蝦夷  

2016年07月30日

私的東北論その84〜「イサの氾濫」と「まづろわぬ民」(「東北復興」紙への寄稿原稿)

 5月15日発行の「東北復興」第48号では、東北を題材にした2つの作品、「イサの氾濫」と「まづろわぬ民」を取り上げた。「イサの氾濫」は小説、「まづろわぬ民」は歌とジャンルは違うが、東北に対する熱い思いは共通している。どちらも震災後に創られたという点でも共通している。建物が元通りになれば復興ということではない。東北に住む人の復興には、東北の祭りや伝統芸能の復活が必要とよく言われるが、加えてこのような文芸や音楽などの復活も必要なのだと思う。

 以下がその全文である。


「イサの氾濫」と「まづろわぬ民」

小説「イサの氾濫」
91hIN6oceAL 木村友祐の「イサの氾濫」が未来社から3月11日に刊行された。40代になって東京での生活に行き詰まりを感じていた主人公の将司が、叔父の勇雄=イサに興味を持ち、故郷の青森・八戸に帰り、従兄弟や父親の幼馴染に話を聞いて、その足跡を辿っていく、というストーリーである。イサは方々で諍いを起こし、肉親にも敬遠され、どこにも居場所のなかった「荒くれ者」だった。将司はイサの孤独と悔しさに自分自身を重ね、さらに震災後の東北の悔しさをもその身に乗り移らせ、ついに「イサ」となって怒りを爆発させる。

 本作の初出は「すばる」(集英社)の2011年12月号で、第25回三島由紀夫賞候補作ともなったそうだが、その時は私はその存在を知らず、今回単行本になって初めて手に取る機会を得た。この小説の中で最も印象的な箇所として、登場人物の口から、蝦夷や東北の置かれた状況について語られる場面がある。

 父親の幼馴染の角次郎は、イサのことをかつて東北に住んでいた蝦夷みたいな人間だったのではないかと将司に言う。その言葉に前のめりになる将司に対して、「今のは考え方の遊び」だと言いつつ、角次郎は蝦夷について語る。

「……蝦夷づのぁ、ホントは西の、都のやづらがそう呼んだだげで、本人だぢは自分が蝦夷だどは思ってながったらしいけどな。産馬ど馬飼に長げでだがら、馬さ乗って弓ばあつかうのも得意な連中で、やだら勇敢な猛者がそろっていだづ。都の連中にとっちゃ、自分だぢの国の外さあって、そったら強い輩がゴロゴロいる蝦夷の国は、想像を超えだ野蛮の国だったのよ。まぁ、国どいっても、それぞれ単独に動ぐ部族の集まりで、抗争をくりかえすおんた感じだったらしいんども。毛を着て血を飲む、兄弟同士疑い合う連中だど思われでったづ。朝廷は、天皇こそ絶対だどいう物語にしだがって、その未開の国ば何回も制服しようどしたんども、蝦夷ぁなんたかた抵抗したべ。だすけ、蝦夷は都の連中には、『まづろわぬ人』どが、『あらぶる人』ど呼ばれでだのよ。……な。イサみてぇなもんだべ?」

 その上で角次郎は、「今の東北には、あいつみてぇなやづが必要だどいう気もする」と言う。それはどういうことかと尋ねる将司に角次郎は、「みな、人ッコよすぎるべ」と言って、こう言う。

「こったらに震災ど原発で痛めつけられでよ。家は追んだされるし、風評被害だべ。『風評』つっても、実際に土も海も汚染されだわげだがら、余計厄介なんどもな。そったら被害こうむって、まっと苦しさを訴えだり、なぁしておらんどがこったら思いすんだって暴れでもいいのさ、東北人づのぁ、すぐにそれがでぎねぇのよ。取材にきた相手さも、気遣いかげたぐねぇがら、無理して前向ぎなごと言うのよ。新聞もテレビも、喜んでそういう部分ばり伝える」。

「……おらはもどもど、生まれだ地域で人の性格うんぬんすんのは、ナンセンスだど思ってんども。だがらこれは、そんでもやっぱり不公平でねぇがどいう思いが言わせる、戯言みてぇなもんだども。東北人は無言の民せ。蝦夷征伐で負げで、ヤマトの植民地さなって。もどもど米づくりさ適さねぇ土地なのさ、稲作ば主体どずる西の社会ど同じように、米、ムリクリつぐるごどになって。そのせいで人は大勢飢え死にするし、いづまでたっても貧しさに苦しめられでな。はじめで東北全域が手ぇ結んで、薩長の維新政府軍ど戦った戊辰戦争でも負げで。つまり、西さ負げつづけで。どごのだれが言いだしたんだが、『白河以北、一山百文』なんて言葉で小馬鹿にされで、暗くて寒くて貧しいど思われながら、自分だぢもそう思いながら、黙々と暮らしてきたべ。……したんども、ハァ、その重い口ば開いでもいいんでねぇが。叫んでもいいんでねぇが」。

 この長大な語りは、まさに作者である木村友祐の「叫び」であるのだろう。ちなみに、八戸出身で東京に出た主人公の将司は、まさに作者の分身であるし、イサのモデルは作者の叔父だそうである。東京から見えた震災後の東北とその東北を取り巻く状況を見て、全編を通して「東北よ、叫べ!」と叫んでいる。作者がこの小説を通じて訴えたかったことはまさにここにあるのに違いない。

アルバム「まづろわぬ民」
613YZ2hFc0L この「その重い口ば開いでもいいんでねぇが。叫んでもいいんでねぇが」という声に応えた人がいる。白崎映美である。白崎映美は山形の酒田出身。上々颱風(しゃんしゃんたいふ〜ん)のヴォーカリストとして活動してきたが、上々颱風は2013年1月に活動を休止。そのような折に、この「イサの氾濫」と出会い、その「叫び」に東北人の血をたぎらせて、東北出身のミュージシャンらに声を掛け、「白崎映美&とうほぐまづりオールスターズ」を結成したのである。翌2014年秋に1stアルバム「まづろわぬ民」を発表。2015年に「白崎映美&東北6県ろ〜るショー!!」に改名して現在に至っている。「東北6県ろ〜る」というネーミング、実に秀逸である。このアルバムはまさに、東北の「ロッケンロール」である。ロックのテイストと東北が誇る民謡のテイストがうまく融合し、独自の音世界が形成されている。

 印象的な歌詞も随所に表れている。「とうほぐまづりのテーマ」では、「オラは歌うぞ 皆踊れ/泣ぐ子はいねが 皆踊れ/いづまで生ぎっが わがんねぞ/明日ポックリ行ぐがも わがんねぞ」と歌う。「いづまで生ぎっが わがんねぞ/明日ポックリ行ぐがも わがんねぞ」というのは、東日本大震災をくぐり抜けた多くの東北人の偽らざる実感であろう。そして、「泣いだ人ださ いい事いっぺ来い/よいしょよいしょど いい事/引ぱらて 来い来い来い」と歌う。これこそ、白崎映美の東北に対する切なる願いなのであろう。

 このアルバムの白眉は、アルバムのタイトルともなっている「まづろわぬ民」である。「まづろわぬ民」とは、「イサの氾濫」でも触れられているように、まさに蝦夷そのもののことである。この曲で白崎映美はこう歌う。

「ぎらぎらの目ン玉ど/真赤だ心臓ど/ほどばしる力ど/ほほえみど/リンゴのほっぺど/寒さに強い体ど/あったこハートを持ぢ/多ぐ語らず 恥ずかしがりやで/気持ぢの優しい民だ/抑え切れない この衝動は/確かにあなた方の 末裔だ」。

 ここでは、白崎映美の思い描く「蝦夷」が独特の表現で描かれている。そしてさらに、「山漕ぎ 野漕いで/自由に生ぎる/オラ方の先祖は/まづろわぬ民だ」と歌い、東北人の「原点」として「まづろわぬ民」があることが強く主張されている。

 白崎映美はこのアルバムのMCで「まづろわぬ民」についてこう語る。

「東北は昔から、暗くて寒ぐで、景気も悪ぐで、そごさ、東北大震災、んで原発事故、オラ、悔しぐで、頭さ来で、東北人は、もっと叫んでもいいあんねが、でっけぇ声出していいあんねが、東北さ、いい事いっぺ、来い来い来ーいど思って、東北まづりオールスターズを、つぐりました。震災の後、オラはずっともやもやど、考えでました。そん時に、『イサの氾濫』っていう小説に巡り合いました。そごさは、『まづろわぬ民』と書いであった。昔オラがたの祖先は、蝦夷って呼ばれで、中央がら、西がら攻められだ。んだげんども、オラがたは支配されない、迎合しない民って呼ばれでだ。んでオラは、よし、んだ、今こそ、オラがだはでっけぇ声で立ぢ上がっ時だど思って、この歌をつぐりましだ」。

 木村友祐の「叫び」と共通する「叫び」がここにはある。この2つの「叫び」が出会い、共鳴し合ったのである。当の木村友祐は「イサの氾濫」のあとがきでこう書いている。

「発表から四年半。書籍化の予定もなく、そのまま埋もれるはずだった『イサの氾濫』がこうして本としてかたちになったのは、何といっても、上々颱風のヴォーカリスト、白崎映美さんのおかげである。白崎さんは『イサの氾濫』を読んだことをきっかけに、『東北6県ろ〜るショー!!』という東北を叫ぶ祝祭性あふれるバンドを結成した。そしてライブのたびに『イサの氾濫』のことを観客に伝え、ぼくをステージに上げて朗読までさせてくださった。筋金入りの東北思いの彼女との出会いがなければ、この本はできなかった」。

 また、「まづろわぬ民」のライナーノーツでもこう書いている。

「震災で甚大な被害をこうむっても物言わぬ東北人には、歴史的に負ってきた悔しさがあるのではないか。その悔しさ、怒りを、かつて大和朝廷の侵略に抵抗して『まつろわぬ民』とよばれた古代東北の人々、蝦夷のように荒々しく解放してもいいのではないか。『イサの氾濫』は、そのような観点から書かれた小説だ。白崎さんはそれをきっかけに『東北まづり』を立ち上げたと言ってくれる。作者としては光栄の極みだけれど、彼女の東北への思いは震災前からもともとあったものだ。その一貫した揺るぎなさと深い想いに、むしろぼくのほうが大きな示唆を受けている」。

「東北よ、東北人よ、叫べ!」
 小説と音楽。ジャンルは違えど、お互いに影響し合って東北の眠りを呼び覚ますような動きへとつながっていっているのは非常に興味深い。唯一残念なのは、「白崎映美&東北6県ろ〜るショー!!」のライブが今年は今のところ首都圏と沖縄のみで開催予定であることである。もちろん、それはそれで東北の思いを他地域、特に首都圏で伝えるという意味で意義のあることではあるが、ぜひこの東北でもその思いの丈を存分に発散してほしいと思うのである。

 「イサの氾濫」の最後で、東北人にも東京人にもなり切れていないと感じていた将司に対して、イサはこう語る。 「おめは、生ぎでいいのせ。ニセモノだの、空っぽだの、役立だずだの、そんなものぁどんでもいい。人の目なんが知るが。反省もすな。身勝手でもなんでも、イヤなものはイヤど、思いっきり、叫べ、叫べ」。

 木村友祐と白崎映美、二人の思いはまさにこの言葉に尽きるのだろう。曰く、「東北よ、もっと叫べ!東北人よ、もっと叫べ!」我らの先祖が命を懸けて必死に守ろうとした何かに、すっかり飼い馴らされて野性味を失ってしまったようにも見える今の東北人は思いを馳せるべき時なのかもしれない。

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2016年05月20日

私的東北論その81〜東北の来し方行く末をウェールズに学ぶ(「東北復興」紙への寄稿原稿)

 2月16日発行の「東北復興」第45号では、東北とイギリスのウェールズに共通するものについて考えてみた。イギリスの中で言うと、地方分権絡みではスコットランドに注目が集まるが、実はウェールズは東北にとってとてもシンパシーの感じられる国だということが分かる。

 以下がその全文である。


東北の来し方行く末をウェールズに学ぶ

4つの国からなる「イギリス」
 我々が「イギリス」と呼ぶ国は、正式にはグレートブリテン及び北アイルランド連合王国と言う。連合王国と言う通り、ロンドンを抱えるイングランドの他にスコットランド、ウェールズ、北アイルランドの4か国で構成される国である。サッカーやラグビーのワールドカップなどではこれら4か国が別々に出場するので、ユニオンジャックとは異なるそれぞれの国の国旗を見る機会も多い。

 よく東京の一極集中が指摘される日本から見ると、「イギリス」を構成する4か国はそれぞれが一つの国ということで日本よりもはるかに分権が進んでいるように見える。実際、スコットランド、ウェールズ、北アイルランドには議会が設置され、制限はあるものの立法権を持っている。

 国内で地方分権の拡大、地方自治の拡大を推進しようとする人の間ではその中でもとりわけ、スコットランドの取り組みに注目が集まることが多い。2014年のスコットランド独立住民投票は世界的にも大きな注目を集めたが、分離独立までは考えていなくても、スコットランドにおける自治権拡大に向けた動きは、わが国で中央集権国家から地方分権国家へ移行させようとする、主に地方にいる人たちにとっても参考になるものと映る。実際、北海道などは平成15年にスコットランドを視察し、その結果を「スコットランドの分権改革に関する調査研究報告書」という詳細な報告書にまとめている。

東北はスコットランドではなくウェールズ
 さて、私には東北の主だった都市、それは県庁所在地に限らず地方都市も含むが、だいたいよく行く飲み屋がある。大抵は美味しいビールが飲める店で、それらは拙ブログでも紹介しているが、先日山形市の行きつけの店の一つで飲んでいたところ、かつてその店で意気投合した佐藤 明氏と数年ぶりに再会した。佐藤氏は、好きなアーチストがたくさんいるという理由から、ウェールズに造詣が深かった。

 その佐藤氏が言うには、「東北はスコットランドではなくウェールズではないか」ということであった。独立を求める住民投票を実施するようなあのスコットランドの押し出しの強さは、我らが東北ではなく、むしろ関西に通ずるのではないか、とも言った。なるほど、確かに、世間の注目を集め、一気呵成に物事を進めていく様は、前・大阪市長の橋下 徹氏のイメージとも重なる気がする。

 ただ、正直なところ、私はウェールズについて明確なイメージを持ち合わせていなかった。せいぜい首都がカーディフであることと、イギリス皇太子が「プリンス・オブ・ウェールズ」と称されることと、あとはアーサー王伝説くらいである。しかし、考えようによっては、そのように、世界の耳目を集めるスコットランドと比べても明確なイメージがあまり湧かない慎ましやかなウェールズは、何か我らが東北に相通じるものがあるようにも思える。

ウェールズと東北に共通するもの
 そこで遅まきながらウェールズについて調べてみた。調べてみると、東北と共通するような事柄がけっこうあることに気づく。国土の面積は20,716屬如日本で言うと四国4県に東京都と合わせたほどの大きさである。人口は2011年の統計で約306万人である。その年のイギリス全体の人口は約6,318万人なので、ウェールズの人口はその約4.8%でそれほど多くないわけである。

 ちなみに、2015年現在の東北六県の人口は約897万人で、日本全体の人口は1億2,688万人であるから、東北人の占める割合は約7.1%である。まあ、ウェールズも東北もどちらも「少数民族」ではある。

 東北人から見て最も共感できそうなのはそのルーツである。ウェールズ人のルーツは、ノルマン人やサクソン人が侵略してくる前からブリテン島に住んでいたケルト系のブリトン人である。ウェールズは古代から度々ブリトン人の後にブリテン島に渡ってきたノルマン人やサクソン人の侵攻を受けてきた。ウェールズはその都度強硬に抵抗し続ける。ウェールズに侵攻してきたサクソン人を撃退したというブリトン人の王、アーサー王は、東北で言えば蝦夷のリーダーだった阿弖流為(アテルイ)か安倍貞任に比せられるかもしれない。

 しかし、こうした抵抗もついにその終焉を迎え、1282年、ルーワリン最後王がエドワード一世に敗れて討ち死にし、ウェールズはイングランドの支配下に置かれるのである。この辺り、源頼朝に滅ぼされた奥州藤原氏の話を彷彿とさせるものがある。ただ、すごいのは、イングランド支配下に組み込まれてもウェールズはその独立性を失わず、決してイングランド人に同化されることはなく、むしろこの地に進出してきたイングランド人が逆にウェールズ人化していったということである。

 そうしたこともあって、ウェールズには、ウェールズ人独自の文化が今も色濃く残っているそうである。キリスト教伝来のはるか前から、ウェールズにはドルイド僧を中心とする宗教があり、自然物のなかに霊魂が宿ることや輪廻転生があることなどが信じられていたという。この辺りは万物に神が宿るという日本の神道や、因果応報によって輪廻転生があるという仏教の思想に近いものが感じられる。

 言葉に関して最も親近感を覚えたのはそもそもの「ウェールズ」という言葉である。「ウェールズ」とは、ウェールズを征服したサクソン人の言葉「ウェリース」が元で、その意味は「よそ者」だそうである。ここはまさに大和朝廷に「蝦夷」と呼ばれ蔑まれた東北にそっくりである。ちなみに、ウェールズ語ではウェールズのことは「カムリ」と言うそうで、これは「同胞・仲間」という意味だそうである。

 もう一つ、ウェールズでは古代から「ウォルシュ・ゴールド」と称される金が産出した。今では底をついてしまったそうだが、今もあるウォルシュ・ゴールドはプラチナよりも希少価値が高いとされているそうである。これも古代中世における一大産金地であった東北と共通する点である。

東北に住む者みな蝦夷
 先に触れたように、今の東北地方に住む人はかつて蝦夷と呼ばれた。よく議論されることに、蝦夷はアイヌ民族と同じか否かというものがある。それについての結論はまだ出ていないが、個人的には、イコールではないものの、蝦夷の中には後にアイヌ民族と呼ばれることになる一群もいたのだろうと思う。しかし、それだけではなく、いわゆる大和民族もいたはずである。稲作の遺跡が東北の北端、青森県内でも見つかっていることから、渡来系の弥生人が東北まで北上して定住していたことは疑い得ない。一方で、アイヌ語で説明できる地名が東北には数多く残っていることから、アイヌ民族と同族がいたか、あるいはアイヌ民族そのものが南下してきたかして、そうした一族がいたことも確実である。要は、そうした多様な民族が当時の東北にはいて、それらの人が後に朝廷から征服する対象として十把一絡げに蝦夷と呼ばれたというのが真相ではなかったかと思うのである。

 すなわち、蝦夷というのはある特定の民族のことを指すのではない。まさに、東北に住み、東北の人間であることを自覚する人が蝦夷なのである。この辺り、ウェールズに進出してきたイングランド人さえもウェールズ人化させていったというウェールズとも通ずるものがあるように思う。戦乱に明け暮れた、そしてそれはほとんどすべて外から攻められたことによる戦乱だが、そうした東北に百年の平和をもたらした奥州藤原氏は、元をたどれば京の摂関家の藤原氏に連なる一族である。だが、その初代清衡は自らを、本紙第41号でも紹介したが、中尊寺供養願文の中で「東夷の遠酋」(東の果ての蝦夷集団を束ねる遠い昔からの酋長の家柄に属する者)、「俘囚の上頭」(朝廷に服属する蝦夷集団の頭領)と称した。奥州藤原氏の全盛期を築いた三代秀衡さえも、京の摂関家藤原氏の九条兼実から「奥州の夷狄(未開の蛮人)」と呼ばれている。自他ともに認める蝦夷だったわけである。

蝦夷の末裔であることを誇りに思おう
 沖縄の人は自分たちのことを「うちなーんちゅ」、九州以北の人のことを「やまとんちゅ」と呼ぶが、「やまとんちゅ」とは「大和人」ということなので、住む人がその大和人に蝦夷と呼ばれた地である東北にいる身からすると、「やまとんちゅ」と言われることにはちょっと違和感を覚えたりする。この辺りは、ウェールズ人が自らをイングランド人とは全く別と考えていることに少し通ずるところがあるかもしれない。

 思えば、奥州藤原氏はそうした「やまとんちゅ」に対する蝦夷からの強烈な自己主張だった。中尊寺供養願文の「東夷の遠酋」、「俘囚の上頭」という言葉、これは従来、清衡が自分の立場を卑下して「中央」の天皇家、摂関家を立てるためのへりくだった表現だと言われてきたけれども、実はそうではなかったのではないかと思う。清衡は誇りを持って自らのことを「東夷の遠酋」、「俘囚の上頭」と称していたのではないかと思うのである。清衡はここで自分を、朝廷の支配する地域とは異なる国のリーダーであることを高らかに宣言したのではないだろうか。これまた第41号で書いたが、奥州藤原氏は、天皇家の祭神の伊勢、摂関家藤原氏の祭神の春日、鎮護国家の軍神で源氏の祭神の八幡、蝦夷征伐の神の鹿島・香取などは一切平泉に入れなかった。奥州藤原氏は摂関家藤原氏に連なるその立場よりも、蝦夷のリーダーとしての立場を取ったのである。

 そうそう、蝦夷とは元々は強い者、荒ぶる者を指し、それがやがて朝廷に従わない者、朝廷の文化とは異なった文化を持つ者を指すようになったという説がある。とすれば、それはむしろ東北に住む人間にとっては褒め言葉とも言えるのではないだろうか。その蝦夷の末裔であることを、今東北に住む一人として誇りに思いたい。過去を受け継ぐ者が今どうあるか、ウェールズには今後さらに学びたいものである。


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2012年09月27日

私的東北論その37〜志を持つ人の「新天地」としての東北(「東北復興」紙への寄稿原稿)

イメージ 4 「東北復興」の第4号が9月16日に刊行された。今回の号で砂越氏は、東北の復興に手をこまねいている既存の政治家を批判し、自ら「東北復興を実現する政治家」を目指すことを勧め、そのための政治研究会設置についての意見交換も呼び掛けている。

 また、今号からは私も存じ上げている仙台在住の画家の古山拓氏の連載が始まった。旅行作家YASUYUKI氏の連載も始まった。「笑い仏」も順調に福島に向けての行脚を続けているようである。

 その第4号に寄せた拙文が以下である。




志を持つ人の「新天地」としての東北

白河の関史上初の「快挙」に寄せて
 この稿が掲載された紙面が発行される頃にはもはや旧聞に属することになってしまっていることだろうが、今年の全国高校野球選手権大会で青森の光星学院が昨年夏から春夏合わせて三度連続となる準優勝を成し遂げた。

 「成し遂げた」と表現したが、もちろん選手、監督や関係者は、「準」の取れた「優勝」を郷里、そして東北にもたらしたかったに違いない。青森のみならず東北の高校野球関係者の間では「真紅の大優勝旗を『白河の関』を越えて持ち帰る」ことが大きな目標となっているからである。
 とは言え、三度連続の準優勝は長い高校野球の歴史の中でも史上初の快挙である。選手達の大健闘を讃えたい(写真は東北の南端福島県白河市に残る
白河の関跡)。

「隣県の応援」は当たり前?
 さて、東北に住む人にとっては当たり前すぎて誰も突っ込まないことで、他の地域から見ると「何で?」と思われることが、実は高校野球についてはある。曰く「なぜ東北の他の県も応援するの?」である。上で「優勝」を「東北にもたらしたかった」と書いたが、これは意外に他の地域にしてみると、違和感とまではいかないようだが、「へえ」と思うことであるらしい。
 
 そう、東北地方の住人は自分の県の高校だけではなく、東北の他の県の高校のことも当たり前のように応援するのだ。最近は東北の高校も強くなってきて、一回戦で全て姿を消すなどということはなくなったが、寄ると触ると「あとどこの県が残ってる?」「どこそこの県は今年強いから何とか優勝狙ってほしい」といった会話になるものである。東北勢同士が当たろうものなら、我が身を引き裂かれる思い、とまでは言い過ぎだが、くじ運を恨みつつ、どちらを応援したらよいか真剣に悩む。

 東北の人にとって、「甲子園」というのはそのようなものである。しかし一方、他の地域から見るとなぜ自分の県ではない高校をそこまで応援するのか分からないものであるらしい。

白河の関2優勝旗は「白河の関」を越えたが…
 このようになった一因には、ちょっと書いたように、かつて東北各県の高校が他地域に比べてお世辞にも強豪とは言えず、一回戦敗退が珍しくなかったということがあったのかもしれない。甲子園の楽しみがあっという間に終わってしまうので、それを補うために隣県も応援するというようなことからこの「慣習」は始まったのかもしれない。
 
 しかし、隣県と言っても、北海道はまず応援しないし、北関東の茨城・栃木・群馬も応援しない。新潟もこと高校野球に関しては積極的に応援してはいないように見える。あくまで東北六県の範囲内での応援なのである。

 東北がかつてより負けなくなった昨今でも、東北六県の高校を互いに応援し合うという慣習は続いている。するとこれは、単に弱かったからというだけではない理由がそこにはあるのではないかと考えられるのである。

 「白河の関」越えということで言えば、北海道で駒大苫小牧高校が優勝を果たしているので、実は既に「白河の関」は越えているのであるが、「白河の関」を越えただけでなく、津軽海峡も越えていってしまったので、東北の高校野球関係者としては目指していたことと少し違う。「『白河の関』を越えてそこにとどまる」、というのが新たな目標になったわけである。

 この点を以ってしても、やはり北海道と東北は隣接地域ではあるものの異なる地域ということが分かる(写真の中世の館跡の周囲には空堀の跡などが今も残る)。

東北は「六つで一つ」
 ではなぜ、東北の人たちは自分の県以外の県の高校も応援するのか。それはやはりこの東北地方が「一つの地域」としてのアイデンティティを有していることによるのではないか、と思うのである。

 それぞれの市町村に属している、それぞれの県に属している、という意識の上に、東北に属している、という意識が、この地域に住んでいる人の中にはあるのではないか、ということである。これは大きなまとまりで地域を考える上ではとても重要なことである。

 「東北人」という言葉がある。日本の地方区分名+「人」ということでウィキペディアに載っているのは、東北人だけである。「関西人」もあるではないかという意見があるかもしれないが、「関西」は大阪を中心とした京阪神地域とその周辺地域を概念的に表現した言葉である。地方区分名で言えばこの地域は「近畿地方」である。

 考えてみれば、東北のような複数の県からなるこれだけ大きな地域が一体感を保っていられるというのはすごいことのように思う。大きさで言えば中部地方が東北に匹敵する大きさを持つが、中部は北陸、甲信越、東海に分割されることが多く、同じ地域という印象が薄い。

 近畿地方は学校教育では京都・大阪・兵庫・滋賀・奈良・和歌山・三重の二府五県を指すが、三重は東海地方に含まれることもあるし、逆に北陸地方の福井、中国地方の鳥取、四国地方の徳島などが近畿地方に含まれることもあり、実際には状況に応じて二府四県から二府八県にまで変化する。

 北海道はもちろん一体性を保っているが、それと同様に東北六県も「六つで一つ」という一体性を持っているように思うのである。

東北に住む人が「東北人」
 かと言って、東北がそこに住む人だけで固まっている内向きな地域というわけでもない。第二回で取り上げた奥州藤原氏は、遡れば都の藤原氏に連なる。奥州藤原氏の前に東北で大きな勢力を誇った清原氏や安倍氏は蝦夷と思われていたが、最近では異論があり、やはり藤原氏と同様に中央から東北に来て定着したのではないかという説も有力となってきている。

 鎌倉幕府滅亡後に鎮守大将軍となって東北に陸奥将軍府を打ち立てた北畠顕家も中央の貴族である。もちろん、伊達政宗を始め、東北の多くの戦国大名も東北以外の出自である。

 古来、東北は中央の政争で敗れた人が落ち延びる先でもあったし、罪人の流刑地でもあった。奥州藤原氏滅亡後に東北入りした武将たちは「新天地」を目の当たりにして胸を躍らせたことだったろう。東北には理由の如何を問わず様々な人がやってきた。東北の地に住む人はそうした人たちを拒絶せず、同化し、力のあるリーダーであれば上に押し頂いてきたのである。

 「東北人」というのは必ずしも東北生まれの人だけを指すわけではない。かつて東北に住む人は中央から「蝦夷(えみし)」と呼ばれたが、それは決して特定の民族を指すのではなく、東北に住む人間を指す言葉であった。奥州藤原氏は先に書いたように土着の東北人ではなかったが、中央からは蝦夷扱いされた。

 「東北人」という言葉もこの「蝦夷」と似たところがあるように思う。すなわち、東北にいる人すべてが「東北人」である。

東北は今も「新天地」
 「よそ者・若者・ばか者」という言葉がある。地域活性化に必要な人材のことであるそうである。折しも東日本大震災からの復興支援に全国各地から支援の手を差し伸べていただいている。これまでの現地の既成概念、固定観念にとらわれない復興のために、まさに東北にこそ「よそ者・若者・ばか者」の力が必要である。

 そして、東北に来て東北を支援してくれる「よそ者・若者・ばか者」も「東北人」である。そうした人たちが東北の地で元からいる人と交流し、融合することで、新たな東北が生まれると確信する。

 しかし、そうした方々に伝えたいのは、決してボランティア的な目的で東北に来る必要はないということである。東日本大震災後の東北は、いわば今も「新天地」だからである。

 一例を挙げる。原発事故問題に揺れる福島県内の医療状況はよくない。被曝を恐れた医師・看護師らが県外に逃れたからである。しかし、その一方で福島での勤務を希望して赴任する医師もいる。彼らは決して自己犠牲の精神で福島を目指すのではないそうである。

 福島県内での勤務は、志のある医師にとって実は非常にやりがいのある仕事なのだという。世界中から注目されている福島で診療活動を行い、丁寧に臨床データを積み重ねていけば、被曝医療について間違いなく後世に素晴らしい成果を残せる、というのがその理由だそうである。

 同様に津波で町が壊滅的な被害を受けた沿岸地域の復興はようやく緒についたばかりである。困難も多い。しかし、一から町を作り上げる場など、日本の他のどの地域にもない。これも他では決して得られない、やりがいと意義のある仕事である。

 他地域から東北を目指す人にとってだけではない。東北に住む我々にとってもそれは同じことである。高校野球でよく言われる言葉がある。「ピンチの後にチャンスあり」。今の東北はまさにそれである。住んでいる地域を問わず、志を持ち、その実現を図りたい人にとって、東北の大地は昔も今も、大いに魅力ある場所だと言えるのである。


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