2023年02月17日 

日本とトルコの深い関係をさらに前へ(「東北再興」紙への寄稿原稿)〜私的東北論その165

13584103_1564868913814407_2064365204_n 2月16日発行の「東北再興」第129号では、日本とトルコとの深い関係について書いた。2月6日にトルコ南東部で発生した地震ではトルコのみならず隣国シリアも含めて甚大な被害が発生している。トルコも日本と同じく、複数のプレートがひしめき合う地震国である。両国の素晴らしい助け合いの関係を、防災においてももっと進めるべきだと考えている。

 なお、今回の地震を受けて、現地のツイッターなどでは、「新たな家の建築は日本人の手で」というようなハッシュタグが相次いで登場しているようである(参照サイト)。こうした声にぜひとも応えたいものである。

 以下がその全文である。なお、写真は、トルコのギレスン市が原産のさくらんぼ、山形で品種改良された代表的銘柄「佐藤錦」である。


日本とトルコとの深い関係をさらに前へ

トルコ南東部で起きた大地震
 2月6日にトルコ南東部でM7.8の大きな地震が発生した。震源に近い地域では、日本の気象庁による震度にすると震度7に相当する大きな揺れが確認され、震源が浅い直下型地震だったことや耐震性が低い建物が多い地域だったこともあって大きな被害が出ている。地震から8日後の2月13日の段階で、死者は隣国のシリアと合わせて実に3万人を超えたと報じられている。各国の救助隊が現地入りして懸命の救助活動を行っているが、日本からも地震発生の翌日7日に既に国際緊急援助隊・救助チームの先遣隊が到着、第2陣と合わせて73名体制で救助活動を行っている。10日には国際緊急援助隊・医療チームも派遣され、医療面での活動も開始した。また、緊急援助物資も供与されることが決定した。

 国際緊急援助隊を派遣するに当たり、外務省は「人道的観点及びトルコとの友好関係に鑑み、人道支援のため緊急援助を行うこととした」としている。岸田首相によるトルコのエルドアン大統領宛のお見舞いメッセージでも「過去の震災においても日本とトルコはお互いに支え合ってきました。トルコがこの困難を乗り越えるにあたり、日本は常にトルコの皆様とともにあります」と表明している。林外相によるトルコのチャヴシュオール外相宛のお見舞いメッセージにも「災害に伴う様々な痛みをよく理解し、これまでもお互いに助け合ってきました」とある。通り一遍のお見舞いとは違う、日本とトルコとのこれまでの関係性を反映したメッセージであることが窺える。

日本とトルコとの関係を決定づけた事件
 だいぶ以前のデータになるが、2012年に外務省が「トルコにおける対日世論調査」の結果を公表したことがある。それによれば、83.2%の人が「トルコと日本は友好関係にある」と答え、61.6%の人が「日本に関心がある」と答えている。「トルコにとって重要なパートナー」としても、イスラム諸国に次いで2番目に日本が挙がった。

 トルコは親日国家と言われるが、この結果からはまさにそうした雰囲気が感じられる。ではなぜトルコがこのようにはるか遠く離れた日本に対してここまで親近の情を持ってくれているのか。そのきっかけとなったのは、133年前に起きたいわゆる「エルトゥールル号事件」である。1890年に当時のオスマン帝国の軍艦エルトゥールル号が和歌山県の串本町沖で沈没した事件である。

 それに先立つ1887年に小松宮彰仁親王同妃両殿下が欧州訪問の帰途にオスマン帝国を公式訪問したことに対する答礼として、皇帝アブデュル・ハミト二世が特使としてオスマン提督を日本に派遣した。この当時、オスマン帝国も日本と同様、ヨーロッパ列強との不平等条約に苦しんでいたとのことで、同じ立場の者同士手を組んで事に当たろうという思惑もあったようである。

 オスマン提督一行は、明治天皇に謁見し、皇帝から託されたトルコ最高勲章と贈り物を天皇に捧呈し、両国の修好という皇帝の意を天皇に伝えた。明治天皇も、使節に勲章を授け、饗宴を賜った。

 ところが帰路、一行を乗せたエルトゥールル号は台風に遭遇、岩礁に激突して機関が爆発し、提督以下581名もの人が亡くなる大海難事故となった。事故現場に近い紀伊大島の人々は、遭難者の救助に全力を挙げ、危険を顧みずエルトゥールル号から69名を救出した。当初トルコの生存者を運んだ紀伊大島の樫野浦は小さな集落で、決して裕福な地区ではなく、その介抱は決して容易なことではなかったにも関わらず、食料や衣類を提供し、普段は正月にしか食べない白米も炊き出し、時を知らせる鶏すらつぶして振る舞ったという。

 明治天皇も知らせを受けて、政府を挙げての救援を命じ、トルコ人の生存者たちは手厚い看護を受けた後、日本海軍の軍艦で翌年イスタンブールに帰還した。また、トルコへの義捐金を募る動きが日本全国で沸き起こり、現在の貨幣価値で1億円とも言われる金額がトルコへ届けられたとのことである。

「エルトゥールル号事件」の恩返し
 日本では決して多く知られているとは言えないこの出来事を、トルコでは小学校で学ぶのだそうで、この一件以来、トルコの日本に対する感情は極めて良好なのだそうである。一方の日本でも、このエルトゥールル号事件の慰霊塔で今も慰霊祭が行われている。そして、そこから1世紀近く経った1985年、今度は日本がトルコに助けてもらう事件が起きた。

 イラン・イラク戦争の最中、イラクのフセイン大統領が、「今から48時間後、イランの上空を飛ぶ飛行機を無差別攻撃する」との声明を発表した。各国は自国民を救出するための救援機を飛ばしたが、日本からの航空機の派遣は航行の安全が確保できないとの理由で見送られ、かと言って自衛隊機も飛ばせず、イラン在住の日本人は窮地に陥った。その窮地を救ってくれたのがトルコで、トルコは2機の救援機を送り、日本人215名全員がイランを脱出することができた。それは「48時間後」のわずか1時間前のことだったという。

 当時イランの首都テヘランには600人余りのトルコ人がいたそうだが、それらのトルコ人は陸路でイランを離れたとのことである。なぜトルコが救いの手を差し伸べてくれたのか、日本にいる多くの人が不思議に思っていたが、当時の駐日トルコ大使のウトカン氏は、「エルトゥールル号の事故に際して、日本人がなしてくれた献身的な救助活動を、今もトルコの人たちは忘れていない。それで、テヘランで困っている日本人を助けようと、トルコ航空機が飛んだのだ」と語ったという。95年も前のことをしっかりと忘れずにいてくれて、いわば恩返しをしてくれたのである。

東日本大震災の時の忘れられない支援
 その後も両国の友好関係は続く。東京とほぼ同じ人口を擁するトルコ最大の都市イスタンブールは、ボスポラス海峡を挟んで東西に二分されている。アジア寄りの東側は主に住宅地域、ヨーロッパ寄りの西側は主に商業地域となっていて、イスタンブールの人は1980年代に建設された第1ボスポラス橋を使って両側を行き来していたが、慢性的な交通渋滞に悩まされて2本目の橋「第2ボスポラス橋」を建設すべく日本に支援を要請、日本がこれに応えて円借款の供与が決定、本州四国連絡橋のノウハウを活かして2年半という極めて短い工期で1988年、橋を完成させた。

 続けて、トルコにとって長年の夢であったボスポラス海峡の海底を通る鉄道トンネルを造る「マルマライプロジェクト」をトルコ政府が立ち上げた。ここでも日本が円借款で資金を援助し、日本企業とトルコ企業のジョイントベンチャーを組織して2004年にトンネル建設に取り掛かり、2013年についに両岸が海底トンネルでもつながったのである。

 トルコも日本と同じ地震国である。1999年に起きた死者が17,000人を超えた「マルマラ地震」でも、日本は地震の翌日には国際緊急援助隊の第1陣を派遣して救助活動を行うと共に、医療提供やライフライン復旧支援なども行っている。

 トルコとの関係で、東北にとって忘れられないのは、何と言ってもあの東日本大震災の時のことである。あの時トルコは、32名の救助隊を派遣してくれた。救助隊は宮城県の多賀城市、石巻市雄勝町、七ヶ浜町で捜索活動を行った。しかも、福島第一原発事故が発生して各国の救助隊が相次いで撤退する中、トルコの救助隊は最後まで撤退せず、各国の救助隊の中で最長となる、3週間もの長きに亘って現地にとどまって活動を続けてくれたのである。

 果たして、同じ決断が自分がその立場にいたらできただろうか、と考える。異国の地で、経験したことのない原発事故が発生し、自分たちも被ばくするのではと恐れ、にも関わらずその場所に踏みとどまって活動を続ける、これは並大抵のことではない。その並大抵でないことを、あの時のトルコの救助隊の方々は行ってくれた。

 このことを私のみならず、現地の人も今も忘れていない。七ヶ浜町では今回の地震を受けて、早くも翌2月7日に町内3箇所に募金箱を設置した。石巻市、多賀城市も8日に募金箱を設置して支援を募り始めている。七ヶ浜町の寺澤薫町長は「オレンジ色の服を着たトルコの救助隊の姿を今でも覚えていて、とてもありがたく感じていた。当時の支援の恩返しになればと考えているので、ぜひ募金に協力してほしい」と話しているそうである。東北ではまさに、あの時の恩返しをと皆が考えている。私も微々たる金額ではあるが、取り急ぎトルコの赤新月社に寄付金を送金した。

寒河江市にある「トルコ館」

 こうしてお互いがピンチになった際に助け合ってきたことが、冒頭の岸田首相や林外相のお見舞いメッセージにつながってくるのだが、できればここに書いてきたような経緯も併せて説明すれば、知らない人にもトルコとの関係の深さが分かってもらえてよかったのではないかと思う。

 しかし、日本とトルコとの関係は、決してピンチの時ばかりのものではない。日頃からの交流ももちろんある。最も有名なのは、「エルトゥールル号事件」がきっかけとなった、紀伊大島のある和歌山県串本町による交流だが、東北にもトルコと関わりのある自治体がある。山形県の寒河江市である。寒河江市はトルコのギレスン市と姉妹都市となっている。ギレスン市はさくらんぼの原産地であり、「日本一さくらんぼの里」を標榜する寒河江市が、さくらんぼを通して友好親善を深めるためとして、1988年に姉妹都市となったのである。

 寒河江市にある「道の駅 寒河江 チェリーランド」には「トルコ館」がある。オスマントルコ時代をイメージした建物で、内装や装飾、調度品などは全てトルコから取り寄せたものだとのことである。館内では、トルコの陶器、ガラス製品、銅製品などの工芸品や織物、お酒類などの特産品の販売が行われている(現在、コロナ禍により休館中)。

地震が起きても大丈夫なように助け合う
 今後は国レベルだけでなく、民間レベルでの交流がもっと増えていくのが望ましいと思う。「エルトゥールル号事件」のことでも分かるが、トルコの側では日本のことをとても大事に思ってくれているのに対して、日本の我々はそこまでトルコのことをよく知っているわけではない印象がある。せっかくアジアの東の端の国と西の端の国が、縁あって良好な関係を築いてきたのであるから、それを今後さらに発展させていきたいものである。

 とりわけ、日本ができることとして、今回の地震で被害を受けたトルコ南東部の復興への支援が挙げられる。同地域には耐震性の低い建物が多く、それが被害を拡大させたと先に紹介したが、復興に当たっては、日本の優れた耐震技術を提供して、次に起きる地震では今回よりも被害が大きく減るよう支援するのが、まさに我々のできる最良の支援であると思われる。

 日本もトルコも地震を避けては通れない国である。地震が起きた時に助け合う、から一歩進んで、地震が起きても大丈夫なように助け合う、それがこれからのお互いの望ましい関係ではないかと考える。


anagma5 at 22:07│Comments(0)clip!私的東北論 | 震災関連

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