藤原清衡  

2011年07月01日

私的東北論その26〜時を超えて生き続ける清衡の思い

spotphoto_konjikido_01 平泉の「仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群」が、6/25にユネスコ世界遺産委員会の審議の結果、「世界遺産一覧表」に記載されることが決定した。日本の世界遺産暫定一覧表に記載されてからちょうど10年、日本が推薦書を提出した遺産の中で初めて「記載延期」の勧告を受けてから3年(その時書いたブログ)、ようやく関係者の念願が叶ったわけである。

 前回、「平泉―浄土思想を基調とする文化的景観」として提出された推薦書は、「記載延期」の勧告を受けて「平泉―仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群」として再提出された。その過程で以前紹介したように勧告に沿って構成資産を平泉町内にある6つのみに絞り込んだ。世界遺産委員会の審議ではその中の奥州藤原氏の居館跡である柳之御所遺跡も除外した上で「記載」と決定された。前回の「浄土思想を基調とする文化的景観」という名称は何度読み返しても意味がよく分からなかったが、それに比べると今回の「仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群」は言わんとしていることが明確でよい名称だと思う。

 平泉の世界遺産一覧表への記載というニュースを受けて、「震災からの復興に向けて大きな励みになる」といった声や、震災後減少している観光客の増加に対する期待の声も上がっている。ここでは、平泉の遺跡群がそもそも何だったのかについて、改めて考えてみたい。

 以前も紹介した中尊寺建立供養願文」。これは奥州藤原氏初代の藤原清衡の名で書かれているものである。実際には、当代きっての文章家として知られた藤原敦光の手になるものだが、その内容にはもちろん清衡の意向が隅々にまで反映されているとされている。私にとって特に印象的な一節は「二階の鐘樓一宇」について書かれた部分である。ここには「廿釣の洪鐘一口を懸く」とある。大きな鐘を懸けたわけである。その鐘について、

一音の覃(およ)ぶ所千界を限らず。苦しみを抜きて、樂を興へ、普く皆平等なり。官軍と夷虜(いりょ)の死事、古来幾多なり。毛羽鱗介の屠(と)を受くるもの、過現無量なり。精魂は、皆他方の界に去り、朽骨は猶此土(しど)の塵となる。鐘聲の地を動かす毎に、冤霊(えんれい)をして、浄刹(じょうさつ)に導かしめん。

と書かれている。

 「この鐘の音は、どこまでも響いていって、苦しみを抜いて楽を与える」、そしてそれは「あまねく皆平等である」、とある。「官軍の兵と蝦夷の兵が戦で命を落としたことは昔から幾多もあった。獣や鳥や魚や貝といった生き物が人間に殺されてきたことも過去から現在に至るまで数え切れない。それらの魂はあの世に去ってしまったが、その骨は朽ち、今もこの世の塵となっている。この鐘が響く度に、心ならずも命を奪われてしまった者たちの霊を浄土に導かせよう」、そのようなことが書いてある。死んだ者たちの敵味方は問わない。それだけではない。人間かそうでないかも問わない。とにかく、自分の生を全うできなかったあらゆる生き物の霊を、皆平等に浄土に導きたい、そのような思いが綴られている。

 供養願文の最後も、法皇や天皇を讃えた上で、次のような文章で締め括られている。

弟子の生涯、久しく恩徳の海に浴し、身後必ず安養の郷(くに)に詣(いた)らん。乃至鐵圍(てっち)砂界、胎卵濕化(たいらんしつけ)、善根の覃ぶ所、勝利無量ならん。

 弟子(ていし)というのは、清衡自身のことであるが、清衡自身は法皇や天皇のお陰で死後必ず浄土に至るだろうとまず書いている。それだけではない。自分だけではなく、世界中のすべての生き物にもそうした善根が及ぶ、それは量り切れないくらいだと書いている。つまり、自分だけ極楽往生するのではなく、ありとあらゆる生き物もそれは一緒だと言っているのである。朝廷の御願寺という位置づけの中尊寺の落慶供養願文で天皇や法皇への感謝を述べるのは普通のことだろうが、こうした目上の人だけでなく、清衡の周りにいる、朝廷からはおよそ人間扱いすらされてこなかったような蝦夷、そして人間だけでなくすべての生き物、そうした者への眼差しを持っていた清衡という人間の大きさを感じずにはいられない。

 しかもである。清衡のこの、全ての生き物を極楽浄土に、という思いは、決して絵空事に終わったのではない。清衡はまず東北の入り口である白河の関から東北の最北端である外ヶ浜に至る道(奥大道)の真ん中に中尊寺を置いた。そこには、浄土の象徴とも言うべき金色堂が輝き、中尊寺を中間点として東北を貫くその道の約100mおきには金で描かれた阿弥陀如来の笠卒塔婆が配置されていたという。また、清衡の勢力下にあった陸奥出羽両国には、一万余もの村があったが、清衡はその一つひとつの村に寺を建てたとの記述が、吾妻鏡にある。「中尊寺落慶供養願文」で高らかに宣言した、この東北を浄土とするための具体的なアクションを清衡は実際に起こしていたということである。しかもそれは、死んだ後の浄土というだけではなく今生きているこの地を浄土とする(此土浄土)という壮大な取り組みであったということに留意すべきである。

 今回の世界遺産一覧表への記載で、平泉を訪れる観光客は確かに地元の期待通り増えるだろう。しかし、中尊寺金色堂や毛越寺浄土庭園を見ただけでは、こうした清衡の東北全体を浄土とするというスケールの大きな取り組みの全貌は見えてこない。その象徴としての、その極々一部分としての、構成遺産なのである。以前も書いたが、何度でも強調したいと思う。そこの部分こそを一生懸命理解していただく努力をしなければ、訪れる人の平泉への理解は極めて一面的なものとなり、金色堂を見て「なんだこんなものか」とがっかりし、「二度は見なくてもよい」という感想を残して去っていってしまう、そのような結果にならないとも限らない。

 冒頭で触れた「仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群」という名称がよいと書いたのもそういうことである。清衡が目指した、この地域すべてを浄土としようとしたその取り組みのうち、現在まで建築・庭園あるいは遺跡として残っているものが、今回世界遺産となった、それが直接的に伝わるよい名称だと思う。平泉を訪れる人にはどうか、そのような視野で以て金色堂の輝き、浄土庭園の優美を鑑賞していただきたいものと切に願う。

 そうそう、藤原清衡のすごさについては、ここで私が何万言費やすよりもはるかに説得力を持って先達の方々が極めて的確にご指摘されている。中でも、「みちのく中央総合博物館市民会議」のサイトにある、「中尊寺落慶供養願文」についての佐々木邦世氏と高橋富雄氏の講演録はオススメである。

 藤原清衡の前半生は悲劇としかいいようのないものだった。前九年の役では父親である藤原経清を殺され、母親は父親を殺した相手である清原氏に嫁がされた。そのお陰で清衡自身も命は助けられるが、その後起こった後三年の役では母親が生んだ異父弟の家衡に妻子を殺され、その家衡を自らの手で討たざるを得なかった。そうした修羅場をくぐり抜けての後半生である。決して順風満帆に育った金持ちのボンボンが自らの権勢を誇るために思いつきで作ったというようなものではない。自らもこれ以上ない悲劇を体験した戦乱。その戦乱で多くの人が亡くなった東北の地をそのまま浄土とする、それが清衡の宿願だったわけである。

 その清衡の思いは、未曽有の大震災でやはり多くの人が亡くなった今の東北にも通じている。今、このタイミングで平泉が世界遺産となったのも決して偶然ではないように思う。今も金色堂にいる清衡からのメッセージが、力強く発せられているように思えてならないのである。清衡の思いは800年の時を超え、今も生きている、そう思えるのである。

 ― 我々が住んでいるこの地こそが浄土である ―

 このような時だからこそ、その清衡の思いに東北に住む我々も再度思いを馳せたいと思うのである(写真は中尊寺のサイトより)。


追記(2011.9.16):「中尊寺建立供養願文」は「中尊寺落慶供養願文」とも称されるが、ここでは中尊寺の表記の方を尊重して「中尊寺建立供養願文」としている。

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2008年08月30日

私的東北論その13〜世界遺産への登録延期―平泉の価値は変わらない

5acc2ab7.JPG 今年度の世界遺産登録を目指していた平泉の文化遺産が、先月6日に行われたユネスコの世界遺産委員会で「登録延期」となった。平泉の世界遺産登録については、5月にユネスコの諮問機関である国際記念物遺跡会議(イコモス)が「登録延期」の勧告を既に出していたが、日本政府代表部は昨年の石見銀山に続く「逆転登録」を目指して各方面に働き掛けを続けていた。結果的にそれが実を結ばなかったことになる。

 日本は、平泉の文化遺産を「浄土思想を基調とする文化的景観」と位置づけて世界遺産登録を目指したが、今回「落選」したことに対して、メディアは「浄土思想」が諸外国に理解されるのが難しかったのではないかと報じている。

 しかし、実際は浄土思想の理解云々よりも、世界遺産の登録基準に適合するかどうかの証明が不十分とされてしまったことによるところが大きかったようだ。世界遺産の登録基準は社団法人日本ユネスコ協会連盟のサイト内にある通りであるが、今回平泉はこのうち(iii)、(iv)、(v)、(vi)に当たるとして登録を目指していた。ところが、世界遺産委員会とその前のイコモスの勧告で、その証明が不十分とされたのである。これについては、実はイコモスは、平泉の一部物件はこれら(iii)〜(vi)ではなく、(ii)に該当すると評価していたと、ユネスコの松浦晃一郎事務局長が明らかにしている(参照サイト)。とすると、推薦書の全面的な練り直しが求められるが、今のところ文化庁を始め関係者によると、大幅な推薦書の改訂は行わない方針のようである。

 また、「一部物件」という言葉が使われている通り、今回平泉は9つの構成遺産で世界遺産登録を目指していたのだが、この9つがどのように「浄土思想を基調とする文化的景観」に結びつくかの証明が不十分だったようである。確かに、素人目に見ても、「これは浄土思想とどのように関係するのか」と首を傾げたくなる構成遺産があるのは事実である。

 ちなみに9つとは中尊寺、毛越寺、無量光院跡、柳之御所遺跡、達谷窟、金鶏山、骨寺村荘園遺跡、長者ヶ原廃寺、白鳥舘遺跡である。このうち、奥州藤原氏三代が建立した中尊寺、毛越寺、無量光院跡、奥州藤原氏の政庁だった柳之御所遺跡、山頂に経塚のある金鶏山は平泉の浄土思想を直接的間接的に伝える構成遺産であると言える。達谷窟も奥州藤原氏時代のものと見られる浄土庭園の遺構が出土しており、構成遺産に加えてよいと考えられる。骨寺村荘園遺跡は中尊寺の寺領であったところで、周辺には寺社関連の遺跡も多数残っており、これも構成遺産と見てよいだろう。ただし、今のように中世の荘園がそのまま残っていることを強調しすぎると、かえって浄土思想との関連が分かりにくくなるようにも思える。一方、残り2つ、長者ヶ原廃寺と白鳥舘遺跡は奥州藤原氏と直接関係がなく、また浄土思想とも特に関連が見られないので、構成遺産として加えるのは厳しいのではないだろうか。

 「浄土思想を基調とする文化的景観」と言うならこれら2つよりもむしろ、例えば藤原清衡の孫である樋爪俊衡の居館樋爪館跡と伝えられる五郎沼は元は浄土庭園だった可能性があるように思われるし、三峯神社(月山神社)のように中尊寺の奥の院として栄えたと伝えられる神社もある。中尊寺金色堂と同様の阿弥陀堂は、宮城県角田市の高蔵寺阿弥陀堂、福島県いわき市の白水阿弥陀堂があり、こちらの方が「浄土思想」との関連がはるかに深いのではないか。

 これら構成遺産の選定に当たっては、学術的な見地からだけでなく、関係者の様々な思惑なども交錯したと伝えられているが、その結果「浄土思想を基調とする文化的景観」の証明が分かりにくいものとなってしまった感も否めない。再登録を目指すに当たっては、登録基準の見直しと共に、思い切って構成遺産の見直しも必要なのではないだろうか。

 ところで、後三年の役が終わって藤原清衡が奥羽両国の実権を握ったと見られるのが1088年、そこから四代泰衡が討たれた1189年までの101年が奥州藤原氏の時代と言えるが、三代秀衡が鎮守府将軍に任命されたのは1170年、陸奥守に任命されて名実共に奥羽の「統治者」と認められたのは1181年、初代清衡が実権を握ってからそれぞれ82年後、93年後のことである。名前が現実を追認するのに実にそれだけの時間がかかったわけである。

 今回の「落選」は日本で初めてだったこともあって、落胆の声が多く聞かれた。しかし、平泉の世界遺産登録は、2001年に国の世界遺産暫定リストに登載されてからまだたったの7年である。奥州藤原氏の辿った道から見れば、まだまだ始まったばかりである。そしてもちろん、世界遺産に登録されようがされまいが、平泉の価値は変わらない。それは、鎮守府将軍や陸奥守に任命されなくても藤原清衡が実質的に奥羽両国の覇者であったのと同じようなものである(写真は毛越寺浄土庭園にある紅葉である)。


追記(2009.4.5):新聞報道によると(河北新報記事岩手日報記事)、「平泉の文化遺産」の推薦書作成委員会は、上記9つの構成資産から骨寺村荘園遺跡、白鳥舘遺跡、長者ケ原廃寺跡、達谷窟の4つを外し、平泉町内の5つの資産のみで世界遺産登録を目指す方針を決めたそうである。長者ヶ原廃寺と白鳥舘遺跡だけでなく、達谷窟と骨寺村荘園遺跡も外すという、思い切った構成遺産の絞り込みを行ったわけである。今後の推移を見守りたい。

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2008年06月20日

私的東北論その11〜古の「黄金の国」東北、復活なるか?

07a682d5.JPG 最近「都市鉱山」という言葉をよく聞くようになった。廃棄された家電製品などの中に含まれる貴金属を含む希少金属(レアメタル)を鉱山に見立てた言葉であるが、独立行政法人物質・材料研究機構が今年の1月11日に発表したプレスリリースによると、これまでわが国内に蓄積されリサイクルの対象となる金属の量を算定した結果、「わが国の都市鉱山は世界有数の資源国に匹敵する規模になっている」そうである。

 同機構の計算によると、金は約6,800トンあって世界の現有埋蔵量42,000トンの約16%に相当するのを始め、銀は60,000トンで同じく22%、他にインジウム61%、錫11%、タンタル10%など世界埋蔵量の1割を超える金属が多数あることが分かったとのことである。その結果日本は、金、銀、鉛、インジウムについては「世界最大の資源国」で、銅、白金、タンタルも3位までに入る資源国にランクされることになるらしい。

 このプレスリリースでは、こうした都市鉱山資源を「都市鉱石としてより積極的に有効活用していくことが必要である」としているが、まさにその通りである。現状、こうしたレアメタルについては、世界的に争奪戦が繰り広げられつつあるそうだが、そのほとんどすべてを輸入に頼っているわが国においては、鉄鋼、自動車、電気・電子機器産業に不可欠なこれらの金属類について、こうした廃棄された家電製品からのリサイクルを本格化させることが、喫緊の課題として挙げられるわけである。

 翻ってみれば、日本は元々黄金の国ジパングとされていた。そのネタ元はマルコ・ポーロの「東方見聞録」で、それがきっかけに大航海時代が始まったと言われているが、マルコ・ポーロが滞在した中国で聞いた「ジパング伝説」の元は平泉の奥州藤原氏の話だったとされている。実際、当時そのように海外にまで噂されるだけの黄金が東北で産出されていたのは事実で、例えば奥州藤原氏初代の藤原清衡は、宋から「一切経」と呼ばれる仏教の「経」「律」「論」全てが網羅された膨大な聖典を購入するのに、砂金105,000両を費やしたそうである。ちなみに105,000両は約1,730kgに相当し、現在の金の価値(1グラム2,600円とすると)に換算すると45億円にもなる。

 一説には、奥州藤原氏が100年で費やした黄金の総量は2000万両(=330トン)だったとも言われるが、先の発表ではそのなんと20倍以上もの金が、わが国には眠っているというのである。日本は今も黄金の国ジパングであると言えるのではないだろうか。

 ところで、このレアメタルのリサイクルにおいて、国内はもとより世界の最先端を行く企業が東北にある。秋田県小坂町にある小坂製錬である。ここでは何と19種類もの貴金属を含むレアメタルを回収できるという。これだけの種類の金属を回収できるのは世界広しと言えども、小坂精錬を含めてわずか3箇所しかないそうである。

 小坂製錬の属するDOWAグループのサイトによれば、小坂鉱山で採掘される「黒鉱」と呼ばれる鉱石は、金銀などの有価金属が豊富に含まれている反面、処理が困難という欠点があり、それが有効利用の妨げになっていたという。同社は果敢にその技術の壁に挑戦し、永年の技術向上の結果、黒鉱から複雑に入り混じった様々な金属を回収する技術を蓄積してきたそうである。その後、残念ながら鉱山は閉山してしまうが、小坂製錬はそこで得た黒鉱処理技術を基盤に、レアメタル回収とリサイクルを特色とした個性のある製錬所として今なお進化を続けているということである。

 小坂に限らず、東北には最近まで採掘が行われていた鉱山が多くある。小坂製錬のようにそのノウハウを、都市鉱山から「採掘」されたレアメタルの製錬に生かせれば、東北はかつての奥州藤原氏時代と同じような、「鉱業立国」が可能となるのではないかと思うのである。

 そのことを既に指摘しているレポートがあった。東北経済産業局のプロジェクト「TOHOKUものづくりコリドー」が平成18年8月にまとめたレポートである。そこでは東北の7つの技術・産業分野を重点化しているが、その中の「非鉄金属リサイクル分野」については、下記のような記載がある。

「東北地域は、古くから鉱山技術、それに関連する高度な製錬技術の開発、蓄積が図られてきました。非鉄金属リサイクル分野は、蓄積してきた技術や製錬施設等を基盤として、ベースメタル、レアメタル、貴金属の効率的回収技術や低品位廃棄物等の製錬技術及び製造業におけるリサイクル原料等の高度使用技術や高品質化技術等を新たに開発し、発展させようとするもので、東北地域でこそ実施することが相応しい分野です。」

 その上で、東北の可能性については、

「東北地域は、日本はもとより世界的に見ても、非鉄金属生産・リサイクルのメッカとなっています。7つの製錬所が立地し、銅・鉛・亜鉛の輸入鉱石からの製錬と廃棄物等からの非鉄金属全般のリサイクル生産に関して、国内の3〜4割生産する日本一の非鉄金属産業の集積地域となっています。」

としている。そして、

「こうした企業群を東北の大きなポテンシャルと捉え、リサイクル技術とリサイクルされた非鉄金属の最終製品への利用技術を高度化することにより、供給側と需要側の連携が出来れば、東北のモノ作りを支え、競争力を高める分野(サポーティングクラスター)になる可能性があります。」


と結んでいる。

 小坂製錬を始め、東北には7つもの製錬所があるということも今まで不勉強で知らなかったが、それらの製錬所が国内の3〜4割ものシェアを占めていたことも知らなかった。「都市鉱山」から「採掘」したさまざまな種類のレアメタルを製錬し、各産業に供給するという「鉱業立国」の素地が、既に東北にはあるわけである。古の黄金伝説が、今まさに復活しようとしている、そのスタート地点に東北地方は立っているとも言えるようである。今後の展開に大いに期待したい(写真は、小坂鉱山の厚生施設としてつくられた、日本最古の現役木造芝居小屋「康楽館」である)。


追記(2011.10.6):10月6日付の読売新聞に「環境省、東北にレアメタル回収拠点」との記事が載った。記事によると、東日本大震災の被災地復興支援を目的に、レアメタルを取り出すために全国で回収された携帯電話などの小型家電を東北地方に集める事業に環境省が乗り出すとのことである。東北の「鉱業立国」のきっかけとなればよいと思う。

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2006年09月04日

東北の歴史のミステリーその11〜泰衡は死んでいなかった?

c10f6847.jpg 中尊寺金色堂に納められた首級がやはり泰衡のものである可能性が高いとする資料が実は私の手元にあった。「奥州平泉黄金の世紀」(荒木伸介・角田文衞他、新潮社、アマゾン該当ページ)という本であるが、その中に、東京大学理学部教授だった故・埴原和郎氏が「藤原一族の骨格データを読む」という論文を寄稿している。埴原氏は、自然人類学の権威であり、特に歯や骨のデータから日本人のルーツや成り立ちを解き明かそうとしていたひとである。

 この本の中で埴原氏は、昭和25年の御遺体学術調査の折に得られた藤原四代の頭骨の、‘骨最大長、頭骨最大幅、バジオン・ブレグマ高、に帽弓幅、ゾ經藕癲↓ι”、鼻高、といった「人類学的に重要な計測値」を多変量解析している(写真参照)。

 埴原氏はまず、クラスター分析によって藤原四代の頭骨の相互の類似性を分析している。それによると、4人の中で三代秀衡の頭骨と四代泰衡の頭骨がもっとも近いという結果が得られている。そして、秀衡・泰衡は二代基衡・初代清衡とはやや異なっており、それは基衡が安倍氏から妻を迎えて秀衡を産んだことと関係があるかもしれないとしている。

 この結果は、中尊寺金色堂に納められた首級がやはり泰衡のものであると判断するに足る根拠を提供しているように考えられる。以前紹介した金色堂はなぜ建てられたか―金色堂に眠る首級の謎を解く 」で高井ふみや氏が主張しているように、もし首級が経清のものとした場合、ではなぜ秀衡の頭骨と、秀衡から数えて三代前の経清の頭骨とが、清衡や基衡よりも互いに似通っているのかということを説明することは困難なように思える。まして、これまた以前紹介した歴史おもしろ推理 謎の迷宮入り事件を解け 」で楠木誠一郎氏が主張しているように、泰衡の首級が誰か別の人間のものだとした場合、それが秀衡の頭骨とかなり似ていることを説明するのはさらに困難である。

 埴原氏はさらに分析を進め、これら藤原四代の頭骨は、現代京都人に最も近く、現代東北人とはかなり違っていること、そしてまた14世紀鎌倉人、八雲アイヌとはまったく異なっているという結果を得ている。また、判別関数法から見てみると、アイヌと東北人のデータを使うと藤原四代は東北人に属すると分類され、さらに東北人と京都人のデータを使うといずれも京都人に分類されるという結果となったという。これらの結果から埴原氏は、奥州藤原氏が京都出身である可能性は相当高いと主張している。

 したがって、泰衡の首級がもし偽首だとした場合、頭骨データから見て、その身代わりは地元東北人であってはならず、京都出身の特徴を持つ秀衡や泰衡と極めて近い血縁者などでなくてはならないことになる。例えば少なくとも4人いた泰衡の弟たちがそうであろう。しかし、秀衡や泰衡に近い血縁者であればそれなりの地位にある人物ばかりであったろうし、そうした地位の人物を身代わりにするのはほぼ不可能に近いと思われる。

 ちなみに、泰衡は6人兄弟の2番目である。腹違いの兄国衡は阿津賀志山の合戦で、大将軍として鎌倉側と激しく戦い、戦死している。泰衡のすぐ下の弟の忠衡は義経に与したとして、頼朝の侵攻の前に泰衡に誅されている。四男の高衡(隆衡としている資料もある)は、義経の首を鎌倉に届ける際に使者となった人物だが、泰衡が河田次郎に討たれた後、鎌倉側に投降している。五男の通衡(みちひら)はわからない。六男の頼衡も泰衡に誅されたと室町時代に成立した「尊卑分脈」には記されている。忠衡が討たれたのと同じ理由だろうか(頼衡の実在を疑う説もある)。

 討たれたと言っても、忠衡の遺骸がどこに埋められたのか、定かではない。もちろん、頼衡もそうである。金色堂の秀衡の遺体のそばにあった首級は元々忠衡のものと伝えられてきたが、実はそうではなかったということが分かったのと同時に生じた疑問は、では忠衡の遺体はどこに行ったのかということである。もちろん、時代が移り変わる中で、単にどこに埋めたのかが明確でなくなっただけなのかもしれない。一方で、義経生存説は東北に根強いが、その中では忠衡は死んだと見せかけて義経を案内して渡島に渡ったと伝えられている。頼衡については津軽外が浜(青森県の陸奥湾沿岸)に逃れて津軽浪岡氏の祖になったという伝承がある。もちろん、いずれも正史と信じられるには至っていない。

 こうして見ると、6人兄弟のうち、五男の通衡だけが文治五年奥州合戦後の所在がわからない。通衡が泰衡の身代わりとなった可能性があったかどうか。さらに穿った見方をすれば、四男の高衡が投降したのは、面が割れていて逃げおおせないと考えたからなのかもしれない。それ以外の兄弟は鎌倉側に顔を知られていなかったのだから、敗色濃厚となって逃亡しようと思えば逃亡できたかもしれない。ただし、そのような証拠はないし(逃げようとする者がわざわざ逃げた証拠を残していくとも思えないが)、ない以上すべては憶測でしかなく、結局中尊寺に祀られている首級は泰衡のものである可能性が非常に高いという事実は動かしようがないということである。

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2006年08月26日

東北の歴史のミステリーその10〜泰衡は本当に凡愚の将だったのか

84a1f701.jpg 泰衡は最期の地となった比内(現在の秋田県大館市比内町)でいったい何をしていたのか。

 吾妻鏡によると、泰衡が平泉の自分の館に火を放ってさらに北に逃れたのが文治5年8月21日、河田次郎の裏切りに遭って命を落としたのが9月3日である。

 奥州は南端の白河関(福島県白河市)から北端の外ヶ浜(青森県青森市)まで、奥州藤原氏初代清衡が「奥大道(おくだいどう)」と呼ばれる街道を整備した。全行程20日余だという。平泉は白河と外ヶ浜のちょうど中間に位置しているので、平泉から外ヶ浜までは10日余である。

 泰衡が逃亡に逃亡を重ね、果ては夷狄嶋(北海道)を目指して北上したのだとすれば、普通の行程でも8月21日に平泉を立てば、8月末までには外ヶ浜までたどり着けたはずである。吾妻鏡に記されている通り、慌てふためいて一目散に逃げ出したのだとすれば、もっと早く外ヶ浜に着いて、「念願」の夷狄嶋への逃亡が可能だったに違いない。

 にも関わらず、河田次郎に殺害された9月3日の段階で泰衡が秋田県北部の比内(秋田県大館市比内)に留まっていたのはなぜなのか。さらに吾妻鏡には、夷狄嶋を目指して糠部郡に赴いたともある。糠部郡とは現在の青森県東南部から岩手県北部にかけての地域であり、秋田県北部の比内はそこに含まれない。

 さらに言えば、夷狄嶋を目指してということであれば、その順当な「逃走ルート」は奥大道であったろうから、そこから外れる糠部郡に向かうのには、何か理由があったのではないかとも考えられる。あるいは、奥大道に沿って北上したのではなく、糠部郡を経由して宇曽利郷(現在の下北半島)から夷狄嶋に渡ろうとしたのかもしれない。しかし、そうすると、なぜ糠部郡へ向かう道にない比内にいたのかやはり不明である。要するに、平泉を離れた後の泰衡の足取りには謎が多いように思えるのである。

 この間、泰衡は頼朝に命乞いの手紙を出したと吾妻鏡には記されている。その手紙には、返事は比内の辺りに落としてほしいと書いてあった。泰衡は頼朝からの返事を待つために比内に留まったのだろうか。しかし、吾妻鏡には夷狄嶋目指して逃亡していたとある。逃亡するなら、頼朝に命乞いの手紙を出す必要も、返事を待つ必要もないように思えるのだが…。この辺り、吾妻鏡の編者はどう考えていたのだろうか。

 以前、このブログを読んでくれた璃奈氏に兜神社鎧神社のことをコメントで指摘していただいた。指摘していただくまでその存在をすっかり忘れていたのだが、確かに、兜神社にはその名の通り泰衡の兜が、鎧神社には泰衡の鎧がご神体として祭られているという。

 問題なのは、これらの神社のある場所である。これらの神社はいずれも秋田県北西部の能代市の旧二ツ井町にある。最期の地比内からさらに西に約60kmの場所である。泰衡がここまで来ていたのだとすると、「夷狄嶋目指して北上した」という吾妻鏡の記述と矛盾するし、いったんここまで来ながらなぜ比内まで戻ったのかも不明である。

 兜神社にはその由来を記したものがなかったが、鎧神社には「泰衡が源義経をかくまったとして頼朝軍に攻められ平泉を逃れるが、この地に達したとき疲労甚だしく、鎧を薄井に置いて逃げたという。泰衡は郎党、河田次郎によって殺害されるが、村人はこれを憐みこの社に祀ったとされる」とある。さらっと「この地に達したとき」とあるが、この地に達した泰衡がなぜ比内に舞い戻ったのかについては記されていない。

 泰衡は逃げたのではなく、戦略的に北上したのだとする見方もある。海保嶺夫氏は「エゾの歴史−北の人びとと『日本』」(講談社学術文庫、アマゾン該当ページ)の中で、「平泉藤原氏はより北方に拠点(良港)を築いていた可能性がある」と指摘している。氏は泰衡の北走について、「四代泰衡が源頼朝の北征軍とろくな戦いもせず『夷狄島』へ逃げようとした(『吾妻鏡』)のは、たんなる逃走ではなく、彼なりの計算があったように思われてならない」と述べている。氏によれば、平和が100年も続いて実践の経験が皆無の奥州武士と、源平合戦などで実戦経験を十分に持っている関東武士との陸上戦の結果は見えているが、拠点を北方に移して日本海の荒波を乗り切った水軍を指揮して、海戦に持ち込めば勝機はあると泰衡は考えたのではないか、というのである。

 もちろん、氏自ら「文字通りの推測である」と述べており、泰衡がそのように考えて北に逃れたのだと判断できる材料は残っていない。津軽には安東水軍などの伝承はあるものの、奥州藤原氏が水軍を持っていたという確たる証拠も今のところない。しかし、吾妻鏡に記述されている材料を拾ってみても先に紹介したように、泰衡の行動には不可解さが残る。何か考えるところがあっての行動だったと解釈してもそう無理な推測ではないように思える。もちろん、それが何だったかは今となっては歴史の狭間に埋もれてしまってわからないままなのであるが(写真は泰衡最期の地なのではないかと私が考えている秋田県大館市の二井田八幡神社)。

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2006年03月30日

東北の歴史のミステリーその3〜「泰衡の首」は泰衡の首じゃない?

1fa3428b.jpg 先に紹介した「中尊寺建立供養願文」には、鐘樓の洪鐘について、

「この鐘の一音が及ぶ所は、世界のあらゆる所に響き渡り、苦しみを抜き、楽を与え、生きるものすべてのものにあまねく平等に響くのです。(奥州の地では)官軍の兵に限らず、蝦夷の兵によらず、古来より多くの者の命が失われました。それだけではありません。毛を持つ獣、羽ばたく鳥、鱗を持つ魚も数限りなく殺されて来ました。命あるものたちの御霊は、今あの世に消え去り、骨も朽ち、それでも奥州の土塊となっておりますが、この鐘を打ち鳴らす度に、罪もなく命を奪われしものたちの御霊を慰め、極楽浄土に導きたいと願うものであります」(佐藤弘弥氏訳)

とある。中尊寺の建立は、そうした過去に命を落とした人や生き物を供養し、この奥州の地を仏国土(浄土)にするということが目的の一つとしてあったわけである。

 中尊寺は鳥羽天皇の御願寺という形を取っていたので、その落慶法要には、都から多くの貴人が訪れた。それらの貴人たちは当然、落成した中尊寺に向かって手を合わせたのだろうが、もう一つの意図と前回言ったのは、金色堂のことである。この「中尊寺建立供養願文」には金色堂のことが出てこないのである。では、落慶法要の時点で金色堂はまだ完成していなかったのかというとそうではない。「棟木墨書銘」によれば、金色堂はこの落慶法要が営まれる2年前の天治元年(1124)には既に上棟されていたのである。中尊寺供養願文に現れないということは、金色堂の存在は、落慶法要の時点では公表されていなかったということなのではないか。そのことは何を物語るのか。

 ところで、金色堂を巡る謎の一つは、これが何なのかということである。何なのかというのはつまり、藤原三代が納められていることから、当初から「葬堂」として想定されたのか、当初は本尊として阿弥陀如来が安置されていることから「阿弥陀堂」として建立され、結果として葬堂になったのかということである。

 この点を巡っては、葬堂説、阿弥陀堂説双方の研究者からさまざまな考察が出されているが、供養願文に登場しないという点から見ると、やはり「葬堂」だったのではないだろうか。つまり、葬堂という「私的なもの」だったからこそ、あえて供養願文では触れなかったということである。阿弥陀堂であれば、「皆金色」とされる極楽浄土をこの世に具現化したものとして声高らかに謳ってもよかったはずである。

 金色堂に安置されている地蔵菩薩六体の存在も葬堂説を補強している。阿弥陀堂説の論者からは、阿弥陀如来と地蔵菩薩との関係について、横川(よかわ)流浄土教の影響とする説も出されているとのことだが、では横川流浄土教が平泉にどのように影響を与えたのか今一つよく分からず、やや牽強付会の感がある。しかも、横川流でいう、阿弥陀、観音、勢至、地蔵、龍樹の「弥陀五仏」は、当然ながら安置されるのは通常一体ずつである。金色堂のように六体の地蔵菩薩が安置されているのは、「輪廻転生の六道の入口に立って衆生を教化する」という地蔵菩薩本来の意図が明示されたものと見るのが自然である。

 以上のような点から、金色堂は葬堂だったと考えられるが、では誰の葬堂だったかという問題がある。これまでは、清衡自身が死後葬られていることから、自分自身のための葬堂だったと考えられていたが、この見方にはどうも違和感がある。「中尊寺建立供養願文」で亡き魂への供養を高らかに謳いあげた清衡が、自分の来世の極楽往生のために葬堂を築くだろうか、という疑問である。従来の葬堂説では、この点がどうもしっくりこない感がある。

 高井氏は、この金色堂こそが、清衡が自分の父経清の首を安置し、供養するための葬堂だったと結論付けているのである。この見方には私も賛成である。確かに、清衡自身のためではなく、陸奥のために戦って命を落とした父のための葬堂だったとすれば、供養願文の趣旨ともまったく相違しない。しかも、経清は先の「前九年の役」の首謀者、「戦犯」の一人である。その経清を祀った金色堂を、都から来た貴人の前に堂々と披露するわけにはいかなかったのである。

 しかし、だからと言って清衡の意図は、ただ天皇の御願寺である中尊寺の落慶を祝うために都から貴人を呼び寄せたのではなかったものと考える。元々、東北の側から見れば、紛れも無い「侵略戦争」であった。清衡の意図は、実は、都から来た貴人に、中尊寺の広大な敷地の一角にあった金色堂にそれと知れずに手を合わせさせたかったのではないだろうか。

 落慶法要が行われた大治元年(1126)3月24日は地蔵の縁日でもあるという。これはただの偶然と見るのではなく、そこに何らかの意図があったと見るべきだろう。その意図とは、すなわち、先の戦で父経清討伐を命じた朝廷の側の人間に、手を合わせさせたかったということなのだと考える。逆に言えば、そのためにこれだけの規模の大きな寺院を天皇の御願寺という形を取って建立したのだ、とも言える。

 もちろん、朝廷に無用の介入をさせないために、清衡自身の権勢を示し、奥州を掌握していることを高らかに宣言する必要もあったろうが、それだけでない、公にはできない意図もあったのではないだろうか。いわば、中尊寺の中に金色堂があるのではなく、金色堂のあるところに誰もが手を合わせる寺院を、清衡は作りたかったのではないかと私は考えるのである(写真は中尊寺月見坂)。

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2006年03月24日

東北の歴史のミステリーその2〜「泰衡の首」は泰衡の首じゃない?

0df45924.jpg というわけで、いきなり「首」の話である。今まで地ビールやら温泉やらの話を続けてきたところに突然「首」の話とはこはいかに、という感じであるが、上を見ていただければ分かるように、このブログでは東北の歴史も扱うということを謳っている。なかなかそのきっかけがなかったのだが、最近ドキドキワクワクするような面白い本を見つけたので、それをネタに東北の歴史の話も少しずつ書いてみようかと思う。

 岩手県平泉町にある中尊寺には、日本の国宝第一号となった金色堂がある。その名の通り、皆金色のお堂で、マルコ・ポーロが東方見聞録に記した「ジパング伝説」の元となった建造物ではないかと言われている。

 金色堂には、平安末期に約一世紀にわたって東北全土を実質的に治めていた奥州藤原氏三代、初代清衡、二代基衡、三代秀衡の遺体と、四代目で源頼朝に滅ぼされた泰衡の首級が安置されている。

 実は、この泰衡のものとされている首級は、寺伝では泰衡の弟忠衡のものだとされてきた。忠衡は、三代秀衡の三男である。源義経が兄頼朝に追われて奥州に逃れてきた時、秀衡は義経を受け入れて鎌倉と対峙する道を選ぶが、その秀衡は義経が来て1年も経たないうちにこの世を去ってしまう。臨終に際して、秀衡は「前伊予守義顕(義経)を大将軍と為して、国務をせしむべき」(吾妻鏡)との遺言を残すが、忠衡はこの秀衡の遺言を守って源義経を擁いて鎌倉と対峙しようとして泰衡に誅されたとされる。父の遺命に従い、義経を主君として仰いだ忠孝の士として、その首級が金色堂に納められている、そう信じられてきたのである。

 ところが、昭和25年の御遺体学術調査の折、忠衡のものとされてきた首級には、右の耳の付け根から頭蓋骨の一部とともに切られ、頭頂1カ所、後頭部に二カ所、そして鼻など数カ所に刀傷があるほか、前頭部の中央から後頭部に達する直径1.5センチほどの穴が貫通していた。「吾妻鏡」には泰衡の首には、前九年の役の際に源頼義が、安倍貞任の首に長さ八寸の鉄釘を打ち付けたのに倣って、同様に釘を打ち付けたとの記述がある。安倍貞任の時に首を扱った者の子孫に泰衡の首を扱わせるという徹底ぶりで、宿意を晴らしたのであるが、金色堂に納められた首級にはまさにこの釘の跡があったわけで、それを以って、その首級は忠衡ではなく泰衡のものであるとされ、それが現在に至るまで新たな「常識」とされてきたのである。

 さて、今回見つけた書籍「金色堂はなぜ建てられたか―金色堂に眠る首級の謎を解く」(写真参照、高井ふみや著、勉誠出版、アマゾン該当ページ)は、この御遺体学術調査の折に泰衡のものとされた首級は実は泰衡のものではないとして、これまでの「常識」に果敢に挑戦した書である。

 泰衡のものでないとすれば、この首級は誰のものなのか。高井氏は、藤原経清のものだと言うのである。藤原経清を知っている人は、かなりの歴史通である。93年にNHK大河ドラマになった高橋克彦原作の「炎立つ」で主役になったこともあって、少しは知られるようになったが、この人は奥州藤原氏初代で平泉「黄金の100年」の礎を作った藤原清衡の父である。

 藤原経清は、亘理権太夫と言われており、国府側にいて今の宮城県亘理郡を治めていたとされている。平安京で摂関政治を行った藤原氏と区別するために奥州藤原氏と呼ばれるこの一族は、元をたどっていくと平将門を討った藤原秀郷につながる。藤原秀郷は元々京の藤原氏の流れを組む家柄であるから、奥州藤原氏も土着の蝦夷ではないわけである。

 さて、経清はその後、奥六郡(現在の岩手県南部)を支配していた俘囚(朝廷に恭順する蝦夷)長の安倍頼時の娘を妻に娶る。この安倍氏を討つ戦となった前九年の役では、経清は当初は陸奥守源頼義に従っていたが、同様に安倍頼時の娘を娶り、亘理郡の隣の伊具郡を治めていたとされる平永衡が、安倍氏側に通じているとの疑念を抱かれて源頼義に殺害されたことに身の危険を感じて安倍側に寝返った。そこから安倍軍の中心的存在として源頼義率いる国府軍を大いに悩ませた。

 特に、前九年の役の間、経清は朱の国印を押した徴税符である「赤符」ではなく、経清の私的な指示書である「白符」に従うよう陸奥の諸郡に命じ、朝廷をないがしろにして独自に徴税を行ったが、当初安倍側が優勢だったために陸奥守源頼義もこれを指を咥えて見ている他なかった。このことのために経清は、徴税の権限を奪われ完全に面目を潰された形の頼義の深い恨みを買った。最終的に国府軍が、出羽の俘囚長である清原氏の援軍を得て安倍軍を厨川の柵(現在の岩手県盛岡市)に破り、経清を捕らえた際、頼義は苦痛を長引かせるためにわざと刃こぼれさせた刀で首を切った、という。残酷な処刑である。

 ちなみに、この前九年の役は、源頼義が陸奥の地に覇権を築こうとの野望を抱いて起こした「侵略戦争」だったと位置づけることができる。結局、念願通り安倍氏を滅ぼすことができたが、朝廷は頼義の勢力が大きくなりすぎることを警戒し、勝敗を決定づけた清原氏に陸奥、出羽二国の統治を任せた。この時の頼義の無念が後の鎌倉幕府の公文書「吾妻鏡」が記した頼朝の「私の宿意(私的な怨恨)」につながっていくのである。

 ところで、この「前九年の役」とその後起きた「後三年の役」はどちらも「役」と呼ばれているが、「役」という語はもともと、後の元寇「文永の役」「弘安の役」や秀吉の唐入り「文禄の役」「慶長の役」のように、「対外戦争」に用いられる用語である。東北での戦にこの語が用いられていることは、当時東北が異境の地と見なされていた端的な証である。

 その後、清原氏の内紛に頼義の子源義家が介入した後三年の役を経て、陸奥、出羽二国の実質的な支配者となった経清の子、奥州藤原氏初代藤原清衡は、中尊寺を建立し、世にも稀な金色堂を建立した。中尊寺を建立し、と簡単に書いたが、「吾妻鏡」によれば中尊寺は、堂塔40余、僧坊300余を有する大寺院であり、鳥羽天皇の御願寺という位置づけであったので、その建立はいわば国家的大事業であった。天治3年(1126)3月24日、その中尊寺の「大伽藍一区」が完成し、清衡によって盛大な落慶法要が営まれた。いずれ紹介するが、この法要に捧げられた「中尊寺建立供養願文」には、清衡の理想とする奥羽の平和、国家の平和を祈る心情が凝縮されているといえよう。

 この落慶法要には、国家鎮護の祈りとは別のもう一つの目的があったように思え、また同時にそれが高井氏が主張する泰衡の首級の「正体」を探る根拠の一つともなっているが、長くなったのでそれについては、次に触れることにしたい。

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2004年09月03日

私的東北論その2〜東北の「首都」は平泉に

a7c38816.jpg 青森、岩手、秋田の北東北三県で、将来の合併を念頭に置いた様々な取り組みが始まっている。三県は、産業廃棄物税の共同導入や三県合同の事務所の設置、三県知事によるサミット、三県の若手職員による北東北広域政策研究会の活動などの実績を積み重ねてきた。

 同研究会は昨年8月に出した最終報告書の中で「2010年に対等合併して『北東北特別県』となり、さらにその後5年から10年をかけて東北六県による『東北州』実現」を提言しており、恐らく将来の道州制の実現に一番近い位置にいるのがこれら三県だと思われる。

 野田一夫氏という高名な経営学者がいる。若かりし頃はP.F.ドラッガーの著書を日本で初めて翻訳して紹介し、最近では多摩大学宮城大学など、既存の枠にとらわれない大学を作ったことで話題を呼んだ。

 野田氏は宮城大学学長の職を辞した後も、社会開発研究センターの理事長として、仙台にとどまり、週の半分は仙台にいる。というのも野田氏の生まれは岩手の盛岡であり、かつては岩手の野田村の有力者だった家柄だそうで、東北には殊のほか思い入れが強いからなのだそうである。その野田さんがここ数年主張しているのが、「東北独立」である。中央権力に依存せず、東北が独立して自主的な開発をすべきだとしている(参考サイト)。

 独立国というのは一つの比喩で、独立するくらいの気概を持って東北は一体となって進めというメッセージだと私は思っており、それには大賛成である。ただ、野田氏は東北が独立した際には仙台はその「首都」となれと言っている。確かに、人口、都市機能など見ても仙台はそれにふさわしい要件を備えているように思える。

 しかし、私はあえて「首都」には、仙台でない地を選ぶべきと思っている。具体的には、私は東北が独立した暁の「首都」、あるいは東北が一つの州になった際の「州都」として、岩手県の平泉町を推したい。以下そう考える理由を述べたい。

 まず、地域全体のバランスである。仙台は東北全体を考えた際に南に偏り過ぎている。北三県から見て遠い「首都」は、「国土」の均等な発展を考えた際に果たしてふさわしいかどうか。今ですら仙台への一極集中が言われている。その状態がそのまま引き継がれるようでは、一つになった後の状況が心配である。仙台がそのまま「首都」になると、東京にすべてが集中している今の日本をそのまま「縮小コピー」したような変わり映えのしない「国」ができてしまう公算が高い。

 ましてや、先に触れたように、現在統一への動きは北三県で盛んである。北東北三県が合併した後に、南三県がそれに合流するという形で東北が一つになる可能性もある。そうした時に、合併した後の「首都」が南の仙台というのでは、北三県としては「今までの自分たちの苦労をよそに後から来た仙台がおいしいところを取っていってしまう」というような思いを抱くのではないだろうか。

 それに対して、平泉は岩手にある古都である。藤原清衡がここを本拠と定めたのにはもちろん理由がある。東北の南端の白河の関(現在の福島県白河市)から北端の外ヶ浜(現在の青森市)までのちょうど中間に位置していたのである。現在の地理的条件を見ても、平泉から北80kmに盛岡市があり、南83kmに仙台市がある。そして、その盛岡市の北129km先に青森市、西90km先に秋田市があり、仙台市の西46km先に山形市、南66km先に福島市がある(いずれも直線距離)。

 こうして見ると、実に絶妙の位置に平泉はある。平泉を「首都」と定め、仙台、盛岡が南北から平泉を支えつつ、それぞれ福島・山形、青森・秋田と平泉とをつなぐ役割を果たせば、北東北三県も「疑心暗鬼」に陥ることなく、一つとなった東北について一緒に考えていけるはずである。

 もう一つ、平泉を「首都」とするメリットは、平泉の「小ささ」である。三方を山に囲まれた平泉の土地には限りがある。さらに、平泉は現在世界文化遺産登録を目指しており(参考サイト)、重要な史跡なども数多く、安易に開発できない。それがよいのである。地域を元気にするためには、それぞれの地域の裁量を増やすことが必要である。今地方分権の論議が活発なのもそれが理由だが、東北州(あるいは東北国)においても「大きな政府」はいらない。平泉の町に収まる規模の「小さな政府」があればよいのである。

 平泉は早晩世界文化遺産に登録されるだろうが、その世界文化遺産を抱えた「首都」の誕生に期待したい。(写真は平泉にある毛越寺の浄土庭園のもみじ)

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