酒田市  

2011年09月06日

東北の歴史のミステリーその25〜藤原泰衡の子は3人いた?

090828-174639 以前、泰衡の子が山形県酒田市に逃れてきたのではないかということを書いた(ここここここ)。その後、さらに調べてみるとより詳しいことが分かった。庄内の郷土史を研究している土岐田正勝氏の「最上川河口史」によると、泰衡の子万寿は、酒田に逃れてきた当時10歳に満たなかったそうで、元服するまで徳尼公の元にいた。そして、「その後泰高と名乗り、家来数人とともに津軽の外ケ濱に行き、『牧畑』を開拓した。やがて泰高は京都に出て、平泉藤原家再興を企図したがならず、紀州日高郡高家庄の熊野新宮領に定住した。その子孫が南北朝の天授三年(1377)瀬戸内海の因島に移り住み、『巻幡(まきはた)』姓を名乗っている」とのことである。

 実際、因島(旧因島市は合併して現在は尾道市)には藤原泰高(康高)の伝承があるようである。例えば耳明神社(みみごじんじゃ)がそれである。ブログなどでもその名が現れたりしているので(参照サイト)、因島の人にとっては藤原泰高は馴染みのある人物のようである。

 ただ、「最上川河口史」にある、泰高が開拓したという「津軽の外ヶ濱」の「牧畑」とはどの辺りなのか分からない。青森県内には該当しそうな地名が見当たらないのである。単なる推測だが、「外ヶ濱」の「牧畑」は津軽ではないのではないだろうか。例えば、隠岐の西ノ島町には「牧畑」があって(参照サイト)、「外浜」という地名がある(参照サイト)。ここでは「牧畑」は地名ではなく、「畑を区切り放牧と耕作を輪換する畑」のことだそうだが、想像を膨らませれば、ひょっとすると泰高は隠岐の外浜を開拓したのかもしれない。さらに言えば、隠岐は知っての通り、かつては流刑地だったので、ひょっとすると泰高は鎌倉に見つかって命は助けられたものの隠岐に流されたのかもしれない。その後赦されて熊野に移り住んだ可能性もある。

 泰衡の子については、実は酒田市以外に平泉から北に70km弱のところに位置する岩手県紫波町にも伝承がある参照サイト)。現在の紫波町は当時、奥州藤原氏初代清衡の孫の樋爪太郎俊衡、五郎季衡兄弟が治めていた。兄弟の館である樋爪館は五郎沼の近く、現在の紫波町立赤石小学校の場所にあったとされるが、この五郎沼の名前の由来は、五郎季衡が幼い頃によく泳いで遊んだことからつけられたという。

 太郎俊衡は文治五年奥州合戦の頃には出家して蓮阿と名乗っていたが、合戦後頼朝の陣に投降、この地を安堵された。その後俊衡は領内の大荘厳寺に居住したそうだが、そこで泰衡の子である秀安を育て、自分の娘の璋子を妻にさせたと伝えられているそうである。

 「岩手県史」第一巻には、「泰衡の子供については、胆沢郡小山村名号堂(今明後堂沢と云う)西風屋敷阿部家所蔵系譜によると、泰衡に男子二人があり兄時衡は討死、弟秀安は、樋爪俊衡入道に扶育されて成長し、子孫阿部氏(中頃安倍氏を称す)を称した」とある。この系譜の泰衡のところには「二子ヲ俊衡ニ委(ゆだね)テ、泉城ニ火ヲ放チ、臣河田次郎ヲ従ヒ、佐比内ニ逃遁ノ途、次郎返心シテ不意二討テ首ヲ頼朝ニ上ル。頼朝、次郎主ヲ討スル罪ヲ問ヒ、斬罪二処ス」とあるのだそうである。

 岩手県史にはその系図も掲載されているが、それには時衡について、「文治五・九・三 討死 二〇」と記載されている。文治5年9月3日というのはまさに泰衡が河田次郎の裏切りに遭い、殺された日である。頼朝の軍はこれより先、8月22日に平泉に進駐しており、以降合戦があったとは吾妻鏡にも記されていない。従って、この記述を信じるとすると、時衡も泰衡が河田次郎に襲われたこの時に一緒に討たれてしまったと考えられる。

 つまり、まず泰衡には時衡という長子がいたが、泰衡最期の地比内(系譜には「佐比内」とあるがこれは紫波町内にある地名であり吾妻鏡の記載にある秋田県の「比内」の誤りではないだろうか)で父泰衡と共に河田次郎の軍勢と戦って討死し、弟の秀安が樋爪俊衡に匿われて無事成長したということのようである。岩手県史の系図にはこの秀安について「安元二生」と書いてある。安元2年は1176年であるから、父泰衡と兄時衡が死んだ時、秀安は13歳だったことになる。

 ここで注目すべき記述がある。「岩手県史」で紹介されている系譜の「二子ヲ俊衡ニ委(ゆだね)テ」という記述である。一人は秀安であるとして、もう一人は誰だろうか。「岩手県史」の編者はこの「二子」を時衡と秀安のこととしてさらっと流しているが、兄時衡は父泰衡と行動を共にしたわけであるから、「俊衡ニ委」ねられたのが時衡のことでないのは明らかである。そこで思い出されるのが、酒田に逃れたという泰高である。すなわち、俊衡に委ねられたのは、秀安、そしてもう一人は泰高のことだったのではないだろうか。

 一旦俊衡に預けられたうちの一人がなぜ酒田に逃れたのか。恐らく俊衡は、二人とも見つかった時のことを考えたのではないだろうか。万が一泰衡の二人の子が同時に幕府に見つかって殺されでもしたら、奥州藤原氏の血統が途絶えてしまう。そう考えて、一人は自分の元に置き、もう一人は徳尼公と36人の家臣に託して遠くに逃れさせたのではないだろうか。それが酒田に落ち延びた泰高ではなかったかと思うのである。

 さて、以前紹介した泰衡の奥方を祀った西木戸神社に関する伝承にも泰衡の子のことが出てくる。奥方は夫泰衡の跡を追い子供3人と侍従を連れて現在西木戸神社のある地までやって来たが、泰衡は既に4日前に河田次郎に殺されたと知り、悲嘆のあまり子供を従者に託して自害したというのである。西木戸神社にある説明板には3人の子のことは出ていなかったが、一部にはそのような伝承もあるようである(参照サイト)。

 そうすると、泰衡の子は、時衡、秀安、泰高、それに西木戸神社までやってきた3人の子と、合わせて6人もいることになるが、さすがにこれは多すぎのような気がする。泰衡の父秀衡には泰衡を含めて6人の子(国衡、泰衡、忠衡、高衡(または隆衡)、通衡、頼衡)がいたことが分かっているが、秀衡は66歳まで生きたとされる。対して泰衡は35歳(25歳という説もあるがそれだと時衡が20歳で討死というのと計算が合わない)で死んでいる。そう考えると、泰衡の子はやはり最大でも時衡、秀安、泰高の3人で、西木戸神社に伝わっている3人の子というのはこの3人のことを言っているのではないだろうか(従って、3人の子は泰衡の奥方と行動は共にしていなかったことになる)。ついでに言えば、これまでの情報を整理すると、長男は時衡(文治五年奥州合戦時に20歳)、次男が秀安(同じく13歳)、三男が泰高(同じく10歳未満)ということになる。

090828-174248 上の写真は五郎沼である。中島もあって、俊衡が治めていた頃は浄土庭園だったのではないかという気もしている。同様の見方をしている方は他にもおられるようである(参照サイト)。五郎沼の案内板には五郎沼に隣接して樋爪館と大荘厳寺があった様子が再現されている(右写真参照)。これを見ると、当時の樋爪館周辺は、「ミニ平泉」とでも言うべき街並みがあったことが窺える。

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2010年03月14日

東北で地ビールが飲める店その52〜山形県酒田市

182931.jpg 酒田市は山形県の沿岸庄内地方にある人口約11万8千人の港町である。旧庄内藩においては、城下町が鶴岡で、酒田は商業都市として栄えた。その繁栄の源に「酒田三十六人衆」があったことは既に紹介した通りである。

 その酒田市内ではこれまで地ビールを飲める店は見つけられないでいたことも以前書いたが、ようやく一軒見つけた。と言うより、正確には、今まで何度か行っていた店に置かれるようになった、ということである。

 以前紹介したインド料理シタ(酒田市錦町5-32-57、TEL0234-31-5117、11:00〜15:00、17:00〜22:00、不定休)は、酒田市内にあって本格的なおいしいインド料理が味わえる貴重な店だが、そこにこのほど「アロマ・ティー・エール」というビールが置かれているのを見つけた。まったく聞いたことのなかったビールだが、店に貼ってあったポスターによると、アロマ・ティー・エールは、エベレストを望むネパールの地で栽培されたエコ紅茶を使用したビールで、醸造元の記載はなかったが、富山大学産学連携部門との共同開発品だそうである。

 アルコール4.5%で、紅茶が使われているため日本の分類では発泡酒となる。ウェブ上にもあまり情報はないのだが、富山大学とマナーハウスというところの共同開発との記載がある(参照サイト)。日本名は「薫紅茶大麦酒」とのことである。

 以前も紹介したが、同店には元々インドビールに混じって、ネパールアイスエベレストといったネパールビールも置いてあり、ネパールとの関係も少なからずありそうである(店のご主人はインドの方だそうであるが)。今回ネパールの紅茶を使ったこの「アロマ・ティー・エール」が置かれることになったのも、何かそれと同じような経緯があるのかもしれない。

 何はともあれ、かつてあった酒田市の地ビール「山形麦酒」がなくなって以来、このようなビールが飲める店が酒田市内には私が探した限り皆無であっただけに、シタのこの「アロマ・ティー・エール」は素直に嬉しい。

 ただ、唯一ネックなのは、シタのある場所が市中心部から離れているということである。羽越本線の駅からも遠く、場所的に車で来る人がほとんどの店であるので、この「アロマ・ティー・エール」がどうしても飲みたいということであれば、バス、タクシー、あるいは運転手付きの車での来店が必須となりそうである。


120720-181127追記(2012.7.20):JR酒田駅にほど近い酒田ステーションホテルの1階にある「喫茶 木戸銭」は創業35年の老舗喫茶店だそうだが、この1月から火・金・土限定だが、「Beer BAR」としても営業している(18:00〜22:30LO)。

 常時約20種類は置いているそうで、私が足を運んだ時には、ドイツのシェッファー・ホッファー、ベルギーのクッキー・ビア、イギリスのフラーズのゴールデン、オーガニック・ハニー・デュー、セント・ピーターズのグレープフルーツ、IPA、フランスのセルティカ8.8など、他ではあまり見かけないビールがいろいろと揃っていた。その時々の食材を使った軽食メニューもある。

 同店の中にはビア・バーの他に、自転車店「Vent(ヴィエント)」もオープンしており、なかなかユニークな多角経営が展開されている。ともあれ、これだけいろいろなビールが飲める店が酒田市内、しかも駅近くにできたのは大歓迎である。これからもぜひいろいろなビールを揃えてほしい。


WP_20180908_23_07_20_Rich_LI追記(2018.9.8):酒田の中心部中町に、「CRAFT BEER BAR JAMPY(クラフトビアバル・ジャンピー)」がオープンした。樽生、瓶合わせて、国内外のクラフトビールが50種類以上置いてあって、店員さんの応対もいい、いいお店である。

ちなみに、オーナーの高橋大雅さんは何と!かつて仙台にあって、その後奥さんの実家のある酒田に移転した、美味しいインドカレーが食べられる店「ナーランダ」のご夫婦の息子さんなのだそうである。世間は狭いものである。


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2008年11月13日

東北の歴史のミステリーその23〜酒田市の成り立ちと奥州藤原氏

da691530.jpg そもそも頼朝は、泰衡の子供のことについては考えなかったのだろうか。その気になれば支配下に置いた陸奥出羽両国内を徹底的に探し続けることもできたはずである。しかし、そのようなことをした形跡は、少なくとも記録上はない。

 この頼朝による奥州攻めは、徹底的に源頼義が安倍貞任を討った前九年の役に倣っている。源頼義が最終的に勝利を収めた厨川に入る日付も合わせ、泰衡の首に釘を打って晒すやり方も安倍貞任にしたやり方を踏襲、挙句にはその釘を打つ作業も貞任の首に釘を打った者の子孫を探し出してさせるなど、実に徹底している。源頼義は棟梁の貞任は殺したが、弟の宗任は西国へ流罪とした。頼朝も泰衡の首は取ったが、弟の高衡は流罪としている。全くの余談だが、安倍晋三元首相は、この時流罪となった安倍宗任の末裔だそうである。

 ただ一つ、頼義が「戦後処理」において、自分の思い通りにできなかったことがあった。安倍貞任の子供のことである。千代童丸という当時13歳で元服前だった貞任の子は捕縛された。頼義は哀れに思って命を助けようとしたのだが、前九年の役の勝利を決定づけた出羽の清原武則に反対され、やむなく斬らざるを得なかったのである。前九年の役を徹底的に模倣しようとした頼朝は、この場面をどう考えたろうか。頼義は敵の棟梁の子を助けようとしたができなかった。頼朝は頼義の意思を継いで、泰衡の首は取っても、その子は助けようと考えたのではないだろうか

 そう考えれば、頼朝が執拗に泰衡の子の行方を探し回らなかったことにも説明がつく。何といっても、自分の弟義経の時はあれだけ執拗に行方を探索させた頼朝である。その気になればどんなことをしてでも探し出すよう命じたはずである。それをしていないということは、泰衡の子については、端から殺すつもりはなかったということなのではないだろうか。

 もう一つ、泰衡の子を助けた理由になりそうなのは、頼朝の「罪悪感」のようなものである。鎌倉幕府の公文書吾妻鏡自らが認めている通り、義経にしても泰衡にしてもさしたる朝敵ではなかった。ただ、頼義・義家の時代に奥州を手に入れることができなかった遺恨で奥州藤原氏を攻め滅ぼしたというのが文治五年奥州合戦の実情である。当然頼朝にもそうした私的な思いから発した戦に対する罪悪感が少なからずあったのではないだろうか。したがって、棟梁の泰衡は殺さなければならなかったものの、その弟や子供は命までは奪わなくてもよいと考えたのではないかと思うのである。

 これまで頼朝のものと伝えられてきた神護寺の肖像画(実際には足利尊氏の弟直義のものとする説が有力である)のイメージ通り、頼朝については、冷徹な人間という見方が定着しているが、こと奥州合戦については、そうではない一面も見え隠れしている気がするのである(写真は頼朝が寄進した羽黒山の黄金堂である)。

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2008年11月02日

東北の歴史のミステリーその22〜酒田市の成り立ちと奥州藤原氏

24ba41a2.jpg 徳尼公はなぜ平泉を逃れなければならなかったのだろうか。普通、戦に敗れても棟梁の妻が殺されることはない。奥六郡の覇者であった安倍氏が滅ぼされた前九年の役で、安倍氏側について殺された藤原経清の妻は、源頼義側につき安倍氏に代わって奥六郡を収めることになった出羽の豪族清原氏の清原武貞に再嫁させられる。

 このことについては、かつては女性が「戦利品」扱いされた表れと捉えられたが、実際はそうではなくその地の人心をつかむためには、後家の処遇が鍵だったのである。事実、奥州藤原氏が滅んだ文治五年奥州合戦の後、藤原秀衡の後家が平泉で存命だったことを受けて、幕府が憐憫の情を持って対応するよう奥州総奉行に命じたことが、吾妻鏡に書かれているのである。

 そこでまた疑問が出る。秀衡の後家(これは本妻、すなわち泰衡の母だろう)が奥州藤原氏滅亡後も平泉にとどまっていて危害を加えられることがなかったにもかかわらず、なぜ秀衡の妹あるいは側室は平泉を逃れなければならなかったのかということである。何か平泉にとどまっていてはいけない理由があったのだろうか。

 そう考えると、後に徳尼公と称された女性は、決して頼朝に見つかってはならない何かを持っていて、そのために平泉を離れなければならなかったのではないだろうか。それはいったい何だろうか。平泉の繁栄を支えた黄金に関する何かか、それとも…。

 私にとって以前から疑問だったのは、泰衡の子がどうなったかということである。殺された時泰衡は35歳だった(25歳という説もある)。当然子供がいて不思議ではない年齢である。しかし、吾妻鏡には、泰衡の子が見つかって殺されたといったような記述はない。では元々子供がいなかったのか。以前、泰衡の妻については、夫泰衡の後を追って自害した場所が神社になっていることを紹介した。しかし、そこでも2人の子供のことについては何も触れられていない。

 そこで考え付いたのが、徳尼公は実は泰衡の子を守って平泉を逃れたのではないかということである。そう考えれば、徳尼公が平泉を離れなければならなかったことにも合点がいく。自身は殺されることはなくても、泰衡の子となれば殺されることはほぼ間違いない。それでその子を連れ、家臣に守られて酒田まで落ちのびたのではないだろうか。

 そう思って調べてみたら、やはりそのような伝承はあった。酒田市が発行した「酒田の歴史探訪」には、「平泉藤原家の遺臣三十六騎が藤原秀衡の後室と言われる徳姫と、泰衡の一子・万寿のお供をして平泉を逃れました」とある。万寿というのは元服前の名前のようなので、事実とすると泰衡の子はまだ幼かったことになる。

 泰衡の子万寿はその後どうしたのだろうか。徳尼公が天寿を全うし、三十六騎の遺臣が地侍となったことは伝わっていても、万寿がどうなったかは伝わっていないようである。しかし、状況から見て、きっと万寿もまた幕府に殺されたりすることなく、無事自分の人生を全うしたのではないかと思うのである(写真は現在の酒田市宮野浦の海岸。巨大な風車が並んでいる)。


追記(2010.9.5):「吾妻鏡」の文治5年(1189年)11月8日には、「泰衡の幼い子息の居所がわからないので探し出して身柄を確保せよ、その名前が若公(頼朝の子・頼家)と同じ名前(万寿)であるから、名を改めるように」との指示が出されている。これを見ると、幕府は泰衡に子があったことは把握しているが、その居場所については把握していなかったことが分かる。また、その後所在が明らかになったという記述もない。

 改名の指示も出ているが、これは本人がいる、いないに関係なくできることである(逃亡中の義経が「義行」「義顕」と二度も改名されたように)。

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2008年10月27日

東北の歴史のミステリーその21〜酒田市の成り立ちと奥州藤原氏

db49b607.jpg 山形県の沿岸、庄内地方の酒田市には、その発祥に奥州藤原氏にまつわる話が伝わっている。文治5年(1189年)の奥州藤原氏滅亡の際、藤原氏の遺臣36騎に守られて藤原秀衡の妹徳子(あるいは徳の前)、あるいは側室泉の方と称する女性が平泉を逃れ、現在の酒田市周辺に落ちのびたのが、酒田市ができたきっかけだというのである。酒田まで落ちのびるに当たっては、あえて最短ルートであった最上川を下るルートを取らず、一度現在の秋田市まで出てから南下したと伝えられ、秋田県内にも女性が乗ってきた白馬が途中で死んだのを祀った寺があるなどの言い伝えがあるそうである。

 この女性は最初出羽三山の一つ、羽黒山の山奥の立谷沢で過ごしたが、その後向酒田(現在の酒田市街地から見て最上川を挟んだ対岸)の袖の浦(現在の酒田市宮野浦)、飯盛山にひそみ、泉流庵を結び徳尼公となり、藤原一門の菩提を弔いながら静かに余生を送り、建保5年(1217年)4月15日87歳で没したそうである。

 徳尼公の結んだ「泉流庵」とは、「平泉から流れてきた」ことを表しているそうである。後に泉流寺と改称された。現在の泉流寺(参照サイト、酒田市のサイト内の該当ページは現在エラーで表示されない)は酒田市の中心部、酒田市総合文化センターの南隣にある。

 徳尼公没後、遺臣36人は地侍となり、廻船業を営み酒田湊繁栄の礎を築いた。36人の遺臣の末裔はその後酒田三十六人衆と称され、幕末まで酒田を「自治都市」として運営したそうである。

 現在、泉流寺には開祖徳尼公の木像がある。これは元あった像が宝暦元年(1751)に焼失した後、明和元年(1764)三十六人衆の一人、本間家三代四郎三郎光丘が京都でつくらせたもので、今に伝わる徳尼公像をまつる廟も寛政2年(1790)本間光丘の寄進によって建立された。境内には三十六人衆記念碑があり、今も徳尼公の命日である4月15日には三十六人衆の子孫によって徳尼公の法要が行われているそうである。

 ところで、最初羽黒山で過ごした徳尼公はなぜ酒田に移ったのだろうか。修験道の本拠地、出羽三山の羽黒山にいれば、めったに幕府の探索も入らず、身の安全を図れたのではないだろうか。どうやらそれにはやむにやまれぬ理由があったようである。

 建久4年(1193年)、源頼朝は土肥実平を建築奉行として羽黒山に黄金堂(こがねどう)を寄進したのである。この黄金堂は羽黒山の入り口近くに現在も存在し、山頂の大金堂(現在の三神合祭殿)に対して小金堂とも言われている。この頼朝による黄金堂建立をきっかけに自分の身に追及の手が及ぶのを恐れた徳尼公が羽黒山を出て、酒田に移ったのではないかと考えられている。しかし、そもそも徳尼公が平泉を逃れたこと自体、大きな謎があるように思うのである(写真は泉流寺内にある徳尼公廟である)。

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2007年05月02日

東北の食べ処その9〜山形県酒田市

d3c68d7d.jpg 山形県の日本海沿岸、庄内地方の商業の中心地、酒田市にも私がお気に入りのおいしい店が何店かある。


寿司割烹 こい勢山形県酒田市相生町1-3-25、TEL0234-24-1741、11:00〜14:00、16:00〜22:00、月曜定休)
 港町である酒田市に寿司店は多いが、ここはその中でも特にお勧めの店である。「日本海の旬を握る」がキャッチフレーズで、その通り庄内浜に揚がった旬の地魚を主とした寿司が食べられる寿司店。

 ネタの鮮度はもちろん、シャリも無農薬の庄内米ササニシキを使用するなど、すべての素材を頑固に厳選して使用している。特にお勧めなのは、その旬の地魚で握る3,150円の「お任せ握り寿司」。他の地域ではあまり見かけない魚の寿司など、四季折々のおいしい寿司が味わえる。


三日月軒 中町店山形県酒田市中町2-4-7、TEL0234-22-2162、11:00〜18:30、不定休)
 酒田市にはおいしいラーメン屋も多い。特に、魚系のダシを使ったあっさり中華そばが多い。また、自家製麺の店の割合が高いのも特徴なのだそうである。市内に3店(中町店、中の口店、駅東店)ある三日月軒はその代表格である。

 3店の中ではこの中町店が一番目立っている気がする(本店は既に店を閉めてしまっている)。「自家製麺」イコール手打ちではなく、自分の店に製麺機がある店ももちろん自家製麺であるが、ここ三日月軒は「桿麺」(カムミェン)という鉄棒を使った独特の製法で手打ち麺を作っている。麺、スープとも飽きの来ない味で、酒田市民に愛され続けている理由が分かる。


満月山形県酒田市東中の口町2-1、TEL0234-22-0166、11:00〜16:30、毎月2・12・22日定休)
 個人的に、酒田市内で三日月軒と双璧をなすラーメン店だと思っている店。ここはワンタンメンが有名。下に敷いた新聞紙の文字が読めるくらい薄い皮のワンタンも酒田のラーメンの特徴である細麺ももちろんどちらも自家製。やはり魚ダシの利いたあっさり味のスープ。


ナーランダ山形県酒田市あきほ町658-2、TEL0234-24-9456、11:30〜14:00、17:00〜20:45、火曜定休(祝日除く))
 元は仙台にあったインドカレー店。10年くらい前に酒田市に移転した。いわゆるスープカレーとはまったく違うが、よく目にするインドカレーよりもさらにスープ状のカレーが印象的。マハラジャカレーが看板メニューだが(多分)、個人的にはいつも辛さがウリのホットカレーを食している。庄内地方で本格的なカレーが食べられるのは私が知る限りここだけであり、貴重な店である。

 写真はこれらの店と何の関係もないが、雪解けの季節の鳥海山である。


追記(2008.4.27):その後、酒田市内には何店かインド料理店ができた。私のオススメは、「インド料理シタ」(酒田市錦町5-32-57、TEL0234-31-5117、11:00〜15:00、17:00〜22:00、不定休)である。他にも、山形県内に5店舗を展開する「スパイスマジック インディアンレストラン」も酒田市内に酒田店と酒田富士見店の2店舗をオープンさせるなど、酒田市内はちょっとしたインド料理店の出店ラッシュである。酒田店ではランチバイキングをやっていたが、4/26からディナーバイキングも始めた。


追記(2009.6.22):「インド料理シタ」では最近、ピザも始めた。タンドリーチキンを載せたチキンピザ、辛めのキーマピザ、そしてほくほくじゃがいものポテトピザの3種があるが、「家計応援」と銘打たれている通り、直径22cmのこれらのピザがすべて800〜900円という嬉しい値段である。もちろん、宅配はなく、店で食べるかテイクアウトのみだが、宅配店のピザより圧倒的に安い。

 ビールもインド料理店によくあるキングフィッシャーとマハラジャだけでなく、ネパールのエベレストネパール・アイスが飲めるのがいい。

 それに何と言っても、「辛さ、大丈夫ですか?」(辛いのを食べる私には普通の人とは反対の意味で尋ねているのだと思うが;笑)、ご飯がなくなりそうになると「ご飯、もっとあげますか?」などと聞いてくれるご主人の温かい気配りが光る。

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2005年11月21日

東北の逸品その9〜宅の店の歌舞伎くるみ

ccd3acb1.jpg 私は辛いものが好きだが、甘いものも好きである。他の地域と同じように、東北にも様々なおいしい甘味があるが、今回紹介する「宅の店の歌舞伎くるみ」もその一つである。

 山形の日本海沿岸の酒田市は古くは港町であり、京都の北前船の航路だったこともあって、京都の文化や物産品が多く入ってきた。和菓子もその一つであったろう。そのせいか、今でも庄内にはおいしい和菓子屋さんが多い。代表的なのは、鶴岡市の木村屋が作る、羽黒山の出羽三山神社の鏡池から見つかった大量の銅鏡をかたどった和菓子「古鏡(こきょう)」で、もちろんこれもおいしいが、個人的には「宅の店の歌舞伎くるみ」ももっと有名になってもいいのになと思う。

 「宅の店の歌舞伎くるみ」はその名の通り、酒田市にある宅の店(山形県酒田市駅東2-3-15、TEL0234 -24-5700)という和菓子店の代表的な和菓子である。原材料はくるみと寒天と砂糖だけで、砂糖を入れた寒天にくるみを入れて固めたものである。一口食べるとコンデンスミルクのような甘さが口に広がり、その後くるみのほろ苦さがやってくる。そのバランスが絶妙である。

 酒田市には、250年前から続く黒森歌舞伎という農民歌舞伎がある。東北地方では福島県の南会津の檜枝岐村の檜枝岐歌舞伎が有名だが、この黒森歌舞伎もそれに劣らぬ歴史を持つ。毎年旧暦の正月に1回だけ上演され、雪国であるだけに吹雪の中での熱演となることもある。「宅の店の歌舞伎くるみ」はこの黒森歌舞伎に感動した「宅の店」初代幸治郎氏が考案した菓子だそうである。

 今ではこの黒森歌舞伎だけでなく、東京銀座の歌舞伎座でも販売されるようになっているので、歌舞伎好きの方にはむしろ知られている菓子かもしれない。もっとも、その菓子が銀座のはるか北、東北・山形の酒田市内の一菓子店で作られているということを知っている人は少ないかもしれないが。歌舞伎座のサイトから通信販売で注文もできる。

 ちなみに、この「宅の店」、「人生菓集」という肩書き(?)を持っている。確かに、「歌舞伎くるみ」以外の同店の菓子の中には粒の栗を栗餡で包んだ焼き菓子「栗三年」やバウムクーヘン「年輪」、生クリームと生チーズクリームと生レモンが入ったカステラ「辛抱」など、「人生」を思わせるようなネーミングの菓子が多い。250年受け継がれた黒森歌舞伎に感動して「歌舞伎くるみ」を作ったように、人の生の様々な営みへの応援歌を和菓子に託するというのが初代から続く同店のコンセプトなのかもしれない。


追記(2007.11.20):宅の店の「辛抱」が清川屋にあったので買って食べてみた。ふんわりしたカステラに生チーズクリームと生レモンの酸味がアクセントとなった生クリームの甘みがよくマッチしておいしかった。これがなぜ「辛抱」というネーミングとなったのかについては直接聞いたわけではないので憶測の域を出ないのだが、「人生酸いも甘いもあるが辛抱すればいいこともある」といったメッセージなのではないかと思った。

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