで、宿意を晴らしたのであるが、金色堂に納められた首級にはまさにこの釘の跡があったわけで、それを以って、その首級は忠衡ではなく泰衡のものであるとされ、それが現在に至るまで新たな「常識」とされてきたのである。

 さて、今回見つけた書籍「金色堂はなぜ建てられたか―金色堂に眠る首級の謎を解く」(写真参照、高井ふみや著、勉誠出版、アマゾン該当ページ)は、この御遺体学術調査の折に泰衡のものとされた首級は実は泰衡のものではないとして、これまでの「常識」に果敢に挑戦した書である。

 泰衡のものでないとすれば、この首級は誰のものなのか。高井氏は、藤原経清のものだと言うのである。藤原経清を知っている人は、かなりの歴史通である。93年にNHK大河ドラマになった高橋克彦原作の「炎立つ」で主役になったこともあって、少しは知られるようになったが、この人は奥州藤原氏初代で平泉「黄金の100年」の礎を作った藤原清衡の父である。

 藤原経清は、亘理権太夫と言われており、国府側にいて今の宮城県亘理郡を治めていたとされている。平安京で摂関政治を行った藤原氏と区別するために奥州藤原氏と呼ばれるこの一族は、元をたどっていくと平将門を討った藤原秀郷につながる。藤原秀郷は元々京の藤原氏の流れを組む家柄であるから、奥州藤原氏も土着の蝦夷ではないわけである。

 さて、経清はその後、奥六郡(現在の岩手県南部)を支配していた俘囚(朝廷に恭順する蝦夷)長の安倍頼時の娘を妻に娶る。この安倍氏を討つ戦となった前九年の役では、経清は当初は陸奥守源頼義に従っていたが、同様に安倍頼時の娘を娶り、亘理郡の隣の伊具郡を治めていたとされる平永衡が、安倍氏側に通じているとの疑念を抱かれて源頼義に殺害されたことに身の危険を感じて安倍側に寝返った。そこから安倍軍の中心的存在として源頼義率いる国府軍を大いに悩ませた。

 特に、前九年の役の間、経清は朱の国印を押した徴税符である「赤符」ではなく、経清の私的な指示書である「白符」に従うよう陸奥の諸郡に命じ、朝廷をないがしろにして独自に徴税を行ったが、当初安倍側が優勢だったために陸奥守源頼義もこれを指を咥えて見ている他なかった。このことのために経清は、徴税の権限を奪われ完全に面目を潰された形の頼義の深い恨みを買った。最終的に国府軍が、出羽の俘囚長である清原氏の援軍を得て安倍軍を厨川の柵(現在の岩手県盛岡市)に破り、経清を捕らえた際、頼義は苦痛を長引かせるためにわざと刃こぼれさせた刀で首を切った、という。残酷な処刑である。

 ちなみに、この前九年の役は、源頼義が陸奥の地に覇権を築こうとの野望を抱いて起こした「侵略戦争」だったと位置づけることができる。結局、念願通り安倍氏を滅ぼすことができたが、朝廷は頼義の勢力が大きくなりすぎることを警戒し、勝敗を決定づけた清原氏に陸奥、出羽二国の統治を任せた。この時の頼義の無念が後の鎌倉幕府の公文書「吾妻鏡」が記した頼朝の「私の宿意(私的な怨恨)」につながっていくのである。

 ところで、この「前九年の役」とその後起きた「後三年の役」はどちらも「役」と呼ばれているが、「役」という語はもともと、後の元寇「文永の役」「弘安の役」や秀吉の唐入り「文禄の役」「慶長の役」のように、「対外戦争」に用いられる用語である。東北での戦にこの語が用いられていることは、当時東北が異境の地と見なされていた端的な証である。

 その後、清原氏の内紛に頼義の子源義家が介入した後三年の役を経て、陸奥、出羽二国の実質的な支配者となった経清の子、奥州藤原氏初代藤原清衡は、中尊寺を建立し、世にも稀な金色堂を建立した。中尊寺を建立し、と簡単に書いたが、「吾妻鏡」によれば中尊寺は、堂塔40余、僧坊300余を有する大寺院であり、鳥羽天皇の御願寺という位置づけであったので、その建立はいわば国家的大事業であった。天治3年(1126)3月24日、その中尊寺の「大伽藍一区」が完成し、清衡によって盛大な落慶法要が営まれた。いずれ紹介するが、この法要に捧げられた「中尊寺建立供養願文」には、清衡の理想とする奥羽の平和、国家の平和を祈る心情が凝縮されているといえよう。

 この落慶法要には、国家鎮護の祈りとは別のもう一つの目的があったように思え、また同時にそれが高井氏が主張する泰衡の首級の「正体」を探る根拠の一つともなっているが、長くなったのでそれについては、次に触れることにしたい。

anagma5 at 21:18|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!