2021年03月11日 

10回目の3.11〜私的東北論その136

 2011年3月11日に東北地方太平洋沖地震が発生して、今日で10年となった。早いものである。あれから10年ということで、今年はマスメディア等で震災関連の話題が取り上げられることが、昨年などよりも多い印象がある。それはそれで、震災のことを振り返り、そこから得た教訓を忘れないために有意義であると思う。

 ただ、よく聞く「節目の10年」という言葉、この地にいてあの災害で大変な思いをした人の口からはほとんど出ていないように思う。大切な人を失ったり、大切な故郷を心ならずも離れたり、あの震災で大変な思いをした人にとって、10年で数字としてキリがいいからそれで節目だと思うとか、気持ちに一区切りつくとか、そういうことは少ないのではないか。何年経ったって、悲しいものは悲しいし、辛いことは辛いし、悔しいことは悔しいのである。

 一方、復興、それもハード面については、明らかに10年を目途として進められてきた。復興道路、復興支援道路は今年中に完成するし、仮設住宅も今年中に全てなくなる見通しである。ハード面の整備が一段落した後も、ソフト面、被災地での心のケアなどの予算は残るようで、それは10年で完了するハードとは違って理にかなったことである。

PXL_20210311_040853520.MP 私は今年も、弟の最期の地、仙台市若林区荒浜に出掛けた。3月11日のこの日は、午後に仕事を休んで荒浜に向かう。震災の翌年からずっとそうである。











PXL_20210311_041134499 出発の地は今年も弟が勤務していた若林区役所である。区役所には今年も献花場が設けられていた。1階にある献花場で献花をするのも毎年のことである。そうしたら、区役所の入口で、たまたま両親と顔を合わせた。両親も毎年荒浜に足を運ぶので、そちらで会うことは多いが、ここで会うのは初めてのことである。







PXL_20210311_041448347.MP 初めて知ったのだが、1階の献花場とは別に、4階にはあの日公務中に亡くなった弟ともう一人の職員のための献花場が設けられているのだという。いや、そういうことはもっと早く教えてほしい。そのようなわけで、両親に案内してもらって初めてそちらの方にも献花した。弟の写真も飾られていた。














PXL_20210311_041606929 モニターには父親が寄贈した震災当時の写真がスライドショー形式で映し出されていた。「記憶を永く伝えるために」と書かれたリーフレットも作成してくれていた。ありがたいことである。










 今年も、区役所を出て、あの日避難の呼び掛けに広報車で出掛けていった弟が通ったであろう道を通って荒浜に向かった。毎年のことだが、今年も海が近づくほど、風は強く、冷たい。それでも、地震の後雪まで降り出した10年前のあの日に比べればはるかにましである。

PXL_20210311_044849429 あの日津波を遮った仙台東部道路の近くに、津波で流された荒浜地区唯一のお寺、浄土寺が移転した。毎年この日に浄土寺では荒浜で亡くなった人のための慰霊法要が営まれるが、それはかつてお寺があった場所で営まれていた。昨年、荒浜地区で亡くなった人の名前が書かれた慰霊碑が新寺院の敷地に移され、今年からはそちらで慰霊法要が行われることになった。ここでまた両親と合流。もちろん、私も両親もこのお寺の檀家ではないが、慰霊碑には弟の名前も刻んでいただいていて、その縁で毎年荒浜地区の方々と一緒に参加させていただいている。

PXL_20210311_051346484 途中、慰霊碑に刻まれた一人ひとりの名前を読み上げて追善菩提を祈る場面があったが、そこでなんと多くの人がこの地で命を失ったのかまざまざと実感する。ここで名前を読み上げられている人全てが、あの日突然、自分の人生に強制的に幕を降ろさせられたのである。ここ荒浜で亡くなった人の数は192人。東日本大震災全体ではおよそその100倍の死者・行方不明者数である。改めてこの震災が奪っていったもののあまりの大きさに思い至る。

 浄土寺のご住職は何とこの3月11日が誕生日だそうだ。今年で72歳とのことだが、80までは長生きして、毎年この日には慰霊法要をやるので、またぜひおいでいただきたい、近くに来たらこの慰霊碑にも手を合わせてほしい、とのことだった。何度か口にしていた「一日一生」という言葉がとても印象に残った。一日を一生のつもりで生きよ、ということなのだろう。明日が当たり前のように来ると思ってはいけない。事実、震災で亡くなった人たちには明日は来なかったのだから。

PXL_20210311_061644004.LS_exported_12 慰霊法要の後、両親と別れて私は荒浜の海岸を目指す。この地を襲った大津波が仙台東部道路で堰き止められたことから、荒浜のより近くを通る県道もかさ上げされて堤防の代わりとし、多重防御の一翼を担うことになった。その高さは6m。ただ、この県道のすぐ近くにある、現在震災遺構として公開されている荒浜小学校を襲った津波の高さは10m。あの日と同じ高さの津波が来たらここを通っている車は津波に巻き込まれてしまう。津波を伴う地震が発生した場合にはすぐこの道路を下りて内陸側に避難することが必要である。

PXL_20210311_061708383 その荒浜小学校では、Hope for projectが今年も花の種の入った風船を配っていた。もらった風船の写真を撮っていたら、リリースが遅れてしまった。一つだけ遅れて飛んで行っているのが私がリリースした風船である。どこに落ちて花を咲かせるのだろうか。









PXL_20210311_062211649 海岸には荒浜慈聖観音が立っていて、そちらで手を合わせる人も多くいる。手を合わせている人一人ひとりがきっと大事な誰かを失っているのだろう。


















 PXL_20210311_062706166震災前より高くなった防潮堤に上って、今年も海を眺めた。風が強くて時々白波は立っているが、穏やかな海である。あの日、この防潮堤を易々と越えていった津波を想像するのは難しい。










PXL_20210311_063814299 昨年来た時には建設の途中だった、荒浜小学校の南側の「避難の丘」が完成していた。仙台の沿岸地域の中で最大規模を誇る避難の丘で、いざという時には5,000人余りが避難できるという。荒浜地区は震災後、災害危険区域に指定されたため、人は住めなくなったが、その跡地の利活用で、観光農園など人が集まる施設ができる予定となっているので、その想定される最大の人数が避難できるよう、避難の丘や避難タワーなどが整備された。



PXL_20210311_065500903 この地を大津波が襲ったのは14時46分の地震発生から1時間ちょっと経過した15時54分。私にとっては、弟が区役所にいてまだ生きていた地震発生時刻より、弟がこの地で命を失った15時54分の方が重要な時刻である。この時刻には、弟の遺体が発見された地区内の南長沼に行って手を合わせる。水鳥の群れが水面をすいすい泳いでいく。あの日の惨状が嘘のようなのどかな光景である。




PXL_20210311_073117052 来た道を戻って再び区役所へ。あの日、弟が通ることができなかった道である。自転車に乗りながら、あの日あの場所にこの自転車があればな、などとも思う。海上を進む津波は時速数100kmというとんでもないスピードだが、陸地では時速30km程度にまで速度が落ちる。私が乗っている自転車はちょっと頑張れば時速30kmは出る。一旦渋滞に巻き込まれると身動きが取れなくなる車より、自転車の方が避難に有効なのではないか、というのはあの日以来ずっと思っていることである。あの日戻ってこれなかった弟に代わって区役所に戻り、昨年有志の方々が建ててくれた「3.11不忘(わすれじ)の碑」に手を合わせた。

PXL_20210311_083934488.PORTRAIT 家に帰る途中にホールケーキを買った。あの日から10年生きてこられたことのお祝いの意味を込めて。ただ、プレートに何か書いてもらうのはちょっと気が引けたので、1と0のキャンドルだけ購入した。

 「節目の10年」報道では、10年間の復興のあり方の検証も多くあり、様々な課題が指摘されていた。それはそうだろう。未曽有の災害に直面して、お手本もない中でやってきた結果が100%完璧なものになるはずもない。それはそれで今後に活かしていくことが必要だが、一方で震災後にできた新しい人と人とのつながり、様々な思いに基づいた新たな取り組み、そうしたものがもたらしたものの価値は間違いなく存在している。そうしたものにもしっかり目を向けていきたい。

PXL_20210310_095015771.PORTRAIT 私の好きなビールを例に挙げれば、東北の地ビール醸造所でつくる「東北魂ビールプロジェクト」がある。10年前、 震災で全国からいただいた支援への恩返しに、品質の高いビールで恩返ししよう、そのために皆で力を合わせてビールの品質を高めようということでプロジェクトは立ち上がった。そして、お互いの経験知や技術を出し合って、一緒に美味しいビールを造っている。いわばライバル同士がそれぞれの「企業秘密」をオープンにして一緒にビールを造るなど、普通あまり考えられないことだが、震災を機にそれを続けているのである。毎年どこかの醸造所に参加する醸造所皆が集まって一緒に独創的なビールを醸造していたが、今年はこの新型コロナ禍で集まることができなかったために、「地域のお米とホップを使用したビールを提供すること」を条件として、今回参加した東北の11の醸造所がそれぞれ特別なビールを醸造することになった。その結果、今回参加した11の醸造所それぞれが力の入ったビールを造ってくれた。これらのビールは仮に震災がなかったとしたらこの世には存在しなかったビールである。

 震災からこの方、日本中、世界中から様々な支援をいただいた。そのお蔭で10年経った今もこうして生きていられる。今日はまずは何よりもそのことに感謝する日としたい。


anagma5 at 23:59│Comments(2)clip!私的東北論 | 震災関連

この記事へのコメント

1. Posted by ブルーバードつながりの知人   2021年03月12日 16:43
御無沙汰しております。
昨日は現場の為、荒浜には行けず今さっき手を合わせてきました。
昨年は荒浜には行ったのですが、大友さんの御両親にはコロナの影響も考慮しお会いできませんでした。
今年は日を改めて、仏壇に手を合わせに行きます。
もう10年なのか、まだ10年なのか。
私も毎年、答えが見つからない日です。
2. Posted by 大友浩平   2021年03月16日 12:50
ブルバードつながりの知人さん、こちらこそ大変ご無沙汰してます。
今年も荒浜に足を運んでくださったんですね。
ありがとうございます。
本当に、あれからもう10年が経ったんですよね。
政府主催の追悼式は10回目の今回で終了するそうですが、私はたぶんこれからも3月11日は変わらず荒浜に足を運ぶんだろうなと思います。

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